【続・夏の日の想い出】(2)

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「そういうわけで10月から地方キャンペーンをやりたいのさ」
と須藤さんは言った。
「もしかしてドサ回りですか?」
「正解!」
「どのくらい回るんですか?」
「とりあえず10月から11月まで2ヶ月間、地方を回りまくる。冬子ちゃんは水曜・木曜は講義が2時半までに終わるように調整してくれているから、そのまま新幹線に飛び乗ってもらえば、仙台・新潟・大阪くらいまでは、6時開演のイベントに間に合うのよね。盛岡・富山・岡山とかも少し遅めの開演にすればOK。金曜は講義が午前中までだから、青森・金沢・福岡・札幌とかも充分射程距離に入る。福岡や札幌は飛行機だよね。金沢も飛行機のほうがいいかも。飛行機使うつもりなら宮崎・鹿児島・高知とかも行ける。金曜の午後飛んできてもらって土日は一緒に移動するパターンだね」
 
「岡山や富山まで私は日帰りか・・・・」
「時刻表見てみたのだけど、福岡と札幌も実は日帰り可能」
「えー!?」
「札幌だと22時半のスカイマークで羽田に戻れるんだよね。福岡の場合は、遅い便が無いから一応泊まる。そして翌朝北九州空港5時半のスターフライヤーで東京に戻れば一時限目の授業に間に合うはず」
「北九州空港を5時半ということは、3時起き?」
「まあ、そんなものかな。もしそういうことになった場合は北九州までは松島さんに車で送らせるから。まあ、できるだけそういうハードスケジュールにはしないようにするけど」
 
松島さんというのは、ローズクォーツの活動で須藤さんがひじょうに多忙になったことから雑用係として9月に雇い入れた、須藤さんの事務所の第1号社員である。大手イベンターに5年間勤めた経験があり、結婚で退職してしばらく専業主婦をしていたものの、離婚してフリーになったので職を探していたのであった。須藤さんは彼女が前のイベンターにいた時に知っていたので「手が空いてるなら手伝って」
といって誘ったのである。
 
須藤さんの事務所に所属しているアーティストはローズクォーツ以外にも30組ほどいるのだが、その人たちの演奏内容に関するアドバイスや編曲・音源制作などは須藤さん自身が、合間を縫ってしているがダウンロードサイトへの登録作業やスタジオの予約やサポートミュージシャンの手配、ライブハウスなどとの交渉、また経理や物品購入などについては松島さんがするようになった。
 
松島さんは車好きで個人でも NS-X に乗っていて国内B級ライセンスも持っている。元々飛ばし屋だが、仕事で運転する時には絶対安全運転を申し渡していた。
 
「あはは。体力持つかな・・・」
「学業と両立しての活動というのが冬子ちゃんの契約書に明記されてるからね。頑張ってもらおう。若いんだし」
それは芸能活動の契約書にハンコを押す時、うちの母が強く主張し、須藤さんも了解して追加された条項であった。
 
「10月は主として東日本を攻めて、11月は主として西日本を攻める」
「まあ頑張りましょうか」
「よろしく。一応月曜火曜は休みにするつもりだから、現地で遊んでもいいし東京に帰ってもいいし。帰る時は往復の交通費出すから申請してね」
「分かりました」
「ただ、遊ぶ時は一応、節度は守ってね。週刊誌に書かれるような遊び方は謹んで欲しい」
「そのあたりは良識で」
「お願いしますよ」
 
「でね、田舎にいくといろいろリクエストが飛んでくると思うのよね」
「それって主として演歌ですよね?」
「たぶんね。というわけで、演歌BEST800買ってきたから、目を通しておいて」
と言って須藤さんは私達4人にぶあつい演歌曲集を渡す。
「ポップス系・ロック系はたぶんみんな有名な曲は何とかなるよね?」
「ええ。たぶん。ケイちゃんは?」
「有名どころのヒット曲だったら、けっこう入ってますけど、少しカラオケで歌いまくっておきます」
 
「うん。冬子ちゃんは一度聴いた曲はすぐ覚えちゃうでしょう?で、これも聴いといて」といって、トートバッグを1個渡す。
「これもしかして・・・」
中を見ると、CDがどっさり詰まっている。タイトルをみると大半が演歌のようである。グループサウンズや1970年代のフォークなどもある。
「了解!聴きまくります」
 
「で歌ってて歌詞が分からなくなっちゃった時だけど」
「誤魔化します。もしくは作詞!」
「よし、その根性で行こう。演奏のほうもトチッても慌てないように」
「ええ。絶対に演奏を停めちゃだめですね。間違っても気にせず先に進む」
「私はとにかくみなさんの演奏に合わせていけばいいですね」
「うん。そのあたりは臨機応変で。お互いフォローしあって。歌が間違ったら、演奏が合わせてあげて。演奏が間違ったら、歌が合わせてあげて。もし歌詞が足りなくなったら即興で作詞して。間違って途中から他の曲に行っちゃった場合は、最初からメドレーで演奏するつもりでいたみたいな顔して」
「はい」
 
そういうわけで10月から私達は2ヶ月に及ぶドサまわりを始めたのであった。
 
最初は福島県の相馬市であった。その日は金曜日だったので、土日に掛けて福島・宮城方面の数ヶ所を回ることになっていた。金曜日は午前中で授業が終わるようにしているので、授業が終わったらそのまま大宮駅に行き新幹線に飛び乗って、福島まで行き、そこで待っていてくれた現地イベンターさんの車で相馬市に入った。他の3人は既に来ていて楽器の調整が完了した所だった。
 
オープニングに「川の流れのように」を歌う。クォーツがこれをオープニングにしていたのは幅広い層に知られている曲だからだ。必ずしも乗り気ではない観客を相手にする場合「つかみ」は大切である。ここの観客は主として40歳以上という雰囲気であったが、この曲は知っている人も多いようで、手拍子も聞こえてきた。
 
「萌える想い」を歌うがさすがにこの客層では反応が悪い。しかし次に「ふたりの愛ランド」を中性ボイスと女声とのひとりデュエットで歌うと40代くらいの客にはこの曲を知っている人も多いようで、反応は良く、声色の使い分けに「へー」などという声も聞こえてきた。
 
そのあとリクエストタイムにしたら、やはり演歌系のリクエストがどんどん来た。幸いにも「氷雨」とか「お久しぶりね」とか「雨の慕情」とか超有名曲が多かったので3人も無難に演奏できたし私も歌詞をほとんど間違えることなく歌えて、会場もかなり盛り上がった。
 
最後に「佐渡おけさ」を歌った。マキさんが和太鼓を出してきてそれを叩きサトさんがそれまで横に立てかけておいた民謡音階に調律済みのシンセサイザを台に乗せてそれで演奏し、タカさんはギターで単純にリズムを刻んだ。この時、今までになかった不思議なざわめきが起きたのを感じた。
大きな拍手とともに、ローズクォーツの最初のステージは幕を下ろした。
 
この日は同市内でもう1ステージ同様の構成で演奏した後、私達は地元のイベンターさんに打ち上げに誘われ、居酒屋さんに入った。
「おたくら民謡もできるんですね」
「いや、佐渡おけさだけです」
「相馬盆唄を覚えて下さいよ」
「あ、名前だけは聞いたことあります」と私。
「じゃ、ぜひ実物も覚えて下さい。誰か捕まらないかな」といって
イベンターの社長さんが電話をしている。
「凄い人がつかまりました。今来ますからそれまで飲んでましょう」
 
ということで飲みながら(私と須藤さんはウーロン茶とかオレンジジュースだが)世間話などして待っていると、40代くらいの和服の男性がやってきた。
「紹介します。民謡大会で3年連続優勝の経験がある○○さんです」
「よろしくお願いします」
唄ってくださるというので、私と須藤さんが手持ちのICレコーダーで録音した。強烈なインパクトのある唄い方だった。しびれるような感じで、私はあらためて民謡って凄いな、と思ったのであった(その時は)。
 
「明日も相馬市内でしょ?」
「ええ。相馬市内2ヶ所と浪江町を日中に回ってから夕方は郡山方面です」
「じゃ、佐渡おけさの代わりにぜひこれ唄ってくださいよ」
私と須藤さんは顔を見合わせる。
「分かりました。やりましょう」と須藤さんが言う。
「ケイちゃん、これ明日までに覚えて」
「は、はい」
私は心の中でかなり焦りながら返事をした。
 
居酒屋を出たあと、二次会と言われて、スナックに誘われた。私と須藤さんだけ出席して、他の3人は上がりにして身体を休めてもらった。イベンターの社長さんは途中でかなり酔ってきている感じで、私に触ってきたりするので、須藤さんがたしなめていた。
そばで飲んでいるグループがカラオケで歌っている。音程は外れているけど気持ち良さそうだ。ああ、歌って気持ちよく歌うのが基本だよな、と私は今更ながらのことを思っていた。
 
そのうちひとりが「よし、相馬盆唄を唄うぞ」という。へー、と思い私は少し参考にさせてもらおうと思ってICレコーダーのスイッチを入れた。
 
5分後、ICレコーダーのスイッチを切った私は考え込んでしまった。
「須藤さん、あとでちょっと相談に乗って下さい」
「うん」
 
その日は私と須藤さんでツインの部屋を使っていた。交替でお風呂に入る。私が先に入れさせてもらい、浴室内で下着とホテル備え付けの浴衣を着て出てくると
「冬、そんなかっこう暑いでしょ。脱いじゃえ、脱いじゃえ」などと言う。「みっちゃん、涼しそう」と私は微笑んで言った。須藤さんは下着姿だ。
 
私と須藤さんは仕事の場面では「須藤さん」と「冬子ちゃん」あるいは「ケイちゃん」であるが、プライベートな場面では「冬」「みっちゃん」
と呼び合い敬語も無しということにしていた。
 
私が浴衣を脱いでブラとパンティだけになると、美智子は私のパストに触り「ねえ、少し前より大きくなった?」と訊く。少し酔っている感じでもある。スナックでは最初はウーロン茶など飲んでいたものの、最後のあたりでは水割りも飲んでいた。
 
「うん。女性ホルモンずっと飲んでるからそのせいかも」
「ブラ、もうひとつ大きいサイズでもいいかもよ。ホルモンだけで充分大きくなったらシリコンは抜いちゃえるかもね」
「うちの姉ちゃんがCカップだから、そこまでは無理かも。だいたい自分の姉妹のバストより少し小さめくらいまでホルモンでは発達すると言われているの」
「なるほど。でも姉妹でもけっこう胸サイズに差があるよ。冬はおっぱい大きくなる体質かも」
「ほんとにそんなに大きくなったら考えてみる」
 
「ね。ところで女湯にでも入れるという噂の、おまたも見せてくれる?」
「いいよ」
私はパンティを脱いで、そこを見せた。
「へー。こうしてみると女の子の股間にしか見えないね。触っていい?」
「うん」
「もう手術跡とかは分からないね」
「5ヶ月近くたってるから」
「痛まない?」
「時々痛い。でも我慢できる範囲」
 
「ふーん。確かにこれなら他の女性タレントさんとかと一緒に女湯に入れても苦情は来ないだろうなあ。一般の女性客と混ぜるのはさすがにあれこれ言われそうだけど」
「テレビはけっこう面倒よね」
「視聴者の目があるからね。最終的な手術はいつ頃するつもり?」
「あ、日程調整の必要あるよね。でもまだ白紙。一応手術を手配してくれるコーディネーターさんとは接触してタイの病院にも日程未定のまま予約は入れて入金もしてるんだけど、私自身がまだ気持ちが充分固まってなくて」
「焦る必要はないからね」
「うん」
そんな会話をしてから美智子はお風呂に入っていった。30分くらいで出てきたが、また下着姿である。私はその間仮眠していたが、美智子の出てくる音で目を覚ますと、相馬盆唄の件を切り出した。
 
「でね、このふたつの相馬盆唄を聞き比べて欲しいの」と私は言った。最初大会で3年連続優勝した人の歌。
次にスナックで聴いた地元のふつうの人の歌。
 
「唄の技量では比べるべくもないんだけど」
「地元の人の唄がいいね」
「でしょ?名人さんの唄は巧いけど真剣に聴かなきゃという気になる。地元の人の唄は、唄として下手で音程も外れてるけど、凄く気持ちいい。ほんとに踊り出したくなる。私は踊りかた分からないけど」
「その唄い方をベースにして練習してみようよ。でも音程は外さないでね」
「はい」
 
私と美智子は車で深夜営業しているカラオケ屋さんを訪れると(美智子は少し酔っているのて運転は私がした)、1時間半ほど「相馬盆唄」を唄い込んだ。
「うん。けっこういい感じになってきたかな」
という美智子の『仮合格』をもらって、ホテルに戻り、朝までぐっすり寝た。私が唄っている間に美智子は他のメンバーに渡す、相馬盆唄の譜面を書いていた。
 
翌日。私が少し遅くまで寝ていたら、朝早くから出かけていた美智子が「ねえねえ、冬、これ着てみて」といって、浴衣を渡した。
「地元の商店街で買ってきた」
「もしかして今日のステージ衣装?」
「もう浴衣の季節じゃないけど、ステージ上では構わないよね」
「うん」
早速着てみる。
「うーん。色っぽくなるね。さすが19歳」
「みっちゃんまでそういうのはやめて」
と私は少し照れて言った。
 
その日の相馬市内のライブでは私が浴衣姿でステージに現れただけで「おぉー」
とか「ひゅー」などといった歓声が上がった。あはは、こういうのは女性であるというだけでもらえるハンディだなとも思う。女って何かとお得だ。まずは「川の流れのように」で演奏を始め、ローズクォーツの持ち歌をいくつか演奏したあとリクエスト大会をして、最後に「相馬盆唄」を演奏すると、会場は割れるような拍手になった。唄の途中で一緒に歌い出す人、また立ち上がって踊り出す人もあった。
 
「ねえ、みっちゃん。思ったんだけど、せっかく全国回るんだから、それぞれの地元で民謡を聴いて録音もさせてもらってまわろうよ。できるだけ、地元のふつうの人が唄っているものを」
「うんうん。そうしよう。だいたい私が前日に打ち合わせで現地入りするからその時、できるだけ採取しておくよ」
「それを私が1晩で覚えればいいのね」
「うん。録音できたらそれをネット上の共有ディスクにアップするから、それをダウンロードして聴いて覚えてくれる?」
「了解」
「で、地元で何か適当な衣装を調達しておくから」
「あはは」
 
「でもこれ、冬の耳がいいからできる技だわ。民謡は元々が純正律ベースな上にポルタメントとシンコペーションだらけだから、西洋音楽的・平均律的な世界で生きている歌手さんは耳コピーできないね。なんか小さい頃とか民謡唄ってたの?」
「自分では唄ってないんだけど、小さい頃亡くなったおばあちゃんが民謡の名人だったとお母ちゃんから聞いてた」
「ああ、その遺伝子を受け継いでるんだろうね」
 
「遺伝子か・・・私はその遺伝子を残せなくなっちゃった」
「でも冬の歌を聞いた人の中で歌手を目指す子がたくさん出てくるよ。それが冬の子供だよ」
「そうか。じゃ私がたくさん歌えば、それだけたくさん子供ができるのね」
「うん。だから冬は歌で頑張ろう」
「うん」
 
こうしてこの長期ドサ回りツアーは民謡採取の旅ともなったのであった。私は仙台では斉太郎節、岩手では南部牛追唄、青森では南部あいや節・津軽じょんがら節、北海道では江差追分にソーラン節、など各地の民謡を歌いまくった。各地で浴衣や法被などの類も買い込み、衣装のコレクションもどんどん増えてきた。そして美智子は各地のイベントで私が唄った民謡をその日のうちにyoutubeで公開した。「ローズクォーツsings民謡(2)相馬盆唄」のようなタイトルが付けられていた。
 
「でもこういうのばかり公開してると民謡ユニットだと誤解されません?」
「そうだね。ポップスで食っていけなくなったら民謡でやろうか」
などと美智子は冗談っぽく言っていた。
「でもレコード会社がこの企画に興味持ってくれてね」
「えー!?」
「町添部長が相馬盆唄を聞いて『味のある歌い方してるね』と言っていた。こういう歌い方ができる人はレアだというのよね。技巧的に上手な歌い方をする民謡歌手はたくさんいるらしいのだけど。門外漢だからできるんですよと私は答えておいたけど、ではその門外漢が歌った民謡、というコンセプトで、ぜひアルバム出してくれ、と」
「わあ・・・でも『味』というんですね、ああいう雰囲気」
 
「うまい表現だね。それでライブの録音分はyoutubeに上げていいと追認してもらったんだけど、あとで各々の現地の民謡教室とか民謡酒場とかと組んで、そこの生徒さんたちや常連さんたちに演奏してもらって冬子ちゃんが唄う、なんてのをやるといいかもね。もちろんローズクォーツ全員参加で」
「へー」
「来年くらいにそれやろう。それまでに各地のコネを作っておくわ」
「することいっぱいありそう」
「タカさんに三味線も覚えてもらおうかな・・・・」
 
秋田市内で3ヶ所やり、翌日は新庄という日は2日連続で新幹線で東京と秋田を往復したが、さすがにへばって、ステージが終わったあと、楽屋の隅の洋服掛けの陰で少しうたたねをしていた。そこにマキさんが入ってきた。
「ケイちゃんいる?」
私が返事しようとした時、マキさんに続けて美智子が楽屋に入ってきた。
「あれ?冬子ちゃんは?」
「いないですね。トイレかな」とマキさん。
「じゃ見かけたら伝えておいて。10時から地元のイベンターさんと打ち上げって」
「はい。あ、須藤さん」
「何?」
 
「こんな所で何ですけど、1度聞いておきたいと思ってたことがあって」
「ん?」
「ケイちゃん、充分な素材でしょう。以前デュオで売れてて週刊誌などにも書かれたし話題性もある。ソロ歌手として売ったほうが売れる気がするんですよね。なぜ、僕らと組ませることにしたんですか?」
「ん?彼女と一緒にやるの嫌?」
「とんでもない。楽しくてしょうがないですよ。男ばかりの所に女の子が1人いると、なんか雰囲気ががらりと変わるんですよね。砂漠にオアシスがあったみたいな感じで。でも、もったいない気がして」
 
「ソロ歌手で売ったほうが確かに今は売れると思う」
「今?」
「あの子は元々凄く器用な歌手なのよね。前にも言ったかな。元々のデビューのきっかけは、他の歌手がトンズラしてしまって突然穴が空きそうになったステージの穴埋めに急造したユニットだったというの」
「ええ、聞きました。ケイちゃんも笑ってその件は話してましたよ」
 
「どんな歌でも即こなしちゃう。それは凄い才能なんだけど、危うい面もある」
「耐久性ですか」
「うん。それもある。あと、一見こなしているように見えるけど、それは95%の出来でしかない。彼女には99.9%の歌を歌って欲しいのさ」
「ああ。民謡のアルバムを今じゃなくて来年出すというのもそれですね」
「うん。一晩で各地の民謡を録音聴いただけで歌えるようになるって凄いじゃん。でもそれはふつうに『聴ける』というレベルの歌でしかない。『聴きたくなる』
ほどの歌にするには、やはりかなりの練習が必要」
 
「1年くらい修行させるつもりですね」
「うん。人気先行・話題先行で彗星のように消えてしまう歌手じゃなくて、実力派のアーティストとして売るには、ソロよりユニットのほうがいいと思うのよね。この年代の子をソロで売るとどうしてもアイドルもどきとして見られてしまうから、それはもったいない。歌唱力で売れる歌手だもん。ローズクォーツを本格的に売り出すのは来年の春以降だと思ってる。今年の冬くらいまでは、ケイちゃんにもマキちゃんたちにもいろんな経験をさせるとともに歌唱力・演奏力の底上げをしたいのよね。だから今洋楽も歌わせてるし民謡や演歌も歌わせてるけど、クラシックとかラテンとかも歌わせてみたいんだよね。あと観客とじかに接する感覚は知っておいて欲しいの」
「ああ」
 
「クォーツのみんなはライブハウスとかでたくさん演奏していて、目の前の観客の反応を感じながら演奏するのに慣れてるでしょ。でもローズ+リリーは急速に売れちゃったから、そういう直にお客さんに接しての演奏って10回くらいしか経験してないんだ。しかもその最初のほうはとにかく歌うことで精一杯でお客さんの反応まで考える余裕がない状態だった」
「カメラやマイクに向かって歌っているだけじゃダメということですね」
「うん。やはりお客さんの反応をちゃんと把握できてこそ、自分の歌のよしあしが分かるのよね。ちょっと手抜けばお客さんは即見放すもん。だからドサ回り。12月・1月は年末年始のイベントとかあるから休んでレコーディングとか大きなキャパの会場でのライブやりたいけど、2月・3月にまたドサ回りやろう」
 
「了解です。しかし凄い先行投資になりますね」
「まあ、お金を出してくれるところがあるからできることだけどね」
「ああ、前の事務所ですか」
 
「それは企業秘密。でも向こうからも1〜2年売れてそれで消えていく歌手ではなくて、20年は売れる歌手にしてくれと言われてるの。それには、ちょうど器用さという点で冬子ちゃんと共通点があって、実力も確かなクォーツは最適のお見合い相手と思ったのよ」
「なるほど。でしたら僕たちも頑張ります」
「うん、よろしくね。一緒に20年やろうね」
マキさんと美智子はまだ少し話し込んでいた。あはは・・・しばらくここから動けないや、と私は思い、結局そのまま深く眠りこんでしまった。30分後にイベンターのチケット担当の女性が私を発見して起こしてくれたので、ちゃんと打上げには出席することができた。
 

ドサ回りは当初10〜11月を予定していて、12月にレコーディングをするつもりだったのだが、10月初めに作曲家の上島先生の所に挨拶に行くと、その時点で「萌える想い」がダウンロード・着うたフルとCD売り上げ合計6万件あったことを好感してくれていて、また書いてあげるよ、12月ならクリスマスだね、などといって一晩で「パーチャル・クリスマス」という、またテクノ風の曲を書いてくれた。
 
クリスマスの歌なら遅くとも12月初旬に「発売」しなければならない。そのためには最悪11月中旬までにレコーディングしなければということで、急遽予定の組み替えが行われた。美智子があちこちにぺこぺこ謝って予定を変更してもらい、私達は11月の前半をレコーディングに当て、11月の後半から12月上旬に西日本方面のライブツアーを行った。
 
当初の予定では11月3〜6日の連休(4日は平日だが自主休講)に四国一周をして11月20-23の連休(22日は平日だが自主休講)に奄美・沖縄・宮古に行き、28日の博多で打ち上げというスケジュールだったのだが、さすがに四国と沖縄の予定は動かせなかったが、博多のライブはイベンターと「ツアーの最終日」にする約束だったのでその予定を変更。11月の残りの日々は北九州や山陽方面などに行き、12月に入ってからは大阪・名古屋・北陸などを攻めて、12月12日の日曜の博多ライブで打ち上げとなった。
 
博多のライブでは、私は「博多にわか」の法被を着て、ステージでは最後に博多どんたく囃子を歌い、お客さんがロビーに出てきた所で博多祝い歌を歌うと、お客さんたちも一緒に合唱してくれて、とても素敵な感じで最後のステージを締めくくることができた。
 
なお、私は毎日東京から各地へ往復するのに新幹線もフルに活用したが、飛行機にもかなり乗ったので、この期間だけで私はANAのブロンズメンバーの資格を取得してしまった。
 

さて少し話を戻して11月前半のレコーディングだが、なんといってもタイトルに使うことになる上島先生の曲が「バーチャル・クリスマス」なので、季節物で行こうということで方針が固まった。
 
まずはクリスマスの定番ソングとして「恋人がサンタクロース」、クリスマスキャロルとして有名な「First Noel(まきぴとひつじを)」(英語歌詞)、そして、富山民謡・越中おわら節の膨大な歌詞の中から冬っぽい歌詞を数点選択、それにマキさんが書き下ろした曲で「Winter Contact」, 政子が新たに詩を書いて私が曲を付けた作品「渡せないプレゼント」。以上6曲の構成ということになった。
 
録音は「おわら節」に関しては富山のライブ(ここは西日本だが新潟ライブの後の流れで10月に行っていた)後の打ち上げで知り合った地元の民謡酒場の人の協力を得て、そこの常連さんと一緒に11月12日の土曜日に録った。私の唄とマキさんの太鼓だが、メインの唄い手を誘導する「唄われよ、わしゃ囃す」という出だしの部分は、八尾出身という民謡酒場のオーナーの女性が唄ってくれた。この日は常連さんが集まるのが夕方20時くらいからということでそれから録音をしたのだが、現地には15時くらいに入った。とにかく唄ってみてといわれて唄ったら「筋がいいね」と言われ、その場で2時間ほどミニ・お稽古をしてもらった。自分でもその2時間でかなり改善されたのを感じた。
 
「すごく良くなった。ね、来年の9月3日、八尾に来ませんか?一緒に街流ししましょうよ」とオーナーさんが言う。
「そんな余所者が入っていいんですか?」
「街流しはもともとゆるいからね。私の関係者ということでいいよ」
オーナーのお母さんが八尾在住なので、三味線を弾くお母さんに付き合ってオーナーは毎年胡弓を弾いて街流しをしているらしい。
 
これは「風の盆」というお祭りで、公式には9月1-3日なのだが、その公式行事が終わる9月3日の21時を過ぎた頃から4日早朝まで、町の人たちがみな自由にグループを組んで八尾の町を演奏してまわるらしい。これこそが実は祭りの『本番』なのだとか。私はぜひ来年行きたいと言ってオーナーさんと別れた。
 
それ以外の曲に関しては、11月7日から11日までと、13日から15日までの合計8日間に東京都内のスタジオで収録作業をおこなった。ダウンロード開始日は12月2日(金)と決まり、一週間前の11月26日にPVをyoutubeで公開した。PV公開後のライブでは収録曲の中から何曲か歌ったが、PV公開前日の広島公演で「バーチャル・クリスマス」を先行公開。都市部のライブで年齢層が若かったことから、こういうテクノ風の曲もひじょうに反応が良かった。
 
このシングルは12月中に5万件のダウンロードとCD販売を記録した。
 

12月12日の博多ライブが終わって帰京してから、私と美智子は呉服屋さんに振袖を受け取りに行った。12月初めに出来ていたのだが、受け取りに行く時間が無かったのであった。
 
その場で着付けしてもらった。
 
「わあ、可愛い」と美智子が本気でうれしがっている感じだ。
私も鏡に映っている自分にちょっと見とれていた。振袖を注文した時にもらった付下げや、その後別途買っていた街着などは時々自分でも着ていたが、振袖はまた別物という感じだった。
 
「あのね、あのね、自分でもこれ可愛いと思っちゃった」
「ほんとに可愛いからそう思っていいんだよ」と美智子。
私はしばらくその鏡の中を見ていた。これが自分だというのがまだ信じられない気分だ!こんな感覚って、初めての体験!?こんなのも女の子だけが体験できる感覚なんだろうか。。。。
 
「あ・・・・みっちゃん、五線紙ある?」
「あるけど」
といってバッグの中から五線用紙を取り出して、ボールペンと一緒に渡してくれた。
「ちょっと済みません」
私はその瞬間思いついてしまった曲のモチーフと浮かんできた歌詞を大急ぎで五線紙に書き留めた。タイトルの所には「Flower,Bird,Wind,Moon」と書いた。
 

12月の後半は主として大都市でライブハウスなどに出て演奏をした。大都市のライブハウスなので、ロックでオープニングも良いだろうということから、私は振袖を着てビートルズの「抱きしめたい」を歌った。(この振袖はお正月の挨拶用に私が購入したものではなく、ステージ衣装として美智子が経費で買ったもので、セット価格50万円ほどの既製品である)振袖でステージに出てきた段階で「おお」とか「わあ」とかいった歓声が上がり、それだれでツカミができる感じだった。「抱きしめたい」もノリのいい曲なので、ライブは最初から盛り上がった。
 
「抱きしめたい」では、ステージ上でマキが私を口説いているような感じの仕草を見せ、私は恥ずかしがるような仕草を見せる。そして曲のラストでマキの口説きが成功したかのような感じで、私とマキが抱き合うか・・・と思ったらマキが抱きしめてしまうのはタカ、などというパフォーマンスをした。これも大いに好評であった。
 
「しかし毎日タカを抱きしめてると変な気分になってくるな・・・」
「ちょっ。マキ、そういう気(け)があったんだっけ?」
「いや、俺はストレートのつもりだが」
 
マキには2年ほど交際している女性の恋人がいる。何度か仕事場に連れてきていたので私も挨拶していた。今はまだ収入に不安があることもあって、結婚を先延ばしにしているようである。
 
今回は東京・横浜・名古屋・大阪・金沢・博多・札幌・仙台と8ヶ所を巡ったが、高い年齢の観客を相手にしたドサ回りの時とは、また違った雰囲気の観客の反応を感じた。私はたまに戸惑う時もあったが他の3人が落ち着いて演奏してくれたので、それにあわせて私も無難に乗り切ることができた。
 
仙台公演が終わったあと、美智子が涙を浮かべているのを見て、私は
「どうしたの?みっちゃん」と声を掛けた。
「冬〜、今回のライブハウスツアー、8ヶ所とも黒字だったよ。各々の利益は数千円だけどさあ」
「わあ、すごい」
私は美智子と手を取り合って喜んだ。
 

12月31日は都内のライブハウスで数組のバンドとともに年越しライブに参加。明けて1月1日は大阪で年明けライブに参加して2日から5日までを休みとした。
 
東京のライブではローズ+リリーの録音に参加してくれた近藤さんのバンド、「スターキッズ」も出演していた。ちょうどバックステージの通路で会ったので挨拶したら、マキさんと「よぉ」などと挨拶している。びっくりして「お知り合いですか?」と訊くと同じ高校の同学年だということだった。高校時代も各々別のバンドに属していて、お互い相手を意識していたらしい。
「お前らが忙しいというから、俺がローズ+リリーの録音には付き合ったぞ」
「すまん、すまん。あの時期はまだ専業じゃなかったもんで」
 
大阪では、ローズ+リリー時代にライブで一緒になって、私のファーストキス?を奪った女性のデュオ「パラコンズ」も出演していた。楽屋で目が合ったので私が挨拶すると、ちゃんと向こうも覚えていて「わーい、久しぶり−」といって、またキスされた。もうひとりが「この子、キス魔だから気をつけてね」などと笑いながら言っている。
 
「でも、ケイちゃんが男の子だったなんて、全然気付かなかったなあ」
「ごめんね。でも、もう男の子じゃなくなっちゃった。ほらこことか」
といって、自分の胸に触らせる。
「おお、改造済みか?」
「まだ改造中」
「よし、どんどん改造しちゃえ。君みたいな可愛い子はさっさと女の子になっちゃったほうがいいよ」
「うん。ありがとう」
 

1月2日から5日までの休暇では、私は母から「一度実家に来なさい」と言われて少し気が重かったが、実家を訪れた。むろん女の子の格好のままである。母や姉とはしばしば時間のある時に会っていたのだが、父と顔を合わせるのは高校卒業以来9ヶ月ぶりであった。
 
父は私を黙殺するような感じで、こちらと視線を合わせないようにしていた。ただ、父も怒ってはいない感じだなあとは思った。実家で4日間過ごした間に結局一度も父とはことばを交わさなかったのだが、姉が「お父ちゃん、ちゃんとローズクォーツのCD、2枚とも買ってるから。よく聴いてるみたいよ」などと言っていた。
 
家を出る時「お父ちゃん、またね」というと父は無言で手を差し出してきたので握手をしたが、握手をする最中、父は横を向いていた。私はちょっと心がゆるむ思いがした。
 
電車の駅まで姉が送ってきてくれた。
「ね、冬。性転換もしちゃうんでしょ?」
「うん。そのうち」
「どうせするなら早い内にやっちゃった方がいいと思うよ。今の冬にとって、あれは単なる障害物になってるんじゃない?」
「うーん。そうかもね」
「もう女になることも決めて、タマも取っちゃって後戻りは出来ないんだから、迷うことないじゃん。中途半端な状態は自分が苦労するだけだよ」
「政子にも似たこと言われた」
 

6日に事務所(一応場所として存在していても美智子自身がほとんど全国を飛び回っているので、実際には美智子の携帯こそがオフィスなのだが)に出て行くと、今年夏までのおおまかな予定というのが示された。
 
1月 関東および阪神圏内のライブハウスに出演。16ヶ所。
2月 ドサ回り(西日本)
3月 前半でレコーディング。後半ドサ回り(東日本)
4月 前半ドサ回り(東日本)仙台で打ち上げ。GW前にシングル発売。
  GWは大都市4ヶ所でライブ。
5月 充電期間。タカさん三味線教室。各自創作。4ヶ所程度ライブハウス出演。
6月 初アルバム制作。ローズ+リリーのメモリアル発売、ケイの写真集発売。
7月 初アルバム発売。全国ツアー20ヶ所。民謡アルバムの制作。
8月 4番目のシングル制作。
 
1月のライブハウス出演に関しては年内にスケジュールが出ていたので、みんな既に手帳に記入していた。ドサ回りに関してはまだ細かいスケジュール調整をしている段階ということだった。基本的には前回のドサ回りで行けなかったところを重点的にやっていきたいと美智子は言った。
 
3月前半のレコーディングを念頭にして、私達は年初の挨拶を兼ねて上島先生のところを翌1月7日、訪問した。これまで上島先生の所にはいつも美智子と私だけが行っていたので、ローズクォーツの4人で行くのは初めてであった。むろん私は例の振袖、他の3人もスーツを着ている。
 
「きゃあ、素敵な友禅ね」と上島先生の奥さんが言った。以前アイドル歌手をしていた人である。
「ありがとうございます。でも奥様のもののほうが素敵です。京友禅ですよね?」
奥さんはどう見ても数百万はしそうな色留袖を着ている。
「ありがとう。でも加賀友禅もいいわね。あなた目鼻立ちがハッキリしてるからこういうのが似合うんだわ。私はそういう派手な柄が似合わなくて。私も着こなせたらいいんだけどねー」
 
最初いろいろ雑談をしていた。先生が気さくな方なので、みんな打ち解けてしまった。マキさんも携帯の番号を聞かれてメモを書いてお渡ししていた。
「こんなこと聞いていいのかなあ。ローズクォーツに曲を提供して頂けるのもローズ+リリーからの御縁だとは思うのですが、でも、どういう経緯で、ローズ+リリーは上島先生に曲を書いて頂けるようになったんですか?」
とマキさんが訊いた。
「ノリだよね」と上島先生。「ノリですね」と美智子も応じる。
 
「私がローズ+リリーの最初のCDをレコード会社の方でも扱ってもらえるように交渉するのに★★レコードに行ってた時に、たまたま廊下でバッタリと上島先生に会ってね。○○プロの浦中部長も一緒だったんだけど、その時、浦中さんが『今度女子高生2人組のユニットを売り出すんですよ、いい曲ないですかね』
なんて言ったら、上島先生が『あ、じゃ1曲書いてあげるよ』と言ってくださって。私は儀礼的な挨拶かと思っていたんだけど、本当に書いてくださったのよ」
 
「あはは。その日はたまたま予定が1つキャンセルになってね。時間が空いたもんだから、そういえば女子高生ユニットの曲を頼まれたなと思って、もらったCDのジャケットのケイちゃんとマリちゃんの写真見てたら、なんか恋物語のイメージが浮かんで、ピアノにむかってぽろぽろと弾いてたらいいモチーフが浮かんだんで、即興に近い形で書き上げたんだ」
 
「それがダウンロードとCD・着うたフルなど合わせて20万枚のヒットとなった『その時』というわけ」
「ヒットする曲というのはけっこう短時間で仕上げたもののほうが多いなという気もしてる。『甘い蜜』も1−2時間で書き上げたしね」
「当時ほんとにびっくりしました。駆け出しの私達に上島先生が書いてくださったなんて」
 
先生はローズクォーツの演奏はプロ演奏家としてのレベルが高くて良いなどと褒めていた。ただ先生は曲によって生ドラムスを打つ場合とリズムプログラミングでやっている場合があることを少し気にしていた。
「ちゃんと全部生ドラムス打った方がいいんじゃないかなあ」
 
元々クォーツは様々なジャンルの曲を演奏していたので、ロック系の曲を演奏する場合はサトさんがドラムスを叩いていたのだが、ポップス系の曲ではしばしば、サトさんがシンセサイザでオーケストラサウンドを出して、リズムはシンセサイザ内臓のリズムシーケンスに任せていたのであった。
 
「確かにポップス系でもちゃんとドラムス打った方がいいかもね」
とマキさんは上島先生の所を出てから言った。
「私も賛成」と美智子。
「今度からはそこは多重録音使おうか」
「ライブではどうします?」
「ドラムスが設置できる場所ではドラムス使おうよ」
「でもヴァイオリンやフルートの音は捨てがたい」
「その場合はサポートメンバーを入れようかね・・・・」
などと美智子が迷っていたら、当のサトさんが
「ケイちゃん、歌いながらキーボード弾けない?」
と言い出した。
 
「おお、そういえばケイちゃんはキーボードが弾けたはず」
「エレクトーンのグレード6級持ってるんでしょ。ほぼプロ級じゃん」
などといわれて、その日、他に前の事務所、レコード会社など、いつもお世話になっている編曲の下川先生など、数ヶ所の挨拶まわりをしたあとで夕方スタジオに行き、早速「テスト」された。
 
サトさんがドラムスを叩き、私がキーボードを弾きながら歌って、ポップス系の曲をいくつか演奏した。
「うまいじゃん」
「充分行けるね」
ということで、ポップス系の曲では、私は弾き語りをすることになった。
 
この新しいスタイルは早速1月のライブハウスツアーで披露された。このライブツアーでは私は冒頭、振袖で箏の前に座り、「さくら」の冒頭「さくら・さくら弥生の空は」のところだけを爪弾き、そのあとは隣のキーボードの前に立つと、それを弾きながら歌って、オリジナル・アレンジの「さくら」を演奏した。
 
冒頭に箏を入れるのは初日の2日前に突然思いついたもので、急遽和楽器屋さんに行って箏を買ってきて、とにかく「さくら」の冒頭4小節だけ弾けるように練習したものであった。箏自体のことも実はこの時点ではよく分かっておらず和楽器屋さんで「山田流をする人が多いですよ」といわれて「じゃ山田流の箏を」
などと言って買った状態であった。
 
しかし観客の反応は上々で、16ビートのノリのよいリズムに、観客席から大きな手拍子が聞こえてきた。「さくら」のアレンジは私とマキさんが一緒に1時間ほどで練り上げたもので、実は私とマキさんの初めての共同作品でもあった。
 
「この曲、次のシングルに入れようね」と美智子もニコニコしながら言っていた。
 
箏を買った時、「さくら」を弾きたいと言ったら「じゃ、平調子ですね」と言われて、お店の人がサービスで調弦してくれたので、私達はその場で各弦のピッチを電子チューナーで確認して記録しておき、各ライブ会場では事前にそのピッチに調弦した。私が弾くキーボードもそのピッチに調整しておいた。このためこの「さくら」は和音階で演奏したロック、という少し不思議なサウンドになったのであった。
 
この演奏を宇都宮のライブハウスで聴いてくれた上島先生(観客席にいたが騒ぎにならないよう会場では声を掛けないでと言われていた)は、ライブの翌日、直接私の携帯に電話をしてきて
「あの『さくら』は面白い。僕も刺激されたんで、ちょっと和風の曲を書いてみた。僕は和音階が分からないので、これをちょっと和音階に直してみてくれない?」
と言われた。
 
先生はパソコンで楽譜を書いておられるので、楽譜のPDFとMIDIの演奏データが同時にできてしまう。それを私はメールで受け取るとすぐに箏の音階の平調子に直してパソコン上でピッチを修正し、最近自宅に設置した防音室の中でパソコンに接続したキーボードで箏の音で再生しながら歌って録音。即、そのMP3をデータ交換用のスペースにアップして、上島先生にURLとパスワードをメールした。上島先生は「いい!こんな感じで次はやってみよう」ということであった。
 
途中経過は随時、マキさんと美智子にも連絡していたのだが、これでやってみようと言われたと美智子に言うと
「春の歌だからね・・・・3月に発売しないといけないね」
と言われて、またまた急遽ドサまわりの日程のを変更することにし、次のシングルのレコーディングは2月上旬にすることになったのであった。(今回はまだ完全に確定している予定は少なかったので、調整はそう難しくなかった)
 
なお上島先生の新作「雅(みやび)な気持ち」は、再度私とマキさんの共同で4人編成用にアレンジし直し演奏してMP3をまた先生に渡した。「いいよ、いいよ」
と先生はとても喜んでいた。この曲ではシンセで箏や龍笛の音を出し、サトさんが打つシンドラでも鼓や和太鼓の音を入れてマキさんのベース・タカさんのギターと合わせて演奏した。
 
「いやね。常時ランキング上位を狙わないといけない歌手の曲ではこういう冒険はできないんだけど、ローズクォーツは津田さんや浦中さんからも『売れなくてもいいから思いっきり僕自身が楽しめる曲を作ってくれ』と頼まれてるんで、こういうの自分自身にとっても心のオアシスになるなあ」
などと上島先生は言っていた。
 
ここで浦中さんの名前が出てきた事に私は内心驚いた。ローズクォーツの活動資金(毎月たぶん100万程度支援してもらっているはず)に関しては、おそらく津田社長の事務所から出ているのだろうと想像していたのだが、これで浦中部長の○○プロからも出ていることを知った。あるいは両者折半なのだろうか?
 
私の再デビューが決まってから、津田社長の事務所とレコード会社には挨拶に行ったのに○○プロには挨拶に行かなかったので、向こうがあのスキャンダルで怒っているのだろうか?とも思っていたのだが、おそらく今の段階ではまだ表に出たくないのであろう。
 

そうして1月の関東関西でのライブハウス出演が終わったあと、私達は3枚目のシングルの制作に入った。
 
今回のタイトル曲は上島先生の「雅な気持ち」と、私とマキさんでアレンジした日本古謡「さくら」。これにラテンの名曲「花祭り」(スペイン語歌詞)、12月のライブツアーで好評だった「抱きしめたい」(英語歌詞)、私が振袖を着た時の感動で即興で書いた曲「花鳥風月」、政子が高三の春に書いた詩に私が曲を付けたもので、ローズ+リリーのメモリアル・アルバムにも収録予定の「私にもいつか」、そしてラストに「博多祝い歌」を入れた。今回「雅な気持ち」は特殊で、「さくら」「抱きしめたい」はライブで既にアレンジが固まっていたので、下川先生には「花祭り」「花鳥風月」「私にもいつか」
の3曲のアレンジをお願いした。
 
しかしもう「シングル」と称しつつ6〜7曲入れてしまうのは、ローズクォーツのひとつのスタイルとして定着しつつある感じであった。なお販売価格は、いわゆる「マキシシングル」の価格ではなく、だいたい普通のシングルの価格並みに抑えてあった。
 
2月上旬にスケジュール組み込み済みで移動ができなかった、2月4-6日の長崎離島ツアーの部分以外、2月の前半は私達は都内のスタジオで録音の作業を行った。今回は初めてサポートミュージシャンを入れ、「花祭り」でラテンの楽器を演奏してもらったり、「雅な気持ち」と「花鳥風月」には箏や龍笛を入れてもらったりした。「さくら」の冒頭の箏についても、ライブでは私が演奏しているのだが、録音ではプロの方にお願いした。
 
ただ、こういう録音のやり方については、美智子も微妙な気持ちを持っているようであった。「たとえ打ち込みを使ってもいいから、ローズクォーツの4人だけでやったほうがいいのかなあ」などと迷うような言葉を漏らしていた。
 
レコーディングを終えてから、2月の後半はドサ回りに出かけ、2月から3月の上旬に掛けて西日本の各地、ほんとに田舎町を中心に回った。またそこで知らない民謡にぶつかると速攻で採取してステージに採り入れたのであった。
 
西日本のツアーは3月6日午後の鹿児島県志布志市で終了し、私達はその日の夕方の「さんふらわあ」で大阪に戻って、翌朝名神・東名を走って東京に帰還した(運転は東京から新幹線で大阪まで迎えに来てくれた松島さん)。9日まで休みとした後、10日は事務所に集まって、翌日からの東日本ツアーの打ち合わせをした。11日から13日に掛けての週末は仙台の近辺を回る予定になっていた。
 
そして3月11日が来た。
 
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【続・夏の日の想い出】(2)