【夏の日の想い出・戯謔】(5)

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2019年2月2日の夕方。
 
私は時間が取れたので政子が入院している病院に行ったのだが、政子は言っていた。
 
「昼間君歌ちゃんが来て話してたんだけど、暦を見たらさ、2月5日が新月なんだよね」
「へー」
「その日が旧正月だよ。この子、おめでたい子だから、お正月に出てきたりしないかな」
 
うーん。おめでたいのは政子かもと思ったが、そんなことは言わない。
 
「確かに新月や満月にはお産が多いという説もあるけどね」
 
それで私が帰ろうとしていたら、千里がお見舞いにやってきた。
 
「ちょっと用賀に寄ってきたんだよ」
「用賀に何かあったんだっけ?」
「私が前住んでいたアパートに西湖ちゃんが住んでいるんだけど、そこに私の私物を少し置かせてもらっているんだよね。それのメンテが時々必要なんだ」
「へー」
 
用賀駅は東急田園都市線の駅だが、三軒茶屋駅は東急の世田谷線・田園都市線の分岐点である。但し世田谷線の駅と田園都市線の駅は改札外連絡になっている。
 
千里がお土産にシュークリームとミルクティーを買ってきてくれていたので、それを私と政子と千里の3人で頂いた。
 
政子が訊いた。
「でもなんでシュークリームが3つあったの?」
「さあ。分からないけど、私が3つ買った時はたいてい3人居るんだよ」
「そういえばそんなこと言ってたね!」
 

それでシュークリームを食べてミルクティーを飲みながら話していたら、政子が「うっ」と声をあげた。
 
「どうした?」
「今のちょっと痛かったかも」
「赤ちゃん?」
「うん」
 
「陣痛かな。時間を記録しておいて。その間隔が短くなってきたら、いよいよだから」
 
「じゃ20:16っと」
と言って政子は時刻を手元の作詞用ノートに書いた。
 
「お母さん呼ぶ?」
と千里が言うので、私も
「それがいいかもね」
と言い、政子のお母さんに電話した。
 
「まだ最初の陣痛が来た所なんですよ。本格的に始まるのはまだ先だと思うんですけどね」
と私は言ったのだが、念のためこちらに来るということだった。
 
それで私と千里はお母さんが来るのを待ってから帰ろうかということにした。
 

千里は政子のお腹に触っている。
 
「今出て行くための準備運動を始めようかな、と思ってちょっと身体を動かしてみたってくらいだと思う」
 
「なるほどねー」
「千里は実際問題として2回出産したんでしょ?」
「そうだよ。1度目は時間が掛かったけど、2度目はすんなり出てきてくれた。あれって中にいる子の性格次第という気がする」
「へー」
 
そんなことを言っている内にまた陣痛が来たようである。
 
「20:25か」
と言いながら政子は時刻をノートに付けている。
 
私と千里は顔を見合わせた。
「10分間隔って充分短くない?」
「かも知れない。次がいつ来るかだね」
 
「青葉も呼ぼう」
「青葉こちらに来てるの?」
「ちょっと打ち合わせることがあったんで、出てきてもらっていたんだよ。青葉は月曜日からは期末試験だから明日の最終新幹線で富山に戻る」
 
「わあ、大変な時に申し訳無い」
 
千里が青葉(彪志の家に居た)に電話すると、彼女もこちらに向かうということだった。
 

次の陣痛は20:34であった。
 
「これマジで10分間隔で来ている気がする」
「ナースコールしよう」
 
それで助産師さんが来てくれたが、政子の様子を見て
 
「これはもう分娩第1期が始まっている」
と言った。
 
「じゃ赤ちゃん、もう出てくるの?」
「まだ始まったばかりですよ。これからだいたい15-16時間は掛かりますし、あなた初めてでしたよね?」
「はい、初めてです」
「初めての人は2日くらい掛かる人もありますから」
「こんなのが2日も続くんですか?」
「こんなものじゃなくて、どんどん痛くなっていきますよ。まあ速い人で12時間くらいね」
「速くてもそんなかぁ」
「赤ちゃんと出会うまで頑張りましょうね」
「はい」
「もし寝れるなら少し寝てた方がいいです。後になるほど体力使いますから」
「分かりました」
 

助産師さんは少し話してから、自分は今夜宿直だから、また後で様子を見に来ますと言って出て行ったが、助産師さんも大変だなと思った。
 
政子の陣痛は最初は10分おきだったが、その内、8〜9分おきに来る感じになってくる。しかも継続時間は長くなってくるようだった。私たちは政子に眠れなくてもいいから目を瞑っているだけでも違うよと言った。それで政子も目を瞑っていたものの、陣痛の度に起きてしまうようだった。
 
でもお腹空いた!と言うので、千里がコンビニに行って蒸しパンとおにぎりを買ってきてくれた。政子は陣痛が痛いと言いながらもおにぎりも蒸しパンも「美味しい美味しい」と言って、笑顔で食べていた。
 
22時過ぎにお母さん、そして青葉が相次いで到着した。
 
「私たちが付いてるから冬は家に帰る?」
「近くに居るよ」
と言って私は病院近くのホテルに泊まることにして予約を入れ、そちらに向かった。
 

朝6時に起きて朝御飯も食べてから出て行く。陣痛間隔は4〜5分になっており、子宮口は今3cmくらいまで開いてきたということだった。政子は
「痛いよぉ」と半分泣き顔だったので、私は手を握ってあげた。千里がどうもずっとお腹をさすってあげていたようである。青葉は付き添い用のベッドで寝ていて、お母さんは別室で休んでいるということだった。
 
「冬子さんが来たから、ちー姉はどこかで休んでなよ」
「そうする。じゃタッチ」
 
と言って千里が出て行く。青葉が代わって起き上がり、政子のお腹をさすってあげる。
 
8時頃、別室に居たお母さんがこちらに来た。政子もこの段階になるともうとても眠れないようだったが、それでも私たちとおしゃべりしていると、かなり気が紛れるようであった。
 
10時頃、千里が戻ってきて、お腹をさすってあげる役を交代した。どうも昨晩は2人で交代でさすってあげていたようである。
 
11時になってから助産師さんが見てお医者さんも呼ぶ。
「そろそろですね。分娩室に移動しましょうか」
「もう出てきます?」
「あと多分2時間くらいですよ」
「まだそんなに掛かるのか!」
 
病室から分娩室に歩いていくのだが、千里がしっかり支えてくれていた。
 
「まあ抱きかかえて行ってもいいんだけど、歩いた方が刺激になって出てきやすいみたいだし」
 
と千里は言っている。千里の腕力なら子宮の中身込みで60kgの政子を持ち抱えるのは全然問題無いのだろう。なんか90kgの彼氏を抱えて逆駅弁やったとか言ってたし!
 

分娩室の中にはお母さんと青葉が入り、私と千里は廊下で待機していた。千里が少し席を外したかと思うと食糧を買ってきてくれたので、アンパンと牛乳を飲んだ。
 
「これ通勤会社員の朝御飯、黄金の組み合わせだよね?」
「うん。合うんだよね〜。私は通勤生活やったことないけど」
「それはお互い未経験だね」
 
12時前にお母さんが「疲れた」と言って出てきたので、千里が代わりに中に入った。千里が買っていたパンを勧めると焼きそばパンを食べていた。ほんとに疲れたのだろう!12時半頃になって青葉が「一休み」と言って出てきたので、お母さんが再度中に入る。
 

2019.02.03 12:38.
 
「おぎゃー!」
という元気な産声が聞こえて、私は青葉と手を取り合って喜んだ。
 
看護婦さんが部屋の外に出てきて
「おめでとうございます。女の子でしたよ」
と言った。
「ありがとうございます」
 
青葉の顔に疲れが見える。きっとここに座っていても、ずっと政子をサポートし続けていたのだろう。
 
「まるで天使の声みたいだ」
と私が言うと、青葉はさっと五線譜とボールペンを渡してくれた。
 
「何て用意がいいの!?」
と呆れながらも、私は今この世に誕生した生命を祝福する歌を書き綴っていった。
 
この曲には『天使の歌声』というタイトルを付けたが、これが2018年度最後のローズ+リリー作品となる。
 

赤ちゃんが女の子だったので、名前は予定通り“あやめ”とすることにする。
 
「男の子だったらどうしたの?」
「それでもあやめで」
「え〜?」
「そして女の子として育てる」
「そういうのはやめなよ〜」
 
赤ちゃんの体重は3123gであった。
「自分の誕生日を体重にしてる」
と言って政子は面白がった。平成31年2月3日生である。
 
「西暦で1923gでも良かったけど」
「それでは未熟児だよ!」
「私が産む平成最後の赤ちゃんだ」
「まあ今から仕込んでも4月30日に間に合わないね」
 
産まれたのは36週と6日であった。正産期は37週からなので1日足りない。しかし体重が3123gもあるので(よほど栄養が良かったのだろう)、政子と私、お母さんの3人は医師とも話し合い、保育器は使用しないことにし、その日だけ新生児室で過ごして翌日から母子同室にすることにした。
 
(一般に37週未満または2500g未満の子は保育器に入れる場合が多い)
 
お医者さんは念のため赤ちゃんを色々診察していたが、今の時点では異常などは見られないということであった。
 

政子は後産が終わった後、ひたすら寝ていた。青葉は寝ている政子のそばでずっとヒーリングしてくれていたようだったが、夕方の新幹線で富山に戻った。千里は青葉に「東京駅で千里がお弁当買っておいて渡すと思うから」などと言っていた!? 多分千里1に行かせるのだろうが、どうも千里は自分の分身をいいように、こき使っているようだ。
 
政子が目覚めたのは2月4日のお昼頃である。千里が強烈なおっぱいマッサージをしてあげて「いたたたた!」と叫んでいたが、それでよくお乳が出るようになり、あやめに早速お乳を直接飲ませていた。
 
そして政子は言った。
 
「冬、アルバムを作ろうよ」
 
「十二月?星たちの歌?」
「戯謔(ぎぎゃく)」
「え〜〜〜〜〜!?」
 
「冬がここ半年ほど詩と曲の両方を書いていたいくつかの曲、あれ使えると思うんだ。セールスはあまり出ないかも知れないけど、たまにはそういうのもいいと思うんだよね」
 
「そうだね。毎回100万枚売れていては、こちらもだんだん辛くなる。ここらで連続ミリオンを切っておいてもいいかもね」
 
ローズ+リリーのアルバムで初めてミリオンに達したのは2012年に出した4枚目のアルバム『Month before Rose+Lily, A Young Maiden』であるが、連続ミリオンは2013年の『the time reborn』から続いている。
 
2013.04.24『Rose+Lily the time reborn, 100時間』120万枚
2013.06.05『RPL投票計画』150万枚
2013.07.03『Flower Garden』国内210万枚 海外版80万枚
2014.12.10『雪月花』国内220万枚 国外120万枚
2015.12.02『The City』国内130万枚 国外(振袖とセット)65万枚
2016.12.07『やまと』国内190万枚 国外130万枚
2017.11.15『Rose + Lily ランチセット2017』国内150万枚(海外版は2018.12発売で110万枚)
2018.03.14『郷愁』国内108万枚 海外40万枚
2018.09.08『ブライダル・ウィンド』国内180万枚 海外90万枚
 
「うん。シングルのミリオンはいいけど、アルバムのミリオンは続いていたらプレッシャーになって精神的に辛い。自由に作れなくなる」
 
それで私たちはこういうラインナップのアルバムを企画したのである。
 
『戯謔』
『Cat People』
『アンダンテ』
『愛の影』
『夜の桜』
『泉』
『君たち男の娘』
『異端修道士の洞窟』
『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット』
『ポーコ・ア・ポーコ』
『トロピカル・ホリデー』
『ワンチャンス・トライ』
『雷鳴』
『くじらが空を飛んでいた』
『ミルクみたいな雨』
『鳥になる』
『H教授』
 
全て政子が妊娠中で創作活動を休んでいた間に私が詩・曲ともに書いた作品である。ただ・・・
 
「紅石恵子名義で発表しちゃった曲もあるけど」
「アルバムを作るのに他の作曲家から提供してもらうのは全く問題無い」
「確かに」
 
紅石恵子名義を使ったのは『アンダンテ』(三善貴恵へ)『愛の影』(紫村光子へ)『昼の桜』(甲野八重子へ)、そして三つ葉が歌って久しぶりの大ヒットになった『檸檬爆弾』である。
 
『夜の桜』は『昼の桜』とセットで作った曲だが、『昼の桜』の方が歌いやすかったのでそちらだけ提供した。『ポーコ・ア・ポーコ』は『アンダンテ』とセットで作った曲だが“おとなの事情”で『アンダンテ』のみを提供した。『泉』は“おとなの事情”で他の人には提供していない。
 

「知らない曲がたくさんある」
と千里が言うので、パソコンを開けて、私が仮歌を入れた音源を聴かせる。その中で千里が大いに受けていたのが『ポーコ・ア・ポーコ』である。
 
「“おとなの事情”というのがよく分かった。つまり少子化対策ソングだ」
と千里は笑いながら言った。
 
「そうなんだよ。昔書いたエクスタシーと同様に、この歌は日本の出生率を上昇させる可能性がある」
 
「いいと思うよぉ。これ絶対にアイドル歌手には歌わせられない歌だよ」
 
●ポーコ・ア・ポーコ
 
静粛な空間に、澄み切ったハープの音が響く
 
目をつむったまま聴いていた指揮者の指が
ゆっくり、ゆっくりと、動きだし
やがて一気に
 
オーケストラヒット
 
また更にハープのソロが続いて
またやがて・・・
 
この一瞬にシンクロして鳴る
貴方と私のヴァイオリン
 
曲が次第に盛り上がって行くように
私の気持ちも、少しずつ、少しずつ
盛り上がって行く。
 
至福な瞬間に向って
 

「これを聴いてから『アンダンテ』を聴くと、そちらも怪しい歌だ」
「うん。両方聴けば実はそれが分かる」
 
●アンダンテ
 
貴方のG線(げーせん)が、ゆっくりと幅の広い音を響かせる
止まっていた指揮者の指が動き出し
オーケストラがにわかにモーツァルトを奏で始める
 
貴方は妙に真面目な表情で、鋭い視線を譜面に投げ
自分の一部のようにヴァイオリンを操る
 
その顔を見ると私は妙に楽しくて
思いっきり、そこへ和音を重ねる
 
つかの間のアンダンテ、4分28秒
少なくともその間だけは
私たちの心は同じところにある
 
ただ それだけが心地良くて
 

「『アンダンテ』って誰が歌ったんだっけ?」
「三善貴恵ちゃん」
「その子知らない」
 
「一昨年の秋にデビューしたんだよ。1枚目は240枚、2枚目は60枚」
「それって自主制作並みじゃん」
 
「シンガーソングライターなんだけど、詩が中学生が書いたか?というくらいに未熟でね」
「ああ」
 
「他の人の曲も歌ってみなよと言われてUDPから紅石恵子の曲を提供されて、この曲で初めて500枚を突破して700枚売れたけど、実質的にマリ&ケイの歌でも1000枚に到達しないというのは見込みが無いとみなされて引退勧告された。年齢も高いしね。紅石恵子は作曲料30万円+8%印税だから最低4000枚は売れないと採算が取れないよね」
 
今年度マリ&ケイの歌は作曲料100万円取っている。今年度は有名作家は軒並み高額の作曲料を提示している。海野博晃さんは300万円、ヨーコージ(蔵田さん)や雨宮先生、吉野鉄心さん、ゆきみすず先生などが150万円、スイート・ヴァニラズやマリ&ケイ、香住零子、吉原揚巻、後藤正俊といった中堅作家が100万円前後である。
 
作曲料+8%印税を払う場合、作曲料が100万円なら最低でも1万枚は売れないと採算が取れない。普段の年に比べて遙かに多くの依頼が来るので、高額提示することで依頼数を抑えているのである。
 
私や丸山アイ・千里2がやっている夢紗蒼依も最初は作曲料20万円の売切り(印税無し)にしていたが、引き合いが多すぎるので段階的に引き上げて現在50万円+8%印税にしている。
 
望坂拓美と松本花子は“最低”50万円、つまり楽曲を渡す時に50万円払ってもらうが、最初に受け取る作曲印税から最大50万円ペイバックする方式になっている。松本花子が10月からこの方式にしたので望坂拓美も追随した。
 
(印税が20万円なら全額ペイバックするので実質作曲料30万円。印税が50万円以上なら50万円ペイバックで実質作曲料ゼロになる)
 

「だったら使って良いよね?」
「向こうのプロダクションと話さないといけないけど、適当な金額で権利を買い取れば使えると思う」
 
「じゃ使おうよ。離れた場所に置けば、鈍い人はセットだということに気付かない」
「そうかもね」
と答えてから私は言った。
 
「それで千里頼みがある」
「うん?」
 
「誰かに提供した曲は、詩津紅とか麻央とかに詩を補作してもらって標準的な長さにしているんだけど、未発表曲では歌詞が短い曲が多い。それを千里が補作してくれない?正直、まだ政子に無理させたくないんで」
 
「OKOK。私の好みで補作しちゃおう」
「うん。それでいい」
 

それで私たちは急遽このアルバム『戯謔』を制作することにしたのである。村上社長の許可を取る必要があったのだが、これは鱒渕さんが交渉してOKを取ってくれた。毎年発表しているオリジナル・アルバムのシリーズではなく、あくまでイレギュラーな番外編的なアルバムということで話を通してしまった、
 
それでこの曲は原則としてスターキッズ&フレンズと少数の友人だけで制作することにした。参加する友人は下記である。
 
千里(Fl/龍笛/篠笛), 夢美(Vn), レイア(様々な楽器)、美野里(Pf), 鮎川ゆま(Sax/笙), 小風(Fl), 美空(Cla)
 
小風は一昨年から暇なので何か楽器でも覚えようとフルート教室とサックス教室に通っていた。聴かせてもらったがサックスはまだまだなもののフルートは結構行けると思ったので吹いてもらうことにした。かなり暇をもてあましていたので「ああ、音楽ができる!」と嬉しそうにしていた。お見合いの話まで持ち込まれて来たのを断っていたらしい。なお小風はギターも弾けるが、取り敢えずギタリストは足りている。
 
美空も一昨年からKARIONの方が開店休業に近いのでゴールデンシックスの方に入り浸りになっている。ところがあのバンドでは様々な楽器をやらされるので、大正琴、三味線、ムックリ(口琴)、トンコリ(竪琴に似たアイヌの楽器)、ライア(ヨーロッパの竪琴)とやらされた上で最近はクラリネットをライブでは吹くことも多いらしい。聴いてみるとうまいので頼むことにした。なお元々美空はDRK/ゴールデンシックスのベーシストのひとりである(千里と交代で弾いていたらしい)。
 
夢美はオルガン奏者で国内で年間20-30回のライブをしているし、毎年2枚前後のアルバムを出しているが、私との関わりではオルガンはあまり弾かず、“趣味の範囲”というヴァイオリンを弾くのが常になっている。趣味の範囲といっても、国内のコンテストで3回入賞した私より上手い!
 
今回の演奏の全体の管理は、七星さんと風花にお願いしたが、七星さんは無論サックスを吹くし、風花にもフルートを吹いてもらう。
 

アルバムの収録曲だが、最終的に次の12曲に絞ることにした。
 
『戯謔』
『Cat People』
『愛の影』
『夜の桜』
『異端修道士の洞窟』
『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット』
『ポーコ・ア・ポーコ』
『ワンチャンス・トライ』
『雷鳴』
『ミルクみたいな雨』
『鳥になる』
『H教授』
 
『アンダンテ』と『ポーコ・ア・ポーコ』を並べるとあからさまなので、『アンダンテ』は外して、三善貴恵と同じ事務所の先輩、高木美優の制作中のアルバムに入れる方向で話がまとまった。高木美優は私とエレクトーン教室でクラスメイトだった子で、以前SPSというバンドをしていたのだが、バンド解散後は、あまり目立ったヒットは無かった。ただ彼女はライブハウスなどでけっこう動員を稼いでいるので、昨年春のJPOP界大量リストラには掛からなくて済んだのである。
 
『泉』は歌詞があまりにも怪しすぎて、氷川さんに却下された!
『君たち男の娘』も「世界観が異質です」と言われてやはり却下された。
 
『トロピカル・ホリデー』は『十二月』でも使えるので、そちらに回すことにした。
 
『くじらが空を飛んでいた』は三つ葉の波歌が「これ可愛い!ください」と言ったので、例によって紅石恵子名義で提供することになった。
 
偶然の作用なのだが、コンセプトが競合しているTrine Bubbleにはマリ&ケイの名前で、三つ葉には紅石恵子の名前で曲を提供することになり、この体制がこの後、数年続くことになった。
 

H教授
 
H教授は偉大な研究者だった。
 
国立中央大学を首席で卒業、
24歳で世界的発見をして博士号を取った。
 
あっちからもこっちからも
講演の依頼があって
ジェット機でせわしく走り回った。
学長になってけろ、という話もよく来た。
 
そんなことしてる内
 
教授は研究に集中できないのが辛くなった。
 
そこで山の中に引き篭り
電話もテレビもつけず新聞もとらずネットもせずに
 
一日中研究に没頭し始めた。
 
H教授は幸せだった。
山の中で、試験管とフラスコと顕微鏡を友とし
ポケモンもせず、ユーチューブも見ず、女も抱かず
もちろん男の子も男の娘も抱かずに
朝から晩までES細胞の開発をしていた。
 
ある年、日本の研究者がIPS細胞の技術を確立した。
だけど通信手段を持たないH教授はそんなこと知らなかった。
相変わらず一日中ES細胞の研究をしていた。
 
H教授は世界中で一番幸せだった。
 

続・H教授
 
H教授は幸せだった。
 
朝から晩まで研究三昧。
電話も鳴らなきゃTVもしゃべらず
誰の邪魔も無い平和な毎日。
 
しかし、ある日、女が来た。
道に迷ったの。泊めて。
 
教授はぶっきらぼうに「いいよ」と言い
中に入れて飯を食わせ、布団を敷くと
さっさと部屋に戻り研究再開。
 
《何だか変人みたい・・・・・でも》
 
H教授は幸せそうだった。
試験管を持ちパソコンを叩く
その顔は輝いていた。
 
女はそこに居ついた。
 
H教授はこの世で最高の悦びを知った。
 

続・続・H教授
 
H教授は幸せ者。
 
誰も来ない山奥で 毎日毎日研究三昧
電話も無けりゃ 押売も来ない。
 
朝から晩まで好きな研究やっている。
家事をする時のぞいては
 
ねぇ、あなたぁ、お腹が空いたぁ。
 
OK。ちょっと待っててね〜。この硫酸を片付けるから。
よしよし、御免ね。今夜は胡桃入り、山鳥のフライだよ。
 
かいがいしく御飯を作り、奥さんに食べさせて
洗濯、掃除、お裁縫。何でも来いの、便利な旦那。
 
奥さんはとってもハッピネス 教授もとってもハッピネス。
朝はキスで目を覚まし 夜はたっぷり楽しんで
 
ハネムーンは続く、どこまでも 野を越え山越え谷越えて
 
でも、ある日 奥さんは、甘い声で教授にねだる。
 
ねぇ、ツイッターがしたい〜。
 
うんうん。よしよし。させてあげるよ、まいはにー。
 
教授は通信会社に伝書鳩を飛ばした。
 

続・続・続・H教授
 
H教授は幸せ者。
 
毎日好きな研究をたっぷりやって、
可愛らしい奥さんと甘い生活。
 
奥さんも幸せだった。
家事なんて何もしなくていいし、
山の中の食べ物は美味しいし。
 
教授は毎日畑を見て、家畜を育て、猟にも出て、
小麦を挽いて、パンを焼いて、
お米を搗いて、ご飯を炊いて
かいがいしく、奥さんのお世話をしていた。
 
もちろん研究もたくさんした!
公演とか講義とかしなくていいし
学生の就職の世話もしなくていいし
ここには学長選挙も無いし!
 
ふたりはとっても仲良し。
 
山の木の実の名前、だいぶ覚えたな。
鳥さん、動物さん、ごめんね。
でも美味しいから食べさせてもらうね。
 
ツイッターで友だちとやりとりするのも
また楽しいし。
 
ただここの回線って遅いのよね〜
物理層(*1)が伝書鳩で出来てるから!
 
でもH教授は、奥さんのツイッターでIPS細胞のことを知り、
ES細胞で研究した結果をIPS細胞に応用して
また新しい発見をしてしまった。
 
それで一躍時の人となって
あっちこっち引っ張りだこ。
 
H教授は忙し者。
 

続・続・続・続・H教授
 
H教授は忙し者。
 
何万人もの人の命を救う偉大な研究をして
世界中で有名になってしまう。
 
おかげで1年くらい、
あちこちの学会に顔を出したり外国とかにも行って来て
忙しい日々を送った。
 
本も書いたし、テレビにも出たし。
賞もたくさんもらったし。
公演、会議、審査委員、
富豪の邸宅に招かれて一流の料理人のディナーを食べ
でっかい車に乗せられて、
あちこち連れ回されて。
 
大臣さんに会って、作家さんに会って、タレントさんに会って、
坊さんに会って、どこだかの社長さんに会って、
陛下の園遊会にも顔出して。
 
さすがに少し疲れてきた。
 
少し楽しかったのは若い研究者たちとの集まり。
1ヶ月ほど泊まり込んで、彼らに自分の技術を全部伝えた。
 
どこだかの大学の研究室に迎えたいという話も来たけど
奥さんとの生活を続けたいから
全部断っちゃった。
 
だって僕の料理を美味しいと言ってくれるしね。
 
それで山の中の家に帰ると
奥さんがたっぷりキスして迎えてくれた。
 
お帰り。今日は猪仕留めたわよ。
おお、今夜はごちそうだね。
 
“3人”で仲良く御飯を食べて、
教授はまた研究室に閉じこもって研究を続ける。
 
H教授は幸せ者。
 

(*1) OSI参照モデルではネットワークの構造を下から、物理層、データリンク層、ネットワーク層、トランスポート層、セッション層、プレゼンテーション層、アプリケーション層と7つに分類する。
 
1990年頃、日経MIXのTRY(一種の時間差チャット。現代でいうとmixiのつぶやきに割と近い)で議論した時に出た意見で、サンタクロースにメールを送ると、最後の拠点から先の物理層はトナカイ便で送信されるのではという説があった!
 
トナカイがネットの物理層になるのであれば、伝書鳩が物理層の一部になっていてもよいと考えられる。凄まじく遅い速度になるであろうが。
 
(明治時代の電報黎明期には、電信網がまだ到達していない町村も多く、そこへ向けて送られた電報は大都市から先、郵便で届けられていた)
 

演奏の収録作業は、私自身も楽器を演奏する側で入って2月中旬から収録を始めた。だいたい前述の少数の演奏者で収録したのだが、『ポーコ・ア・ポーコ』はオーケストラをバックに録りたかったので、郷愁協奏曲で協力してもらった♪♪大学の学生オーケストラに協力を求め、土日に2日がかりで収録した。
 
まずは1日練習した上で、日曜日の午前中に市民会館に行ってPV用の映像を撮影した後、午後からスタジオに入って4時間ほどの練習の後、小休憩してから録音したら、ひじょうに良い音になった。
 

政子は2月3日にあやめを産んだので、3週間後の2月24日で床上げとした。本人は回復の速度も速く、
 
「もう平気平気」
と言っていたのだが、その日までは寝せておいた。
 
そして2月25日から、アルバムの歌唱録音に入った。
 
既に伴奏音源は半分くらいできている。政子は妊娠中も毎日発声練習は欠かしていない。休んだのは陣痛が始まってから出産後3日目くらいまでである。
 

歌唱録音をする一方でPVの制作も進めた。
 
『異端修道士の洞窟』では異端と認定されて殺される牧師役がサウザンズの樟南、殺される不美人の修道女が私、生かされる美人の修道女がマリ、襲撃グループのリーダーで、マリを殺そうとした所で仲間から殺される役が獄楽である。襲撃グループの他の4人は同じサウザンズの在杢・稲邑・釜倉・釣丘である。
 
つまりサウザンズ総出演のビデオであった。
 
子供たちは∞∞プロ系列のプロダクションで子役を扱っている劇団桃色鉛筆の子供たちに出演してもらっている。
 
「男の子と女の子を5人ずつというオーダーだったんですが、今日は別の所で女子だけの仕事があってそちらにかなり行ってまして、女の子3人と男の子7人しか調達できなかったんですよ。男の子2人に女の子の服を着せましょうか?」
と劇団のマネージャーさんが申し訳なさそうに言った。
 
「いや、男女混じっていればいいので、そのままの性別で問題ないですよ」
と私は答える。
 
「もちろん本人が女の子の服を着たければぜひ女の子の服で」
と政子が言うので
「よけいなこと言わない!」
と注意した。
 
そういう訳で男の子が女の子の服を着せられることもなく、男の子7人と女の子3人で撮影した。
 

『戯謔』は西宮ネオンと桜木ワルツに出演してもらった。
 
1番の歌詞では2人に唐風の服装をしてもらい、2番では現代の日本風の服装をしてもらっている。
 
『ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット』は§§ミュージックの研修生たちに踊ってもらい、都内のライブハウスで撮影した。ライブハウスで演奏しているのはスターキッズである。
 
そして若葉が作ったムーラン福島店に“ムーラン”(Moulin)の名前の通り水車が作られていたので、これの夜景を撮影させてもらって、ビデオに組み込んでいる。福島のムーランは市街地に作られた水車のある福島店と、アブクマーズの新本拠地として若葉が建設した体育館のそぱに準備した福島ムーランパーク店とが、日替わりで交代営業するトレーラーレストランである。ランチ主体のお店なので、和食と中華の交代制にしている。
 
『ポーコ・ア・ポーコ』はオーケストラをバックにPV撮影している。この曲ではスターキッズはお休みである。
 
『ワンチャンス・トライ』ではバスケットのシーンは私がオーナーをしている千葉ローキューツと、マリがオーナーをしている江戸娘にマジな試合をしてもらいその映像をたくさん使用している。歌詞にある残り3秒からの逆転シュートは、日本代表PG.原口紫から184cmの黒川アミラに超ロングパスを出し、アミラがダンク気味の豪快シュートを叩き込んで、その後の歓喜の様子まで撮影した。
 
ガンマンの対決シーンは、不気味に迫ってくる相手ガンマンが私で、残り1発しか弾丸が残っていないガンマン役がマリである。
 
『Cat People』は全身黒ずくめの衣装を着た丸山アイちゃんに演技をしてもらった。彼女がそういう衣装を着けると物凄くセクシーなのである。あの歌を見た千里が「これは絶対アイちゃんがいい」と言って、多忙な彼女を担ぎ出してくれた。
 
演奏時間が8分以上に及ぶ長い歌『H教授』では、H教授を大林亮平に演じてもらった。H教授の家に居座ってしまう女はマリである。IPS細胞の発見者は山中伸弥教授のそっくりさん!山奥深夜さんに出演してもらっている。
 
「久しぶりにこのネタで仕事した!」
 
とご本人は言っていた。それ以外の出演者は○○プロに集めてもらった。丸花さんが「この歌はドラマ化したい」と言っていた。
 
ラストは顕微鏡を覗いているH教授と、そのそばで赤ちゃんにおっぱいをあげている女という図で終わっている。これは相手役をマリが「亮平にして欲しい」と指名し、生まれたばかりのあやめと一緒に出演したのである。
 

私は「いいの〜?」と驚いて言ったのだが
 
「これだけ大胆に見せておけば、誰もまさか亮平が本当のパパだとは思わない」
などと言っていた。
 
「あのぉ、あやめの父親は私だったのではないかと」
「あ!勘違いしてた!」
 
(どうも本格的にあやめの父親は亮平君と思い込んでいたようである)
 
「ごめーん。次は亮平の子を産むね。今度こそは男の娘を産まなきゃ」
「そんなのどうやって産むわけ?」
「男の子を産んでタマタマを取れば」
「それ傷害罪だから」
 
ちなみに、マリはAB型、あやめはB型であるが、大林亮平君はA型である。それだけ見ればあり得る組み合わせに見えるのだが、亮平君の両親がともにAB型なので亮平君はAA型ということになり、マリとの間にB型の子供は生まれない。必ずA型かAB型になる(実際2年後にマリと亮平の間に生まれた大輝はA型である)。
 
そういう背景もあるので、こういうビデオを公開しても問題無いのである。
 
なお以前『内なる敵』のPVでは大林亮平のそっくりさんの太林亨平とローザ+リリンのマリナに夫婦役を演じてもらっているが、今回はどちらも本物の出演となった。
 

「今回のアルバムってもしかして凄い低予算で作られてる?」
と小風は訊いた。
 
「Simple Collectionよりは制作費大きいよ」
「あれこそ低予算だろね!」
 
Simple Collectionというのはローズ+リリーのヒット曲をピアノ演奏だけで歌うというコンセプトのアルバムで、私とマリとピアニストの美野里の3人だけの演奏である。これは★★レコードではなくアメリカのFMIから販売されている。日本ではネット書店大手のArtemisから買うこともできる。大手のCDショップで直輸入して販売している所もある。
 
だいたいひとつのアルバムを500万円くらいの低予算で制作し、アメリカで12ドルで販売されているが、日本のArtemisは1800円の価格設定にしている。今まで出した分は全て100万枚以上売れており、こちらの取り分は売上げの約半額に相当する700-1000万ドル(7.7-11.0億円)ほどである。
 
物凄くコストパフォーマンスが良いが、それは通常のアルバムが売れているからこそであり、これだけで成り立つビジネスではない。
 
歌詞は原則として英語だが、要望に応じてスペイン語版、フランス語版を出した作品もある。最終的には全ての作品に出すことになるかも知れない。日本語版だけは契約上出せないのだが、音源自体は制作している。
 
これを始めたのは、ひとつは原点を忘れないようにしたかったこと。もうひとつは、千里の勧めで、村上社長就任以来経営が不安定な状態が続いている★★レコード以外のルートを開拓しておきたかったことである。海外版という名目で他のレコード会社との契約に成功した。
 

なおこれまでの“オリジナル・アルバム”の制作費はだいたいこの程度である。
 
2013『Flower Garden』1億円 290万枚
2014『雪月花』3億円 340万枚
2015『The City』4億円 195万枚
2016『やまと』3億円 320万枚
2017『郷愁』8億円 148万枚
 
『郷愁』は無茶苦茶無理をして、スタッフや演奏者たちにも無理をしてもらって多大な費用が掛かり、しかも売れ行きが良くない!
 
正直楽曲の品質にも不満が残ったし、精神的に疲れてしまった。更に2018年は上島事件の余波で、全く制作活動ができなかった。『郷愁』が実質的な失敗作であったことから、次のアルバムは失敗が許されない。しかしちゃんとした品質のアルバムを作るには、私自身の制作能力が回復しなければダメだと、この時期私は思っていた。
 
海外では2017年のアルバムがあまり出来が良くなく、その後アルバムが発表されず、マリの妊娠まで報道されて、ローズ+リリーは実質活動終了したと考えている人もあるようである!
 

「どうしましょう?」
とその日、鱒渕さんは困ったように言った。
 
「村上社長がローズ+リリーの次のアルバムは『恋物語』というタイトルで行こう、と言っているのですが」
 
「懲りない人だねぇ」
とその日来ていた千里は言った。
 
「前回自分が提案したタイトルで散々な結果になったのに」
「全くだね」
 
「前回迷惑を掛けて申し訳なかったから今回は絶対ヒットしそうなのを考えたとおっしゃるんです」
 
「だからそれが迷惑なのに」
 
「どうしましょう?また山村さんにお願いしましょうか?」
と鱒渕さんが言ったが、千里が
「必要無い」
と言い切った。
 
「ケイたちは自分たちが予定している通りのアルバムの制作を進めていればいい」
と千里は言う。
「でもそれでは発売できないのでは?」
と鱒渕さん。
 
「そのアルバムが完成するのって、秋くらいでしょ?」
「たぶんそのくらいになると思う」
 
「その時点で村上さんは★★レコードの社長ではないよ」
と千里は言った。
 
「それって・・・予言?」
 

千里は黙って自分のバッグからタロットの箱を出した。中身を出してヒンズーシャッフルをする。そして言った。
 
「冬、『十二月(じゅうにつき)』と『星たちの歌』のどちらを先に制作しようか迷っていると言っていたよね」
 
「うん。実はそうなんだよ」
 
「3枚並べるよ。次期アルバムはどれにすればいいか」
と言って千里は
「十二月、星たちの歌、恋物語」
と言いながら、タロットを1枚ずつ2度並べた。
 
そして表に返す。
 
十二月 聖杯の王女 月
星たちの歌 剣の10 剣の3
恋物語 剣の4 金貨5
 
「すっごい明快!」
と政子が驚いた表情で言う。
 
「次は十二月がいいということか」
と私。
 
「剣の4だとお休みで貧乏になるんですね」
と鱒渕さん。
 
金貨の4は剣を4本地面に刺して洞窟の中で休んでいる若者。ライダーなら寝ている戦士である。金貨の5は灯りの点いた窓の外を歩く浮浪者の図である。
 
「つまり寝てるのと同じってこと」
「費用だけ掛かって成果は出ないんだろうね」
「郷愁の二の舞だな」
 
「でも星たちの歌、ひどい」
 
剣の10は磔(はりつけ)にされた裸の男に剣が10本刺さっている図である。ライダー版なら倒れた男に10本の剣が刺さっている。剣の3は血の付いた剣が3本落ちていて男が悲嘆にくれている。ライダー版なら心臓に突き刺さる3本の剣である。
 
「その企画は没にした方がいい気がする」
「そうしよう」
「多分時期が来てないんだよ」
「ああ。そうかも知れない」
 
「もしかしたら来年以降ならいいんですかね?」
と鱒渕さんが言う。
 
千里は「1年後、2年後、3年後、4年後、5年後」
と言いながらタロットを並べた。
 
表に返す。
 
1年後 金貨4(閉ざされた要塞)
2年後 棒10(棒と一緒に穴に落ちる)
3年後 聖杯9(幸せそうな恋人)
4年後 剣5(木の上に晒された前王)
5年後 聖杯8(杯がこぼれて悲しむ若者)
 
「では3年後、2022年に」
「OK」
 

その数日後、私が銀座のエヴォンに居たら、千里がやってきた。それで少し話していたのだが、私はどの千里なのか判断に迷った。
 
「今何時だっけ?」
と言ったら千里が赤い折り畳み式のガラケーT008を出して開き「16:28だよ」と言ったので、ああ、2番だったかと認識した。
 
「そうそう。冬はこのこと知っておいた方がいいと思うから言うけど、ここだけの話。村上さんは次の株主総会で解任される」
 
「マジ?」
 
そうか。そういう情報持っていたから、先日村上社長の意向は無視しろと言ったのかと私は思った。
 
「村上さんが社長になってから★★レコードは極端に売り上げを落としている。その問題で大口株主の間で不満が出ているんだよ。この業界は、集団アイドルを抱えているKGレコード以外は軒並み売り上げを落としているけど、その中で売り上げを伸ばしているЮЮレコードみたいな所もある」
 
「ЮЮレコードは宮城イナイの事業でも大きな利益を出していたし、今年は夢紗蒼依をやってるからね」
 
と私は言う。
 
「ああ。夢紗蒼依はЮЮレコードと組んでうまく行っているみたいだね」
と千里も言う。
 
宮城イナイは3D-CGで作られた仮想アイドルである。プロジェクトチームが自作したスーパーコンピュータで作成された立体映像がまるで本物の人間のように動いている様は実写にしか見えない。5分間のCG作成に一週間以上掛かるらしいが、ビデオ付きCDが毎回数十万枚売れているし、コンサートの動員も良い。
 
「イナイの日常」と称する短いビデオが頻繁に動画掲載サイトにアップロードされるので、知らないと本物の女子高生アイドルかと思ってしまう。
 
イナイの場合、私たちがやったような、誰かの動きをリアルタイムで変換するのではなく最初から全部作成された立体映像を流すので、Muse-3より遙かに遅いスーパーコンピュータでも、充分処理可能である。
 
夢紗蒼依については、ЮЮレコードは現在、夢紗作品の約半数を買い取り、社長みずからが実施する試験にパスした歌手にどんどん渡しているのである。これがかなりの売上げになっている。
 
またЮЮレコードはタブレットへのBGM配信(有線放送のタブレット版)を運営しており、これがまた大きな利益を出している。
 
ただ今、千里が言った言葉に私は何か違和感を感じたのだが、私はどこが変なのか考えたが分からなかった。
 

「まあそういう訳で、詳しいことは言えないけど、今水面下で村上さん・佐田さんを解任しようという根回しをしている人たちがいる。一方で村上さんたちを支援するグループもいる。最近★★レコードの株価があがっているのに気付いてなかった?」
と千里。
 
「知らない。上がってるの?」
 
「世間では業績が悪化しているのに株価が上がっているので仕手筋が入っているのは間違い無いと見ている」
「うーん・・・」
 
「村上さんたちが解任されたら多分町添専務の昇格か、あるいは松前さんがカムバックして社長になる。そしたらケイたちの思う通りに制作させてくれる。なんか若葉から、村上さんがまたローズ+リリーの制作に口出ししてきたとか聞いたけど、村上さんの意向は気にせず作業を進めればいいよ」
 
「もし解任されなかったら?」
「その場合は町添さんが会社から追い出される。冬たちもそれに付いていけばいいんだよ」
「なるほど」
「違約金要求されたら10億でも20億でも向こうの言う分払えばいい。そのくらいすぐ取り戻せるから」
 
「うーん・・・」
 
千里はバッグからタロットを出した。
 
「1枚引いて」
「うん」
 
引いたら審判のカードであった。
 
「分かった。村上さんの意向は黙殺して、こちらの予定通り進めよう」
「それで失敗したら100億円くらいは補償してあげるよ」
「いや、それは自分の責任で行動する」
 
「冬も★★レコード株少し買っておいたら?町添さんか松前さんが社長になったら期待で高騰するよ」
 
「そうだなあ。だったら400-500万買っておこうかな」
「けちくさいこと言わずに、男ならもっとどーんと買えばいいのに」
「女だよ!」
「女ならもっと度胸で行こう」
 
「千里はいくらか買ったの?」
 
「私は大したことないよ。200万株しか持ってない」
「・・・・それ物凄い量のような気がするんだけど」
「発行済み総株式の4%程度だよ。5%保有すると大量保有報告書を出さないといけないから、それより少ない量にした。丸山アイも若葉も2A16もやってると思う。彼女たちがどちらに与(くみ)するつもりかは知らないけどね」
 
「千里たちが仕手筋のような気がする」
「人聞きが悪い。少なくとも私は仕手筋が動き出す前に目立たないように少しずつ買い集めたよ。値上がりし始めたのは私が買い終えた後。それでじわじわと値上がりしているから売るべきタイミングを待っているだけだよ」
と明るく千里は言った。
 
「物凄い言い訳!」
 
「言っておくけど、私は誰とも★★レコードの経営に関する話はしてないからね」
 
「話し合ったら違反だよね!」
 

「あ、そうそう。2A17さんは娘さんからお金借りて2000万円分買ったらしい」
「へー」
と言いながら、それ誰だっけ??と考えている。
 
「それで利益が出たら性転換手術を受けたいと言って、奥さんから許してもらったんだって。もし損失が出たら性転換も禁止だし、一生娘さんの奴隷として働くと」
 
「2A17って誰だったっけ?」
と私は尋ねた。
 
「ひまわり女子高2年A組17番森野眠美(もりのたみ)」
「えっと・・・」
「峰川伊梨耶さんのお父さん」
「伊梨耶さんのお父さんって、MTFなの?」
 
「ただの女装趣味だと思うけどなあ。ただ女装するのに邪魔なおちんちんを取りたいだけじゃないの?子供3人も作ればもう、ちんちんは用済みだろうし」
 
「普通の男の人は用済みとは考えないと思うけど」
 
「あの人、学校の先生しているから性別移行なんかできる訳がないからね。そもそも奥さんと離婚する意志は無いから戸籍上の性別も変更不能だし」
 
と千里は言っていたが、伊梨耶さんのお父さんがそういう人とは全く知らなかった!
 
 
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【夏の日の想い出・戯謔】(5)