【春気】(1)
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(C) Eriki Kawaguchi 2020-02-29/改2020-04-18
千里4は1月5日に高岡から東京に戻った後、翌日球団事務所に行き、2年半にわたって二重人格状態にあったのが統合されたので二軍のNo.66 川島十里は抹消してくださいと告げた。
球団は千里が本当に元気そうなので喜んでその作業をした。球団としても千里が本格的に復活するのは、大いに喜ばしいことだった。実際その日1軍の練習場に出て行った千里は絶好調で、チームメイトたちからも
「サン、すごく元気」
と驚かれていた。
千里4は6日の夜は西湖のアパートに行き、分裂してびっくりしている彼(彼女?)に対応した。
千里は翌日1月7日の練習でも調子良いところを見せていたが、
「今日は早引きしてもいいですか?」
と言って15時頃であがらせてもらうと《わっちゃん》に転送してもらって仙台に行った。そして和実と会って和実が購入予定の土地を見せてもらった。
『こうちゃん、これどうよ?』
『よくこんな土地買う気になるな』
『改善できる?』
『地縛霊は処分しておくよ。浮遊霊も掃除しておくけど、ここはまた変なのが寄ってくる。青葉に結界を作らせろ』
『それがいいかもねー』
それで千里4は和実に地縛霊がいたが処分したこと、これは絶対『出る』噂があったはずだから、値引き交渉の材料にするのがいいと伝えた上で、青葉に結界させることを勧める。それで和実も売買契約したら、青葉に連絡しようと思った。
千里4は帰りは新幹線で帰り、座席で楽曲を書いた。
その日龍虎Mが仕事を終えて代々木のマンションに帰ったら、FがNの部屋から出てくる。
「何してたの?」
「Nが居なくて寂しいから、お人形さんを置いてみた」
見ると“アクア人形”がNのベッドに置いてある。
「せっかく千里さんが3人でひとつずつ部屋を使えるように3LDKを選んでくれたのに居なくなっちゃうんだもん」
とFは言っている。
「別に死んだ訳でも無いし、いつでもNとは話せるんだから、あまり寂しがるなよ」
とMは言う。自分も本当は寂しい気持ちがしているのだが、ここは男の強がりだ。
「最初お花を置こうとしたら、死んだみたいだからやめてとNが言った」
「うん。お花はやめておこうよ」
「何か食べた?」
「ううん。まだ」
「じゃ餃子でも焼こうか?」
「あ、Mの焼いた餃子好き。ボクなかなかうまく焼けなくてさ」
「OKOK。ネットでも見てなよ」
「さんきゅ」
3人で暮らしていた時はNがわりと料理が得意だったのでNが御飯を作ることが多かったのだが、2人になってから、その付近の負荷が増えた。Fが寂しがっているようでもあり、Mは御飯作りなどは進んで引き受けている。
西湖はとても調子が良かった。おおむね学校は聖子F、仕事は西湖Mが引き受けているのだが、主としてボディダブルの仕事がある時はFも学校が終わってから撮影場所にやってきて、男役を西湖M、女役を聖子Fがする。入れ替えは《わっちゃん》がやってくれるから楽である。だいたい片方はアパートで休憩している。龍虎たちと同様、長期記憶を共有するので、今撮影がどこまで進んでいるかは常にお互い把握できる。
分担するようになってから、聖子(西湖)は宿題などもきちんと提出するようになり「忙しいのに頑張ってるね」と先生に褒められた。
親友の伊代などには「アクアちゃんはますます忙しくなってるみたいなのに最近よく頑張ってるね」と言われる。
「アクアさんが高校卒業するとかなり忙しくなるだろうということで少し体制が変わったんだよ。今、アクアさんの日中の仕事の代役は、佐藤ゆかさんがしてくださるようになったから、私は行かなくていいのよ。そうしないと私が4月以降は全然学校行けなくなるって、醍醐春海先生が申し入れてくれて。夕方からの仕事も今、町田朱美ちゃんが半分くらいしているから。結果的に負担が12月までより減ったんだよ」
と聖子Fは説明する。
「ああ。町田朱美ちゃんは今の段階ではまだ時間に余裕があるだろうね」
「うん。売れ出したら、また状況変わるかも知れないけど」
和実はローズ+リリーのカウントダウンに、マベルの出店の応援に行き、12/31 23:10くらいまで営業してから撤収。その日は京都マベルでゴロ寝して、1月1日朝、一緒に行ったルシア・モナミとともに仙台に帰還した。
京都10:21-12:33東京12:44-14:17仙台
モナミは仙台駅からそのままタクシーに乗せて自宅に帰したが、ルシアはお店に置いている荷物を取って来たいということでいったん一緒にクレールまで行く。するとクレールの初期メイドで元チーフのライムが来ていた。育児の手も少し離れてきたので可能ならまたメイドをしたいということだったので、昼間を中心にシフトを入れようかなどという話をした。ライムは和実と面談した後、同じ初期メンバーのルシアとも話し込んでいた。ルシアはお店にいったん戻って正解だったようである。
1月1-2日はお店はお休みにしたのだが、1月3日の信濃町ガールズの定演から営業を再開した。1月4日はTKRのアーティストが5組登場する予定だったのだが、1組は日程を勘違いしていてきていなかった。するとちょうど来店していた千里が代理でステージを務めてくれた。千里が「買物しにきた」というので何を買いに来たのと訊くと、土地を買ったというので驚く。クレールに隣接する12haの土地が、イオンが来るという噂で高騰していたのが、誘致の中心的存在だった市会議員が逮捕されたことで話が消え、暴落した所を14億円弱で買ったのだという。最初は20億円超だったのを必殺値切り人に交渉させてその値段で買ったのだという。千里はこの土地は公園にして体育館を建てると言っていた。和実も隣が公園というのは歓迎と言った。今のように荒れ果てたままになっているより、ずっといいと思われた。
1月6日(月)は仙台市街地、南町通り沿いにあるTKR仙台支社に行き、今年のTKRライブ予定などについても山崎さんと打ち合わせた。この場で和実は現在お店自体は黒字経営だが、お店の建設の際の借金の返済が重くて苦労していると正直に打ち明け、場合によっては仙台市街地に移転するかもという話をした。最初は人の多い一番町や中央通りがいいのでは、などと言っていたものの、山崎さんと話している内に、クレールの場合、むしろ青葉通りや広瀬通りなどの車通り沿いのほうがいいという話になった。なお現在の若林区のお店はそれなりに存在価値があるので、“移転”より“支店設置”の方が助かるなどという話もした。
打ち合わせの後、和実は泰陽楼で中華料理をおごってもらい、その後、仙台駅前からバスに乗ってクレールに戻ろうと思って、南町通りを東へ仙台駅方向に歩いて行った。なお今日は2人の子供は自宅でベビーシッターさんにみてもらっている。
駅まで行く途中の細い道の所で、杭を打ってロープを張っている人たちが居た。これは南町通りとその北の青葉通りを結ぶ道で細いが一応車も通れる道である。和実は何だろうと思って、つい寄り道してその道に入っていってみた。
古い4階建てのビルがあり、1階にコンビニとラーメン屋さんがあったのがどちらも閉店したようである。和実は何となくそのロープを張っている背広姿の男性に尋ねた。
「建て替えか何かですか?」
「売り地なんですよ。ここを所有していた地主さんが亡くなりましてね。相続した息子さんが相続税を払いきれないので売ることにしたんです。ビルも昭和30年代に建てられた古いものだからそのままでは売れないんで、崩してから売ろうという話になっているんですよね。近いうちに解体工事を始めますが。ここのラーメン屋さんは先代の頃は美味しいことで評判だったんですが、一昨年息子の代になってから不味くなって客が来なくなって潰れたんです。コンビニのほうは去年の夏にオーナーの奥さんが亡くなって閉店したんですよ。夫婦で経営する契約だったから契約解除になったらしいです。新しいオーナー募集したけど契約に至る人は居なかったみたいで」
それって過労で亡くなったのでは?気の毒にと和実は思った。コンビニオーナーなんて物凄い激務っぽい。
「幾らで売るんですか?」
「息子さんの希望では8億円ですね」
「凄い金額だなあ。広さは?」
「この土地は間口18間(けん)、奥行き25間(けん)の約450坪かな」
今のクレールの敷地より少し広いくらいか。でもむしろ狭く感じるのは町中にあるせいかな?などと考える。
「すみません。メートルでは?」
「間口33m 奥行き45m くらいですね。約1500m
2で、平米単価は53万円くらいになるから、かなりお買い得ですよ」
和実は冬子から左右の壁の幅14m 高さ14mが音響的には理想と言われたよなと思い起こしていた。客室の幅14mに、横に廊下とトイレを設置しても18m、これだけの幅があるならトイレと反対側のサイドに厨房を作ればいいなと考える。冬子は部屋の長さは特に言ってなかったけど、奥行き14mではステージで半分取っちゃいそうだから20mくらいかな。土地の奥行きが 45mあれば建蔽率60%として 27mくらい取れるから、客室24mとエントランス3mでもいいかな。ここ駅にも近いし車で入れるし、まるで私のお店を作るために用意された土地みたいなどと思う。取り敢えず資金のことは何も考えていない。
和実がどうも興味を持っているようなので、男性は積極的に売り込んで来る。
「どうです、奥さん、株運用で儲けたお小遣いの投資先とかに?コンビニとか牛タン屋とか入店させて、2階以上には事務所とか入れたら、ここは駅に近いからお客さんも来て、家賃収入でローンが返せますよ」
などと言って男性は名刺をくれた。
《Tanabata Fudosan 青葉通り店店長・宅地建物取引士・不動産鑑定士・棚機秀香 Tanahata Hidetaka》と書かれていた。
「棚ぼた不動産?」
「あ、それよく誤読されるんですが、七夕(たなばた)です。七夕祭りにちなんだ社名なんですよ。創立者で先代社長を務めた人がお祭り大好き人間だったので。でも“たなぼた”はまだいい方で“たなブタ”と誤読されることもあります」
「あなたは社長の・・・娘さん?」
「私の名前だいたい女の子の名前に見えますよね。たいてい“ひでか”と読まれちゃうけど“ひでたか”なんです。昔、波多野秀香(はたのひでたか)という武将がいて、そこから取ったんですよ。あと、私の苗字は“たなはた”で会社の名前は“たなばた”です。濁点が無いんです。『ちょっと足りない』とか揶揄されますが。ちなみに社長の苗字は松島です」
男性がかなり話好きな感じで、しかも和実を見込みのある客と思ったようで、結構な時間話した。それで和実が「そろそろ自分のお店に戻らなくちゃ」と言うと「では興味がありましたら、ぜひご連絡ください」と言って解放してくれた。“お店”と言ったので、スナックか何かでも経営している人で結構資金力のある人かもと思われたふしもあった。
仙台駅前まで行き、バス乗り場に行くのに通りを渡ろうとした時、左手に宝くじ売場があるのに気がついた。
そういえばこないだ京都で宝くじ買ったんだったと思い出す。それで売場に寄り、バッグの中に入れたままだった宝くじの袋を散り出す。売場のおばちゃんに
「これ当たってますかね?」
と尋ねた。
「はいはい。確認しましょうね」
と言って、おばちゃんはくじを袋から取り出し機械に掛けた。
そして和実はおばちゃんがギョッとするのを見た。
「当たりました?」
と和実が尋ねると、おばちゃんは小さな声で言った。
「おめでとうございます。高額当選しています。当たり券は銀行での換金になりますので、お早めにみずほ銀行に行ってください」
「ここでは換金できないんですか?」
「売場では5万円までの当選金しかお支払いできません」
和実は面倒くさいなと思った。
「でもいくら当たったんですか?」
と和実が訊くと、おばちゃんは指で1という数字を示した。
1万円?
いや、5万円まではここで換金できるとおばちゃんは言った。だったら10万円?それにしてもわざわざみずほ銀行まで行くとか面倒だ。
「みずほ銀行ってどこにありましたっけ?」
「ここを右手に行って、青葉通りをまっすぐ行ってください。東二番丁通りとの交差点の所にありますから。昔は富士銀行だったんですけどね」
「富士銀行がみずほ銀行になったんでしたっけ?」
「なんかどんどん合併して訳分からなくなりましたよね。富士銀行と第一勧銀が合併してみずほ銀行になったんです(*1)」
(*1)本当は富士銀行・第一勧業銀行・日本興業銀行の三行が合併して、みずほ銀行とみずほコーポレート銀行になり、その2行が更に合併して(新)みずほ銀行となった。
「こないだ私、こんがらがって、三菱USJ住友銀行とか言って、そんな銀行は無いって言われましたよ」
と和実。
「それついでにUSJじゃなくてUFJね」
「そうなんですよ。USJは大阪の遊園地だって」
「でもお客さん、できたら男の人と一緒にみずほ銀行に行かれた方がいいです。彼氏か、居ないならお父さんか、あるいは会社の上司か」
男性と一緒?なんでだろうと和実は思ったが
「分かりました。ありがとうございます」
と売場のおばちゃんに言い、宝くじを受けとってバッグに戻し、まずはクレールに電話した。マキコが出るので、
「打ち合わせ終わったらすぐ帰るつもりだったけど、宝くじが当たってるとかいうからさ、みずほ銀行に寄って帰るから少し遅くなるかも」
と伝える。
「みずほ銀行って、もしかして高額当選ですか?」
「そうらしい。宝くじ売場では換金できないと言われた」
「幾ら当たったんです?1000万円くらい?」
「まさか。でも100万円かも。誰か男の人と一緒に行ったほうがいいと言われたんだけど、今日は倉本君まだ来てない?」
「そういうことなら、会長(伊藤君)がいいですよ。私から連絡しますから、みずほ銀行、入口入った中で待ち合わせにしましょう」
「中で?迷惑じゃない?外で待っているよ」
「それでスリとかに遭ったら危険ですよ。中で待っててください」
「分かった」
そこまで用心する必要あるかなと思ったものの、和実はいつも冷静なマキコに言われみずほ銀行まで行って店内で待つことにする。
それで青葉通りまで北上し、そこを西に向かって歩く。東五番丁通りを越える。途中に三菱UFJ銀行がある。ここじゃダメなんだろな?とか考える。同じ銀行なんだからどこでも換金できればいいのになどと和実は考えるが無茶である。
和実がみずほ銀行に辿り着いてから、ほんの10分ほどで伊藤君は来てくれた。偶然にも市街地に打ち合わせに来て会社に戻ろうとしていた所だったらしい。
「悪いね。仕事中に」
「平気平気。うちの会社は適当だから」
それで番号札を取り、その番号が表示された所で窓口に行く。
「宝くじの換金をしたいんですが」
と言ってくじ券を出す。
「今お調べしますね」
と言って窓口の人が機械に掛けている。大きく驚いた表情。係員は「少しお待ちください」と言って、奥から貫禄のある50代くらいの男性行員を連れて来た。支店長の名刺を出す。
「いくら当たってるんですか?」
と伊藤君が尋ねる。
「1等と前後賞の片方です」
と言って、支店長はくじ券と当選番号の一覧表を提示し、39-153893が一等7億円、そのひとつ前の39-153892が前後賞1.5億円で合計8億5千万円当選していると説明した。
「8億!?嘘。高額当選というから100万円くらいかと思ったのに」
と和実は言った。
「だから売場のおばちゃんは男の人と一緒に銀行に行けと言ったんだな」
と伊藤君は納得するように言った。
「どうしよう?そんな高額もらって帰り道に落としたら」
と和実が言うが
「それ現金じゃなくて振込ですよね?」
と伊藤君は確認する。
「はい、現金でもご用意できますが、8億5000円の現金は1万円札でも85kg, 1億5千万円入るジュラルミンケースが6個必要で、ケースの重さまで入れると100kgを越えますし、ガードマンも付けないと怖いですし、自宅に置いておくには巨大な金庫や警報装置が必要ですから、多くの方が振込を選択なさいます。取り敢えず別室で色々ご説明しますので、ちょっとこちらにおいでください」
と支店長は和実と伊藤君を別室に案内した。
調度が豪華である。どうもVIPルームっぽい。普段は上級の得意客との商談とかに使うのかなと思った。コーヒーとケーキが出てくる。コーヒーがブルマンだ、さすが美味しいなどと和実は考えていた。支店長は2人に『「その日」から読む本』という小冊子を1冊ずつ渡した。
この本は宝くじの高額当選者だけに配られる本で一切市販されていないらしい。
「失礼ですが、ご夫婦でしょうか?」
「いえ。高校時代の親友で、今も私が経営するお店の手伝いをしてもらっているんです」
と和実は説明したが、支店長は恋人なのだろうと思った気配もある。以下の話はふたりが親密な関係であることを前提とした話になった。
「まず大事なことを数点お話しします。第一に高額当選したことを無闇に他人に言わないことです。誰に話すかおふたりでよくよく話して決めて下さい。概して親兄弟などはとても危険です。身内の気安さで借金を頼まれ、断ると人間関係も悪化します。最初から話さないことがお勧めです。会社の同僚とか友人とかも同様です。嬉しくてSNSとかに書いたりインスタに上げたくなるかも知れませんが、それは最悪の結果をもたらします」
「私どうしよう?さっきマキコに高額当選したと言ったから、もうお店中に伝わってるよ」
と和実が言うと伊藤君は言った。
「マキコちゃんは言いふらさないと思うよ。でも100万円当たったことにしようよ。焼肉か何かで当選お祝いパーティーして、それでおしまい」
「そういうのがよろしいでしょうね」
と支店長も言う。
「お金の使い道ですが、最初に借金とかローンの残高、未納の税金や年金などがあったら、まずはそれを払ってください。それを第1優先にしないと8億なんて使い出すとあっという間です。無くなってから『借金返してなかった』となるととても辛いです」
「じゃさ、お店建てる時に陸前銀行と政子さんから借りたお金をまず返済しようよ」
「うん。そうしよう」
「他にクレカとかサラ金とかに借金があったら返そう」
「その手の借金は無いよ」
「分割払いで買ったものとかは?」
「分割払いとかリボとか嫌い」
「国民年金とか国民健康保険は滞納無い?」
「きちんと払ってるよ」
「お前、優秀だな」
支店長は説明を続ける。
「お金を分与する場合ですが、これを数人でシェアする場合は受け取りの際に受取人の名簿を提出してください。それで当選証明書をお作りします。これが1人で受けとった後で分与した場合は贈与税がかかり、高額の贈与は税金で半分取られてしまいます」
「宝くじ自体の所得税・住民税も必要でしたっけ?」
「それは掛かりません。無税です」
「贈与する場合も110万円以下なら贈与税かかりませんよね?」
「はい、かかかりません」
「だったらハルちゃんに100万円あげるからそれで車のローンを返しなよ」
と和実は言ったが
「お前、もう気が大きくなってる。そう安易に人にお金あげるとか発想するのは危険な兆候だぞ」
とたちまち伊藤君から注意される。
「そうです、そうです。お金を恋人や友人・家族などにあげる場合も、慎重に計画を立ててからにしましょう」
と支店長さんも言う。
「そのあげる人には8億円当たったことを言うことになりますから、結果的にお金を無心されるようになり人間関係を壊すことになりかねません。だから大事な人にこそ黙っていて、お金も渡さないのがよいのです」
「お前さ、誰かお金をどうしてもあげたいという人がいたら名簿作って俺に相談しろ。俺が一緒に考えてやるから」
「そうしようかな」
と言いつつ、和実は伊藤君に来てもらってよかったと考えていた。
「お金の使い道はゆっくり考えましょう。今はおふたりとも若いですからイメージが湧かないでしょうが、仕事を引退した後、老後の資金としては1億円くらい無いと苦労します。300万円を33年間で1億円ですよ。仕事を引退したあと生きる年数を考えたら贅沢しなくてもそのくらい掛かるんです。それ以前に子供が大きくなると大学にやるにも私立の医大なら4000-5000万円かかります。普通の学部でも私立なら入学金まで入れて500-600万円します。せっかく8億円当たったのに、子供がいざ大学に行きたいということになった時、既にお金が無くなっていたら悔しいですよ。だから老後資金や教育資金はまず最初に確保して、これには手を付けないことをお勧めします」
「その手の資金は自分でも容易に取り崩せない所に置いた方が良いですよね?」
と伊藤君。
「そうです。国債とかあるいはリスクの比較的少ない投信とかに入れておきましょう。そのあたりもこの本に書いていますのでよくよく読んで下さい。危ない投資話には絶対に乗らないことです。着実に儲かるなんて話は絶対詐欺です。投信でさえババ抜きみたいな危険な投信もあります。とにかく時間を置いても、使わない限りお金は減りませんから、ゆっくり落ち着いて数ヶ月掛けて使い道は考えましょう。そして取っておくべきお金と使ってもいいお金を分けましょう。その間は取り敢えず当座預金か無利息型普通預金に入れましょう。これだとその金融機関が万一破綻しても全額保護されます。定期預金やふつうの総合口座などの普通預金だと1000万円までしか保護されません」
「8億円口座にあったのに1000万円しか引き出せないって酷いですね」
「はい。そうならないためにも無利子型普通預金に入れたほうがいいのです」
「ちなみに当選金は今頼めばすぐ振り込んでもらえるんですか?」
と伊藤君が尋ねる。
「すみません。それを最初に言うべきでした。1等の場合は手続きに少しお時間がかかりますので、だいたい2週間後くらいの振込になると思います」
「それを無利子型普通預金口座を作って、そこに振り込んでもらえばいいですね」
「はい、そういう口座をご指定頂きました場合は」
「だったら申し込みますから、口座を作ってください」
「分かりました。書類をご用意します」
それで支店長は行員を呼んで書類を持ってこさせる。和実がそれに記入し、ここに当選金は振り込んでもらうことにした。
その後も支店長の話は続き、主として伊藤君がいろいろ質問してそれに丁寧に支店長は答えていった。
途中で伊藤君は1度席を立ち、会社に連絡を入れ、友人が面倒なことに巻き込まれて相談に乗っているから今日は早引きしたいと伝えた。和実は伊藤君から部屋の外で言われて、東京に居る淳にメールし“内容は告げないまま”緊急に相談したいことがあるので会社を早退してこちらに来て欲しいと伝えた(内容まで書くと淳がそのことを他人にうっかり言ってしまう危険があるので)。淳は18時半頃着くと思うということだった。
ふたりが銀行を出たのはもう15時前だった。結局は銀行に2時間ほど居たことになる。
「遅くなっちゃった。ごめんね、仕事中だったのに」
「いつものことだから平気平気」
「私もお店に帰らなきゃ」
「その前に少し話そう」
と言い、彼は自分のアパートに和実を誘った。
「変なことはしないから」
「それは信頼してるよ」
伊藤君が途中で電話してピザの宅配を頼んだ。ふたりが伊藤君のアパートに戻ってから10分ほどしたところで届く。それを食べながら話す。
「和実、当選金の一部でピザを焼くオーブン買わない?クレールにはピザがあるといいのにと前々から思ってた」
「検討する」
「まずこれはお前ひとりで受けとる?それとも淳さんと共同で受けとる?」
「どっちみちお店のことでほぼ使ってしまうと思うんだよ。共同名義にするのは話を面倒にするだけだから、私単独でいいと思う」
「じゃそうしよう。そしたら当選したことを報せる人を決めよう。名前を書き出そう」
最初に月山和実、月山淳、伊藤春洋、と3人の名前を書いた。
「銀行の人も言ってたけど、親とかお姉さんには話さないほうがいいと思う。絶対人間関係が壊れるぞ」
「トワイライト(胡桃が経営に参画している美容室)の借金返済に姉ちゃんに2000万円くらいあげてもいいんじゃないかと思ったんだけど」
「やめとけ。後々経営が悪化したような場合に無心されるぞ。姉貴のこと大事に思うならお金は渡すべきじゃないし、そもそも話さない方が良い」
「でも誰に話そう。淳とハルちゃん以外には話さないようにしようと思っていても資金運用とかで誰かと話したくなる気がする」
「若葉ちゃんは?あの子はお金持ちだからお金貸してと言われる心配だけはない」
「そうだよね。若葉は引き込もう」
と言って、和実は4人目の名前として山吹若葉と書いた」
「あと政子さんにお金返さないといけないけど、それなら政子さんにも話さないといけないよね?」
「あの子はとっても危ない。言いふらすに決まってる。返済については冬子さんに話せばいい。どうせ政子さんは自分のお金がいくらあって、いくら使っているかとか把握してない。全部冬子さんが管理していると思う。冬子さんは秘密を守ってくれる。資産も1000億円を超えているから、あの人も借金を申し込んでくる可能性は無い」
「1000億円持っているんだ?だったら若葉は?」
「1桁上だと思うぞ」
「恐ろしい」
和実はお金のある所にはあるもんなんだなと思った。それで5人目の名前として唐本冬子と記入する。
「冬子が1000億なら千里は?」
「ほぼ同じくらいの資金力だと思う」
「じゃ千里にも話していいかな」
「あの人は問題無い。それに冬子さんも千里さんも人脈が凄いみたいだから色々役に立つと思うよ」
「じゃ千里にも話そう」
と言って和実は6人目の名前として村山千里と書いた。
「村山でいいんだっけ?旦那が死んだ後、もう籍抜いたんだっけ?」
「Wリーグには村山千里で登録しているみたいだし村山で多分いいと思う」
「ほほお」
むろん2人は千里の分裂は知らない。
「千里に話すなら青葉は?」
「まあ千里さんとセットと考えたほうがいいだろうな」
それで7人目の名前として川上青葉と書いた。
「もうこの7人だけでいいんじゃない?」
「そうしようかな。他の人には話さない」
その後、老後資金や教育資金に2億円リザーブしておいた方がいいよなどといったことも話すが、詳細は淳が到着してからにしようということになる。
淳は18:20くらいに伊藤君のアパートに到着した。
話を聞いて驚く。
「8億5千万って凄いね。大きすぎて感覚がつかめない」
「2万円のディナーを毎日食べても116年間食べ続けられる」
「20万円の海外旅行に毎週行っても76年間」
「850人の男の娘に性転換手術を受けさせられる」
「それ政子さんとかが言いだしそうな話」
「乗せたらやるかもよ。性転換基金とか作って、政子さんが審査して可愛いということで合格した子は即手術」
「第1号でアクアを強制性転換させるんだろ?」
「ああ、絶対そう言い出しそう」
「あとジャンボ宝くじの三連バラが9万5千セット買える」
「さすがにそういう使い方する人はいないだろうな」
伊藤君は自分が受けとった『「その日」から読む本』を淳に渡した。
和実は、この件は少なくとも親や姉には話さない方がいいと思うと言った。
「それがいいだろうね。お金のやりとりしたら必ず人間関係が壊れるよ。宝くじ当たった人でいちばんやりがちな誤りだよ。だからお金は誰にも告げないまま、使い道を決めて全部仕分けしてしまった方がいいと思う。老後の資金、希望美と明香里の教育資金に、そうだなあ、合計1億円くらい取っておいて、残りはお店の設備投資とかに使ってしまえばいいよ」
「老後資金と教育資金で2億かなと言っていたんだけど」
と和実が言うと
「それでもいいよ。2億取っておくつもりが多分色々必要なものが出て来て、最終的に1億残るかも」
と淳。
「ああ、ありそう」
8億5千万当たったことを言う人として月山和実、月山淳、伊藤春洋、山吹若葉、唐本冬子、村山千里、川上青葉と7人の名前をあげたことについては、妥当な人選だと思うとして、淳も追認した。ただ淳はこう言った。
「若葉ちゃんには、そもそも言う必要が無い。あの人にとっては8億なんて、ほとんどハシタ金だから。8億当たったというのは、僕らの感覚に直すと1000円当たったという程度」
「そうかも」
「じゃ若葉には特に言わなくてもよい、ということで」
と言って和実は若葉の名前を線で消した。
「使い道としてはまず銀行と政子への借金返済だよね」
「うん。それが第1優先」
クレールを作る時、銀行とは1.5億借りることで同意していた。しかし銀行の融資が下りるのは店の建物が完成して引き渡しされる時である。それだとお店で使うテーブルや椅子、食器等が発注できず、融資が下りてからそれを頼んでいたらお店の開店は夏くらいになってしまい、お店がまだ営業できないのに借金の返済だけ毎月しなければならなくなる。それでは開店前に倒産する。
それで政子が6000万円貸してくれたのである。それで早めにそれらを発注することができて、建物が完成してからすぐにプレオープン、内装が完成して春にグランドオープンすることができた。
政子から6000万円借りたことから、銀行の融資は1.2億に圧縮した。そして銀行から融資金が振り込まれたらすぐに政子に2000万返却した。これが2016年12月のことである。銀行には元利均等で毎月37万5042円ずつ返しているので2019年12月までに36回返して残金は1億925万3480円である。政子への返済は冬子からの申し出で当面保留することになっていたので4000万円まるごと残っている。
とにかくこの合計約1億5千万円をまず返済することにした。
「すると残り7億円で、教育資金・老後資金に2億円リザーブすることにして、あと5億円を使っていいことになる。この際、海外旅行とかにでも行ってくる?」
と伊藤君は言ったが、和実は言った。
「旅行なんていいよ。それより仙台市街地に新しいクレールのお店用の土地を買ってもいい?」
と訊いた。
「引っ越すの?」
「それも考えたんだけど、ここはここで意義があると言うんだよね。それに千里がここの隣の土地を買って、公園を作ると言っているから、それができたら、お客さん増えるかも知れないし」
「公園を作る!?」
伊藤君も淳も初耳だったので話を聞くと
「IR誘致とか言って、自分の懐も増やそうという魂胆だったのか」
といって2人ともQ議員のことで怒っていた。
「でもその山崎さんの意見もよく分かるよ。確かに周囲に住宅とか無いから気兼ねなく音を出せる」
「それで支店を作る場所の心あたりでもあるの?」
そこで和実は今日、TKRからの帰りがけに素敵な売り地を見たという話をした。
「そこ幾らなの?」
「8億円だって」
「足りないじゃん」
「それに建設費のことを考えていない」
「建設費はここと同程度と考えても1億5千万かかる。土地代に使えるのは3億5千万だけ」
「それなんだけど、千里が隣の土地を買った時に頼んだという必殺値切り人さんを頼もうかと思うんだよ」
「必殺?」
されで和実が説明する。
「20億を14億まで値切ったのか」
「凄いな」
「大阪のおばちゃんも負ける」
などと言われる。
「それもし4億円程度まで値切れたら頼むとかいう条件付きで頼めないのかな?」
「8億を4億というのは厳しいと思うよ。6億くらいが限界じゃない?」
すると淳は言った。
「6億は許容範囲だと思う。建設費はまた銀行から借りればいい。その土地を担保にすれば貸してくれるよ」
和実は土地を買っちゃうなんて言ったら、もっとよく考えろとかいって反対されそうな気がしたのに賛成してくれるって、淳も伊藤君も、理解のある人だなあと思って嬉しくなった。
「でもこれで淳さんはこちらに引っ越せるだろ?」
と伊藤君は言った。
「うん。きりのいい所で会社は退職させてもらってこちらで暮らすよ」
「やっと別居生活解消だね」
「宝くじ様様だな」
それで和実は必殺値切り人さんのことで若葉に電話した。
「ああ、土地を買うのね。いくら?」
「売主さんは8億と言っているんだけど、6億くらいまで値切ったりできないかなあと思って」
「8億って安いね。狭い土地かな。でもいいよ。行ってもらう。そこは今更地?」
「今は昭和30年代に建てたという古いビルが建ってるけど、売主さんが近いうちに取り壊すと言ってる」
和実は極めて大雑把な計画図を若葉にメールした。なおこちらで資金が用意できるのは今月下旬になるということを伝えたが、それは問題無いと若葉は言った。
「これ、解体はこちらでやるから、その分安くしろって交渉していい?」
「うん。それでいい」
「凄く短時間で、安い費用で解体できる所知っているから」
「そうか。若葉、建設会社作ったんだったね。そこに工事頼んでもいいよ」
「OKOK。多分相場よりかなり安くできるから。これ4階建てなら普通の解体工事屋さんなら解体に5千万掛かるけど、私が知っている所なら多分1千万でやっちゃうから」
「随分安いね」
「千里の会社で播磨工務店という所なんだよ」
「千里か!」
「千里にもこの件、話していい?」
「千里ならいい。ただ他の人には無闇に話さないで」
「OKOK。じゃ長谷川主水さんには、取り敢えず明日にも行ってもらうよ」
「中村さんじゃなかったっけ?」
「あ、そうか。中村平蔵さんだった。本人も冗談で南町同心・中村主水である、とか火付盗賊改め方・長谷川平蔵とか名乗ったりするから混乱して」
「それだけ聞くとお茶目な人っぽい。だったらよろしく」
値切り人さんの報酬は、交通費などの実費の他に、圧縮した額の1割ということで、和実もそれで了承した。報酬は翌月末くらいまでに払えば良いということだった。
なおお店の子たちには「3等の100万円が当たっちゃったよ」と言って、実際の100万円の札束(この程度は用意できる)を見せ、今度の土曜の午前中にお祝いのパーティーをしようと提案した。希望を募ったら、しゃぶしゃぶがいいという話になったので、仙台市内の梵天丸というお店でパーティーをすることにした。
またこの当選金の一部を使ってピザを焼くオーブンを買おうと思うというと、「あ、ピザ欲しいと思ってた」という意見がけっこうあった。
中村平蔵さんは翌日1月7日、仙台にやってきた。
現場に連れて行く。
「なるほど」
と頷いてから、レーザー測定器とかGPSとかで土地の寸法や方位などを測定して確認しているようである。どうも建物の材質とか工法なども確認している雰囲気だった。また近くをかなり歩き回ってはメモしていた。
「ここの登記、担保状況、都市計画、などを確認して明日また参ります」
「はい、よろしくお願いします」
その日の夕方、千里がふらりとクレールに来るので驚く。
「若葉から聞いたけど、新しいお店出すんだって?」
「うん。播磨建設さんだっけ?そちらに建設を頼もうかと言っていたんだけど」
「播磨工務店ね。念のため現場見せてくれる?見積もりを作らせるから」
「ありがとう!それも頼まなきゃと思ってた」
千里は車(オーリス)で来ていたので、その車に同乗して現場まで行った。千里は方位磁針を見ている。
千里は尋ねた。
「玄関はこの道路側に作る?」
「まだ何も考えてないけど、そうなると思う」
「すると西向きになるから和実の吉方位だよ」
「それはよかった」
「妖怪が住んでいて地縛霊も居たけど、今どちらも処分したからもう大丈夫」
「ほんと?ありがとう!」
「中村さんに伝えなよ。ここ絶対『出る』という噂があったはず。それを値切りの材料にすればかなりの値切りができると思う。大きな瑕疵(かし)だもん。きっとテナントが居着かなかったと思うよ、こんな便利な場所にあるのに」
「うん。伝えておく」
「買い取ったら青葉に結界作らせるといいよ。変なのが来ないように」
「それ頼もうと思ってた」
和実はこの霊的な処理の報酬を幾ら払おうかと尋ねたのだが、千里は
「御礼は別にいいけど、ここ買ったら地下にでもバスケットコート作らせて。その分の建設費と地代は払うから」
と言った。
「まあ地下ならいいよ」
地下ならバスケットの音は地上までは響かないだろうと和実も思った。
妖怪・幽霊の件は和実から中村さんに伝えたが
「うん。それはいい材料ですね。その分、余分に値切ってみせますよ」
と彼は言っていた。
それで1月8日、再度中村さんは仙台に来たが、自分ひとりで交渉するので、和実の立ち会いは不要ということだった。むしろ和実が聞いたらまずいこともあるのかもという気がした。
午後2時ころ連絡があり
「今解体はこちらでするということで4億8千万まで来たのですが、このくらいではどうでしょう?」
ということだった。
「充分です。それで妥結していいです」
「では月山様もこちらにいらしてください」
「行きます!」
それで和実は七夕不動産に向かい、契約書の内容を確認して売買契約書に署名捺印をした。
「それでは」
と言って、中村さんが助手の人(ボクシングか何かしそうな屈強な男性2人だった)に電話して、現金が詰まったジュラルミンケースを4個も持ってこさせて渡すので内心驚いたが、和実はその驚きを顔には出さず平然としていた。お店を出てから中村さんは説明した。
「5億7千万くらいが限度かなと思ったのですが、昨夜教えて頂いた幽霊の件であと9000万行けました。もう2000-3000万値切りたかったのですが、売主さんもなかなか頑張りましてね」
「いえ充分な金額ですよ。建築費で銀行から借りる額がかなり少なくて済むかも」
「あと値切りの材料で、今すぐ現金で支払うということにしたので、用意していた現金で払いました。実際の額は山吹様に月山様の方から払って下さい」
「分かりました!一応一昨日も山吹さんには伝えたのですが、こちらはお金が入ってくるのが多分今月下旬になると思うのですが」
「ゆっくりでいいと思いますよ。山吹様は8億円程度全然気にしませんし、私の報酬も事前にお話ししましたように来月末までに頂ければ問題ありません」
「ああ、やはりそういう感覚なんですね」
「私も一緒に仕事をしていて時々呆れますが、だいたい一般人の感覚から10万分の1にしてだいたい似た感覚になります。ですから山吹様にとって8億円は普通の人にとっての8000円くらいです」
「凄いなあ。でも現金って、振込じゃなくて本当の現ナマだったんですね」
「まあ現金のやりとりは記録が残らないのがいい所なんですよ」
「なるほどー」
中村さんの助手はやはり2人ともボクシングの元選手だと言っていた。
「飾り職人の秀君と何でも屋の加代さんです」
と中村さんは紹介した。
「ほんとに仕事人みたいですね。でも加代さんって女の人みたいな名前」
と和実が言うと、
「ああ、私女ですよ」
と加代さんは言った。
和実はジョークなのかマジなのか判断に悩んだ。もしかしてMTF?あるいはFTM??声は普通に男性の声に聞こえたけど?
中村さんはわざわざ和実を車でクレールまで送ってくれた。
別れた後、和実は若葉に御礼がてら電話をし、下旬に予定している入金があった所で、立て替えてもらった4億8千万と値切った金額の1割3200万円の合計5億1200万円を若葉の口座に振り込むことで了承してもらった。淳が言っていた通り、若葉はそのお金の出所(でどころ)は全く詮索しなかった。
更に若葉は言った。
「私、仙台にもムーランを作ろうかと思っていたんだど、その和実の新しいお店の駐車場に1個出店させてもらえない?」
「飲食店の庭に飲食店を置くの〜〜?」
と和実はさすがに驚いて言う。
「競合しないと思うよ。むしろランチ食べた人がカフェでコーヒー飲んだりするんじゃないかな」
「ムーランでテイクアウトして、うちの店内で食べたりして」
「その場合は最低1ドリンク買ってということにしたら?あ、そうだ。ムーランでコーヒー券付きのお弁当を販売して、そちらで座って食べてよいとかできない?」
和実は少し考えた。
「それ悪くない気がする。win-winで」
「ちなみにトレーラーを駐められる程度の駐車場はあるよね?」
「奥行き45mで建蔽率60%だから、前庭は奥行き18mくらいは取れると思う」
「あの付近は建蔽率80%だと思うけど」
「嘘!?」
「これ会って打ち合わせた方がいいね。明日にもそちらに行っていい?」
「歓迎、歓迎。そうだ。千里が地下にバスケットコート作らせてなんて言ってたんだけど」
「じゃ千里も呼ぼう、私が連絡しておくよ」
「うん。じゃお願い」
それで若葉と千里は翌1月9日(木)クレールを訪れ、和実の自宅の方で打ち合わせた。若葉のRX-8をふたりで交替で運転してきたらしいが、よく若葉の運転する車に乗るよ!と和実は思った(若葉に乗せてもらった人の多くが2度目の同乗を辞退する!)。
「これ建蔽率80%で建てちゃうと、前庭は9mくらいしかないから、2列駐車できない。すると9台( (33-5)÷3 = 9.3 )しか駐められない。延べ床面積が3000m
2としても駐車場規制で最低15台分の駐車場を確保しないといけないから、建蔽率60%の基準で建てた方がいい気がする」
「あるいは地下駐車場を作るかだよね」
「その手もある。この面積なら地下駐車場を作った場合、建蔽率80%の計算なら建物は32m×37mくらい (33×45×0.8÷32=37.1) として、たぶん25台近く駐められると思う」
「駐車場を地下1階に作って、私のバスケットコートは地下2階かな」
「それがいいね。駐車場が下なら進入が大変」
「でも地下駐車場は無断駐車されないよね?」
「うん。お店で駐車券の無料化処理してもらわないと高額の駐車料金を払わないといけなくなるからね」
「ところでムーランのトレーラーレストランってサイズは?」
「長さ10m 幅3.2m デッキも入れたら4.6m かな」
「建蔽率80%で建てちゃうと入らないじゃん」
「あ、そうか。だったら10mのトレーラーが置けるサイズの前庭にしてよ」
「それ12mあればいい?」
「待って。トイレはクレールのを利用させてもらうのでトイレユニットを省略する前提でこちらは12mあれば充分だけど、地下駐車場を自走式にするならそのスロープを収められる長さにしないといけない」
「自走式以外の選択肢は?」
「カーエレベーターあるいは機械式駐車場」
「機械式は敷地的に厳しい。カーエレベーターは、ぶつける人が続出しそう」
「警備員が上と下に1人ずつ常駐する必要があるね」
「それ費用が恐ろしい。やはり自走式の一択だな」
基準に沿って計算してみたら、高さ2.3mまでの車が進入できるようにする場合、前庭は13mあればよいことが分かる。
(傾斜路の最初と最後の3.5mの勾配は1/12以下、その途中は1/6以下でなければならない。3.5mの間に3.5/12=0.29m沈む。2.3mの車が建物の端を通過する時、床の高さを50cmとして、2.3-(0.5+0.29)=1.51m沈む必要がある。傾斜1/6でこの高さ沈むには水平距離は 1.51x6=9.06m必要である。最初の3.5mと合わせて12.56m前庭は必要ということになる。13mある場合は237cmの車まで通過できる。なおランクル・フォレスタ・パジェロが225cmである。ハイエースはもっと低い211cm)
「入口の所に高さ230cmのゲートを立てよう」
「よく地下駐車場の入口に立ってるよね」
「建物にぶつけられたら困るからね」
「前庭が13mなら、敷地境界と建物の間に最低必要な50cmも引いて45-13-0.5=31.5 で奥行き31.5m、間口32mの建物が建てられることになる。
「奥側のマージンは0.5mでもいいけど、両脇のマージンは1mずつ取らない?万一の場合の避難路と考えると50cmでは通れない人がいる」
「ダイエットして欲しいな。でもわりと余裕あるし1mずつ取ろうか。だったら間口31m 奥行き31.5mということで」
「家賃はいくらくらいにしようか?」
と若葉が訊く。
「家賃とか居るんだっけ?庭を使うだけなのに」
「地人の敷地を占有すれば当然必要。トイレも借りるし、できたら電気も借りたい」
「ああ、それは問題無い。水道・下水・ガス使っていいよ」
「じゃ水道と下水道も借りちゃおう。ガスはトレーラーレストランの性質上プロパンガスの器具そろえてるから都市ガスは使えないのよね」
「なるほどー」
「このビルは他に何かお店入れるの?」
「全然予定無い」
「だったら2階も貸してくれない?仙台事務局と食材置き場、ついでにセントラルキッチンを作りたい」
「そこでまとめて調理するんだ?」
「大半はファミレスチェーンのブルーフィンに作ってもらっているんだけどね。それ以外に自家製のソーセージとか作りたいなと思ってるのよ」
「そういうのいいね」
「じゃさ2階を私が使うということで、建築費の何割か私に出させてもらえない?」
と若葉は言ったが
「それ私も言ってた所」
と千里が言う。
「だったら面積比率か何かで建築費を分担すればいいな」
と若葉。
「取り敢えず店内の部屋の配置とか考えてみようよ」
それで現在のクレール本店の部屋配置を参考にホワイトボードに書き出してみた。これはとても楽しい作業で5時間くらいがあっという間に過ぎた。
↓1F(地上)のレイアウト
↓2T・3Tのレイアウト(暫定版)
1階(地上図)の前庭右手にあるのは空堀りの開口部である。お店に近い部分は高度(17m)もあり危険なのでグレーチングを敷いておく。地上駐車場の1つには電気自動車用の充電設備を設置する。充電している間にカフェラテでもどうぞという趣旨である。
2T 3T というのはテラス席である。これを2階・3階と考えると若葉のムーラン仙台本部は4階と言うべきかも。
若葉がヨーロッパ旅行や出張をしていて18世紀に建てられたシューズボックス型のホールも多数見ていたのだが、そのようなホールにはしばしばこのような「バルコニー席」が設けられていて、1ランク上の座席として人気らしい。
「更衣室は男子更衣室と女子更衣室だけでいいんだっけ?」
「他に何があるのさ?」
「男の娘更衣室とかは?」
「女子更衣室使う自信無い、あるいは容認してもらえないレベルなら多目的トイレ使ってもいいよ」
「その手があるか」
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【春気】(1)