【春合】(1)

前頁次頁目次

 
12月15日(日)、貴司たちのチームMM化学サウザンド・ケミストラーズは今期リーグの最終戦に臨み、優勝して有終の美を飾った。これでこのチームの活動は終了し、来季からは今回4位だったHH交通ハイ・イーグルスに合流する。ただし、今回MM化学が優勝してしまったので。あらかじめリーグ側と話し合っていた内容に基づき、手続き上はサウザンドケミストラーズを存続チームとし、そのチームがハイ・イーグルスと改名して運営企業もHH交通に変更するという形を取る。この結果HH交通は来年は上位リーグでプレイできるのである。
 
貴司以外は全員(新)HH交通に移籍するが、行き先の決まっていなかった貴司自身について、関東地域リーグに所属する埼玉県川口市のTT事務機という会社のチームの監督をしている新庄さんという人が貴司を誘ってくれた。新庄さんは以前大阪実業団リーグの覇権をMM化学と争っていたAL電機に所属していて貴司をよく知っていたのである。
 
貴司は美映に相談した。彼女は生まれてからずっと関西に住んでいたので、関東への移住に不安を訴えた。
「だめかなあ。だったら不本意たけど、バスケはやめて普通の会社の仕事先を探そうか。この際、僕もどんな仕事でも頑張るよ」
と貴司は言ったのだが、すると美映は
「バスケはやめないで欲しい。だったら不安はあるけど埼玉に行くよ」
と言った、
 
それで貴司たちの関東への引っ越しが決まったのであった。
 
おりしもMM化学は大量の希望退職を募っていたので、それに応募し、1月いっぱいでの退職が決まった。それでTT事務機への入社は2月3日(月)付けということにした。引越先のマンションも新庄さんが会社への通勤に便利な場所を川口市内で探してくれた。
 
運送会社には1月16日(木)に予約を入れた。実際は1月31日(金)まではこちらで勤務するが、下旬になると運賃相場が上がり出すので、その前に荷物を運んでもらうのである。残りの半月は最小限の道具と衣類で過ごし、その分は最終的に宅急便で送ったり自分たちで運んだりする。そういう訳で姫路での生活は6ヶ月間で終わることとなった。
 

「そうだ。引越のついでに、古い服とかは捨てていいよね?」
「うん、まかせる」
 
それで美映はごく少数買っていた、緩菜の“男の子用の衣類”を全て捨ててしまった。
 
「だって女の子にはブリーフとか不要だよね〜」
などと独り言を言っていた。実際緩菜にはちんちんなど無いのでブリーフの前開きは使い道が無い。
 
「緩菜、女の子にしてはクリちゃんが大きめかもと思ってたけど、夏すぎくらいから小さくなって普通の女の子サイズになっちゃったし」
などとも美映は独り言で言っていた。
 

12月17日、春先の海外合宿中に倒れ、緊急入院して白血病の治療をしていた水泳短距離の池江璃花子選手が治療の山を越え退院したことを公表した。さすがに東京オリンピックは断念するも、4年後のパリ・オリンピックを目指す、と前向きなメッセージを出していた。
 

12月23日(月−祝日ではない!)、青葉は卒業論文を提出した。後期試験が若干残っているが、これで青葉のカレッジライフもだいたい完了である。
 
その翌日、12月24日、青葉は〒〒テレビの『新人アナウンサー紹介・ご自宅訪問』という番組の撮影に出ることになった。この番組は、今年の春、〒〒テレビに入社する予定の新人アナウンサーを自宅に訪ねて家族ごと紹介するという趣旨の番組である。
 
その話を12月19日になって青葉から聞いた朋子は仰天した!
 
(青葉は先月の内に聞いていたのだが、なーんにも考えていなかった。卒論と水泳で忙しかったのもあった)
 
朋子としては、とてもじゃないが、そのままテレビに映す訳にはいかないというので、桃香と千里を“掃除”のために東京から呼び出した。桃香が彪志にも連絡して、彪志も掃除のためにわざわざ休暇を取ってきてくれた。
 
それで早月と由美の世話を桃香にさせておいて、朋子・千里・彪志・典子(朋子の妹:高岡市内在住)と典子の娘(桃香の従姉)観月の5人で部屋の大掃除を3日がかりで行った(典子の夫と観月の夫も夕方以降手伝ってくれた)。ふすま紙も貼り直し、古ぼけて穴が開いたりしていたカーテンも新しい明るい色調のものに交換した。本やCDの類いが本棚に入りきれないので、彪志がニトリで本棚を1個買ってきてくれて、そこに頑張って収納した。青葉が楽曲制作に関わり謹呈されたCD全てを並べたが、これがなかなかの壮観だった。
 

今年のアナウンサーの新人は、青葉ともうひとり森本メイさんである。森本さんは美由紀と同じ金沢G大学の出身で、英文科をトップの成績で卒業した才媛。1年生の時に同大学のミスコンでも優勝したという超美人である。青葉は24日の朝、初めて彼女と会って
「すっごーい!」
と言ったのだが、彼女の方は
「ええ?水泳の日本代表候補なんですか?すごーい!」
などと言っていた(日本代表の発表はこの日夕方)。青葉が霊能者“金沢ドイル”とか作曲家・大宮万葉であることはまだ知らないようである。
 
この日は午前中に加賀市内の森本さんの実家を訪問した。
 
森本さんは実際には金沢市内南部にアパートを借りていて、そこから通勤するのだが、1Kのアパートを映してもしかたないので実家でのレポートになった。
 
この家がなかなか素敵なおうちである。総檜造りの平屋建てで、部屋数は10個あるらしい。車庫にはレクサスLS-600h(父用)とテスラS(母用)が並んでいる。お父さんは銀行の支店長をしているそうである。お茶を出してもらったが上等の八女の玉露で、茶器は今右衛門である。説明される前に青葉が気づいて「すごーい!今右衛門だ!」と言ったので、お父さんはご機嫌だった。
 
青葉がレポーターになって、彼女の御両親やお姉さんにもインタビューした。森本さんも美人だが、お姉さんも凄い美人だった。ソニーに勤めているのだが、過去にミス・ソニーになったこともあるらしい。お母さんも凄く可愛い人で、凄く若い。22歳と24歳の姉妹の母だから、40代のはずだが、まだ31-32歳くらいに見える。美人って、やはり家系なんだなと青葉はつくづく思った。
 

そして午後からは高岡に移動して、青葉の家のレポートとなる。レポーターは交替して今度は森本さんが務める。森本さんの家が豪邸だったのでこちらは庶民派だ。「日東紅茶にダイソーの茶器でごめんなさい」と言っておく。
 
朋子、早月を抱いた桃香、由美を抱いた千里(千里1)に森本さんがインタビューする。
 
「みなさん、青葉さんのお姉さんですか?」
「はい、お兄さんではなくお姉さんです」
「1人年の離れたお姉さんもおられるようですが」
「実は妹なんです」
 
色々話を聞いている最中に、訪問者がある。WNBAに行っている花園亜津子であった。
 
亜津子は久しぶりに帰国したのだが、千里に会おうと思って電話したら、亜津子が持っている電話番号が1番のものだったため(*1)、高岡にいると聞く。それで、わざわざこちらまで来てくれたのである。つまり千里1は実はこの撮影中くらいにたぶん亜津子が来ると知っていた。
 
(*1)2018.01に千里1が新しいガラケーを買った時、新しい電話番号を知り合いに多数送信した。亜津子は以前の電話番号(千里2のガラケーにつながる)をその番号で上書きしてしまったので、彼女のスマホには千里1の新しい番号だけが残ることになった。
 

撮影クルーは想定外の来客に困惑するが、森本アナは亜津子を知っていた。
 
「WNBAでご活躍中の花園亜津子さんですね?」
と言うと
「ええ。久しぶりに帰国したので千里ちゃんに会いに来ました」
と言う。
 
「お姉さん、花園さんの知り合いですか?」
「彼女とは古くからのライバルで彼女も日本代表ですよ」
と亜津子は言ったのだが、千里(千里1)は
「日本代表なんて過去の栄光です。もうだいぶ代表活動から遠ざかっているし」
などと言う。
 
亜津子が怪訝な顔をするが、1番としては2017年夏に代表落ちして以来、なかなか昔のレベルまで戻れないでいるという認識である。亜津子としては千里は日本のWリーグでも日本代表でもバリバリ活躍しているという認識である。
 
亜津子が
「シュート対決で私は彼女に勝てたことがない」
などと言うため、森本アナウンサーの提案で、花園亜津子 vs 「川上青葉のお姉さんの専業主婦」のシュート対決が行われることになった。
 
それで森本さん・青葉・撮影クルー、花園亜津子、千里というメンツで津幡の火牛アリーナに移動する。そして青葉が返球係を務めてスリーポイントシュート対決が行われることになった。
 

撮影の責任者である報道部のディレクターさんは千里の素性を知らない。それで最初は5分も掛からないだろうと思っていたようで、色々冗談なども言っていたが、亜津子も千里も全くシュートを外さないので、何も言葉を発せなくなり、無言で2人の対決を見ていた。カメラマンも驚きながらも2人のシュートを撮影する。ADさんがハンディカメラで、2人の表情を主に撮影していた。
 
2人は交互に撃っていたのだが、127本目で、亜津子が外し、千里が入れて勝負は決した。
 
「すごーい!川上さんのお姉さん、WNBAプレイヤーに勝っちゃった」
と森本さんは言ったのだが、千里は言った。
 
「いいえ。私の負けです。花園さんのシュートはほとんどがダイレクトでゴールに飛び込んでいました。私のは半分くらいが、リングとかバックボードに当たってから入っています。シュートの精度で私の完敗です」
 
そして撮影終了後、亜津子も千里に言った。
 
「勝負としては私が負けたけど、自分でも言ってたように、サン、どうしたのさ?あの不正確さは。オリンピックまでにきちんと調整しておけよ」
 
「オリンピックなんて、そんなのに出してもらえたらいいけど」
と千里が言うと
 
「サンは、昔からそうだからいけない。『私が日本を優勝させます』くらい言えよ」
と亜津子は言っていた。
 

青葉は12月24日の日中に『新人アナウンサーお宅紹介』の撮影をした後、夕方には北陸近辺の友人たちと一緒にクリスマス・パーティーをした。そしてその後、夜通し車(赤いアクア)を運転して大宮に行き、明け方彪志のアパートに転がり込んだ。買ってきたお弁当を朝御飯代わりに彪志に渡し
 
「あなた、行ってらっしゃい。お休みなさい」
と言って彪志が抜け出した布団に代わって潜り込んでそのまま熟睡する。お昼過ぎに起きると、買物に行き、フライドチキンやシチューなどを作って、少し掃除もするが、夕方には新宿に出かける。
 

そしてTKRでアクアのシングル『あの雲の下に/白い翼で』の発売記者会見に出席した。両A面のシングルだが、前者は12月30日に放送する4時間ドラマ『The源平記』の主題歌、後者は1月から3月まで放送される『少年探偵団III』の主題歌である。コスモス社長、和泉、千里、三田原部長と一緒に会見席に並んだが、質問にはほとんどコスモスが答えてくれるので、こちらは割と楽だった。
 
記者会見は18時から始めて19時すぎまで続き、そのあと大宮に帰宅したのはもう21時近くである。しかし彪志はまだ帰ってきていなかった。どうも仕事が忙しいようだ。帰宅したのはもう23時すぎだった。キスして「お帰りなさい」を言い、シャンパンを開けて乾杯し、チキンとシチューを温めて一緒に食べた。そして幸せな一夜を過ごした。
 
12月26日から28日までは毎日深川アリーナに通ってプールで泳いだ。そして29日の午後、ローズ+リリーのカウントダウンライブに出演するので、新幹線としらさぎで敦賀まで移動した。マイクロバスで迎えにきてもらったのでそれで何人かの演奏者と一緒に小浜に移動する。友人の世梨奈と美津穂は夕方頃到着した。
 
「彪志君連れてこなくてよかったの?」
「彼氏連れで仕事しに来る人なんて居ないよ。それに向こうは年末年始は忙しいみたいだし」
「ああ、病院も忙しいしね」
「そうなんだよ。薬が足りなくなって緊急に持って行くとか連休や年末年始には多発する」
「ほんとに大変そうだ」
 

3人とも卒論は提出済みなので余裕である。世梨奈が後期の授業料を冬子から借りたと聞いて美津穂は呆れていた。
 
「まあ2月のツアーのギャラの前払いということで」
「授業料はそれで完納だからもうこれ以上借りる心配は無いけど」
 
「2月のツアーは青葉も美津穂も参加?」
「うん。参加参加」
 
「私はこういうの最後になっちゃうかも知れないけどね」
と美津穂が言う。
 
「冬子さんのお友達の詩津紅さんは会社勤めなのに毎回参加してるよね?それ以外に音源制作にもかなり出ているみたい」
「有給休暇取っているらしいけど」
「どう考えても、普通の会社の有休日数を上回っている」
「もう会社から諦められているらしいよ」
「それでクビにしないのは凄い会社だ」
「いや、時間の問題という気がする」
 

「そういえばみんな就職は?」
 
「私は〒〒テレビにアナウンサーとして入社」
と青葉。
「私はX電子工業にカウンセラーとして入る」
と美津穂。彼女は富山市のT大学人文学部心理学科である。
 
「うつ病とか発症する人が多そう」
「正直、こちらが精神力持つかなという不安はある。でも初年度は私はアシスタントだから」
「メインの人が倒れて即メイン扱いになったりして」
「うーん・・・」
「逃げるは恥だが役に立つからね」
「うん。それ自分自身に言わないといけないかも」
 
「世梨奈は?」
彼女は金沢市のH大学の国際創造学科である。
 
「私はJ交易という会社」
「ごめん、知らない。何の会社?」
「さあ」
「知らないの?」
 
「何かパンフレットもらったけど、よく分からなかった」
「自分でも分からない会社に入るんだ?」
 
「交易というから、何かの輸入業者かな」
などと本人は言っている。
「タクラマカン砂漠に出張命じられたりして」
「それミルクロードだっけ?」
「シルクロード!」
「ミルクロードは阿蘇だな」
「牛が沢山いるから、ミルクの川が流れてるの?」
「いつも霧が出ていてミルクで覆われているかのように視界が利かないんだよ」
 
既に本題は分からなくなっている。
 

12月30日のお昼頃、冬子と政子が到着するので、それから会議をして、リハーサルも行った。過去のローズ+リリーのライブではステージへの出入りが物凄く複雑で大変だったのが、かなり簡易化され、楽になっていた。これも楽器の数を減らした効用のようである。また、引っ込んですぐ出てくる場合は出入りするのだけで大変だから、そのままステージに居てということにしたのも大きい。
 
12月31日には、朝9時からゲートを開けて客を入れる。一般客は身分証明書を照合しながらで大変だが、ファンクラブ会員は会員証タッチと顔認証で通れるので楽である。それより前に出店関係者は入場しており、既にお店を開けている所もある。
 
青葉・世梨奈・美津穂の3人はお店が出ているサイドストリートを眺めて歩いていたのだが、行列ができているのにどんどんはけている店がある。
 
「あ、制服が可愛い」
と世梨奈が声を挙げる。
 
「マベルだね」
と青葉。
 
「何のお店?」
「京都のメイド喫茶だよ。“私の可愛い人” Ma Belle.」
「どこの言葉? アラビア語?」
と世梨奈が言うと美津穂が
「フランス語だよ。ついでに世梨奈ってフランス語は専門なのでは?」
「フランス文化専攻だった」
「フランス語できないの?」
「ボンジョルノくらいは分かるけど」
「それはイタリア語!」
「あれぇ?」
 
「でもこれだけたくさん女の子がいたら1人くらい男の娘が混じっていても分からないよね」
「そのくらいは居るかもよ」
 
青葉は中で働いているメイドの中に和実を見る。
 
「あ、和実だ」
「お友だち?」
「そうそう。あの子は仙台で同系統のメイド喫茶クレールというのをやっているんだけど応援に来たのかな」
 
向こうもこちらに気づくと手を振っていたが、忙しそうなので声を掛けるのは控えた。メニューはドリップコーヒー・カフェオレ400円、カフェラテ500円、オムライス800円(全て税込み)ということだったので、青葉が2人には「おごるよ」と言って、カフェラテとオムライスを3個ずつ注文した。Paypay、しかも楽なバーコード払いで払えるので、小銭のやりとりも不要だし間違いも起きにくい。お店側もかなり楽だろう。Paypayのシステムは主催者側で用意したようである。
 
「ラテアートが美しい!」
と声があがる。
 
模様はランダムのようで、青葉のはリーフ、世梨奈はレイヤーハート、美津穂はローズだったが、どれもこのまま保存しておきたいような美しさである。世梨奈が3つともスマホで写真を撮っている。
 
「よくこれだけ客が来る中でこんなの作ってるね」
「だからカフェオレより100円高いんだろけど、これ見たらみんなカフェラテを頼むと思う」
「あとでまた来てみよう。別の模様も見たい」
「同じ模様になったりして」
「それは確率の問題だな。模様は何種類あるんだろう?」
「和実は100種類くらい作れるらしいよ。普通は5種類くらいの人が多いみたい」
「5種類としても、再度来れば別のに当たる確率は結構ある気がする」
 
(5種類のみの場合で3人で再度買いに行き新しい模様に当たる確率は1-0.63= 0.784 約8割の確率で別の模様を見られる。正確な所は個々の制作者が使えるパターンが個々に異なるのでその情報が無い限り計算不能)
 

夕方から§§ミュージックのタレントたちによる前座が始まる。今井葉月はドレスを着て、東雲はるこ・大崎志乃舞に伴奏してもらってカーペンターズのナンバーを歌っていた。普通に女性歌手にしか見えない。
 
この子は既に自分の性別を忘れているよなあ、と青葉は思った。この子がもし暴走中の千里1と握手していたら完全に女の子に変身していたろうなどとも考える。
 
実は既に性転換していたりして!?
 
この前座中に再度マベルにカフェラテを買いに行ったら、チューリップ、ロゼッタ、パンダに当たった。
 
「パンダは技法が違うね」
「うん。これは注ぎ口だけで作ったものではなくて、その後コーヒースティックでお絵描きしている」
「複雑な模様はその手法でしか作れない気がする」
「でもロゼッタみたいな凄い模様を注ぎ口だけで作る人も凄い」
「誰でも習えばできるようになるのかなぁ」
「いや素質もある気がする」
「うん。私とか絶対無理」
と世梨奈。
「素質というより性格かもね」
と青葉は言った。
 

ローズ+リリーが出演する本編は22時から始まり、青葉は篠笛で2曲、フルート1曲、アルトサックス1曲、そしてキーボードで5曲に参加した。世梨奈は全てフルート、美津穂は全てクラリネットである。
 
演奏が終了したのは0:15くらいで、その後ミューズセンター内の会議室に入り、打ち上げに参加する。小浜市議さんの音頭で乾杯した後宴会となる。冬子、加藤課長、も感謝の言葉を述べた。
 
ここは焼き肉ができるように排煙をしっかり作ってあるので、但馬牛の焼き肉をしていたが、美味しかった。他に様々なオードブル、飲み物、ケーキなどもある。
 
青葉は秋乃風花さんや近藤妃美貴さんなどと話していたが、1時頃秋乃さんが「飲んべえは放置して寝た方がいいよ」と言うので、世梨奈・美津穂と一緒にケーキを1個ずつ持って引き上げた。出る時飲み物とおやつのキットカットをもらった。部屋ではケーキは冷蔵庫に入れて、シャワーを浴び、ぐっすり眠った。
 
1月1日朝はミューズセンターの食堂で、おせちとお雑煮を食べ、お昼のサンダーバードと北陸新幹線で世梨奈・美津穂と一緒に高岡に帰還した。
 
敦賀12:0213:20金沢13:28-13:41新高岡-
 

高岡の自宅に戻った青葉は郵便物の中にB5サイズの大きな封筒があるのを見た。差出人は津幡町役場である。何かの書類だろうかと思って開いてみたら津幡町の広報誌1月号であった。
 
青葉はページを開いて吹き出した。
 
“火牛スポーツセンター体育館落成”
 
という大きな文字が躍っていたのである。
 
町長さんったら、結局勝手に“火牛”にしちゃってるよ!
 
それで折角“エグゼルシス・デ・ファイユ津幡”という名前を付けたのに、一般には“火牛スポーツセンター”あるいは“火牛アリーナ”と呼ばれるようになり、数ヶ月以内に各社のカーナビにもその名前で登録されてしまうのである。
 
更に・・・・・
 
小浜で冬子からもらったローズ+リリーの2月のツアー日程表を見ていたらしっかり、このように書かれていた。
 
2.22(土) 石川県・津幡町火牛アリーナ(10000)
 
なんで私が承認もしていない名前を冬子さんがもう先に使っている訳??
 
(犯人は千里姉以外考えられない)
 

ローズ+リリーのカウントダウン・イベントに出演した中で、信濃町ガールズなどの§§ミュージック関係者およびマリ・ケイらは、1月1日の朝の新幹線で博多に移動し、アクアのお正月ライブに出演、あるいはサポートなどをした。
 
ライブの後で恒例の§§ミュージック新年会が行われたが、その会で多数の所属タレントと楽しく会話しながら、アクアは不安を覚えていた。
 
アクアは3月には高校を卒業する。これまでは(建前としては)仕事は学校の授業が終わった放課後と休日のみということになっていたものの、高校を卒業した以上、毎日朝から晩までひたすら仕事をするようになりそうな気がして、いくら自分が3人いても、体力持つだろうか?という不安を感じていた。
 

龍虎の高校卒業で、龍虎以上に不安を感じているのは来年度は高校3年生になる今井葉月である。彼はアクアがデビューして以来、仕事の引き合いが多いアクアのボディダブルや、リハーサル役をしてきた(リハーサル役は初期の頃は高崎ひろか、次いで白鳥リズムがしていたが、ひろかも忙しくなり、リズムもデビューしたので西湖に回ってくるようになった)。
 
アクアがまだ高校生の内は、仕事をするのは、平日の夕方以降と土日祝日に限られているものの、彼が高校を卒業してしまうと、毎日朝から晩まで仕事をすることになり、その代役を務める西湖も休日だろうと平日だろうと構わず呼び出され、全く学校に行けなくなってしまうのでは?と不安を感じていたのである。
 
「ボク、高校は中退することになるかも知れないな」
と西湖は考えていた。
 

12月24日に収録された『新人アナウンサーお宅紹介』と花園亜津子・川島千里のシュート対決は〒〒テレビでは1月2日(木)のローカル番組で放送されたのだが、ローカルだけではもったいないと言われて、シュート対決だけは1月4日(土)の全国放送のバラエティ番組の中でも放送された。
 
石川・富山の視聴者は『霊界探訪』を見ているので、千里の素性も知っていたのだが、千里1が髪を短くしていたこともあり、他の地域の視聴者の大半が亜津子と対決した人物・“川島千里”の正体が分からなかった。しかし、佐藤玲央美が
「髪が短いように見える髪型にしていたから、分からなかった人も多いだろうけど、あれは村山千里ですよ」とツイッターでコメントしたら
 
「なんだ!村山だったのか」
「道理で」
「髪が長くないと全然分からん」
「さすが2人の対決は見応えがある」
という反応になった。
 
「でも川島って何?村山は結婚したの?」
という質問がある。それに対して玲央美はこう答えた。
 
「2年前に実は結婚したんだけど、新婚3ヶ月で夫が事故死したんですよ。2018年のワールドカップでいまいち不調でスリーポイント女王を取れなかったのも、そのせいですよ。Wリーグや日本代表での登録名はチームや協会との話し合いで旧姓のままにしたみたい」
 
「新婚3ヶ月で旦那が事故死?」
「なんて悲惨な」
「いや、その精神状態でワールドカップに出ただけでも凄い」
 
とネットの住民たちはコメントしていた。
 

この亜津子と千里1のシュート対決をテレビで見て千里3は千里2に電話した。
 
「どうも時が来たみたい。1番はかなり回復した。私があの子もらっていい?」
「いいよ。ここまできたら、私かそちらかと合体したほうが色々やりやすいと思う」
「パスポートも2個しかないから、2人の方が都合いいよね」
 

それで翌日1月5日、千里3は新幹線で高岡まで行くと、桃香・朋子・青葉が不在であるのを確認した上で、高園家を訪問する。
 
自分が入って来たのを見て千里1は驚愕する。
 
「誰?あなた?」
「たぶんあなたと同一人物」
と千里3は語った。
 
千里1の後ろに付いていた子たちの中で、いまだに千里の分裂に気づいていなかった数人(たいちゃん・とうちゃんなど)も驚愕している。
 

千里3は千里1に言った。
 
「テレビ見てびっくりした。だって自分がテレビに出ていて、あっちゃんとシューター対決してるんだもん。ここ3年くらい、ずっと疑問に思っていた。自分が完全ではない気がしていた。それは私が分裂していたからだったんだ。あの4月16日・落雷の夜以来」
と千里3は言った。
 
「私たちどうなるの?」
と千里1。
 
「ひとつに戻ろうよ」
「ちょっと怖い」
 
「怖くないよ。私たちはどちらも消えるわけでもない。分裂していた身体をひとつに戻すだけだよ。お互いの意識は残るはずだよ」
 
それでふたりは同じ方向を向いて並んだ。
 
明るい光がふたりを包み込み、やがて2人の千里は合体して1人になった。
 
『特に何も変わってない気がする』
『まあそのままだよね。お互いの意識はそのまま生きているし』
『じゃ、この後は私たちは1人の千里としてすごしていけばいいのね』
『分離しようと思ったら分離できるよ。だから仕事が忙しい時は分離して仕事しようよ』
 
『楽しそう』
『2人になっていたら、食費は倍かかるけど』
『飛行機で移動するときは合体していれば1人分の運賃で済むね』
 
千里1と3はひとつになった体内で、微笑みあった。
 
この千里1と千里3が合体した状態を《くうちゃん》は《千里4》と呼んだ。1+3=4という趣旨である。この後しばらく千里は2番と4番の2人の状態で活動することになる。
 
最終的に1人に戻るのは、もう少し先である。
 

千里4は髪をアップにして髪が長いのが分からないようにしてその日は1番のような振りをして過ごした。
 
お昼頃、西湖(今井葉月)から電話があり、何か深刻な相談があるということだった。千里は明日東京に戻るから、それからでもいい?と言い、彼の仕事が終わる23時頃に、彼のアパートで会うことにした。
 
その日、朋子は16時頃、桃香は18時頃戻って来た。桃香がお惣菜のトンカツを買ってきていたので、千里がお味噌汁を作って、それで晩御飯にした。
 
そして晩御飯が終わると千里は
「チームの活動が始まるから」
 
と言って、晩御飯の後、早月・由美・桃香を高岡に置いたまま、最終新幹線(高岡20:49-21:04富山21:20-23:32東京)でひとり東京に戻った。
 

そして翌日1月6日(月)、球団事務所に行くと言った。
 
「3年前の夏以来、精神的に不調に陥って、“村山千里”と“川島十里”に分裂したかのような状態になって、チームにもご迷惑おかけしましたが、1人の千里に戻ることができましたので、2軍の川島十里の登録は抹消してください」
 
球団では本当に千里が元気になっているようなので歓迎し、2年半にわたって2軍に在籍した“66.村山十里/川島十里”は消滅。1軍選手で日本代表の33.村山千里のみが残ることとなった。
 
新しい千里(千里4)は川崎のマンションを正式の住所とする。名古屋でのガス爆発事故以来、実は千里1は住所不定状態にあったのだが、3番に吸収される形でやっと住所が定まった。1番は「こんなところにマンションがあったのか」と驚いていた。
 

龍虎(アクア)は中学時代から多忙なタレント活動をしていて、学校の勉強もままならない状態だった。あまりにも忙しすぎて、2016年の夏フェスでは歌唱中に倒れてしまったほどである。2017年春に高校に進学するが、義務教育ではなくなったこと、高校進学とともに東京に引っ越したことで、これまで以上に忙しくなり、体力もつだろうかと自分で不安をもっていた。
 
ところが2017年4月16日の夜、龍虎は唐突に3つに分裂してしまった。驚きはしたものの、これは好都合!とばかり、高校生活の3年間、龍虎は3人で分担して学校と仕事をこなしてきたのである。3人は、1人は男の子、1人は女の子、1人は男の娘(ダミーの男性器が付いてた)だったので、お互いに龍虎M/龍虎F/龍虎NあるいはアクアM/アクアF/アクアNと呼び分けていた。
 
学校の制服も3人がそれぞれ着られるように、女子制服1つと男子制服2つを用意した。(この内男子制服冬服のひとつは実は女子制服を裁縫の得意な大崎志乃舞ちゃんに男子仕様に改造してもらったもの)龍虎が女子制服を着て学校に出て来ても誰も変には思わないし、特に何も言わない。
 
3人は例えばMが学校に行った日はFが仕事に行き、Nは自宅で休んでいる、みたいな運用をしている。長時間の撮影など、仕事自体が大変そうな時は2〜3人で交替しながら仕事をすることもある。おかげで中学時代は学校の勉強をする時間が全く無かったのが、高校に入ってからは、ちゃんと時間が取れるようになり、中学時代の勉強も復習して、普通の高校生としての知識・思考も鍛えることができた。
 
3人は“長期記憶”を共有する(ここが完全別人格に分離した千里と違う所)ので、お芝居の台本などは3人で分担して読んで素早く覚えることもできた。もっとも記憶の共有は時には混乱を招き、例えばMが「電車降りなきゃ」と思ったら、つられてFまで降りてしまう、みたいな事態もたまにはあった。
 

3人は最初はトイレに行ったりする機会に入れ替わったりしていたのだが、過労で倒れた鱒渕に代わって山村(=こうちゃん)がマネージャーになってくれた後は、彼の能力で瞬間入れ替えができるようになり、とても楽になった。
 
《こうちゃん》は小学1年生の時に、大手術を受けた時以来の知り合いである。
 
彼は龍虎がアクアとしてデビューする直前の2014年10月に、龍虎の男性器は(主として病気の治療薬の副作用のため)死にかけているとして
「俺が治療してやるから」
と言って、男性器を取り外してしまった。20歳になる頃までには治療は終わると言われていたのだが、その間無いと困ると龍虎が言うので、こうちゃんは龍虎にダミーの男性器を取り付けていた。このダミーはだいたい半年に1回くらい交換されていた。一応形としては男性器であるが、勃起もしないし、触っても特に気持ち良くはない(自分の指に触るのと似たようなもの)。
 
またしばしば“無くなっている”こともあり(こうちゃんによると“適当な代替品が見つからないから”らしい)、その間は女の子のような股間になっていたが、龍虎もその状態に慣れてしまって
「ああ、またちんちん無くなっちゃった」
と思って、女の子みたいな身体のまま1-2ヶ月過ごすこともあった。
 
2017年春に龍虎が3人に分裂した時、ダミーの男性器はNに引き継がれた。それでMとFは口には出さないものの、自分の本体はNで、MとFは自分の心の中の「男になってもいい気持ち」と「女の子になりたい気持ち」が分離独立した存在なのではと思っていた。
 
2018年春、千里から注意された《こうちゃん》は、実はもう治療が終わっていた龍虎の「本来のペニス」を龍虎に返してやるように言われ、Nの身体に付いていたダミーのペニスを取り外して、本物の龍虎のペニスを取り付けてやった(睾丸はダミーのまま)。
 
「これ本物だから大事にしろよ」
と彼は言っていた。
 

2019年10月、こうちゃんは3人の龍虎が各々独立して使えるように戸籍を作成し、それに基づくパスポートを取ってやった。この時、Fの戸籍とパスポートはむろん性別女性で作ったものの、Nのために新たに作った戸籍とパスポートも性別女性にしてしまった(Mは元からの性別男の戸籍とパスポートを使用する)。
 
「お前、もう女の子になりたい気分になってるだろ?」
「少し」
「男の戸籍にして後から変更するのは大変だから、手間を省いて最初から女にしといたぞ」
 
Nは漠然と、20歳くらいになったら、手術してもらって女の子になってしまってもいいかも知れないなぁなどと思っていた。
 

西湖は中学時代、仕事が忙しすぎて、学校の勉強は全くしていなかったこともあり、あらゆる高校の入試に落ちまくり、唯一合格させてくれたのが女子高であるS学園であった。男の子である西湖が女子高を受験できて、しかも合格してしまったのは様々な人の思惑や誤解が複雑に絡みあった結果なのだが、ともかくも2018年春、西湖は女子高生になってしまった。
 
更に西湖の周囲には龍虎以上に彼を女の子に変えてしまいたい人物がいた。彼の母は西湖を欺して女性ホルモンを飲ませていたし、丸山アイも彼を女の子にしてあげようと色々工作をしていた。
 
このままでは西湖の男性器は風前の灯火だと考えた千里3は、西湖を**の法により女の子に性転換することで、結果的に西湖の男性器を切除されないように“隠して”しまった。
 
それで西湖は本人としては別に女の子になりたい気持ちはなかったのに、女の子の身体で暮らすことになってしまった。しかし女の子の身体でいることは女子高生として学園生活をする上では好都合だった。身体測定をするにも水泳の授業を受けるにも、女の子の身体になっていることでとても助かる。
 
**の法で性転換した場合、1年以上経てば再び性転換して男の子に戻すことができる。性転換して1年経った2019年の夏、千里3は西湖に男の子に戻すか、このまま女の子として生きて行くか尋ねた。西湖はその判断は高校を卒業するまで保留したいと言い、千里3も同意した。西湖としては、本来女の子になりたいような気持ちはなかったはずが、1年間女の子の身体で暮らしてみて、この身体も悪くないなという気分になってきていたのであった。
 

2020年1月5日(日).
 
龍虎は(Fが)朝北海道から戻った後、仕事が1件キャンセルになってしまったおかげで、珍しく日中の仕事が無く、3人とも代々木のマンションでのんびり過ごしていた。
 
「お腹が空いた。ジャンケンでお弁当買ってくる人決めない?」
とFが提案し、Nが負けた。
 
「仕方ないな」
と言ってセブンイレブンまで行ってくる。Wかつタルタル弁当・炭火焼き牛カルビ弁当・ごろごろ唐揚げ弁当と3つ買い、マンションに戻る。WかつはF、焼き肉はM、唐揚げはNが食べることにする。Fがお茶を入れて
 
「いただきまーす」
と言った瞬間のことであった。
 

ドン!
 
という感じの凄い音がして、龍虎はびっくりしてのけぞり、後ろ手で身体を支える。
 
「何が起きたの?」
「分からない」
 
「・・・・」
「あれ?」
「2人しか居ない」
 
「君誰?」
「ボクはFだよ。君は?」
「僕はM」
 
「Nはどこ行ったの?」
とFとMが言った時
 
『ボクはここだよ』
というNの思念を感じた。
 
「あ」
 
「Nはもしかしてボクの中に居る?」
「いや僕の中に居る気がする」
 
「ひょっとして・・・」
「半分ずつボクたちの中に居る?」
『そんな気がする』
 
「つまり3人から2人になったのか」
「最終的に1人に戻る前段階なのかも」
 
「この後どうしよう?」
「唐揚げ弁当は2人で半分こして食べればいいよ」
「弁当のことじゃない!」
 
「Mが要らないならボクがもらうよ」
と言って、F(+N/2)は取り敢えずWカツ弁当を食べ始める。
 
「お前、よく落ち着いて弁当食べていられるな」
「食べなきゃお腹すくじゃん。Nが半分入っているから1.5倍食べなきゃ。そうだ。千里さんに連絡しようよ」
「ああ、それがいい気がする」
 
それでM(+N/2)は千里2に電話し、緊急に相談したいことがあると言った。2番を選んだのは、1番では話が通じないし、3番は合宿が近かったかもという気がしたからである。
 

2番はすぐ来てくれた。
 
「あれ?今日はFとMだけ?」
と訊く。
「それが2人になっちゃったんです」
「Nの意識は私たち2人に半分ずつ宿っているんですよ」
とFとMは説明する。
 
「ああ。なるほど。でもこれで龍ちゃんが最終的に1人に戻っても意識は3人とも残りそうだというのが想像できるね」
と千里は言った。
 
「僕たちこれからどうすればいいんでしょう?」
とMが不安そうに訊く。
 
「今まで3人で分担してこなしていた仕事を2人でしなけばならないから、まあ1.5倍忙しくなるということかな」
 
「ですよねー」
「でも3月からは学校がなくるから、その分の余力は出ると思うよ」
と千里は言うが
「学校が無くなる以前から、最近既に仕事がたくさん入れられているんですけど」
とFが文句を言う。
 
どうも自己主張するのはFの役目でMは流されやすい感じだ。Nは割と何も考えていない感じだった。
 

千里は《こうちゃん》(山村マネージャー)を呼んだ。彼は龍虎が2人になったと聞いて驚いていたが、2人の龍虎にこう言った。
 
「どっちみち分裂は一時的なものにすぎない。いづれ1人に戻るのは間違いないから、取り敢えず2人で忙しさに慣れろ。1人に戻ったらもっと忙しくなるから、サボリ方の要領を今のうちに覚えておけ」
 
「でもなぜ僕とFが残ってNの身体が消えたんでしょう?。僕はてっきりNがオリジナルでFと僕は分身だと思っていた」
とMが言う。
 
《こうちゃん》は少し考えていたが、やがてこう言った。
 
「3人はどれかが本体であと2つは分身とかではなくて、ほぼ均等に分離したと思っていた。その中で『男になってもいいかな』という気持ちがMに集まり、『女の子になりたい』という気持ちがFになって、性別は曖昧なままで居たいという気持ちがNに集まった。でもお前も成長してきて、曖昧な性別のままでは居られないという覚悟ができてきた。男になるか女になるかは自分ではまだ決めきれないけど、曖昧な状態はもうやめようと思った。だからNが消えたのかもな」
 

「それでですね。さっきMと話してたんだけど」
とFが言う。
 
「ボクとMの性器の由来がよく分からないんだけど、Nはオリジナルのおちんちんを持っていたんですよ。2年前の春に、こうちゃんさんが『これ本物だから大事にしろ』って治療の終わったおちんちんを持って来てNのお股にくっつけたから」
 
「ああ。そういえばNにくっつけたな」
 
「そのNが消えたということは、ボクのオリジナルのちんちんも消えてしまったということ?」
 
「うーん。確かに消えたかもしれんけど、別にお前はちんちん要らないだろ?」
「ボクは要らないけど、Mが気にしてるから」
「MはMで自分のちんちんあるんだから、別にオリジナルのちんちんなんて、どうでもいいのでは?」
 
「僕のちんちんってどこから来たの?」
「それは誰も知らんな。気にする必要もない気がする」
 

「多分それもオリジナルだと思う」
と千里は言った。
 
「女の子になりたい男の子が女性ホルモンを摂った場合、そのバストはだいたいその人の姉妹のバストと同じくらいのサイズになることが多いと言われている。たぶんMとFって、龍虎がふつうの男の子として成長していた姿、女の子として生まれていた場合の姿を具現化したものだと思うんだよね。だから、Mのおちんちんは多分元々の龍虎のおちんちんでもあるんだよ」
 
「じゃこれ誰かのものを移植したとかじゃなくて遺伝子的にも僕のもの?」
「それは間違い無いよ。なんなら精子のDNA鑑定してみる?」
「それはしてみたい」
 
「ボクの女性器も本来のボクのものだよね?」
「それも間違い無い。何なら生理の分泌物のDNA鑑定する?」
「それもしてみたい」
 
2人の龍虎の発言は紛らわしいが“ボク”と言っているのがFで、“僕”と言っているのがMである。微妙にイントネーションが違う。
 
「だけど僕たちの染色体ってXYだよね?なんで卵巣とかもあるの?」
「XY女性は普通にたくさん居るよ」
「そういう人って、女性器が発育不全だったりしないの?」
 
とMは質問しているが、Fはこの問題は解決済みである。
 

Fは自分の女性器は《こうちゃんさん》のお友達の《じゅうちゃんさん》が分裂前の自分に勝手に埋め込んだ、IPS細胞から作った女性器だろうと考えていた。分裂した時、元々の身体の男性器がNに、女性器が自分に来たのだろうと考えていたのである。FにとってもMの男性器の出所は謎だった。
 
「妊娠しないので調べたらXYだったとか男性ホルモンが多いのでスポーツでセックスチェックにひっかって精密検査したらXYだった、ついでに睾丸があったとかいう人はわりといるけど、元々ちゃんと女性器が発育していたら検査もしないから、誰も気づかないまま普通の女性として一生を送っているよ。XXの男はもっと多いと思う。まあXXの男からは女の子しかできないけど、大きな問題はない」
 
「そうかも」
 
「XYの女性が産む子供がYYになったりしないんですか?」
「YYの受精卵ができても流れるだろうね。X染色体の中に人間が生命を維持するのに必要な遺伝子が入っているから」
 
「ああ、流れてしまうのか」
「心臓が活動し始める前、胎児になる前の胎芽の状態の内に流れると思う。だから妊娠確率がXX女性の半分かも知れないけど、元々妊娠の確率って凄く低いから気づかない」
 

仕事の負荷に関して話し合うため、山村(こうちゃん)と千里はコスモス社長もこのマンションに呼び出した。コスモスはアクアが3人いることは知っていたものの、現実に2人以上が並んでいるのを直接見たのは初めてだった。
 
(カノンの時も2乗りバイクの時もコスモスは臨席していないし、少年探偵団での“アクアの従妹のマクラ”(実はアクアF)を使った撮影も見ていない)
 
しかしコスモスは動じず
 
「じゃ仕事の負荷があまり大きくなりすぎないように、山村さんのレベルでチェックしてあげて。その分、葉月ちゃんに少し負担が掛かるかも知れないけど」
と言った。
 
「葉月はまだ高校生なんですけど、それだと彼が学校に全く行けなくなったり、あるいは彼が倒れたりしませんかね?」
と千里が心配する。
 
「リハーサル役、町田朱美にも少し分担させよう」
「あの子は機転が利くから、けっこう代役できるかも」
と千里。
「あの子、実は男の娘だったんだっけ?」
と山村(こうちゃん)。どうも東雲はること混同しているようだ。
 
「天然女子だよ。でも襲ったりしたら、こうちゃん去勢するからね」
「しないしない」
と焦って山村は言っている。
 
「日中の代役は佐藤ゆかで行こう」
「ああ、あの子は歌も上手いし、演技力もある」
 
それで当面アクアのリハーサル役は、葉月と朱美・ゆかで分担することになった。
 
佐藤ゆかはリセエンヌ・ドオのリーダー/信濃町ガールズの初代リーダーだが、アクアと同学年で、3月に高校を卒業する予定である。同い年なので代役としては理想的だったため、この後主として朝から葉月の学校が終わるくらいの時間まで、アクアのリハーサル役として使われることになる。
 
でもお陰で、ゆかは受験する予定だった大学への進学を諦めることになった!
 

1月5日(日).
 
西湖(今井葉月)は、この日、体調が悪かった(多分過労)ので、事務所に電話してお休みさせてもらうことにし、アパートで寝ていた。(仕事は大崎志乃舞が代わってくれることになった)
 
“ふく”という名前の女の子キツネさんが出て来て
「お弁当買ってきてあげるね」
と言って、オリジン弁当まで行って、タルタルチキン南蛮弁当を買ってきてくれた。
 
(“緩菜の社”筒石のマンションではおキツネさんたちは筒石にこき使われる。“京平の社”西湖のアパートではおキツネさんたちは進んで西湖を助けてくれる)
 
「ありがとう!」
と言って、お茶を入れてお弁当を食べようとした時のことだった。
 
ドン!
 
という凄い音がして、西湖は驚いてひっくり返る。
 
後ろ手でも支え切れず身体が畳にぶつかってしまうのが龍虎との運動神経の差である。
 

「痛ぁ」
などと言いながら起き上がると、目の前に別の人物がいたので驚く。
 
もとい。
 
目の前に“同じ”人物がいたので驚く。
 
「誰?君」
と同時に言った。
 
「ボクは天月西湖だけど」
「ボクは天月西湖だけど」
と両方の人物が同時に言った。
 
「嘘ー!?なんでボクがもうひとりいる訳?」
 

するとさっきお弁当を買ってきてくれた“ふく”さんが言った。
 
「西湖ちゃん、あまりにも忙しすぎるから1人では無理だということになって2人になったのかもね」
 
「そんなことあるんだっけ?」
「アクアちゃんだって2人いるよ」
「そうなの?」
 
「1人じゃあの忙しさに耐えられないよ」
「そうかも」
 
「ところで君たち男の子?女の子?」
と“ふく”さんが訊く。
 
「え?」
 
それで西湖たちは自分のお股に触ってみる。
 
「ボク女の子みたい。割れ目ちゃんあるもん」
「ボク男の子に戻ってる。ちんちんがある」
 
「つまり男の子と女の子に別れた?」
 

「西湖ちゃん、自分は男の子だという気持ちと、女の子になっちゃってもいいかなという気持ちが混在していたから、それぞれの気持ちが独立したのかもね」
 
「それありそう。早く男の子に戻りたいという気持ちもあったけど、ずっと女の子のままでもいいかもという気持ちもあったもん」
 
「アクアも男の子と女の子なんだよ」
「男女の双子だったの?」
「違うよ。元々は1人だったけど、あまりの忙しさに耐えられずに3人に分裂したんだよ。でも励起状態が少し落ち着いて、今は(ついさっきだけど)2人に戻った。その内1人に戻ると思う。西湖ちゃんも一時的に2人になったけど、その内1人に戻るよ」
 
「ああ。これは一時的な現象なんだ」
 
「でも好都合なんじゃない?2人いるのなら、1人が学校に行って、1人が仕事にいけばいい」
 
「それって、学校に行くのは女の子のボクの役目だよね?」
「そうだね。女子高に男子が居ると面倒なことになる」
 
「ボク男の子だった頃は、凄く困ってた。女子校ってスキンシップも凄いし。身体測定とかも大変だったもん」
 
「女の子なら女子校に行っても問題無いね」
 

「だったら平日は女の子のボクが学校に行って男の子のボクが仕事に行って、土日は交替で仕事に行けばいいかな」
 
「長時間の撮影とかする時は交替でやればいいかもね。アクアも交替しながらやっているよ」
 
「そうだったのか」
「アクアは男の子役はMがして、女の子役はFがしてるんだよ」
「M?F?」
「男の子のアクアがアクアM、女の子のアクアがアクアF」
「MはMan?」
「MはMale(メール), FはFemale(フィーメール)。あんた学校の勉強あまりしてないもんね」
「忙しいんだもん」
 
「でもこれからは片方はちゃんと学校に行っていれば少し勉強もできるようになるかもね」
 
「じゃボクたちもMとFでいいかな?」
「いいと思うよ。だから男の子は天月西湖M・今井葉月(いまいようげつ)M、女の子は天月聖子F・今井葉月(いまいはづき)Fだよ」
と“ふく”さんは、紙に字で書いてくれた。
 
「ああ、そんな感じがいいかも」
「それでアクアの男役のボディダブルは西湖Mがして、アクアの女役のボディダブルは聖子Fがすればいいんだよ」
 
「それが自然かも」
「アクアも西湖も成長してきて、おとなになりかかっているから、今までみたいに1人で男女双方を演じるのは少しずつ難しくなってくるかもね」
 
「それはそんな気がしてた」
 

西湖は“ふく”さんの勧めでこの件を千里に打ち明けることにした。それで電話を掛けるが、この電話は千里3(≒千里4)に掛かった。千里4はこの日高岡にいたのだが
「明日には東京に戻るから、そしたらそちらのアパートに行くよ」
と言ってくれた。
 
1月6日(月)は、日中Fが学校に行った。聖子Fが勉強している内容がどんどん自分の頭の中にも入ってくるので西湖Mは面白ーいと思った。Mは日中ほとんど寝ていたのだが、午後3時に電車で都心に出て放送局に入った。そして22時(高校生はこの時間までしか仕事をしてはいけない・・・ことになっている)であがらせてもらい、河合友里の運転する車で用賀のアパートに戻った。
 
実際はFは桜木ワルツが迎えに来てくれて放送局まで彼女の車で移動したのだが、そのまま電車で帰宅してアパートで宿題をしていた。宿題をするなんてのは小学5年生の時以来だなと聖子Fは思った。
 

23時頃
「そろそろ帰宅したかな?」
などと言って千里さんが来てくれた。
 
千里さんは西湖が2人いるのを見ても全然驚かなかった。
 
「ああ、2人に分離したのか。まあよくあることだよ」
と言った。
 
「よくあるんですか?」
「私も2人いるし、アクアも2人いるからね。西湖ちゃんが2人いても不思議ではない。ケイなんて10人いるから、多分」
 
「千里さんも2人いるの?」
「私は4番でもうひとりは2番」
 
「2と4って、1と3は?」
 
「最初は0,1,2,3って4つに分離したんだよ。それが最初0と1が合体して0+1=1で新1番になって、昨日その1番と3番が合体したから1+3=4で4番になった」
 
この話を今聞いた1番は驚いている。
 

「やはり合体するんだ?」
「アクアにしても西湖ちゃんにしても、その内1人に戻るから心配しなくてもいいよ。今はあまりにも忙しいから2人に別れざるを得なかったんだろうね。西湖ちゃん2人に別れなかったら、高校中退せざるを得なくなってたと思う」
 
「それちょっと覚悟してました」
 
「女の子と男の子に別れたのなら理想的だね。Fは女の子だから堂々と女子校に通って、Mがお仕事すれはいい」
「そうしようと思ってました」
 
「あとは長時間の撮影とかでは2人で交替で」
「それもそうしようかと話していたんです。男の子役はMで、女の子役はFで」
「それがいいね。アクアもFとMの雰囲気がかなり差が出て来てる。西湖ちゃんもずっと中性的ではいられない。このあとFとMの差が出てくると思うよ」
 
「そんな話もしてました」
 
千里さんは、仕事中の入れ替えは、この子にやらせるから心配しなくていいよ、と言ってお友達の《わっちゃん》を呼び出して紹介してくれた。彼女は不思議な能力を持っていて、2人の人物の位置を交換することができる。アパートの中でMとFが居室と台所にいる状態で“位置交換”をしてみせたのだが、西湖は2人とも「すごーい」と感動していた。
 
「コスモス社長に言って、彼女を西湖ちゃんの付き人として雇ってもらうから」
「そうしたら、いつも一緒にいれますね」
 

それで《わっちゃん》は、千里からの推薦ということで和城理紗の名前で西湖の付き人になることになった。また千里は西湖に異常な愛情を注いでいる(?)桜木ワルツにも西湖が2人に分裂したことを教えた。それで入れ替えの補助を和城理紗にさせることを説明したのである。でないと、ワルツから理紗が嫉妬されそうだった。ついでにワルツにはアクアも2人に分裂していることを教えた。
 
「人間が分裂するなんて信じられないけど、確かにアクアちゃんと西湖ちゃんの忙しさは2人くらい居ないと乗り切れないよ」
と言っていた。
 
西湖の送迎はこれまで主としてワルツがしていたのだが、和城理紗を雇ったのでワルツと理紗で分担してやることにし、ひとりが学校に行っている聖子を迎えに行ったら、もうひとりはアパートに居る西湖を放送局などに連れて行き、学校に行っていた聖子はそのままアパートに送り届けられる(ほんの数百メートルだが)という形で学校と仕事先の分離をすることにした。
 
なお“和城理紗”の由来は彼女の本名ワシリーサ(Василиса)からである。彼女は二見ヶ浦の蛙大王様が作ってくれた戸籍・住民票を使用して2014年2月に正式に運転免許を取得しており、昨年秋に追加で自動二輪を取得してゴールド免許になっている。
 
千里はワルツに「西湖Mとセックスしてあげたら」と唆したのだが、ワルツは「取り敢えず未成年の間は自粛します」などと言っていた。
 
「それとも聖子Fとセックスする?」
と訊いてみたら
「商品に手を付けたら首になります」
などと言っている。
 
何なんだ?この男女の扱いの違いは??
 

ワルツは千里に尋ねた。
 
「分裂は一時的なもので、その内1人に戻るとおっしゃいましたよね。その時、彼は男の子に統合されるのでしょうか?女の子に統合されるのでしょうか?」
 
「彼が男として生きたいか、女として生きたいか、彼の気持ち次第だと思う」
「それ、凄く微妙ですよね?」
「彼は女の子ライフに味をしめちゃったからね」
「そうなんですよね」
 
「でも彼は女子ということにして高校行っちゃったから、本人の肉体的性別は別として、今更社会的にはもう男の子に戻れないし、普通の女の子とも結婚できないと思う。ワルツちゃんがレスビアン婚してあげればいいよ」
 
「その問題についてはあの子が27-28歳になってから考えさせて下さい」
とワルツはまじめな顔で言っていた。きっと本当に好きなのだろう。
 

その日青葉は津幡“火牛”スポーツセンターで日本代表候補女子長距離組の自主合宿をしていたのだが、アクアゾーンの個室宿泊エリア(「ホテル火牛」という名前が付いている)に割り当ててもらっている自分の部屋で寝る前に、ルーチンになっている10人ほどのクライアントに“定期自動スキャン”を掛けようとしたら、空振りする感覚があった。あれ?と思い個別に1人ずつ掛けていくと、アクアの男性器メンテナンスで“ターゲット”が存在しないことに気づく。
 
「まさかアクアちゃん死んだ?」
と焦り、アクアのことは多分完全把握しているだろうと思った千里2に電話してみた。
 
「さすが青葉は勘がいい」
と言って、千里2はアクアが3人から2人に統合されたことを教えてくれた。
 
「彼の睾丸はあるんだけど、ペニスが見当たらないんだよ」
「Nの身体と一緒に消えちゃったんだね」
「ヒーリングどうしよう?20歳になるまで男性器を強化してあげる約束だったのに」
 
「ターゲットが無いなら仕方ないんじゃないの?睾丸だけ強化しても出力デバイスが無いとどうにもならない気がする。契約終了でいいんじゃない?」
「睾丸はどうなるんだろう?」
「誰か欲しい人にあげることになると思うよ。Mだって睾丸が4個もあっても仕方ないだろうし。青葉が欲しいなら、つけてあげるように言うけど」
「いらない!」
 

「あとさあ、雨宮先生のちんちんが立つようにメンテするのやめない?あの人のちんちんは立たない方が世の中のためだよ。毎年たくさん被害者が出ているのに」
 
「たとえ、ちー姉でも、雨宮先生がクライアントかどうかについても話せないし、クライアントとの契約はどんな相手であっても守る義務がある」
と青葉は言った。
 
「ほんと青葉は堅いね」
と千里は感心するように言った。
 
 
前頁次頁目次

【春合】(1)