【春気】(3)

前頁次頁目次

1  2  3  4  5 
 
立花晴安は2019年10月に妻・ユナと離婚。2人の間の3人の子供・賢太(2014), 一美(2016), 功児(2018)は、晴安が引き取ることになった。
 
元々晴安があまり女性に関心が無いことから彼の父親が心配してやや強引に話をまとめて結婚したものだったこともあり、最初から2人の間にはあまり愛情が無かった。子供を作ったのも“跡取り”が欲しかったためであり、2人目の男の子・功児が生まれた時点で離婚はもう時間の問題になっていた。
 
更にユナは元々子供嫌いだし、別の男性と結婚する予定もあったので“身軽”になりたかった。そういう事情で子供は晴安が引き取ったのである。子供たちも実の母親からネグレクトされていたこともあって、父親の元に残りたがった。
 
離婚してすぐ結婚というのは節操がないので3ヶ月待つことにして阿倍子と晴安は2020年2月に結婚することで、双方の親も同意してくれた。ちなみに元々女性に興味がない晴安が阿倍子とは恋愛できるのは、阿倍子が晴安を“女友達”として受け入れてくれるからである。阿倍子は晴安が女装している時でも一緒にお散歩とかしてくれるし、“入れて”くれたりもするので、晴安は阿倍子との交際にとても満足していた。一方ユナには晴安は何度か女物の服を全部捨てられてしまったことがある。
 

そういう訳で2019年の年末頃から、晴安と阿倍子はほとんど夫婦同然の状態になっていた。また阿倍子が許してくれたので、晴安は11月から2月まで掛けて足や顔の脱毛をしたし、12月には喉仏の切削をして、2月にはシリコンを入れておっぱいを大きくしてしまった(まだ性交能力を失いたくないので、当面女性ホルモンは飲まないし、去勢などもしない約束)。
 
それで晴安は仕事に行く時以外は、ほぼ女性の格好で過ごしていたし、阿倍子と一緒にスーパー銭湯に行ったりもしていた。バストが大きくなったことで女湯に入れるようになったのである。むしろ男湯には入れなくなった。ちなみに晴安は元々女性に興味が無いので女性の裸を見ても何も感じない。実はこれまで男湯に入るのはとても怖かったし恥ずかしかった。
 
なお結婚式は、親の手前、“世間体”もあるので晴安がタキシードを着て男女型で挙げる予定であるものの、2人だけで双方ウェディングドレスを着た記念写真も撮ることにしている。
 
ともかくもそれで結婚に向けて順調に進んでいたものの、ここでひとつ大きな問題が発生していた。それは阿倍子が京平も連れて晴安の家に遊びに行くと、毎回京平と賢太が喧嘩するのである。
 
悩んだ末に阿倍子は京平を“遺伝子上の母”である千里に委ねることを考え、1月18日(土)に東京まで来て千里と会い、打診してみた。むろん千里は大歓迎である。それで来月上旬に阿倍子は京平を連れて東京に来て京平を千里に委ね、その後、阿倍子はひとりで晴安の許(もと)に行き再婚しようということにしたのである。
 
千里が京平を引き取る場合、早月・由美、そして桃香とも一緒に暮らすことになる。
 
それで千里はこの件について桃香と話し合うため、桃香が12月の“大掃除”以来、ずっと居座っている高岡に行って桃香と話し合うことにしたのである。
 
阿倍子と会った日の夕方、千里4は高岡まで行き、この件を桃香と話した。桃香は驚いたものの、京平君と会って一度一緒に遊んでみたいと言う。そこで千里は阿倍子に連絡し、翌19日に阿倍子と京平がサンダーバードで金沢まで来ることになったのである。
 

「だけどずっと寂しかったよぉ。今晩はHしようよ」
と1月18日の夜、桃香は言った。
 
「いいよ。先に部屋で休んでて」
「OKOK」
それで桃香は11時頃嬉しそうな顔をして自分の部屋に入ったが、千里(千里4)は青葉と、音楽業界の話や、差し迫ってきたオリンピックの件、更に松本花子のことやアクアの制作の件、津幡火牛スポーツセンターの運営などで話し合っていた。
 
桃香が寝室に行ってから30分もした頃、青葉は心配して言った。
「桃姉が待っているのでは?」
「仕方ないなあ。じゃ1番、桃香のところに行きなよ」
「1番?」
と青葉が戸惑うように言うと、唐突に千里が2人に分離した。
 
ギョッとする。
 
「じゃ桃香と遊んでくるね」
と言って、髪の短い千里がトイレに行ってから2階に上っていった。
 
「じゃ青葉、続けようか」
と髪の長い千里は言った。青葉は呆気にとられていた。
 

その夜龍虎Mは放送局でドラマの撮影をしていたのだが、早めにあがったFはコンビニでチロルチョコの27個入りパックを買って帰り、その内“8個”をMのために残し、自分で11個取って8個をスヌーピーのお皿に載せて陰膳としてNの部屋に置いてこようと思い、Nの部屋に入った。するとベッドに人がいるので驚く。
 
「まさかN?」
「うん」
「どうしたの?」
「よく分からない。突然具現化した」
 
「Nちゃん会いたかったよぉ」
と言ってFはNに抱きついた。
 
「ちょっとちょっと」
「そうだ。セックスしてあげようか?」
「しない、しない。そんなのMに言いなよ。ボクは性欲無いもん」
 
「だってMはバージン大事にしなよと言ってしてくれないし、触ってもくれないんだよ」
 
「でもどうして具現化したんだろう?」
「あるいは一種の脈動みたいなものかもね」
「そんな気もする。きっと基本的には2人に戻ったんだけど、たまにこういうふうに3人になることもあるんじゃないかな」
 
「そうだ。ちんちん触ってあげようか」
「やめようよ。そんなことされたら変な気分になりそうで」
「変な気分になったら、私の触ってもいいよ」
「触らない触らない」
 
「じゃ、これ陰膳でNのベッドにお供えしようと思ってたんだけど食べる?」
「食べる。ありがとう」
と言って、Nはチロルを食べた。その後、Fはピザの宅配を頼み、シーフードピザをFとNでシェアして食べた。
 
Nは2時間ほど具現化していたが、Mが帰宅する前にまた姿を消してFの中に戻った。
「ああん、消えちゃった」
と言って、Fがお茶を入れて自分の分のチロルチョコを食べようとしていたらFの中に居るNが指摘する。
 
『Fの取り分が多い気がする』
「しまった、バレたか。Nのベッドに1個置いておくよ」
『いいよ。この状態では食べられないから、Fにあげる』
「さんきゅー。Nは優しいなあ」
と言って食べている内に、ふと思いついて訊いた。
 
「ね、ボクがHなことしてる時、Nはそれ見てる?」
 
『目を瞑っているよ、なんか見ちゃいけない気がして』
「同じ自分だから見てもいいのに。NはHなことしたくなることないの?やはりさっき具現化している内にちんちん、もんだり舐めたりしてあげれば良かったね」
『舐めるとかやめて!』
 
「一度試してみたいのに。だったら今度具現化している時睾丸返してもらったらどうかな?こうちゃんさんは取り敢えず保管しておくと言ってたし、万葉先生も約束通り20歳になるまで睾丸の強化してあげると言ってたし」
 
『ボクあまり睾丸入れられたくない』
「そうか。女の子になりたいんだっけ?具現化している時性転換手術してもらう?」
『そこまでしなくてもいいかな。Fの身体の中にいるだけでかなり安らぐ気分。どうもボク、MとFに半々入ったんじゃなくて、Fに7割くらい入ってる気がする』
 
「やはり女の子になりたい部分が大きいのね」
『そんな気がする』
 

一方、西湖(M)は、その日22時であがらせてもらい、桜木ワルツが忙しそうにしていたので
「私、電車で帰ります」
と言って、東急で用賀駅まで帰った。学校が終わってからそのままアパートに戻っていたFから
『ごはん作ってるよ』
と直信が来ているのでセブンイレブンでシュークリームを2個買ってからアパートに帰る。
 
「ただいまあ」
と言って、お土産のシュークリームを出して2人で1個ずつ食べる。更にFが作ってくれていたボルシチを食べていた時、ドアがトントンとされる。
 
こんな時間に誰だろう?と思ったら
「俺。近くまで来たから寄った」
という父の声である。
 
西湖は焦った。
 
どうしよう?2人でいる所見られちゃう。
 
と思ったら唐突に西湖は1人になってしまった。
 
Fが消えたのかMが消えたのか、自分でも分からない。ともかくも残った西湖がドアを開けて父を入れた。
 
「おお、ちゃんと御飯作って食べてたのか、偉い偉い」
と父は言ったものの、
「なんで茶碗が2セット出てるの?」
と訊く。
「ごめーん。昨夜(ゆうべ)の茶碗をまだ片付けてなかった」
 
「ああ。一人暮らしだと、そういうの適当になるよな。まああまり溜めない内に片付けておけよ」
「うん」
 
父は横浜に行った帰り、西湖の所に寄ろうと、わざわざこちら経由で来たらしい。1時間ほど話した後、焼売をお土産に置いて終電(用賀00:34-00:46渋谷)で帰っていった(今夜は都心で泊まるらしい)が、西湖はちょっと脱力する思いだった。
 
「ところでボク男の子かな?女の子かな?」
と確かめようと思った時、西湖はまた2人に分かれてしまった。各々お股を確認して1人が男の子で1人が女の子であることを認識する。
 
「じゃお風呂入って寝ようよ」
「うん。仕事で疲れたろうし、Mが先に入ったら?」
「じゃ先に入るね」
 
と言ってMは着替えを持って来て脱衣室に入った。ちなみにFはもちろん女の子下着を使うが、Mも女の子下着を使っている。もう西湖は女の子の服を着るのが習慣になってしまって男の子の服を着ることに抵抗感を感じる。
 
Mがお風呂からあがるとFは布団を2組敷いてくれていた。西湖は行儀がいいので布団を敷きっぱなしにしたりしない。ちゃんと畳む。それでさっき父が来た時は、布団が2つあることに気づかれずに済んだ。Mと交替でFがお風呂に入る。
 
「覗かないでね」
「覗かないよ!」
「覗きたい時は声掛けてからにしてね。心の準備が必要だから」
「だから覗かないって!」
 
「でも最近Fちゃん少し大胆じゃない?」
「私たちが大人になるためのステップなのかもね。セックスしたくなった時も言ってね。無理矢理じゃなかったら応じてあげるから。避妊具はMが買ってね」
「しないよー」
 
「それとも和紗ちゃん(桜木ワルツ)とセックスしたい?」
「ノーコメント」
「ふーん」
 

翌1月19日(日)、阿倍子と京平はサンダーバードで金沢まで来てくれた。日曜日なので早月と由美を母に見ててもらい、まずは千里と桃香で青葉のマーチを借りて金沢駅まで行き、時計台駐車場に駐めて、金沢駅で阿倍子・京平の親子を迎えた。
 
8番ラーメンで軽くお昼を食べてから、駅構内の“こどもらんど”で遊ぶ。ラーメンを食べている間は、お互い少し遠慮があったものの、こどもらんどの中に入ると京平は楽しそうに様々な遊具で遊ぶし、桃香も童心に返って京平と一緒に楽しく遊んでいた。京平がマジックテープでくっつけてある野菜をプラスチックの包丁で切ったりするのをしてると、桃香がその包丁を取り上げて「お姉ちゃんに貸してごらん」などといって夢中になっている。
 
「もうどちらが子供でどちらが保護者か分からないな」
と千里。
「でも仲良いみたい」
「デートは成功かな」
 

金沢駅でたっぷり遊んだ後は、マーチに4人で乗って(むろん運転は千里)高岡の実家に帰還する。京平用のチャイルドシートは千里が昨日の内に買っておいた。
 
そこで、京平を早月・由美に会わせたが、早月たちはすぐ京平と仲良くなった。
 
津幡のプールで水泳の練習をしていた青葉も戻ってきた所で2台の車に分乗して氷見の“きときと寿司”に行った。
 
マーチ:千里(D)・桃香・阿倍子・京平
ヴィッツ:朋子・青葉(D)・早月・由美
 
お寿司屋さんに入り、テーブル2つに陣取る。
 
千里が京平に
「好きなだけ食べて良いよ」
と言ったのに対して京平は
「5個まで?」
と心配そうに訊く。
「そうだなあ。今日は特別。20個まではいいよ」
と千里が言うと
「わーい!」
と嬉しそうだ。
 
「すみません。何だかふだんの生活が知られちゃう」
と阿倍子は恥ずかしがっている。ふだん回転寿司に来る時は「5個まで」のルールにしているのだろう。
 
京平は20個までいいと言われて、最初にイクラを4皿も取っている。桃香が顔をしかめているが千里は笑っている。お稲荷さんが好きなようで、それも2皿取っていた。
 

15皿くらい食べたところで
「ちょっとうんこ」
と言って京平がトイレに行く。
 
その姿を見送って桃香が言った。
「そうだ。先週、こちらに由梨亜が来たんだよ」
 
由梨亜というのは千里や桃香の大学時代の友人のひとりである。桃香の話によると、夫の転勤で現在白山市(金沢より少し西にある市。高岡市は金沢の東にある)に住んでいるらしい。
 
「由梨亜はだいぶ前に結婚したよね?」
「結婚してもう6年だよ。あの子、結婚だけは早かったんだよな」
「うん。当時の女子会のメンツでは最初に結婚したよね」
 
「ところが子供ができなかったんだ」
「6年経ってできないというのは、作ろうとしなかったの?」
「いや、すぐにも欲しかったらしい。由梨亜は一人っ子だったから、兄弟のたくさん居る家庭に憧れていたんだよ」
「そういや、子供6人産んでバレーボールのチーム作ろうかなとか言ってたよね」
 
「そうそう。だから結婚してすぐから子作りに挑戦していたものの全然できないんだよな」
「それ、不妊治療とかもしたの?」
 
「うん。取り敢えず最初は排卵のタイミングと精子の寿命とかのお話を夫婦で聞いて、事前の禁欲もして妊娠しやすいタイミングでセックスするとかしていた」
「基本だよね。だけどそういうセックス楽しくなさそう」
 
「私もそう思う。でも、それやってても、できないから、夫婦とも精密検査を受けた。夫の精子が少ないし活動性が悪いということだったが、一応許容範囲と言われた。ところが由梨亜自身も卵管狭窄が疑われたんだよ」
 
「ああ。でも閉塞じゃなくて狭窄なんだ?」
「うん。水を通したりする検査して、狭いけど通ってはいることは確認できた」
と桃香が言うと
 
「あの検査辛いですよね」
と阿倍子が言う。
 
「それでホルモンの投与とかで卵胞が育つのと排卵をコントロールしてそのタイミングでセックスとかもしてみたものの、どうもうまく受精卵が定着してくれない」
「それ妻と夫の双方に問題がありそうな気がする。精子の能力に問題があって受精卵がきちんと育たないんじゃないの?」
と千里は言う。
 
「うん。そんな気がする。それで結局、卵巣から直接卵子を採取して、体外受精したんだよ」
「わあ・・・・」
 
「でもおかげで妊娠成功」
「良かったね!」
「胚はちゃんと子宮に着床して今3ヶ月目」
「そこまで来たら、かなり安心」
 
「ちゃんと分裂開始した受精卵を8個も取ってあるらしいから、次の子もそれで行けるらしい」
 
「ああ。卵子採取は何度もはやりたくないですよね」
と阿倍子が言う。
 
「うん。私も事情あって1度やったけど、正直あまり次はやりたくないと思った」
と桃香。
 
由美を作った卵子は、桃香の卵巣から直接採取したものである。早月は人工授精なので排卵タイミングで精液を子宮に注入しただけである。
 
「あれ男は精子取るのに気持ちいい思いするのに女は卵子取るのに痛い思いするって、ずるいよね」
と千里も言う。
 
「それ、私も思った!」
と阿倍子。
 
「男も精巣に針刺して直接吸い取ればいいのに」
と桃香。
 
「賛成!」
と阿倍子。
 
「女もオナニーして卵子が飛び出して来たら便利なのに、あの針刺されるのは本当に痛いよね」
と千里。
 
「お、それぜひ神様に提案してみたい」
と桃香。
 
その内京平がトイレからすっきりした顔をして戻って来たので、この話はここまでになった。そして京平は千里の顔を見ながら言う。
 
「ねぇ、ちさとおばちゃん、あと8個くらいいい?」
 
千里も微笑んで答える。
「じゃ特別にあと8個」
 
すると京平は「わーい」と言って大トロを2皿と稲荷寿司1皿を取っていた。
 
「そうだ、ちさとおばちゃん、こないだ、ほいくしょで、けつえきがたってしらべたんだよ」
と京平は言った。
 
「へー、京平は何型だった?」
「えーがただって」
「ふーん」
「ママはなにがただっけ?」
「私はAB型だよ」と阿倍子。
「パパはなにがたなの?」
「京平のパパはB型」
「ちさとおばちゃんとももかおばちゃんは?」
「私はB型だな」と桃香。
「私はAB型だよ」
と千里が言った時、阿倍子は頷くようにした。
 
「でも京平、もう保育所行ってたんだっけ?」
と桃香かが訊く。
「4がつからいくんだよ」
と京平は楽しそうに言う。
 
「本当は保育所は母親が働いていないと入れないんですけど、新しく住む予定になっていた地区には幼稚園がないので、無職でも求職中ということにしておけば保育所で受け入れてくれるらしいんですよ。その入所前の健康診断に行ったら血液型検査もあって」
と阿倍子は説明した。
 
しかし京平はどうも保育所を楽しみにしているようだが、東京に引っ越してきたら、東京の幼稚園とかにでも入れないといけないなと桃香は思った。
 

この日はお寿司屋さんを出てから氷見のイオンまで足を伸ばしておやつを買い、それから高岡の実家に戻る。青葉が
 
「私、また津幡で泳いでくるから、私の部屋に阿倍子さんたちを泊めてよ」
 
と言って赤いアクアで出かけてしまったので、青葉の好意に甘えて、阿倍子と京平は青葉の部屋に泊まった。桃香は自分の部屋で早月と寝て、千里は1階の居間で由美と寝た(千里が東京に行っている間は由美は朋子の部屋で寝せている)。
 
ともかくも今日は楽しくみんな過ごせたが、念のため今度の土曜に今度は桃香たちが神戸に行って、再度京平とデートしようということになった。
 

2020年2月3日、節分であるが、この日は朋子の60歳の誕生日で、朋子はこの日で勤めている会社を定年退職した。
 
65歳までの再雇用制度はあるものの、給与は大幅に下がるし、実際問題として再雇用されても、大した仕事は割り当てられず、やっかいもの扱いされている人が多い現状を見て“娘たちの稼ぎ”のおかげで経済的な心配も無いし、そのまま退職することにしたのである。
 
実際には“実の娘”桃香は大学院まで行ってから就職したものの1年半で妊娠を機に退職してしまい、その後は一時パートに出ていただけで2018年12月以降は無職である(ネットライターの仕事はしているものの月収は数千円)。しかし実親を東日本大震災で失った後、朋子が未成年後見人になっていた“義理の元娘”青葉が年間数億円(朋子もよく分からない)稼いでいるし、“青葉の姉代わり”千里もやはり年間数十億円?(朋子は全然分からない)稼いでいるようで、その2人からの支援で全く生活には困っていないのである。
 
青葉から退職記念に旅行でもしてきたらと勧められ、有休の消化もかねて1月にお伊勢さん、鳥羽水族館、スペイン村・熊野三山・信楽・忍者の里という盛り沢山のツアーに行ってきた。そしてこの日、円満に定年退職した。
 
この日は東京から桃香・千里と2人の娘、早月・由美も来て、青葉も含めて4+2人で自宅で焼肉パーティーをし、朋子の慰労会とした。お肉は千里が調達してきてくれたが、能登牛の特上肉らしく、とても美味しかった。ケーキも大きな蝋燭6本立てたものを朋子に吹き消してもらった。
 
「ほんとに長い間お疲れ様でした」
「年金が出る5年後までは無収入になるけどね」
 
(60歳からの受給は可能だが4割ほどカットされる)
 
「5年後には年金は70歳からが標準になっていたりして」
「その5年後は75歳が標準になっていたりして」
「その内年金もらえるのは100歳からという話に」
 
ちなみにこの日来ていた千里は髪がだいぶ伸びてきた1番さんで、2番さんは“スペインの自宅”にいる模様。3番もベルギーでのオリンピック予選に出るため渡欧中である。日本は東京五輪の出場は確定しているのだが、それでも予選には出るらしい。よく分からないシステムだ。
 
ちなみにケーキを用意したのは3番さんで、2番さんは「腐らないもの」と言って、スペインのお菓子を置いていったので、あとで頂く予定である。ついでにスペイン南部で一般的なビール“クルスカンポ(Cruzcampo)”を1ダース置いていったので、これは桃香が早速飲んでいる。
 

若葉は言った。
「マスク工場作ろう」
 
それは2月上旬、ほとんどの店からマスクが消えてしまった時のことであった。
 
「今から工場を作るの?」
と千里は尋ねる。
 
「だって私昨日ドラッグストアに買いに行ったら無くってさ、そのあと数軒まわったけど、どこにも無いのよ。困っちゃう」
 
「うん。みんな困ってる」
「無いと困るから作ることにした」
 
まあお金持ちの行動原理なんて、そういうものかも知れない。
 
「マスク作るのってクリーンルームが必要なのでは?」
「インドネシアでやってるからノウハウはある。向こうの技術者さんを呼ぶよ」
「それは心強い」
 
若葉はインドネシアにもマスクを製造できる不織布の工場を所有しており、取り敢えずクレール若林店や、全国のムーランのスタッフなどにもここで製造して輸入したマスクを配布している。ちなみにムーランやクレールのスタッフに使わせているゴム手袋は千里が所有する草津工場でも製造できるので、ラインを切り替えて今フル生産して供給している。実は草津はまた募集して増員している。
 
「工場ができた頃に日本の騒ぎが収まっていても、他の国でまだ大変な状態が続いているかも知れないし。千里、一緒に建てない?」
 
「若葉だけでできるのでは?」
 
「材料の木材チップを千里の製材所から分けて欲しいのよ」
「あ、それはこちらも助かるかも」
 
現状では大量に余っている端材や小枝・樹皮の類いは一部は福井県の吸音板工場で吸音板に利用しているが、大半は費用を払って、歓喜さんの企業グループに処分をお願いしている状況である。これが実は製材所の利益率を落としている。(多くの製材所で起きているこの業界の構造的問題)
 
「木材チップから不織布を作ったり、不織布にしにくい部位は分解してエチルアルコールにしちゃってもいいと思う。自動車の燃料にもなるし」
 
「エタノールの製造って認可が必要なのでは?」
「そういうのの取得は任せて」
 
それで若葉と千里は安い土地を求めて南砺市南部に用地を確保。播磨工務店さんに頼んでわずか1週間で工場の建物を建ててしまった。そして製造機械をアメリカから輸入して、3月中旬にはここで不織布とエチルアルコール、更にはその不織布を利用してマスクも製造するようにした。そのお陰で、インドネシア工場に頼らなくても、ムーラン各店舗や津幡火牛スポーツセンター・郷愁村・藍小浜・ミューズセンターなどのスタッフ、クレール若林店・青葉通り店ビルのスタッフ、およびクレールや若葉経営の旅館などの来店客に無料配布するマスクは充分な量を確保することができるようになった。
 

3月中旬以降は当地国内及び東南アジア諸国への出荷が主となったインドネシア工場も24時間フル操業だと言っていたが、千里たちの南砺工場もすぐ24時間フル操業状態になり、作業員を大量雇用した(製造自体はほぼオートメーションだが、検品や出荷などの作業が必要)。
 
なお募集要項で「年齢性別不問・連続3時間程度の工場勤務に耐えられる体力のある人なら、18歳以上80歳まで可。性別も男性・女性・中性・無性OK」と書いたら、50歳以上の人、性別曖昧な人の応募が異様に多かった!実際、採用した人の内3割が50歳以上で最高齢は75歳、性別も男の娘・女の息子さんが2割ほどを占めたので、トイレはムーランと同様の男女中3区分を設置した。男の娘でも女にしか見えない人は女子トイレの使用を許可した。逆も同様である。
 
コロナ騒ぎでは消毒用アルコールも不足したが、若葉たちはアルコールを自己生産していたおかげで、これも足りなくなることなく運用することができた。エタノールはムーランのトレーラーの燃料に使うつもりだったのだが、取り敢えずエタノールの引き合いが多いので、全面消毒用途に供給することにした。
 

千里が仙台のクレール若林店に隣接した土地を買った件だが、千里はこの約12haの土地を1月4日に買っている(代金支払い及び登記移転日。書類上は12月31日付の売買)。ところが、その後、この付近の土地を買うのならうちも売りたいという希望を地元の複数の不動産屋さんを通して言ってきた人たちが随分いた。
 
千里は冬子・若葉とも相談の上、その土地をSMP(Summergirls-Moulin-Phoenix)で購入することにし、結果的に当初買ったのと同じくらいの面積の土地を購入。買収した土地は合計25haになり、その内“ほぼ”四角形になる450m×510m(南西側が県道で三角形に切り取られるので約22.2ha)を“仮称・若林植物公園”として整備することにした。
 
今回の開発では道路の形状を変えるし、盛り土などもするので開発許可を取る必要があった。それで千里は弁護士さん及びムーラン建設の鳥越常務(設計部長。以前大手ゼネコンに居た人で、ムーラン建設の設計書は最終的に当時の先輩にあたる人に監修してもらっている)と一緒に必要な書類も添えて仙台市の土木課を訪れた所、若林区でそういう巨大開発をするというのに驚いた当局から、少し話がしたいと言われ、最初は土木課長さん、その内助役さん、最後は市長さんとお話しすることになった。
 
それで(冬子は多忙なので)あらためて千里・若葉は各々の顧問弁護士を伴い。鳥越さんも連れて市役所を訪れ、市長さんと会談した。
 

「体育館を2個並べて建てるんですか?面白いことしますね」
「それで両者の壁を取り払うと2万人入る巨大ライブ会場が出現するという仕組みなんですよ。ローズ+リリーの公演で使う予定ですし、ひょっとすると夏休みのアクアのツアーでも使うかも知れません」
 
「アクアちゃんが来てくれると凄いですね!」
 
と市長さんは大いに良い印象を持ったようである。
 
「でも体育館2つも作るならプールとかも作らないんですか?」
「プールですか?特に考えてなかったですけど、そのくらいは作ってもいいですよ」
 
「あ、ついでにテニスコートもあるといいなあ。東北は冬季の間はテニスの練習ができないんですよ」
 
「その話は昨年石川県で体育館建てた時も言われました。だったら、公園の東端にテニスコートとプールを並べましょうか」
 
「あ、どうせなら屋内陸上競技場とかはダメですか?インフィールドではサッカーとかラグビーができるようにして」
 
「天然芝は難しいですけど、人工芝でもよければ、この南側の駐車場予定地に建てちゃう手はありますね」
 
屋根付きで天然芝にするには、札幌ドームがやっているように隣接する同面積の場所で養生しておいて、公式戦の時だけ屋内に移動させるような仕組みが必要で面積が倍必要だし、移動のシステムを作るのにもお金が掛かる。
 
「人工芝でいいです。国際大会とかは 弘進ゴムアスリートパーク仙台を使えばいいと思うのですが、やはり陸上も冬季の練習が課題なんですよ」
 
「駐車場は1400台駐められるようにするつもりだったんですが、ここを陸上競技場にしてしまうと400台くらいしか駐められなくなりますが」
 
「そのくらい駐められたら充分でしょう」
 
「市長さんがおっしゃるなら」
 

そういう訳で、ここにはテニスコート、プール、陸上競技場(いづれも屋内)も建設されることになったのである。
 
「でもこの右側(東側)の緑色の部分は何ですか?」
「ああ、それは友人が『スキーしたい!』というもんで、ゲレンデでも作ろうかと思ったんですが」
 
「ゲレンデですか?」
「小さい山を作って500mの斜面を滑り降りるんですよ。町中で500mも滑られるといったら絶対需要があるといわれて」
 
この説明に対して市長さんは
 
「それはいいですね!面白い」
と言ったのだが、土木課長さんが懸念を表明した。
 
「待ってください。こんな細いエリアに造山したら崩壊の危険があると思います」
 
ここは造山するというより、堅い地盤を“持って来て置く”つもりだったのだが、“人間”には無理な作業だ。
 
「うちの技術なら万が一にも崩壊することはありえませんよ」
と鳥越さんは言うが、土木課長は絶対危険だと主張した。
 

すると市長さんは唐突に言った。
 
「それならですよ。ここに天井が斜めのビルを建ててですね、その斜面を滑り降りるというのはどうですかね?」
 
「ほぉ!」
「面白い」
「行けるかも」
 
そういう訳で、市長さんの思いつきの妥協案で、ここには山ではなくビルが建てられ、その天井を斜めに作成して、そこに土を敷き、雪が降ったらゲレンデにするという案が採用されることになった。
 
「ここにビルを建てるのなら、テニスコートやプールはその内部に作ればいいですよね?」
 
「そうすればお花畑の面積が圧迫されない」
 
それで千里や若葉、市長さんに、スポーツ課の人も入ってもらって検討している内に、この斜めの“ゲレンデビル”にはこのような施設を作り込むことになった。
 
1F プール(50m, 25m, 飛び込み用)
2F テニスコート
3F スケート場(フィギュア仕様 60m×30m)
4F グラウンド・ゴルフ
5F 剣道(板張り)・柔道(畳)・空手・レスリング
 
プールを1階に置くのは、水を溜めるためにその下を3m掘る必要があるからである。2階以上にプール(特に50mプール)を作る場合は、その分の床の厚さが必要になるし、ビル本体も丈夫さが求められ建築費がかさむ。柱も多くする必要があり、設計上のネックになる。
 
リンクはスピードスケート用のも欲しい所だが、面積が足りない(スピードスケートのリンクは陸上競技の400mトラックと同じ広さが必要)ので諦めることにした。
 
「ここまで施設があったら合宿が出来ますね」
「そうだ、選手が泊まれるような宿舎を作りませんか?」
 
「若葉?」
「いいよ。そのくらい」
 
それでこの施設はスポーツ施設部分は千里、宿舎部分は若葉が担当して建設を進めることにした。
 
「でもこれどのくらい掛かる?」
と千里は鳥越さんに尋ねる。
 
「800億円くらいだと思いますが」
「そんなに!?」
「ドーム球場が建つじゃん」
 
「この面積はドーム球場並みですよ。高さもこれ80mくらいになるから、ドーム球場より高いです」
 
「建設費を圧縮しましょう。あるいは仙台市さんも出資します?」
「そういえば球場がありませんでしたね」
「もう土地がありません」
 
「ここに隣接するあるいは近くの土地を市で買って球場建てる?」
と市長さんが助役さんを見て言うが
「私に訊かれても困ります」
と助役さん。本当にそうだ。球場1個建てるとなると、ドーム球場でなくても軽く100億円くらいは飛ぶ。簡単に返事ができる問題では無い。
 
「でも球場はまた後で考えることにして、うちも出資してもいいんじゃない?」
「それは充分検討に値すると思います。その分、市民の入場料を安くさせてもらうことにして」
とスポーツ課長さんは言っている。
 

それで建設費を圧縮するのに検討していたのだが、根本的な問題として例えば500mにテニスコートを並べると23個設置できるが、こんなに要らないのではということになる。それでビルの面積は半分にして、北側の約半分はビルとか建てずに、代わりに地面を掘ろうということになる。盛り土は崩れやすいが、地下はしっかり山留めしておけばそう簡単に崩れるものではない。半地下にすることでビルの高さも抑えられ、面積も半分(実際には長さを半分にすると床面積は3分の1になる)にすることで、鳥越さんの見立てて200億円くらいで行けるというところまで行ったのである。↓がその概略設計図である。
 

 
宿舎は延べ床面積11837m2で、単純計算すると4人部屋が300個くらい設置でき、1200人程度が泊まれることになって、合宿所としては充分な広さである(実際には廊下・エレベータなどの面積も必要なのでたぶん1000人程度)。
 
この数は床面積を単純に1部屋40m2として割り算したものだが、窓のある部屋だけで構成する場合は、東西方向総延長236.75m、南側(50m-20m)×4なので1部屋3.6m×10mとした場合で、約100室、400人程度の宿泊ということになる。中央の空間はサロンやトレーニングルームなどとして使うしかない。
 
(ここが旅館・ホテルの類いと考えると窓は必要だが、単なる事務所でそこに勝手に寝るだけとみなせば換気扇を設ける条件で窓は不要。この件は市側の判断に委ねることにした:津幡の場合はフォーク状の構造にして全客室に窓を設置しているが、ここは天井がゲレンデで塞がるのでそれも不可能)
 
なお、ゲレンデを南側から北へ向かって滑るようにするのは、南向きだと太陽が目に入ってまぶしく危険であるのと、雪が融けにくいようにするためである。
 

「200億円なら若葉のおやつ代程度だよね?」
「私はマリちゃんじゃないよ!でも200億円なら、私と千里と冬で70億円ずつ。負担感の無い金額だね」
 
「それに市も一口のせてもらうということで」
「どのくらい出資なさいます?」
「10億円くらいでもいい?」
「いいですよ。公園全体の整備費が300億円くらいだと思うので、でしたらその3%程度の株主ということで」
 
陸上競技場と2つの体育館が各20億円くらい、公園全体の整備費で40-50億円程度という鳥越さんの概略見積もりであった。
 
「じゃその線で議会にかけるから」
「はい。よろしくお願いします」
 
(実際には三角館は150億円でできたので全体の整備費も250億円で済んだ。それで仙台市は4%の出資者となった。千里・冬子・若葉の出資額は80億円(32%)ずつである。市は少数株主の権利が生じる3%以上にしたかったらしいので、ちょうどよかった)
 
しかし少額であっても市が出資したお陰で(形式的には第三セクターになる)、色々便宜を諮ってもらえることになったし、固定資産税も掛からないことになる。
 
使用料は格安になったが!
 
(収入は維持費程度になるが、千里も若葉も元々儲けるつもりはない。千里は体育館を作りたいだけだし、冬子は大会場が欲しいだけだし、若葉はお金を減らしたい!だけである)
 
ゲレンデを除いては24時間営業するというのに市は驚いていたが、実際にはけっこう深夜の利用者があり、それがこの“七夕スポーツセンター”(と市長が勝手に命名した!)の売りにもなっていくことになる。
 

そういう訳で公園の全体図はこのようになった。駐車場は450台まで減っていたのだが、購入したもののデコボコになってしまい公園としては使えない“端切れ”の土地の一部を駐車場として整備し、最終的に1050台の駐車を可能にした。
 

 
体育館の名前はヴェガ・アルタイルで考えていたのだが
「漢字の方が格好良いですよ」
と市長さんが言うので、織姫・牽牛になった。でもオープン後“牽牛”が読めずに“とんぎゅう”とか“いんぎゅう”などと誤読する人が大量発生した!
 
「牽引(けんいん)ならみんな読めると思うのに」
「最近はみんな漢字を書かずにカナ変換だからね〜」
 
第2駐車場のそばに“第2研修所”を建てることにした。建物の構造としてはクレール女子寮とほぼ同じ仕様である。織姫・牽牛は夏頃までにできるのに、ゲレンデ下の“三角館”は播磨工務店の力をもってしても、どうしても冬直前の完成になるので『夏休みに合宿したい』という要望があったからである。
 

なお、公園周囲の青い通路のような部分はジョギングウェイである。公園のサイズは450m×510mだが、塘路の幅が6mあるので、周囲の長さは((450-6×2) + (510-6×2))×2= (438+498)×2=1872mとなり、2kmに128m足りない。そこで公園西側に64m往復の枝道(形の上ではループ)を作り2kmに辻褄合わせすることにした。むろん距離を気にせず散歩する人はこのループを通らずショートカットしてよい(サボリたい運動部員も先輩が見てなきゃ、きっとこっそりショートカットする)。
 
ここは津幡でしたように100mおきに距離表示をペイントし、50mおきに“むすび丸”の顔が描かれることになった。このあたりも市が出資しているおかげで面倒な権利問題が生じない。
 
例によって400mおきにトイレがある。
(立ちションしたら画像公開して去勢!などと警告文を入れている)
 
なおジョギングロードは全て屋根付き・壁付きなので、津幡同様、冬季や雨の日でも安心してジョギングできる。壁は透明なポリカーボネード、屋根はある理由でトタン波板になった。実はここに屋根を付けたひとつの理由はゲレンデから転落する人・また自殺しようとした人があった時、アスファルトの地面に叩き付けられたら即死するが、トタン屋根に落ちたら助かる可能性があるから、というのもあった(むろんゲレンデ両端は転落防止のため充分な高さの壁を設置するが、時々常識では考えられない行動をする人も存在する)。
 
なお、ジョギングコースは、雨・風からは内部を守るが空気はどんどん入ってきて出て行くようにして換気をよくしてある。内側・外側へのドアは20m置きにあるが、当面は津幡同様、これを全開放して、感染症予防とすることにした。
 
それで津幡でも発生したように、ここにジョギングだけの目的でわざわざ車やシャトルバスでやってくる人たちが発生した。
 
なお、和実がバス会社に毎月50万払って仙台駅・中央通との間で運行してもらっていたシャトルバスは、SMPが引き継ぎ、仙台駅および中央通りから、公園前・織姫前とクレールまで客を運ぶことにした。運行頻度も30分に1本ずつにする。仙台駅との往復便がクレール青葉通り店ビル前にも停車する。負担比率はClair:SMP=1:9 .
 
バスも窓は全開放で、連れの人以外は隣り合って座るの禁止。また1列おきに着席するように座ってはいけない座席には風船を置いた。
 
なお公園全体は約2.5m盛り土でかさ上げしており、織姫まで行くシャトルバスは、公園地下の通路を通って体育館まで行く。(バスを通すためその部分だけ2m地面を掘った:4.2m程度以下の車両が通れる。使用しているバスの車高は3.3mだが、ハイデッカーでも3.7m程度)
 
なお、この公園の盛り土に使用したのは、津幡アクアゾーン地下とクレール青葉通り店ビルの地下、この公園のゲレンデ地下部分を作るのに掘った土の内、小浜ミューズシアター、ゲレンデ・ビル天井の上に敷く土、で使用しなかった29万m3の土である。盛り土部分の面積が11万m2なので盛り土の高さは約2.5mになった。実際にはこれに培養土なども買って敷いているので2.7mほど道路より高くなった。
 
駐車場、織姫・牽牛、“白鳥”陸上競技場などは元の地面の高さから建築・整備したので、織姫・牽牛には3mほどの地下っぽいフロア(実は1階)ができて、これを利用して、ステージや選手控室などを昇降させる仕様にした。
 

さて、織姫・牽牛はその昇降部分を除けばとてもシンプルな構造にしている。↓は織姫のレイアウトで、牽牛はこれの左右対称版である。

 
体育館のフロアは 120m×80mで、2階(本当は3階)は22mずつである。床には普段はバスケット、バレー、バドミントンのラインを引いているが、公式戦がある場合はタラフレックスを敷く。またテニス用のカーペットも用意しておき、三角館が出来る前でもこちらで練習ができるし、三角館完成後もサブコートとして使用できるようにする。卓球台は“たくさん”用意してと市から言われたので、取り敢えず100台買った。9600m2の体育館全面に卓球台を並べると99台並ぶ計算になる。むろん両方使えば198台並べられるが、そんな凄い大会はたぶん無い。
 
トイレやロビーも入れて体育館の内寸は114m×142m. これに外壁を入れると外寸は2つの体育館合わせて南北に144m 東西に230m (114×2+2)という数字になる。
 
バスケをする場合、2Fのセンターコートから3Fテラス席先端までの距離は左右も後方も約32mなので、センターコートからテラス席先端を見上げる仰角は傾斜 0.125 (4m÷32m)になる。これに“前々列の人の頭が邪魔にならないように”0.065 (13cm÷2m) を加えてテラス席の傾斜は0.19 (10.7度) にしている。22mで4.18m上がる計算である。例によって座席はスタッガードである。
 
1Fの大半と、後方テラス席下の2Fには控室・用具庫・会議室等がある。↑の図面で左側にずらっと並んでいるのはトイレである。女子トイレ個室16, 男子トイレ小便器14+個室3, 多目的トイレ5室を1ユニットとして1-3F各々に10ユニットずつ設置されているので、合計便器数は女子480 男子420+90 多目的150 合計1140 である。14000人入る会場には便器総数700のトイレが必要だが、基準の1.6倍のトイレが用意されている。
 
ライブをする場合の座席数は最大で14300席になる(織姫牽牛の両方使う時はこの倍)。実際の発売席はPAや見切席などを除いて実際には12000席程度と想像される。
 
ステージ中央から終端席までの距離は左右が各々60m以内、ステージ正面側が100m以内である。津幡火牛アリーナだと140mあったので、収容人数は多いのにコンパクトな会場になっている。これは織姫と牽牛をお互いにサブアリーナとして使用できるということから実現できたものである。
 
織姫と牽牛の間の仕切板を取り外せば最大28600人入る会場が出現する。このあたりの会場レイアウトの設計は冬子と千里が一週間掛けて悩んだ末に決めたものである。体育館の建築費は織姫・牽牛合わせて40億円。こんなに低額で抑えられたのはそもそも“余分なもの”を設置しておらず、ただ試合やライブができればいい、という実用重視の設計であること、そして播磨工務店の施工であり、また木材は全て千里が自分の山・自分の製材所から供給し、また防音板やポリカは千里が所有する若狭工場・草津工場の製品を使っていて中間マージンが不要なので、安価に使用できたからである。
 

「この右側の部分って何?」
と図面を見た和実は言った。
 
「ゲレンデだよ。仙台市内に550mもあるゲレンデがあれば絶対需要はあるという意見があって作ることにした。ゲレンデの下にテニスコートとかプールとか作り込むことになったんで、思わぬ費用が掛かることになったけどね」
 
「それって冬だけ?」
「雪は冬しか降らないから」
 
「提案。夏も滑られるようにしようよ」
と和実は言った。
 
「どうやって?」
「人工雪を降らせる」
「この面積に人工雪を積もらせるなんて凄まじい費用が掛かって入場料2万円くらい取らないと採算取れない」
と千里は言う。
 
「んじゃサマーゲレンデでもいいよ」
と和実。
「それどんなの?」
「千里、北海道に住んでた頃、草スキーとか枯葉スキーとかやってない?」
「やってない。私はバスケ一筋だもん」
「そっかー」
と言って和実は
「サマーゲレンデにも色々な種類があるんだよ」
と言って説明してくれた。
 

雪が降らない夏にもスキーに似た感覚の滑走を体験できる場所を総称してサマーゲレンデと言う。
 
■タイヤやキャタピラの付いた器具を使用するもの
 
(1)草スキー(グラススキー)
 スキーブーツにキャタビラあるいはタイヤの付いた器具を装着し、草の上を滑走する。秋に枯葉の上で滑る枯葉スキーも同類。
 
(2)インラインスケート
 ウィール(wheel つまりタイヤ)が1列に2-5個並んだスケート靴を履いて滑走する(普通のローラースケートは"Quad"と呼ばれる)。
 
(3)グレステン
 スキーブーツに“グランジャー”というタイヤの付いた器具を装着し、プラスチックの斜面を滑走する。
 
■普通のスキーで滑り降りるタイプ
 
(1)人工雪
主として室内でスノーマシンを使用して雪を作りだし、その上で滑走する。スノーマシンのコストが高いので、多くは室内で10-30m程度の短いゲレンデである。
 
(2)プラスノー
 
普通のスキーで滑り降りることのできる“プラスノー”と呼ばれるプラスチック製のマットを敷き詰め、その上を滑走するもの。サマーゲレンデの中では最も普通の雪上スキーの感覚に近いと言われている。
 
プラスノーの種類として、PIS*LAB(ピスラボ)、カービングマット、スノーエースなどの種類がある。形状としてはプラスチックのブラシを逆さにして並べたような形状をしている。感覚的にはアイスバーンの上を滑る感覚に似ている。エッジが利かないので、ボーゲンなどの安定した滑走法を使用するのがお勧め。格好良く曲がろうとしたら派手に転んで病院送りになる。
 
転ぶと怪我しやすいのでローラースケートをする時のようなプロテクタは必須。肌を露出しない服装で。また雪の上よりスキーの板が痛みやすいので、古くなったスキーを使うか、あるいはそのゲレンデが用意したレンタルスキーを利用した方がよい。プラスノーに特化したスキー板も存在する。
 

「それ怪我人続出しない?」
と千里は尋ねたが、和実は
 
「自己責任で」
と言った。
 
「まあ傾斜10度くらいなら、そんなにスピードも出ないだろうし、導入してもいいかもね。誰かその方面に詳しそうな人を紹介してよ。監修してほしい」
 
「んじゃ気が進まないけど、岩田明保って人。以前東京の神田店や銀座店によく来ていたんだけど、去年仙台に引っ越して来てさ。最近はよく若林店に顔を出している。元々新潟県の十日町の出身でスキーもスケートもうまい。サマーゲレンデもかなりやってる」
 
「詳しいのなら話をききたいけど、気が進まない理由は?」
 
「女の子に手が早いんだよ。メイドの身体にタッチしたりするから、神田店、銀座店、そして若林店でも何回も出禁くらってる」
 
「だったら去勢しちゃえばいいね」
と千里が言うと
「ジョークに聞こえないんだけど」
と和実が言う。
 
「犯罪者になるのを未然に防いであげるんだよ」
 

千里は岩田氏と会い、彼の助言でサマーゲレンデを導入することにした。
 
千里は岩田氏に3種類あるというプラスノーのタイプについて尋ねた。
 
「スノーエースは毛が長いから倒れてもしっかり受け止めてくれるけど、スキー板のコントロールがしにくい。ピスラボは毛が短いからグリップが利きやすいけど、転倒すると怪我しやすい。カービングマットはその中間で両者のいいとこ取りを狙ってる」
 
「じゃ怪我しにくいスノーエースにしましょうか」
「こんな仙台市内とかでやったら一般客が多いだろうからそれがいいかもね」
 

岩田は千里と会うなり肩に触ってきたが「次触ったら去勢しますよ」と言うと「怖いこと言うねぇ」と言ってその後は触らなかった。
 
「なんなら性転換手術してくれる病院に放り込みましょうか?手術代は岩田さんのカードで払っておきますから大丈夫ですよ。それで女の子になって、クレールのメイドになるとか」
 
「万一そういうことになったら和実ちゃんに採用してもらおう。でも手術代、カードで払えるの?」
「ゴールドカードなら行けますよ。それでお股のゴールドを徴収するということで」
 
「あんたダジャレのセンスが悪いよ」
 
前頁次頁目次

1  2  3  4  5 
【春気】(3)