【春封】(5)

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紺野君は28日の夜に戻って来たが、26-28日の3日間は男手が伊藤君だけになったので、彼にはけっこうな量の力仕事をしてもらうことになった。むろん和実の父も手伝っている。
 
29日にメイドさんのクロミ、コリン、ルシア、リズが来てくれる。早速若葉が彼女たちにコーヒーの入れ方を指導する。取り敢えず今回抽出担当になっているのはクロミだけだが、他の子も現場での状況次第ではコーヒーの方に回ってもらう可能性もある。コーヒーの抽出器具は20セットほど持って行く。
 
「これって豆の種類によっても蒸らす時間とか変わるんですか?」
 
「うん。粗挽きか中挽きか細挽きかによっても違う。豆の種類、煎り方によっても違う。器具によっても違う。概して粗挽きはゆっくり抽出しないといけないし、細挽きは速くてもいい。でも敢えてゆっくり抽出して味の深みを出す方法もある。速い抽出はカフェインを多く含み、ゆっくりした抽出はタンニンが出てくる。実は安いコーヒー豆でもゆっくり抽出することで、まるで高い豆で入れたような味になる場合もある。有名なのではサントスのスロードリップをやると、トアルコトラジャに似た味になる」
 
「うっそー!?」
「それキュウリに蜂蜜でメロン味みたいな?」
 
「うーん。やや違う話のような気もするけど」
 
「ただのショートパンツでも、可愛い男の娘が穿くとキュロットに見えるような?」
とマキコが茶々を入れる。
 
「えっと・・・」
とコリンが悩んでいる。
 
「まあそれでともかくも、モカブレンド中挽きで今回使う器具では蒸らし時間は15秒、抽出速度はあふれさせない速度でいいから、まずはこれを覚えて」
 
「分かりました!」
 
なお、マキコやライムはコーヒーの入れ方も上手いのだが、彼女たちは他の作業で謀殺されていた。
 
この日の午後は、彼女たち4人には、ペットシュガーとコーヒーフレッシュ、マドラーをセットにしてビニール製小袋に入れる作業も進めてもらった。セットにしたものはどんどん段ボール箱に放り込む。
 
「複数くれと言われた場合は1人最大3個までということにしてね。あまりに大量に欲しがる人は、それ絶対自宅用にキープしようとしてるから」
 
「ごめんなさい。砂糖4個入れて飲んだことあります」
「それ健康によくないよ〜」
「だってコーヒーって苦いんだもん」
 
「じゃ4個までは認めることにしよう」
「了解!」
 
「あと、現場でも再度言うと思うけど『砂糖要らないから』とか言われて、お客様からこの袋が返された場合、それは再利用せずに廃棄してね。万一、悪意のあるお客様が変な加工をしたものを返したりしていたら大変だから。これは安全のため」
 
「安全のためだけどエコじゃないんですね」
 
「仕方ないね。普段のお店でなら、しっかり見ているから大丈夫なんだけどね」
 

「ところでここの人間関係がよく分からないんですが」
とルシアが質問した。
 
「20歳くらいの感じでよく動き回っている人が店長さんですよね?」
「そうそう。はるかちゃん。この店でいちばん偉い人」
と若葉は答える。
 
「エヴォンの神田店と銀座店でチーフしてましたね」
とエヴォンに在籍していた子が言う。
 
「ハーミーさんは、お友達ですか?」
「うん。エヴォンで一緒だったし、実は大学も一緒だったんだよ」
「へー!すごい」
 
「はるかさんのお母さんみたいな人が2人いるけど」
「赤ちゃんを抱いているのは、店長の本当のお母さんで、若い方の人は店長の旦那さんだよ」
 
「え〜!?旦那さんって、まさか男の人なんですか?」
「もう事実上女になっていると思うよ。おっぱい大きいし、たぶん玉も取ってるんじゃないかなあ。最終的な工事はまだみたいだけどね」
と若葉は言っている。
 
「最終的な工事というと・・・・」
「ゴムホースを撤去してグランドキャニオンと鍾乳洞を作る工事かな」
「おぉ!」
「そしたらほとんど女ですね」
「いや、それが目的の工事だから。工事が完了したらもう天然の女性と見分けが付かないと思うよ」
 
「女にも天然物と人工物があるのか」
「養殖ものという人もあるよ。女性ホルモンで長年掛けて改造してるし」
「養殖女かぁ」
 
「元はマスだけど、サケ用の餌を食べさせていればサケに成長するよ、みたいな感じかな」
「それ、どこかで本当にやってそうで、ちょっと怖い」
 

「でも旦那さんが女装して、女みたいな身体になってしまっても構わないんですか?」
 
「好きなら性別はわりと超越するかもね」
 
「なるほどー」
「でもセックスはどうやるんだろう」
「レスビアンと同じだと思うよ」
 
「そうか。レスビアンになってしまうのか」
「男の人と結婚したつもりがレスビアンになってしまうって詐欺みたい」
「まあ男を装っていた部分の方が詐欺だよね。中身は元々女だったんだから」
「なるほどー!」
「もっともあのふたりの場合はそれを承知で結婚したみたいだからね」
「へー。そういうのもあるんですね」
 
「22-23歳くらいの凄く格好いい男の人は?」
「あれは私の元カレで、このお腹の中の赤ちゃんの父親」
「元カレって、今はカレじゃないんですか?」
「うん。別れた。でも今回は協力してもらっている」
 
「へー」
「ちなみに彼は店長の元恋人でもある」
「うっそー!?」
 
「私と店長が元々親友だから、その縁で私と彼は知り合ったんだよ」
「そうだったのか」
 
「でも店長があの人を見る時、かなり意識してますよね」
「あの2人恋人なのかと思った」
 
「やはり女になってしまった旦那より、男のままの元彼の方がいいとか?」
「あの赤ちゃんはあの人と店長の子供ですか?」
 
ああ、この子たち色々面白い想像をしているみたいだな、と若葉は思った。
 
「違うよ。旦那がまだ精子がある内に冷凍保存していたのを使って妊娠したんだよ」
 
このあたりの話は、実は若葉は和実たちの話と桃香の話を混同しているのである。
 
「なるほどー。冷凍保存か」
「そうか。男の人は、必要なものさえ冷凍保存しておけば、ノズルとポーションの素は撤去してもOKか」
「ポーションの素の方は冷凍保存しておけば後で使えるかもね」
 
「そういえばアクアってそれを取り外して冷凍保存してるらしいね。だからもう15歳にもなるのに声変わりしてないけど、結婚する時は解凍して身体に戻すんだって」
 
「私は男の子になりたかった女の子の身体に移植したと聞いた。だからアクアの子供が作りたい場合は、その人から精子を採取すればいいんだって」
 
「いや確か必要な数の精液の冷凍ストックを作って除去したと聞いたけど」
「あ、それがいちばん現実的っぽい気もする」
 
なんか無茶な噂が広まっているなと若葉も思う。ただどっちみちアクアには既に睾丸が無いということでファンの見解はほぼ一致しているようだ。
 
「アクアはあの声を維持しないといけなかったし、ファンもそういう運動をしたから仕方ないけど、ふつうの男の人は撤去したくないだろうけどね」
などとコリンは言っていた。
 
「暴力男はむしろどんどん去勢すべきかもね」
という意見も出て。みんな腕を組んで考え込んでいた。
 

「ところでマキコさんは副店長さん?」
「うーん。。。あの子、何か偉そうにしてるよね。今回参加するメイドの中では唯一の未経験者なんだけどね」
 
「うっそー!?」
「凄い貫禄あるのに!」
「ちなみに23-24歳くらい?」
「19歳だと思うけど」
 
「うっそーーーー!!?」
 

31日の早朝(というより30日深夜)から御飯を炊き、それを予め冷凍しておいた具と混ぜ、調味料とバター・ケチャップも入れて混ぜる。
 
この作業は、和実と淳、それに胡桃まで動員して3人で行った。時間帯が時間帯なので他の人には頼めない。この作業をするため、和実と淳は30日の夕方から仮眠していた。
 
できあがったケチャップライスはポリエチレンのラップを敷いた保温容器に詰め、それをハイエースに積み込む。ハイエースにはこの他大量の卵、コーヒー豆、紙のコップと皿、プラスチック製フォーク、紙ナプキン、ペットシュガーなどのセットを入れた段ボール、5升炊きのジャー、コーヒー器具、フライパンなど、を積み込んだ。水はこのハイエースだけでは乗りきらないので、麻衣が東京から持って来てくれたコモにも積み込んだ。ガスボンベとコンロ、テーブルや椅子などは、淳がレンタルした軽トラに乗せて運ぶ。そちらには和実の父も同行した。
 
ハイエースとコモに2人ずつ、プリウスに4人、RX-8に4人、伊藤君のフリードに4人、乗って現地に入る。到着したのは10時くらいである。淳と和実の父、伊藤君と紺野君の4人でテントを立て、テーブルと椅子を配置する。ガスボンベとコンロを設置する。女子たちは物を車からテントまで手分けして運ぶ。
 
(和実の父は設営の時だけ居て、準備ができた所でいったん帰った)
 
電源は線を引いてきてもらっているので、そこにジャーをつなぎ、最初の1個の保温容器からケチャップライスを移した。2つ目はもっと開場時間が近づいてからにする。
 

現時点で来ているのは★★レコードやイベンターのスタッフと、一部の出演者のみである。会場の外に来ているお客さんもまだパラパラの状態。
 
和実たちが作業のシミュレーションをしていたら、政子と風花がやってくる。
 
「やっほー。和実たちも出店してたんだ?」
「1軒、事情で出店を中止した所があって、その代わりに出させてもらったんですよ」
 
「取り敢えずオムライス2つとコーヒー2つ頂戴」
「はい!」
 
手順通り、型押し係の照葉が御飯を型に盛り、紙の皿に乗せる。溶き卵係の淳が溶いた卵を、卵焼き係の和実とマキコが卵を焼き、ごはんの上に乗せる。
 
「本当は今日は完熟にするんですが、まだ本番前だし、マリさんだから半熟にしますよ」
と和実は言って、半熟の状態で卵を乗せた。
 
「お絵描き何か希望の言葉がありましたら?」
とお絵描き担当のエルムが尋ねる。
 
「じゃ、ケイのバカ〜!って書いて」
「え〜〜〜!?」
 
それでも希望通りの言葉を描く。風花は「RL2017」と希望したのでそう描いた。
 
「美味しい!!」
と政子が言う。
 
風花も
「いやこれほんとに美味しいですよ」
と言っている。
 
「良かった。マリさんに褒めてもらえた」
「これ気に入った。取り敢えずあと3個ちょうだい」
「はい、他の方へのお土産ですか?」
「ううん。私のおやつ」
 
それで紙の皿にプラスチックのカバーを掛け、3個入れて紙袋の大に入れて渡した。
 

そして・・・これをきっかけに、ローズ+リリーの伴奏者さんたちで早めに来ていた人たち、更には★★レコードの社員さんや、イベンターのスタッフさん、更には他の出店の人まで偵察を兼ねてかやってきて、オムライスやコーヒーを注文した。
 
「お客様を入れた後は卵は完熟にしますが、まだオープン前なので本来の仕様の半熟で提供しています。すぐにお召し上がり下さい。すぐ食べない方は、言ってくださったら完熟にしますので」
 
と和実たちは呼びかけた。
 
「コーヒーをその場で立てるとは」
と驚いていた人たちもいた。
 
「最高速度で6秒に1杯提供できることをシミュレーションして確認しました」
「すげー! ちょっと俺たちには真似できん」
 
「でも400円頂いていますし」
「俺たち作り置きのコーヒーで500円取るつもりだったのに」
「ごめんなさーい!」
「いや俺たちも400円にしよう。500円は取り過ぎじゃないかという意見もあるにはあった」
 
このあたりはこちらが“ほぼ全員女子”でしかも可愛いメイド服なので、向こうも強く出ず、揉め事にならずに済んだのではという気もした。
 
そういう訳で、観客を入れる前に、オムライスが120食とコーヒー200杯が売れてしまったのである。
 
取り敢えず今日の労賃分は出た!
 
このイベント開場前にはまとめ買いする人が多くて、手提げ袋を50枚ほど使用した。
 

「君達のユニフォーム、すっごく可愛いね」
などと言う人たちもある。
 
「東京のエヴォンというお店と同系列なんですよ。グランドオープンは3月ですので」
と言って、興味を持ってくれた人には用意しておいたお店のパンフレットを配った。
 

パンフレットでは外観の写真、許可を得て掲載したエヴォン銀座店のライブパフォーマンスの写真、メイド服を着た和実とマキコの写真を掲載。出演してくれるアーティスト募集中、女性スタッフ募集中というのも出している。
 
(メイド服を着て写っている2人が、どちらも生物学的には女性ではない!しかし伝説のトンデモ本『メディア・セックス』によれば女の子のモデルより男の子の女装モデルの方がポスターなどでは人目を惹くという話だった)
 
裏面には「3月30日(木)16:00グランドオープン」「駐車場30台完備」と表示した上で地図と営業時間、メニューなど、それにホームページのURLも掲載している。
 
なお、ホームページは鋭意、淳が作ってくれた。
 
パンフレットには「グランドオープンまでの間も数日前に予約して頂ければパーティー、仕出し、ライブ公演(最大、椅子席で250人,立見で470人収容)、などに応じます」とも書いておいた。グランドオープンはアールヌーボー調のテーブル等を入れ、内装工事を終えるまでは出来ないものの、日銭稼ぎである。
 
また、募集中の女性スタッフについては「女性用ユニフォーム(7-11号)を無理なく着られる人なら生物学的な性別は不問」とわざわざ書いておいた。
 
「それ男の娘がたくさん応募してきたりして」
「可愛ければ問題無い」
 
「男の娘がたくさんいると、お店の趣旨が変わったりしてね」
 
などとマキコが言っていた。完璧に開き直っているようである。
 

青葉と千里も来たが彼女たちは
 
「夕方まではすることないから手伝おうか?」
と言ったので、
 
「頼む」
と言って、予備に持って来ていたメイド服を着せて手伝ってもらった。ふたりとも料理がうまいし、鉄のフライパンで卵を焼けるので、これを代わってもらった。
 
「おふたりはミュージッシャンさん?」
とライムが尋ねる。
 
「そうそう。ふたりとも笛の担当。主として龍笛といって日本の伝統的な笛」
と千里が言っている。
 
「ふたりは笛も上手いけどいい曲も書くんだよ」
と和実が言う。
 
「作曲家さん?」
「たぶん作曲の印税の方が多いよね」
 

「ちなみにお名前は?」
「こちらのお姉さんのように見える方が実は妹で、大宮万葉」
と和実が言うと青葉は苦笑している。
 
「槇原愛とか、スイート・ヴァニラズとかにけっこう曲を提供しているけど、最近はかなりアクアの曲を書いているね」
 
「すごーい!」
 
「こちらの妹のように見える方が実はお姉さんで、鴨乃清見」
と和実が言うと
 
「え〜〜〜!?『ブルーアイランド』とか『門出』の?」
「彼女はマスコミにほとんど露出していないから、顔が知れてないよね」
「まあね」
と言って笑いながら千里は卵をどんどん焼いていた。
 
「あのぉ、先日YS大賞を欠席した理由って訊いてもいいですか?」
とコリンが尋ねる。
 
「当日私は宇都宮で試合やってたんだよ。だから試合が終わった後急行しても赤坂の##放送には間に合わなかった。淳、そこの私のバッグの中から黄色い名刺入れ出して、この子たちに配って」
 
と言うので淳が出して千里の名刺を配る。
 
「バスケット選手だったんですか!」
「あ。この名前知ってる。オリンピックに出ましたよね?」
「うん」
「すごーい!」
 
「オリンピックに出るほどの選手だったら、そりゃ抜けられないわ」
 
「でも人には言わないでね」
と千里は笑って言っていた。
 

前座に出る女子高生ユニット、ボニアート・アサドも来てくれた。
 
「ハートマーク可愛い!」
「オムライス美味しい〜!」
 
などと言って喜んで食べてくれる。彼女たちにはミルクと砂糖を1人3個ずつ付けてあげた。
 
「うん。このくらい甘いのがいい」
などと言っている。
 
お店でライブ演奏者も募集中と言うと、
 
「私たちも出られるかなあ」
などと言っている。
 
「それは構わないけど、メジャーデビューするのでは?」
「メジャーデビューしたからといって、そんなに仕事があるとは思えない」
「なんかレコード会社の担当さんも、やる気無さそうな顔してたし」
 
などと言っている。
 
「そちらの契約書に書かれている事項とかに違反しなければ、来てくれるのは大歓迎」
と和実は言う。
 
彼女たちに付いているプロダクションのマネージャーさんは
 
「契約書には違反しませんよ。たくさんプロモーションしないといけないし、その一環ということで」
と言っていた。
 
「ところで出演したら、オムライスをタダでもらえたりしません?」
などとメンバーのひとり奏和(そな)が訊く。
 
「うーん。。。じゃ1人1食までなら。コーヒー付き」
と和実。
 
「やった!」
「オムライス食べに来よう」
 
そういうことで、ボニアート・アサド(スペイン語で「焼き芋」の意味)はクレールとの契約第1号アーティストになったのである。彼女たちは結局、毎週土曜日に登場することになり、集客に大いに貢献することになる。
 

15:00に開場する。
 
お客さんが入ってくるが、前座が始まるまでもまだ2時間45分ある。場内各所にあるモニターにはローズ+リリーの過去のPVなどが流されていて、CDやDVD, 写真集やグッズなどの物販も行われている。
 
しかし暇なので、出店を回っている人たちもいる。
 
また特に初期段階で入って来た人達は、会場の外でずっと待っていたりしてお腹が空いている。それで出店を物色する。
 
寒いこともあり、会場内で一番売れていたのは、おでん、ラーメン、焼きそばであるが、コーヒーの強烈な香りに誘われて、またはメイド服のビジュアルに惹かれて、クレールの所にも人が集まり始める。多くの出店が2−3人。多くても5-6人でやっているのに。ここだけは狭いテントの中に17人ものメイド服の女子(+男性2人)と人口密度が異様に高い。
 
そしてコーヒーを飲んでくれた人が
 
「すげー。これ本格的だ」
 
などと言ってくれて、おかげでお客が増えてくる。
 
ハートマークを描いたオムレツも「可愛い!」と言って好評である。初期時間帯では、まだ余力があったことから客の注文に応じて希望の言葉を描いてあげていた。これを何種類か頼み、写真をSNSに投稿しているっぽい人達もある。それで結構紙袋に入れて渡すケースもあった。
 
これは青葉と千里も入っていて戦力に若干の余裕があるので、対応できていたことである。
 
結果的には開場して30分もしない内にクレールはフル稼働状態になった。流れ作業になっているので、きちんと立てたレギュラーコーヒーが本当に6秒で1杯売れていく。会計は紺野君と若葉がコーヒーとオムライスに別れて処理している。梓がコーヒーサーバーから紙コップに注いでどんどん並べて行っているので、オムライスとコーヒーの双方を注文した客には、オムライス渡し係のリズとコリンがそちらからカップを取って一緒に渡している。
 
作業が効率化されていて提供速度が高いので、列がどんどん進む。それを見てなかなか進まないおでんやラーメンの出店の列に並んでいた人がこちらに移動してくる現象が起きて、こちらはフル稼働状態が続く。
 
開場前に全員交代でトイレに行っておいたので、そのフル稼働にスタッフが充分耐えられる。
 
結局このフル稼働状態が17:45に前座が始まるまで約2時間続いたのである。
 

前座が始まってからは列に並ぶ人も少し減るので、和実が声を掛けて順番にスタッフを休ませる。青葉と千里は出演の準備があるので抜ける。それでもフル稼働状態の半分程度の結構な速度で、前座1のボニアート・アサド、前座2の金華山金管合奏団の時間帯まで続いたのである。
 
前座トリの姫路スピカの時間帯になるとさすがにゆったりとしたペースになるが、それでもお客さんの列は途切れない。
 
やがて21:45。ローズ+リリーの演奏が始まると、列は消滅したものの、どうも始まる前の段階で列におそれをなしていた人たちがぽつぽつと来て御飯を買っていく姿が見られるようになる。
 
演奏が始まって早々に落雷で演奏が中断され、電気も消えたものの、こちらは電気を使うものはジャーだけなので、電源が落ちてもそう大きな問題はない。調理は全てガスでおこなっている。千里が「これあった方がいいかも」と言って置いていってくれていた大型の懐中電灯を掲げて営業を続けていたら、この雷の直後お客さんが物凄く来て、一時的にはまた列ができていた。
 
会場は一時真っ暗闇に包まれたものの、イベントスタッフが場内に車を入れ、ヘッドライドで場内を照らす対応で、最低限の明るさを維持した。
 
落ち着くと、コーヒーもオムライスも注文を受けてから作る態勢にするが、コーヒーは2分ほど、オムライスも1分ほどで出来るので、それを待って買っていってくれる。
 
22:35くらいに電源が回復し、場内も明るくなるとともにメインスピーカーが復活する。クレールでも他の出店でも、幕間に買いに来る客のために少し作り溜めをする。
 
予測通り、幕間になると大量の人が来て、また列が出来る。作り溜めしたストックが一瞬ではけた上にフル生産体制で稼働する。幕間が終わって公演の後半になり、そこに並んでいた列が消えた所で販売終了である。最後の方は結構また紙袋に入れて売るケースが多かった。
 
すぐに撤収に掛かる。和実の父もまた来てくれる。全員で協力して器具や食材を片付け、ハイエースとコモに積み込む。男性3人がガスボンベ、コンロを軽トラに運ぶ。手の空いた女の子が椅子やテーブルを運ぶのにも協力してくれた。紺野君・伊藤君・和実の父・マキコの4人でテントを畳み、それも軽トラに運ぶ。和実・ライム・麻衣の4人できれいに掃除をする。
 
23:25撤収完了。
 
会場には終了時刻まで居ていいことになっているので、みんなで一緒に最後のカウントダウン、とクライマックス・アンコールまで演奏を聴く。幕間に入る少し前に、和実の父を含む数人で買い出しに行って確保していたおでんを食べながら楽しんだ。報酬は現金で和実がその場で渡したが、淳がそれ以外にポチ袋を配った。
 
「大入り袋ね」
「たくさんお客さん来ましたね!」
 
「どのくらい売れたんですか?」
「コーヒーは4524杯、オムライスは790食出て完売。売上げは228万3600円」
と会計をしていた紺野君が報告する。
「すごー!」
 
「実は現金が240万円ほどあるから、本当は4800杯ほど出たのかも」
「まあ過不足が出るのは仕方ない」
 
「最後はマリちゃんに頼まれたという★★レコードのスタッフさんが残りのオムライス全部買っていったからなあ」
 
「でもそれ事前に計算していた、上限を超えてない?」
と若葉が言う。
 
「越えてる。どうやって生産できたのか分からない」
と紺野君も言っている。
 
「みんな頑張ったんだね〜」
とマキコ。
「だから大入り袋だよ」
と淳。
 
「いくら入っているんですか?」
と言って中身を見た子が
「凄い。1万円札だ!」
と言って喜んでいる。
 
「年末ジャンボも1枚入れているよ」
「当たったら5億でしたっけ?」
「それは前後賞まで当てた場合。1枚だけなら4億円」
「でもこれ誰かが4億当てたら、その前後賞も誰か取るのでは」
「まあ当たることを夢見よう」
 
アンコールの最後まで聴いてから会場を出た。駐車場はスタッフと出店業者だけなので、わりとスムーズに出られる。お店まで戻り、和実の自宅の2階になだれ込んで寝た。男性部屋だけは強調して《男》と書いたでっかい紙を貼り付けておいたので、紺野君たちはちゃんとその部屋に入ったが、女性陣はもう入り乱れて寝ていた。当初入ったはずのメンツと朝起きた時のメンツがかなり入れ替わっていた。
 
ライムなど朝起きた時は男部屋に寝ていて、しかも下着姿だったので身体半分のしかかられて目が覚めた紺野君がガウンを着せて「向こう行って行って」と追い出していた。
 
「ライムちゃん、もしかして実は男の娘だったり?」
と話を聞いた他の子に言われる。
 
「え〜?おちんちん付いてたかなあ。自分の性別の自信が無くなった」
と彼女は言っていた。
 

朝食にお屠蘇・雑煮・おせちを
 
「買ってきたものでごめんね〜」
 
と言ってふるまう。和実と麻衣が話し合い、エヴォンでの研修は半数ずつ1ヶ月程度にしようということになる。昨日のオペレーションで全員かなりしっかりお仕事ができていることが分かった。
 
それで本人達の希望も出させた上で、1.04(水)-1.31(火)にライム、クロミ、コリン、2.01(水)-2.28にマキコ、ルシア、リズが行ってくることにする。ライムとマキコは別の日程にしないと、こちらでライブやパーティーの予約が入った時に、ふたりのどちらも居ないと対応できないということで、和実・麻衣・若葉の《首脳陣》の意見が一致した。
 
「じゃその2人がリーダー?」
「うん。年齢が上のライムちゃんがチーフで、マキコちゃんがサブチーフということで」
と言って、和実はライムに青いリボン、マキコに黄色いリボンを渡した。
 
「ライムさんが27-28歳くらい?マキコさんが25-26歳くらい?」
とエヴォンのアヤメが質問する。すると
 
「私まだ19歳なんですけど〜」
とマキコが言うので
「うっそー!?」
という声があがる。
 
「ちなみに私もまだ24歳だけどね」
とライムは苦笑しながら言っていた。
 

なおチーフもサブも居ない時に一時的に中心になるチーフ代行はグリーンのリボン、店長の和実は紫のリボンを付ける。一般のメイドはペールピンクのリボンである。このシステムは、エヴォン・ショコラ・マベルと共通にすることにしている。
 
「それでよかったら、みなさん1月1日付けの雇用ということにさせてもらえませんか?4月からの予定だったけど、そもそもグランドオープンが3月に前倒しになっちゃったし」
と和実は言った。
 
「1月1日付け雇用ということはお給料ももらえるんですか?」
「うん。とりあえず3月までは1ヶ月6万円で勘弁して。グランドオープン後は勤務時間に応じて時給1200円で計算するから」
「4月以降の方が受取額が減ったりして」
「それはシフトの入れ方次第だな」
 
「そういえばみんなの通勤手段は?」
「私はバスかな」
「私、車使いたいんですけどいいですか?」
「いいよ。バスの人には定期券代相当、車の人にはガソリン代相当を払うからあとで書類渡すから申請してね。但しガソリンは1800cc車相当で」
 
「私、バイク使いたいんですけど、いいですか?」
「いいよ。それもガソリン代払うから自宅からの経路地図提出してね。バイクのガソリン代は400cc車相当で計算。それから車もバイクも私の家の庭に駐めてね。お店の駐車場はお客様に全部提供したいから」
 
「私、自転車使いたいんですが」
「それもいいよ。じゃ消費カロリー相当のお金を払おう」
「あ、それいいな」
 
この日、お昼には、ホットプレートを4枚出して焼肉!を食べてから解散とした。お肉が8kgも無くなった。平均1人500g食べたことになる。
 

ところで、後でマキコのバイクを見たみんなは驚愕した。カワサキの巨大なリッターバイク、Ninja-H2だったのである。
 
「すごいマシンに乗ってるね!」
「これのローンを返すためにもお仕事頑張らなきゃ」
「ああ、それは頑張りなさい」
 
と言いつつ、和実は、この子、こういう趣味持っていたらいつまでたっても、“例の手術”を受けるお金は貯まらないのでは?と思った。
 
「それ新車で買ったの?」
とライムが訊く。
 
「うん。中古にしたかったけど、新車でなきダメってお母ちゃんが強く言うから妥協した」
「お母さんが新車しかダメというのなら、お母さんがお金出してくれるとかは?」
「まさか」
「ああ」
 
「だから、男の娘を2人性転換させてあげられるくらいの金額をローンで組んだ」
 
「じゃ誰か男の娘がいたら2人性転換させてあげよう」
 

千里は12月18日(日)には大牟田でフラミンゴーズとの試合をしたが、これ以降、Wリーグはオールジャパン・オールスターに向けてのお休み期間に入った。千里は渡辺純子・湧見絵津子・鞠原江美子・高梁王子・佐藤玲央美と6人で出羽に20-22日の3日間籠もって集中的な練習をした。
 
12月23-28日は、ウィンターカップに出場する旭川N高校のメンバーのサポートをする。ただしプロ選手である千里や絵津子は、御飯作りや買い出しなどの作業は「免除」(OGチームのキャプテンである暢子がそう言った)で、純粋に練習のパートナーを務めたが、これが高校最後の試合になる福井英美が鬼気迫る雰囲気でひたすら千里や絵津子と1on1をやっていた。
 
「でも最後オールジャパンにも出て高校を卒業したかった」
「来年からは私たちはライバル。同じ土俵で勝負だよ」
「はい。千里さんを倒します」
「うん。頑張ろう」
 
千里が「超本気」だったので、英美はこの合宿期間、1度も千里に勝つことができず「うっそー!?」と言っていた。
 
「私、2年前から進化してないのかなあ」
と言う。2年前の東京合宿の時も、英美は1度も千里に勝てず、それまで超天才だの将来の日本のエースなどとさんざん褒めちぎられていたのが、意識がまるで変わって、一時期サボりがちだった練習も人の数倍するようになったのである。岐阜F女子校にも何度か留学させてもらっている。
 
「英美ちゃんは凄く伸びたと思う。でも私もこの2年間に伸びた」
と千里が言うと、彼女の顔が引き締まっていた。
 
「来年には追い越します」
「うん。頑張ろう」
と言って再度彼女とは握手をした。
 

阿倍子はふだんあまり神社とかお寺といったものには行かないのだが、その日はたまたま前を通りかかったお寺でお汁粉を無料でふるまっており、京平が食べたいと言ったので、中に入って頂いた。そしてなんかタダでもらって悪いなと思った時、おみくじが目に入ったので引いてみた。
 
「う〜ん。末吉かあ」
 
末吉というのは概して「吉」というのが名ばかりで、ろくなことが書かれていない。金運は「悪し」と書かれているし、失せ物は出ず、待ち人は来ず、病気は長引く、相場は待て、などとひどい状況で「これ凶じゃないのか?」と思いたくなった。
 
その中で「良し」と書かれているものがあるので「おっ」と思って見ると、「縁談良し。良縁あり」と書かれている。
 
既に結婚しているのに、良縁もないだろう〜?
 
と阿倍子は嘆くと、結局そのおみくじをお寺の手すりに巻き付ける。
 
「そこにまきつけるものなの?」
と京平が訊く。
「ここに巻いて帰るとこのおみくじは無かったことになるんだよ」
「へー。よくないことがかいてあったの?」
「そうそう」
 
「だったら、いいことがおきるといいね」
「うん。憂さ晴らしに宝くじでも買って帰ろうかな」
 
そう言って、阿倍子はその日が最終日だった年末ジャンボを1枚!買って帰った。
 
「それなあに?」
「宝くじだよ。これ4億円になるかも知れないんだよ」
「4おくえんってどのくらい?」
「そうだなあ。パパの車が100台買えるくらいかな」
「くるまを100だいかって、どこにおくの?」
「それが問題だなあ。100万円くらいでもいいから当たらないかなあ」
「それだとどのくらい?」
「USJに100回行けるくらいかな」
「あ、それならいってもいいね」
「まあUSJは2回くらいにして、あとは焼肉を196回くらいしてもいいかもね」
「やきにくもすきだけど、ラーメンもすきだなあ」
「まあ色々買えるよ」
「へー」
 

青葉は引き続きローズ+リリーのツアーに同行していたが、12月25日の福岡公演の後はいったん高岡に帰った。しかし28日の沖縄公演の後は冬子たちと一緒に東京に戻り、そのまま彪志のアパートに転がり込んだ。
 
29日には桃香とフェイという2人の《管理中》の妊婦の様子を直接確認する。日々リモートでメンテしているし、念のため桃香には笹竹、フェイには小紫を付けて何かあった時は対処できるようにしているのだが、やはり直接確認も時々はしておきたいのである。フェイは
 
「だいたい週に1回は醍醐先生が来てくださるんですよ」
 
と言っていたが、桃香は
「最近、なかなか千里と会えない」
などと言っていた。
 
しかし青葉は眷属を2人も飛ばしているので実はけっこう辛い。
 
「たぶんちー姉も眷属を2人に付けているよね?こちらは付けてなくても何かあったら、ちー姉から連絡があるんじゃないかなあ」
 
とは思うものの、青葉の責任感が、そこで手抜きをすることを許さない。
 
「ところで、青葉、食糧のストックを作ってくれたりはしない?」
などと桃香は言っている。千里が最近忙しいようで、全然食糧の備蓄が無く、かなりインスタント食品や、ピザの出前などに頼っているらしい。
 
「桃姉、そういう食生活はお腹の赤ちゃんによくないから、頑張って自分で料理しようよ」
と青葉は取り敢えず言っておいた。
 
でもまあちー姉は、冬の間はWリーグで忙しいだろうなと青葉は思った。むろん青葉も今無茶苦茶忙しくて、とても食糧作りまでしている余裕は無い。
 

29日の夕方、青葉が彪志のアパートに戻ると、千里が来ていた。千里は昨日までウィンターカップに出場していた旭川N高校の東京遠征(合宿)に協力していたらしい。
 
「仙台にはいつ入る?」
 
「迷っているんだけどね。当日でもいいかなあと思う。和実のお店も引き渡しが済んだらしいから見に行こうかと思ったんだけど、和実、ローズ+リリーのカウントダウン・イベントに出店を出すことになったんだって」
 
「へ?クレールってもうオープンしたんだっけ?」
「保健所の営業許可と消防署の確認は取ったらしい」
「じゃ年明けくらいにオープン?」
「いやそれがオープンは3月末だと言ってた」
 
「なんで〜?」
 
「アールヌーボー調の室内装飾を売りに営業するつもりだけど、その装飾とかアールヌーボー調のテーブル・椅子がまだ来ていないらしいんだよ。その工事がたぶん3月中旬になるんで、結局オープンは3月末だって」
 
「じゃテーブルや椅子無しで保健所の営業許可取ったの?」
「仮のテーブル・椅子を入れているらしいよ」
 
「よく分からないけど効率の悪いことしてるなあ。なんで建設終了に間に合うようにそういうの発注してなかったんだろう」
「お金が無かったって」
「あぁ!」
 
「だけど、政子さんが資金を貸してくれたから、それで発注したらしい。政子さんが貸してくれなかったら、オープンは秋になっていた所だって」
 
「営業もしないまま1年間建築費のローンを払い続けたら、オープン前に倒産するよ」
 
「和実ってわりとそのあたりがアバウトだから」
「同感、同感」
 

彪志がトイレに立った時、千里は小さい声で言った。
 
「ところでさ、青葉」
「うん?」
 
「私のタロットが言っている。私はたぶん来年結婚する」
「え?貴司さんと?貴司さん、離婚するの?」
 
「そっちは分からない。でも私は結婚するハメになるけど、たぶん相手は貴司ではない」
 
「え〜〜〜〜!?」
 
「青葉、その結婚が早々に壊れるように、呪いを掛けて欲しい」
 
青葉は厳しい顔になった。そして数秒考えるようにしてから言った。
 
「分かった。遠慮無くぶち壊すから」
「こんなこと頼めるのは青葉しかいないから」
 

「ところでさあ、ちー姉って結局何人いるわけ〜?」
と青葉はやや投げ遣りな感じで言った。
 
「自分でもよく分からないんだよね〜。でも別の自分の分身と遭遇したことはないよ。あれってたぶん遭遇したら対消滅しちゃうんだと思う」
などと千里は冗談とも本気ともつかないことを言っている。
 
「対消滅は、周囲に迷惑だね」
「半径数km吹き飛んだりしてね」
「数kmで済むといいね」
 
仮に体重50kgの人が消滅して全てエネルギーになった場合E=mc2で計算すると1ギガトン(1000メガトン)のエネルギーになることになる。
 
2.99792458e82× 50 / 4.184e15 = 1074 (mega-ton)
 
これは東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の地震エネルギー(477Mt)の倍である。(広島型原爆の約7万倍)
 

「分身といえばさあ、青葉はバナッハ=タルスキーの問題は分かる?」
と千里は唐突に訊いた。
 
「私は文系だけど、そのくらいは分かる」
と青葉は答える。
 
「球をうまく分割すると、完全に同じ球をもうひとつ作ることができる。例えば半径1cmの球があった時、これを上手に分割すると半径1cmの完全な球2個に分けることができる」
と千里。
 
「最初話を聞いた時は、そんな馬鹿な!?と思ったけど、証明を読んだら納得した」
と青葉。
 
「証明を読んで理解できるってことは、青葉はけっこう理系の脳を持ってるよ」
と千里は言う。
 

「あれは『賢いホテルの支配人』と同じ原理なんだよ」
と青葉。
「そうそう。本質的にはあれと同じことをしてる。もう少し難しいけどね」
 
賢いホテルの支配人というのはこういう思考実験である。
 
ある所に無限個の部屋があるホテルがあった。その日ホテルは満杯だったが、そこにお客が来て泊めてくれと言った。
 
ホテルの支配人は1号室の客にお願いして2号室に移ってもらった。2号室の客には3号室に移ってもらう。同様にn号室の客にはn+1号室に移ってもらった。すると泊まっている客は全員別の部屋に移動しただけで、誰もあふれていないのに1号室が空いたので、支配人はその部屋に新たな客を泊めた。
 
「この話も騙されたような気がするけど、数学的には正しいからね」
と千里。
 
「同じようにしてうまく都合を付けると、ちゃんと球が2分割できる。ホテルの例でいえば、新しいホテルが建ったので、1号室、3号室、5号室、・・・・の客を新しいホテルに移動させ、2号室、4号室、6号室、・・・の客は元のホテルの1号室、2号室、3号室、・・・に移動させる。すると客の数は変わっていないのに、元のホテルも新しいホテルも満員御礼になる」
 
と青葉は言った。
 
「うん。球を元の球と同じサイズの2個の球に分割できるというのは原理的にはその無限ホテルと同じ事なんだよ」
と千里。
 

「青葉、人間をあれと同様にして同じ人間2人に分割できると思う?」
と千里は訊く。
 
「それはできない。球が同じもの2つに分割できたのは球が無限個の点で構成されているから。人間は有限個の粒子で構成されているから、形だけ2分割したとしても密度が半分になる」
と青葉は答える。
 
「私がもし3分割されたら、体重も各々20kgずつになったりしてね」
「ちー姉なら、適当にうまく都合をつけて60kgずつにしそうだけどな」
 

千里は「新婚家庭をあまり邪魔してもいけないから」
などと言って18時頃、引き上げて、桃香のアパートに行った。桃香は
 
「カップメン飽きた、ピザ飽きた、お寿司飽きた。レトルトカレー飽きた。千里〜。何か食べさせて」
などと言っている。
 
「はいはい。じゃ、今日は肉ジャガでも作ろうか?」
「おお!なんと素敵なことばだろう!肉ジャガなんて」
 
この日桃香は肉ジャガを「美味しい美味しい」と言って凄く嬉しそうに食べていた。あんまりお代わりしようとするので
 
「妊婦はカロリー制限守らないとダメ。赤ちゃんを大きくしすぎると難産になるよ」
と言って途中で止めた。
 
「それ辛いよお。病院の先生から、お刺身に醤油掛けたらいけないと言われたし」
「うん。塩分のコントロールも大事。だからカップ麺禁止にしようよ」
 
「カップ麺が食べられないと、私は命をつなげない」
 
「これ買ってきたから、自分で頑張ってみよう」
と言って、千里は『初心者妊婦さんの易しい食事』という本を桃香に渡した。
 

それでも千里は29-30日の2日間、桃香のアパートで掃除と食事作りをした。そして31日午前中の新幹線で青葉と一緒に仙台に入った。
 
青葉は先日の会話が気になったので、千里姉に再度尋ねたみたのだが、千里はあの日話した『結婚』のことも『球の分割増殖問題』のことも全然覚えていないようであった。
 
つまり・・・結婚と分身のことを話したちー姉と、今ここにいるちー姉は別の分身だったりして!?
 
会場に行ってみると、政子は来ていたが、冬子はまだという。冬子はKARIONが東京でのカウントダウン・イベントに参加するので、そちらが終わってから、KARIONおよびトラベリングベルズのメンバーと一緒に来るらしい。
 
簡単な打合せをした上で、和実がやっている出店に青葉と千里の2人で行ってみる。まだ観客を入れる前なのに、スタッフや他の出店の人!?まで集まって列ができている。
 
「夕方までは時間取れるし、手伝おうか?」
「助かる。頼む」
 
それで青葉と千里は、フル回転で卵を焼いていて疲れている様子のメイド服を着たスタッフさんと交代した。
 

前座が3つ終わった後、21:45にローズ+リリーのカウントダウンライブは開演する。
 
最近のローズ+リリーの演奏はひじょうに多数の演奏者が参加しており、しかも曲によって参加する人が違うし、担当楽器も変わったりする。それで今回のツアーでは、全員に小型のスマホを配布し、そのスマホに次の曲に出演するのかどうか、また何の楽器を演奏するのかをネット配信して表示するようにしていた。ただ、異様なエネルギーを持つ曲があり、過去に多数の静電気事故が起きているので、今回はそのスマホに全部アースが付いていて、アース線を床に垂らした状態で全員移動していた。
 
この日はこのアースのおかげで、スマホのトラブルは発生しなかったが、実はそのアースを付けたほうがいいと言ったのは千里である。千里は自分がいちばん静電事故の危険が高いと思い、最初自主的に工作の得意な人に頼んでアースをつけてもらおうかと思ったが、それなら全員つけた方がいいと冬子が言ったので最初からアースをつけた状態で配布したのである。
 
ところが、1曲目『赤い玉・白い玉』が終わった所で唐突に落雷がある。
 
それまで特に天気が悪いわけでもなかったのだが、突然のことであった。
 
電柱に落雷したようで全ての電源が落ちる。会場は当然真っ暗になる。しかし冬子の観客への呼びかけで、パニックは防ぐことができた。
 
ライブは一時中断したものの、現場の総責任者である★★レコードの松前会長は、続行しようという決断をした。
 
東北電力のスタッフが状況確認と復旧作業に走り回る。イベンターやレコード会社のスタッフの数人が車を会場内に入れ、ヘッドライドで場内を照らす。PAを担当している碧音光開発のスタッフは、場内各所に置いてあるサブスピーカーがバッテリーで駆動していることを利用し、小型のアンプを車載の補助電源で動かして使用するという方法で何とか音響が使えるようにした。
 
それでメインスピーカーも落ちて、場内が薄暗い中、コンサートの前半が行われた。出演指示を表示するスマホも無線LANが使えない中ローカルモードに切り替えて使用した。
 

前半終了間際に東北電力のチームが電源を復活させることに成功する。それでやっと会場に灯りが戻り、メインスピーカーも復活。後半はスマホも本来のオンラインモードで使用することができた。
 
「だけど怪我人とかもなくて良かった」
 
「毎年落雷で亡くなる人っていますよね」
「まあ人間を直撃すると怖い」
 
「あれ金属を身につけていたら危険と普通言われるけど、逆に身につけていれば、身体の芯ではなく表面の金属物質に流れるから、かえって安全という説もありますね」
 
「表面を流れるように導いた方がいいというなら金属製の鎧(よろい)をつけておくといいのかもね」
 
「いや、それ絶対危険」
 

2017年1月1日。
 
千里と青葉は冬子たちと一緒に宮城県M市の水族館跡特設ステージで新しい年のカウントダウンを迎えた。
 
ライブ終了後は一緒に遠刈田(とおがった)温泉まで移動して、泊まる。近隣の温泉地はお客さん優先で全て埋まっているので、こんな遠くまで移動したのである。
 
「ここまでなかなか『とおかった』ね」
などと鷹野さんが、使い古されたジョークを言っている。
 
青葉は旅館の部屋にも飾ってある遠刈田コケシを懐かしく感じた。彪志と知り合った時の事件で、ここのコケシを事件を処理するための重要なアイテムとして利用させてもらったのである。
 
結果的に青葉の手許にはコケシは残っていない。明日帰る時にお土産に買っていこうかな、と青葉は思った。
 
温泉ではスタッフ・出演者だけ1つの旅館に集めている。この旅館には観客は(団体予約では)入れていないので、安心して館内を移動できる。青葉や冬子たちは夜中の1時半に旅館に到着したが、大広間で「お疲れさん」と言って乾杯をし、そのまま解散した。ほとんどの人がそのまま寝るので、お弁当と飲み物を渡した。20人ほどが残って少しおしゃべりしたが、それでも大半は1時間ほどで各自の部屋に引き上げた。青葉と千里もここで引き上げた。数人徹夜で飲み明かした人たちもあったようである。
 
お部屋は、お正月でそもそも混む時期に無理矢理枠を取ってもらっているので、男性・女性・MTF・FTMと4分類した上での相部屋で、今日は夫婦といえども性別に応じた部屋に別れてもらっている。メイン出演者の冬子と政子にしても、和泉・小風・美空と一緒に5人部屋に押し込んでいた。青葉と千里は、鮎川ゆま・近藤七星・呉羽ヒロミと5人部屋であった。
 

ライブの後で疲れているので熟睡したが、明け方妙に現実感のある不思議な夢を見た。
 
千里が町を歩いているのを見て手を振って近寄ろうとしたら、いきなり落雷があり、千里を直撃した。びっくりして
 
「ちー姉大丈夫?」
と声を掛けて近寄ったら、雷が当たった千里が3つに分裂してしまったのである!?
 
そしてひとりは貴司さんの所に行ってキスしている。京平君もそばでニコニコした顔でその様子を見ている。
 
ひとりは青葉が知らない男性と腕を組んでから、近くにあったエスカレータに一緒に乗って、どこか上の方に昇って行ってしまった。そのエスカレーターの向こうは妙に明るかった。そのエスカレーターの登り口の所におくるみに包まれた赤ちゃんがいたので、青葉はその子を拾い上げた。
 
そしてもうひとりは、バスケットボールを持つと怖いくらいに引き締まった顔でボールをドリブルしていき、10mくらい離れたゴールに向けてロングシュートを撃つ。これが美事に決まると、青葉の方を向いてガッツポーズをし、ニコリと笑顔になった。
 
そこで目が覚めた。
 

起きて時計を見ると6時である。千里はもう起きていたようで、セーターにスカートという姿である。見るとポチ袋を手にしている。
 
「それどうしたの?」
「ああ。京平にお年玉あげてきた」
 
「うーん・・・。まあいいや」
 
一緒にお風呂に行くことにする。昨夜はお風呂に入るだけの体力が残っておらず、そのまま眠ってしまった。お風呂に行く途中で、冬子・和泉と一緒になる。
 
「このメンツふと思ったら凄いね」
と和泉が言う。
 
「うん?」
 
「この中で元々女湯に入っていたのは私だけかなあ、とか思って」
と和泉が言うが、千里は笑いながら指摘する。
 
「和泉ちゃん、この中に男湯に入っていた子はひとりも居ない」
 
「へ?」
と声を出した和泉はしばらく考えている内に
「うーん・・・・」
と腕を組んで考えていた。
 
この日はもちろん4人ともふつうに女湯に入る。
 

お風呂の中では、今年の各地のカウントダウンライブの様子を話題にしたが、妊娠中のフェイに代わって、ヒロシ(ハイライト・セブンスターズ)がメインボーカルを務めたレインボウ・フルート・バンズの演奏が凄かったということであった。
 
ヒロシはフェイに割り当てられているソプラノパートを完璧に歌いこなしたし、16種類もの楽器(エレキギター、アコスティックギター、ベース、津軽三味線、ドラムス、グランドピアノ、エレクトーン、ハープ、ヴァイオリン、フルート、クラリネット、トランペット、トロンボーン、フレンチホルン、アルトサックス、ソプラノサックス)を演奏した。そしていつも通りのフェイの衣装で、ライブの前半は男装、後半は女装で登場したが、その女装が物凄く可愛かったらしい。
 
なお、フェイはライブに出演はしないものの、会場に同行していて、カウントダウンの時だけ観客の前に姿を見せたということだった。
 
そして、この場にいるメンツでは青葉と千里だけが知っていることとして、妊娠中の彼は、ライブが終わるとそのままお腹の中の子供の法的な父親であるヒロシと、お腹の中の子供の遺伝子上の父親・宮田雅希(戸籍上は生まれながらの女性)に付き添われて、深夜、都内の病院に行き入院した。後は出産まで病院で過ごしてもらうことにする。
 

お風呂を出た後、朝御飯を食べる。青葉はこの日1月1日いっぱい、この遠刈田温泉で過ごすが明日からのオールジャパンに出場する千里は、お昼前に宿を出て、東京に戻った。
 
千里が出発するので出口まで見送るが、出口の近くに土産物コーナーがある。
 
「そうだ。ちー姉、お土産に遠刈田のコケシとか持っていく?」
「あ、それもいいかもね」
「じゃ私が買うよ」
 
と言って、可愛い花模様のコケシを2つ買って千里に渡した。
 
「ありがとう」
と言って笑顔で受け取る。
 
「じゃ気をつけて。オールジャパン頑張ってね」
と言って青葉は千里を送り出した。
 
そして・・・青葉は結局自分用にコケシを買うのは忘れてしまったのであった。
 

千里は新幹線の中で半ばまどろみながら《彼女》の話を聞いていた。
 
『私がまだほんの小狐だった頃なんだけど、私、お使いで人里の近くを走り回っていて、猟銃持った人に見られてね。撃たれそうになったんだよ。狐としての命が終わったら次は人間に戻してもらえることになっていたから、死ぬのは構わないけど、鉄砲で撃たれるって痛そう・・・と思った時に、小さな男の子がその猟師に石を投げつけたんだよ』
 
『それで猟師は狙いが外れて私は助かった。私は必死で逃げた。猟師はその男の子を殴ったけど彼は《まだ小さいのに可哀相じゃん》と猟師に言った』
 
千里はじっと聞いていたが、ひとこと訊いた。
 
『その人のこと好きなの?』
 
『好き』
といったん言った後、彼女は
 
『。。。という感情とは違うと思う』
 
と言った。
 
千里は静かに聞いている。
 
『でもずっとあの子のことを守ってきたよ。千里に貴司君がいなかったら、千里を彼と結婚させたかったよ』
 
『私は貴司と結婚したいからなあ。何とか今年くらいにはあいつ阿倍子さんとさすがに破綻しそうだし。でも私が3人くらい居たら、その中の1人くらいはその彼と結婚してもいいけど』
 
『千里、けっこう彼のこと好きになると思う。元男の子だなんて気にする人じゃないと思うよ』
 
『ごめんね。私は貴司ひとすじだから』
 
彼女は自分と《彼》とのこれまでのことをたくさん話した。
 
『もしかして、小春って、彼にはその最初の出会いを除いては1度も姿を見せていなかったりして?』
と千里は訊く。
 
『だっていつも見られないように気をつけて助けてきたから』
『あまりにも奥手すぎる』
 

『それでね、千里』
『うん?』
 
『私の寿命が尽きるのを防いでいる封印がさすがに期限切れなの。だから私、千里の子供として生まれ変わるための準備期間に入るから』
 
千里は厳しい顔をした。
 
『だから千里と今の状態で一緒に居られるのは、たぶんあと半年くらいだと思う。その後私はしばらく中有の世界で一休みする。だから私が再度生まれて1年くらいたって、精霊としての封印が解除されて、今の京平君と似たような状態になれるまでは、何とかひとりで頑張って』
 
千里は静かに目を瞑った。
 
『その間死なないでよ。今の状態はこの身体の中に、千里の命と私の命と2つの命が共存しているから千里の心臓が万一停まっても、私がすぐ千里を再起動させられるけど、私が居ないと本当に死んじゃうからさ』
 
千里は微笑んだ。
 
あの・・・中学1年の春のことを思い出す。目に涙が浮かぶ。
 

ふたりの会話は眷属たちの中では本来、実質的に神様である《くうちゃん》にだけ聞こえるのだが、この日の《くうちゃん》は千里にも告げないまま、その会話を《きーちゃん》にも聞かせていた。
 
『そうそう。私やはり生物学的には男の子に生まれちゃうみたいなんだよ。だから千里、私をできるだけ早い年代で性転換してよ』
『取り敢えず玉は抜けばいいよね?』
『それは生まれてすぐやって欲しい』
 
『何とかする。私小春が生まれる場所には居ると思うし。《こうちゃん》にでもやらせるよ。卵巣は、私の卵巣と同じ作り方すればいいんでしょ?それで中学生くらいの段階で移植する』
 
『そうそう。細かい手順は大神様に頼んで』
 
『了解。ところで小春、誰と誰の子供として産まれるんだっけ?』
『もちろん千里が産んでよ』
『それはもちろん産むけど、世間的には私は出産することにはできないじゃん』
 
『面倒くさいなあ。歴史を改竄して千里は最初から女の子だったことにしない?』
 
『それだと貴司はたぶん私に興味を持ってくれなかった。貴司は間違い無く、男の娘が好きなんだよ。純粋な女性には興味が続かない。あいつ既に阿倍子さんには完全に飽きている。貴司が浮気を繰り返しても私との関係はずっと続けているのは、浮気相手が女性で私が元男の娘だからだよ』
 
と千里は言った。
 
『貴司君も確かに屈折しているよね。じゃ、精子は貴司君のを使うことにして』
『つまり物理的には京平と同父同母の兄妹になるわけか』
 
『そうそう。私、貴司君のこともわりと気に入っているし、貴司君と私の思い人の間の子供として生まれちゃおうかな』
 
『小春の思い人って女の子だっけ?』
『しまった!この組合せは男の子同士だ!』
 
『いっそ貴司を性転換させる?あいつちんちん無くなっても多分平気だと思う。そしたら阿倍子さんと自動的に離婚になるし』
 
『それもいいなぁ・・・』
 
と言って小春は悪戯を計画している子供のような表情をした。
 
一瞬《くうちゃん》と《きーちゃん》が顔を見合わせた。
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【春封】(5)