【春封】(3)

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2016年11月25日(金)。
 
青葉は大学が終わった後、アクアで美由紀・明日香・世梨奈・星衣良を送った後、そのまま富山駅まで走り、アクアを駐車場に置いて最終の新幹線で大宮に出た。
 
富山21:00-23:06大宮
 
ここで彪志のアパートに泊まって、翌朝一緒に移動する。
 
大宮6:30-8:00仙台
 
ここで和実・淳と合流した。
 
「ごめんね。何度も」
「ううん。本当はもっと頻繁に来ておきたかったんだけど」
と青葉は言っておく。
 
淳の運転するプリウスで、和実が開くカフェの予定地に行く。今日は希望美は胡桃に見てもらっている。
 

「きれいに出来上がっているね!」
 
と車を降りてから様子を見て青葉は驚いて言った。
 
「外側はね。今内側の細かい工事をしている所。8月のお盆の直後から工務店と具体的な打合せを進めて設計を固めて。工事に入ったのが9月下旬なんだけど、基礎工事に1ヶ月掛かったんだよね」
 
「うん。そのくらいは掛かると思う」
 
「ところがその後、組み立て始めたら家は1週間でできるし、お店も3週間でできちゃった」
 
「ユニット工法って手作りの家とはそのあたりのスケジュール感が全然違うよね」
 
「秀吉の一夜城なんてのも、ユニット工法だよね」
 
「そうそう。上流で城の部品を全部作っておいて、闇に紛れて川を下り、部品を運び込んで全力で組み立て。昨日の夕方まで何も無かった場所に朝になると忽然とお城が姿を現す。まるで魔法でも見ているかのようだったろうね」
 

青葉はそんなことを言いながら、多数の作業員さんが仕上げの作業をしているのを見ていたのだが、やがて考え込んでしまった。
 
「ねえ、和実、私そういうの気にしないけど、もしかしてここ誰か他の霊能者さんにも見せた?」
 
と青葉は遠慮がちに訊いた。
 
「ちょうど基礎工事を始めて1週間くらいの頃だったかな。千里が来たよ」
と和実が答える。
 
青葉は脱力した。
 
「ちー姉の仕業か!」
 
「何だかすごくきれいになっちゃったんだよね」
と和実。
「うん。なんでこんなにここきれいなの〜?と思った」
と青葉。
 
「慰霊碑もまだ立ててないのに、ここに来る度に成仏していく霊を見かける」
と和実。
 
「ああ、成仏もするだろうね〜」
 
と青葉は言ったが、それは“和実が居た”から成仏できたのもあるだろうと思う。和実は震災直後の異様に霊感が発達した状態からは収まっているものの、未だに充分強い巫女のままである。
 
「結界は四隅にしたの?」
「そうそう。何かを埋めてた」
 
ここで“龍”を埋めたと言わないのが、和実の偉い所だなと青葉は思った。霊能者のお仕事は各々独特なので、たとえ姉妹といえども簡単に作業してもらった内容を他の霊能者に言うべきではないと配慮してくれたのだろう。 
もっともこちらは和実の思考を読んじゃうから分かったけどね!
 
この日は既に制作だけしていた慰霊碑を“最適の場所”に設置する作業も工務店の人にしてもらった。建築とは無関係の余分な工事なので作業代はその場で現金で支払う。ただ、その設置場所は青葉が当初予定していた場所とは別の場所になった。千里が作った結界があまりに強すぎるので、その結界の“外側”に置かないと、慰霊碑が意味をなさないのである。
 

工事が済んだところで青葉が般若心経を唱える。先日の布恋さんの家の結界と同様、本当はそんなもの唱えなくてもちゃんと霊的な処理はしたのだが、ここでお経をあげておくことで、いかにももっともらしく見えるのである。サービス上の演出だ。今日の青葉はそのためにちゃんと法衣を着てきていた。
 
「でもこないだ基礎工事に来た人は普段着だけど巫女さんっぽかったけど、今日は尼さんなんですね」
と現場監督さんが言う。
 
「姉妹なんですよ」
と和実が言った。
 
「え?あの時に来た人と今日の人とは姉妹?」
「そうなんですよ」
と青葉は微笑んで言う。
 
「姉妹で片方は巫女で、片方は尼さんって珍しいね」
「曾祖母とか凄かったですよ。鈴(りん)とか木魚打ちながら、祝詞(のりと)を奏上してましたから」
 
「それはまた凄い!」
 
「江戸時代まではそういうのが多かったらしいですよ。明治の神仏分離でお寺と神社、僧と神職は分けられてしまいましたけど」
と青葉。
 
「何かお寺と神社がくっついている所、多いもんね。浅草寺と浅草神社とか、青葉神社と東昌寺とか」
と現場監督。
 
「昔の名残ですよね。もっとも青葉神社と東昌寺は単に敷地を融通しただけなんですけどね」
と青葉は言う。
 
「へー。じゃ関係がある訳では無いのか」
「そうなんですよ」
 
現場監督さんは感心したように言っている。
 
「でも基礎工事の時は《妹》の巫女さんがやって、仕上げは《お姉さん》の尼さんがするんですね?」
 
と現場監督が言ったのに、青葉はショックを受けてしばらく言葉が出なかった。 
和実はこらえきれずに吹き出した。
 

仙台市内でお昼を4人で一緒に取り、胡桃へのお土産を買って和実に渡してから、青葉と彪志は和実と別れて新幹線で盛岡に行く。そこで彪志の実家に寄るが、お土産を渡してお茶を頂いたら、彪志をそこに置いて!青葉はひとりで彪志の母の車・N-ONEを借りて大船渡まで走り、山麓にある自分の家(旧平田家)に入って色々と準備を進めた。
 
一方彪志は翌日曜日の朝、父のグレイスを借りて、盛岡駅で、東京から来てくれた瞬法を迎える。
 
「お忙しい所、ご足労頂いて、本当にありがとうございます」
と彪志が言うと
 
「実は瞬葉(青葉)君ひとりでもできるんじゃないの?と思ったんだけどね」
などと瞬法は言っていた。
 
瞬法を乗せて、彪志がグレイスで大船渡まで走る。まずは青葉の自宅に寄って“受入側”の状況を確認する。
 
「きれいに出来てるじゃん」
と瞬法。
「これで受け入れられると思います?」
と青葉が訊く。
 
「それは送り出し側を見てから考えるよ」
 
それでグレイスの方に3人で乗って、海岸近くの佐竹家に向かった。
 

瞬法はその家を見上げて絶句している。
 
「どうかなさいました?」
「前からこんな感じだったっけ?」
「済みません。何かおかしな所がありますか?」
 
「どうやってこの結界を作ったのかが分からない」
「封印物のことは言ってませんでしたっけ?」
 
瞬法はかなり悩んでいるようだ。しかし5分ほどすると
 
「悩んでも仕方ない。内側を見ようか」
と言って中に入る。
 
そして祭壇で般若心経を唱えてから、資料室に入った。
 
「かなり復活したね」
「苦労しました」
 
瞬法は震災に遭う前の佐竹家と資料室も見ているのだが、資料室の本自体は当時よりまだ随分少ないはずである。
 
「一応全部こちらのコンピュータシステムの中に昔の本のほとんどが収納されているんですよ」
 
「ふーん。ちょっと見せて」
と言うので、その場でid/passを発行して渡す。それでログインする。
 
「これ書籍自体にパスワードが掛かっているけど、教えてもらえない?」
「瞬法さんなら分かるはずです」
「・・・まさかこれ、勘でパスワードを見つけないといけないの?」
 
「はい、そうなっています。ある程度の力がある霊能者にしか開けることができません。しかもパスワードはユーザー毎にそして毎日変わります」
 
「なんつーシステムだよ!」
 
と言っていたが、実際には即パスワードを撃ち込んで開くことができた。 
「良かった。これも開(ひら)けなかったら、恥ずかしくて即東京帰還コースだった」
 
などと言っている。
 
「この本、必要でしたらデータあるいはプリントでお持ち帰りになります?」
「プリントしてくれる?体調が悪い時はパスワード開けきれないかも」
 
「だったら印刷掛けますね」
と言って青葉は印刷指示をする。レーザープリンタが動き始める。
 

「それでこの資料室だけを高台に移そうという魂胆なんだ?」
「そうです」
 
「うーん・・・・」
と言って瞬法は悩んでいる。再度家の外に出て、結界の全体の様子、そして封印を埋め込んでいる場所も観察する。祭壇にも行く。
 
そして言った。
 
「悪い。来週また来る」
「分かりました。私もまた来週来ます」
 
それで瞬法は印刷していた本(簡易製本機があるので、慶子が製本までしてくれた)ができあがると、それを持って青葉の運転するグレイスで盛岡に戻り、新幹線で帰京した。(帰りは彪志がN-ONEを運転した) 

翌週。青葉は先週と同様に12月2日(金)夜の新幹線で東京に出て彪志の所に行くが、そのまま駐車場に駐めてある彪志のフリードスパイクを勝手に出して、東北道を走った(青葉はこの車のスペアキーをいつも持っている。むろん彪志のアパートの鍵も持っている)。休憩しながら運転し、朝8時に花巻空港に到着する。
 
ここで大阪からやってきた(伊丹7:05-8:25花巻)瞬高・瞬醒を迎える。
瞬高は公演や大規模な法要などで出かけることもあるが、瞬醒が高野山の自分の寺の周囲から離れるのはひじょうに珍しい。本人も
 
「俺、飛行機に乗るのはこれが最後になるかも知れん」
などと言っていたが、瞬高が
 
「お前そんなこと言っていると本当に寿命が尽きるぞ」
と注意している。
 
「遠くからご足労頂いて、本当にありがとうございます」
と青葉は言った。
 
「面白いものが見られると瞬法から聞いたからやってきたよ」
と瞬高は言っていた。
 
2人を乗せて、新花巻駅に行く。ここで東京から出てきた(東京6:04-9:07新花巻)瞬法を拾う。
 
「何度も足をお運び頂いて申し訳ありません」
「いや、あれは俺ひとりではどうにもならんと思ったから。師匠ならモーニング娘。の歌でも鼻歌で歌いながら、ひょいとやっちゃうんだろうけどね」
 
「まあ師匠は人間じゃなかったから」
「確かに確かに」
 

「でも師匠ってアイドルマニアだったよな?」
「そうそう。実はおニャン子クラブの歌は派生ユニットまで含めて全部歌えた」
「高井麻巳子のファンだったから秋元康と結婚した時、呪い殺しちゃろかとか言い出して、慌てて停めた」
「師匠が呪いなんか掛けたら、恐ろしい」
 
「ハロープロジェクトにもかなりハマってたな」
「モーニング娘。のメンバー全員の名前と加入順序が言えたし、℃-uteやBerryz工房も好きだった」
「わざわざ山から下りてきて℃-uteのライブに行ったこともあった」
 
「実は男の娘も好きだった」
「そうだった!?」
「シスターボーイと言われた頃の丸山明宏(後の美輪明宏)にも入れ込んでいたし、ピーターのファンクラブに入っていた」
「そういうのは知らなかった」
「SHAZNA(シャズナ)とかMALICE MIZER(マリスミゼル)とかのビジュアル系にも入れ込んでいたし」
 
「師匠って性的な傾向は?」
「とっくの昔に性別も性的志向も捨てたとは言っていたが」
 
「意外に小さい頃は可愛いお稚児さんだったりして」
「いや、それあり得る気がする」
 

それで青葉は3人を乗せて大船渡まで走った。10時半頃に、山麓にある青葉の自宅に到達する。
 
ここで彪志と合流する。彪志は昨日の最終新幹線で盛岡に移動して、今朝からお父さんのグレイスを走らせてここに来ていたのである。車の乗車人数の関係で彪志には先行してもらっていた。
 
ここで「お迎え」の準備状態を確認する。
 
「なんか既に物凄く強烈な結界が張られているけど」
と瞬高が言う。
 
「床も張り替えて新しいしっかりした床に変えて本棚やパソコンの重みに充分耐えられるようにしています」
と青葉。
 
「おふたりさん、送り出し側を見たらびっくりするよ」
と瞬法は言っている。
 
それで2台の車で海岸近くの佐竹家に行く。
 
「何じゃこりゃ〜!」
と瞬高が声を挙げた。
 
「明らかに震災前の結界とは別物だろ?」
と瞬法。
「人間業じゃねぇ」
と瞬高。
 
「そうなんですか!?」
と青葉が戸惑っている
 
「何かこれって**院を思い起こさせない?」
と瞬法。
 
「恐ろしい。ひとりでこれやれと言われたら、俺は逃げる」
と瞬醒も言っている。
 
「これ4人で同時にやらないといけないだろ?」
と瞬法。
 
「それで4人揃えた訳か!」
と瞬高。
 
「実際問題としてこれできるのって、日本国内ではこの4人しかいないなんてことはない?」
「瞬花(菊枝)にもできる」
「済みません。瞬花さんは今かなりシビアな案件の山場に入っていて動けないらしくて」
 
「瞬嶺はできるけど、ここまで来られるかって問題があるな」
「かなり健康状態が悪化しているみたいだからなあ」
「瞬海は微妙だよなぁ」
「醒環はひょっとしたらできるかも」
「少し心配だ」
 
「瞬葉(青葉)ちゃんのお姉さん(千里)でも行けると思うけどね」
と瞬醒が言う。
 
「済みません。姉はこの時期は毎週末、バスケットの試合なもので」
と青葉。
 
「バスケット?」
と瞬高が訊く。
「プロバスケット選手なんだよ」
と瞬法。
 
「へー!それで霊的な能力も凄いんだ?」
と瞬高が訊く。
 
「少なくともここにいる4人よりは凄いと思う」
と瞬醒。
 
「分からん。俺にはあの子の力量が読めない」
と瞬法。
 
「一度会ってみたいな」
と瞬高は言うが
 
「去年の3月に一度そちらのお寺に一緒に行っているんですけどね」
と青葉は言う。
 
「え?あの時、そんな子いた?」
と瞬高。
 
「あの子は、全然霊感があるように見えないんだよ」
と瞬醒は言う。
 
「本人も自分には霊感は無い。素人だといつも言っています」
と青葉。
 
「うーん。。。。。」
と瞬高は悩んでいた。
 

1人ずつ佐竹家の風呂場を借りて潔斎する。白い法服に着替える。
 
危険なので慶子さんには家の外に出てもらう。彪志も遠くで見ている。ふたりは先に潔斎を済ませていた。
 
「全員時計を合わせよう」
 
瞬高と瞬法は電波時計を使っているので正確である。瞬醒は時計を持っていない!ことが分かったので、彪志が腕時計を貸した。これも電波時計である。青葉のが電波時計機能が付いていなかったが、青葉は合わせ方を忘れていたので、瞬高が他の3人のに合わせてあげた。
 
「12:00ジャストにやるぞ」
「よし」
 
4人が家の四隅に行く。慶子と彪志は少し離れた所から見ている。
 
12:00。
 
その瞬間、彪志はこの家が一瞬浮き上がったかのような感覚を覚えた。慶子も「うっ」という小さな声を挙げる。
 
町内放送で正午の時報の音楽『野バラ』が流れているが、白い法服を着た4人は無言で敷地内から出てきた。この『野バラ』の音楽が彪志の所には歪んだ音になって聞こえてきた。この付近の空間が歪んでいるのである。
 
彪志がフリードスパイクに瞬法と青葉を乗せ、慶子がグレイスに瞬高と瞬醒を乗せて、車は出発する。誰も口をきかない。20分ほど走って山の中にある青葉の自宅に到達する。車が駐まる。全員無言で降りる。
 
4人が家の四隅に散る。既に穴が掘ってある所に4人が持って来た宝玉を埋める。彪志と慶子がスコップを使ってその上に土をかぶせる。4人はその上に目印を兼ねて杉の苗木を植えた。
 
通常、杉は屋敷内に植えてはいけないというのだが、この場合は特別なのである。
 

瞬法が真言を唱え、他の3人も唱和した。
 
確かに何かが『収まった』感覚がした。
 
「終わったぁ!」
と瞬高が声を出す。
 
「お疲れ様でした。ありがとうございました」
と青葉が言った。
 
「私、まだ状況を把握できないのですが、元の家の結界はどうなったんですか?」
と慶子が質問する。
 
「あちらは元のまま」
「こちらの結界はあちらの子供」
「パワーとしては100分の1くらいかな」
「向こうの結界はなぜああいう状態になったのか、後日検討させてもらえない?」
「はい。いつでも起こし下さい」
 

「本のほうは、少しずつ運び込めば良い」
 
「大手出版社から刊行された普通の本以外は1度に10冊以上は動かさないこと」
「瞬葉ちゃんが赤い★のシールを貼っている本は1冊だけで動かすこと」
「そのあたりの区分けは、あんたでもできるよね?」
 
「分かると思います。迷ったら10冊制限の本と同様に扱います」
と慶子が言うと
 
「うん。それがいい」
と瞬高も言う。
 
「本を並べる順序は現在の順序を乱さないこと。あれはかなり巧妙に配列されている」
と瞬法。
 
「暴れん坊が隣り合わないようにしてるね」
と瞬醒。
 
「現在の並びの写真を撮っておきます!」
と慶子が言うが
「写真が写る訳無い」
と瞬高。
 
「じゃメモします」
「それがいいね」
 
「その順序問題があるから、現在の本棚に並んでいる順序通りに動かしていくこと。飛び飛びに動かすのは危険」
「分かりました!」
 
「ということでちょっと大変なんですけど、後はお願いできますか?」
と青葉は慶子に言う。
 
「頑張って移動させます。春までには終わるかな」
「うん。そのくらい掛かるだろうね」
「毎日10冊動かして100日というところか」
「まあ制限の無い本もあるから」
「ムーとかエルフィンみたいなのはそのまま動かして良い」
「でも1冊単位で動かさないといけないものもあるから」
「1年くらい掛けるつもりが必要かもね」
 
なお、電子化している書籍の入ったコンピュータシステムに関してはいつもここのシステムのメンテを依頼している人に、データのコピーを取ってもらって、青葉宅にも同じシステムを構築し、両者をパラボナアンテナを利用した高速回線で結んでデュアルで動かすことにしている(実は両者の間の空間にはそれを遮るものが存在しない)。
 

「お食事は、精進料理がよいですか?それともしゃぶしゃぶにしますか?」
と青葉は訊く。
 
「しゃぶしゃぶだな」
「俺たちは生臭坊主だから」
 
「この作業は無茶苦茶エネルギー使った」
「ハーフマラソンくらい走った気分」
 
「三種の浄肉だよな?」
 
「もちろんです。スーパーで買ってきたお肉ですから、皆さん殺す所を見ていないし、殺したことを聞いていないし、皆さんのために殺した疑いはありせん」
 
「よしよし」
 
「ちなみに特選前沢牛ですよ」
「それは素晴らしい」
 

冬子は“その話”を聞き、和実に電話した。
 
「私の知り合いの人が経営している録音スタジオでね。改装に伴って録音用の機材を更新するんだよ。それでもし、その古い機材とか和実要らないかなと思って」
 
「欲しいです!それProtoolsに使えますよね?」
「うん。今Protoolsで運用している」
「幾らくらいで譲ってもらえるんですか?」
「購入価格としてはマイク10本とモニタースピーカーとかまで含めて1000万円くらいなんだよ」
「そのくらいの水準の機材が欲しいと思っていました」
「それを帳簿上の残存価格100万円でどう?という話なんだけど」
「買います!」
 
それで和実はスタジオ用の機材を安価に入手することができたのである。むろんこれ以外にマッキントッシュ本体や、データ収録用のハードディスク、DAWソフトProtoolsなどの購入が必要である。
 

「でも何か物凄いペースで凄い金額を使っているので最近金銭感覚がおかしくなりつつありますよ」
と和実は言う。
 
「家を建てた人はみんなそう言うよ。千万単位のお金を動かしてたら3万とか5万がハシタ金に思えてしまって気が大きくなってしまいがち」
 
「ですよね〜。グランドピアノも欲しいんですが、コンサートグランドは2000万円でしょ?自分の受けた性転換手術代とか、凄い苦労して150万円貯めたのに」
 
「2000万円あれば10人の男の娘を楽々性転換させられるね」
「そう考えると、物凄い値段ですよね」
 
「グランドピアノも中古が出そうだったら、照会してもらえるようにしようか?」
「助かります」
 
「グランドピアノはどこのメーカー?」
 
「ヤマハとスタインウェイが1台ずつというのが理想です。ベーゼンドルファーも面白いと思うのですが、慣れてないとあれは弾きこなせないと思うんですよ」
 
「うん。あれはちょっと癖がある」
 
ベーゼンドルファーはスタインウェイ・ベヒシュタインと並ぶ世界三大ピアノメーカーである。このメーカーの最高級グランドピアノModel 290は、通常の88鍵ではなく97鍵あって、他メーカーのグランドピアノより更に低い音を出すことができる。しかし結果的にそれより上の低音が普通のピアノより響きすぎるため、普通のピアノとは高音と低音の指の力のバランスの取り方が変わってしまうのである。日本国内に存在する台数自体がかなり少ない(多分200台以下)が、この独特の性質と、そもそも数が少なくて習熟するのが困難であることから、弾ける人が少なく死蔵されている個体も多い。
 
「だから本番用としてはやはりスタインウェイ。でもヤマハの方が安心という演奏者もいるので、その2つを1台ずつかと」
と和実は言う。
 
「了解了解。知り合いに声掛けておくよ」
 
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 
「それ以外にも楽器とか要る?」
 
「ええ。標準的なものは一通りそろえたいんですよね。ドラムスは生ドラムと電子ドラムを2個ずつ。ベース、エレキギター、アコスティックギターは各種10本くらいずつ、津軽三味線も10本くらい。和太鼓少々。他にヴィブラフォン、グロッケンシュピール、シロフォン、マリンバ。電子キーボード各種メーカーで10個くらい、エレクトーンはSTAGEAを4台くらい」
 
「そういうのの中古も出る話があったら紹介しようか?」
「どんどん紹介してください。どんどん買います」
 
冬子は、その中古楽器をたくさん探しているというメールを知人に一斉同報したようで、そのメールは和実の所にも送られて来た!
 
そして・・・この結果多数の音楽関係者から照会が有り、和実はかなり充実した楽器ストックを安価に得ることができたのである。中には「あげるよ」と言ってタダでくれた人もかなりあった。あまりたくさん集まるので置き場所に困り、結局TKRの仙台支店に一時的に置かせてもらうことにした。
 
和実も多数の照会にノリで応じていたので、バラライカも3本もらったし揚琴(Yang-Qin, Hammered Dulcimer)とかドンブラ、カーヌーン、などといった珍しい楽器まで揃ってしまった。これらの楽器は元の所有者が買ったものの練習する時間などが取れず放置していたものらしかった。
 
ミュージシャンには概してその手の、ノリが良くて冷めやすい人が多い。 
なおハンドベルの特定の音用の鈴が欠落しているものを2セット《タダ》でもらってしまったが、不足している音の鈴を冬子の知り合いの楽器メーカーの人が安価で提供してくれて、ちゃんと全音揃えることができた。
 
集めるつもりは無かった管楽器(クラリネットやサックス・ホルンなど)までかなり集まってしまった。これはマウスピースさえ各自用意してもらい、毎回きちんとクリーニングと消毒をすれば貸し出すことができる。マウスピースを使わないフルートは管内クリーニングの上、歌口をアルコール消毒である。 
ピアノもアップライトピアノの古いのを「あげる」と言われて2台もらったのでこれは控室に練習用として置くことにした。グランドピアノは和実が希望していたスタインウェイとヤマハの良品を各々1000万円(定価の半額)でゲットすることができた(数年間放置されていたので再調律が必要)。
 
「和実ちゃん、ひょっとして楽器のレンタル屋さんができるくらい揃ってない?」
と、それを見た友人の麻衣(エヴォンのオーナーの奥さん)が言っていたが 
「ああ、それやってもいいです」
と和実は乾いた笑いで答えていた。
 

12月10日から約1ヶ月にわたり、ローズ+リリーのツアーが始まり、青葉はこれに毎週末、同行することになった。
 
12月10日(土)東京 12月11日(日)横浜
12月17日(土)広島 12月18日(日)神戸
12月23日(祝)名古屋 12月24日(土)大阪 12月25日(日)福岡
12月28日(水)沖縄
12月31日(土)カウントダウンライブ(宮城県)
1月3日(火)札幌
1月7日(土)宮城県利府町 1月8日(日)金沢 1月9日(祝)大宮
 
青葉は12月10日の朝から新幹線で東京に移動し、ツアー一行と合流した。 
最近のローズ+リリーのツアー参加者は演奏者の数が物凄い。ケイが最近重厚なサウンドを志向している上に、音源を使用せずに生演奏することにこだわっているので、どうしても多人数が必要なのである。
 
青葉が内心参加を期待していた「謎の男の娘」さんは今回は来ていない。今回のツアーで千里に代わって龍笛を吹くのは、林田風希さんという女子大生で、千里が学生時代に奉職していた千葉市内の神社の後輩巫女さんらしい。この子結構霊感があるな、と思って青葉は見ていた。
 

青葉がついじっと彼女を見ていたら彼女はこちらに気付く。
 
「こんにちは。林田と申します。大宮万葉先生ですよね?私はこういうのは初めてなんで至らない所があったら、ぜひご指導してください」
 
「あ、いや。私も時々参加しているだけだから。実は春のツアーに参加していた《謎の男の娘》さんが来てないかなと思ってつい探してしまった」
と青葉が言うと
 
「それ私のことですか?」
と言う。
「え?春のツアーに林田さん、出てました?」
「いえ。参加はしてないですけど、私も男の娘だから」
 
「嘘!?」
 
「あれ?分かりませんでした?」
「全然気付かなかった。きれいな女の子のチャクラになってる」
「ああ。昔から何人かの霊能者さんに驚かれたことあります。私は霊的には完全な女の子だって。逆に男性として生きて行くのは無理だろうとも」
 
「林田さんのレベルなら、男性の服を着ても、変な男装してる女の子にしか見えませんね。背広着て会社に出て行っても、これ着てねと言われて女子制服を渡されますよ」
 
「その手の体験は過去に何度もしてます」
「やはり」
 

和実はショコラのオーナー神田、エヴォンのオーナー永井に許可を取って過去にショコラやエヴォンにいた元メイドの子たちにメールを送り、来年の夏くらいに仙台で新しいメイド喫茶を開店させるので、働く気は無いかという照会をした。その結果、5人から反応があり、念のため仙台市内で会って簡単な面接をした上で採用することにした。彼女たちは4月1日付けで雇用し、開業までの間、東京に派遣してエヴォンで少し研修を受けてもらうことにした。宿泊に関しては都内のマンスリーマンションを契約する予定である。
 
12月の中旬に、ショコラで最初に和実を指導してくれた先輩メイドで一時は新宿店のチーフをしていた佐々木悠子から連絡があった。
 
「とうとうメイド喫茶作るんだって?」
「今建設中です。悠子さんもホテルの方はうまく行ってます?」
「何とかなってるかなという感じ。初期投資が凄まじくて、銀行のローンのハンコ押す時は、奴隷契約する気分だったよ」
 
「ああ。そちらは恐ろしい金額でしょうね」
「はるか(和実のメイド名)ちゃんも、凄かったでしょ?」
「こちらのローン契約は1億5千万だから大したことないですよ」
 
「こちらは30億円だよ」
「ああ、恐ろしい」
 

「それでさ。私の従姉の息子が今仙台の近くの大学に通っているのよ」
「へー。どこですか?」
「S学院大学」
「それうちのカフェの近くじゃないですか」
「ああ、やはり近くだよね? それでさ、良かったら使ってくれないかと思って」
 
「それはいいですが。。。」
 
と思って和実は悩む。確かにメイド喫茶には男性スタッフが少数だが必要である。たまに不届きな客がいるので、女性ばかりだと、そういう客に対応できない。それでできたらがっちりした体格で、柔道か空手のできる、強面の男子がいると助かるのである。ただ、そういうスタッフの採用はオープン直前にするつもりだった。今採用すれば遅くとも4月くらいからは給料を払い続けなければならないが、お店が実際にオープンするまでは不要な人材である。 
「可愛い子だよ。メイド服似合うと思うよ」
 
へ?
 
「ちょっと待って下さい。いとこの息子さんとか言いませんでした?」
「まあ生物学的な性別は男だけどね」
「そういう人ですか!」
 
「大学にも普通に女子として通学しているよ。保母さん志望」
「へー!」
「保父さんじゃなくて保母さんになるんだと言っている」
「なれるといいですね〜」
 
「取り敢えず1度面接してみてくれない?」
「はい、ぜひ」
 
彼女は竹西佐織(本名は改名済み)と言ったが、とても可愛い人だった。声もふつうに女子の声だし、骨格が明らかに女子の骨格である。身長も160cmくらいか。小学5年生の時からこっそり女性ホルモンを摂っていて、中学2年生の頃には既にAカップサイズのおっぱいができていたらしい。
 
「それでも高校卒業するまで男子制服を着せられていたんですよ」
「あれは苦痛だよね〜」
「何度自殺しようかと思ったかしれないけどとにかく高校を出たら普通の格好ができると思ってひたすら我慢してました。大学受験も友だちから女子制服借りて女子制服で受けにいったんですよ」
 
「貸してくれる子がいてよかったね」
 
彼女はカフェの経営にも興味があるということであった。実際にコーヒーを入れてみせてもらったが、美味しいコーヒーを入れることができた。彼女にはマキコというメイド名で働いてもらうことにした。メイドカフェの経験は無いということであったので、大学の春休みの間に東京に出てエヴォンで研修を受けてもらうことにした。
 

ローズ+リリーのツアーは12月23日(祝)が名古屋、24日(土)が大阪、25日(日)が福岡と続いたが、名古屋公演が終わった後、24日の午前中にケイだけ福岡まで行ってくるということだった。その日アクアの新しいCDが発売されるので、その発表記者会見をするのだが、アクアはその日博多ドームでライブがあるので、記者会見を福岡天神の放送局でやるということであった。
 
そして青葉は冬子(ケイ)から
「ちょっと一緒に付いてきてくれない?」
と言われたのである。
 
今回のアクアのシングルはマリ&ケイの『モエレ山の一夜』と醍醐春海の『希望の鼓動』の2曲カップリングで、青葉は参加していないのだが、このついでにアクアのプロジェクトに関わっている人達で集まって少し打合せしたいということだったのである。
 
それで早朝の新幹線で冬子と一緒に博多に移動し、地下鉄で移動して市内のロイヤルホストに集まった。ここに顔を揃えたのは、秋風コスモス、三田原彬子、千里、冬子、青葉の5人である。女性5人の集まりだが、この中の4人が性別を変更している。凄いメンツだなと青葉は思った。
 
この日話し合ったのは、この業界の打合せの常として70%を占めた雑談を除くと、アクアの今後の制作方針に関する意見の出し合い、今日の記者会見で言う内容の確認のほか、アクアの「去勢済み疑惑」に関する議論もあった。三田原さんはアクアが既に去勢しているのではないかと、かなり疑っているようだったが、青葉と千里はどちらもその疑惑を否定する。その上でふたりともあと5年程度はアクアに声変わりは起きないと言明した。
 
「姉さん、龍虎に何したのさ?」
と青葉が訊くと
「青葉の邪魔をするようなことはしてないよ」
と千里は言う。
 
青葉と千里は微妙な視線を交わすが、その問題についてはコスモスが再度本人とよくよく話し合いたいと言っていた。彼自身がこのまま男の子として生きていきたいのか、それとも女の子になりたいのかで、制作方針は大きく変わってしまう。そして男の子として生きて行く場合、実は声変わりがいつ頃起きるかというのも制作側としてはひじょうに大きな問題なのである。
 
多くの男の子アイドルは声変わりを境に大きくセールスを落とす。
 
といって性転換でもしたらファンは激減する。
 
男の子アイドルというのは、いわば砂上の楼閣のように、はかない存在だ。 

この他、今日のアクアの公演で爆弾予告があったことが報され、青葉は大いに驚いた。ただ「物探し」のうまい千里姉がドームまで一緒に行くと言っていたので、多分どうにかなるかな、と青葉は思った。
 
そして!青葉は、今日はテレビの画面には出ないものの、今着ている服は酷すぎると指摘された。
 
「そんな服を着ていると40歳のおばちゃんかと思われるよ」
「え〜!?そこまで??」
 
結局、コスモスの事務所の沢村さんが若い女の子向きの服を買ってきてくれたので青葉はその服に着替えさせられた。
 
「こんな可愛い服なの〜?」
と青葉は恥ずかしがっている。
 
「女子大生はこのくらいチャラチャラした服が良い」
と千里。
 
「桃姉が、スカート穿いたら女装でもした気分だと言っていたのが少し分かる」
と青葉は言う。
 
「うん。これならまあ22-23歳くらいには見えるかな」
と冬子が言うので、また青葉はショックを受けていた。
 

放送局まで行って少し打合せをした後、冬子が青葉に頼んだ。
 
「青葉。実はマリからちょっと買物頼まれていたんだけど、博多駅に一足先に行って買物しといてくれないかな」
 
ところがそこに千里が言ってくる。
 
「それは青葉が行く必要無いよ。私の友だちにさせるよ。何が必要?」
 
と言って、千里はその「お友達」に電話をしていた。青葉は千里が電話するように装って実際は眷属に作業させるのでは?と思い、その電話する所を見ていたものの、千里は普通に電話しているように見えた。
 
「醍醐先生はガラケーをお使いなんですね」
と放送局のディレクターさんが言っている。
 
「私、静電体質だからスマホはダメなんですよ。ショップで私が触ったら、いきなり電源が落ちて、二度と起動しませんでしたよ」
 
「なんて怖い」
 
「マリちゃんもスマホがダメだよね?」
と千里は冬子に訊く。
 
「そうそう。スマホを半年単位で壊すもんだから、とうとうガラケーに戻してしまった」
と冬子。
 
「なんか大変ですね!」
とディレクターさんは同情するような感じの顔をしていた。千里はその後、三田原さんとも似たような会話をしていた。
 
しかし・・・千里姉がガラケーとスマホの両方を使っている所を鈴木真知子ちゃんが目撃している。千里姉がその2台をどう使い分けているのかも、青葉には謎である。
 

話題は千里がバスケット選手だという話になり、千里はいつも持ち歩いているというバスケットボールをバッグから取り出し、膨らませてその場でドリブル・パフォーマンスなどしてみせ「すごーい」という声があがる。そして千里はいきなりボールを青葉にパスした。反射的に受け取るが、それと同時くらいに千里は「パス」という声を出した。
 
普通先に声を出さないか!?
 
ちゃんと受け取れたからいいけど。
 
「青葉、なかなか反射神経が良い」
「私も水泳選手だし」
 
「大宮先生は水泳なさるんですか?」
「高校時代はインターハイに出たし、今年もインカレに出たね」
「まあ出ただけだけどね」
「そんなこと言って金メダル取ってるし」
「それは凄い!」
「それリレーだから、他の人の力ですよぉ」
 
「しかしスポーツ姉妹なんですね。凄いですね」
 

結局青葉がボールを持ったままの状態で放送が始まる。青葉は空気を抜こうかと思ったのだが《姫様》が『そのままにしておきなさい』と言った。青葉はもしかして何か起きるのか?と思い、緊張する。
 
最初の10分は東京のスタジオから放送は行われる。その後カメラはこちらに切り替わる。バックバンドの人達の生演奏に乗せてアクアが今日発売される曲を熱唱する。
 
こういう時、多くのアイドルは口パクなのだが、歌唱力のあるアクアはちゃんと生歌で歌っている。それを見て記者さん達の多くが首を振ったりして感心している。特に今日の記者さんたちは福岡勤務の人達でこういうアクアの歌を生で聞いたことのある人が少なかったせいもあるだろう。記者さん達どころか、バックバンドの中にまで驚いている人達が居る。今日のバンドはこの後ドームで演奏する人達なのだが、本来のバンド4人に5人のサポートミュージシャンが加わり9人である。そのサポートの人達が驚いているのである。きっとアクアの歌は電気的に調整して音程やリズムを合わせているのだろうと思っていたのではないかと青葉は思った。
 
ただ・・・青葉はその中のキーボードの人が気になった。
 
驚くとか感心するとかいったのとは微妙に違う感覚なのである。
 
青葉は千里に心の声で話しかけた。
 
『ちー姉、あのキーボードの女性、気にならない?』
『ああ。あの人、生理不順だよね。右の卵巣の調子が悪い』
『いや、そういうんじゃなくてさ』
と青葉が言うと
『私も感じた。あの人は怪しい。私はドームまで付き添うから、あの人から目を離さないようにするよ』
と千里も言う。
 
『うん。よろしく。私はこのあとすぐ大阪に行かないといけないし』
 

やがてアクアの歌唱が終わる。
 
冬子・千里・コスモスに三田原さんが出て行き、会見席に座る。アクアも前に出てきて会見席中央に座る。記者会見が始まる。伴奏者たちは後ろで控えている。千里は彼女たちに対して後ろ向きになるので、青葉がじっとキーボードの人を目の端で観察続けた。
 
そして・・・彼女がスタジオ内に置いている鞄にしばしば視線をやっていることに気付いた。
 
『ちー姉、どう思う?』
『怪しいね。何か危険物でも入れてたりして』
『まさか爆弾?』
『あり得ると思う。何とかするよ』
『うん』
 
青葉が千里とそんな会話をしていた時のことである。
 
突然、銃を持った男が乱入してきた。
 
反射神経の良い千里がすぐに席を立つとアクアを抱え上げ!「逃げて」と言って後方に逃がす。バックバンドのリーダー・ヤコが駆け寄ってアクアを保護する。コスモスが男の前に立ちふさがる。すると男はコスモスを掴まえ人質に取った。冬子と三田原さんも立ち上がった。
 

男が天井に向けて銃を一発発射する。
 
これで銃が本物であることが分かり、男を取り押さえようという体勢だった数人の放送局のスタッフの動きが止まった。
 
その時である。
 
千里から青葉に《直伝》(ちょくでん)が入る。
 
『笑顔でこちらに歩み寄って、犯人にできるだけ近い所から私にボールをパスして』
 
『分かった!』
 
それで青葉は(ちょっと怖かったけど)笑顔を作ってボールを持ったまま歩み寄る。銃を持った男はマイクに向かって何か言おうとしていたが、青葉が近寄ってくるのを見ると
 
「なんだお前、撃つぞ」
と青葉のほうに向いて言う。銃口もこちらに向ける。左手ではコスモスを羽交い締めにしたままである。
 
『ちー姉、怖いよぉ』
『撃たれたら特上のお葬式してあげるから』
『もう!』
 
千里とジョーク(?)混じりの会話をしたので少しだけ度胸が据わる。 
「お兄さん、そんな、か弱い女の子を人質にしちゃダメだよ」
などと青葉は男に向かって笑顔で言った。
 
この緊張した場面で、いかにも無害そうな女子大生(と思ってくれることを祈ろう)が笑顔で語りかけるので、犯人は拍子抜けした感じがあった。 
その犯人の意識の隙を青葉は見逃さなかった。
 
千里に無言でパスする。
 
犯人はボールが飛んできたのでビクッとする。
 
千里が瞬間的に反応して青葉のパスしたボールを受け取る。
 
犯人が千里の方を振り返る。
 
千里は左でボールを持つと男の右手手首の所に正確に命中させた。
 
(青葉は左利きだが、右手でも箸やペンを使える。千里は公称右利きであるがどうも隠れ左利きのようで、実際左手の方が右手より握力が強い。但し本人は利き手を矯正された覚えは無いと言っている。実は霊的な能力の高い人にはこういう両手利きが結構多い) 

男が「ぎゃっ」と言って銃を落とす。
 
千里が駆け寄って、男とコスモスの間に無理矢理自分の身体を割り込ませた。コスモスが解放される。テレビ局の男性スタッフが数人駆け寄り、ひとりが床に落ちた銃にスライディングするようにして確保。他の人たちが男を拘束した。レポーターの女性がマイクを取ると
 
「犯人は無事取り押さえました。コスモスちゃんもアクアちゃんも無事のようです」
とカメラに向かって言った。
 

男が乱入してコスモスを人質に取ってから、千里が彼女を解放するまでの時間は後でテレビ局が確認すると、わずか28秒だったらしい。男はコスモスを人質に取ったまま、何かカメラの前で主張したいことがあったようだが、すぐに青葉が近寄って来てボールをパスして千里がそのボールを犯人にぶつけたことから、結局何もメッセージを発信しないまま捕まってしまった。
 
放送局では緊急事態の発生に、このまま福岡の画像を流し続けるべきか、東京のスタジオに切り替えるべきか、現場のディレクターが判断しきれなかった。それでプロデューサーに尋ねようとしている間に、事件は解決してしまった。結果的に事件の一部始終が全国に流れ、この日発売されたアクアのCDが凄まじい数売れて品切れが発生するとともに、アクアの身代わりになる形で人質になった秋風コスモスの人気まで急上昇するという展開になったのである。
 

事件が解決した所で、警察はまだ駆けつけてくる前であったが、時間の無い冬子と青葉は博多駅に向かわせてもらうことにした。
 
放送局の裏口で待機していたタクシーに飛び乗ると、都市高速を通って博多駅に移動した。新幹線の乗車口の所に150cmくらいの女性が居て、こちらに会釈すると寄ってきた。
 
「こんにちは、唐本さんですか?」
と冬子に声を掛けてくる。
 
「あ。はい」
「これ頼まれたものです」
と言って大きな箱を渡した。
 
政子が冬子に頼んで置いた買物をしておいてくれたのである。彼女は更にお弁当とお茶も用意していて渡してくれた(千里のおごり)。
 
青葉はその女性を観察してみたものの、どうも人間のようだと判断する。青葉はひょっとして千里の眷属と会話を交わすことにならないかと半ば期待していたものの、“期待外れ”だった。
 
青葉がそんなことを考えていたら、後ろで《姫様》が可笑しそうに笑っていた。 
『千里が青葉にそう簡単にしっぽを掴ませる訳がないだろ?』
などと《姫様》は言っている。
『そうですけどねぇ』
 
『もっとも千里には、しっぽは既に無いようだが。青葉もだが』
『何の話してるんです!?』
 

「そうだ。念のため、お名前教えて頂けますか?」
と冬子が訊く。
 
「熊野ツバキです。姉のサクラが千里さんとは10年近い付き合いらしくて」
「へー。今日はお手数お掛けして本当にありがとうございました」
と冬子が御礼を言っている。
 
青葉はひとつだけ気になったことがあったので訊いた。
 
「新幹線の改札口2つありますよね。どうしてこちらで待っておられたんですか?」
「千里さんが、こちらの改札口に来るはずだとおっしゃったので」
「なるほど!」
 
千里が「予定調和」を起こすのは、冬子も青葉も何度も体験しているので、このことにはふたりともすっかり納得してしまった。
 

一方放送局に残ったアクアたち(千里も含む)は警察の簡単な事情聴取を受けた後、ライブがあるので博多ドームに移動する。
 
ドームでは既に多数の観客が列を作っていたが、入口の所でかなり厳重な所持品チェックをしていた。スタッフのそばに警官も付いていて、財布や筆入れの中に、生理用品入れの中までチェックされていたらしい。
 
しかしアクアたちは出演者なので、フリーパスで楽屋口から入る。この楽屋口の所にも警官が2人立っている。
 
そして・・・
 
千里は青葉と「怪しい」ということで意見が一致したキーボード奏者の女性がその楽屋口を通る時に《こうちゃん》に頼んで、足首を掴んで躓かせた。 
彼女が倒れ、持っているバッグが転がる。
 
バッグはなにやら重量感のある音がした。
 
その時彼女は小さく「きゃっ」という声を挙げたが、その声は驚きとかではなく、むしろ恐怖の声という感じがした。そしておそるおそるバッグに近づく。 
その様子にあまりにも違和感があったので、スタッフ間で思わず顔を見合わせたりする。警官も気になったようで
 
「どうかなさいました?」
と声を掛けた。
 
「いや割れ物が入っていたので」
と彼女が言う。
 
すると三田原さんは
「じゃ割れてないか見てみたほうがいいよ」
と言った。この時点で三田原さんも何か変だと思ったと後から言っていた。 
すると彼女はおもむろに手袋!をすると、おそるおそるバッグの中に手を入れている。そこで千里は言った。
 
「今そのバッグ落ちた時に金属性の音がしたけど」
 
すると警官が
「金属ですか?念のため見せて頂けませんか?」
と言う。
 
すると彼女は突然走って逃げようとした。
 
「こら待て!」
と言って警官が走ると、彼女を確保した。
 
もうひとりの警官が寄ると、白い手袋をしてから、そのバッグの中のものを取り出した。
 
時計のようなものが付いた金属製の缶が出てくる。
 
「ちょっと向こうで任意で事情をお伺いしたいのですが、いいですか?」
という警官の言葉に、女はうなだれた状態で、力無く頷いた。
 
(ちなみに爆弾は《せいちゃん》に頼んで、爆発しないように予め線を外してもらっていた。それで、安心して転ばせたのである) 

さて・・・・
 
出演者とスタッフは緊急会議を開く。
 
「結局、**さんが爆弾犯だった訳?」
「警察の捜査を待たないと分からないけど、たぶんそう」
「今日の公演どうする?」
「公演自体はやっていいんだよね?」
「もちろん。問題無い」
「犯人が捕まったんだから、当然公演するのに問題は無い」
 
なお“爆弾犯らしき人”は捕まったものの、今日の観客の所持品検査は最後まで超厳重に行われたが、爆破予告の報道があった中なので苦情はほとんど出なかった。
 
「彼女のパートどうします?」
「誰か代わりのアーティストが手配できる?」
「開演まで2時間だよ。いきなり譜面渡されて弾ける人はいないよ」
「B班の**さんが呼べない?」
「無理。川崎市内から2時間で福岡まで来る方法は無い」
 
今回のアクアのツアーではサポートミュージシャンはA班・B班と2組用意されていて、今日の福岡公演にはA班が来ていたのである。
 

全員腕を組んで悩む。
 
その時、コスモスが発言した。
 
「醍醐先生、弾けませんか?」
 
「おぉ!」
という声があがる。
 
「先生が書かれた曲が随分ありますよね?」
と三田原さん。
 
「いや、そもそも醍醐君は即興や初見演奏の天才」
と紅川会長が言う。
 
「そうなんですよ。醍醐先生とケイ先生は初見演奏の上手さでは業界で一二を争う存在なんです」
とコスモスは言っている。
 
千里は苦笑した。
 
わざわざケイの名前を出して自分のライバル心を刺激したなと思った。策士のコスモスらしい発言である。
 
「いいよ。やるよ。念のためスコア見せて」
「助かります!」
 
それで千里はこの日、急遽ピンチヒッターでキーボードのパートを演奏することになったのである。
 
なお、この後の公演ではB班のキーボード奏者さんが全ての公演に付き合ってくれることになった。また、この日のピンチヒッターの演奏料としてコスモスは千里の口座に200万円振り込んでくれた。千里もさすがにもらいすぎではないかと思いコスモスに連絡したが「あの場で先生が引き受けて下さらなかったら不完全なステージをお客様に見せることになってしまっていたから、これでも少なすぎるとは思ったのですが、予算が限られているので」などとコスモスは言っていた。
 
 
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