【春三】(1)

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「え?元三(げんさん)って元旦のことなんですか?」
 
とその日『ちょっとかくまって下さい』と言ってあまりの忙しさに逃げて来た龍虎Fは千里に訊いた。
 
「年月日の3つの元だから元三(がんざん)と言う。“げんさん”はよくある誤読」
「“がんざん”だったのか。読み方が難しいですね。だったらおみくじの“元三大師”って1月1日の生まれですか?」
 
「元三大師は9月3日生まれ」
「あれ〜?」
「でも1月3日に亡くなった」(*1)
「ああ、じゃ1月3日の意味でも使うんですね」
「うん。三ヶ日の意味でも使う」
「へー」
 
「まあ今日はゆっくりと休んでいくといいよ」
と言って千里は夕食のトレイを渡す。
 
「ありがとうございます。そうします。みちおは可哀想だけど」
「忙しさが限度を超えてるよね」
「全く。これじゃぼく妊娠とかもできないです」
「ああ。ふじえちゃんが妊娠すると、みちおちゃんが過労死するかもね」
「御香典は奮発して3000円くらいあげよう」
 
(*1) 元三大師(がんざんだいし)こと良源(りょうげん)は延喜12年(912)9月3日生まれ、永観3年(985)1月3日没。第18代天台座主。天台宗中興の祖。慈恵(じえ)大師、角(つの)大師・豆大師などとも呼ばれる。角大師というのは大師には角が有ったという伝説があるため。今でも多くの寺社にある元三大師おみくじの作者が大師に仮託されている。
 

彪志が会社でお弁当(大抵千里さんが『青葉の代理』と言って作ってくれる)を食べていたら、女性の同僚・吉沢さんが来て言った。
 
「鈴江さん、もし性転換して女の子になったら名前は何にするんですか?」
「何それ〜?」
「もしですよ」
「月子かな。月の子供。moonchild」
「ああ、なるほど。イニシャルはTSで変わらないんですね」
「あ、そういえばそうだね」
「TSってtrans sexualだったりして」
「あはは」
 

女子社員たちの裏の会話
 
「即答したね」
「きっと女性名を普段から使ってるんだよ」
「個人的な手紙の宛名とか、ソフトの登録とかに」
 
「こないだ鈴江さんが生理用ナプキン買ってるの見たよ(←しっかり見られてる)」
「こないだから鈴江さん、なんか生理中みたいな臭いがすると思ってた」
「じゃ生理があるわけ?」
「やはり性転換したんだろうね」
「胸があるような気がしてた」
「一度抱き付いて確認してみようか」
 
まあ、なんて大胆な!
 
「最近凄く女っぽくなってる。男の服着てるから今は一応男にも見えないことないけど、女の服着れば女にしか見えないと思う」
 
「元々女っぽかったよね」
「うん。普通に私たちの会話に付いて来てたし」
「コロナ以前はよく女子たちと一緒にお弁当食べてたし」
 
(↑お弁当持ってくるのが女子に多いだけ)
 
「そのお弁当が手作りっぽいけど、奧さんと離れて暮らしてるからあれ自分で作ってるんだよね」
「いや料理うまいみたいというのは、コロナ以前の花見の宴会でも思った」
 
(↑ずっと1人暮らししてたから料理もできる)
 
「男の子アイドルの名前よく知ってるし」
「女子のアクセサリーとかの種類もよく知ってるし」
 
「化粧品の新製品とかもよく知ってたし」
「きっと自分で普段はお化粧してるんだよ」
「いや、彼女から微かな香料のような香りを感じたことある」
 
(↑もう“彼女”と言われてる)
 
「うちの会社はお化粧禁止だけど日曜とかはしてるんだろうね」
 

「だったら川上青葉さんとはレスビアン婚?」
「だったらどうして女同士で赤ちゃんできたの?」
「きっと月子ちゃんのお兄さんの精子を借りたんだよ」
 
(↑当たらずとも遠からず)
 
「だったら妊娠は計画的か」
「多分少し休みが欲しかったんだよ。川上青葉さん忙しすぎたもん」
「なるほどー。ゴールドメダリストだと勝手な引退も許されないしね」
「東京五輪を花道に引退しようと思ってたのに水連会長から説得されて翻意したって」
「それでまた世界水泳で金メダルだもんね」
「でも何度もは休めないから、2人目は月子ちゃんが産むのかも」
「ああ、レスビアンのカップルって交替で産んだりするみたいね」
 
(やはりそうなるのかも)
 
「これからは“つきちゃん”と呼んであげよう」
「名刺も作ってあげようよ」
 

若林はその日21時頃まで残業し、そのあと一緒に残業した男性3人と一緒に居酒屋に行った。去年・一昨年(2020-2021)はコロナで飲みに行くのも控えていたのだが、もうそろそろ大丈夫かなという気持ちがあった。
 
23時頃まで飲んで、4人の内2人が「終電があるから」と言うので一緒に出ることにする。お会計をして2人は駅に行く。1人は「もうバスが無くなった」と言ってタクシーに乗った。若林は自宅まで2kmほどなので酔い覚ましに歩いて帰ろうと思った。
 
駅前の大通を南下していく。実はまだバスはあるが、深夜のバスは混むので感染対策からもこの程度は歩きたい。朝も6時台のバスで出て来て時差出勤をしている。最初は酔いで感覚が少し遠い感じだったが、1kmも歩くと結構酔いが覚めてきた。とともにトイレに行きたくなる。
 
環状線と交わるところでまだ開いている珈琲館があったので、そこに入り、カフェオレを注文してからトイレを借りる。男子トイレに入ろうとしたら掃除中である。
「あ、すみません。今掃除中なので女子トイレを使ってください」
「あ、はい」
 
それで女子トイレに入るがちょっとドキドキ。でもこちらに入ってと言われたんだから入っていいんだよね?若林はそう自分に言い訳すると女子トイレの個室に入り、備え付けのアルコールで便座を拭いてから、ズボンと“ショーツ”を下げて座る。かなり大量におしっこは出た。アルコール臭い。
 
流した後、タマタマを体内に格納し、ペニスは後ろ向きにしてショーツで押さえる。それからズボンを上げた。
 
女子トイレを出るとちょうど男子トイレの掃除が終わったようで、掃除をしていたスタッフはこちらに入ってきた。
 

しかしトイレに、しかも女子トイレに入ったので、かなり意識が明瞭になった。珈琲を飲んでから少しボーっとしていたが帰ることにする。
 
その時突然彼は“したい”気分になった。
 
それでスーツの上を脱いでネクタイも外し“ブラウス”姿になる。上衣とネクタイはバッグに入れる、ブラウスの下には実はブラジャーとキャミソールを着ている。ブラ線も目立つし、ブラジャーを着けていることで胸もあるように見える。彼は再度トイレ(今度は最初から女子トイレ)に入ると、ズボンも脱いでこれもバッグに入れる。靴下を脱いでタイツを履きガードルも穿くが完全に上まではあげない。ショーツをいったん少し下げて、玉を再度体内に収納し棒は後向きにしてショーツを上にあげて押さえる。タイツをあげ、ガードルでしっかり押さえる。ガードルはタイツのずれ落ちと、余計な物が重力で降りて来ないようにするのとを兼ねる。
 
ロングスカートを穿く。
 
ブラのカップの中にシリコンパッドを入れる。これでかなり胸があるように見えるのでドキドキする。防寒にフリースを一枚着る。フリースを着ても胸はわりと目立つ。
 
髪型を整えて女っぽくする。顔を化粧水で拭き、口紅だけ塗った。
 
それでトイレを出た。
 

時刻を確認しようと思ってスマホを見るとバッテリーが切れてるのに気付く。ありゃあと思う。お店の中にも時計が無い。スタッフに時刻を訊こうかと思ったが、“声バレ”するのが怖かったので、声を掛けずにお店を出た。どうせ12-13分で自宅に戻れるはずだ。
 
それで歩いて行く。スカートを穿いているので歩幅が小さくなり、腰でバランスを取る感じになって、歩き方も内股っぽくなる。この歩き方を変えるだけで実は凄く女っぽく見える。
 

そうして歩いているうちに、あれ?ここはどこだ?と思う。スマホで地図を見ようとしたらバッテリー切れであったことを思い出す。
 
一気に酔いが覚める。
 
住居表示があったので見る。ガーン。自分は通りをまっすぐ南下しなければならなかったのに、環状線にそって西に歩いてるじゃんと気付く。折り返して反対側に向かって歩く。なかなかさっきの交差点に到達しない。おかしいなと思って通り掛かりの住居表示を見ると交差点を通り過ぎている!嘘!?あそこの交差点を見落とすなんてあり得ない。
 
若林はまた戻ると再度あの交差点を見落とす気がした。彼はそこから南へ向かって歩き始めた。
 

若林はくたくたになってアパートの階段を登り自分の部屋に入った。家の時計を見たらもう(朝の)6時である。つまり珈琲館で30分ほど?休んだのを除けば6-7時間歩き回っていたことになる。明け方通りがかりのパトカーに声を掛けられるまでなぜか自宅の1km程度以内をひたすら歩き回っていた。
 
若林が警官に声を掛けられた時、その場で崩れるように倒れてしまったので警官は驚き、病院に連れて行きましょうかと言ったものの、自宅で休んでますと言うと、警官は親切にも自宅のアパート前まで送ってくれた。性別のことは特に訊かれなかった。むしろ明け方女性がひとりで歩いていてウォーキングとかでもないようなので声を掛けたという感じだった。性別曖昧な“無声音”で話したので、声バレした感じは無かった。警官は彼を女性と思い込んでいたようである。
 
しかしクタクタである。出勤の時刻だが30分休もうと思った。
 
それで彼はスマホを充電ケーブルにつなぐとトイレに行った後でシャワーを浴びた。その後新しいショーツとキャミソールを着けてキティちゃんのパジャマを着ける。“元気づけ”にダイアン35(*2)を飲んで水で流し込んだ。布団に潜り込んで“大きなクリトリス”をいじっていたら、その内何も出ないものの逝った感覚があった。それでそのまま睡魔の中に引き込まれていく。
 
7:00にもスマホの予備アラームがセットしてあるからそれで目が覚めるはずと思った(←スマホがバッテリー切れで電源まで落ちていることを失念している)
 

ドアが強くノックされるので目を覚ます。時刻を見たら12時!?
 
ドアの外で「若林君!」と呼ぶ声は課長!??
 
「課長済みません。今開けます」
 
女物のパジャマだけど仕方無い。
 
「いや、開けないで。君体調は?」
「えっえっと、済みません。完璧に寝過ごしたみたいで」
「熱とかは?」
「・・・特に無いようです」
「歩ける?」
「・・・えっと普通に歩けるようです」
「いや電話にも出ないから寝込んでいるんではないか思って訪ねて来た」
「わざわざ済みません!ドア開けますね」
「いや開けないでこのまま聞いてくれる?」
「あ、はい」
 
「実は鈴木君と田中君が朝から熱を出してね」
「はい」
「ふたりともPCR検査受けたら陽性だった。自宅隔離になる。君は熱とか出てないのね?」
「いえ特に」
「ちょっと体温測ってみてくれる?体温計持ってる?」
「持ってます」
 
それで測ってみる。
 
「35度6分です」
「熱は出てないみたいだね。昨夜鈴木君・田中君・渡辺君と君の4人で飲んでたんだって」
「あ、はい」
 
「渡辺君は症状出てなかったけど病院で検査してもらったら陽性だったらしい。君もこのあと病院に連絡してすぐPCR検査してもらって」
「分かりました!」
 

それで課長は帰っていった。若林はスマホの電源が落ちていたことに気付く。それでアラームも鳴らなければ、電話もつながらなかったのか!
 
若林は再度シャワーを浴びた。乳首が立っているのが嬉しい。このおっぱい自体大きくなるかなあ、などと期待している。(*2)
 
バスルームを出て、ショーツとブラジャーだけ着けて病院に電話した。すぐ来てよいということである。若林はブラジャーにパッドを入れ、キャミソール、Tシャツ、ロングTシャツ、黒タイツ、ガードルと着け、ロングスカートを穿いた。念のためフリースも着た。
 

(*2) Dian35は女性ホルモン剤の一種。これを飲むと不可逆的に“男性を廃業する”ことになる。女性ホルモン剤は血糖値を上げる作用があるので確かに一時的に元気が出るような気がする。
 
Dian35だけではバストを大きくする効果は無い。
 

それでパンプスを穿いて1kmほど離れた病院まで歩いて行く。体温を上げないようにゆっくりと歩いた。フリースを着てても結構胸の膨らみが目立つので気分が高揚する。それで病院の前でスマホで連絡し、病院の外でPCR検査してもらった。幸いにも陰性だった。
 
会社に連絡すると
「良かった。でも念のため3日間休んでてくれる?」
「分かりました。そうします。今朝は申し訳ありませんでした」
 
若林は濃厚接触者ということになるようである。彼は食料を沢山買い込んで自宅に戻った。(女装で近所のスーパーに入るのは平気。ここで女物の服や下着も買っている)
 
しかし3日休むとそのあと土日があるので結局5日間休むことになる。ということで若林は5日間思いがけず休みができ、その5日間は完全女装生活を送ることになった!
 
5日間も女装生活してて、月曜日からも女装で会社に行きたくなったらどうしよう?などと若林はネイルを塗りながら思った(←行けばいいじゃん?どうせ既にバレてるって)
 

女子社員たち(吉沢・田原・井村)は楽しそうな顔で彪志の所に来て言った。
 
「月子ちゃん、名刺を作ってあげたよ」
「え?」
 
見ると
 
《D製薬株式会社東京本店QAP本部配薬課主任/鈴江月子》
 
と印刷されている(何だかデジャヴ)
 
「女の子になってる時はその名刺を使うといいよ」
「あ、ありがとう」
 

「何だい?性転換ごっこ?」
と課長が言う。
 
「課長も女の子になっちゃった時の名刺を作りましょうか?」
「え?そうなの?」
「幹部の女性比率をもっとあげるため、40歳以上の男性幹部は女になってねなんてことになるかも知れませんよ」
 
「40歳以上なの?」
「その年齢ならもう子作り終わってるから奧さんから苦情来ませんよ」
「すると役員会は全員女になるな」
「素敵な会社ですね」
「しかし僕の女房、僕が女になったら面白がるかも」
「奧さんが欲しいという女性は多いですよ」
「ああ、分かる」
 
「その時のために、課長は女の子になった時の下の名前は何ですか?」
「えっと何だろう?」
 
「英子とか英代とか」
 
課長の下の名前は“英俊”である。
 
「じゃ英子にしようかな」
「ではそれで名刺作りますね〜」
 

ということでは30分後には彼女たちは課長の女性モードの名刺を作ってきた。(君たち暇なの?)
 
《D製薬株式会社東京本店QAP本部配薬課課長/佐原英子》
と書かれていた。
 
「あははこれ、間違ってお客さんに出しちゃったらどうしよう」
「朝起きたら女の子になってたんですと言えばいいですよ」
「それショックだろうね!」
 
俺、起きたら女になってたからショックだったよー、と彪志は思った。
 
今外出から戻ったばかりの水川係長(女性)が呆れたような顔で
 
「あんたたち暇なのなら、薬の配送に行ってきて」
と言って伝票を数枚渡していた。
 

〒〒テレビ『北陸霊界探訪』編集部。
 
幸花はテーブルに上半身を投げ出して、またうなっていた。
「ネダはね〜が〜?」
 
「ツイッターを見てるんですが、なかなかいい感じなのが無いですね〜」
と明恵が言う。
 
「“小さなおじさん”を見たという報告が、松任(まっとう)と羽咋(はくい)で」
と初海。
「ありふれた話だなあ」
「“小さなおじさん”も目的のよく分からない現象だ」
 
「あ、こちらには“小さなおばさん”という報告も。これ石動(いするぎ)ですね」
「ああ、性転換したか」
 
「特に害も無いようだし放置でいいと思う」
「小さなおじさんを見たら運が開けるという説もありますね」
「ターボ婆さんとかも害は無いですね」
「見た人がびっくりするだけだよね」
「愉快犯だな」
「いや、妖怪には愉快犯がとても多い」
 
「首無しライダーとかも同様ですよね」
「うん。あれも見た人はギョッとするけど害は無い」
「ムジナの類いの悪戯だな」
と幸花。
 

「鞠撞き少女の目撃報告も」
「ほんとに女の子が鞠を撞いてたのだったりして」
「あれはフェデリコ・フェリーニ監督の怪奇映画『悪魔の首飾り』(*3) のラストが都市伝説化したものだと思う」
と神谷内さんが言う。
「あれはぞっとしましたね」
と久しぶりにこちらに顔を出した城山さん。彼は現在ほかの番組の担当なのだが、この編集部には出入り自由である。
 
「なんか想像できて怖い」
と初海が言っている。
 
(*3) "Toby Dammit ou Ne pariez jamais votre tete avec le Diable". (直訳:トビー・ダムニ又は、悪魔と自分の首を賭けてはダメ)。 他の監督の作品と合わせて『世にも怪奇な物語』(Histoires extraordinaires) として1968年に公開された。3本の短編の中のラスト。そのラストシーンに妖しく化粧した少女が登場する。トビー・ダムニは主人公の男の名前。
 
筆者は月曜ロードショーで見たが荻昌弘さんが「最後に出て来た少女が悪魔ですね」とわざわざコメントしていた。あれを見た後、随分悪夢にうなされた。
 

「こんなのはどうですか?夜遅く帰宅していて自宅の近くまでは辿り着いたものの、自宅に帰るのに朝まで掛かった」
「酔っぱらってたのでは」
 
すると初海がハッとしたように言う。
「私もこないだ放送局の中で迷子になったんです」
「こんな狭いテレビ局の中で?」
「ちなみにお酒は飲んでませんでしたよ。20分くらい、この編集部に辿り着けなくて、ひたすら局内を歩き回ったんですが、途中で遙佳ちゃんに遭遇してそれでやっと編集部に到達できたんですよ」
 
「うーん・・・」
 
「どうやったらこんな狭い建物の中を20分も歩けるのか、それを逆に訊きたい」
「あまりの狭い狭い言わないでぇ」
などと神谷内さんが言っているが、ここは金沢の大手民放局に比べて1/3くらいの規模だし、スタッフの数も半分くらいしかいない。だから逆に20分も歩き回るなんて不可能に近い。
 
「少し調べて見ようか」
 
編集部ではツイッターの書き込みから書いた人にDMを送ってみて「まだネタとして取り上げるかどうかは不明だが、詳しいことを教えて欲しい」と連絡してみた。それでわりと状況が分かった返信が5件あった。
 

・(26男)自宅から500mほどのスーパーの前を通過した。しかしその後なかなか自宅に辿り着けなかった。その日はスマホを自宅に忘れててナビが使えなかった。会社から帰る時、友人と一緒に食事し生ビールをグラス1杯飲んでいるが酔う程では無かったと思う。明け方、新聞配達の人と遭遇した後、3分で帰れた。
 
・(27女)自宅から800mほどの病院の前を通過した後、どこをどう歩いていたのか分からない。どうしても自宅に辿り着けなかった。お酒は飲んでいない。早朝ウォーキングの人に「お疲れ様」と声を掛けられた後は10分ほどで帰れた。ナビ?スマホにそんな機能があるんですか?今度使い方調べとこう。
 
・(32女)自宅から1kmほどのカフェで休憩した。しかしそこから家にどうしても辿り着けなかった。スマホはバッテリー切れでナビが使えなかった。なぜか自宅に近づけるはずの道を見落としてしまう。気付いたら通り過ぎている。酔ってはいたけど、歩いている内に完全に酔いは覚めた。でも酔いが覚めてもどうしても自宅に近づけなかった。くたくたになったところで巡回中のパトカーの警官に声を掛けられ、自宅近くまで送ってもらって帰宅できた。パトカーに乗ってたのはほんの12-13秒ほど。だからひたすら近所を彷徨っていたようだ。
 
・(25女)自宅から400mほどのコンビニでおやつを買った。そのあと家に辿りつけなかった。ナビに頼って帰ろうとするが、なぜか近づけない。疲れたのでコンビニで買ったおやつを食べまた頑張ったがどうしても自宅近くに行けない。ナビを見てると近づいているような所から唐突に遠くに行く。明け方、パン屋さんのおばさんが「早朝ウォーキングですか」と声を掛けてくれた後は、5分で帰れた。
 
・(23女)自宅から300mほどのATMの前を通過した。しかしその後、どうしても自宅に辿り着けなかった。歩けば歩くほど訳の分からない所に出た。お酒は飲んでいない。早朝タクシーが通り掛かり「乗りませんか」と声を掛けられたので乗ってやっと帰宅できた。タクシーの料金は2100円くらいだった。え?ナビって私車持ってないんですけど。
 

「最後のはただの方向音痴という気がする」
「同感。2100円払ったというのは4kmくらい離れてますよ。元の場所から遠ざかってる」
「夜中は昼間と雰囲気が違うから迷ったのだと思う」
「ほかの4つはほんとに近くを彷徨ってたみたいですね」
 
「今明恵ちゃんが言った“夜中は昼間と雰囲気が違う”というの大きな要素と言う気がする」
 
「この手の事件は前からあるのかなあ」
「少し探してみよう」
 
それでスタッフでこの手の書き込みをツイッターで探してみたところ、この手の報告は毎月2〜3件見られるものの、今年の夏くらいから増えていることが分かる。9月が6件、10月はこれまで(現在は10月21日)10件あった。
 
「コロナの影響では」
「これオミクロン株が蔓延してきた時期と一致してる」
「コロナの後遺症で道に迷いやすくなったとか?」
「それはあり得るなあ」
「太陽の黒点の影響とかは」
「ちょっと待って」
 

神谷内さんが調べてみると確かに黒点活動が活発化し始めていることが分かる。
 
「2025-2026年くらいにピークになりそうということ。磁気が乱れるから無線通信に混乱が起きて、携帯電話がつながりにくくなったりするって」
「磁気が乱れたら、絶対方向感覚くるいますよね」
「うん。元々方向感覚のいい人ほどおかしくなる」
「そのせいかなあ」
「原因のひとつという気はするね」
 
「コロナは?」
「たぶんそれも要因の一つ。オミクロン株がそのあたりに影響してる可能性ある」
「それ以前のは患者が死んでたから表面化してなかったとか」
「それもありそうで怖い。オミクロンは以前のに比べて遙かに弱くなったから生還率もひじょうに大きくなった」
 
「でも太陽黒点の活動による磁気の乱れとかコロナの影響とかでは『霊界探訪』の出る幕が無い」
「うむむ」
 

明恵たちはこれまでの調査内容をまとめて青葉の家に持ち込んでみた。
 
青葉は22-23日は“ミュージシャン・アルバム”の取材の仕事をしたが、その後暇を持てあましていたので興味深く聞いてくれた。
 
「磁気の影響は私も感じてる。おかしくなる人多いと思う。通り魔事件とかも増える可能性ある」
「やだなあ」
「コロナの後遺症で物事がよく思い出せなくなるというのもあるみたいだからその影響もあるだろうね」
「なるほど」
 
「でもそういう心の弱った所に付け込む妖怪がいるかもよ」
「やた!霊界探訪の仕事になった」
 
「この中で全員に共通するパターンがあるよね」
「ええ。誰かに声を掛けられたら家に帰れたというのですよね」
「うん。だから誰かが声を掛けると、その状態から抜け出せるんだろうね」
「それは解除方法みたいですよね」
 
「きっと心の弱ってる人がそういうのにやられやすいけど、正常な人が来るとその妖怪は『あ、やべ』と思って逃げ出すんだよ」
 
初海が言った。
「私が局内で迷子になった日、午前中は就職予定の企業に行って来て、霊界探訪のお仕事から離れるんだなあというのを改めて実感して、少し寂しい気持ちになってたんですよ。それが影響してるかも」
 
「それは大いにありえるね」
 

「でも人を迷子にする妖怪とか居たっけ?」
 
「そのあたり調べてみました」
と明恵たちは言う。
 
「たいていはタヌキか何かの仕業だとか言うんですけどね」
「“みちびき”という妖怪があるみたいです。山で迷った人を導いてあげるふりをして更に迷わせてしまう」
「奄美に住むケンムンって河童みたいな妖怪も同様のことをするようですね」
「でもその手の妖怪や精霊って逆に本当に導いてくれることもあるよね」
 
「そうなんですよね。遠野物語に狼が人を里まで送ってくれた話がありました」
「天狗火って概して怖い現象なんですけど、天狗火が道に迷った人を助けてくれたという話もあります」
 
「妖怪ウォッチではダイダラボッチが人を迷路に誘い込むとされてましたけど実際はダイダラボッチは人を助けてくれたという伝承が多いんです」
 
「きっと“みちびき”も機嫌のいい時はちゃんと導いてくれて、悪戯心を持つと迷わせるんだよ」
「ありそー」
 
「ほんとに助けが必要な人は助けてくれるのかも」
「でも一晩中歩いても大丈夫な奴は歩かせちゃう」
「ありそうありそう」
 
「でも今回のパターンは“みちびき”とは少し違うみたいだね」
「本人の前に姿を現したり、導いてあげようとしてませんからね」
 
「『陰陽師』でも一晩中歩かせる邪鬼の話が出て来ましたね」
「うん。あれは巧妙だよね」
「通りたいと言ったら金縛りに掛かって一晩中その場に押さえつけられている。通りたくないと行ったら一晩中切り株の周りを歩かされる」
 
「でも今回は特定の場所で起きるのではないから、あれとはまたタイプが異なるようですね」
 

「なんか色々考える前の要素がまだ足りない気がするなあ」
と青葉は言った。
 
青葉は初海が局内で迷った時のことをもう一度詳しく話して欲しいと言い、ずっとその話を聞いていた。
 
また明恵たちは先に取材に応じてくれた人に当日の状況を迷う少し前から詳細に教えて欲しい、関係無いと思うことでも教えて欲しい。人に知られてはならない話は番組でも流さないし、編集部の金沢ドイル・コイル・セイル・パール・メール・ウール以外には口外しないからと呼びかけ、各々から結構詳細な報告をもらった。番組では、お礼にQUOカードを贈っておいた。
 

さて、彪志の方であるが、10月25日に初めての生理が来て、27日朝くらいまでは結構な量の経血が出ていたが、その後だいぶ収まってきた。最初はずっと生理用ショーツを穿いていたのだが、この生理用ショーツは蒸れる!と言う問題に直面する。
 
悩んだあげく、彼は27日からは普通のショーツを穿くことにした。その上にトランクスを穿いておく。やはり3日目くらいからは普通のショーツでもけっこう行ける感じだった。そして5日目の29日からはナプキンではなくパンティライナーを使ってみることにした。これはナプキンより薄くて蒸れにくい感じだった。
 
「女性って大変なんだなあ」
とつくづく思った。
 
しかし自分もこれから閉経する50歳頃までこういうのとずっと付き合わないといけないのだろうかとも思うが、先のことはゆっくり考えることにした。
 
なお洗濯であるが、生理用ショーツは血の付いた部分をトイレットペーパーで拭き、更に水で洗ってから洗濯物に出した。(血はお湯で洗ったら固まって取れにくくなることくらいは薬関係の仕事をしていれば分かる)なお千里さんから「サニタリーショーツはネットに入れて」といってネットも渡されたので2度目からはネットに入れて洗濯籠に入れた。
 
普通のショーツは単純に水洗いしてから洗濯物に入れた。しかし6日目くらいからは特に自分で洗わなくてもそのまま洗濯籠に入れられるようになった。
 

生理が一段落した10月31日(月)、彪志が1件個人病院に納品に行って帰社したらいきなり
「月子ちゃん、PCR検査お願いします」
と恵花ちゃんから言われて、鼻の粘膜を採られる。
 
「大丈夫です。陰性でした」
「何かあったの?」
と訊く間も、難しそうな顔をした課長が彪志を呼んだ。
 
「鈴江君、ほんとうに申し訳無いのだけど」
「えっと何でしょうか?」
「金曜日から休んでた宮沢君が今日病院に行ってみたらコロナ陽性だったらしいんだよ」
「ありゃあ」
「君は熱とか出てない?」
「はい、特に。今朝の体温は5度9分でした」
「一応課内の全員にPCR検査も受けてもらったのだけど、全員陰性だった」
 
「彼は金曜から休んでるから木曜の時点で感染していたとしても、彼から感染した場合、もう症状が出ているハズですね」
 

「うん。そうだと思う。ところで宮沢君は明日11月1日から3日まで研修に参加する予定だったんだよ」
 
まさか。
 
「悪いけど、鈴江君、代わりに出てくれない?」
「えっと私は11月3日の祝日に出勤して代わりに4日を休ませて頂いて4-6日に妻の所に行ってくるつもりだったのですが」
「うん。だから3日に研修が終わったらそのまま奧さんの実家に行っていい」
「えーっと研修の場所は?」
「長野県の鹿教湯温泉(かけゆ・おんせん)」
「温泉地ですか!」
「でも富山に行く中間地点だろ?」
「確かにそうですが、それ相部屋ですか?」
 
今自分は男性と相部屋出来ないぞと思う。といって女性とも相部屋出来ないけど(そんなことしたら青葉に殺されそう)。
 
「コロナの折なので全員個室だから」
「それならいいです」
「ここ2年ほど温泉はコロナで青息吐息らしいんだよ。だから凄く安く提供してくれたらしい」
「なるほどですね」
 
個室なら何とかなりそう、と(この時は)思った。
 

それで彪志は急遽明日から長野に出張することになったのである。車で移動するので彪志は16時に退勤させてもらう、
 
そして自宅に帰る途中、車のガソリンは満タンにした。ついでにドラッグストアに寄り、非常食におやつなどを買う。またドライブ中の眠気覚ましにコーヒーの6缶セットとクールミントガムを買った。他に念のためナプキンも1パック買っておいた。こないだから何度も買っていたのでもうナプキンを買うのは平気である。
 
帰宅し、千里さんに「明日から出張でそのあと直接伏木に行く」と言うと、お土産に「東京ばな奈」を渡してくれた。
 
こういう予定調和的な千里さんの行動はいつものことなので驚かない。ただしこういう時千里さんはなぜ自分がお土産のお菓子を買ったか分かってない。
 
服の着替えは,向こうで洗濯できるから・・・と思ったが、女物の下着を青葉の家では洗濯できない!ということに気付き、結局10日分くらいの着替えを持つ。車に置いておけばいいだろう。
 
それで早めに寝て午前3時に起きる。車で移動する間は普段着でいいだろうと思い、スーツ(むろん男性用)とワイシャツはバッグに入れ、Tシャツにジーンズのパンツ(実はレディス)、その上にトレーナーを着た。胸が目立つ気もするが研修ではスーツを着るし、まあいいだろうと思う。
 

出掛けようとしていたら、千里さんが出て来て
「おにぎり作っておいたよ」
と言って渡してくれた。
 
「ありがとうございます。深夜なのに」
「作曲してたからね」
「大変ですね!」
「夜中のほうが集中できるしね。あ、これもあげる」
と言って紙を渡される。
 
「高岡近辺の駐車場のあるコインランドリーの地図」
「ありがとうございます!助かるかも」
「でも運転中は人に見られるわけでもないし女の子の服着ればいいのに」
「変なこと唆さないでください」
「彪志君の女装はきっと青葉は面白がる」
「ほんとに面白がりそうで怖いです」
「これプレゼントね」
 
と言って何かバッグ渡された。
 
「あとでよく見るといいよ」
「あ、はい」
 

それで彪志は車に乗り、行き先をカーナビにセットして出発した。
 
浦和所沢バイパスを走って関越に乗る。藤岡JCTで上信越道に分岐し、甘楽PAで休憩する。トイレに行く。チラッと女子トイレを見てから「やっぱ、女子トイレには入れないよなあ」と思って、男子トイレに入ろうとする。ところが中から出て来た20歳くらいの男性が
 
「ちょっとおばちゃん、男子トイレ使うのやめてくんない」
と言う。
 
「済みません!」
といって彪志は反射的に女子トイレに入ってしまった。
 
初めて見る女子トイレは何か異様な空間だった。1個だけ小さな小便器がある(*4). しかしそれ以外は個室だけが並んでる。彪志は一瞬異世界に迷い込んだ気がした。(異性界かもね)
 
中で手を洗っている若い女性がいた。一瞬彪志を見たものの、何も言わない。うっそー!?俺が女子トイレに入っても何も言われないの!?
 
(*4) 同伴男児用の小便器。
 

個室が空いているので、彪志はそのまま個室の中に入った。便座をアルコールで拭いてから座る。いつもの場所からおしっこする。少したくさん出た気がした。基本疲れてるのかなと思う。PAで一時間くらい仮眠してから出ようかなと思う。途中休めるよう早めに家を出て来ている。
 
自販機で暖かい紅茶を買って車に戻る。仮眠するのに後部座席に乗って、のんびりと紅茶を飲んでいる内にふと思う。
 
「あ、そういえば千里さんから渡されたの何だろう」
それでバッグを開けてみた。
 
「うっ」
 
中に入っていたのは、女性用のビジネススーツ(スカートタイプ)、ブラウス3枚、女性的なライトピンクのフリース、また普段着用っぽいスカート3枚、それにメイクセット?
 
「うーん・・・・」
 
ちょっと悩んだが“不純な動機”もあり
 
「夜中だし誰にも見られないし着てみようかな」
と思った。
 
それで少しドキドキしながら、服を全部脱ぎ、身体をボディシートで拭いてから新しいショーツとブラジャーを着け、キャミソール、ブラウス、それに女性用ビジネススーツの上着とスカート、と着る、ちょっとこの格好を姿見で映してみたい気分になる。それでトイレに行くが少し悩んでから、女子トイレに入っちゃった♪
 
入ってすぐにギョッとする。
 
女の人がこちらを見ている!変に思われたかな?
 
と思ったがよく見たらそれは鏡に映った自分の姿だった。
 
俺、女にしか見えない・・・・
 
と彪志は少しショックを受けていた。
 

しばらく見とれていたが、その内表の戸が開くので、ビクッとする。こんな所で立ち止まってたら変に思われるかもと思い、彪志は個室に入った。けっこうまたおしっこが出たので疲れが溜まってるのかもと思った。
 
手を洗って車に戻る。そしてそのまま車内に常備している毛布と布団をかぶり、女の子の密かな楽しみをすると深い眠りに落ちて行った。
 

メールの着信音で目が覚めた。スマホを見る。
 
8時!?
 
嘘。やばい!遅刻する!!
 
どうも疲れが溜まってたので熟睡してしまったようである。
 
(気持ちいいことしたからでは?)
 
ここから鹿教湯温泉まで空(す)いている時なら,1時間半で行くが、この時間は朝のラッシュにかかる可能性がある。それで6時には出るつもりだったのに!
 
トイレ(一瞬迷ったが女子トイレ)に行って来てから運転席に就き、車を発進させる。結構通行量が増えているので流れに任せて走って行く。しかし・・・
 
スカート穿いて運転してると、スカートの上に物を置けるのが便利!ズボンだと股の間に落ちちゃうもんね。それで彪志は千里さんからもらったおにぎりを朝御飯代わりに食べていたが、運転に集中したいときは、おにぎりを一時的にスカートの上に置いていた。
 
スカート便利だなと思う(←もう戻れない所に来てる気が)。
 
東部湯の丸のICで降りて、一般道を走っていく(r81, R152, r174, R254など)。そして会場の旅館前に到着したのはもう9:55だった。
 
旅館の前面が駐車場になっているようなのでそこに駐める。カバンを持って掛け出して行く。
「すみません。幹部候補生向け研修会の受付まだいいいですか」
「はい。10時から10時半まで受付だったのですが」
「ああ、10時からでしたか!」
 
てっきり10時までと思ってた!
 

「少し早いですがいいですよ。所属とお名前を」
「えっと、D製薬東京本店の宮沢が出る予定だったのですが、急病のため代理で来ました鈴江と申します」
「はい、名刺とかございますか?」
「ええっと」
と言ってカバンの中を探すと名刺ケースが手に触れる。それで「あれ〜名刺ケースとかあったっけ?」と思いながらも中から1枚取り出して渡した。
 
「はい、確認しました。このお名刺こちらに留めておいていいですか」
「あ、どうぞどうぞ」
と言ってから名刺に書かれている名前を見てギョッとした。
 
《D製薬株式会社東京本店QAP本部配薬課主任/鈴江月子》
 
と書かれてる。うっそー!?俺女名前の名刺出しちゃった?と思った次の瞬間
 
自分がそもそも女物のスーツを着たままであることを思い出した。
 
うっそー!?女装で研修会に出たりしたら俺叱られる。クビにされるかも、などと血の気が引いた。
 
しかし受付の女性はその場で小型端末で「鈴江月子」という名前をプリントすると、それで名札を作ってくれた。それを首に掛ける。
 
「それでは1階の“鳳凰の間”にお越し下さい。また宿泊は607号室になります」
と普通に言って、資料の入った手提げ袋と部屋のカードキーを渡してくれた。
 
「ありがとうございます」
 

取り敢えず鳳凰の間に行くが、場所を確認した上で講習会の前にトイレに行っておきたいと思った。朝起きてすぐに甘楽PAで行ったっきりである。
 
それでトイレに行くが男女に分かれている。少し悩んだが、女名前で登録しちゃったし、今女の格好してるしと思い、女子トイレに入った。中は個室が3つ並んでいる。小便器は無い。まあ女子トイレってこんなものだろうと思い、手前の個室に入った。手を洗ってから会場に戻る。彪志が女子トイレに居る間は誰も入って来なかった。
 
資料を読みながら待っている内に講習会は始まった。
 
講習はまず午前中に2時間、富士通の技術者さんから、人工知能の現状について概説があった。
 
お昼は食堂で食べたが、椅子が間引きされていて、ひとつのテーブルに本来は6人から8人くらい座れそうなのを3人にしてあった。彪志が先に端のテーブルで食べていると
 
「ここいいですか」
と言って別の女性2人連れが来る。
「どうぞどうぞ」
というと、同じテーブルに座って食べ始める。
 
「とぢらから来られました?」
と訊かれるので
「東京です」
と答える。
 
2人は名古屋と福島ということだった。
 

「この手の研修会って男性が多いから少し緊張しますね」
と青木という名札を付けた女性。
 
「ああ、そもそも女性を幹部にするつもりのない会社とかありますよね」
と由梨という名札の女性。
 
「ほんと頭の古い男たちが多いから」
と彪志も言う(女声を使用する)。
 
「女たちも自分たちが責任者とかになろうという人が居なかったりするしね」
「そうそう。どちらかというと頑張ろうとする女の敵は保守的な女」
「言えてる言えてる」
 
「なんか古い体制が残ってる会社多いよね」
「うちはお茶とかは各自勝手に飲めということになってますけど未だに女性社員にお茶汲みさせる会社もあるみたいですね」
と彪志。
 
「昭和の遺物ですね」
 
「でも参加した女性の中でお化粧してないのこの3人だけだったから割と仲間かなと思った」
と由梨さん。
 
あ、お化粧とか何か考えてない、と彪志は思う。荷物の中にメイクセット有ったけど・・・使い方が分からない!
 
「うちの部門は扱ってる商品の関係もあってお化粧禁止なんですよ」
と彪志は言う。薬品を扱う関係で特に香料がタブーなのである。
 
「なるほどー」
「食品関係とか薬品関係でそういう会社あるね」
 
「うちは禁止ではないけど割とハードな仕事だからお化粧してる子は居ない」
と青木さん。
 
「そういう会社増えるといいね」
 

しかし彪志は彼女たちと話していて、自分はもしかして先進的な女性とばかり接触しているのかもしれないという気がしてきた。D製薬自体が女性の比率の多い会社でしかも幹部の3割が女性である。取締役も12人の内3人が女性。特に彪志のいるQAP本部は男女ともに大卒以上のスタッフがほとんど。課内では男女ともに博士号・修士号持ちも多い。女性たちも積極的に色々な資格を取っているし様々な研修に派遣されている。2人の係長の内1人が女性で薬学博士である。4人の主任の内1人が女性(彪志が女になれば2人になるね)。「お嫁さんになるまで仕事しようかな」みたいな人は1人も居ない。課内に既婚女性が5人居る。
 
彪志は大学も理学部だったので、いわゆる“男勝り”の女性が多かった。しかしどうも世間はそんなでもないようである。
 

午後からはAIの使われている現場について、講習会が2つあった。夕食もまた青木さん、由梨さんと一緒になり、今度はもっぱら芸能ネタで盛り上がった。男の子アイドルの話も随分出たが、彪志は会社で女性の同僚とよく話しているので結構な知識があり普通に彼女たちの会話に付いて行けた。
 
アクアちゃんはいつ「ごめんなさい。私は女の子です」とカムアウトするかというのも話題になっていた。
 
「いやカムアウトの必要は無いと思う。だって橋本環奈が『私実は女性なんです』とか言う訳がない」
と彪志が言うと
「なるほどー」
と青木さん・由梨さんは感心していた。
 
「でも少年探偵団は今期で卒業するという噂があるね」
「さすがに“少年”の役は厳しいかもね」
「それって年齢的な問題と、性別的な意味合いがあるよね」
「言えてる言えてる」
 

「過去にドラマで小林少年演じた人って何歳くらいでやってるんだろう」
「それこないだアクアちゃん自身がラジオ番組で言ってたけど川崎麻世が14歳(1977年)、名前出てこないけどキャロライン洋子のお兄さんが演じた時が15歳(1975)だって」
「やはり本当に“少年”の年でやってるんだね」
 
「でも3年前に映画で出演した高杉真宙君は当時23歳」
「ああ、少し老けてると思った」
「でも大和田獏は27歳で小林少年を演じてる(1977『吸血鬼』)」
「27歳は無理がある〜」
 
「でも小林少年って凄い演技力必要だから、できる人は限られてる」
「しかも女装が似合う子でないといけない」
「小林少年が女装しないと物語の価値が無いよね」
「そうそう。あのシリーズは小林少年が女装することに価値がある」
 
そうなのか?
 
「アクアちゃんはだいたい幼く見えるからまだ21歳でも行けるんだけど、そろそろ誰か後任に若い人をと言ってるらしいよ」
「なるほどねー」
 
「でもアクアちゃんが出ないと視聴率稼げないから、何か別の役やってくれという話もあるらしい」
「何の役をするんだろう」
「花崎マユミとか?」
「それは可能性あるね」
「文代さんだったりして」
「ありそう!」
「だいたい明智探偵と小林少年の関係は怪しいと古くから言われていた」
「少年助手を卒業して奧さんに昇格するのね」
 

結構おしゃべりしてから部屋に引き上げる。
 
エレベータで3人とも6階まで昇った。
「あれ?みんな6階?」
「6階はレディスフロアだからね」
「どうも女性は全員6階になってるみたい」
 
ひぇー、俺レディスフロアとかに泊まっていいの?
 
エレベータを降りた所には小さな受付があり、仲居さんが
「いらっしゃいませ」
と笑顔で言って全員にドリンクとお菓子の入った小さな籠をくれた。
 
ここに受付があるのは、男性客が間違ってもこのフロアに来ないように見ているのだろう。彪志たちは籠を受け取って各々の部屋に入った。
 
部屋は6畳ほどの広さである。本来2人部屋ではないかと思ったがそれをコロナが落ち着くまではシングルユースしてるのだろう。
 
しかしなんかたくさんおしゃべりして喉が渇いたのでもらったドリンクを開けて一気に飲む。薬草茶っぽいなと思った。ラベルを見ると“美容茶”と書いてある。(←飲む前に見よう)。“女性ホルモンの分泌を促し美容に効く薬草を配合しております”などと書かれている。
 
えーっと、女性ホルモンだって。
 
でも今更!
 

ビジネススーツの上衣とスカートを脱ぎ、自宅から持って来たスウェットの上下に着替えた。パソコンを出して、簡単に今日の講義の概要をまとめる。旅館のLANを利用してネットにつなぎ、会社に報告を送っておいた。パソコンのUSBにスマホの充電ケーブルを繋ぐ。
 
それでお風呂に入ろうと思う。
 
「あれ?お風呂はどこだ?」
 
部屋の中のドアを全部開けてみるが、トイレはあるもののお風呂が無い。
 
部屋の中には大きな鏡の付いた洗面台があり、基礎化粧品セット(メイク落とし・洗顔料・化粧水・乳液・美容液・パック)にブラシが置かれている。また、それと別にボディソープ・シャンプー・コンディショナーのセットも置かれている。
 
『シャンプー・コンディショナーが足りない方はフロントにお申し付けください』
などと書かれている。
 
もしかして・・・・ここはお風呂は大浴場に行く方式?
\(^−^)/
 

個室と聞いて油断していた。旅館だと、トイレは付いててもお風呂は個室には無い部屋が普通である。部屋の中の掲示を確認する。大浴場は25時まで使用できますと書いてあった。
 
ガーン・・・・
 
大浴場・・・・
 
俺今男湯には入れないよね?
 
だったらもしかして俺女湯に入らないといけない?
 
しかし入っていいのか!?
 
腕を組んで悩む。
 
が眠くなってきたので、彪志は取り敢えず寝ることにして、お布団の中に潜り込んだ。
 

目が覚めたのは夜中のようであった。
 
スマホで時刻を確認すると0:20である。
 
彪志は突然思いついた。
 
今からお風呂に行こう。こんな遅い時間なら人もいないからきっと誰にも見られず(誰も見ずに←こちらが重要)に入れる。
 
それで部屋に備え付けのタオルとバスタオル、それにシャンプーセットを持って大浴場に行ったのである。地下に降りて暖簾の前で悩む。
 
実は左側には“孔雀の湯”とあり右側には“白虎の湯”とあるのである。
 
どっちに入ればいいんだよー!?
 
悩んでいたら通り掛かりの仲居さんが声を掛けてきた。
 
「お客様、白虎の湯へどうぞ」
「あ、はい。ありがとう」
 

それで彪志は言われた“白虎の湯”に入る。こちらは男湯?女湯?と思ったら30歳くらいの女性が居た。女湯か!
 
俺やはり女湯に入らないといけないのかなあ。でもよこしまな気持ちで女湯に入るんじゃなくて単に入浴のためだからいいよね?(←これ物凄く重要)
 
しかし孔雀と白虎では分からんぞと思う。
 
女性は服を着ているところのようである。彪志は軽く会釈してから、彼女が見えない位置のロッカーを選ぶ。服を脱ぎ中に入った。浴室には誰も居なかったのでホッとする。
 
中は割と新しいシャワーが完備されている。椅子もけっこう新しいものに最近交換された感じである。それで身体にお湯を掛け、髪を洗い、コンディショナーを掛けて顔・“豊かなバスト”を洗い、脇と腕を洗い手にボディソープを付けて“あそこ”を優しく洗う。足を洗ってコンディショナーを洗い流す。身体全体にシャワーを掛ける。
 
そして浴室に入ってゆっくりと湯に浸かった。浴槽は大理石っぽい白い石のようなものでできている。人工大理石か何かかなと思った。白いから白虎の湯なのかも。お湯の噴出口は虎の頭の形である。その虎の口からお湯は出てくる。
 
彪志はお湯に浸かりながらぼーっとしていた。
 
しかし性別が変わってから約1ヶ月なんとかなってきたなあという気がした。性別なんてあまり大したものではないのかもという気にもなってくる。自分が女になったと知られても青葉はせいぜい笑う程度で少なくとも怒ったりはしない気がする。面白がられてセックスでは女役やらされて・・・・妊娠したらどうしよう?
 
やはり俺が2人目の子供は産むんだろうか?
 
(↑精子は?)
 

ゆっくり入っていたら、仲居さんが入ってきて
「そろそろ入口を閉めますが、もう少し入っておられます?」
と言うので
「あがります、あがります」
と言って浴槽からあがり、浴室も出て、服を着た。もう大浴場の入口の灯りも落とされていた。でも彪志はロビーの自販機でお茶を買って部屋に戻り、ぐっすりと眠った。
 
 
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【春三】(1)