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■偽娘竹取物語(5)

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■5人の求婚者と交わした歌の解説
 
《海山の道に心を尽くし果てな石の鉢の涙流れき》
 
(海と山を越えて遙かな旅路は心が尽きるほど大変でしたが、石鉢を手に入れた時は血の涙が出ました:石の鉢・ちの涙と掛詞になっている)
 
《置く露の光をだにぞ宿さまし小倉山にて何求めけむ》
 
(本物であれば自ずと光るもののはずですが、露の光のようなものさえ宿していません。(ごく近くの)薄暗い小倉山で一体何を探してきたのですか?:「暗い」と「小倉」が掛けてある。また光を宿してないから暗い、というつながりにもなっている)
 
《白山にあへば光の失するかと鉢を捨てても頼まるるかな》
 
(白き尊き山のようなあなたに出会って恐れ多すぎたためきっと鉢の光は消えてしまったのでしょう。もう光を失った鉢は価値が無いので私は捨てましたが、私も恥を捨てて再度あなたに求婚したい:「鉢を捨てる」と「恥を捨てる」を掛けている)
 
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《いたづらに身はなしつとも玉の枝を手折らでただに帰らざらまし》
 
(たとえ死んでしまったとしても、玉の枝を折らずに手ぶらで帰ってくることは考えられませんでした)
 
《まことかと聞きて見つれば言の葉を飾れる玉の枝にぞありける》
 
(本物かと思って見ておりましたのに、あなたの言葉を飾るだけの玉の枝だったのですね)
 
《限りなき思ひに焼けぬ皮衣袂乾きて今日こそは着め》
 
(限り無き私の思いで焼けてしまった皮衣、涙に濡れた袂も乾いて、今日こそは着ましょう:衣を着るというのが婚礼衣装を着るというのを連想させている。思ひ(おも火)で焼けるという部分も掛詞/着めではなく見めになっているテキストもある。皮衣を見ると結婚の意味の見るの掛詞)
 
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《名残りなく燃ゆと知りせば皮衣、思ひのほかに置きて見ましを》
 
(あとかたもなく燃えてしまうものと知っていたら、この皮衣、美しかっただけに、ただ鑑賞しているだけでも良かったですね)
 
《年を経て浪立ち寄らぬ住之江の待つかい無しと聞くはまことか》
 
(波が寄るはずの住之江にも波が寄らないようにこちらにおいでにならないのは、貝が無かったので私が待っていても仕方ない状態とお聞きしました。お身体を痛められたというのは本当でしょうか:住之江に立つ波−こちらに立ち寄らない、貝無し−甲斐無しなどの掛詞が複雑に組み込まれている)
 
《甲斐はかくありけるものをわび果てて死ぬる命をすくひやはせぬ》
 
(姫様から文を頂くとは、苦労した甲斐があったというものです。しかし私はもう長くないでしょう。私はあなたに愛して欲しかった)
 
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■文中に付けた(*)の部分の補足説明
 

(*1)竹取の翁の年齢について原典の竹取物語では5人の求婚者が残ってこの中の誰かと会いなさいと翁が姫を説得しようとする時「自分はもう70歳だ」と言っているのに対して、かぐや姫昇天の直前の所で「まだ50歳程なのにすっかり老け込んだよう」と書いている。5人の求婚者が残った頃を17-18歳くらいとした場合、昇天の頃は23-25歳くらいとなるので、昇天の時に50歳なら25-27歳頃に竹の中から姫を見つけたことになる。それでは「翁」と呼ばれるには若すぎること、この物語はもう子供ができないと諦めていた夫婦に子供が授かるパターンの物語にも見えることから、この偽娘物語では「自分はもう70歳」の所の年齢を採用することにし、結果翁が姫を見つけたのは52-53歳頃、昇天は76-77歳頃という計算になる。
 
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(*2)かぐや姫の年齢について、原典の竹取物語では最初の方で、わずか3ヶ月ほどで成人の背丈になったと書いている一方で、最後の方で翁が「私たちはこの子を20年余りも育てたのに」と言う所があります。竹取物語は恐らく数人の書き手が加筆したことによりあちこち矛盾点があり、これもそのひとつと考えられます。五人の求婚者とのやりとりで最低3年は経っていることを鑑みると、むしろ普通に育って15歳で成人させたと考えた方が「20年余育てた」という翁の言葉と矛盾しないと思われます。
 
この偽娘物語はだいたい次のような設定で書いています。 
15歳 成人式 
17歳 多数の求婚者の中で5人の貴公子が残る 
21歳 帝が姫に関心を持つ。強引な行幸 
24歳 月からの使者が来る 
 
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なお成人式である笄年は15歳であるが、実際には律令制では女子は13歳になれば結婚可能と定められていた(現在なら小学6年生。男子は15歳以上で結婚可能)。そういう定めができる前はだいたい女子は初潮が来れば大人になったとみなされ、結婚可能と考えられていたのではとも言われる。
 
結婚年齢は後の時代になるほど幼くなっていき、政略結婚では5〜6歳で結婚させる場合もあり、酷い場合は生まれる前に婚約してしまうというケースもあったらしい(生まれてみたら男同士や女同士だった場合は破談)。
 

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(*3)かぐや姫の名前について垂仁天皇の妻の迦具夜比売が元ネタとする説があります。古事記によると開化天皇と竹野比売の間の皇子が比古由牟須美と言い、その子供に大筒木垂根王という人があって、その娘が迦具夜比売といって、垂仁天皇と結婚して袁耶弁(をざべ)王という子をなしています。竹野とか筒とか、この付近は竹取物語を連想させる名前が現れています。実際「筒木」というのは筒状になっている木ということで竹の意味ではないかという指摘、またツツキというのはツツ(星)とツキ(月)がくっついた名前のようにも見え、竹から生まれて月に帰るかぐや姫との関連も想像できます。また、大筒木垂根王の弟には讃岐垂根王という人があり、竹取の翁の名前として挙げられている讃岐造も連想させます。古事記は大筒木垂根王と讃岐垂根王にはあわせて5人の姫がいたと書いています。
 
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(*4)当時は木綿はまだ無い(正確には生産技術が確立していないため超高価であった)。当時、布といえば高価な絹(真綿)か安価な麻の2択である。またこの時代には傷跡を縫うという技術も確立していない。
 

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(*5)求婚者が5人と書いているにもかかわらず、現存の竹取物語原文では3人目の求婚者の所で「いまひとり(最後のひとり)」という表現を使っている。この物語には「3月で大人くらいの背丈に成長した」とか、数人の求婚者が「3年掛けて品物を調達した」とか、かぐや姫が天皇と3年間文通したなど、3という数字が多用されており、この物語が最初に成立した段階では求婚者の数も3人だったのでは推測されている。
 
なお、今昔物語集巻31第33話にも「竹取翁見付女児養」というものがあり、こちらの難題も3件である。
 
・「空に鳴る雷」→大伴大納言の龍の珠 
・「優曇華と云ふ花」→庫持皇子の金銀玉の枝 
・「打たぬに鳴る鼓」→火鼠の皮衣? 
 
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なお皮衣は原文では「裘」という漢字を使っているが難しい字なので今回の物語では皮衣と書き改めた。
 

(*6)武雄温泉は神功皇后(恐らくAD400年頃の人)が開いたとされている。武雄の町の背景にある御船山(猫の耳のような形をした双峰の山)は神功皇后がここに朝鮮出兵のための船を繋いだという伝説が残る。実際に昔の水系では武雄から出兵の基地となった唐津まで水路を伝って山越えに船を移動させることが可能であったようなので、恐らくはこのあたりでも船を建造したのだろう。
 
九州で最も有名な別府温泉はもう少し新しく、平安時代以降、主として鎌倉時代に開発された。
 

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(*7)竹取物語の原文では天女が「わが名はうかんるり」と言っており、通説ではここは「わが名は、うかんるり」と読む。しかし「わが名、はうかんるり」であって、天女の名前は「はうかんるり」なのでは?という説もある。もし「はうかんるり」なら「宝冠瑠璃」という意味かも知れない。
 
この庫持皇子の冒険談はこれだけで1つの物語として成立するほどの内容がある。日本版シンドバッドの冒険である。
 

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(*8)この時代の天皇のセリフには本来自尊敬語を使用すべきですが、それをやると、セリフを誰が言っているかが読み取りにくくなるので、今回の物語では自尊敬語は一切使用せず、現代標準語風の相対敬語で押し通しています。
 

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(*9)天皇の妻のランクは奈良時代頃までは大后・妃・夫人・嬪である。定員も定められており、大后(正妻)は1名・妃2名・夫人3名・嬪4名で天皇は最大10人の妻を持つことが許されていた。
 
女御というのは本来嬪の別称という説と、嬪が後に女御と更衣に別れたという説がある模様。また大后(おおきさき)は光明子以降は皇后と称する。
 
平安期以降は妃・夫人の制度が廃れてしまい、皇后のすぐ下が女御となって、女御の地位が高まり、皇后とするべき女性も最初はいったん女御として入内する風習となり女御入内の儀式が派手に盛大なもの(後の大婚相当)と化したようである。
 
この物語は基本的には奈良時代を想定して書いているので、当時の女御(嬪)は平安時代以降の更衣に相当する。また嬪という名称が現代の読者にはあまり馴染みがないことからここでは女御という言葉を使用した。
 
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奈良時代の律令制においては、妃は皇女、夫人は3位以上の者の娘、嬪は5位以上の者の娘とされている。かぐや姫の入内に伴い父・讃岐造は5位を与えられたので、かぐや姫は嬪(女御)の資格を得たと考えられる。(むしろ嬪にするために父親を5位に列したと考えるべきかも)
 

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(*10)かぐや姫の殿舎は天皇と結婚するために父親を5位にしたと考えると最低ランクということになり、これが平安時代なら桐壺が与えられていた所だろう。桐壺はそこに行くまでに多数の殿舎を通過する必要があり、帝の渡りが多いといたづらに嫉妬を引き起こす。下記は平安京の七殿五舎の配置。
 
平安後宮
 
当初は後宮の中心に位置する常寧殿が皇后の居所とされたが、後に清涼殿に近い藤壺や弘徽殿が与えられるようになった。伊勢物語で有名な藤原高子は常寧殿に住んだが、藤原道長の娘で紫式部の保護者である藤原彰子は藤壺に住んでいる。彼女のライバルで清少納言の保護者である藤原定子は登華殿とされる(梅壺に居た時代もあるもよう)。藤壺に住んだ人としては陰陽師に出てくる藤原安子(藤原兼家の姉)などもいる。
 
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平城京の後宮の建物については調べてみたものの、どうしても分からなかった。平城京自体、あまり研究者が多くない雰囲気もある。
 
いちばん遠い所にある桐壺に住む身分の低い女性が帝の寵愛を最も受けているという構図は、かぐや姫が男の子を産めば、かぐや姫が桐壺更衣、その子供が光源氏になってもおかしくない構図である。かぐや姫が輝く姫なのだから、その子供も光輝く君になりそうだ。
 
 
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