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■夏の日の想い出・超多忙年の夏(4)

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更に少し先の話を書いておこう。
 
翌2019年の2月3日、政子は女の子を出産。あやめと命名した。1ヶ月ほどの早産であったが、私も政子本人も
「よりによってこういう日付で生まれてくるなんて」
と言った。
 
(あやめは千里の娘である緩菜・由美と同学年生まれになる。緩菜が2018.8, 由美が2019.1, あやめが2019.2。私の姉・萌依の第二子・清代歌の1つ下になる)
 
なお、政子が双子座、私が天秤座で、あやめは水瓶座と、3人とも風の星座で相性が良かった。
 
2019年の春になって、上島先生は謹慎が解け、調子も回復してまた精力的に楽曲の制作を再開した。何年も超多作を続けていたので、結果的にはこの1年が良い充電期間になったようであった。私は肩の荷が下りてホッとしたが、今度は私の方が超多作を1年間続けた反動で全く曲が書けなくなってしまった。
 
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しかし政子に誘われて宮古島にふたり+あやめの3人で一週間ほど旅に行ったら、作曲がまたできるようになった。
 

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あやめが生まれてから、私は政子の家に入り浸りになって、赤ちゃんをあやしたりしていた。政子も遠慮無く私をこき使った。青葉が私のホルモンの出方を調整してくれたので、私は母乳が出るようになった。そこで私たちはふたりで交替で授乳することができたので、私が東京にいる間は政子は充分な睡眠が取れていた。
 
「でも、あやめ、私のおっぱいよりマーサのおっぱいが好みみたい」
「そりゃ産みの親ですから当然ですわ。おほほ」
 
などといって政子は笑う。あやめが少し言葉が出るようになってくると、私たちは『予定通り』、政子のことを「おかあさん」又は「おかあちゃん」、私のことを「ママ」と呼ばせた。
 

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政子は両親がタイから帰国した2013年3月以降、私のマンションに「住んでいる」感じで、時々実家に行っていたのが、「産休」に入った2018年10月頃以降は、お母さんに色々サポートしてもらうため実家にいるようになったので、結果的に私もできるだけ政子の実家に行き、まるでそこが自分の家で、マンションは「仕事場」という感じになっていった。逆に政子も育児に疲れた時は、子供を私に任せてマンションに来て、のんびりと創作活動をしたりもしていた。
 
また、私は正望にも許しをもらって、あやめを自分の養子にした。養子に出しても政子は実母として戸籍上の関係は維持されるので、それで政子と私はふたりともあやめの法的な母親になった。
 
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私の行動について世間はいろいろ噂した。
「ケイさんとマリさんやはりレスビアンなんですか?」
とも随分訊かれたが、私たちは
「親友です」
と笑顔で答えた。
 

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私と政子の関係についてはデビュー当初の頃は随分騒がれたものの、現在は「親友同士」という公式見解が広まっている。もっともネットではローズ+リリーはレスビアンというのがほぽ確定しているが!
 
あやめを養子にした件については
「マリが1人で子供を育てるのは大変だし、私は子供が産めないし、お互いの気持ちとニーズが一致したんです」
と私は説明した。
 
「また養子にしたのは私が突然死したような場合に、子供の教育費として私の遺産を活用してもらいたいのもあります」
と、法技術的な面もあることを私は語った。
 
私が政子の家に入り浸りなので、正望も仕事の手が空くと政子の家にやってきて、結果的に、あやめのことも可愛がってくれた。正望はあやめに自分のことをパパと呼ばせた。
 
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「だって、フーコが『ママ』なら、僕は『パパ』だろ?」
と正望は言って、あやめを可愛がってくれた。それで、あやめも正望のことを『パパ』といってなついた。正望はそのうち実家にいる時間より、政子の家にいる時間の方が長くなり、この家から朝弁護士事務所に出勤していき、仕事が終わるとこの家に「ただいま」といって帰ってくるようになった。
 
正望がこの家に入り浸りになったので、そのうち正望のお母さんまでやってきて、あやめを自分の孫のように可愛がってくれた。また私があやめを養子にしたことから結果的にあやめの祖母になった私の母も、政子の家に来ては、あやめをあやしていった。政子の母・私の母・正望の母はしばしば顔を合わせるので、随分仲良くなって、どこかに3人で一緒にお茶を飲みに行ったりもするようになった。
 
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2020年になると、政子は敷地内に小さな2階建ての離れを建てた。基本的には政子が恋人を連れ込むためのものなのだが、逆に私が正望と一緒にそこの2階で寝たりもしていた。政子が恋人と一緒に離れにいる時は私が母屋であやめの世話をしながら創作活動をしていた。
 
私と政子はどちらの恋人も来ていない時は普通にふたりで寝ていた。それでいて各々の恋人が来た時は、そちらと離れで寝ていたのだが、このことについて、最初の頃は私もうしろめたさを感じた。しかし正望が来た時は、政子は私に「今夜は頑張ってね」と言うし、政子が彼氏を連れ込んだ時は、私がふたりに「おふたりとも頑張ってね」などと笑顔で言ったし、慣れてしまうと、特に嫉妬も後ろめたさも感じなくなった。
 
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「嫉妬ってさ・・・・自分の愛が失われるかもと思うから嫉妬するのかもね。旦那が子供を愛してくれているの見て嫉妬する妻なんていないじゃん」
「いや。それ、いるって。でも私とマーサの関係は揺らぎないから、マーサがどんなに他の男の人と愛しあってても、私、嫉妬しないよ」
「うんうん。私も正望君に全然嫉妬しないもん」
 

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さて、政子はその後、6年間にわたって1年おきに3人の子供を産んだ(あやめを含めて政子が産んだ子供は全部で4人)。お見事というかその父親が全て違う人であった。各々が誰の子供かを知っているのは、私以外には千里・青葉の姉妹だけであった。
 
2019.02.03 あやめ(父:私)
2020.10.18 大輝(父:大林亮平)
2022.08.03 かえで(父:百道大輔)
2024.06.19 博史(父:松山貴昭)
 
政子が2年に1度子供を産むので、氷川さんはスケジュールの調整に苦労した。結局「ローズ+リリー」のコンサート活動は、その6年間は、政子の妊娠と育児の合間を縫っておこなわれる感じになった。
 
私はあやめ以外の3人の子供も生まれる度に養子にした。最初、政子は1人産む度に交互に自分の子供、私の子供と、振り分けるつもりだったようだが、政子のお母さんが、きょうだいで苗字がばらばらになるのは可哀想と言ったので、みんな養子にすることにした。あやめの後から生まれた3人にも私と政子は「おかあさん」「ママ」と呼び分けさせたし、正望も自分のことを「パパ」と呼ばせた。
 
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政子は最終的に最後の子供の父親である松山貴昭と2025年に結婚したので、貴昭は4人の子供から「お父さん」と呼ばれるようになった。つまりうちの家庭では
 
政子=お母さん、私=ママ、貴昭=お母ちゃん、正望=パパ
 
なのである。
 
父親たちの中で、第二子・大輝の父親となった大林亮平は、大輝が生まれた時、養育費を送ると言った。政子は要らないと言ったが「養育費は僕が自分の子供に送るものだから」と言った。それで政子は大輝名義の口座を作り、亮平は律儀に毎月50万その口座に送金してくれた。政子はその口座には一切手を付けなかったので、大輝が20歳になる時には物凄い金額が貯まっているだろう。
 
亮平はしばしば政子の実家を訪れ、4人の子供たちの、もうひとりのお父さんのような感じになって行った。亮平は子供たちに自分のことを「父上」と呼ばせていた。時代劇俳優として活躍する彼には、それが快感のようであった。
 
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私は2025年春になって、ようやく正望と籍を入れ、一応結婚式なるものも挙げた。招待客が200人くらいの豪華な挙式となった。式の時、うちの母と正望の母が
 
「いや、ほんとにここまで長かったですねぇ」
と語り合っていた。
 
「全くもう自分が生きている間に結婚してくれるのか、やきもきしてましたよ」
 
私たちは一応新婚旅行にも行き(人並みにハワイに行ってきた)、その間はスイートな生活をした。しかし旅行から戻ると、またお互い多忙な日々が待っていた。結局、籍を入れたからといって同居を開始できたわけではなく、一応政子の家で顔を合わせることが多いものの、実際に会えるのは週に1度程度、などという状態が続いていくことになる。しかし交際開始から14年、婚約してからも7年たっていたので政子から『最も長い交際期間』でギネスに申請しようか?なんてからかわれた。
 
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同年秋、政子は高校の同級生であり、政子の4人目の子供・博史の父親でもある松山貴昭と結婚して、またこちらも豪華な結婚式披露宴を挙げた。
 
しかし政子は貴昭さんと結婚しても、彼のの家には行かず!ずっと自分の実家に住んでいた。それで結果的には貴昭さんの通い婚になってしまう。
 
政子が大林亮平と結婚しなかったのは、結局政子が「主婦」になる自信が無かったからだが、政子は最終的に主婦にならないまま、松山君と結婚してしまったのである。この家の主婦は私である!
 
この家には、政子が産んだ4人の子供を含めて8人の子供が暮らすようになり、私はもう保育所の先生の気分であった。
 
この家にはしばしば大林亮平もやってきて、貴昭と一緒にお酒を飲みながら仲よさそうに?していたので、子供たちも
 
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「お父ちゃん、父上、すごろくしよう」
などと言って、ふたりと一緒に遊んでいた。
 
政子の母など「いいの〜?」と悩んでいた。
 
亮平も政子が百道大輔と付き合っていた時期は遠慮していたのだが、政子が貴昭と結婚した後は、貴昭が「大輝のお父さんなら、いつでも来てください」と言ったので、最初は遠慮がちに来ていたもののその内、ごく普通にやってくるようになった。
 
「亮平さん、何なら今夜は政子を貸そうか?」
などと貴昭は言ったりすることもある。
 
「いや、やっちゃうと、嫉妬しそうだから、やめとく」
と亮平は言っていた。
 

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2025年に私と政子が正望・貴昭と結婚した結果、政子と貴昭は松山姓、私と正望は木原姓、政子が産んだ4人の子供は唐本姓という、親が全員子供と違う姓を持つ不思議な家庭?になった
 
(そもそも母2人・父3人というのが変則的すぎるが)。
 
更に貴昭の連れ子2人は元々松山姓だし、最後に作ったももは木原姓を名乗るし、百道大輔の遺児・夏絵は政子が養子にしたので中田姓になったので、この家の子供の苗字は最終的に唐本4人・松山2人・中田1人・木原1人となった。
 
夏絵と、ももがこの家庭にやってきた経緯については書けば長くなるので、またの機会にあらためて書きたい。またかえでの父親問題についてもまたどこかで触れたい。
 
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あやめは容貌が母親似であったので、私が父親であることには誰も気付かなかった。しかし天性の歌唱力を持っていた。その歌声を聞いて町添さんは
 
「ひょっとして、あやめちゃんの父親がケイちゃんってことないよね?」
と私たちに訊いた。
 
「まあそういうこともあるかもですね」
「だったら僕は、あやめちゃんがデビューするまでは頑張るよ」
などと町添さんは言っていた。
 
あやめの父親が私であることには、もちろん千里・青葉の姉妹はすぐ気付いた。
 
「だって、あやめちゃんの波動が、冬さんと凄く似てるんだもん」
 
とふたりとも言っていた。
 
それで青葉は
「冬子さんも授乳したいでしょ?自分の子供に」
 
などといって、母乳が出るようにしてくれたのであった。
 
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家庭が極めて変則的な上に、2人の母親は個性的過ぎるし、3人の父親も全員多忙でなかなか会えないという状況で、あやめは小学校では最初他の子と話が合わずになかなか友達ができずに悩んだりもしたようだったが、ものすごく芯の強い子だったので、やがて同様に孤立していた変な家庭?の子2人と変な子同士?で仲良くなり、明るい表情を絶やさない子に育った。
 
あやめには3歳の時からピアノとヴァイオリンとフルートを習わせていたが、ほんとに良い声を持ち(声質自体は政子に似ていた)、歌のうまい子だった。小学3〜4年生の頃にはもうかなりしっかりした曲作りもしていた。
 
そして、あやめは、中学生になるのと同時にプロ歌手兼ソングライターとしてデビューし、私たちを遙かに超えるヒットを連発していくのだが、それはずっとずっと先の物語である。
 
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