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■夏の日の想い出・小3編(1)

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(c)Eriko Kawaguchi 2012-07-27
 
私の母方の祖母は私が幼稚園の時に亡くなった。高山ではかなり有名な民謡の名人だったらしく、大きな大会などによく出演していたらしい。私もその祖母が文化会館か何かの大ホールで「郡上踊り」を歌い、多くの踊り手さんが周囲で踊っているのを見た記憶がある。私の最も古い時代の記憶のひとつだ。
 
そんな祖母がいたので、母も名人の娘としてかなり民謡や三味線のお稽古をさせられたらしいが「性に合わなかったのよね〜」などという話で、結局全くモノにならなかったらしい。母のお姉さんたちも同様に民謡を習わされて、特にいちばん上のお姉さんが祖母の後を継ぐ形で今でも民謡教室をしているのだが、母は一応三味線の名取りではあるが、私は母が三味線を弾いているところを見たことが無いし、そもそもうちには三味線自体無かった。
 
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その祖母が亡くなる直前の夏、お盆で高山に帰省していた時、こども民謡大会に出てみない?などと言われて1度出て行った。私が歌ったのは「こきりこ」
(高山とはお隣感覚の富山県・五箇山(ごかやま)の民謡)だった。この頃のことは私自身、かなり記憶が曖昧なのだが、その時のことを小学2年生の時に日記に書いたものが残っていたのと、私が小学校高学年頃に姉が笑いながら話してくれたりしたこともあり、それを元に以下構成してみる。
 
当時小学校高学年であった姉も「ソーラン節」を歌うということで一緒に会場に行くことになる。その時、会場まで私と姉はお揃いの柄のサマードレスを着て行った。幼稚園の頃、私はサマードレスが好きで、母も「まあ、子供だしいいか」
ということで、夏になるとよくサマードレスを着ていたらしい。また私は髪の毛も長いのが好きで、幼稚園の頃はだいたい胸くらいの長さにしていた。
 
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会場に行き、姉が自分と私のふたり分、名前を書いてエントリーしてくれた。指定の浴衣に着替えて歌うということで、姉は赤い花柄の浴衣、私は青いお魚の柄の浴衣を番号札と一緒に受け取り、着換えるため控え室に行くことになるが、控え室は男女別である。そこで、私は係の人に連れて行ってもらうことになり、姉と別れて男子の控え室に行った。着換えを入れるカゴをひとつ取ってくれる。「からもと」と書かれた名札をかごに付けてくれる。
 
「あとはいいかな?」
「はい。ちゃんとひとりで着換えられます」
 
係の人も、周囲に大勢居るし、幼稚園といっても年長さんだからひとりで大丈夫だろうと思ったのだろう。私を控え室に置いて戻っていく。控え室にはけっこう大きなお兄さんから自分と同じくらいの年の子供まで、たくさんいる。そこで着替えるのにサマードレスを脱ごうとした時のことだった。
 
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「あれ、君、ここは男の子の控え室だよ」
と年配の女性に声を掛けられた。腕章を付け、何だか格好良い制服を着ていた。後から思うと、警備か何かの人だったのだと思う。
 
「えっと・・・」と私がどう答えればいいか迷っていると
「女の子の控え室は向こうだよ、連れてってあげるね」
と言われる。女性はかごから私の名札を外し、私の手を引いて廊下を少し歩いていき、別の部屋に入った。そこには女の人ばかりいた。
 
女性はその部屋でかごをひとつ取ると、私の名札を取り付けてくれた。
「あ、君、男の子用の浴衣持ってるね。換えてきてあげる」
と言って、その女性は私が持っていた青い浴衣を取ると、部屋から出て行き、ほどなく赤い小鳥の柄の浴衣を持ってきてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「偉い偉い、ちゃんとお返事できるね。着換えるのもひとりで出来る?」
「はい、帯も結べます」
「うん。じゃ、頑張ってね」
と言って、その女性は去って行った。
 
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私は当時、母と姉と3人でプールなどに行く時は(未就学の子供ということもあり)けっこう女子更衣室で着換えたりしていたので、女性の控え室で着換えることには何も抵抗を感じなかった。
 
サマードレスを着て髪も長くしている子を見たら、まあ女の子だと思われて当然という気もするのだが、当時の私はそもそも「性別を間違われた」こと自体認識していなくて、青い浴衣より赤い浴衣の方がいいなと思っていたので、それを渡してもらえて嬉しく、他のことはあまり考えていなかった。
 
そこでサマードレスを脱ぎ、浴衣を着る。へこ帯を前で結び、後ろに回す。当時私はへこ帯を蝶々のように可愛く結ぶのが得意で、この時もそういう結び方をしていた。番号札を安全ピンで胸に留めるのだけうまくできなかったので、近くにいたお姉さんに声を掛けて、留めてもらった。
 
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やがて、大会が始まるので、みんなぞろぞろと控え室を出て会場に行く。姉を探すのだが見つからない。でも歌う順番は続きだし、歌う時になったら会えるよね、と思ったので、とりあえずそのあたりの空いている席に座った。
 
1番から順に歌っていくようである。成績は鐘を叩いて知らせることになっているようだ。歌い出してすぐに鐘をひとつ打たれる人もあれば、けっこう長く歌って「キンコンカンコン」と鳴らされる人もあった。私の順番は52番で、けっこう待ち時間がある。そのうちトイレに行きたくなった。
 
会場を出て、トイレのある方に行く。トイレの男女マークを見て男子トイレに入ったのだが・・・・
 
「あ、君、ここは男子トイレだよ。女の子は隣」
と中に居た中学生くらいのお兄さんに言われてしまった。
 
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「あ、ごめんなさい」
と言って私は飛び出す。なんで「私は男です」と言わなかったんだ?と思ったが、あんなこと言われると、女子トイレに入らなきゃいけないのかな、という気になる。
 
それで少し心臓がドキドキしながらも、そっと女子トイレの方に入った。中に列ができている。それで列に並んで待つことにした。女子トイレは小便器がなくて個室ばかりだ。その個室がひとつ空くと、列の先頭の人がそこに入る。まあ、待っているうちに入れるよね、と思う。
 
前に並んでいた人は中学生くらいかなという感じだった。
「可愛いね。君、小学生?」
「いえ、幼稚園の年長です」
「へー。何を歌うの?」
「こきりこ、です」
「おお、すごい。私もこきりこ唄うんだよ。頑張ろうね」
「はい」
 
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そんな話をして、彼女は私より先に個室に消えていく。私もすぐ次の個室が空いたので、中に入った。和式のトイレだ。浴衣の裾をめくりパンツを下げて、しゃがんで用を達する。パンツに雫がつかないよう、トイレットペーパーでおしっこの出てきたところを拭く(これは物心付いたころからしていた)。流してからパンツをあげ、浴衣の裾を戻して乱れを直す。個室を出て手を洗い、会場に戻った。
 
それから少しして自分の出番が近づいてきたので舞台脇に行った。そこで姉と再会したが
「あんた、なんで女の子の浴衣着てんの?」
と言われる。
「よく分かんないけど、これ違ってるねと言われて換えてくれた」
「もしかして、女子の控え室で着換えた?」
「うん。そちらに連れてってもらったよ」
「ふーん、まあいっか、あんた可愛いし」
と姉は笑いながら言った。
 
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やがて姉が出て行き「ソーラン節」を歌うが、「私ゃ立つ鳥」あたりまで歌ったところで鐘ひとつ鳴らされ短時間で退場する。その次が私である。ステージ中央まで行き「こきりこ」を唄う。去年の秋に帰省した時に、五箇山まで連れて行ってもらい、その時見たのが強く印象に残っていた。
 
「こきりこの〜〜たけは、し〜ちすんごぶじゃ。ながいは〜〜そでのカナカイじゃ」
と私は地声で唄ったあと、裏声に切り替えて
「まどのサンサもデデレコデン、はれのサンサもデデレコデン」
とお囃子をセルフサービスで唄う(本当はお囃子隊の人たちが歌ってくれるはずだったらしいが私が自分で唄ったのでやめたらしい)。最前列に座っていた人たち(たぶん審査員)の人たちが驚いたような表情をしたのを覚えている。
 
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結局私は3番まで歌い、キンコンカンコンと鐘をたくさん鳴らしてもらった。
 
鐘1個の賞品(参加賞)は飴1個だったらしいが、キンコンカンコンと鳴らされた時の賞品は扇子で、広げると高山祭りのカラクリ人形の写真になっていた。
 
「わあ、凄いのもらったね。大事にしなさいよ」
と姉から言われて、私はそれをずっと大事にしていた。そして大学に入ってから住み始めたマンションでも、あれこれ頂いた賞の盾などと一緒にガラスケースに入れて取ってある。
 
そのまましばらく見ていたら、さっきトイレでお話しした人がステージに上がり、私と同じこきりこを歌った。私は「わあ、上手いなあ」と思って聞いていた。彼女もキンコンカンコンと鳴らされ、扇子の賞品をもらってステージから降りてきた。ちょうど、私たちが座っていた所を通りかかったので、私は彼女と握手をした。
 
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彼女とは私が大学になってローズクォーツで再デビューしたあと、全国ドサ回りツアーをしていた時に偶然遭遇し、
「あ、あの時、こきりこを歌った子、ケイちゃんだったのね?」
などと言われた。「唐本」という苗字だけ覚えていたらしい。こちらは彼女の下の名前だけ覚えていた。彼女は今では岐阜市内で民謡教室を開いている。民謡の全国大会で3位入賞したこともあり、私の「民謡の先生」のひとりでもある。
 
その日は、大会が終わると、姉と手をつないで女子控え室に行き、着て来たサマードレスに着替えた。そして姉は
「今日、冬が女の子浴衣を着たことは、ふたりだけの秘密ね」
などと言った。
 

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私がこども民謡大会で入選したことを祖母は凄く喜んだ。その場で「こきりこ」
を歌わせると「すじがいい」と褒めたが「でも、お前それ誰かのまねして歌ってるのでは?」と聞いた。
 
私が「去年こきりこ祭りを見に行った時に聞いた通りに歌った」と答えると、祖母は突然、ある民謡を唄い出す。そして「今私が唄ったのを唄ってごらん」
と言った。(多分「日光和楽踊り」だったと思う)
 
私が記憶を辿りながらその歌を唄うと
「やはり・・・冬彦、お前は1度聴いたら、それを再現する力を持ってるんだね」
と言い、
「人のまねをすることは大事。うまくなるための第一歩。でもまねしているだけでは、そのまねした相手を超えられない。冬彦、お前は自分の唄い方を見つけなきゃいけないね」
と言った。
 
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その言葉は、祖母から私への遺言になった。
 
私は祖母に言われてから、学校の音楽の教科書に載っている曲、それから母に頼んで色々な楽譜を買ってきてもらい、そこに載っている様々な曲を、自分でエレクトーンを弾きながら歌うようになった。知らない曲をたくさん歌って「自分の歌い方」を模索した。
 
母は祖母から民謡を無理矢理習わされたことへの反抗心からか洋楽が好きで、ビートルズとかクィーンとかの楽譜を買ってきた。私は英語なんか読めなかったけど、読めない文字を自分流に勝手に読みながら(「イ・ワナ・ホルド・ヨウア・ハ〜ンド」みたいに歌っていた)、たくさん歌った。でもビートルズやクイーンの実際の演奏を聴いたのは中学生になってからだった。
 
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私は小学校の3年まで愛知県で暮らしていたのだが、当時住んでいた家では近所にいた同い年くらいの子供がみんな女の子ばかりだったし、家でも姉や母とばかり話していた(その時期、父はとても残業の多い職場に勤めていたので、父はほとんど不在に近い家庭だった)こともあり、幼稚園の頃まで自分のことは「私」と言っていた。しかし小学校に上がってから先生に「君は男の子だから『僕』と言わなきゃ」と指導され、最初はけっこう戸惑ったものの『僕』と言うようになっていったが、その一人称の使い方に微妙な違和感を感じていた。
 
そしてその頃、僕はとても泣き虫だった。
 
「ああ。また泣いちゃった」
「お前、チンコ付いてんのか?」
などと男の子たちからは良く言われていた。
 
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そんな僕に
「ほらほら泣かないで。ああ。その紐がほどけちゃったのかい?ボクに貸してごらん。直してあげるから」
などと言って慰めてくれたり助けてくれたり、時にはいじめっ子から守ったりしてくれていたのが、麻央(まお)という活発な性格の女の子だった。
 
麻央は体力・運動能力なども男の子並みで、男の子と喧嘩しても滅多に負けることのない強い子だった。あんまり強いので、喧嘩に負けた男の子などから
「麻央って男だろ? こないだチンコ出して立ち小便してる所見たぞ」
などと悔し紛れに言われたりしていたが、
「おお、チンコくらい2〜3本持ってるぞ」
などと言って、豪快に笑い飛ばしていた。
 
彼女はいつも自分のことを『ボク』と言っていた。男ばかりの兄弟に囲まれて育ったので、そう自分を呼ぶのが癖になってしまったのだと言っていた。僕とは逆に先生から「女の子なんだから『わたし』と言いなさい」と言われたものの、直らなかったらしい。ただ彼女の『ボク』は男の子たちが使っている『僕』とは微妙にイントネーションが違っていた。
 
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また僕と麻央がしばしば一緒にいるので
「麻央って名前の最後が『お』だから男だよな。冬彦って名前の最後が『こ』
だから女だよな。結婚したらちょうどいいかもな」
などと言われることもあった。
 
「冬彦って冬子でもいいよな」
などとも言われ、しばしば実際に『冬子』と呼ばれることもあった。
 
すると麻央は
「ああ、それもいいかもね。冬って優しい性格だもん。ボクのお嫁さんにしてあげてもいいよ」
などと言っていた。
 
そんなことを言われると、僕は純白のウェディングドレスを着ている自分を想像して、ああ、お嫁さんになるのもいいなあ・・・などと思っていた。もっとも、僕と麻央の間に恋愛感情は無かったと思う。どちらかというと、僕は当時隣のクラスの美形の男の子、泰世(たいせい)君に憧れていた。
 
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「麻央が男で、冬彦が女なら、冬彦のチンコ取って、麻央にくっつければちょうどいいな」
なんてのもよく言われた。
 
麻央は
「そうだなあ。冬が要らないなら、おちんちんもらってあげてもいいけど」
などと言っていた。
 
そんな時、僕はたいてい、恥ずかしそうにうつむいていた。そしておちんちんを取られちゃった状態を想像して、ちょっと心臓がドキドキしてしまった。
 

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