【△・第3の女】(4)
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(C)Eriko Kawaguchi 2019-04-06
「津田山駅ってどのあたりだっけ?」
と青葉は千里3に尋ねた。
「練習場の最寄り駅の武蔵中原は南武線の駅なんだけど、そこから3駅なんだよ」
「それは便利だね」
↓路線図(再掲)
「基本的には寝るだけだから電話機は付けてない。留守の時間が多いから、そこに掛けられても出られないし」
「そうだよね」
「連絡用には携帯があればいいし、作曲の受注と納品はメールでいいし」
でも、ちー姉宛のメールはすぐ行方不明になるよな、と青葉は内心思っている。
千里は“どの家に置いている”“どのPC”の“どのメールクライアント”で受信したか、自分で分からなくなるのである。
「ちー姉の携帯、見せてもらえる?」
と青葉は訊いた。
「これ?」
と言って、千里はピンクのアクオス・セリエを見せてくれた。
つまり千里1がiPhone(故障中)、千里2がガラケーのT008、千里3がAndroidスマホのアクオスを持っているわけか、と青葉は納得した。当面持っている携帯を見せてもらえば誰なのかは区別付くな、などと思う。
※青葉流3人の千里の見分け方
千里1 用賀/iPhone/ミラ(Red Impulse 二軍)/オーラほぼ無し
千里2 葛西/ガラケー/オーリス (外国リーグ)/オーラが極めて強力
千里3 川崎/Aquos/アテンザ(Red Impulse 一軍)/オーラはわりと有る
「ところで改めて訊きたいけど、ちー姉、貴司さんのことが好きだよね?」
と青葉はこの千里にも訊いた。
「貴司の会社の書類では、貴司の妻は細川千里と記載されているんだよ」
などと千里は言いながら左手薬指を見せる。
そこにはアクアマリンのプラチナリングと結婚指輪らしい石の無いプラチナリングが並んで輝いている。アクアマリンの指輪は千里姉が大学1年の時に貴司さんからもらったものと聞いている(*1)。青葉は千里姉が『門出』を書いた朝、この指輪を3年ぶりくらいに付けているのを見たよな、とあの時のことを思い出していた。
「ちー姉が奥さんとして登録されているのなら、阿倍子さんは?」
「同居している叔母として記載されているはず」
「え〜〜〜!?」
「同居している三親等以内の親族は健康保険の被扶養者にできるからね」
と言って千里は笑っている。
「なんでそうなってるんだっけ?」
「私と貴司は本来2012年12月22日・夫婦の日に結婚式をあげる予定だった。それでその日私はどうにも気持ちが抑えられなくて、大阪の、式を挙げる予定だったホテルまで出かけて行った。すると貴司もそこに来ていたんだな」
「やはり貴司さんも、ちー姉のこと好きなんだね」
「それを確信してなきゃ、やってられないよ」
と言う千里に青葉は心を打たれた。
「まあそれで折角会ったしというので一緒に食事したんだけど」
「食事するんだ!?」
と言って青葉はさすがに呆れる。よく婚約破棄したばかりの相手と食事出来るものだ。
「そしたらそこに上司の高倉部長が来合わせてさ」
「へー」
「それで私が冗談で、これから新婚旅行なんですと言ったら、いつ結婚したの?と言われて」
それ冗談なのかなぁ?と青葉は疑問を感じる。
「結婚したならすぐ届けを出しなさいと言われて。それでお休みももらったから、その後、広島まで一週間の新婚旅行に行って来たんだよ」
「え〜〜!?」
「そして会社には私と結婚したという届けを出さざるを得なくなった」
「うーん・・・」
「もっとも私が高収入者だから、私は貴司の被扶養者にもなっていないし、健康保険も別だけどね。だから扶養者手当等の搾取はしてないよ」
「まあ私にしてもちー姉にしても、被扶養者になるのは不可能だよね」
多分千里姉の年収は貴司さんの50倍、自分の年収は彪志の20倍くらいかな?と青葉は思った。
「それで阿倍子さんと結婚した時は、結婚式には会社の人は誰も呼べなかったし、結婚したという届けも出せなかったけど、被扶養者にはしないといけないから、叔母ということにして被扶養者にしたんだよね。年金は国民年金にしか入れないから、国民年金基金にも加入して二階建て部分まで貴司が払っていた」
「京平君は?」
「会社の書類では私と貴司の間の子供になっているよ」
「凄い・・・」
(*1) 実際には保管していた場所から最初に千里2がティファニーの婚約指輪と同じくティファニーの結婚指輪を持ち出し、その後、千里3がアクアマリンの指輪と淑子から“嫁の証”として渡されたプラチナの結婚指輪を持ち出したので、千里1の所には婚約指輪も結婚指輪も残らなかった。結果的に千里2も3も同色で婚約指輪と結婚指輪を確保したことになる。プラスチーナの指輪はバッグの中に入っていたのでコピーされてしまい、1・2・3が1個ずつ持っている。
携帯に取り付けていた金色のリング(酸化発色ステンレス)の付いたストラップについては後述する。
さて、アクアのドラマ等の出演はだいたい夏と冬で別のシリーズになっている。
2015-17.春〜秋 ときめき病院物語
2018-.春〜秋 ほのぼの奉行所物語
2015.秋〜冬「ねらわれた学園」
2016.秋〜冬「時のどこかで」
2017-18.冬「少年探偵団」
2016.映画「時のどこかで」
2017.映画「キャッツアイ」
2018.映画「80日間世界一周」
2019.映画「ヒカルの碁」
2016年に過密スケジュールでさすがのアクアも倒れたことから2017年以降、映画制作の時期は他のスケジュールを基本的に入れないことになった。ずっと後に丸山アイが語ったことによると、アクア分裂の芽は2016.7.23にアクアがステージ上で倒れた時から始まっていたのではないかという。
2017年夏に制作した映画『キャッツアイ・華麗なる賭け』では、豪華客船とカジノのシーンを香港で撮影した。この時はアクアのマネージャーを務める《こうちゃん》が《くうちゃん》に依頼してアクアを香港に転送してもらうことにした。
この映画でアクアは三姉妹の怪盗キャッツアイの末妹・来生愛と、次女瞳の恋人で刑事の内海俊夫刑事を演じる。アクアのボディダブルはいつものように最初今井葉月を使っていたのだが、彼の疲労が激しいので途中から葉月は愛のボディダブル専任とし、内海刑事のボディダブルは姫路スピカにやらせることとなっていた。
つまり西湖は女役、スピカは男役である!がスピカは男役面白そうと張り切った、
2017.8.17 撮影クルーが香港に渡航。
飛行機に乗ったのはM。FとNはホテルに転送してもらう。夕方クルーズ船のオーナーからディナーに招待される。出席したのはN。
2017.8.18-20 クィーン・セレネの船内で撮影。
基本的に愛はF、内海俊夫はM。Nは交代要員で両方の衣装を使用する。レオタード姿になったのは、ほとんどN。これはFがそういう“恥ずかしい衣装”を嫌がったためである。船内のプールで“かっわいい”水着を着て泳いだのはF。他の2人が「さすがに勘弁して」と言ったため。
今回は丸山アイが出演者のひとりとして撮影に同行している(浅谷光子刑事・男盗賊ねずみ役)ため、《こうちゃん》としてもやりやすかった。不自然さが出ないように彼女が色々支援してくれた部分もあった。実際M/F/Nの3人が来生愛・内海俊夫の2つの役をするというのは本人たちも混乱しがちで(実際今回は出演者全員混乱していた)《こうちゃん》も訳が分からなくなりがちな所を頭の回転の速い丸山アイが注意して、正しく交替させたようである。可愛い水着を着るようにFを乗せたのもアイだったらしい。
2017.8.21 帰国
飛行機に乗ったのはNで、MとFは《くうちゃん》に転送してもらう。
Fは春にタイに行った時も往復転送で飛行機に乗っていないし、今回も乗っていない。
「僕って第三の女なのかなあ」
などと言っていたが、MとNは
「その言い方だと全員女みたいだけど、ボクたちは男なんだけど」
と言っていた。
「2人とも性転換して全員女の子になるとかは?」
「やだ」
「まだいい」
「ちょっとちんちん取って穴をあけるだけじゃん」
「取りたくない」
「どうしようかなあ」
「ちんちんなんて邪魔じゃない?」
「邪魔じゃない!」
「邪魔ではあるんだけどね」
ところでこの映画『キャッツアイ・華麗なる賭け』の主題歌はアクアが歌うことになっていたのだが、本来は“順番”からいくと、アクアのシングルは次は、1曲はマリ&ケイ、1曲は加糖珈琲&醍醐春海で制作するはずだった。
ところがケイはアルバム『郷愁』の制作で死んでいて、醍醐春海こと千里は7月4日の事故の後、創造的な制作ができなくなっていた。
それで1曲は3回連続(星の向こうに・憧れのビキニに続いて)になってしまうものの、青葉に書いてもらうことにして、岡崎天音+大宮万葉で『真夜中のレッスン』という曲を作ってもらった。
そしてカップリング曲なのだが、千里2はコスモスに電話して、自分は今アクアに歌ってもらうような良質の作品が書けないが、後輩の琴沢幸穂という女子大生がひじょうに良い作品を書くので使ってもらえないかと言い、琴沢がローズ+リリーのために書いた『フック船長』という曲を見せる。
「カッコいい曲を書くね!」
ということで
「いい作品を書いてもらったら使う」という条件で琴沢幸穂に作品の提示をお願いした。すると琴沢がわずか3日で『恋を賭けようか』という曲を書いて送って来てくれたのである。
それで映画制作チームと§§ミュージック・TKRの三者はこの曲を採用することにし、『真夜中のレッスン』とカップリングでCDを出すことにした。映画の制作中にエレメントガードだけでスタジオに入って伴奏を完成させ、9月1-3日の間にアクア自身もスタジオに入って歌唱を録音した。それでマスタリングをしてプレスし、10月4日に発売された。
アクアの10枚目のシングルである。
これが実は琴沢幸穂の初出となった。
コスモスは今後アクアの楽曲に琴沢幸穂の曲を使うなら、本人と一度直接会っておく必要があると考えた。
そこで音源製作が終わった週末の9月9日(土)、コスモスはアポも取らずに北千住の天野貴子のオフィスを訪れた。コスモスとしては、琴沢幸穂と会う時は電話で予め都合を聞く必要があるが、代理人の天野貴子は本人または留守番の誰かがいるだろうから、訪問するのにいちいち事前に連絡する必要は無いだろうと思ったのである。
それで住所にあるマンションの5階に登り、廊下を歩いて行っていたら、ドアが少し開いている部屋があった。それが天野の部屋番号である。みるとサンダルが引っかかってドアが閉じていない。わざとなのかうっかりなのかは分からない。コスモスはドアを開けて声を掛けようとしたが、その時、部屋の中から会話が聞こえてくる。
「ああ。あそこの音間違いは直してくれたのね?」
「うん。コスモスさんから連絡があってさ、私も譜面見て確認したら確かにここはソじゃなくてラだろうと思ったから、千里に電話しようかとも思ったんだけど、ちょうど日本代表の、テレビ局取材が入っていた日だったし、この程度の軽微な修正は事後承諾でいいだろうと思ったからこちらで直した」
「うん、いいよ。その手の校正作業はどんどんやって。私だいたいその手のイージーミスが昔から多いし。私もあそこの間違いは気付いたけど、その程度は現場で修正させるんじゃないかと思ったからそのままにしておいた」
コスモスは困惑した。
聞こえてくる声は天野貴子と千里のようなのである。千里さんは確か今週末、北海道に行くと聞いていたのに。なぜここに居るのだろう?予定を変更したのだろうか??
それより今の話は先日制作したアクアの『恋を賭けようか』のサビ部分の音を修正した件のように思えるのである。まさか琴沢幸穂って千里さんなの!?
部屋の中の会話は続く。
「じゃ次もまたアクアの作品書けばいいのね?今度は江戸川乱歩の『少年探偵団』か。当然アクアは女装するよね?」
「まあ小林少年は女装が売りだし」
コスモスは完全に中に入るタイミングを逸した。今更出て行くと立ち聞きしていたように思われそうだ(実際立ち聞きしている)。
それで立ちすくんでいたら、その内話が終わり、千里が
「じゃ私は練習があるから帰るね」
と言って帰る態勢である。
コスモスは慌てた。
そっと足音を立てずに部屋から離れると、エレベータの向こう側の曲がり角の影に隠れた。まるで悪いことでもしているかのようである。
千里は部屋を出たようで、パンプスで歩く音が近づいてくる。やがてエレベータの前まで来たが、そこで停まらず!角を曲がってしまった。
「あっ」
とコスモスはバツが悪そうな声を出す。
「お茶でも飲まない?」
と千里は笑顔で言った。
「うん」
とコスモスは頷いて返事をした。
ふたりはルミネ北千住の中のティールームの中に入る。しばらく雑談が続いたところでコスモスは尋ねた。
「もしかして琴沢幸穂って千里ちゃんだったの?」
すると千里は微笑んで銀色のスマホ(Zenfone)を取り出した。
「あれ?スマホに変えたんだっけ?」
という質問には答えず、千里はコスモスにも見えるようにしてスマホを操作する。アドレス帳のトップに『千里1』『千里2』『千里3』と並んでいるのを見せる。
「まず3番に掛けてみるね」
と言ってその番号に発信する。するとすぐ傍で『Nurses run』が鳴る。千里はバッグからピンクのスマホ(Aquos Serie mini)を取り出す。
「これはここに掛かるんだよね」
と言っている。Zenfoneの方の発信を止める。
千里は『千里1』と書いてある番号を選択し
「ここに掛けるからさ、西宮ネオンの『お寿司バンザイ』で、間奏の所にネオン自身のギターソロを入れたいから、もっと簡単に弾けるものに直してくれないかと頼んでごらんよ」
と千里は言った。
コスモスは驚く。それは昨夜制作側からその意見が出て、週明けにも天野さんを通じて依頼しようと思っていたことである。
なぜその話を知っているのだろう?と思いながらも、コスモスは千里のZenfoneを受け取り、そこに表示されている番号に掛けてみた。03で始まるので都内の固定電話の番号のようである。
呼び出し音が4回鳴った所で向こうがオフフックする。
「はい、村山です」
という千里の声。コスモスはぎょっとしながらも、
「すみません、伊藤です。醍醐先生、お願いがあるのですが」
と言って、今目の前の千里が言及した、ギターソロを簡単に演奏できるものに差し替える件、もうひとつはこの曲はカワサキの新型スクーターのCMに使用するのだが、2番の歌詞の中に寿司ネタの名前として「スズキ」が出てきて、ライバル企業の名前に聞こえるので、別のに差し替えてもらえないかというのを依頼した。
(秋風コスモスの本名は伊藤宏美)
電話の向こうの千里は
「カワサキがスクーター出すんですか!?」
と驚いていたが、快諾し、寿司ネタの名前は「まいか」「しらす」「あなご」とかにしましょうかと言って、コスモスが「あなご」でいいですか?と言ったので、それを採用することにした。ギターソロについては、ネオンの演奏技術を見たいので、一度聞かせてくれということだったので、夕方都内のスタジオで会うことにした。
それで電話を切った。
「これどうなってんの?」
とコスモスは目の前にいる千里に尋ねた。しかし千里は逆に
「さっすが宏美ちゃん、うまいね。その千里とも会って見比べてみることにしたね」
と言った。
千里はパソコンを開き、またバッグの中に入れていたWifiルータのスイッチを入れた。
「たぶんレース結果が速報されてるんじゃないかなあ」
などと言って、何かを検索しているようだったが、やがて見つけたようで、そのページをコスモスに見せる。
自動車レースの結果のようである。予選が終わって、その予選通過者の名前が出ている。
「あ」
とコスモスが声をあげる。
その中に“Chisato Murayama”の名前があるのである。
「これはいつのレース?」
とひとりごとのように言うと画面の端を見ている。
「今日のレースだ!」
「今日予選をやって、明日10日に決勝みたいね」
「場所は十勝スピードウェイになってる。北海道だよね?」
「うん。十勝支庁の更別村(さらべつむら)という所」
コスモスは腕を組んで考えた。
「要するに千里ちゃんって、何人かいるんだ?」
「千里には本物と影武者と偽物がいるんだよ」
と言って千里は笑っている。
「何それ?もしかして全部で10人くらい居たりして?」
「10人居るのはケイだと思うなあ」
「やはりケイさんって、10人くらい居るよね?」
とコスモスは真顔で訊いている。
「なかなか口を割らないんだよね〜。でも1人では絶対あり得ないよ」
と千里は言っている。
「宏美ちゃん、仙台のクレールには何度か行ってるよね?」
「うん。信濃町ガールズが定演しているから」
「そこのチーフのマキコちゃんが面白いこと言っていたよ」
「うん?」
「私の本物と偽物の見分け方だって」
「へー!」
「その1。本物はお乳の臭いがするけど、偽物はしない」
「あ、何度かその臭いは感じたことある」
「でもさすがに授乳がほぼ終了しているから、もうお乳の臭いはしない」
「やはりお子さんができたの?」
「今2歳だよ。大阪に住んでいるんだよ」
「例の彼氏のところか!」
「なんかその話、随分広まっているなあ」
と千里は苦笑している。
「その2。本物はガラケー使いで、偽物はスマホを使う。偽物が使うスマホとしては、Aquos, iPhone, Arrows, Galaxy が確認されている」
「じゃここにいる千里ちゃんはニセモノ?」
「実は本物は3人で、その3人がiPhone, T008, Aquosを持っている」
「へー!」
「私はこのAquosがメイン端末。宏美ちゃんが夕方会う子はiPhoneを持っていると思うけど、そのiPhone壊れているから」
「え〜〜〜!?」
「リスのストラップが付いているから分かりやすい。あの子、機械音痴だから使えないのを自分の操作が悪いせいだと思っている。だから“わけの分からない”スマホはやめて、ガラケーに戻したいと思っている」
「うむむ」
「影武者は5人で、持っている携帯は、B(きーちゃん)とC(せいちゃん)がArrows、D(てんちゃん)とE(すーちゃん)がXperia、F(こうちゃん)がGalaxy」
「うーん」
「偽物は何人居るか分からない」
「分からないんだ!?」
「私の関知しない所で勝手に活動しているからね。iPhone使っている子とUrbano使っている子(*2)が存在することは確認している」
「へー!」
「私ってこの長い髪で認識されているから、このくらい髪が長いと多少顔が違っても私だと思われる」
「あ、それありそう!」
それで詳しいことは“醍醐春海”と会った後で話すよと千里は言い、夜9時頃に再度渋谷で会うことにして別れたのであった。
(*2)iPhone使いは虚空、Urbano使いは西沢まどか、である。
コスモスはレコード会社の担当者と会った後、16時に新宿のスタジオに入った。西宮ネオンと、今回の音源製作で伴奏をしてくれるスタジオミュージシャンの人たちが来ている。§§ミュージックでは、基本的に打ち込みの伴奏データをそのまま製品に残すことはせず、原則として生演奏をバックに歌ったものを収録するようにしている。
伴奏者は、各歌手ごとにできるだけ毎回同じメンバーをそろえるようにしてはいるが、アクア・ありさ・ひろか以外の歌手の伴奏者は専属契約ではないのでどうしても毎回微妙に違うメンバーになりがちである。今回はギターとドラムスとキーボードの人は前回と同じだが、ベースの人が違っていた。姫路スピカの伴奏に多く参加しているベースの人が来てくれている。
“醍醐春海”は16時半に来て、西宮ネオンに何かギターを弾いてみてと言った。それで彼は ONE OK ROCK "Re:make" をエレキギターを弾きながら自分で歌った。
「うまいじゃん」
と醍醐春海は言った。
「ちゃんとこの曲のギターソロは弾けてたね。だいぶ練習した?」
「この曲は中学生の頃、友だちと一緒に随分練習したんですよー」
「なるほど。この程度は弾けるんだったら、そのくらいのレベルのを書くよ」
「すみませーん。先日頂いた譜面のギターソロは一週間くらい練習していたんですが、挫折しました」
「あれはスタジオミュージシャンの人向けに書いたからね。吉岡さんなら初見で弾けるでしょ?」
と千里はギターの人に声を掛ける。
「わあ、私の名前覚えていて頂けました?」
「KARIONのツアーで一緒になったことあったし」
「はい。ちょっと懐かしいですね。醍醐先生がまだ女子高生で」
「うん。その頃かな」
それで吉岡が「さすがに初見では無理ですが3〜4時間練習しました」と言って『お寿司バンザイ』の現在の譜面に指定されたギターソロを弾いてみせる。
「格好いい!」
と西宮ネオンが声をあげた。
「まあネオン君もずっと練習してたら5年後くらいには弾けるようになるよ」
「頑張ります」
「でも今回はもっと易しいのを書くね」
「すみません」
それで“醍醐春海”は帰っていったものの、コスモスはずっと腕を組んで考えていた。確かにこの“醍醐春海”はリスのストラップの付いたiPhoneを持っていた。しかしコスモスと一緒だった1時間ほどの間に、彼女は一度もそのiPhoneで通話などはしなかった。時刻を見るのに開いただけである。またそのスマホからは1度も通知音の類いがしなかった。
この日ネオンはカップリング曲の『山越えホワイトロード』の練習をしていたのでコスモスは1時間ほど立ち会ってから、赤坂の##放送に寄り、そのあと21時に渋谷のレストランに行った。予約の名前を言うと
「お連れ様はいらっしゃってますよ」
というので、案内されて個室に入る。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって」
とコスモスが言うと
「ううん。まだ約束の時間の前だよ」
と千里は言う。
コスモスはあらためて“この千里”を観察した。
「エネルギーレベルが全然違う」
とコスモスは言った。
「そう?」
「夕方会った千里ちゃんを1としたら、ここにいる千里ちゃんは10くらいある」
「それはかなり正確な把握という気がするよ。あの子も7月4日に事故にあった時は今の更に10分の1くらいだった。それがここまで回復してきた」
コスモスはしばらく目を瞑って考えていたが、やがて目を開けて言った。
「事故に遭って調子を落としたのがあの千里ちゃんなんだ?」
「うん。だから調子を落としていない残り2人の千里の作品を発表するために琴沢幸穂を作ったんだよ」
「そういうことだったのか。いつから3人いるの?最初から?」
「春に落雷に遭った時に3つに分かれちゃったんだよ」
「それが『サンダーボルト−青天の霹靂』か!」
「そうそう。世間では『アクアちゃん−性転の霹靂』という替え歌が流行ってるけど」
と千里が言うと、コスモスは吹き出した。
「あの歌詞作った人、センスいいね?」
「うまいよね。マリちゃんの愛唱歌になっているみたいだよ」
「あはは。マリちゃんも紗雪さんも危ない目をしているから」
「うん。いかにしてアクアを拉致して強制的に性転換手術を受けさせるかって作戦練っているみたいだし」
「こわいなあ」
と言ってコスモスは笑っている。
「ちなみにアクアも3人に分裂したよ」
と千里が言うと、コスモスはギョッとした顔をしたものの
「ひょっとしたらアクアって3人くらいいないかって、私も思ってた!」
とコスモスは言った。
「アクアって、今年映画にもなったけど、小学1年の時に千里ちゃんに命を助けられてるよね?ひょっとして、アクア自身が実は千里ちゃんの魔法のようなもので存在していて、千里ちゃんが分裂したから、それに合わせてアクアも分裂したとか?」
とコスモスは訊く。
「それは無い。多分これは私とアクアが親しいから、どちらかの分裂が他方の分裂を誘発したんだと思う。ふたりとも分裂の臨界状態にあったんだよ」
「でも人間が分裂することってあるの?」
「清水玲子の『パピヨン』では主人公で女の子みたいな容姿の王子ナザレの侍従サラートが分裂してそっくりの容姿のイオが生まれるけどね」
「へー」
「ただサラートはプラナリアなどと同様の、ふたつに切ったら各々が完全再生しちゃう生物という設定」
「切っちゃうんだ?」
「お腹の所で真っ二つになる。それで死んだかと思ったら、各々が完全な形に再生しちゃって、サラートとイオになるんだ」
「千里ちゃん、プラナリアじゃないよね?」
「人間のつもりだけど。アクアもね」
「どうやって分裂した訳?」
「数学にバナッハ=タルスキーの定理というのがあるんだけど知らない?」
「知らない」
「球が1個あった時、この球を上手に切り分ければ、元の球と同じサイズの球が3つできるという定理」
「それ各々の球がスカスカにならない?」
「ならない。全部詰まっているし、各々の球が元の球と合同なんだよ」
「そんな馬鹿な」
「もっと易しい問題で『賢いホテルの支配人』というのがある」
「うん」
「同じ思考から色々な結論が導かれるんだけど、例えばここに無限個の部屋があるホテルAがあり、満員だったとする」
「うん」
「新しいホテルB・Cを作り、それらも無限の部屋があった。それで今ホテルAに泊まっている人にこのような移動をお願いした」
と言って千里は紙に↓のようなものを書いた。
1号室の客→Cの1号室
2号室の客→Bの1号室
3号室の客→Aの1号室
4号室の客→Cの2号室
5号室の客→Bの2号室
6号室の客→Aの2号室
7号室の客→Cの3号室
8号室の客→Bの3号室
9号室の客→Aの3号室
・・・・・
「このようにしてAの全部屋の客に移動をお願いすると、ホテルAもホテルBもホテルCも全部満員になる」
「え?ちょっと待って」
と言ってコスモスはしばらく考えている。
「ほんとだ。でもなんか欺された気がする」
「欺されてない。これは数学的に正しいんだよ。これと同じような操作をしたのが、バナッハ=タルスキーの定理だね。濃度がアレフ・ゼロじゃなくてアレフだから、もっと難しい操作しているけど」
「それで3つに分かれたんだ?」
「かどうかは分からない。でも私にしてもアクアにしても3つに分裂して、それで体重が3分の1になったりはしていない。全員同じ体重だよ」
「質量保存の法則に反している気がする」
「どこかで辻褄合わせが起きていると思うよ。ごくローカルに見たら質量保存の法則が破れているように見えても、実はどこかでその分の質量が減算されているんだよ」
「代わりに誰か4人消えていたりして?」
「人間ではないだろうね。何かの物体が人間4人の体重分消費されたんだよ」
「それこの後どうなるわけ?」
「たぶん3〜4年の内には私もアクアも1人に戻ると思う。今は一時的な励起(れいき)状態にあるんだよ」
「そして4人分の質量がどこかに戻される?」
「そういうことになると思う」
千里はコスモスが夕方会ったiPhoneを持っている千里が“千里1”、6月に品川ありさ『アクア・ウィタエ』の音源製作で龍笛を吹いたT008を持っている千里が“千里2”で、自分はAquosを持っていて“千里3”であると語った。
「取り敢えず持っている携帯を見れば区別はつくわけか」
「それよりエネルギーレベルで分かるでしょ?」
「・・・・分かる気がする」
「それで見分けた方が安全だよ。携帯なんて簡単に同じ型を用意できる」
「確かに。でも3人はお互いに協力して行動しているの?」
「全然。私と2番はお互いにライバルだと思っている。だから話もしない。1番はそもそも自分が3人に分かれたことに気付いていない」
コスモスはしばらく考えていた。
「それはそうかも知れない気がするよ。1番の霊感は私やケイさんに比べたらずっと大きいけど、3番さんよりは遙かに小さい」
「2番は私の倍くらいだよ」
「それって、A380がB747の倍近く乗るって話だと思う。1番は小型のビジネスジェット。私やケイさんは空を飛べない自動車」
とコスモスが言う。
「よく分かってんじゃん。でもケイやコスモスちゃんは飛べなくても時速300kmで走れるF1マシンだと思うよ」
と千里は言った。コスモスも頷いていた。
「千里1が事故に遭って、バスケの能力も音楽的能力も、そして霊的な能力も極端に低下した。それで千里1は代表落ちしたけど、代わりに私が日本代表になった」
「あの奇跡の復活劇はそういうことだったのか」
「それで音楽の方では、他の2人の存在に気付いていない千里1が醍醐春海として活動し続けているけど、あの子は今、埋め曲は書けてもクリエイティブな作曲ができない。それで私と2番が琴沢幸穂として活動することにしたんだよね」
「そういうことなら琴沢幸穂さんに、今後もアクアほかの楽曲をお願いしたい」
とコスモスは言った。
「うん。よろしく。それで琴沢幸穂に依頼のあった曲を振り分けるのと私が不審に思わないようにするため、2番の指示で天野貴子が代理人として表に出ている」
「そういうことか。でも不審に思うでしょ?」
「思う。思う。でも私は気付かないふりをしている」
「それ気付かないふりしてること自体が2番にはバレてると思う」
「まあキツネとタヌキの化かし合いだね」
「自分同士で鎬を削って(しのぎをけずって)るんだ!?」
「アクアの方は3人で仲良くやっているよ」
「へー!」
「だからあの子たち、トイレとかに行く振りして入れ替わって交替で出演している」
「よくやるなあ」
「この春にタイで写真集の撮影した時も佐斗志はM、友利恵はFが演じている。Nは交代要員。だから実際には佐斗志はMとN、友利恵はFとNで撮影した」
「M?F?」
「アクアは男の子と女の子と男の娘に分裂したからね」
「うっそー!?」
「だから男の子がM、女の子がF、男の娘がN」
「なるほど」
「アクアがこの春からちゃんと勉強もするようになったのは3人で分担しているから。基本的に学校に行く子と仕事に行く子は別。仕事に行く子は午前中仮眠している。誰が何するかは日替わり」
「そういうことか」
「でも社長さんとしては、そんなこと気付いていないふりして、あくまで1人のアクアを出演させているというつもりで仕事を割り振ってあげて。そうしないとあの子3人でも対応しきれなくなって、過労で3人とも倒れるから」
コスモスはしばらく考えてから言った。
「そうする。アクアはあくまで1人。だから1人分の仕事しかさせない」
「うん。それはお願い」
「アクアが3人いることは、山村マネージャーだけが知っていて、入れ替わりに協力している。チケットの手配とかもしている」
「ああ、それは協力者がいなきゃ無理だよ。そういえば山村さんって、千里さんの古い友人なんでしょ?」
「そうそう。面白い人だよ。ちなみに山村はまだ私の分裂には気付いてない」
「言わないんだ!?」
「あの人はわりと鈍いから」
「なるほどー」
「千里ちゃんは全員女の子なの?」
とコスモスは訊いた。
「実は私は当初男の子2人・女の子2人の4人に分裂したんだよ」
「え〜〜!?」
「仮に0番・1番・2番・3番と呼ぶけど、0番と2番は女の子、1番と3番は男の子だった。でも分裂してから2時間ほどで0番と1番が合体して、合体後その子は女の子になった」
コスモスは少し考えていた。
「だったらここにいる3番さんは男の子?」
「但し性転換手術済み」
「あぁ」
「現在の1番と2番は天然の女の子」
「ということは全員女の子になっちゃったんだ?」
「そそ」
「3番さんは分裂した後で性転換したの?」
「いや、分裂した時点で既に性転換手術済みだったよ」
「へー」
「あの痛い手術を2度も受けたくないよ」
「やはり痛いんだ?」
「アクアも今は男の子2人と女の子1人だけど、その内性転換して女の子3人になっちゃったりして」
「うーん。全員女の子になるのは困る。男の娘は性転換してもいいけど男の子はそのままでいて欲しい。男の子が1人いれば他は別にいいよ。AVとかやらせるのでもない限り、性器はわりとどうでもいい」
「まあそれは言えるね」
「千里ちゃんは全員女の子になってしまったということは数年後にひとつに戻る場合もたぶん女の子だよね?」
「だと思うけどなあ」
「アクアはどうなるんだろう?」
「本人は『おっぱい大きくしたいんでしょ?』とか『タマタマ取りたいんでしょ?』とか言うとよく『まだいい』と言うじゃん」
「ああ、よく言う気がする」
「本人もまだ自分が男になりたいのか女になりたいのか気持ちが安定していないんだと思う。アクアに声変わりが来ないのは、本人の意志で第2次性徴が来るのを停めているからだよ。最終的に高校を卒業した頃あるいは20歳頃に、本人が自分の性別を選ばなければならない。その時自分が決めた性別の身体が残るのだと思う」
コスモスはしばらく考えていた。そして言った。
「その時、彼が選んだ性別に合わせてプロデュースしていくよ」
「男の子を選択したら人気は急落するだろうけど、それでも充分人気のある俳優としてやっていけると思う。あの子、俳優として天才的だからね」
「そうそう。あの子は人気だけではなくてちゃんと演技力がある」
「女の子を選択したら人気は壊滅的に無くなるだろうけど、バラエティ路線で行くとそこそこ売れると思うよ。あの子機転が利くから」
「それはあるよね」
と言ってからコスモスはふと思いついたように訊いた。
「山村さんは性転換してるんだっけ?」
「してないしてない。ちゃんとちんちんあるよ。彼の実態は女装好きの健全男だよ。女装は趣味であって、女になりたい訳では無い。ドラッグクイーンに近い」
「そうだったんだ!?でもお医者さんの奥さんを10年間やったという話を聞いたけど」
「それはでっちあげという奴。興信所の調査員がうまく欺されたんだよ」
「うっそー!?」
「紅川さんには内緒でね」
「でも女湯には入れると聞いたけど?」
「必殺ちんちん隠しのワザだね。女湯の中でそれを見せたりはしないよ」
「うーん・・・」
「山村は女たらしだけど、紳士だから、女性をレイプしたりはしないから、ある意味安全な男だよ」
「だったらまあいいか」
「少なくともアクアとセックスしたりはしないから」
「千里ちゃんの話聞いていると、それは安心みたい」
「ただし周囲のスタッフまでは知らないよ。女性スタッフ多いし。レイプはしなくても口説き落として寝ちゃう可能性はある」
「関係作っちゃったら結婚くらいしてくれるよね?」
「責任感はあるから、結婚しなくてもちゃんと生活費を払うと思うよ」
「だったらいいかな」
最後にコスモスは尋ねた。
「あの人何歳?」
「聖徳太子と一緒に産まれたと言っていたから、それが本当なら574年の生まれということになって、今年で1443歳になるはず」
と千里は答える。
「ああそのくらいかもね」
とコスモスは納得するように言った。
そういうわけで、千里とアクアの分裂を、一般の人で最初に知ったのは2017.9.9秋風コスモスだったのである。
コスモスが千里3からその話を聞いたことを天野貴子(きーちゃん)も千里2も全く気付いていなかった。コスモスは話を聞いてもアクアの扱いを変えなかったし、いつもポーカーフェイスなので、彼女の心中を読むのはひじょうに難しい。
(それでケイは彼女に経営者の素質があることを見抜いたのだが)
ちなみにこの日の翌日9月10日は映画のラッシュを関係者一同(コスモス、ゆりこ、和泉、山村、紅川、三田原、青葉、丸山アイ)で見た後、レストランで食事をしていたら、青葉が座っていた席に大理石の石像が倒れてくるという事故があった。青葉は偶然トイレに行っていて無事だったものの、さすがに青くなった。そこから厄払い旅行の計画が急浮上するのである。
コスモスは先週、紅川が鱒渕の見舞いに行った時、今月中に退院出来る見込みだと聞いて喜び、自身も病院に行って回復したことをお祝いするとともに、年内は給料は払うので会社には出て来なくていいから、いい音楽を聴いたり、いい絵を見たりして、ゆっくり身体を休めて欲しいと言った。それで年明けから山村と二頭体制でアクアのマネージャーに復帰してほしいと言っていたのだが、アクアが3人に分裂していることを知り、鱒渕をアクアのマネージャーに戻すと、“アクアたち”の運用がかえって難しくなるぞと思った。
この問題は10月に急展開がある。
千里とアクアの分裂を知った2人目が青葉であった。青葉は2017.9.17に千里2からその話を聞くことになる。青葉は千里3とも会うといいよと言われて会いに行った。千里3はあくまで自分の分裂に気付いていないふりをしていたし、青葉も千里2が言っていたように、3番は分裂に気付いていないと信じ込んでいた。
その日、青葉は千里3とも2時間くらい話してから別れ、電話で千里2と再度少し話してから、大宮の彪志のアパートに泊まった。
青葉が帰ってから千里3は呟いた。
「『携帯見たら誰かは区別つくな』とか、青葉って本当に欺されやすい体質みたい」
青葉が内心考えたりすることは千里には筒抜けである。
「2番さんもこちらと同じ機種のアクオスを用意したようですよ」
と《わっちゃん》が言う。
「1番が結婚すると言うから、結果的に私が3人いることを多くの人に打ち明けざるを得ない。青葉でさえ、ああ思っちゃうんだから、他の人も携帯見れば誰か分かると思うだろうね」
と千里3は苦笑しながら言った。
「青葉さん、“あれ”を付けられたことに気付いていませんよね?」
「雪娘や海坊主たちも気付かなかったと思う。“姫様”は気付いたけど、それを教えてあげるほど親切な人ではないし」
千里1は9月16日に信次と婚約してしまったので、貴司に手紙を書き、もう会わないようにしようと伝えた。貴司も千里と切れる自信は無かったものの、千里を放置して他の女性との結婚生活を続けている負い目があるので、それを受け入れた。ただ千里が「返したい」と言って送って来た、いつも携帯に付けていた金色のリングの付いたストラップは「これは持っていて欲しい」と言って、千里に送り返し、千里1も「じゃ持っておくけどしまっておく」と電話で伝えた。
ちなみに千里1はティファニーの指輪とアクアマリンの指輪、それに2つの結婚指輪が見つからず、おかしいなとは思ったものの、本人も色々物忘れが激しい(と桃香などから言われる)のを認識しているので、いったん返したんだっけ?などと考えていた。
ところで千里が返送したものの貴司が送り返した金色のリング(酸化発色ステンレス)が付いた携帯ストラップであるが、これはこのような状況にあった。
0番が持っていたT008に取り付けてあった携帯ストラップはT008と一緒に黒焦げになったので、千里1(この子はT008を持っていなかった)は0と合体した後、その黒焦げのストラップをiPhoneに移しておいた。5月に貴司とデートした時に貴司が気づき、新しいのを作って6月のデートの時に千里1に渡した。
ところがこのストラップも7月4日に事故に遭った時、iPhoneが過剰電流で壊れたのと一緒に再度黒焦げになってしまった。しかし千里1は事故の後で一時的には貴司のことまで忘れていたので、黒焦げの指輪状のストラップは取り外して机の引き出しに放り込み、その後に羽衣からもらったリスのストラップを取り付けた。
普通ならストラップが黒焦げになるほどのことが起きたら本体も行かれているはずと思うところだが、それに気付かないのが機械音痴たるゆえんである。
なお貴司とその後デートするのは千里3に交替し、千里3のストラップは元々無事だったので、貴司は自分が6月に贈ったストラップが黒焦げになっているとは夢にも思わなかった。
ところが9月18日に千里から送られて来たストラップは黒焦げになっていたので貴司は困惑する。一体何をしたらまたこうなるんだ!?と思ったものの、「これは付けなくてもいいから持っていて欲しい」と言って返送する時に、再度新しいものを作ってもらって(関連会社で製造しているので、工場に直接頼むと、すぐ作ってくれる)その新しいストラップを千里に返送したのである。
9.16 千里1が川島信次と婚約
9.17 千里1が青葉・朋子などに電話して信次との婚約を伝える。貴司に手紙を書く。
9.18 夕方、貴司が手紙を受け取る。
9.19 工場に電話で製造依頼。
9.20 貴司が工場でリングを受け取り自分でストラップに加工。「君の婚約は受け入れるけどこのリングは持っていて欲しい」という手紙と一緒に送る。
9.21 千里1が返送されたストラップを受け取り、受け入れることにする。きれいになっていたのでクリーニングしてくれたのかな?と思った。
(被覆が焦げたステンレスは磨いたら被覆が取れて銀色の表面が露出してしまい、元の色は復活しないが、それも千里1は分かっていない)
そして9月22日、“千里3”は貴司にわざわざメールした。
《悪いけど、明日は日本代表の祝賀会に出ないといけないから、明日のデートはパスさせて》
貴司は首をひねった。
つい数日前「もう会わないようにしよう」というやりとりをしたばかりなのに、このメールでは、会えないのは今月のみのような雰囲気である。それで貴司は来月はどうなるのだろう?と疑問を感じたのである。
なおこの9月23日、千里2は親友の琴尾蓮菜(葵照子)と長年の恋人である田代雅文との決婚式・祝賀会に出席していた。それでこの日は実際に“誰も空いていなかった”のであった。
翌日9月24日には貴司の母・保志絵が、千里の結婚問題について貴司に事情を聞くため大阪に出てくるのだが、貴司は自身千里の意図が分からなくなっていたので、保志絵から訊かれても全く要領を得ない答えに終始し、保志絵を困らせた。
ただ保志絵は貴司が自分のスマホにちゃんとリング状のストラップを付けていたのを見て満足した。
9月21日(木).
“千里”の代わりにJソフトに女装で勤めている《せいちゃん》は出先から会社に帰りがけ、5月に自動車学校の寮で一緒になった佐倉三奈という女性と遭遇、少しお茶を飲んで話した。
春に自動車学校で会った時、彼女は夫と離婚したので運転免許が必要になり取りに来たと言っていた。その離婚理由が、夫が女装者で、しかも性転換を望んでいると知り、自分はレスビアンではないので、女性との夫婦生活はできないと言って別れたものらしい。別れた後、元夫はすぐに去勢手術と豊胸手術を受けて、女として生活するようになり、まもなく性転換手術も受けたという。
ところが元々嫌いで別れた訳でもなく、浮気とかでの破綻でもないのでふたりは友人としての交友が続いて行った。また娘たちは実は父親の女装を小さい頃から見ていたらしく、フルタイム女として暮らし始めた父親と普通に接し、そちらの家で泊まったり、お小遣いをねだったり!して仲良くしていたという。
そして三奈さんは夏に交通事故を起こして入院したが、その元夫がずっと入院中付き添い、色々お世話もしてくれた。それで三奈はまた彼(彼女)のことが好きになってしまい、ついに再婚したということだった。
「それはおめでとうございます」
しかし再婚出来たということは、元夫は戸籍上の性別をまだ変更していなかったのだろう。そして結婚した以上性別は変更出来なくなる。性より愛を取る選択である。
「ウェディングドレス同士の記念写真なのよ。恥ずかしかったぁ」
と三奈さんは言っている。
「最近多いから問題無いと思いますよ」
と《せいちゃん》は言った。
「それでさ・・・・私女同士の夜の営みにハマっちゃったかも」
などと大胆なことを言うのは、こちらが女だと思って気を許しているのだろう。
「女同士だとツボが分かりやすいともいいますしね」
「そうなのよ。終わりが無いから朝までやってたりして。あの人が男だった時もあんなに気持ちよくなれなかったのに」
「元々男性として弱かったのもあったと思いますよ」
「あ、そうかもね!」
「愛は性別を超えるんですよ」
そんなことで《せいちゃん》は早く会社に帰らなきゃいけないんだけど、などと思いながらも三奈と1時間くらい話していたのだが、唐突に彼女が言った。
「そうだ。宮田さん、ソフトハウスにお勤めでしたね」
「はい、そうですが」
「夫が校長を務めている音楽学校で簡単なソフトを作れないかという話があって。相談に乗ってもらえないかしら」
「いいですよ」
(三奈は「簡単な」と言ったが全然簡単ではなかった。三奈はコンピュータのことは全然分からないようである)
それで《せいちゃん》は社長に電話して営業の話があるので取り敢えずまずは話だけ聞いてくると言い、彼女の夫という人に会うことにしたのである。
彼女の夫の勤め先というのは、横浜市郊外にあるSF音楽学院という所であった。校長をしているその夫は、物凄い美人でドキッとする。三奈の夫であれば50代と思われるが、見た目はまだ30代でも通る“美魔女”である。
「どうも妻がお世話になりまして」
とにこやかな笑顔で言う声はふつうの女性の声である。メゾソプラノだ。すげー!やはりこういう人が時々いるんだよな、と思って《せいちゃん》は見ていた。
向こうが「SF音楽学院校長・八重美城 (Yae Miki)」という名刺を出す。名前は改名したのだろうか。こちらも「Jソフトウェア・システム開発部係長・村山千里」の名刺を渡す。
「あれ?宮田さんとおっしゃいませんでした?」
「宮田は戸籍名なんですよ。私は里親に育てられたので、ふだんは里親の苗字の村山を名乗っているんです。免許証は戸籍名で取らないといけないからそれで自動車学校にも通ったのですが」
「なるほどですね」
性別変更問題については、性別を変更したいからといって、オーナーに辞表を提出して、退職してから性転換手術を受けたのだが、退院して3ヶ月ほど療養していたら、自分の後任の校長が急死して、それで性別のことは気にしないから、またやってくれないかとオーナーから頼まれ、復職したらしい。
「まあ生徒たちから随分からかわれましたけど、開き直っています」
と本人は言っていた。
物腰の柔らかい人である。この人なら生徒からも人気だろうなと《せいちゃん》は思った。
それで美城校長から頼まれたのは
「生徒の歌や演奏をその場で楽譜に変換するソフトが作れないかと思いまして」
ということだった。
「その手のソフトはけっこうありませんか?」
「出来合いのソフトはあるのですが、必ずしも変換効率が良くないのですよ」
「なるほど」
「特に数人で合唱したり合奏していたりすると、滅茶苦茶になることが多くて」
「それは楽器判定がうまく行ってないのでしょうね。特に伝統的な楽器だけを想定している場合、ソフト側が持っている楽器音特性のデータベースに最近のシンセベースの音が当てはまらなくて、誤判定することがあると思います。楽器を誤判定してしまうと、音高も誤るのですよ。たとえばトランペットの音って、基音より倍音の方がボリュームがあるんです。それをたとえばオルガン音などと誤認識すると、結果的に音高判定も誤ることになります」
と《せいちゃん》は説明した。
「あなたお詳しいようですね!」
「実は昔、シンセサイザの開発に携わったことがあるので」
それはもう30年以上前、FM音源が普及し始めた頃の話である。当時《せいちゃん》は大手楽器メーカーの研究所にいた。実はそのメーカーのシンセサイザのFM合成プログラムのコア部分を彼が書いている。
「そういう方なら心強い。ぜひもう少し詳しい話なども聞いてお見積もりなどして頂けないでしょうか?充分な予算を取りますので」
「分かりました。今日はもう遅いので、また明日以降あらためて詳しいお話をいただけませんか?」
「ええ。では明日にでも」
《せいちゃん》はいったん会社に戻り、山口龍晴社長に相談した。
「それはむしろ君にしかできない仕事だと思う」
「そうなんですよ。○○建設の仕事もこれから制作が本格化するのに」
社長はしばらく考えていたが、
「溝江君」
と言って、今年の春入社したばかりだがひじょうに優秀なSEである溝江旬子を呼んだ。
「実は村山君が中心になってまとめた○○建設の仕事なんだけど、彼女が向こうの担当者と婚約してしまってさ」
「はい、凄いロマンスですよね」
「それで、やはり個人的な関係があると、彼女が指揮を執るのは、色々やりにくい面もあるし、このプロジェクトは君が主として設計書を書いてくれないかな。それに村山君は3月で退職する予定だからその後のメンテの問題もあるし」
「分かりました!ぜひやらせてください」
と溝江さんは笑顔で言った。
それで川島信次の会社のシステムの開発は(基本設計が終わったこの時点で)“千里”は名前だけのリーダーとなり、詳細設計・作り込みについては、サブリーダーの溝江旬子が中心で進めることになって、《せいちゃん》はSF音楽学院のシステムを担当することになる。
このシステムは10月いっぱい打合せをしながら試作品を動かしてみて、その試作品の成績がよかったので正式に契約、11-12月でほぼ組み上げた。このプロジェクトは他にこういう処理を理解出来るSEが居なかった(だいたいみんな「フーリエ変換」ということばを聞いただけで頭が拒絶反応を起こし、積分記号(∫)を見ただけで目がゲシュタルト崩壊?するらしい)ので、《せいちゃん》がほぼ1人で書き上げた。使用言語はC++であるが、一部は C++ / C では書けない処理があり、アセンブラも使用している。
1月から正式運用を始め、数回調整的な修正をしたものの、大きな問題点は無く動いていた。音階については、西洋音階・和音階(ピタゴラス音階)を事前設定しておく。移調楽器については実音でも通常の記音でも出力できる。三味線は西洋風の五線譜でも文化譜でも出力出来る。重唱については自動判定でもいけるが、事前に声登録をしておくとより正確にパート分離ができる仕様にした。合唱の訓練を受けている人の声は画一的なので苦労したが、うまい判定方法を思いつき、何とかなった。
一卵性双生児のデュエットだけは事前の声登録をしておいても、どうしてもうまくパート分離ができず《せいちゃん》も解決策を思いつかなかった。生徒に一卵性双生児の19歳女子がいたので実験台になってもらったのだが、ソフトは一応高音パートと低音パートに分離するものの、歌い出しタイミングが違ったり、両方のパートが違うリズムで歌う所がどうにもならなかった。更に両パートの高低が逆転する部分は完全に逆分離してしまった。この2人が「カエルの歌」を輪唱した音源はお手上げ\(^−^)/だった。
八重校長も「これは人間でも難しいから仕方ないですよ」と言っていた。実際高低逆転する部分は正しく分離するのが原理的に不可能ではという気がした。音楽理論を援用すれば(気の遠くなるような膨大なロジック追加が必要だが)ある程度の推測は可能だが、それでも万能ではない気がした。
ところで“千里”は2018年春に退職する予定だったので、その後のメンテをどうしようかと思っていたのだが、偶然にも2018年春に新卒で入るSE候補生が、物理学科の出身かつバンド活動の経験もあり、解析学にも音楽理論にも強かったので、彼がその後のメンテを引き継いでくれることになり《せいちゃん》もホッとして退職することができた。彼もフーリエ変換の本を読み直して復習していた。
このシステムの開発のきっかけとなった、2017年9月21日の《せいちゃん》と八重三奈の遭遇を演出したのは千里3の指令を受けた《わっちゃん》であった。
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【△・第3の女】(4)