【△・第3の女】(2)

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4月20日(木)の放課後、アクアは鱒渕さんの運転する“白いアクア”に乗って羽田空港に向かった。プーケットで写真集の撮影をするためである。
 
21日の金曜と24日の月曜は学校を休み、4日間で写真集の撮影をしようという魂胆なのである。実際の撮影予定は次のようになっている。
 
21-22 男の子の“佐斗志”の水着写真
23-24 女の子の“友利恵”の水着写真
 
そこで“龍虎たち”と千里3は話し合い、次のような分担にすることにした。
 
20(学校)龍虎F
21 AM 龍虎N PM 龍虎M
22 AM 龍虎N PM 龍虎M
23 AM 龍虎F PM 龍虎N
24 AM 龍虎F PM 龍虎N
25(学校)龍虎M
 
準備作業のため《わっちゃん》が千里に擬態し、千里3のパスポート(M3)を持って一緒にプーケットに渡り、アクアが泊まる予定のホテルに入ることにした。《わっちゃん》は《くうちゃん》から転送(正確には交換と転送)の“鍵”を預かっており、撮影中でも疲労が来ているなと思ったらすぐに交代させることにしていた。
 

今回(公式に)プーケットに行くのは下記である。
 
アクア、コスモス、鱒渕、西湖、KARIONの和泉(アクアのディレクター)
写真家の桜井理佳と助手の四家芳絵
 
桜井さんと四家さんは数日前に先行してプーケットに入り、ロケハンをしているし、和泉も彼女たちと打ち合わせて計画を練るため19日に現地入りしている。
 
それでアクアは、コスモス・鱒渕・西湖と一緒に4人で同じ飛行機に乗る。
 

西湖は20日、学校の授業が終わるとタクシーで駅まで行き、電車で羽田に移動した。
 
桶川15:58-16:55品川17:02-17:25羽田空港国際
 
荷物が多いなあと思い、荷物を少し整理して学校の教科書やノートなど、向こうで使わなそうなものを空港のコインロッカーに預けた。
 
待ち合わせ場所の“江戸舞台”に行くと、コスモス社長(とサポートのために来ている沢村マネージャー)がいたが、コスモスが顔をしかめる。
 
「その格好で来たの?」
「え?まずかったですか?」
 
西湖はいつも放送局などに入る時のセーラー服を着ているのである。
 
「あんた、パスポートの性別は?」
「あ、男かも」
「念のため確認して」
「はい」
 
それでバッグからパスポートを取り出してみるが、このような記載である。
 
Surname AMAGI
Given name SEIKO
Nationality JAPAN / Date of birth 20 AUG 2002
Sex M / Registered Domicile SAITAMA
Date of Issue 02 NOV 2012
Date of Expiry 02 NOV 2017
 
「男の子になってるね。航空券も男で取っているよ。その格好では男の子に見えないから着換えよう」
 
ということで、西湖はポロシャツにジーンズ(ズボン)という格好に着換えてくることにした。
 
「戸籍上の性別を変更したら女の子の格好でもいいけどね」
「それどうやったら変更出来るんですか?」
 
「性転換手術を受けて女の子の身体になった上で家庭裁判所に申請すれば変更できるけど」
「私、性別変更した方がいいですか?」
「君が性別変更したいというのなら止めないし、契約にも反しないけど、あまりお勧めはしない」
 
「ちなみにアクアさんのパスポートは?」
「男の子だよ」
「だったら私も男のままでいいです」
「君はアクアがもし女の子になったら、君も女の子になるの?」
とコスモスは呆れぎみに言う。
 
「その時考えさせてください」
 

龍虎は16時に授業が終わると、その後の掃除まで参加して、その後16時半頃、迎えに来てくれていた“白いアクア”に乗り込み、羽田空港に向かった。
 
ちなみに、学校で掃除まで参加したのはアクアFであり(この日はスカート姿で授業に出ていたものの誰も何も言わなかった)、鱒渕の車に乗ったのはアクアMである。赤羽のマンションでM・Nと一緒に待機していた《わっちゃん》がトイレの個室内のFから“直信”をもらい、MとFを入れ替えたのである。Mは体操服を着ていたので、制服で個室に入った龍虎が体操服を着て出てきたことになるが、龍虎がトイレの個室内で着換えるのは、わりとよくあることなので、誰も疑問に思わなかった。
 
ちなみに使用しているのは女子トイレである!
 
(C学園には生徒用の男子トイレは存在しない。武野君は職員・来客用の共用トイレを使用している)
 
なお、3人の内Mが飛行機に乗ることにしたのは、万一入出国の時に性別を疑われて身体検査などされた場合に、男の子の身体でないとまずいからである。
 

「アクアちゃん、空港で取材の人が居るかも知れないから、この服に着替えて」
と鱒渕マネージャーから言われて、車内で(男性用)スーツに着換える。
 
普段はこの車を鱒渕マネージャーが運転するのだが、今日は鱒渕自身も渡航するので、代わりに研修生で運転のうまい吉田和紗(後の桜木ワルツ)が運転していて、鱒渕は助手席に乗っていた。それで着換えた体操服は教科書などの入ったカバンと一緒に、和紗に預かってもらうことにした。
 
「自宅マンションに持って帰ってついでに洗濯しておきますよ」
「すみませーん!」
 
それで鱒渕マネージャーが持っているアクアのマンションの鍵を和紗に渡していた。このマンションの鍵は、アクア本人と母、彩佳!、鱒渕の4人が1本ずつ持っているほか、事務所の社長の机の引出しにも1本置いている。ただしこの引出しを開けられるのは、コスモス・ゆりこ・紅川の3人だけである。この鍵は電子式で、ミスターミニットなどでは合鍵を作れない。
 
(アクアは現在不動産会社に頼んであと2本注文している。むろん3人のアクアが1本ずつ持つためである)
 

首都高で事故による渋滞があったため、羽田国際ターミナルに到着したのは、17:40頃であった。アクアと鱒渕が降りて、和紗は龍虎の荷物を持って帰るため車を赤羽に向けた。
 
アクアが“江戸舞台”まで行くと、案の定記者が数人来ていた。それでアクア単独およびコスモスと並んだ所の写真を撮られ、取材もされたので笑顔で質問に答えておいた。記者たちが帰ってからアクアは尋ねた。
 
「葉月ちゃんは?」
「あの子、セーラー服で来てたから着換えに行かせた。パスポートが男だから女の子の格好しているのはまずい」
 
「あの子も少しずつ自分の性別が分からなくなってきつつある気が」
とアクアは言う。
 
「実際、あの子は女の子だと思っている人の方が多くないですか?」
と沢村が尋ねる。
 
「たぶん男の子だと認識している人が20人以下という気がする」
とコスモス。
 
「うーん・・・」
 
やがてその葉月が戻ってきた。着換えたセーラー服は沢村さんに預かってもらった。
 
「これ君の自宅に届けておくよ」
「すみませーん」
 
(所属タレントの家の鍵は事務所の金庫に全部合鍵があるので、それで入れる。アクアのマンションの鍵だけ金庫ではなく社長の机の引き出しである)
 
全員パスポートを持っていて航空券と氏名(のスペル)・年齢・性別が一致していることを確認の上、取り敢えずみんなで夕食に行った。時間は充分あるので、その後お茶を飲み、21時頃、沢村に見送られて保安検査場に向かった。
 

4/21 0:20のバンコク行きに乗る。これは4/17に千里が乗ったのと同じ便である。4:50にバンコクのスワンナプーム国際空港に到着するが、時差が2時間あるので日本時間では6:50である。
 
例によって入国審査で、アクア・葉月ともに「性別が違う」と言われてトラブる。ふたりとも学校の生徒手帳を見せて確かに「男」と記載されていたので、身体検査などはされずに何とか入国出来た(日本語が読める係官だった)。
 
その後プーケット行きの国内便に乗り継いで、プーケットには8時半に到着した。取り敢えずホテルに入り、荷物を置くが、この時、アクア(アクアM)は《わっちゃん》の部屋に行き、そこで(昨日の夕方、日本から転送してもらって)待機していたアクアNと服を交換して入れ替わった。つまりNはホテルのベッドで一晩ぐっすり眠ってから撮影に臨むことになる。
 
「じゃ撮影頑張ってね」
と言って送り出し、Mは取り敢えずベッドで寝た。
 

初日の撮影が始まるが、今回は水着写真がメインなので、アクア(アクアN)は男子水着を着せられて胸を露出する。Nは「恥ずかしー」と思った。今回の写真集の1つの目的はアクアの“女体疑惑”否定なので、胸を露出する写真が必要である。もっとも、桜井さんからブラ跡が取れてないことを指摘される。
 
ブラ跡が消えるように1週間前からブラジャーの着用を禁止されていたのだが、ずっと着けていたものを着けないようにしても、すぐには消えないようである。
 
「不本意ですけどPhotoshop上で修正してください」
とコスモスは言った。
 
(実はN・Mはブラを着けていなかったもののFがブラを着けていたので、Fのブラ跡がN・Mにも出ていたのである。3人の身体はシンクロしている)
 
アクアが胸を写されるのを明らかに嫌がっているので、多くの写真はラッシュガードを着けて撮影することにし、胸露出の写真は少数に留めることにした。
 
そして最終的にはコスモスと和泉の話し合いでブラ跡は“修正しない”ことにした。
 
写真修正の跡は見る人が見れば分かるのでブラ跡が修正されていたらバストも実は存在するのを修正して無いように見せているのではと言われる。それで完全に無修正の写真であることをアピールした方がいいということになったのである。
 

なお、最初の2日間は“男の子の佐斗志”の写真を撮るので、結果的に西湖が友利恵役を務める。それで西湖は女子水着を着ることになり「え〜!?」と叫んでいた。
 
「葉月ちゃん、お仕事お仕事」
「頑張ります」
 
最初ちゃんとタックしていなかったので、女子水着のお股が盛り上がってしまう。
 
「そのお股の所が邪魔なんだけど、ちょっと病院に行って手術して取ってしまったりできないよね?この島にはそういう手術してくれる病院もあるし」
 
「勘弁して下さい」
 
それで時間をもらってきちんとタックする。
 
「あ、盛り上がりが無くなったね。手術してきた?」
「そのあたりは企業秘密で」
 

西湖が着せられる水着は最初はふつうのワンピース水着だったものの、その内ビキニなども着せられて、西湖は悲鳴をあげていた。
 
「でもおっぱいはあるんだね。ホルモンか何かで大きくしたの?」
「すみません。それも企業秘密で」
 
「だけどアクアちゃんも葉月ちゃんも中性的なのがいいなあ。これは普通の女の子の写真より売れる気がするよ」
 
などと写真を撮っている桜井さんは言っていた。
 
「正確にはアクアちゃんは無性体、葉月ちゃんは両性体かな」
と桜井さんが言うと
「私もそんな気がしていました」
と和泉が言った。
 

撮影は10時頃から始まり、13時頃いったんお昼で休憩したのだが、お昼を食べている時、鱒渕さんが食べながら眠り掛けた。それでコスモスが
 
「鱒渕さん、少し休んできてください。私も和泉さんもいるから大丈夫ですよ」
と言うので
「すみません。でしたら1時間ほど休ませて下さい」
と言って自室に行った。
 
それをアクアからの直信で知った《わっちゃん》は《くうちゃん》に頼んだ。
 
『この人疲れてるみたいだし、今回の日程が終わるまでずっと寝せておきません?』
『ああ、その女性は今の状態では帰国前に死ぬと思った』
『死んじゃいます!?』
『全ての臓器が衰弱している。もう寿命が燃え尽きようとしている』
『嘘!?』
『千里のエネルギーの泉の中に入れよう。それで帰国まで眠らせておく。そうしたら多分1年程度は寿命が延びる』
『それでも1年?』
『僕が確信できるのはそこまで。その先は本人の生命力次第かな。取り敢えず帰国したらすぐ入院させた方がいい』
 
『では入院については千里さんとも相談して。取り敢えずそのエネルギーの泉の中に入れる件、お願いします。私が彼女の身代わりになります』
『よし』
 
そういう訳で《わっちゃん》と《くうちゃん》の話し合いで、鱒渕は千里の“エネルギーの泉”の中に千里には無断で!放り込まれた。ここは普段は千里の眷属たちのホームステーションで、眷属たちはここで休むことにより身体と心を癒やされ、また活動するための活力を得るのである。
 

“鱒渕”は16時頃戻って来た。
 
「済みません。長時間眠ってしまって」
「ああ、少し元気になったみたいね」
と和泉は言っているが、アクアは内心びっくりしていた(無論びっくりしたことを顔に出すようなアクアではない)。
 
しかしこの後の撮影では、“鱒渕”がずっと撮影現場に付いているので、少し疲れてきたかなと思われたら即NとMを交替させることにより、元気なアクアの写真をたくさん撮ることができた。
 
パートナーの西湖の方は夕方くらいにはかなり疲れてきていた!
 
初日の撮影はビーチでの夕日撮影を挟んで20時頃まで続けられ、そのあと夕食となった。アクアは3人前の食事を平らげて、コスモスを驚かせたが、実は3人が同じ服を着ていて、交替しながら食べていたのである!
 
そんなに食べて体型が崩れないか?とコスモスは心配したが、3人分食べた割にはあまりお腹が膨らんでいない様子なので
 
「アクアの身体は神秘だ」
などと言っていた。
 
2日目の最後には“佐斗志が女の子水着を着ける”という写真を撮った。
 
「なんか意図と違うものが撮れた気がする」
「普通に女の子が水着姿になっている様子にしか見えない」
と文句?を言われていた。
 
「でも胸が無いんですけどぉ」
「それは気にならない」
 
「アンドレア・ペジックの男性時代の写真っぽい」
「ああ。あの人はおっぱい大きくする前から女の子にしか見えなかったですもんね」
 

23-24日には今度は“女の子・友利恵”の写真撮影をする。女の子水着を着けての撮影だが、アクアが男の子水着を着けての撮影では凄く恥ずかしがっていたのに女の子水着ではむしろリラックスしているようなので、桜井さんは
 
「もっと心細そうな顔してよ」
と注文を付けて何度も撮り直していた。
 
「君はどうも男の子水着より女の子水着のほうに慣れているようだ」
と呆れて言っている。
 
しかし桜井さんもやはり男の子を写すより女の子を写すほうが熱が入るようでたくさんの水着の着せ替えをしてたくさん写真を撮っていた。結構ハードな撮影なので、そばに付いている“鱒渕”は適宜FとNを交替で対応させて疲れが溜まりすぎないようにしていた。“アクアたち”も2時間交替で休めるような感じなのでFもNも美容液パックのシートを顔に貼り付けて仮眠し、顔に疲れが出ないようにしていた。
 
後半の2日間は西湖が佐斗志の役を演じたのだが、
「女の子の胸を露出するわけにはいかないから」
と言われ、男子水着はつけるものの、ラッシュガードを着せられていた。実際西湖は前半の撮影でつけていたブレストフォームを外そうとしたのだが、
 
「それ着けたままでいいよ」
とコスモスから言われ、バスト偽装・股間偽装でほぼ女体のまま佐斗志を演じた。
 
しかしアクアは交替で演じているものの、西湖は1人なので、かなりくたくたになり、最終日などは随分疲れた顔のまま撮影をしていた。
 
「アクアさん、体力ありますね。僕はもうくたくたなのに」
「ボクもくたくただけで空元気(からげんき)だよ」
「すごーい!見習わなくちゃ」
 
そんなことを西湖から言われてアクアも少しだけ良心が痛んだ。
 

ところで、後半の2日間はアクアFとNで撮影をし、Mは出演しない。そこで《わっちゃん》はMを先に帰国させることにした。この時、千里のパスポートを使うのである。
 
《わっちゃん》はタイに来る時、千里に擬態して千里のパスポートを使用しているが、現在鱒渕に擬態しているので帰りは鱒渕のパスポートで帰国する。それで誰かに千里として帰国してもらいたいのでアクアMにそれを引き受けてもらうことにしたのである。
 
そういう訳で23日夜の便で、アクアMはスカートを穿いて女装して(アクアは女装は全く平気である)千里に変装して帰国した。タイ出国の時は全く問題なかったものの、日本入国の時は自動化ゲートで偽装指紋を使用するので少しドキドキした。しかし《くうちゃん》が用意してくれた偽装指紋はさすがに完璧で、アクアMは“女性として”ノートラブルで入国。24日朝、葛西までパスポートを返しに行った。
 
「お疲れ様。大変だったでしょ?」
「大変でした。2人で交替でやっててもかなりハードなんですよ」
「だったら西湖はグロッキーだな」
「かなり疲れが顔に出てましたけど、君の顔は写真集に残らないから問題無いとか言われてました」
 
「ああ。可哀相。あとで焼肉にでも連れて行ってあげなよ」
「そうします。私も焼肉食べたい」
「じゃ上質の神戸牛でも届けさせよう」
「わあ、ありがとうございます!」
 
それで千里は矢鳴さんに電話して、プライベートな用事で申し訳無いが神戸牛特上ロースを1kg預けている現金で買ってアクアのマンションに明日の夕方くらいに届けて欲しいと頼んだ。矢鳴さんは「アクアさんのことなら全然プライベートじゃないですよ」と言って引き受けてくれた。
 
24日はMは丸一日ぐっすりマンションで寝ていたようである。
 

4月17日から24日までの一週間、《きーちゃん》と千里2は、千里1と千里3が同じ場所に帰って寝ようとしないか、あるいは同時に川崎や深川の体育館に出て行ったりしないか、ヒヤヒヤしながら調整していたが、実際には何も考えずに行動しているのは千里1のみで、千里3は1の動きを把握した上で、そちらと遭遇しないように行動していた。寝る時も用賀・経堂・葛西の中で、1番が入らなかった所に3番が入り、最後に空いている所で2番は寝ていた。
 
2番と《きーちゃん》は話し合い、3人の千里が国内で勝手に動き回っていたら、いづれ破綻は避けられないとして、3人の内2人は海外に出るようにしようと計画した。それでまずは3番をフランスに派遣しようということにしたのである。その上で自分はアメリカに行くのである。
 

4月24日(月).
 
午前中、千里3は深川アリーナで練習していた。
 
するとそこに日本代表の坂口代表に扮した月夜(つーちゃん)と風田アシスタント・コーチに扮した絵姫(えっちゃん)がやってくる。千里3は笑いをこらえながら彼ら(彼女ら?)に応対する。
 
千里は小学生の時にこの2人と会ったことがあるのだが、もう15年ほど前のできごとなので、2人はまさか覚えていまいと思っているのだろう。
 
2人は今回のアジア選手権は若手中心に臨みたいので、来年の世界選手権の中核になるであろう千里と玲央美には日本代表チームからは外れて、海外で実力を磨いて欲しいと言った。千里は不満そうな顔をしてみせながらもその話に同意する。それで千里はフランスのLFB(Ligue feminine de basket)、玲央美はスペインのLFB(Liga Femenina de Baloncesto)に派遣されるということだったのである。
 
坂口(に扮した)月夜は千里のパスポートを確認するような振りをしてそれをすり替えた。むろん千里3は気付かない振りをしている。
 
実は千里3が持っていたパスポートは(M3)といって、千里1が持っているパスポート(M1)のクローンなので両者は記録が連動する。千里1が4月30日に日本代表の活動でアメリカに渡るので、入出国記録が混乱しないように千里3にはもうひとつのパスポート(F)を渡したのである。
 
(千里は今朝帰国した龍虎Mからパスポートを受け取ってから、ここに出てきていた。ここは綱渡りになってしまい、千里3も少し焦った)
 

千里3は自分の行動が全て監視されていることを想定した上で“この千里”は桃香が大間産婦人科に入院していることを知らないはずだからと考え、桃香に電話した上で、入院しているという話に驚いてみせ、アテンザに乗って病院に行った。それで桃香にしばらくフランスに行ってくると告げた。桃香は午前中に来た(来たのは千里1)時はアメリカに行くと言っていたのに!?と思うが、ここ数日の千里の混乱状態にはもう慣れてきていたので「気をつけてね」と言っておいた。
 
その上で千里3が用賀のアパートに戻って荷造りをしていたら《きーちゃん》がやってくる。そして海外ではもうガラケーは使えないから三宅先生から渡されたAquosを使えばいいと言い、T008はいったん預かると言った。千里は《きーちゃん》も言い訳考えるのが大変だなあと思いながら"T008"を彼女に渡す。それで《きーちゃん》はまんまとT008の回収に成功したと思っている
 
実際にはT008, Aquos Serie mini, Zenfone は全てクローンを作っていて片方を《わっちゃん》が持っているので1個渡しても千里は困らない。再度《わっちゃん》が持っているもののクローンを作ってもらってそれを自分が持っておけばよい。
 
《きーちゃん》は「T008からSerieにアドレス帳をコピーしてあげるよ」と言って、T008側でアドレス帳をいったんSDカードにコピーし、それをスマホにセットして本体にコピーしてくれた。
 
この時彼女が手品のように素早くSDカードをすり替えたのを千里は見逃さなかった。それで《きーちゃん》が帰ってからスマホのアドレス帳を見ていると、怪しい“気”が漂っている項目がある。
 
玲央美の電話番号である。
 
開いてみる。
 
Zenfoneの方に登録されている番号とは違う。
 
千里は笑いをこらえながら“玲央美”に電話した。出たのは玲央美の声ではあるものの、実際には先日風田コーチに扮していた絵姫である。これで欺そうとするのはさすがに私を舐めてるぞと思いつつも、千里は彼女たちの“工作”には全然気付かないふりをして“玲央美”と会話し、スペインと・フランスと別れるけど、お互い頑張ろうと言った。
 

千里(千里3)は渡航の準備をして、翌4月25日(火)に成田空港に向かった。ここで日本代表の坂口チーム代表に扮した月夜から、バスケ協会の人で雑用係の工藤映玲南と名乗る絵姫!を紹介される。
 
なんか少人数で頑張って役を回している零細劇団のようだ、などと思いながら、千里3は月夜に見送られ、絵姫と一緒にシャルル・ド・ゴール空港行きのエールフランス便に乗り込んだ。
 

プーケットに行っていた龍虎たちは24日の午後まで撮影をした。この日の最後には、“友利恵が手ブラしているシーン”、“佐斗志と友利恵が手をつないで海に向かって走って行くシーン”を撮影した。
 
実際に手ブラをしたのはアクアNである。Fは「女の子のそんな写真撮るなんて」と怒っていたが、撮影スタッフは全員アクアを男の子だと認識しているので仕方ない。NがFをなだめて、自分が撮影に応じた。従って写真に写ったのはFの本物バストではなく、Nの偽装バストである。
 
手を取って走って行く後ろ姿のシーンは、佐斗志をアクアN、友利恵を葉月が演じた(Fは胸があるので佐斗志役ができない)。この写真集で唯一、葉月の身体の全体が映像に残ることになった写真である。
 
葉月の身体を写真に残したのは、女の子のビキニ姿などは実は身体だけ葉月の身体を使い、顔をアクアにすげ替えたコラージュではないかという疑いを持たれないようにするためである。葉月の身体を写真に残すことで、それが他の“友利恵”の写真とは体型が異なることを示している。
 
(葉月はほぼ全てのファンから女子だと思われている)
 

撮影が終わると、“アクア”・西湖・コスモス・和泉・“鱒渕”の5人はその日の夕方の便で帰国した。到着したのは25日の朝7時である。
 
アクアはそのまま学校に行った・・・ことになっているが、実際には飛行機で帰国したのがアクアNで、学校には前日帰宅して1日休んだMが出て行っている。Fは《わっちゃん》にタイから日本の自宅へ転送してもらった。
 
結局25日の午前中、龍虎のマンションでは転送してもらって1晩マンションで眠ったFと、飛行機で帰国したNがいて、ふたりは
「疲れたねぇ!」
と言って、冷凍室の豚肉を解凍して焼いて食べた。
 
ところがお昼過ぎに千里(千里3)から神戸牛特上ロースが1kg届く。
「おお、素晴らしい!」
「そういえばそういう話があった」
 
その話を聞いたのはMだが、Mが聞いた話はF・Nも知っている。
 
「そうだ。少しせいちゃん(西湖)にお裾分けしてあげようよ」
「OKOK」
 
それで《わっちゃん》に頼んで、お肉を250g分けて、西湖のマンションに届けてあげた。《わっちゃん》は事務所の月原に扮して西湖のマンションに行き、お肉を渡したが、感激してアクアに御礼の電話をした。
 
「醍醐春海先生から頂いたからお裾分け。今度醍醐先生に会った時に御礼言っておくといいよ」
「分かりました!」
 

なお、西湖は4日間の集中的な撮影でクタクタになっており、帰りの機内では寝ていたものの、それだけではとても疲れが取れず、羽田に到着した後、心ここにあらずの状態で帰ろうとしていた。これは危険だと判断したコスモスが事務所から吉田和紗(後の桜木ワルツ)を呼び出し、彼女の運転するベンツ(紅川の車)で桶川の自宅まで送ってあげた。コスモスが
 
「葉月ちゃん、今日は学校休んで寝ていなさい」
と言ったので、西湖も素直に
 
「そうします」
と言い、結局事務所にいる田所さんから学校に休みの連絡を入れてもらった。
 
和紗がトンカツ弁当を買ってあげていたので、西湖は車内でそれを食べた後、ずっと寝ていた。和紗は心配だったので、部屋に辿り付きベッドに入るまで見守ってあげた。
 
それで西湖は夕方までひたすら眠っていたのだが、夕方“月原”が訪れてアクアからのお裾分けのお肉をもらう。西湖は感激してアクアに御礼の電話をした。それで西湖はもらったお肉をホットプレートで焼いて食べたが
「美味しい!」
と思わず叫ぶほどの美味しさだった。そのお肉を食べたので随分疲れが消えて活力が出てくる感じだった。でも食べ終わったら、またひたすら眠った。
 

4月26日の朝、西湖は7:45に目が覚めて「きゃー」と焦る。
 
急いで着換える。今着ている服を全部脱いで、下着をつける。
 
西湖はブレストフォームを貼り付けたままなので、ブラジャーが必要である。それをつけると下もパンティを穿きたい気分になるので、タックして女性股間に偽装しているお股にパンティを穿く。この時、パンティがピタリと肌に張り付き、余分な盛り上がりなどが無いのが、もう通常感覚になっている。そしてブラ線を目立たなくするためにグレイのアンダーシャツを着る。その上にブラウスを着る。胸があるので男子用のワイシャツは入らないのである。
 
そしてその上に学生服の上下を着ようとして・・・
 
「あれ?無い」
と思う。
 

学生服が見当たらないのである。
 
いつも学生服は部屋の鴨居の所にハンガーで掛けているのだが、それが見当たらない。仕事場に行く時に着るセーラー服の上下はハンガーに掛かっている。普段はそれを畳んでスポーツバッグに入れ、学生服の方を着て学校に行く。
 
ちなみに使用しているセーラー服は、初期の頃は適当なものを使っていたのだが、現在は西湖が通う中学のセーラー服と同じデザインのものを用意している。
 
ところがそのセーラー服はあるのに、学生服の上下が見当たらない。
 
どうしよう?どこに置いたんだろう?と思い、タンスの中やその付近に服が多数まるまっている付近、そして旅の荷物などを開けて中を見たりしている間に気が付いた。
 
空港のコインロッカーだ!
 
学校が終わった後、直接羽田空港に行ったので、教科書などが多く、それをコインロッカーに預けた。セーラー服に着替えてしまったので、その時、学生服も教科書などと一緒にコインロッカーに預けてしまったのである。
 
しかし教科書はまだいいとして、学生服が無いのは困る。
 
どうしよう!?
 
時計は7:55だ。もう行かなきゃ遅刻しちゃう。
 
西湖は決断した。
 
セーラー服を着ていくしかない。
 
急いでセーラー服のスカートを穿き、上着を着て、リボンを可愛く結ぶ、そして学生鞄(教科書が一部足りないが気にしない)を持ち、ローファーを穿いて、学校まで走って行った。
 
普通の男の子がスカートを穿いて走ろうとしたら、まず転ぶが、西湖はスカートを穿き慣れているので、問題無く走れる。それで結局ギリギリで教室に飛び込み、これから出席を取ろうとしていた先生に
「天月(あまぎ)来ました!」
と言って手を挙げた。
 
「うん、自分の席に座って」
と先生は言った。この時、教室の中でざわめきがあったことに西湖は気付かなかった。
 
西湖は自分がセーラー服を着ていることで何か言われるかな?と思ったのだが、誰も何も言わなかった。トイレどうしよう?と思っていたのだが、お昼休みに事務所から呼び出しがあり、早退してしまったので、この日西湖は学校ではトイレを使用していない。
 
これが西湖が中学3年間で1度だけ、セーラー服を着て学校に出席した日であった。
 
なお、西湖はその日の夕方、和紗の車で羽田までコインロッカーの荷物を取りに行ったが、和紗は
「そんな時は体操服着て出ていけばいいのに」
と言って笑っていた。
「あ、その手があったか!」
と西湖はやっと気付いた。
 
西湖は翌4月27日には学生服を着て学校に行ったが、26日のセーラー服での出席については同級生も先生も何も言わなかった。
 

さて帰国した“鱒渕”であるが
 
「すみません。疲れたので少し自宅で休みます。夕方のツアーの打合せにはちゃんと出てきます」
と言って、いったん“自宅に帰った”。
 
その後“鱒渕”は、アクアの求めに応じて、お肉を西湖のマンションに運んだが、この時は月原に扮している。
 
“月原”は、西湖が持って行ったお肉以外の食材が無いと言っていたので、買い出しをしてあげることにした。冷蔵庫の中が完璧に空っぽなのを確認した上で、インスタント食品、レトルト食品、お米、たくさんのお肉、卵、牛乳、少々の野菜、味噌・醤油・塩・砂糖などの調味料、飲み物のペットボトル、紅茶や緑茶のティーバッグなどを買い出した。
 
わっちゃんはその後も時々食糧を補充してあげたので、この後、西湖の食生活が充実することになる。
 
わっちゃんは千里の指示で、ティッシュペーパー、トイレットペーパー、キッチンタオル、(女性用)生理用品!?まで買ってあげたので、生理用品のパッケージを見て西湖がドキドキすることになる。
 

買い出しに時間が掛かったのでもう16時くらいになる。
 
「そろそろ偽装工作しなきゃ」
と呟くと、鱒渕の自宅に向かった。
 
桶川16:15(JR特快)16:59新宿17:11(小田急快急)17:34新百合ヶ丘
 
鱒渕は本当はこの日、18時にツアーの打合せのため、新宿区内のスタジオに行く予定だった。打合せに出ることになっていたのはバックバンドのメンバー4人、TKRの鮫川と鱒渕で、アクアや写真撮影に同行したばかりの和泉は今日は出席しない。
 
もちろん“鱒渕”は出て行かない。
 
スタジオでは時間を15分過ぎても鱒渕が来ないので本人の携帯に電話してみるがつながらない。困ったバックバンドのリーダー、ヤコが事務所に問い合わせてみるが鱒渕からは連絡は入っていない。しかしこれまで遅刻などもしたこともない人である。無断欠席は考えられない。
 
何か起きているかもと思ったコスモスは田所に、彼女の様子を見てきてほしいと要請した(ツアーの打合せには川崎ゆりこを行かせた)。
 
田所はすぐに小田急に乗り新百合ヶ丘まで行く。
 
信濃町18:50-18:56新宿19:02-19:28新百合ヶ丘
 
そして住所を頼りにアパートを探し当てるが、田所は、この子なんでこんな安アパートに住んでいるんだ?と思い、一瞬、ヒモに搾り取られているのでは?とまで考えてしまった。
 

鱒渕の部屋の呼び鈴を鳴らし、ドアを叩いたりしてみたものの反応は無い。
 
事務所ではタレントの部屋の合い鍵は何かあった時のために預かっているもののあいにくスタッフの部屋の鍵までは預かっていない。田所は台所の窓が開くことに気付いた。開けてみると、人が倒れているのが見える。
 
(わっちゃんの演技である)
 
「水帆ちゃん!」
と田所が声を掛けるが反応が無い。
 
田所はすぐ管理会社に電話した。それで管理会社から委託された警備会社の人が来て鍵を開けてくれる。鱒渕が倒れている。
 
(千里のエネルギーの海から取り出した本人である)
 
体温はある。多分平熱だ。見た感じでは外傷などは無いようである。鼻の所に手をやり、息をしていることを確認する。脈も取るが一応正常のようである。しかし呼びかけても反応が無い。意識を失っているようである。
 
「救急車呼ばなくちゃ」
と田所は言ったが
 
「私たちの車で病院まで運びましょう」
と警備会社の人が言ってくれた。
 
「助かります!」
 
それで鱒渕は近くの総合病院に運び込まれたのであった。これが20時半頃であった。
 

25日、龍虎はさすがにこの日はお仕事は休みにさせてもらっていたので、学校が終わるとそのまま自宅に帰った。これが16時半くらいである。帰宅したのがMで、待っていたのがFとNである。
 
千里から神戸牛が届けられていること、4分の1を西湖にお裾分けしたことを伝える。こちらは3人で焼き肉を食べようというので、わっちゃんが買ってきてくれた野菜も入れてホットプレートで焼く。(FとNは朝も豚肉で焼肉にしている)
 
1人前250gあったのだが、あっという間に食べてしまった。
 
「お肉追加しようよ」
「じゃ誰かが買ってくる」
 
ジャンケンするとNが負けたのでNは近くの西友まで行って黒毛和牛・・・の値段にビビって、オーストラリア産牛肉を1kg買ってきた。何十億と稼いでいるのに和牛の値段にビビるのが龍虎らしいところである。
 
それで焼いて食べるのだが
「神戸牛美味しかったね」
「でもオージービーフも美味しいよ」
 
などと言って食べていた。追加したお肉もきれいに3人で食べてしまった。
 
夕食が終わったのが19時くらいである。
 

21時頃、龍虎の所にもコスモスから鱒渕が倒れたという連絡が入る。
 
「だから明日の放送局の**クイズ収録には月原さんに付き添ってもらうから」
「いや、それよりお見舞いに行きたいです」
 
コスモスは無理しなくていいと言ったのだが、龍虎は今からでも病院に行きたいと言った。それで吉田和紗が車で迎えに来てくれることになった。
 
和紗が来る前に《わっちゃん》が戻ってきたので、龍虎たちは鱒渕さんの様子を尋ねた。それで彼女が極端に衰弱していたことを説明した。
 
「瀕死の状態だったんですか!?」
「ごめんね。撮影中はアクアちゃんに心の重荷を持たせる訳にはいかないから黙ってたのよ。彼女、根性で撮影に付き添っていたんだね。それで私が代理を務めて、彼女は某所で治療していた。その治療のために敢えて眠らせていた。君が行って手を握れば目が覚めるようになっている」
 
「白雪姫と王子様ですね」
「そう。だから今日はアクアが白雪姫だよ」
「ボクが白雪姫なの!?」
「間違った!王子様ね」
 
やがて和紗がコスモスの愛車ロードスター (MAZDA Roadster NC RS-RHT 1998cc 6MT Zeal Red Mica) で迎えに来てくれた。龍虎は今年1月にこの車でコスモスと“デート”した時のことを思い出していた。あれちょっと惜しかったな。宏美さん、セックスさせてくれそうだったのに、などと考えながらこの車に乗り込んだのはジャンケンに勝って病院に行くことになった龍虎Mである。Mは健全な男の子なのでセックスにも興味がある。むろん経験は無い!
 

病院に行くと鱒渕はICUに入れられていた。面会謝絶だったのだが、付き添っていたコスモスが
「この子の声を聞くと意識回復するかも」
と医師に言ったので中に入れてもらった。
 
龍虎が「鱒渕さん」と言って彼女の手を握る。すると鱒渕がパチリと目を開けたので医師は驚き
 
「自分の名前が言えますか?」
と尋ねる。
 
「ますぶち・みずほ」
「生年月日は?」
「1995年12月24日生まれ、性別はたぶん女です」
 
「合ってますか?」
と医師はそばに居る龍虎に尋ねる。
 
「はい、クリスマスイブ生まれだから誕生日はいつもクリスマスケーキと兼用だったと言ってましたから」
と龍虎は答えた。
 
「ここ病院?」
と鱒渕が龍虎に尋ねる。
 
「日本の病院ですよ」
「私、日本に居るの!?」
「ああ。記憶が混乱してますね。鱒渕さんボクの撮影にずっと付き添ってくれて今朝帰国したじゃないですか」
「え〜?私記憶が無い」
「アパートで倒れているのを田所さんが見つけてくれたんです。少し休んだ方がいいです」
 
「そうする!」
 

彼女の家族は、佐渡から出てくるのにどうしても明日のお昼になることをコスモスが説明したので、医師は取り敢えず現状をコスモスに説明した。龍虎は席を外すように言われたので和紗と一緒にロビーで待機した。なお田所は、コスモスが病院に来たので代わって事務所に戻っている。
 
「命の保証が出来ない!?」
とコスモスは驚いて訊き返した。
 
「身体が全体的に物凄く衰弱しています。実際問題として現状は危篤状態に近いです」
と医師が言うので、コスモスは厳しい顔になった。
 
「病気とかではないのですか?」
「病気らしきものは何もありません。ただ全ての臓器が衰弱しています。私もこういう症例は見たことが無いのですが、さきほどから別の上司の方とお話ししていたのでは、ひょっとしたら過労なのかも知れません」
 

事務所では鱒渕の件について、西湖にも報せておかなければと考え、この晩のうちに1度連絡したのだが、電話はつながららなかった。
 
「多分寝ているんですよ」
「そちらまで倒れていたりしないよね?」
「私が見てきます」
と言って和紗が桶川まで行こうとしたが
 
「和紗ちゃんあちこち走り回っているから今日は他の子を行かせるよ」
とコスモスが言い、川内峰花(後の山下ルンバ)に桶川まで行ってもらった。1時間後に「熟睡しています。声を掛けても起きませんが、体温も脈拍も正常です」という報告があったので安堵した。
 
それで西湖には翌26日の昼休みに連絡し、西湖もお見舞いに行きたいということだったので、和紗が車で迎えに行き、お見舞いさせた。その後西湖は和紗に連れられてテレビ局に行ってクイズ番組のリハーサルでアクアの代理をする。そしてその後和紗に羽田空港まで連れて行ってもらってコインロッカーの内容物を回収したのであった。和紗は西湖を桶川の自宅まで送ってくれた。
 

千里3がパリに到着したのは25日の16時半(日本時間23時半)である。入国手続きをしてからマルセイユ行きの便に乗り継ぎ、その日はホテルで一泊。翌4月26日朝市内の体育館で練習しているマルセイユ・バスケット・クラブの女子メンバーたちと会う、そして実際のシュートを見せ、メンバーの数人と手合わせをして、取り敢えず(無報酬の)研修生として受け入れてもらった。
 
住む所としてはマルセイユ市内にアパルトマンを日本バスケ協会で確保したが、悪いが家賃は自分で払ってくれと言われた。それで千里はBBVA銀行のクレカで払う手続きをした。
 
「そんなカード持っているんですか」
と絵姫が驚いていた。
「以前スペインリーグに参戦していたので」
「そうだったんですか!」
 
千里はマルセイユ市内に駐車場を契約した上で
 
「自動車を取りに行くので付き合ってもらえません?」
と言い、一緒にスペインのグラナダまで行くと、そこの駐車場の管理会社に行き、引っ越すので解約したいと申し出、4月一杯で解約することにした。
 
管理会社の人立ち会いで車を出庫した上で鍵を返却することにする。
 

管理会社の人の車に乗せてもらい、その駐車場まで行った。千里が駐車場の車止めをアンロックしてから Ibiza 1.6L 6MT を始動するとちゃんとエンジンが掛かる。
 
「ちゃんとエンジン掛かりましたね」
と絵姫。
 
「友人に頼んで月に1度くらい起動してもらっていたんですよ」
 
と千里がスペイン語で言うと、管理会社の人が頷いている。それで管理会社の人に
「Aqui esta llave」
と言って駐車場の鍵を返す。彼も
「Gracias」
と言って受け取った。
 
その時、絵姫はふと気付いたように
「あ、村山さん、海外運転免許証、発行してもらってました?」
と尋ねる。
 
「Tengo licencia europea(ヨーロッパ共通免許証持ってますよ)」
と千里がやはりスペイン語で言って見せるので
「うっそー!?」
と驚いていた。
「Tienes la licencia, tambien?(あなたも免許持ってますか?)」
と千里は絵姫に尋ねた。絵姫は
「Si」
と答えて自分の免許証を見せた。フランスで発行されたヨーロッパ共通免許証である。Elissa Vernierという名義になっている。工藤映玲南が偽名というのがバレてしまう訳で、こういうのを見せるのは無防備だなあと内心苦笑する。そこで千里はごく自然に言った。
 
「Entonces, Puede conducir este auto a Marseille? Elisabetta de la Vega」
(じゃこの車をマルセイユまで運転してもらえませんか?エリザベッタ・ドゥ・ラ・ヴェガ)
 
「Si(はい)」
と絵姫は言って運転席に座った。スペイン語での会話が続いていたので、絵姫は深く考えずに返事したのだが、今本名を呼ばれてそれに「はい」と答えたので、絵姫はこの瞬間、千里3の直接の眷属になっってしまったのだが、絵姫本人がそのことに気付いていなかった。
 
(絵姫は千里2が“仮の主”になって千里3に貸与していたので“正式の主”が居なかった。それで横取りしてしまったのである)
 

運転は途中途中で交代しながらマルセイユに向かった。千里3は運転を交替した直後に思い出したように言った。
 
「工藤さん、私このままマルセイユ・クラブである程度実力を見せたら、そのままロースターに入ってという話になる可能性もあると思うんです。そうなった場合のために、フランスでの就労許可証を取ってもらえませんか?」
 
絵姫はその話をどうやって切り出そうかと思っていたので驚いたが好都合だと思い、同意した。
 
「そうなる可能性はありますよね?すぐ申請します。あれ?でも以前スペインに居た時というのは?」
 
「スペインのDビザ(就労ビザ)を取ってますよ」
「だったら、フランスの就労ビザと長期滞在許可証もすぐ取れますよ」
 
シェンゲン圏は短期滞在ビザは全圏共通なのだが、就労ビザは国単位で発行され、各々の国によって発行基準もまちまちである。しかしスペインでプロ選手としての就労経験があり、特にトラブルを起こしてなければフランスでも許可が出る可能性が高い。もっともこの手の作業はだいたい時間が掛かる。
 
「と思うんですよね。当時私がいたチームは消滅したんですが、親会社は存続していますから、必要な書類とかは発行してもらえると思います」
 
と言って千里は運転しながら片手でバッグを開け、その中から古い選手名刺と親会社の副社長の名刺を取り出して渡した。
 
「バッグの中を見ずによく取り出せますね!」
と絵姫が驚いていたが
 
「え?ふつうできません?」
などと千里は言っていた。
 

4月26日(水)のお昼頃、鱒渕水帆の両親と兄に祖父母までやってきた。大勢で来たので、水帆自身が
 
「まるで私のお葬式みたい」
と言って笑っていた。両親たちは困惑したものの、元気な様子なのでホッとしたようである。
 
しかしその後、コスモス・紅川会長、両親と兄だけで医者から病状説明を聞くと、両親は厳しい顔になった。コスモスが両親に
 
「こんなになるまで気付かず、大変申し訳ありません」
と手をついて謝ったが、お兄さんは
 
「あいつは昔から全部自分で抱え込んで、人に弱音をはかない子だったんです」
と言った。
 
コスモスは彼女の治療費は退院するまで全額事務所で持つこと、その間の給料もこの1年間の実際支給額の平均と同額を毎月払い、ボーナスも出すことを言明した。また今回のご家族の佐渡・新潟からの交通費・宿泊費はもちろん、今後もお見舞いのために出てくる時の費用は全て出すことも言明した。
 

ところでアクアのツアーは目前である。鱒渕のダウンで緊急に代理のツアー統括者を決めなければならない。コスモスと紅川は誰に代わってもらうか話し合ったのだが「その前に何をしなきゃいけないんだっけ?」という話になり、病床の鱒渕にもすべきことをリストアップしてもらったのだが、コスモスも紅川もその作業項目の多さに絶句する。
 
実際問題として代理が務まりそうなのは沢村か月原しかいないのだが、とても1人では無理だとコスモスは判断した。
 
「それに2人とも大きな会場を経験していないよ」
と紅川も指摘した。
 
沢村は2万人クラスまでは経験しているがドームは経験が無い。月原は5000人クラスまでしか経験していない。
 
「それと2人ともアクアの性的な傾向を誤解している気がします」
とコスモスは言う。
 
鱒渕は中学生の時のクラスメイトに性別の曖昧な友人がいたらしく、わりとこの付近について理解があったのである。
 
アクアの場合は、一般的なトランスジェンダーや同性愛者とは明白に異なるのがひじょうに難しい。あくまで彼は“ふつうの男の子”なのである。といって彼は一般的な男の子タレントと同様の扱いでは、うまく行かない。それを理解しているのは、鱒渕以外にはコスモスくらいである。
 
「∞∞プロの菱沼伊代さんにお願いできないでしょうか?」
と川崎ゆりこが提案した。
 
「あの人か!」
 
彼女は∞∞プロで大物アーティストを何人かマネージングした経験があり、ドームや巨大アリーナのツアーも何度も経験している。そして彼女は丸山アイの最初の担当だったのである。現在は丸山アイからは外れて、ゴールデンシックスの専任だが、幸いなことにゴールデンシックスはゴールデンウィークのツアーが無い。
 
「丸山アイちゃんは、ある意味アクアと似たアーティストかも」
とコスモスも言った。
 
「あの人、たぶんtwo-spiritですよね?」
と川崎ゆりこ。
 
「その付近は公開してないけど、それに近いと思う。リボンの騎士のサファイヤなどと似たタイプ」
とコスモス。
 
「結局あの子って、肉体的には男なんだっけ?」
と紅川。
「ふたなりではないかという気がします」
とコスモス。
 
「え〜!?」
「つまりアイちゃんって、たぶん肉体的にも精神的にも両性具有なんですよ」
「うむむ」
 
「アクアの場合は両性具有ではなくてむしろ両性具無に近い“性的未分化”の状態だし、心も性的モラトリアムに近くて、two-spiritではなく gender flex に近いと思うんだけど、two-spirit の人を見ていればアクアは理解しやすいと思う」
 
とコスモスは難しいことを言った。
 

それで紅川会長が∞∞プロの鈴木社長に電話した所、ゴールデンウィークの間だけなら菱沼を貸すのは問題無いと言ってもらえた。
 
それで26日の夜、テレビ番組の収録が終わって、帰宅しようとしていたアクアの所に菱沼がコスモスと一緒にやってきて言ったのである。
 
「アクアちゃん、今晩一晩私とデートしよう」
「えっと・・・」
「セックスくらいさせてあげてもいいよ」
「ごめんなさい!僕、性欲が無いんです」
 
とアクアは言ったが、一瞬コスモスが嫉妬するような顔をした。アクア本人も、やはり社長、僕のことが好きなのかなあと思いドキドキした。
 
番組収録をやっていたのはアクアFなのだが、男の子の身体でないとまずいかもと感じて《わっちゃん》に直信して、トイレ(女子トイレ)の中でMと交替した。
 
それでアクアMが深夜、菱沼とデートした。
 

菱沼はアクアを裸にまではしなかったものの、ホテルのダブルルームでベッドに並んで腰掛け、「高校生だからこのくらいはいいでしょう?」などと言ってワインを飲ませて(未成年飲酒)、明け方近くまで話し合った。それで
 
「だいたいアクアちゃんのことが分かった」
と言った。
 
「アクアちゃんって実はふつうの男の子なんだ」
と菱沼が言うので
「そのつもりですけど、みんな絶対に“ふつうの男の子”ではない、と言うんですー」
などとアクアは言う。
 
「うん、みんなが言うことも当たっている」
と菱沼は言いながら、アクアのお股を少し悪戯した。そこはアクアの意志に反して健全な男の子の反応をする。
 
「そこ触るの勘弁してくださーい」
 
「機能確認してるだけ。でもてっきり去勢して女性ホルモンもやってると思っていたのに」
「ボク、男の子だから去勢するつもりはないです。女性ホルモンは欺されて飲まされちゃうこと、よくあるけど。丸山アイさんとかフェイさんとかうまいんですよ」
 
「あはは。でもおっぱいは膨らんでないし、あそこも機能があるから、効くほども飲んでないね」
 
と菱沼は、またアクアの(ブレストフォームを外した)胸を悪戯していた。
 
そういう訳でこの夜はアクアは菱沼にたくさん“セクハラ”(ほぼ性犯罪)されたものの、童貞(?)も処女(!?)も守ったのであった。
 
「伊代さんは好きな男の人、あるいは女の人って居ないんですか?」
「気になる男の子はいたんだけどねぇ」
と言って、彼女は遠くを見るような目をした。
 
「その子、性転換して女になっちゃったんだよ。だから永久にセックス出来なくなった」
「そんな人がいたんですか」
 

「でもごめんね。一晩付き合わせて。今日は学校はお休みだよね?」
「いえ、ちゃんと行きますよ」
「ツアーの直前なのに学校に行くの!?」
 
「契約書で、学校絶対優先ということになっているので、特別な場合を除いて学校は休みません」
 
「あんたが過労で倒れそう!」
「北野天子ちゃんとか何度か倒れてますね」
「あんたの方がどう考えても天子ちゃんの10倍働いていると思うけど」
 
「今井葉月がリハーサルを全部引き受けてくれるから、実際には負荷はわりと低いんですよ」
「それでも今の仕事量をこなすには、アクアちゃんが最低でも2〜3人居ないと無理な気がする」
 
「ああ、時々自分が3人くらい欲しいと思います」
とアクアが内心冷や汗を掻きながら言うと、菱沼さんは頷いていた。
 

菱沼さんは早朝タクシーを呼んでアクアを自宅に帰した。実際に徹夜になったアクアMはその日は1日自宅で寝ていて、学校にはFが出て行き、夕方からのツアーの打合せにはNが出て行くことにした。
 
「ところであんたお酒飲んだよね?」
とFから訊かれた。
 
「勧められてワインを少し」
「僕たちまで酔っちゃったじゃん」
「1人がお酒飲むと全員酔うのか!?」
 
「ホルモン剤もひとりが飲むと全員に効くかもね」
「というかFの卵巣で作られている女性ホルモンとMの睾丸で作られている男性ホルモンが現時点では中和している気がする」
 

菱沼本人は少し仮眠した上で9時に§§ミュージックの事務所に出て行き、27日いっぱい、エレメントガードのヤコ、応援に呼んだゴールデンシックスの花野子・梨乃(2人はアクアがデビューした頃、バックバンドを務めていた)、それにコスモス・ゆりこも入って話し合い、何とか翌々日から始まるツアーの手順書を完成させたのである。
 
結局、今回のツアーの管理は、菱沼が吉田和紗を助手に使って遂行することにし、菱沼の人脈から、丸山アイのマネージャーである楠本京華もサポートで入ることになった。手順書の清書と印刷配布は研修生の羽藤玲香(後の桜木レイア)と川内峰花(後の山下ルンバ)が手分けして行った。彼女たちも今回のドームツアーに同行して助手を務める。また葉月も「ボクも雑用で使って下さい」と申し出たので、どんどんこき使われることになる!
 
結局5〜6人で分担してやらなければとてもできないようなことをこれまで鱒渕は1人でやっていたのである。コスモスは会議を通じて、これは本格的にスタッフを増員しなければヤバいと感じた。
 
なお、27日にアクアは(アクアFが)学校にちゃんと行ったのだが、葉月は前日に続いて途中で呼び出されて学校を早引きし、会議に参加している。
 
ちなみに葉月は前日の26日に鱒渕さんのお見舞いに行ったが、本人が元気そうなので驚いていた、
 
もっとも鱒渕の病状は、本人は元気そうに見えるのに身体の内部が衰弱しているのが、大きな問題なのである。実際本人はツアーの間だけ休ませてもらってその後すぐ業務に復帰するつもりだったようだが、医者から「最低療養3ヶ月」と言われて、かなり不満を言っていた。
 
人工透析も受けたが、透析のあと
「あ、なんか身体が快調」
と言い、
「透析前の状態が最悪だったんだけど」
と医者から言われて
「そういえば辛かったかも」
などと言っていた。
 
なお本人が“実は瀕死の状態”であることは、本人には言っていないし、言わないようにしようと家族と事務所は申し合わせていた。
 
 
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