【△・第3の女】(3)
1 2 3 4 5
(C)Eriko Kawaguchi 2019-03-30
ゴールデンウィークのドームツアーが終わった後のアクアのマネージング体制だが、取り敢えず川崎ゆりこがほとんど名前だけのマネージャーとなり、実際の出演交渉などに関しては、§§プロの元マネージャー・牛田典子に2ヶ月だけの約束で担当してもらうことにした。
彼女は春風アルトや冬風オペラなどのマネージャーを務め、3年前、アクアたちがデビューする直前の頃に、結婚を機会に退職した。現在は夫とともに山梨に住んでいるのだが、子供が居ないので、2ヶ月間東京に単身赴任してくれる。現在の苗字は馬場であるが、牛田典子の名前が放送局などに通じるので、旧姓で活動する。
「私体力無いから送迎とかは別の人に頼んで」
と言うので、研修生で運転が上手い吉田和紗・川内峰花が送迎で駆り出されることとなったが、ふたりでやっているにも関わらず「きつい!」と音を上げ、コスモスと紅川は、★★情報サービスから、津島恭一さん(本来は上島雷太担当)を2ヶ月間だけの約束で借りることにした。
一方で鱒渕の後任のマネージャーとして主としてコネで名前のあがった人と何人も紅川が面接をしたが、その中で浮上してきたのが、元集団アイドルの緑川志穂、元イベンター所属の高村友香だったのだが、ふたりともアシスタント的な能力は高いものの、アクアのマネージャーに求められる交渉能力の面ではやや弱い気がした。しかしこの2人は取り敢えず採用することにし、2人が今やっているバイトを辞められる7月からお願いすることにした。
そして最終的に後任の本命として浮上したのが四谷勾美であった。
紅川は最初彼女に会った時、女装男性かと思ったのだが、履歴書では都内の男性医師と10年にわたる結婚生活をしたのち離婚ということであったので、性転換手術済み・戸籍上の性別も変更済みなのかな?と考えた。もしそうだとしたら、性別が微妙なアクアを担当するには良いかも知れないと紅川は考えたのである。
ただ紅川が女装男性かと思ったのは、紅川が過去に多数の女装者を見ていて“目が肥えて”いたからで、多くの人には「ふつうのおばちゃん」にしか見えないだろうとも思った。あまりにも“ふつう”すぎで、警戒心を緩めてしまいがちである。紅川は多分この「ふつうさ」は彼女の演出だろうと思った。
彼女の奥に物凄い桁外れのパワーを感じるのである。
「スポーツなどなさっていました?」
「ソフトボール、バスケット、バレー、スキー、水泳、剣道、射撃、など若い頃からやっていました。マラソン大会にも10回ほど参加して全部完走しています」
「それは凄い。この仕事は体力が必要なんですよ」
確かにこの人ならマラソンくらい平気で完走しそうである。
四谷のポイントとしては、まず運転がうまく、大型免許・大型二輪免許を持っている上、船舶の免許、ヘリコプターやビジネスジェットの免許まで持っていて(F15やMig-21でも操縦経験があるというのはさすがに冗談だろう)、アクアのトランスジェンダー、もとい!トランスポートを任せるのに頼もしいこと。
英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・ポルトガル語・イタリア語・タイ語・タガログ語・ヒンズー語・アラビア語・ロシア語・中国語・韓国語が話せるという、高い語学能力があり、アクアの海外展開を考える場合も頼りに出来そうであること。
10年くらい前に花村かほりのマネージャーを3年間務めていたし、それ以前に演歌歌手・三條みゆきのマネージャーをしたことがあり、芸能界の習慣になじみがあること(二葉あき子のマネージャーもしていたというのはさすがにジョークだろう)。
そして何と言っても実際に彼女と話していて感じ取った、交渉能力の高さである。気配りも物凄い。頭の回転も速いようである。
年齢は履歴書では1440歳と書いたのを消して44歳と訂正してあった。年齢のよく分からない人なのだが44歳といわれたら44歳にも見えるので、まあその程度の年齢なのだろう。
紅川がひとつだけ懸念したのは演歌歌手のマネージャーをしていたということからヤクザとの関わりがないかということだった。三條みゆき自体には黒い方面の噂は無かったし、彼女が所属していたZZプロも演歌世界では比較的クリーンなプロダクションである。
紅川は興信所に彼女の周辺調査を依頼するとともに、本人が知り合いとしてあげた何人かの人物に彼女のことを尋ねてみることにした。
醍醐春海、AYA、鹿島信子、この3人は大笑いして
「殺しても死なない人だから過労で倒れる心配は無いです」
「運転が凄く上手いし、とっても楽しい人ですよ、冗談がきついけど」
「アクアちゃんが性転換しても、人気が落ちないようにうまくできますよ」
などと言われた。紅川はなぜ笑うのか困惑したが、取り敢えず問題は無い人物のようである。
ちなみにこの時、紅川が連絡した“醍醐春海”は紅川が元から持っていた電話番号に掛けたので、T008を使用している千里2である。
花村かほりは引退して郷里に帰っているが、ある理由により、電話番号は分かるので直接電話してみた。
「凄い人ですよ。人脈が広いみたい。公演先でバックバンドが手配されていなかったなんて、とんでもない事件があったんですが、1時間で演奏できる人を呼び出して伴奏者をそろえちゃったんですよ」
「それは凄い」
「交渉能力の高い人でしたね。RC大賞を取った年に、業者が優待券を乱発して実際に来た人が会場に入りきれないことがあったんです。普通ならお帰り頂く所でしょ?でも彼、じゃなかった彼女、せっかく聞きに来てくださったお客さんに申し訳無いと言って、市内の体育館を借りれないかと市と交渉してくださって。予約もしていなかったのに使えることになって、お客さん大移動して1時間遅れの開演になったものの、全員を入れることができたんですよ」
「ハプニングに強い人なんだね」
「そうです、そうです。何があっても決して慌てず、打破する方法を考え出すんです」
それはマネージャーとしてはひじょうに有能な人物だぞと紅川は思った。
「ところであの人、性転換してるんだっけ?」
と紅川は尋ねてみた。
「そのあたりは知ってますけど、彼女の名誉のために秘密ということで。あの人、性欲は適当に処理しているから、仕事上関わった人とは、男性であれ、女性であれ、手を出すことないですから、彼もしくは彼女の性別は気にすること無いと思います。女子更衣室や女湯に入れても問題無いですよ」
「分かった。ありがとう」
女湯に入れるのなら実質女ということでいいのだろう。やはり肉体改造しているのかな?
三條みゆきは消息不明だが、彼女が所属していた、ZZプロのマネージャーで旧知の人物に電話してみた。彼は
「あの人は凄いです。私もだいぶあの人に仕事を習ったし面倒な案件で助けてもらったんですよ」
と言っていたので、評価は良いようである。彼も四谷の緊急対応能力の高さをいくつかの例を挙げて語った。
しかし紅川が電話した人物は現在55歳である。その彼が仕事を習ったって・・・本当は四谷は何歳なんだ!??
興信所の調査では彼女に怪しい交友は無いことが分かる。
医師との結婚生活も大きな問題はなく、病院のスタッフなどにも親しまれていたことが判明した。離婚の原因は夫の浮気で、病院の看護婦と不倫をして離婚に至ったということ。1億円の慰謝料をもらって離婚したようである。結果的に大きな資産を持っているというのもポイントが高い。経済的なゆとりのある人は買収されにくい。
現在お勤めなどはしておらず、株の運用で食っているようである。彼女の昨年の税務申告書類を入手したが、株・FX・仮想通貨で2000万円も利益を得ていた。どうも資産運用の達人のようである。
彼女の借金もふつうにクレカのショッピングの残高程度しかないことが判明している。所有しているゴルフ・カブリオレは300万円でキャッシュで買ったもの、住んでいるマンションは賃貸で家賃は10万円である。億の資産を持っていたらマンションなり一戸建てなり買っても良さそうだが、賃貸の方が気楽、と周囲には言っているらしい。
それで、この際、彼女の年齢と性別は気にしないことにした。能力と資質が高ければ、年も性も関係無い。彼女の体力はまだ20代並みのようである。
そういう訳で7月に入ってから、コスモスと紅川は彼女の採用を決めたのである。7月15日からアクアの夏のツアーが始まるので、その前にマネージャーチームを固めておきたいというのもあった。
7月7日から13日までの一週間を、暫定運用チームから新チームへの引き継ぎ期間とした。
暫定チーム:牛田典子・吉田和紗・川内峰花・津島恭一
新チーム:四谷勾美・緑川志穂・高村友香・吉田和紗!
暫定チームが実際にやってみて、アクアのマネージングは最低でも4-5人必要ということになり、吉田和紗(桜木ワルツ)は結局チームに残留することになった。それに完全に切り替わると引き継ぎ漏れが発生しやすいので、1人は残ったほうが良かったのである。
なお、鱒渕水帆だが、6月くらいになっても“瀕死”の状態から抜け出ることができず、腎臓も肝臓も機能が極端に低下したままであった。むろん退院などとても考えられない。医師は付き添っているお母さんと、毎週1度は来てくれる紅川会長に
「いつ急変してもおかしくありません。覚悟はしていて下さい」
と言っていた。
人工透析も週に2回受けている。水帆の母は水帆の借りていたアパートに住み込み、毎日病院に来てくれた。水帆自身も医者の様々な言葉や、母の行動・表情などから、これは結構重症なのかもと考え始めていた。
アクアも忙しい中、週に2回くらいお見舞いに来てくれて、水帆は感激していた。アクアは仕事であちこちに行った時のお土産も持って来てくれた。現時点では水帆は食事は塩分の強いもの以外は禁忌も無く
「これ美味しいね」
と言って、一緒にお土産のお菓子などを食べていた。
一方今井葉月の方は「お見舞いに行きたいけど時間が無い」と言って、何度か仕事の合間などに電話を掛けてきてくれた。
「あなたアクアちゃんより忙しいみたいだから身体に気をつけてね」
と水帆は葉月に言っておいた。
水帆の仕事を引き継いだ暫定マネージングチームの牛田さんほかのメンツも、よく来てくれていた。
新チームの四谷・緑川・高村はアクアの夏のツアーが一段落した所で来るという話だったが、水帆はそれまで私生きているのかなあと少し不安を感じていた。
ところでこの春、アクアと千里が出会った時(2008年インターハイ)のエピソードが映画化されることになり『アクア2008〜奇跡の邂逅』という映画が制作されていた。アクア自身は出演せず、アクア相当の佐藤翌桧は小学3年生の子役、三次香美ちゃんが演じる。
ちなみにこの香美ちゃんについては、映画公開後
「え?女の子でしょ?」
「うそ。アクアの役だから男の子だと思ってた」
と性別論争を巻き起こす。
ネット上でも本人の同級生の親などと称する人から
「男の子ですよ」
「女の子ですよ」
という双方のツイートがあり、混乱を極めた。
結局、映画のプロデューサー・監督と香美本人が記者会見して
「私、一応男の子です」
と言って、健康保険証まで見せて、やっと議論は収拾した。
「でも可愛い!」
「男になってしまうのはもったいない」
「女の子にしてあげたい」
「アクア2世かな?」
などとネットの反応は暴走気味で、香美ちゃんに着せてあげてといって大量に女の子用の服が送られてきて、女装趣味のない香美は、かなり困惑したらしい。(映画でも女装シーンなどは無い)
この映画では、アクアと同じ事務所の品川ありさが村山千里相当の可能三恵役で出演し、主題歌も歌うことになった。それが
『マイナス1%の望み/アクア・ウィタエ』
である。『アクア・ウィタエ』は葵照子が新たな歌詞を書いた。
この曲の制作は映画制作が一段落した6月中旬に行われたのだが、ここで龍笛を千里本人に吹いてもらえないかという話が浮上する。ありさの音源製作に立ち会っていた秋風コスモスが海外遠征中の千里に電話してみた。
実際に電話を受けたのはコスモスのアドレス帳に入っていた番号の電話を所持している千里2である。千里2は実はアメリカでWBCBLをやっていた。
千里2はヨーロッパで代表合宿中の千里(千里1)のふりをして
「6月13日に帰国して、18日から合宿に入るから、15日か16日なら参加できるよ」
と伝え、結局6月16日にスタジオに行くことにした。
実際には千里2は6月14日に「昨日帰国した」と称して冬子のマンションを訪れ「実はちょっと困っていて」と言っている冬子の相談を受ける。ローズ+リリーが今年制作しているアルバムで、曲が足りないので、青葉と七星が「ケイが書いたような曲を書いてケイの名前で発表しよう」と言って、曲を書いてくれたものの、実際に受け取った曲は、ケイが書いたように見えなかったのである。
千里は、やはり予想通りだなと苦笑し、直接青葉と七星に電話して楽曲の改造許可を取ると2日でその2曲を改造して、本当にまるでケイが書いたような曲にしてしまった。それを千里2は6月16日に冬子のマンションを訪れて渡し、その足でスタジオに向かったのである。
千里2はこの時冬子から、別の相談も受ける。
今年は新しいアルバムは締め切りが厳しいことから埼玉県熊谷市の山林の中にポツンと建てられたものの全く入居者が居ないで放置されているマンションをまるごと借り切って籠もり、短期決戦で集中して制作をしようと思っているのだが、入居者がいなかったマンションというのは霊的に問題が無いだろうかというのである。千里2は現地を見たいと言い、翌日6月17日に最寄り駅で会うことにした。
そして千里2はこの処理を《きーちゃん》経由で千里1に依頼した。
千里1は実は帰国した後、大阪に行って貴司とデートしていたのだが、どっちみち18日から合宿があるので東京に戻らなければいけないしというのでデートを1日早く切り上げて東京に戻り、17日午前中に熊谷駅で冬子と待ち合わせ、現地入りした。
実際の土地を見て腕を組む。
ここは雑霊の溜まり場になっているのである。山林の中に唐突に開拓された土地で、このように“空いている場所”にはそれを埋めるようにモノが集まりやすい。
千里は「いったん引き上げて準備してくる」と称して冬子と別れる。
千里1は《こうちゃん》と《りくちゃん》に命じてこの領域と熊谷市街地を結ぶ道路の途中を遮っている、お寺の結界を部分的に破壊して風穴を開けてしまった。これで土地に溜まっていた雑霊が外に排出されるようになる。
その上で《くうちゃん》に頼んで《りくちゃん》を佳穂さんの所に飛ばし、結界作成用の特殊な合金の珠とその上に植える“無花粉杉”の苗木を4本、セットで購入した。代金の700万円は即現金で支払った。この代金は震災で壊れた寺社の復興用に使われる。「唐本冬子」名義の領収証ももらった!
一方《こうちゃん》には熊谷市内で軽トラを調達させ、《りくちゃん》が出羽から持って来た“結界作成キット”を乗せる。それで再度冬子と落ち合った。
冬子と一緒に現地に入り、土地の四隅に珠を埋め、その上に杉を植えて、人が近づかないように周囲に手摺りも作って囲った。《こうちゃん》と《りくちゃん》が手際よく作業するので冬子は感心していた。
四隅ともきちんとした上で千里はその空間に結界を発動させた。その上で内部の雑霊はふたりに全部処分させてしまう。これでクリーンな領域が完成した。
そういう訳でこの結界を作るのには実費700万円+ふたりの眷属の労賃が掛かったのだが、冬子は費用がよく分からないようだった。こちらが実費の700万円でいいよと言ったので冬子は「1000万円払うね」と言って払ってくれた。それで千里は岩手県の某神社名義の700万円の寄付証明書(兼領収書)を冬子に渡した。「これで少し税金安くなるよ」と千里が言うと、冬子は目を丸くしていた。
千里1はこの処理をした後、後片付けは《こうちゃん》《りくちゃん》に任せて新幹線で東京に戻り、そのまま合宿所に入った。
7月4日、その千里1が超能力者同士の戦闘に巻き込まれて東京駅で死亡する事故が起きる。千里1は死亡直後に小春・青葉・千里2・千里3の連携プレイで蘇生した。蘇生はしたものの、代償は大きく、小春は実質千里の身代わりになるような形で死亡。千里自身、全ての霊的能力を失い、記憶もかなり失い、眷属たちとのコネクションも全部切れてしまった。バスケットの能力も大きく低下し、代表落ちを宣告される。
千里がいったん死亡したことは眷属たちの間に議論を巻き起こす。
彼らは「千里が死ぬまで守れ」と美鳳から命令されている。
千里は死亡した。
だったらこれで自分たちに課せられた命令は終了したからただちに出羽に帰るべきだ、という意見が出たのである。それに対して、千里は生き返ったのだから、命令は継続しており、引き続き千里を守護すべきだという意見も出た。
美鳳に尋ねる手もあるが、実際に尋ねたら美鳳は「命令通りにしなさい」としか言えないだろう。それは美鳳の意志で勝手に原則は変えられない問題である。帰還後に千里守護チームが再度編成されたとしてもメンバーは大半が入れ替えになるだろうし、そもそも彼らが千里から全員離れた場合(一時的な不在ではなく完全分離した場合)、千里がそれを原因として死亡あるいは消滅する可能性もある。
そういった背景もあり「千里は一瞬死んだように見えたかも知れないが、すぐ蘇生したから、外科手術のために一時的に心臓を停めたのと同じで、千里は継続して生き続けている」という主張をする者もあったのである。実際問題として千里はひどい不整脈を抱えており、千里の心臓はわりと簡単に停まる!心臓が停まっても千里が平気で動き続けていて「あ、心臓動かさなきゃ」と言って自分で再起動したりするのは、実は眷属たちの理解を超えている。
議論は収拾がつかず、最終的にはリーダーの騰蛇の決断でこのように決めた。
・3年間待ってみよう。自分たちは数千年の寿命を持っているから、3年は誤差の範囲であり、帰るのがその程度遅れても命令違反にはならない。
・3年間の間に千里が記憶を取り戻し、霊的な能力を取り戻し、自分たちとのコネクションも回復させて美鳳の所に行ったら、美鳳は恐らく自分たち千里の守護チームが継続していることを確認してくれるだろう。
・3年待っても千里が霊的能力を取り戻せなかった場合は、出羽に帰還しよう。(千里は死亡あるいは消滅するかも知れないが、やむを得ない)
そういう訳で眷属たちは、千里とのコネクションが取れないまま、千里の守護を継続することになったのである。
なお、この時点で“千里2”“千里3”の存在を知っていたのは、貴人(きーちゃん)と朱雀(すーちゃん)だけである。貴人は千里2・千里3から示唆されて気付いたし、朱雀は早い時期に気付いていた玲央美から教えられた。勾陳(こうちゃん)や白虎(びゃくちゃん)たちどころか美鳳も全く気付いていなかった。千里分裂の黒幕?丸山アイ(虚空)は勾陳に教えてあげても良さそうなものだが、彼女は「教えない方が面白そう」と思って教えなかったのである。
7月8日(土)、アクアのマネージャーに前日付けで就任した四谷勾美は朝からアクアの住んでいるマンションを訪問した。新しいマネージャーが決まったから明日の朝、仕事の現場への移送を彼女に頼むからと、コスモス社長から連絡を受けていたのだが、実際にやってきた四谷を見て、アクアは顔をしかめた。
「私がアクアの新しいマネージャーになったから、よろしくね」
と言って四谷は名刺をアクアに渡した。
「こうちゃんさん、何の冗談ですか?」
とアクアは口をとがらせて言う。
「実は千里のお世話は2−3年休みになったんだよ。だからしばらく、お前に付いてて色々助けてやるから」
と《こうちゃん》はすぐに男言葉になってしまった。
「鱒渕は流されやすいから充分アクアを守ってやれなかった。板挟みになってストレスを溜め込んだ。俺は簡単にはめげない。お前を守るために全力を尽くす。俺、弁も強いから。海千山千だしさ」
と《こうちゃん》は言う。
アクアはため息を付いた。
念のため《わっちゃん》と直信で会話すると、彼女は
『万一この人が龍ちゃんに変なことしようとしたら私が身をもって守るから、彼の提案は受け入れていいよ』
と言ったので、《こうちゃん》の話に乗ることにした。
「ちょっと自分だけでこれキープしていくのは結構大変だと思い始めていたんですよねー。こうちゃんさんに助けてもらうと、もっとうまくできそう」
とアクアは言うと、居間と寝室の間の障子を開けて声を掛けた。
「出ておいでよ」
それで出てきた2人を見て《こうちゃん》は驚愕した。
「お前ら誰!?」
アクアが3月頃から分裂しはじめ、4月に完全に3人に分かれてしまったということを説明すると、《こうちゃん》は
「人間が分裂するなんて、初めて聞いた!」
と驚いていた。
「しかし3人いるなら好都合だよ。交替でお仕事すれば負荷が半分くらいに減らせる」
「なんで3分の1じゃないんですか?」
「負荷がありすぎて、省略していた部分をきちんとできるからな」
「それって仕事が増えるということでは?」
「歌やセリフの練習とかも充分できてなかったのが、ちゃんとできるようになるだろ?」
「あ、そういうのはあるかも」
「ドラマはMが女役してFが男役すればいいな」
「それ逆では?」
「あ、間違った」
と言ってから
「Mにも時々女役もさせてやるな。女装好きだろ?スカート穿きたいだろ?」
などと言っている。
取り敢えず目の前に迫った夏のツアーは日替わりで歌うことにし、アクア自身が(実は《わっちゃん》と一緒に)練っていた計画表を《こうちゃん》も追認し
「この計画はよくできている」
と褒めていた。
7.15(土)大阪 M
7.16(日)名古屋 N
7.17-20 映画撮影 F/M
7.22(土)沖縄 N
7.23(日)福岡 F
7.24(月)off
7.25(火)広島 F
7.26(水)高松 M
7.27(木)off
7.28(金)off
7.29(土)苗場 F/encore:N
7.30(日)off
7.31(月)長岡 N
8.01(火)小松 M
8.02(水)off
8.03(木)仙台 N
8.04(金)off
8.05(土)札幌 M
8.06(日)東京 F
この“分担演奏”をすると実は予約すべき乗車券・航空券が全く異なる。アクアが1人であれば、例えば長岡→小松→仙台→札幌と移動しなければならないのが、分担しているので、N:長岡→仙台
M:小松→札幌
というチケットになる。その点を《こうちゃん》が指摘したら、全部チケットを自分で取り直したと言って、チケットの束を見せたので「お前ひとりでよくやったなぁ!」と言って褒めた。(実際には《わっちゃん》がしてくれた)
千里2は春に依頼していた上島雷太に関する調査報告を受けた。
上島雷太はこの春に、自分はなかなかフォローができていないから、江戸娘のオーナーを誰か代わってくれないかと言った。それでローズ+リリーのマリが引き受けることになったのだが、その際、深川アリーナを作った時の出資金も肩代わりして欲しいと言った。上島が出資したのは12億円で、これはマリには負担できないので、千里が肩代わりをした。この結果、深川アリーナの運営会社での千里の出資率が46.6%になった(27億÷58億=0.4655)。
千里は上島の資産は数千億と思っていたので、“12億円程度のはした金”の肩代わりを求めるのは変だと思った。それで弁護士に上島雷太の主として経済状態に関する調査を依頼していたのである。
弁護士の報告によると、上島の経済情勢はかなり悪化しているらしい。
・彼の収入を支えていた大物歌手が相次いで引退したり、彼の手を離れて独立したりしていて、大きな収入の柱が無い。
・各地に持っていた別荘も全て売却済み。
・女性関係のトラブルで手切れ金を渡して別れるということを頻繁に起こしている。奥さん(春風アルト)との離婚は時間の問題と言う人もあり、もし離婚した場合は慰謝料は恐らく30億円か50億円ほどと考えられるが、彼はそれを払えないかも知れない。
・黒い噂のある政治家(T都議・S代議士)と頻繁に会っている。
話を聞いた千里2は、この問題は深刻だと考えた。
もし上島が行き詰まり、たとえば破産したりした場合、あるいは女性関係が元になって離婚した場合、一定期間謹慎することになる可能性が高い。しかし上島は現在日本国内で新発売される歌の恐らく2割くらいを1人で書いており、彼の活動が停止すると、楽曲を確保出来ないアーティストが大量発生し、不祥事であれば過去の彼の楽曲も演奏できないという事態になって、演奏できる曲が無く巻き添えで活動停止に追い込まれるアーティストが続出する。
すると中にはプロダクションやひょっとするとレコード会社で倒産に追い込まれるところも出る可能性がある。
楽曲の作り貯めが必要だ、と千里2は思った。
そこで千里2は《きーちゃん》を通じて、作曲ができないと悩んでいた千里1に“埋め曲”の制作をさせてみた。
すると霊感を失っていても、長年作曲活動をしてきたことから、“埋め曲”のレベルの曲なら、わりとスイスイ書けることが分かった。それで千里は新島と会って、
・事故の後遺症で今創造的な曲が書けないが、埋め曲レベルなら書けるので、そういう曲を多く回してくれないか。
・自分の友人で琴沢幸穂という女性がひじょうに優秀な曲を書くので、彼女を使ってもらえないか。
・私自身、このあと海外出張が多くなるので、私と琴沢の共通の友人である天野貴子を連絡役として使って欲しい。
といったことを申し出た。実際に琴沢幸穂が書いた曲を見せると
「いい曲書く子だね!いいよ。じゃしばらくは千里ちゃんはリハビリということで」
と言って、新島はこれを認めてくれた。
それで千里2・千里3の作品を架空の作曲家・琴沢幸穂の作品として出していくことにした。そして自身でもできるだけ多くの作品を書くのと同時に天野貴子こと《きーちゃん》から千里3への楽曲発注量も増やしたのである。
千里2は冬子にも「自分は調子が悪くてあまりいい作品が書けないけど、後輩の琴沢幸穂という作曲家がいい作品を書くので使ってほしい」と言い、琴沢幸穂名義の『フック船長』という曲を見せた。冬子は「この人凄いね!」と言って、この作品を製作中のアルバム『郷愁』に入れてくれた。
そうやって千里は“醍醐春海”が復活するまで、琴沢幸穂を前面に出していくことにしたのである。
千里2は《きーちゃん》にオフィスが必要だと考え、彼女の専用車ホンダ・シャトルの置き場所も兼ねて、北千住に駐車場付きのワンルームマンションを借りることにした。駐車場代込みで家賃7万円である。
千里2は「また住所がひとつ増える」とぶつぶつ言っていた。
ともかくも、新島さんからのFAXや郵便物の宛先もここにしたし、千里1・3からの作品納品もここに設置したパソコンやFAXに送ってもらうことにした。
四谷勾美はアクアのツアーを目前にして、紅川とコスモスに「申し訳無いが、苗字を変更したい」と申し出た。
「四谷は父親の苗字なのですが、その名前だと過去に三條みゆきや花村かほりを担当していたので、そのイメージがつきまとうかも知れません。アクアちゃんは三條たちとは無関係ですし、新しい気持ちで仕事をしたいので、母親の旧姓の山村を名乗りたいのですが」
「ああ、それは構いませんよ。ではすぐ山村勾美の名刺も作らせますね」
と紅川は言った。
彼女はその時点で残っていた四谷勾美の名刺を返却したので、そちらの名刺を受け取ったのは20人くらいに留まり、全員にあらためて山村勾美の名刺を渡した。2度名刺を受け取った人が
「離婚か何かなさったんですか?」
と訊くと、山村は
「いえ、姓転換したんです」
などと言っていた!?
アクアは鱒渕のことについても《こうちゃん》に相談した。これを相談することにしたのは、千里が『こうちゃんのお友だちに凄いパワーを持っている人がいるから頼んでみて』と言っていたからである。
そんなこととは知らない《こうちゃん》は、前任者への挨拶も兼ねて行ってみようと言い、夜中、アクアFを自分のゴルフに乗せて病院まで行ってみた。
《こうちゃん》は鱒渕を見た瞬間、『こいつ後1月ももたないのでは』と思ったが、アクアの手前そういう表情は出さない。あくまで笑顔で
「アクアちゃんのマネージャーをさせて頂くことになりました四谷です。鱒渕さんにはとても及ばないと思いますが、頑張りますのでよろしくお願いします。早くよくなってくださいね」
と言った。それで30分ほど話していたが、鱒渕の方は内心『この人凄いし、物凄くパワフル。女性でここまでパワフルな人って珍しい』などと思っていた。結局この日、鱒渕は四谷の性別には全く気付かなかったのである。
《こうちゃん》は翌週はアクアMを連れてお見舞いに行ったが、その時もまだ鱒渕は四谷の性別には気付かず、普通の中年女性だと思い込んでいた。
千里2と《きーちゃん》は話し合い、千里3を緊急帰国させることにした。あくまで“千里”には日本代表でいてもらわないと、千里のアメリカでの活動、フランスでの活動に支障があるのである。
それで千里2から指令を受けた絵姫は7月12日朝(日本時間では午後)、千里3のアパルトマンを訪れると
「急に申し訳無いのですが、非常事態が起きたので緊急帰国して欲しいんです」
と言った。
「いつですか?」
「今から」
「え〜〜!?でもチームには」
「私が伝えておきます」
「部屋の掃除が・・・洗濯物が・・・」
「私がやっておきますから」
それで絵姫は千里のイビサを運転して千里をマルセイユ空港まで連れて行き、航空券を渡して飛行機に乗せたのである
MRS 7/12 7:10 - 8:40 CDG 13:35 - 7/13 8:20 NRT
成田に着いたらナショナルトレーニングセンターに行って下さいという連絡が入っていたので千里は、やれやれと思いそちらに向かう。数日前に代表落ちさせた千里とはまるで別人にように力強い雰囲気を持っている千里を見た日本代表のスタッフは、すぐに千里を代表復帰させた。
それでこの後、2020年1月までの2年半の間、千里3が日本代表およびレッドインパルスの1軍選手として活動することになるのである。そして千里2はアメリカのWBCBLとフランスのLFBを掛け持ちして活動していくことになる。その間、千里1はレッドインパルス2軍選手“村山十里”(背番号66)として活動を続けるのだが、レッドインパルス関係者は“村山十里”は2017年春の落雷を発端として生じた、村山千里の二重人格と思っていた。それが別人?であることに気付いていたのは佐藤玲央美くらいである。
千里3は日本に帰国した後、そのままナショナルトレーニングセンターでの合宿に入り、7月19日にはアジア選手権のためインドのバンガロールに渡った。インドからの帰国予定は7月31日である。そういう訳で用賀や経堂には全く寄らないままであった。着替えや作曲関係の道具は《きーちゃん》が持って来てくれた。
《きーちゃん》は千里3に言った。
「千里、これまでも時々思っていたんだけど、用賀のアパートって、Jソフトへの通勤には便利だけど、レッドインパルスの練習場最寄りの武蔵中原駅に行こうとすると、溝の口駅で乗り換えないといけないから不便じゃん。南武線沿いに適当なアパートを確保したほうがいい気がするんだけど」
なるほどね〜。そこを私専用の住処にすれば、1番との遭遇確率も減る訳だ、と千里3は内心思ったものの、1番の知らない住処があればこちらも楽である。それで彼女に言った。
「じゃ適当なアパートをインドからの帰国までに見つけておいてくれない?アテンザを置ける駐車場と一緒に。部屋は私ひとり暮らせばいいからワンルームとかでもいいけど、楽器の音を鳴らせるところがいいな」
「了解。じゃ見つけておくね」
「あ、用賀のアパートはどうする?」
とわざと訊いてみる。きーちゃんは一瞬焦った表情をしたものの
「あそこは女装OLの青龍が帰って寝る場所としてそのままにしておいていい?」
と言った。
「うん。いいよ。そうだ、本当の女の子になりたくなった時のために自動性転換機も置いておく?」
と言って《きーちゃん》に箱を渡す。
「どこからこんなものが!?」
そういう訳で《きーちゃん》は千里に擬態して川崎市内の不動産屋さんに行き、津田山駅近くに、駐車場付き2LDK(洋室15m
2+25m
2)のオートロックで楽器OKのマンションを確保した。家賃は駐車場代まで入れて16万円である。
2017年7月18日(火)大安。
千里が千葉市の千城台に建てていた新体育館が竣工した。ここは元々ローキューツが房総百貨店から借りて練習に使用していた体育館が建っていたのだが、同百貨店の倒産に伴い、千里が管財人から適正価格で買い取り、買ったついでに体育館を建て替えることにして昨年から建設工事を進めていたのである。
工事は古い宿舎が建っていたのを壊して、そこと駐車場の土地を合わせて使用して新体育館を建て、その後、旧体育館を崩すという方式で進めてきた。それで新しい体育館が完成したので、この後旧体育館の取り壊しに掛かることになる。
ここで体育館の所有者である千里は“公式”には日本代表の合宿中であり(明日アジア選手権のためインドに発つ予定)、ローキューツのオーナーである冬子はアルバム『郷愁』の制作で死んでいたので、竣工式を取り仕切ったのは、千里の会社フェニックストラインの常務である若葉であった。
《こうちゃん》は鱒渕が今にも死にそうだが、彼女が死ぬと龍虎が悲しむだろうなと思い、虚空が所持している《何にでも効く薬》をくすねてこようと思い、彼女のラボに侵入しようとした。ところが虚空は在室していたので、結局彼女に事情を話し、薬をもらえないかと言った。虚空は
「ボクはそんな女が生きるか死ぬか、知ったこっちゃないけど“ボクのおもちゃ”が悲しむのは見たくない」
と言って薬を渡してくれた。
この薬は日々虚空が改良を続けているもので、以前2013年に《こうちゃん》が使った頃は50%の確率で即死、10%の確率で性別が変わるという代物だったが、現在は即死確率は10%、性転換確率15%程度になっているらしい。
「性転換確率が以前より増えてません?」
「以前って?」
と虚空が訊くので《こうちゃん》は『あわわ』と焦る。
「以前は性転換して死んでいたのが死ななくなっただけかな」
「なるほどー!」
7月27日(木).
高松公演の翌日、《こうちゃん》はアクアNを伴って見舞いにかこつけて病院を訪れるが何だか人が多い。それで鱒渕の家族を医者に病状説明を聞くというので遠ざけ、高村友香に車までCDを取りに行かせ、アクアにも何か用事を言いつけようとした所で、察したアクアNは自主的に席を外した。
《こうちゃん》は鱒渕水帆に尋ねた。
「水帆ちゃん、あんた生きたい?」
水帆は少し考えてから答えた。最初はすぐ退院するつもりでいたのが、なかなか退院させてもらえないし、色々強そうな薬を投与されてむしろ副作用が辛い。自分は死ぬのかも知れないと思い始めていた。水帆は言った。
「生きていたい」
「だったら自分が生き延びていくというイメージを強く持って」
「はい」
「それでこの注射打っていい?」
水帆は5秒ほど考えてから答えた。
「お願いします」
それで山村は水帆の腕に注射をした。
「この薬は本人が強く生きたいという希望を持っていれば症状を劇的に改善する。しかし絶望している人はすぐ死ぬ」
「私は生きたい」
「よしよし。頑張れよ」
ふたりはしばしアクアの女装好きについて楽しく議論した。
(車にCDを取りに行った高村友香はロビーにいたアクアに声を掛けられ、足止めされていたので、水帆と《こうちゃん》は結局15分くらいふたりきりになっていた)
「さて注射はした。後は水帆ちゃん、あんたの生きる意志次第。取り敢えず、即死んだりはしなかったから、回復する可能性が高いと思う。頑張れよ」
「はい」
それで鱒渕水帆は《こうちゃん》と強く握手した。
「そうだ。言い忘れたけど、この注射、15%の確率で性別が変わっちゃうんだけど」
「ちんちん生えて来たらそれで遊びますから問題ありません」
「よしよし」
この夜を堺に水帆の病状は急速に良くなり、極端に機能低下していた臓器が軒並み機能回復していった。医師は驚いたが、自然快復力を促すため薬も軽いものに変更。8月下旬には腎臓機能の回復で人工透析も不要になった。
ところで貴司と千里の毎月のデートであるが。
4月は16日に横浜市内のホテルで密会している。実はその直後にNTCに戻った所で落雷にあって3分裂した。
5月は貴司の代表合宿直前だったので、14夜→15朝に、貴司にプラドを大阪から東京まで運転してきてもらい、デートした上で、そのプラドを桃香・早月の退院に使用した。ここで話をまとめたのは2番だが実際にデートしたのは1番である。
6月は6月14-15日に海外遠征から戻った千里1が大阪に行き、市川ラボで泊まり込みのデートをした。2013年春以来、貴司にとって、千里(せんり)のマンションは阿倍子との家で、市川ラボは千里(ちさと)との家なのである。毎月決めているデートの日以外でも貴司が市川に行けば、高確率で千里と会うことができるし、会えなくても千里は手料理を置いておいてくれる。
一時期は阿倍子あるいは阿倍子に依頼された興信所調査員の尾行を警戒して、市川ラボがバレないようにするため、大阪市内でデートを完結させていたのだが、最近は阿倍子が貴司と千里の関係をほぼ黙殺しているのに乗じて堂々と市川を使用している。市川だと1日中バスケができるので便利なのである。
ふたりのデートの内容の大半はバスケットであり、イチャイチャするのは練習後のブレイクタイムにすぎない。
7月は多忙すぎたのでデートをパスさせてもらったが、アジア選手権を終えて帰国した千里3が8月1日に大阪に行き貴司とデートした。実はこの時、小さな事件が起きた。
8月1日は火曜日で平日だったので、千里は夕方いつものNホテルで貴司と会った。貴司の会社は今年の春から残業が禁止になっているのでふたりは18時に待ち合わせしている。それでホテルのレストランでいつものようにモエ・ド・シャンドンのシャンパンを開けてディナーを食べていたら、そこになんと貴司の会社の社長・田中道宗がお客様を連れてやってきたのである。
「おや、細川君」
「あ、社長」
というやりとりがあった後で、社長は連れているお客様に
「こちらはうちのバスケット部のアシスタントコーチで細川君と言いまして、日本代表に選ばれたり、写真集が出たこともあるんですよ」
と紹介する。
「おお、それは凄い選手がいるんですね」
と60代と思われる客は言った。
「そちらは奥さん?」
と客が訊くので貴司が答える。
「はい、妻です。妻もバスケット選手でして、日本代表を務めていて今年もアジア選手権にインドまで行ってきて、昨日帰国した所なんですよ」
「おお、夫婦そろって日本代表って凄いね。そのアジア選手権は成績どうだった?」
「はい、優勝してワールドカップの出場権を獲得しました。こちらが頂いた金メダルです」
と言って、千里はバッグからメダルを取りだして見せる。
「おお、凄い。ちょっと話さない?」
と客が言うので、貴司と千里は結局、社長と客と一緒にレストラン内の個室に入った。
「今回のアジア選手権は運良く優勝できましたし、ベスト5にも選ばれまして、こちらがその賞状です。ついでにスリーポイント女王も獲得してこちらが賞状です」
と言って、千里はもらってきた賞状を見せる。
「おお、本当に凄い人なんだ!アジア選手権でベスト5って凄いね!だったらワールドカップでも頑張ってよ」
「はい、頑張ります。先生も次の総裁選頑張ってください」
「いや、来年はまだ出馬しないんだよ。今は総理を支えていくつもりだから」
「そうでしたか。でもいづれは総裁、総理大臣ですよね?」
「まあ、そこまで行けたらいいけどね」
と言って“先生”は楽しそうに笑っていた。貴司は千里の言葉からこの客が国会議員のようだと気付き、驚いていた。社長が言った。
「ああ、さすがにこちらの先生のことは知っているね」
「それはもちろんです。元国交大臣のS先生ですよね?」
「うんうん。実はここだけの話、Wペイントの買い取りについて先生に口利きをして頂いたんだよ。実は先生は僕の遠縁の親戚でね」
実際には社長の奥さんの妹の夫の又従兄弟になるらしい。本当に“親戚”といえるのか微妙な関係である。
「そうでしたか。あそこは社長が亡くなって経営が迷走していますけど、良い技術を持っていますから、ぜひ欲しいですね」
と千里が言うので、貴司はポカーンとしている。
貴司はWペイントなんて会社名、聞いたことなかった!
「うん。僕もそう思ってね。うちの会社が買い取れば、新しい技術開発の核になると思うんだよね」
と社長は言う。
この日は夜遅くまで、4人の会話は続いた。その時チラッとその話が出たのである。
「そういえばP先生のご容態はどうなんですか?」
と社長がS代議士に尋ねた。
P代議士は幾つもの大臣を歴任し副総理も務めた人で“政界のドン”とか“キングメーカー”とも言われているが、Sは彼の女婿なのである。
「ここだけの話だけど、もう長くない。既にもうほとんど意識が無いんだよ。恐らく1〜2ヶ月の勝負だと思う」
「そんなにお悪いんですか?」
「誰にも言うなよ」
とSが言うので、千里も貴司も無言で頷いた。
しかしこの瞬間千里(千里3)は“上島事件”を予測してその対策を始めることにしたのである。
この夜は0時頃にレストランでの会談は終了した。Sが酔ってきたのか下ネタを連発するので千里は内心閉口したものの、笑顔でそつなく対応していた。最後は田中社長は別途呼び寄せた和服の女性に付き添わせ、何やら重そうな紙袋を渡し、ハイヤーに乗せて代議士を送り出した。おそらく性的な接待をさせるために手配していたのだろう。紙袋はおそらく5000万円程度の現金と見た。
でも立つのかなぁ〜?などと千里(千里3)は思った。
結構な年だし、かなり酔っていたし!
「あ、そうそう。今夜のことは他言無用でね」
と社長は言ったが、貴司も千里も
「もちろんです」
と言った。
他言しなくても自分が利用するのはいいよね!?
アメリカのWBCBLに参加していた千里2は、8月6日のプレイオフ決勝戦を見学した後、日本には戻らずそのままフランスに渡り、マルセイユ・クラブの練習場に顔を出した。ここに先月まで参加していたのは千里3なのだが、千里2は同一人物のような振りをして
「良かったらこちらに正式参加させて下さい。就労許可を取ってきました」
と言って、絵姫がフランスで、きーちゃんが日本で、並行して手続きを進めて取得した書類を見せた。
「おお、これで今季は順位2つはあげられる」
と言って、千里2はチームメイトに歓迎された。
「シャルロットは第六の女(*1)確定」
とキャプテンのオリビエが言うので、シャルロットは
「アァ・ノン!」
などと言って頭を抱えている。でもすぐに
「シモーヌを叩き落とそう」
などと言っている。
「第六の男でもいいけど」
「男よりは女がいいな」
(*1)バスケットで第六の男(女) sixth man(woman), sixieme homme(femme)というのは、勝負所に投入されて活躍するスーパーサブのことで、器用で勝負に貪欲な選手、しばしばスターターよりも能力の高い選手が務めることがある。多くのチームで出場時間はスターターと同等か、かえって長い場合もある。WNBA シアトル・ストームのSG アレクサンドリア(“アリー”)・キグレーなどは第六の女として活躍した。
ここでキャプテンは「スターターから落選」という意味で使っているが、こちらの意味での「第六の女」というのと掛けてこの言葉を使用している。
「キュー、アジアカップの金メダル見せてよ」
とチームメイトが言うので、内心焦りながらスポーツバッグから取り出して見せる。
「オー、オー (O! or! おぉ金だ!)」
といって、いっぱい触られた!自分の首に掛けてみたりしている子もいる。フランス、スペイン、イタリアあたりはだいたいこんなノリだが、千里はこういう雰囲気が好きである。
もっとも千里2は本当は自分が取った金では無いので、やや後ろめたい気持ちがあった。この金メダルは《きーちゃん》が作ってくれたコピーである。
ともかくもそれで千里2はあらためてマルセイユ・クラブと選手契約を結び、千里2もプロ女子バスケット選手となった(給料は千里3がレッドインパルスからもらう給料より高い!)。
7月4日にいったん死亡したものの蘇生した千里1は、白虎・千里2・千里3・青葉・羽衣・虚空らの“修復”作業で少しずつ身体機能と精神力を回復させていくが、この時点では、千里1が霊的な能力まで回復できるかどうかは、修復に参加している者たちの間でも「五分五分」かなと思われていた。
眷属たちは精神的なリハビリの一環として、千里1をJソフトでの営業的な打合せに出席させるが、そこで川島信次という男性と知り合う。信次は実は同性愛者だったのだが、千里に何か不思議な魅力があるのを感じ取り、彼としては珍しく女性なのにアタックしてくる。千里1はこの時期、桃香にうまく教育されていて、自分はレスビアンであると思い込んでいたので、男性からのアプローチに困惑し、はぐらかせていたが、とうとう信次は千里にプロポーズした。
困った千里は上司にも相談した上で、自分が性転換者であることを打ち明ける。しかし信次はそれでもいいといってあらためて結婚を申し込む。そんな結婚は信次の親が認めるわけないと言った千里であったが、信次の母というのが、元々の千里の知り合いであったことから、この結婚は承認されてしまう。それで千里は結婚を断る理由が無くなってしまい焦った。
桃香に状況を説明すると桃香は激怒したが「1年後に離婚して自分の所に戻ってくること」という条件!?で桃香は千里の結婚を承認した。
結局、2017年9月16日、千里1は川島信次と婚約した。そして17日朝7時、朋子と青葉に電話で伝えた。朋子は千里を祝福したが、青葉は困惑した。
千里(実は千里2)は昨日(16日)、青葉といっしょに金沢市内で「タクシーただ乗り幽霊」の処理をしていたのである。青葉が困惑したのは、そんな話があったのなら、なぜ昨日その話をしなかったのかということ、また千里は細川貴司さんのことが好きだと思っていたのに唐突に他の男性と婚約と言われて納得できなかったこと、また実際電話越しに千里と話していると、千里はこの結婚に積極的とは思えず「だって向こうが熱心だったから」とか「お母さんに気に入られて」など、言い訳めいた事ばかり話した。それで青葉は言った。
「私はこの結婚に賛成できない」
それで青葉は電話を終えた後、そのことで朋子とも言い争いになってしまう。
朋子から諭されたものの納得出来ずに自分の部屋でムカムカしていた青葉の所に10時頃、また千里から電話が入る。
「昨日そちらから帰る時、免許証とか財布とか入ったバッグを忘れてきたみたい」
「待って。確認する」
千里が使っていた(桃香の)部屋に行ってみると、確かに千里のバッグがあり、中に免許証やパスポートに大量の現金などが入っている。
「ちー姉、今どこ?」
「今、東部湯の丸SA。御飯食べようと思ったらバッグ持ってないことに気付いて。免許証も無いから身動きできなくて」
「まだ東部湯の丸なの!?」
「うん。ここで車中泊してたんだよ」
青葉は頭の中が混乱した。さっき「婚約した」という電話をしてきた千里は東京の用賀のアパートから掛けてきたのである。今朝東京にいたはずの千里がなぜ今まだ東部湯の丸に居る?その時青葉は、ずっと違和感を感じていた理由に思い至る。千里は昨日婚約したと言ったけど、昨日は丸1日自分とタクシータダ乗り幽霊の対処をしてたじゃん。その千里が東京で婚約などできる訳がない。
青葉は何か自分の理解出来ないことが起きているのを感じ、千里のバッグを持って自分のトヨタ・アクアに乗り北陸道・上信越道を走って東部湯の丸に行った。到着したのが9月17日14時頃である。
東部湯の丸で“千里”と会った青葉はその千里が今朝婚約したと電話してきた“千里”とは別人であることに気付いた。そのままふたりは東京まで走り、千里は葛西のマンションに青葉を招待する。
「こんな所にマンション借りていたなんて」
「青葉と出会う1ヶ月くらい前、2011年1月末のことなんだけど、日本代表の活動で海外に行ってて帰国してみたら、アパートが大雨で崩壊していたんだよ」
「ああ、それは聞いた気がする」
「それで取り敢えず桃香のアパートに同居させてもらったんだけど、すぐに代りの部屋を不動産屋さんに探してもらって、それで契約したのがこのマンションだよ。状況が状況だったから、礼金とか無し」
「へー。でもなんか凄い場所だね」
と言いつつ、青葉は落ち着かないようである。
「前の住人さんは自殺している」
青葉は顔をしかめた。
「ちー姉も桃姉もそんな物件ばかり借りるんだから!」
桃香が大学・大学院の6年間暮らし、千里も後半4年間同居したアパートも前の住人は自殺している。
「でもだから本来の家賃5万円の所を2万4千円にまけてもらった」
「なるほどー」
「霊道が2本クロスしてるからね。まあふつうの人はすぐ出るか死ぬかだよね」
「この部屋だけ強力なシェルターになってる」
「他に住人がいないから夜中に楽器を鳴らしても苦情が来ない」
「まあ苦情を言う“人”は存在しないよね」
それで千里は4月に落雷に遭った時、自分が3人に分裂してしまったことを語った。便宜上1,2,3と呼んでいて、自分は千里2であることを語る。
「7月の事故で死亡して蘇生したけど霊的能力を失い、身体能力も激落ちして日本代表から落とされたのが千里1、代わって日本代表入りしたのが千里3」
「あの急激な回復は実はそういうことだったのか」
「川島信次と結婚しようとしているのも千里1だよ」
「ここにいるちー姉は、貴司さんのことが好きなんだよね?」
「もちろん」
と言って、千里(千里2)は貴司からもらった豪華な婚約指輪を左手薬指に填めているのを見せる。
「3番とも会ってくるといいよ」
と千里2が言うので、青葉は自分のアクアで、川崎市内にあるレッドインパルスの練習場まで行き、千里(千里3)と落ち合い、その後、一緒に遅い夕食を取る。
その会ってみた千里3は
「言い忘れてたけど、川崎市内にマンション借りたんだよ」
と言って、住所を教えてくれた。
千里が“手書きのメモ”をさっと青葉に渡したことで、この“千里”はある程度の霊感があるようだと青葉は思った。
その日必要になるものが分かって、全部用意しているというのは千里が元々持っている能力である。タクシー幽霊への対処で千里2がその能力を持っているのは分かっていたが、桃香の話などを聞いていると、千里1はその能力を失っているようだ。早月ちゃんの予防接種に出かけて雨が降ってきて困ったという話を聞いた。看護婦さんが傘を貸してくれて助かったと言っていたが、たぶんその“看護婦さん”というのは千里姉を守護している眷属だろう。
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【△・第3の女】(3)