【△・落雷】(1)

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アクア(龍虎)は、新曲の吹き込みに、4月から放送『ときめき病院物語III』の撮影に、そしてその合間にバラエティ番組などの撮影、雑誌のインタビューなどと大忙しの春休みであった。4月から高校通学の関係で東京北区のマンションで一人住まいをするのだが、その引越の作業もままならない。
 
「身体が3つくらい欲しい!」
と龍虎は叫んでいた。
 
結局引越作業は両親と、親友の彩佳・桐絵、それに男手もないと大変だろうと言って手伝ってくれた中学の同級生、西山君らの手で進められた。ついでに膨大な量の衣類も整理した。
 
「サイズの合わないのは捨てていいよね」
「うん。どんどん廃棄」
「穴の空いている服とかも」
「廃棄で」
「男物の下着は全廃棄しちゃわない?」
「ああ、男物は要らないよね」
 
などと、彩佳たちは勝手に荷物の仕分けをしていた!
 

2017年3月25日、東京方面に来ていた青葉は、金沢プールで飛び込みをした中学生が足を骨折する事故があったと聞いてびっくりし、水泳部の友人・杏梨に電話した。
 
「いや、こちらもびっくりした。でも足から飛び込んだので良かったよ。これ頭から飛び込んで事故起きてたら死んでたもん」
 
「ほんとだね。でも出来たての新しいプールなのに。水深が浅すぎたのかな?」
 
金沢市ではこれまで「金沢市営総合プール」という所がメインのプールとして使用されていたのだが、昨年新しく「金沢プール」というのが完成し、東京五輪の選手の事前練習地などにも指定されている。青葉たちはふだんは学内のプールで練習しているが、市のプールに行くこともある。
 
「あ、いや、事故が起きたのはプールじゃないのよ」
「え?」
「飛び込みトレーニング室といって、水を使わずに走高跳びとかで使うようなクッションをたくさん入れている所に飛び込むようになっているのよね」
 
「不思議なものを作るね。それどういう意味があるんだろう? 水を満たせばいいのに」
「溺れる心配無くていいんじゃない?」
 
「うーん。じゃそのクッションが足りなかったのかな?」
「おそらくそうだと思うよ。シミュレーション計算が甘かったのか、指定通りの量のクッションが入れられていなかったのか」
 
「でもほんと足で済んで良かった」
「怪我した中学生は数ヶ月入院することになるんじゃないかという話だけどね」
「今シーズンは完全に棒に振ってしまうね」
「全く、気の毒だよね」
 
(この事故は実際にはクッションの量の問題ではなく、そもそも飛び込み練習場の底面にマットを敷いていなかったという、根本的なミスが原因であった、つまりコンクリートが露出していた)
 

電話を切った青葉に彪志が言う。
 
「よく飛び込みとかやるよなあ。俺はとてもできん」
「スキーのジャンプとかもしたことない?」
「その系統はダメだ」
「ジャンプも飛び込みも楽しいのに」
 
「そういえば、こういうアメリカンジョークがあってさ」
と彪志は言った。
 
「スカイダイビングするのにパラシュートを買って、客がパラシュート屋さんに『これ故障とかしたりしないよね?』と訊いたら『うちで買った客から故障のクレームは今まで一度も無いよ』と言われたんだって」
 
「こわいなあ」
と言って青葉は笑う。
 
「でも似た話知ってる。エッフェル塔からパラシュート無しで飛び降りるっていうパフォーマンスをしてるんだって」
 
と青葉が言ったところで
 
「但し飛び降りる奴は毎日違うんだろ?」
 
と彪志が言って、ふたりとも笑った。
 

2017年3月。青葉は水泳部の方は普通にサボって!、東京方面に頻繁に出て、アクアの楽曲の製作などの作業、フェイや桃香の妊娠のメンテナンスなどをしていた。フェイは3月3日に帝王切開を実行したので、その後の母子のメンテナンスもしていた。その他に、冬子(ケイ)から色々相談事をされるし、政子(マリ)から遊びに付き合わされるし、桃香に御飯作ってと言われ、その隙間時間に彪志と愛の確認をしたりと、本当に忙しかったのである。
 
青葉は東京方面に来ている最中は大宮の彪志のアパートに泊まっている。たまに桃香のアパートにも行って、買い出しや食糧ストック作りなどもしていた。
 
東京との往復の交通機関はだいたい新幹線か飛行機であるが、タイミングによっては車で往復することもある。高岡から東京に出てくる場合、だいたい妙高で小休憩、東部湯の丸で仮眠した上で、上里で朝御飯を食べる感じになる。
 

その日も東部湯の丸SAで夜食にカレーを食べてから車に戻って仮眠した後、トイレに行ってから出発しようと思ったら、近くに駐まっている赤いアテンザの所で何か揉めているようだ。車のボンネットを開けて25-26歳くらいの女性2人が何か話している。
 
赤いアテンザといったら、千里姉の車もそうだよなぁと思い、そちらを見ると声を掛けられた。
 
「すみません。うっかりバッテリーあげてしまったんですが、救援とか頼めないですよね? ブースターケーブルは持っているのですが」
 
姿形は女なのに声が男だったので『おっ』と思ったものの、そんな気持ちは表には出さずに普通に会話する。
 
「バッテリーあがりですか! でも私、ハイブリッド車なんですよ」
「ハイブリッドかぁ!残念」
 
「お役に立てなくてすみません。JAFは入っておられます?」
「こないだ切れちゃったんだよねぇ」
「あらら」
 
「やはりこんな夜中に詳しい人も通らないよ。素直にJAF呼ぼうよ」
ともう1人の女性はふつうに女声で話している。
 
「でもこんな夜中だと、JAFが来るの自体に時間が掛かるし」
「お急ぎなんですか?」
 
「この子が明日9時から八王子の会議に出席しないといけないので。それを私が送って行く所だったんですよね。うっかりライト点けっぱなしにして駐めていて」
と男声の方の女性。
 
「ああ」
「ごめんねー。私がHしようと言ったから」
などと女声のほうの女性が言っている。
 
「いや、私が不注意だったのが問題で」
と男声のほうの女性が言う。
 
あぁ・・・カップルだったのか。しかし人前でよくHのどうのと言うな、と青葉は思った。
 

「あのぉ、もし1人だけ急ぐというのなら、私の車に同乗されます?私、朝9時に青山に行くので、その前に八王子に寄ってもいいですよ」
 
「ほんと!?」
 
「それ助かるかも」
「だったら、エツコ、乗せてもらいなよ。私は誰か救援してくれそうな人が来るのをしばらく待ってみる」
 
「うん。そうしようかな」
 
それでトイレに行って来た後で、そのエツコさんという女声の女性を乗せて、青葉は先に進むことにしたのであった。
 

青葉はエツコさんに寝ていていいですよと言い、彼女もそれじゃ遠慮なくと言って、実際後部座席でしばらく寝ていたようである。
 
軽井沢付近で濃霧が出ている所を慎重に運転し、もう富岡ICもすぎたあたりで彼女は起きた。
 
「でも済みませんね。ご迷惑お掛けして」
「こちらもガソリン車なら、救援できたんですけどね〜。ハイブリッド車は救援するのもされるのも難しいみたい」
 
「だけど、これだけ技術が進歩しているのに、どうしてバッテリー切れなんて起きないようにできないんでしょうね」
と女性は、やや無茶なことを言っている。
 
「うーん。切れてしまうものはどうにもならないと思いますが。無くなる少し前に警報とか鳴らす手はあるけど、車から離れていたら気付かないし」
 
「でも例えば、一定水準まで行ったら、自動的に全ての電源を落とすようにしていたら、防げるんじゃないですかね」
と彼女は言う。
 
青葉は、この人わりと頭いいのかも、と思った。
 
「ああ、その手はありますね」
「私が中学生頃に使っていた電気カミソリとか、予備の1回分の電気が蓄えられていたんですよ」
 
電気カミソリ??この人が使っていた???
 
「あ、その設計は面白いですね」
「電気カミソリも、よくバッテリー切れやっちゃうんですよね。それで肝心の時にヒゲを剃れなくて」
 
ヒゲを剃る?この美女が??
 
「私は使ったことないけど、確かに男子の同級生からそんな話聞いたことはありますね」
と青葉も言う。
 
「ところがその私が使っていた電気カミソリはバッテリー切れになっていても、予備電気使用のボタンを押すと、1回ヒゲを剃るのに必要な程度の電気が利用できるようになっていたんですよ。それで使ってから今度はちゃんと充電すればいいんですよね。私もそれで何度か助けられたことあるんですよ。それでああいうシステムを自動車にも付ければいいのにと思ったんですけどね」
 
「いや、それは自動車会社に提案したいようなシステムですよ」
 
と青葉は答えたが、なぜこの人がヒゲを剃る必要があったんだ〜?と悩んでしまった。
 

青葉が上里SAに駐めて、彼女と一緒に朝御飯(お金はエツコさんが払ってくれた)を食べていた時に、やっと連れの女性(?)から連絡があり、親切な人に救援してもらったということであった。
 
「今の時間まで掛かったのなら、結局最初からJAF呼んでても変わらなかったんじゃないかなあ」
などとエツコさんは言っていた。
 
「まあでもJAFの会費、けっこうするし」
「そうなのよね〜。それでもったいないからって期限切れで更新しなかったんだけど」
「使わないからと思って退会した途端、必要になったりするものですね」
「それ何と言ったっけ? マーシーの法則?」
「マーフィーの法則かな」
「あ、それそれ」
 

青葉は3月3日にフェイの帝王切開に立ち会った後、そのまま一週間ほどフェイ母子についていて、千里が3月11-12日に東北支援ライブに出るのに仙台まで行ってくる間も東京で彼女たちのメンテをしていた。そして13日に千里が東京に戻ってから、いったん高岡に戻った。そして次は3月19日に東京に出てきた。
 
千里が今度は3月19-21日に前橋で全日本クラブバスケット選手権に、40 minutesのオーナーとして出席するので、その間千里に代わってフェイのメンテをする目的もあったが、今回の主たる目的は3月22日にアクアの新譜が発売されるので、その発売記者会見に作曲者・プロデューサーとして出席するためであった。
 
フェイはまだ出産後1ヶ月くらいまでは目が離せない状況なのだが、このように青葉・千里の双方が病院を離れている場合は、青葉は笹竹や小紫などの眷属をそばに置いておいて、何かあった場合は緊急呼び出ししてもらうことにしている。千里姉は何もいわないが、たぶん千里姉も眷属をそばに置いているのだろう。
 
アクアの記者会見はアクア、コスモス、青葉(大宮万葉)、千里(醍醐春海)、三田原課長、およびアクアのバックバンドのエレメントガード、および数名の追加ミュージシャンとともに行った。
 
しかし5人の内、性転換者が3人・男の娘疑惑のある子が1人というのは凄い!
 
会見が終わった後は、アクア・コスモス・青葉・千里の4人で冬子(ケイ)のマンションを訪れた。するとそこにスリファーズの3人も来訪した。3人はC学園の出身で、アクアが今度入る高校の先輩にもあたるので、しばし高校のことが話題になった。
 

またシリーズ3年目に突入する『ときめき病院物語III』についても話題が出た。
 
このシリーズでは、院長の子供、佐斗志・友利恵の兄妹と、院長の友人の子供、純一・舞理奈の兄妹が居て、各々の兄が各々の妹とラブラブという設定になっている。純一は岩本卓也(1995生)、舞理奈は馬仲敦美(1999生)が演じるが、佐斗志と友利恵はいづれもアクア(2001生)が演じている。
 
最初の年は、純一が高2、佐斗志が中3、舞理奈が中2、友利恵が中1という設定であったが、2年目は各々高3・高1・中3・中2となり、今年は更に1つ進んで、大1・高2・高1・中3となる。
 
「純一君は順調に大学生になれるんだ?」
「まあどこかの大学に滑り込んだという設定で」
「純一君、あまり勉強しているような描写が無かったもんなあ」
 
「でもアクアの佐斗志と友利恵は高2と中3か」
 

「それでこんなの出るんですよ〜。恥ずかしい」
と言って、写真集を取り出す。
 
千里・冬子・政子に1冊ずつ渡す。《謹呈》というシールが貼られている。
 
「葵照子先生の所にはあらためてお持ちしますので」
と言っているが、
 
「頻繁に会うから、私が渡しておこうか」
と千里が言うので
「でしたら、済みません。これを」
と言って、アクアはもう1冊、千里に渡した。
 
「きゃー!可愛い!」
と政子がはしゃいでいる。
 
「佐斗志・友利恵写真集か・・・」
 
「こんなのいつ撮影したの?」
と冬子が訊く。
 
「実は番組のスティルなんですよ」
「なるほどー!」
 
「ただしテレビ放送時には削除された場面からのスティルもあるので、初めて見るカットもあると思います」
 
可愛いアクアと格好良いアクアが詰まった写真集である。
 
「佐斗志と友利恵が肩組んでいる写真もある」
 
「それ実際には西湖ちゃんと肩組んで2回撮って合成したんですよ」
「なるほどー。アクアが2人に増殖したわけでは無いのか」
「増殖なんて無茶な」
「どうせなら女の子と男の娘に別れるといいね」
「男の子じゃなくて男の娘なの!?」
 
「友利恵ちゃんが佐斗志の高校の女子制服を着ている写真もある」
「それ友利恵が未来の自分を想像するシーンに使われたんですよね」
「ああ、あそこか!」
と政子が言っている。
 
「なんか佐斗志君の写真より友利恵ちゃんの写真の方がずっと多い気がするんだけど」
と冬子。
 
「そうなんですよ。半々くらいにするからと言われたのに」
と龍虎は文句を言っている。
 
政子は
「私は友利恵の写真だけでいいけどなあ」
などと言う。
 
「でも女装の写真集なんて恥ずかしくて恥ずかしくて」
と龍虎が言うので
 
「何を今更!」
と冬子にまで言われていた。
 

コスモスが
「龍ちゃん、何なら、水着写真集も出しちゃう?」
などと言っている。
 
「それどっちの水着なんですか?」
「男子水着の佐斗志君と、女子水着の友利恵ちゃんで」
とコスモスが言うと
 
「ぜひぜひ、友利恵ちゃんの水着姿だけで」
などと政子が言っている。
 
「えー?どうしよう?」
などと龍虎は言っている。
 
「まあ男子水着姿も、女子水着姿も『時のどこかで』で披露しているけどね」
と千里。
「あれ、うまく乗せられちゃったんですよ」
と龍虎。
「一度やっているんだから、もう恥ずかしいことないよ」
と政子は言っている。
 
「あれはスクール水着だったけど、今度はビキニになろう」
「おっぱいないから無理です」
「いや、胸の無い男の娘の水着姿って、けっこう出回っているけど、割と可愛い」
と政子。
 
「最終的に女の子になっちゃったけど、世界一美しい男性モデルとか言われたアンドレイ・ペジック(Andrej Pejic, 現アンドレア・ペジック Andreja Pejic) とかもそんな写真があったね」
 
と千里は言う。
 
「あの人凄い美人ですよね。ボクでさえ、この人、男のままでいるのもったいないって思いましたよ」
と龍虎。
 
「世間ではアクアも男になってしまうのはもったいないから、ぜひ女の子にしてあげたい、と言われているのだが」
と政子。
 
「そう思ってもらうのはありがたいですけど、ボクは女の子になるつもりはないので、すみません」
と龍虎は笑顔で政子に言った。その時の言い方が、以前のように少し迷いのある感じでは無かったので、やはり男としての意識が芽生えてきたのかな、と青葉は思ったが、同時にちょっと寂しいような気もした。
 
別にこの子を性転換したいわけではない・・・と思うけどね!
 

「でも今回から、佐斗志の声はこれでやりますしね」
と龍虎は男声で言った。
 
「声の出し方、かなりうまくなったね」
と冬子が言う。
 
この声は1月8日深夜に安曇野の温泉宿に集まった時に、冬子たちには初公開したものである。
 
「え?アクア、声変わりしちゃったの?」
と政子が驚いて言う。
 
「声変わりはしてません。でも練習して男の子みたいな声も出せるようになったんですよ」
と龍虎は普段の声に戻して言っている。
 
「コスモスと支香さんが発案したことなんだよ。声変わり前からこの声を使っていて、声変わりした後も女声を使っていれば、結局いつ声変わりしたのか分からない。男性アイドルの人気って、声変わりを境に崩壊的に小さくなるから。それを曖昧にしちゃおうということなんだよね」
と冬子は説明する。
 
「会社勤めの男性がYシャツをブラウスに、靴下をストッキングにって、服装を少しずつ女性化させていけば、いつの間にか女性会社員になってしまい、いつ女の服装になったのか曖昧になるというものかな」
と政子。
 
「それ、挑戦中の人が結構いると思うけど、キュロットをスカートに変えた時点でだいたい文句言われる」
と千里が言っている。
 
「でもまあそれに近い話だよね」
「済し崩し変声作戦というんです」
と龍虎。
 
「そういう意味では『ときめき病院物語』は男女双方の役をするから、うまい両声披露の場だよね」
 
「ええ。そう思います。元々ボクが佐斗志と友利恵の2役になったのは神田ひとみさんの降板からきた緊急処置だったので、2年目からは友利恵役は別の女優さんを当てる予定だったんですけどね。何か友利恵役はアクアちゃんから変えないでという葉書とか電話とかが凄まじい数あったらしくて」
と龍虎が言うと
 
「当然だよ。佐斗志役を降りて友利恵役だけになるならいいけどね」
と政子は言う。
 
「あの番組、ずっと毎年やるの?」
「まあ視聴率次第ですね」
 
「今の所20%前後で安定しているみたいだから、今のままなら5〜6年続くかもね」
「龍ちゃんが高校卒業する頃まで続いてくれると、まさに変声期曖昧化作戦成功になる可能性あるけどね」
「いや、金曜8時台でこれだけの視聴率を稼いだドラマは多分金八先生以来じゃないのかなあ」
「三崎京輔さんの人気が凄いですからね」
と龍虎は言うが
「いや、アクアの人気が凄いからだよ」
と政子は言う。
 
三崎京輔さんは中年のおばさまたちに絶大な人気があり、一応彼がこのドラマの主役である。アクアが映る時間はそんなに長い訳ではない。
 
「うちの社長はあの番組が終わってしまった場合は、またボクが男女二役やるドラマを企画するって言ってました。女盗賊とそれを追う男刑事の二役というアイデアもあるとかで」
 
「キャッツアイ!?」
 
「あ、そういうドラマがあったんですか?」
「漫画だけどね。アニメにもなったよ。でも古い漫画だよ。龍ちゃんのお父さんが生まれて間もない頃じゃないかな」
「わあ、そんな昔ですか」
「でも名作だね」
 
「それも楽しみだなあ」
と政子は言ってから
 
「内海刑事は他の人で、アクアは瞳役だけでもいいけどね」
と付け加えた。
 

「ね、ね、これ凄くない?」
と言って、その日マリは青葉にテレビを見せた。
 
何でも今アメリカで話題になっている手品師でレフ・クロガーという人のショーらしい。
 
「何です?これ!?」
と青葉は顔をしかめた。
 
手品師が美女を箱に入れて大きな刀を出し、首の所とお腹の付近で箱ごと切断する。すると3つに分かれた身体が各々勝手に動き始める。
 
スカートを穿いた下半身はそのまま左手に走って行くし、胴体は胴体で両腕を使って右手へ移動して去る。そして残った首には小さな足のようなものが生えて「きゃー」などと悲鳴をあげながらステージ上を走り回る。その人間の頭だけが走り回っている様を青葉は、物凄く気持ち悪く感じた。
 
その頭もそのうち左手に走り去っていった。
 
「あまりにも真に迫っているから、彼のショーでは気絶して搬出される人が後を絶たないんだって」
と政子は言っている。
 
「いや、今のは私自分ちで見ていたのなら、即テレビの電源切ってましたよ」
と青葉は言った。
 
「私もこの人のショーは気持ち悪くてとても見ていられない」
と冬子も言っている。
 
「だけどこれ本当に手品なんですかね?」
と青葉は言う。
 
「さすがに本当に人間を切断している訳はないから、手品なんじゃないの?」
 
と政子は言う。
 
しかし青葉は首を切断された時に、箱に入っていた美女が、とても演技とは思えないほどの凄まじい形相を示したのが気になった。
 
「そうそう。クロガーは6月下旬から7月上旬に掛けて来日公演するらしいよ。全国10ヶ所でショーをするんだって」
と政子。
 
「不思議な時期にやりますね。夏休みにやった方がお客さんたくさん来ると思うのに」
「その時期は本国で稼ぐんじゃないの?」
「なるほどー」
「去年1年間でアメリカ国内で30万人動員したらしいし」
「それは凄い」
 

その日《千里B》は困惑していた。
 
「そういう訳で4月1日付けで君を係長にするから、よろしく頼む」
と言って専務から辞令を渡された。
 
「あのぉ、私が先日出した退職願は?」
「ああ。あれは却下」
「でも私、今年も日本代表に選出されたので、たくさんお休みすると思うんですが」
「うん。それは構わない。合宿や大会に掛かってない範囲でよろしく」
と専務は言った。
 

「もう職場放棄して逃亡しようかな」
などと文句を言いながら、《千里B》はその日もいつも行っている茶道教室に出かけた。
 
和服を着てお茶の作法をしていると、やはり心が落ち着く。これ千里本人にもやらせてみたいなあ、あの子忙しすぎだよ、と《きーちゃん》は思っていた。
 
この日は教室が終わった後、やはり常連の川島康子さんからコーヒーでも飲みましょうよと言われて、それにも付き合った。川島さんのことを《きーちゃん》は最初てっきり教室の先生と思い込んでいたのだが、実は生徒さんだった。彼女は華道と着付けの免許を持っているものの、茶道は免状を持っていないらしい。
 
「このコーヒー美味しい」
と《きーちゃん》は言った。
 
「最近は機械で自動で入れるコーヒーを出すカフェとかばかり流行ってて、こういうしっかりした淹(い)れ方をする店が無くなってしまったよね」
と康子さんは言う。
 
「でもホントにあなた、和服の着こなしが素敵ね。今日は化繊の“お召し”で来たのね」
「ええ。でもこれが化繊と気付くのがさすが康子さんですね」
「凄く絹っぽいけど。シルックだよね?」
「そうなんですよ。安くていいですよ」
 
その日は康子さんが珍しくふたりの息子のグチを言っていた。
 
「兄ちゃんの方はしょっちゅう女の子引っ替え取っ替えで」
「もてるんですね」
「弟の方は、逆に全然女の子の影が無いのよ」
「まじめなんですね」
 
「どちらもそろそろ結婚して欲しいんだけどねぇ」
「まあ最近は結婚遅い人も多いですし。おいくつでしたっけ?」
「上が32で下が30なんですよ」
「でも最近は30歳過ぎてから結婚する人も多いですね」
「そうみたいですね〜」
 
そんなことを言いながら、康子さん自身も65-66歳に見えるし、遅くできた子供なんだな、と《きーちゃん》は考えていた。
 

田代龍虎は4月1日(土)、東京北区のC学園高校で入学式に臨んだ。
 
出がけに
「男物のボクサーパンツが見つからない!」
と騒いでいたら、母から
「どうせ男物なんて付けない癖に」
と言われた。結局レースたっぷりのシルクのパンティを穿いてきている。上も男物のシャツが見当たらないのでベージュのキャミソールを着てきた。
 
ここは中学と高校が一体化しており、基本的には中高一貫教育が行われているが、中学は2クラス、高校は3クラスで、1クラス分だけ高校から入学する生徒がいるのである。龍虎もその高校入学組である。
 
中学・高校で共用する体育館が校内に3つあり、一番大きなのがグラウンドのそばに立っている鉄骨造りのもので、各種行事や発表会の類いにもこれが使用されることが多い。この体育館は《黄金》と呼ばれる。
 
次に特別教室棟の地下に造られた体育館がある。バスケットとバレーのラインが引かれていて、屋内球技の体育の授業や、バスケット部・バレー部の練習で使用される。この体育館は《乳香》と呼ばれる。
 
もうひとつ、テニスコートに隣接されて設置された小さな体育館があり、ここは主として柔道・剣道といった武道の練習に使用されている。この体育館は《没薬:もつやく》と呼ばれている。
 
この3つの体育館の名前はキリストが生まれた時にやってきた東方の三博士(The Three Magi)が贈った贈り物に由来している。メルキオール(Melchior)が黄金(gold), バルタザール(Balthasar)が乳香(frankincense), カスパール(Casper)が没薬(myrrh)である。
 
乳香とはムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木から分泌される樹脂で古くはこれを焚いてお香として使用していた。リラクゼーションなどの効果があり、現代でもアロマテラピーなどで使用されている。
 
没薬とは同じくムクロジ目カンラン科の没薬樹と呼ばれる樹木が分泌する樹脂で現代では男性用の香水や線香などに使用されている。昔は聖所のお清めに使用されたと言われる。
 
「メルキオール、バルタザール、カスパーと言ったら、エヴァンゲリオンにも出てきたね」
と今年入った3人の男子生徒の中で唯一!?ちゃんと男子生徒に見える武野昭徳が言う。
 
「何だっけ?それ」
と彩佳が訊く。
 
「物語の舞台となっている特務機関ネルフのメインコンピュータシステム“マギ”を構成する3つのコンピュータなんだよ。3台のコンピュータがお互いをチェックしながら動いているから、どれか1つをクラックしたとしても、あと2つのマシンがそれを排除してしまうんだよね」
 
「三者合議制なんだ!」
 
「そうそう。歴史的にも三頭制というのはうまくいきやすい。トロイカ体制とも言うよね。日本の歴史でも推古帝の時代、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の3人が共同で統治した時代に日本の政治システムの基礎は作られたんだよ。大化の改新の以降は今度は孝徳天皇・中大兄皇子・中臣鎌足でトロイカ体制が組まれ、中大兄王子が天智天皇となった後は、天智天皇・大海人皇子・中臣鎌足のトロイカ体制になっている」
 
「ああ、そんなこと歴史の時間に習った気がする」
と龍虎も言う。
 
「トロイカ体制という言葉の元々の起源は、レーニン死後のソビエト連邦でスターリン・ジノヴィエフ・カーメネフによって形成された指導体制のことなんだけど、似たようなシステムは中国でも、登小平・胡耀邦・趙紫陽の3人で1980年代に作られたこともある。政治以外でも、野球の読売ジャイアンツで藤田元司監督・牧野茂ヘッドコーチ・王貞治助監督の体制がやはりトロイカ体制と呼ばれた」
と博識な日高洋子が言う。
 
「やはり奇数というのがいいんだろうね」
と彩佳。
「そうだと思う。2人だと、両雄並び立たずと言って、意見が対立した時にどうにもならなくなるんだよ。3人だともうひとりが仲裁して何とかまとまることができる」
と昭徳。
 
「現代の先進国で多く採用されている三権分立というのも、相互にチェックする仕組みだよね」
「うん。有効に働いているかは別としてね」
 

「性別ってさぁ」
とその日、政子は言っていた。
 
「日本とかでは性別は男と女というイメージあるけど、インドだと男と女と中性だよね」
「インドだとマハーバーラタに出てくるアルジュナ王子が去勢されてアルジュニーヤという女性名を名乗り、王女に女の踊りを教えるというエピソードもあるね」
などと冬子が言っている。
 
「言語自体の文法的な性別も、フランス語は男性と女性ですが、ドイツ語だと男性・女性・中性ですよね。フランス語の場合、強引に男性と女性に分けようとして、結構歪みが来ている感じもある」
と青葉も言う。
 
「ただドイツ語の名詞の性別って自然の性別と一致してないものも多くて難しいね」
「意味より、語形で性別が定まる場合もあるからね」
 
「英語の感覚だと、惑星の性別も男性と女性にほぼ分けるんですけど、インド占星術だと最初から男女中に分けられますね」
と青葉。
 
「やはりインドは普通に中性が存在するんだよね〜」
「まあヒジュラの文化ですしね」
 
「そうだ!アクアに男の子、女の子、男の娘の1人3役をやらせる企画とか書いてみない?」
と政子は唐突に言い出した。
 
「それ誰が企画書書くのさ?」
と冬子。
「冬、書いてよ」
「マーサが自分でどうぞ」
「私、論理的な文章書けないもん」
「論理的に書こうとしたら、そういう企画は成立しないと思うけど」
 

今期のWリーグは2月28日のプレイオフ決勝第三戦で終了し、リーグは秋まで休止期間に入る。その間は日本代表の活動や若手の強化プログラムなどが行われる。今年の女子日本代表はまず3月21日に「日本代表候補」34名が発表された。むろん千里や玲央美、近日中に渡米予定の花園亜津子なども含まれていた。今年は9月にアジアカップ(旧アジア選手権)があり、これで4位以内に入ると来年のワールドカップ(旧世界選手権)に出場することができる。
 
その最初の合宿は4月6日から17日に掛けておこなわれた。今回の合宿は34名の代表候補の内、リオ五輪に参加した12名は免除ということであったが、千里・玲央美・王子・絵津子・江美子・百合絵の6人は任意で参加した。また候補になった人で怪我療養中の人もいたので、結局参加者は25名になった。むろん任意参加の選手の合宿費用はちゃんと協会から出るし、保険などにも加入している。
 

2017年4月に芸能界で最も驚かれたニュースはラビット4の騒ぎであった。
 
4月1日(土)の午前8時、ラビット4のリーダー因幡さんが突然ツイッター上に
 
「ラビット4は本日付けで龕龕(がんがん)レコードに移籍します」
と書いたのである。
 
ラビット4は2015年12月のデビュー以来、∂∂レコードから楽曲をリリースしてきていた。
 
この書き込みに対しては、レコード会社の中でも老舗のひとつである∂∂レコードが、斬新で今までにない音楽を作っているラビット4の制作に介入しすぎてメンバーの間に不満が出ていたようだという《関係者っぽい人》の書き込みなどもあり、騒然とするとも、一方ではデビューしてわずか1年の人気ユニットが移籍するなんてあり得ないとして「エイプリルフール」なのではという意見も出ていた。
 
案の定、同日10時になって、ラビット4のメインボーカルである四屋さんがやはりツイッター上に
 
「なんか俺たちがレコード会社移籍するという話が出ているらしいけど、そんなの俺知らないから」
と書いたので、
 
やはり因幡さんのジョークでエイプリルフール・ネタだったのだろうという見方が広まった。
 
そしてその後、メンバーを含めて関係者の発言は全く無かった。
 

ところが週明けの3日昼前、龕龕レコードのアーティスト一覧にラビット4の名前が掲載されているのをファンが見つけ、再度ネットは騒然とする。
 
しかも同社のニュースリリースの中に確かに「ラビット4移籍のお知らせ」というのがあり、因幡さんの移籍の挨拶が入っていた。しかも同社から今月末に新譜『ウサギとカメはウサギの勝ち』をリリースするということまで書かれていた。
 
やはり移籍は事実なのか!?
 
と騒ぎになっている間に、今度は∂∂レコードのサイトに15時頃になって新しい記事が掲載され、ラビット4が同社から今月末に新譜『鳴きウサギのバラード』をリリースするというものがあり、ボーカルの四屋さんのメッセージまで添えられていた。
 
ファンたちは完全に混乱する。
 
まさか2つのレコード会社に同時在籍するのか??
 

その内、ネットの住民達が、龕龕レコードへの移籍の話は因幡さんだけが書いていて、∂∂レコードの方には、四屋さんが書いているし、移籍を否定しているのも四屋さんであるという点に気付く。
 
「もしかして分裂?」
「そして双方ラビット4を名乗っているとか?」
 
商標関係のデータベースを確認してみると、ラビット4という名称は商標などには登録されていないことが分かる。この名前は元々因幡さんが「因幡の白兎」でウサギを連想させ、四屋さんの名前に4が入っているので、2人が2012年頃からライブハウスを舞台に活動し始めた頃から名乗っていたものである。そのままの名前でデビューしたので、権利関係はプロダクションやレコード会社には渡さず、自分たちで留保していたのかも知れない。
 
双方の“ラビット4”のリリースする楽曲のタイトルが意味深だという話も出てくる。
 
因幡さんの方のラビット4は『ウサギとカメはウサギの勝ち』だが、ウサギというのは、つまり因幡さんなのではないか。それで自分が勝つと言っている。一方、四屋さんの方のラビット4は『鳴きウサギのバラード』だが、これはラヴェルの名曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』を連想させるという指摘がある。つまりこの曲のタイトルの本意は『亡きウサギのためのバラード』で、ウサギは死んでしまったことになっている。要するに因幡さんが死んだという意味なのではないかと(*1).
 

(*1)亡き王女のためのパヴァーヌ Pavane pour une infante defunte
はしばしば誤解されているが、王女が亡くなったのを追悼する曲ではなく、今はもう亡くなった遠い昔の王女が当時踊っていたようなダンス曲という意味である。つまり「亡き王女」はほとんど誤訳に近く「今は亡き王女」あるいはいっそ「昔の王女」とでも訳すべきであった。
 

4日火曜日になって、芸能記者たちが関係者に取材してまわった結果、やはりラビット4が3月に分裂し、双方とも「自分たちがラビット4」と名乗っていることが判明する。それで∂∂レコードに残るのがボーカルでギター担当の四屋さんとドラムス担当の佐藤さん、龕龕レコードに移籍するのがリーダーで篠笛担当の因幡さんとサブボーカルでベース担当の高橋さんであることが分かる。
 
同じ名前で紛らわしいので、∂∂レコードに残る四屋さんたちをラビット4A、龕龕レコードに移籍する因幡さんたちをラビット4Bとテレビ局はいったん仮称したのだが、因幡さんから「ABという名前は優劣をつけるようだ」というクレームが入ったので、テレビ局は扱いに苦慮する。
 
##放送の番組で生放送の最中にその件で「困ったね」と言っていた時、高柳あつみアナウンサー(高柳さとみ記者の妹)が
 
「いっそ、さくら組・いちご組とかにします?」
と発言し、それをベテラン俳優・内海四郎さんが
 
「いいね!それ採用!」
と言ったので、とりあえず同局の番組では、さくら組・いちご組と仮称することにした。大物俳優の内海さんが言ったのならよかろうという空気であった。そして他の局までそれに右にならえしてしまった!
 
それで結局
 
ラビット4さくら組(∂∂レコード)四屋(Gt/Vo)+佐藤(Dr)
ラビット4いちご組(龕龕レコード)因幡(篠笛)+高橋(B/Vo) 
 
ということになってしまったのである。このネーミングについてはファンの間では初期段階で「まるで女の子バンドだ」と、高柳アナへの批判メッセージが多かったのだが、因幡さん本人が「可愛いじゃん」とツイッター上で発言し、四屋さんも「まあいいや」と発言して、それで定着してしまった。
 
むろん双方とも公式にはただの「ラビット4」を名乗る。結局このユニットの名前の権利は因幡さんと四屋さんが共同所有していたらしい。
 
なおレコード会社やプロダクションとの契約は2015年12月のデビュー時点ではまだ売れるかどうかよく分からないユニットであったことから1年単位で契約更新していくことになっており、契約の更新時期は3月末と定められていた。因幡と高橋はその更新をしなかっただけなので、違約金も発生しないらしい。
 

「過去にはセーラ(Sara)などのヒット曲を出したスターシップ(Starship)が分裂して双方スターシップを名乗るとか(*1)、アン・ヴォーグ(En Vogue)から離脱したメンバーが自分たちこそアン・ヴォーグだと主張して裁判になったケースもあるね」
 
と冬子は言っていた。
 
「分裂して名前で揉めたというと、ほっかほっか亭の名称問題も複雑だったよね」
と政子は言っている。やはり食の問題に結びつけるのはさすが政子である。
 
「あきれたボーイズとか、ドリフターズの分裂騒ぎも深刻だったね(*1)」
と千里が言うと、
 
「あんた、よくそんな古い話知ってるわね。やはりあんた年齢誤魔化してるでしょ?」
となぜかその場に居た雨宮先生が言う。
 

(*1)このスターシップあるいはエアプレインの名称問題はこのような簡単なことばではとても説明できない、極めて複雑な展開となった。様々なバンド名が生まれては消えている。出発点となったバンドはJefferson Airplaneだが、2016年時点では Starship featuring Mickey Thomas というバンドと、Jefferson Starship - The Next Generation というバンドが並立している。元々Airplane(飛行機)という名前が使えなくなったためShatship(宇宙船)にグレードアップ?したものである。
 

あきれたボーイズは1937年頃に結成されたコミックバンドで、1939年春に吉本興行から独立しようとしたものの、吉本側が引き留めに走り、結局、メンバーの中で川田義雄だけが残留し、益田喜頓(ますだきーとん)・坊屋三郎・芝利英(坊屋の弟)の3人は独立して新興キネマと契約した。
 
「あきれたボーイズ」の名前は益田らが継承し、残留した川田は新たなメンバーを加えて「ミルクボーイズ」を結成し、その後、どちらも売れている。
 

ドリフターズは1956年頃から活動していたバンドで、初期の頃はメンバーの入れ替わりが激しく、後に『上を向いて歩こう』で有名になった坂本九や後に女優として成功した木の実ナナなども一時在籍していた。
 
1964年に、当時新たな中心になりつつあった、碇矢長一(いかりや長介)に反発を強めていた小野ヤスシはクーデターを画策し、碇矢以外の全員に呼びかけて何の予告も無しに突然集団脱退を実行した。この事件は30年ほどの後に小野自身が自省を込めてTV番組の中で告白し、更に後にラジオ番組の中でドリフのメンバーに謝罪している。
 
この時、ドラムスの加藤英文(加藤茶)だけは碇矢の説得に応じて残留を決め、ドリフターズはかろうじて消滅の危機を免れる。そして2人だけになった後、新たにギタリストの高木友之助(高木ブー)を勧誘して加入させ、高木が同じくギタリストで歌もうまい仲本興喜(仲本工事)を誘い、更にピアニストとして荒井安雄(荒井注)をスカウトして、何とか次のステージに間に合わせた。
 
この時、次のステージまで時間の無い中で急いでメンバーを集めたため荒井注のピアノ演奏を実際には聞かないまま彼をスカウトしてしまったことを、碇矢は後悔したらしい(荒井注は楽曲が全く弾けないピアニストで、楽曲のノリにあわせて適当に鍵盤を叩くだけであった)。
 
なお脱退した小野ヤスシたちはドンキーカルテットを結成。こちらもドリフターズほどではないものの、そこそこ売れている。
 

この日冬子や千里たちは成田空港に来ていた。
 
アメリカのWNBAのチームに加入する花園亜津子と、アメリカの大学に留学する須佐ミナミが2人ともこの日旅立つのである。須佐ミナミは17:05のロサンゼルス行きに乗り、花園亜津子は18:15のニューヨーク行きに乗る。
 
実際にはまだ2人とも姿を見せていない。
 
この日千里は都内で合宿中だったのだが親友の海外への旅立ちを見送るために抜け出してきていたらしい。
 
「そういえば雷ちゃん(上島雷太)から頼まれたんだけどさ」
と雨宮先生が言った。
 
「江戸娘のオーナーになったのはいいけど、全然試合とかにも顔を出せなくて済まないと言ってね」
 
「だって上島先生は忙しすぎますもん」
と冬子が言っている。
 
「それで申し訳無いから、誰か代わってくれないかというんだけど」
と雨宮先生。
 
「だったら、マリちゃん、やる?」
と千里が言った。
 
「それ何すればいいの?」
と政子が言う。
 
「お金を出せばいい」
「いくら?」
「チームの維持費用としては、大会などへの参加費用と旅費・宿泊費とかの負担。これは年間100万円程度だと思う」
 
「そのくらいなら別に構わないけど」
「まあ、マリちゃんのおやつ程度だね」
「代わりにユニフォームにお寿司食べてるマリちゃんの似顔絵とか入れてもいいし」
「あ、それはいいなあ」
 
「でも株式の買い取りもかな?」
と冬子。
「うん。そちらが大きい」
と雨宮先生。
 
「株?」
「昨年体育館を建てるのに出資しているから、上島の負担分の株式と債券、12億円くらいなんだけど」
と雨宮先生。
 
「12億円〜!?」
さすがの政子もびっくりしたようだ。
 
「それマリちゃんがきついなら、私がいったん引き受けるよ」
と千里が言う。
 
「ああ、そうしようか。だからマリちゃんには、大会参加費用とかの年間100万円程度だけを出してもらえばいい。ユニフォーム新調するならその費用も。それで株式・債券は千里が引き受ける」
と雨宮先生は話を進める。
 
「私貯金幾らあったっけ?」
と政子が冬子に尋ねる。
 
「15億円くらいだと思うけど」
と冬子は言っている。
 
「15億のうち12億はさすがにきついね。じゃやはりそれは千里に頼もう」
「いいですよ」
 
恐らくこの件は最初から千里が引き受けるつもりだったのだろう。
 
「千里は12億あるの?」
と政子が訊く。
 
「今資産は30億くらいだけど、この体育館に既に15億円くらい出しているから合計出資額が27億円くらいになるかな」
と千里は言っている。
 
「それ50%は越えないよね?」
「47%くらいだと思います」
「だったら問題無いね」
 
「でも資産のほとんどがこの体育館への投資になってしまう訳か」
と冬子が心配するが
 
「元々があぶく銭だから問題無い」
と千里は言っている。
 
「じゃそれは時間と場所をセッティングするから、直接上島と会って取引してくれない?」
と雨宮先生は言ったが、
 
「私ほんとに時間が無いんですよ。だから雨宮先生が代行してください。振り込みについては、葵照子に連絡してもらったら、彼女が私の口座から振り込みできますから。株式と債券の書類を上島さんから受け取って彼女に振り込みをさせて下さい」
と千里は言う。
 
「あんたid/passを葵照子に預けてるの?」
「私がやるとしばしば振り込み失敗するので」
「私の口座に間違って1億円振り込んできたことあったね。すぐ戻したけど」
と冬子。
「うん。川崎ゆりこの口座にも間違って振り込んでびっくりした彼女から連絡あったことある」
と千里。
 
「あんたコンピュータ技術者のくせに」
と雨宮先生は呆れているが
 
「千里は機械音痴、ソフト音痴なんですよ」
と冬子が言うので、雨宮先生は腕を組んで悩んでいた。
 

須佐ミナミは14時半頃姿を見せ、40 minutesのメンバーの多くに見送られて手荷物検査場を通過して行った。
 
彼女と入れ替わりになるように花園亜津子が16時頃姿を見せ、エレクトロウィッカの武藤博美・加藤絵理・中丸華香・馬田恵子、出身高校の元チームメイトである日吉紀美鹿・入野朋美、中学の時のチームメイトである木崎みどりらに見送られて旅立って行く。
 
「千里、今年は負けたけど、向こうで派手な成績あげるから、千里は日本で派手にやってくれよ」
と花園亜津子が言う。
 
「そうだね。私は鳥の居ない島の蝙(こうもり)で頑張らせてもらうよ(*2)」
と千里は言った。
 
ふたりは硬く握手し、ハグしあう。それから花園亜津子は笑顔で手を振って手荷物検査場に消えて行った。
 
なお、雨宮先生もどこかに行く予定だったらしいが、見送り不要と言っていた。冬子や千里たちに見られるとまずい女性と一緒に海外旅行なのかな、と千里たちは考え、先に帰らせてもらった。
 

(*2)元々の言葉は「鳥無き里の蝙」(鳥が居ない里では、蝙が空を飛べるというだけで鳥のように威張っているという意味)だが、織田信長が、四国の覇者となった長宗我部元親を揶揄してこの言葉をもじり「鳥無き島の蝙」(大した器量も無いくせに四国に有力武将がいないから偉そうにしているという意味)と言ったので、その後この形の引用も多い。
 

お互いのことを知るよしもない成宮真琴(フェイ)と桃香は似たような時期に妊娠しており、ふたりとも、青葉と千里がその妊娠期間中の体調管理をしている。ここで、真琴は自然妊娠→人工出産(帝王切開)であるのに対して、桃香は人工妊娠(人工授精)→自然出産であった。そして受精日は近いのだが出産日は大きく違うことになった。
 
真琴が自然受精に到るセックスをしたのは2016年8月2日、桃香が人工授精をしたのは同年8月17日で、両者は半月しか違わない。しかしフェイは本来男の娘なので産道が狭く、赤ちゃんが通れるサイズ無いため、8ヶ月目に入った2017年3月3日に帝王切開で出産させた。一方、桃香は自然に出てくるのを待つことにしていた。予定日は5月11日である。
 
桃香が妊娠した後、会社を首になったことを母に言うと、母は高岡に戻ってきて、こちらで産みなさいと言った。しかし、それをやると次は子供が小さい内は実家に居なさいと言われ、小学生の内は田舎暮らしの方がいいよと言われ、・・・ということで、結果的に2度と東京に出てくることはできない気がした。それで桃香は「千里もいるし、東京で産むよ」と母には言っていた。
 

ところがである。
 
千里は物凄く忙しいようである。
 
昨年8月はずっと外国に行っていたようだし、9月は北海道から沖縄まで飛び回っていた。そして10月以降は、週末ほとんど出ていて全国を駆け巡っているようである。平日も夜10-12時頃しか居ない。夜9-10時に帰宅して、一緒に晩御飯を食べた後、12時くらいには出て行ってしまう。用賀の自分のアパートに戻っているというのではなく、夜12時からまたお仕事があるようである。
 
桃香は不安になって訊いた。
 
「予定日の前後はうちに居てくれるよね?」
「4月6-17日が合宿。その後、20-29日が合宿で、30日から5月13日までアメリカ」
「予定日過ぎちゃうじゃん!」
「5月18-23日は合宿。24日から6月13日までヨーロッパ」
 
「千里が居ない時に産まれそうになったらどうすればいいのよ?」
「高岡に帰ってる?」
「嫌だ。それは絶対嫌だ」
「それが楽だと思うけどなあ」
 
と言いつつ、
「それなら誰か友だちに頼るしかないよ」
と言います。
 
「誰に頼ろう?」
「まあ遠慮無く頼れるのといえば、まず朱音」
「そうだ!朱音がいた!」
 
「あとは彪志君、あきら、冬子。深夜とかなら冬子がいちばん遠慮要らないよ」
「それは言えてるなあ」
 
「ちなみに、冬子は1時くらいで寝るけど、政子は朝5時くらいまで起きてるから」
「あの子、普通の人と生活時間帯が6時間くらいずれてない?」
「うん。起きるのはだいたい昼過ぎだし。でも音楽関係の人にはお昼過ぎに会社に出てきて、夜中過ぎに帰宅って人多いよ」
「変な業界だ」
 
しかし朱音と彪志がいるというのを認識したことで、桃香は少し安心したのであった。
 

実際、千里は4月5日(水)の夜アパートに寄っただけで、その後どうも合宿に入ったようである。メールはだいたい半日程度以内に返ってくるのだが、電話には出られない状態のようであった。
 
そして4月16日(日)の夜のことであった。この日は日曜だったこともあり、朱音が来てくれてお腹に触り
 
「だいぶ大きくなったね〜」
などと言ったりしていた。朱音は買物までしてくれて、1週間分くらいの食材のストックができ、桃香は大いに助かる。しかも桃香の性格が分かっているので、レトルトカレー、カップ麺、インスタント味噌汁、缶詰、お茶漬け、などが大量にある。これが千里や青葉の買物なら、その手の物がまず含まれていない!千里も青葉も「そんなの美味しくないよ」と言うのだが、桃香は味より手間である。
 
夕食には松屋の牛メシをチンして食べる。ビールでも飲みたい気分なのだが、生憎アルコール類は料理酒に至るまで完全撤去されているし、物わかりのよい朱音でさえ、アルコールはダメと言っていた。こんなに長期間禁酒(されている)状態を続けているのは高校時代以来だなと桃香は思っていた。
 

22時45分頃。テレビを見ていたらあくびが出てきたので、寝るかなと思いテレビを停める。トイレに行って来てから、布団に入る。スマホでHな漫画見ていたら何か急にお腹に痛みが走る。
 
何だ?何か悪いものでも食べたっけ?と考えるが、心当たりがありすぎる!
 
それで取り敢えず念のためスマホを持ったままトイレに入る。
 
しかし・・・どうもこれは・・・胃腸系統ではないような気がする。まさか、これって・・・腸より前の方にある器官か?
 
そう考えた途端、下腹部が物凄く痛いような気がしてきた。これは病院に行ったほうがいいか?
 
桃香は取り敢えずトイレを出た。健康保険証・母子手帳・診察券・非常用現金に印鑑まで入った「持ち出し袋」を取る。そして、電車で病院に行こう!と思ったのだが、あまりにも痛くて、台所でうずくまってしまった。
 
ダメだ。これではひとりで移動しようとして途中で動けなくなった時にどうにもならない。誰か呼ばなくては。
 
桃香は決断力だけは速い。
 
それで千里に電話してみた。このくらいの時間帯なら、反応してくれないか?
 

「はい?」
 
幸いにも千里はすぐ出た。助かった!!
 
「あ、千里、よかった。つながった!」
「どうした?」
と千里も異変を感じたようで、訊いてくる。
 
「生まれるかも。なんか苦しい」
「うっそー!?もう??」
 
「臨月に入っているし」
 
臨月には13日に突入した。但しまだ正産期ではない。正産期は37週目に入る20日からである。しかしいつ出てきてもおかしくない時期ではある。
 
「とりあえず、そっちに向かう」
 
と千里は言った。今、北区にいるらしく30分くらい掛かるとは言われたが、千里が来てくれると聞いただけで、桃香はホッとしたし、俄然精神的に余裕が出てきた。
 

今穿いているパンティはちょっとやばいよな、などと思って穿き替えたりする。水分取った方がいいかな?などと考え、冷蔵庫に“入れていない”野菜ジュースを飲む。そしてお腹を圧迫しないように横になったまま、毛布をかぶり、結局スマホで漫画を読んでいる。
 
待っている間に青葉から電話が掛かってきた。
 
「桃姉、どんな感じ?」
「おお、青葉か!もしかしたら産まれるかも知れない感じで」
「こちらからリモートで体調管理するから」
「助かる!」
「ちー姉はどのくらいで到着するの?」
「たぶんあと20-30分じゃないかなあ。北区に居るらしくて」
「分かった。もしちー姉が遅れているようだったら、連絡して」
「ありがとう」
 
それで電話を切ったが、なぜ青葉は、今陣痛が来ていることと、千里がこちらに向かっている最中であることを知っていたんだ?と疑問を感じた。あるいは千里が青葉にも連絡したのか?
 
実際には青葉の眷属・小紫が桃香に付いていて、青葉に連絡したからである。なお、千里も自分の眷属の《いんちゃん》を様子を見に行かせた所だった。
 

桃香から連絡を受けた千里は、北区の味の素ナショナル・トレーニング・センターで日本代表候補の合宿をしていたのだが、むろんこの時間は練習は終わっている。桃香からの報せですぐ合宿所の駐車場に駐めているアテンザで経堂のアパートに行こうとした。
 
あいにく大雨である。雷鳴もたくさんしている。
 
やだなあ、こんな日にとは思ったものの、右手で傘を差し左手には携帯を持ったまま、駐車場まで走る。
 
ところがそこで物凄い音と光があった。
 
千里は一瞬何が起きたのか分からなかった。
 

龍虎は呆然として、目の前にいる人物を見つめていたが、やがて言った。
 
「君たち誰?」
 
 
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