【女子バスケット選手の日々・2017オールジャパン編】(3)

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1月6日と7日はアクアの休養日だったので、龍虎は結局その日2日間、ひたすらホテルのベッドで寝ていた。思ったより疲れが溜まっていたようで、6日は丸一日寝ていたし、7日の日中もかなり寝ていた。
 
龍虎は裸で寝ていたが、それが結構疲れを取ってくれる気もした。宏美は何度も外出して食糧を調達してきてくれたので、龍虎も部屋でそれを食べていた。
 
龍虎は7日の夕方くらいになってやっと疲れが取れてきた気がしたが、その夜も宏美とたくさん、おしゃべりした。龍虎はかなり具体的に自分はどういうタレントあるいはアーティストになりたいのかということを改めて宏美に話した。
 
「でもこの2日で、龍ちゃんの気持ちが随分分かった気がするよ」
「確かに宏美さんと、こういう話をする機会がこれまであまり、ありませんでしたよね」
「そうそう。デビュー以来2年間、何も考える暇も無いくらい疾走してきたからね」
 
そんなことを言いながら、もう夜12時近くになるので、寝ようか、などと言っていた時、部屋のドアをノックする音がある。宏美はホテルの人かと思ったので、ドアの近くまで行き
 
「はい、何か御用事ですか?」
と訊いた。
 
「ああ。コスモスちゃんも一緒だったんだ?」
と声がする。
 
「醍醐先生!?}
と言って驚いてドアを開けた。
 
「ごめんね〜。お楽しみの所」
などと言って千里は部屋に入ってきた。
 

「あの、誤解しないで欲しいんですけど、私と龍虎は何もしてませんから」
とコスモスが緊張した顔で言う。
 
醍醐先生なら大丈夫だろうが『秋風コスモスとアクアに恋愛関係?』などといった記事が週刊誌などに載ると物凄く困る。自分はいいとしてアクアの人気に傷が付いてしまうとコスモスは考えた。
 
「そりゃ当然。できる訳無いからね」
と千里が言う。
 
「どういう意味ですか?」
と戸惑うような顔でコスモスが訊く。
 
「そのあたりについて、少し突っ込んで話したいんだけど、ちょっと河岸(かし)を変えない?」
 
「いいですけど」
 

次の瞬間、千里とコスモスとアクアは大きな龍の背中に乗り、空中に居た。
 
「何これ〜?」
とコスモスが言っている。
 
「暴れないでね。落ちるから」
「しっかり捉まっている!」
「それがいいと思う」
 
「こうちゃんさん、こんばんは」
とアクアが言う。
「よぉ、久しぶりだな」
と《こうちゃん》は挨拶を返した。
 
「でも私、空を飛んでいる気がするんだけど」
とコスモス。
「今夜の出来事は全部夢だと思って」
「そうする!」
 

龍虎が、今日は腹を割って話し合いたいということで、秋風コスモスとアクアではなく、伊藤宏美と長野龍虎に戻って話をしていたというと、千里は
 
「だったら私も醍醐春海でも鴨乃清見でもなく、村山千里で」
と言ったので、お互いに、宏美・龍虎・千里と呼び合うことにする。
 
「ついでに大宮万葉ではなく青葉、ケイではなく冬子で」
「千里さんの許可が出たから今夜はそういうことにしよう」
 
「でもこうちゃんさんは名前はないの?」
と龍虎が訊く。
 
「そんなのあったかなあ」
と《こうちゃん》は言うが、千里が
 
「こうちゃんの本名は紹嵐光龍(しょうらんこうりゅう)」
とバラしてしまう。
 
「そんな名前、わざわざ言わないでくれよ。だいたいどこでその名前聞いたんだよ?俺は名乗ったことないのに」
と《こうちゃん》が文句を言っているが、龍虎は
 
「しょうらんこうりゅうさんなら、やはりこうちゃんなんだ!」
と言うので、《こうちゃん》も笑って
 
「だから俺はこうちゃんにしておいてくれ」
と言った。
 
《こうちゃん》というのは彼の“役名”「勾陳(こうちん)」のニックネームとして千里が付けたものである。
 
3人を乗せた《こうちゃん》は夜空を軽飛行機くらいの速度で飛んでいく。凄い速度っぽいのに、風があまり強く当たらないのが不思議だと宏美は思った。
 

やがて1時間ほどで仙台の町並みが見えてくる。
 
「あ、仙台だ。ぼくのおばあちゃん所に行くの?」
と龍虎が訊く。
 
「そういえば、龍ちゃんのお祖母さんは仙台だったね」
と千里は言った上で
 
「今日行くのは、私のお友達の所」
と言うと、3人は何かのお店の前に立っていた。
 
「ここは?」
「メイド喫茶クレール。まだオープン前なんだけど、オープン前なのをいいことに、ライブ会場として使われているんだよ」
「へー!」
 
「§§ミュージックの研究生とかに度胸付けさせるのにここで歌わせるのもありだと思うよ。普段の客席はゆったりと70人くらいだけど、テーブルや椅子を取っ払ってオールスタンディングにすると700人くらい入るから」
 
「それは凄い!」
 
千里が携帯で和実を呼ぶと、
「お帰りなさいませ、お嬢様方」
と言って和実が3人を中に入れてくれた。
 
龍虎が女性としてカウントされるのは、いつものことなので龍虎も全く気にしない。
 

客席に案内され、とりあえず水を持って来てくれる。そして10分ほどで美しいコスモスの模様、龍の模様、鳥の模様の、ラテアートが施されたカフェラテを持って来てくれた。
 
「すごーい!」
とコスモスが感激している。
 
「さすが。だてにメイドを10年やってないね」
と千里が和実を褒める。
 
「メイド歴10年ですか!?」
「この子は高校生の時からメイドをしているんだよ。ラテアートは100種類くらいレパートリーがあるよね?」
「そのほとんどは普段忘れているから、使えるのは20種類くらいだよ」
と和実は言った。
 
龍虎が写真撮ってもいいですか?と言い、和実もどうぞどうぞというので龍虎はその写真を撮影していた。
 

「ところで、これ結界が新しくなっているけど、青葉が昨日くらいに来た?」
と千里は聞いたが、和実は答える。
 
「ごめん。たとえ友人でも、お客様のことは話せない」
「うん。いいよいいよ」
 
と言って千里は微笑んだが、どうもこれは宏美に聞かせるのも目的だったようである。この店のクルーがしっかり守秘義務を守っているのを確認させたかったのだろう。
 

厨房の方では数人のクルーが仕込み作業をしているようだが、千里たちは店の奥、厨房から最も遠いテーブルに陣取って、話をすることにした。
 
「宏美ちゃんは、龍虎がこの年齢でまだ声変わりもしなければ、ヒゲとかも生えてこないことに、疑問を持っていると思う。それって睾丸を物理的または化学的に除去でもしない限り、絶対にありえない」
 
と千里は問題の本質を語った。
 
「その点について、一昨日、龍ちゃんは、青葉さんに体内のホルモンコントロールをしてもらっているから、男性ホルモンが男性器の周囲だけに効いていると言っていた。そして他の部分は女性ホルモン優位になっているから、身体付きは女の子のように丸みを帯びてきているけど、おっぱいの所には女性ホルモンが作用しないようにブロックしているから、おっぱいは大きくならないんだって」
 
と宏美が言う。
 
「そうそう。青葉がやっているのが化学的な操作。だから龍虎は化学的な去勢状態にある」
と千里は言う。
 
「そして私がやっているのが物理的な操作。実は龍虎の睾丸は物理的に取り外している」
 
「え〜〜〜!?」
と冷静なコスモスが思わず声をあげた。
 

千里はこういう“たとえ話”をした。
 
「最近のコンピュータの発達でいちばん凄いと思うのが仮想化、virtualizationの技術だと思うんだよね。たとえば社内LANとか組んであるとLAN上にぶらさがっているプリンタをあたかも自分のPCに直接接続されているプリンタと同様に扱うことができるよね。ストレッジにしても、何百キロも遠くにあるサーバー上のディスクをまるで自分のローカルにつながっているハードディスクのように扱うことができる。実際、PC上で動いているプログラムからは、データを書き込む先が直接つながっているハードディスクだとしても、LANにつながっているハードディスクだとしても、あるいはクラウド上に存在する保存場所だとしても、何も変わらない。あたかも自分のローカルにあるディスクに書くように、クラウドに書くことができる。これが1980年代頃まではその保存場所をプログラム上で正確に指定する必要があったんだよ。プリンタなんてそのタイプまで指定しないといけなかった。Windows95あたりからストレッジや周辺装置の仮想化が普及し始めた」
 
(という話をしているのは実は小春である。千里が随分と専門的な話をしているので《げんちゃん》などが驚いている)
 
宏美は興味深く聞いている。
 
「だから・・・青葉は龍虎の身体にくっついている睾丸に化学的な操作をしているつもりでも、それは仮想睾丸に作用している。実はその操作は龍虎の身体ではない場所にある龍虎の睾丸に作用しているんだよ」
 
と千里は言った。
 
なお実際にその操作をしている《こうちゃん》は今、千里たちを運んだ後で休憩に入っている。実際には近所のガールフレンドの龍の所に行っているはずである。
 

「じゃ、龍ちゃんは本当に物理的に去勢されているんだ?」
と宏美が訊く。
 
「復元可能な形でね」
と千里は言った。
 
「実際問題として、龍虎は腫瘍の治療でひじょうに強力な薬を使っていたことから、一時的に男性機能も生殖機能も死んでしまっていたんだよ」
 
「やはりそうなのか」
 
「だから、私は龍虎の睾丸を取り外して、ある場所で治療している」
「うーん・・・・」
 
(実際には睾丸の治療は《こうちゃん》が勝手にやっていることであり、千里はあまりよく認識していないものの、小春は全部分かっている)
 
「その間、龍虎の身体に付いているのは、何の機能もないダミーなんだよ。だから、この睾丸とペニスには男性機能も生殖機能も無い。龍虎に性欲が無いのは当然のことだし、射精も勃起もするわけがない。これはダミーだから」
 
実際にはダミーというより、女性ホルモンの長年の服用で機能喪失した男性器を《こうちゃん》は時々調達してきては多少の加工をした上で龍虎にくっつけているようである。血管と神経もつないでいるので細胞的に死ぬことは無いし触れば感触はあるものの、勃起はしないようにしている。
 

「でもその治療が終わったら、戻すわけ?」
と宏美が訊くので
 
「戻すことを龍虎自身が望むならね」
と千里は答えた。
 
「龍ちゃんはどうなの?それを戻して欲しいの?今のままがいいの?それともダミーも取り除いて女の子の形になりたい?」
 
「20歳すぎたら、戻してもらえませんか?まだ治療が完全でなくても」
と龍虎は言った。
 
「いいよ。そうしよう」
と千里も答えた。
 
「ぼくも何となく20歳くらいになったら男になってもいいかなという気がしてきているんです。それまでは曖昧な性別をむさぼりたい気分」
 
「いいんじゃない?女の子の服を着るの好きでしょ?」
「好きです。男に戻っても着たいくらい」
 
「それは着てもいいんだよ」
と千里も宏美も言った。
 
「じゃ着ちゃおうかなあ」
と龍虎は言っている。
 

「だけど、青葉の操作が続いている限りは、物理的に睾丸とペニスを戻しても男性能力は回復しないから」
 
「その時は青葉さんにも、操作を解除してもらいます」
 
「じゃ20歳になったら、男の子に戻るのね?」
「龍虎の場合は、その時に初めて男になるというところかな。今はまだ中性なんだよ」
 
「ええ。だからいづれ男になる覚悟はできてきたから、おっぱいも大きくしません。おっぱい大きいのいいなあとは思うけど、大きくしちゃったら男になれないし」
 
「だいぶ素直に自分の気持ち言うようになったね」
「えへへ」
 

「実際問題として、龍虎って、20歳くらいになったら、きっぱりとアイドルはやめるつもりでしょ?」
と千里は言う。
 
「その話も宏美さんとしました」
と龍虎は言う。
 
「ボク、基本的には俳優になりたいんです。でも音楽が好きだから、撮影にかかってない時期はロックバンドとかやりたいんですよね」
 
「龍ちゃん、ギターがうまいし、ピアノやヴァイオリンもうまいもんね」
「ギターはお父さんの担当楽器だから、これでは競争したくないんです。だから、ボクはボーカル兼ピアノ担当で、ギターとベースとドラムスの人をどこかでスカウトしたいんですよね」
 
「ああ、いいんじゃない?でも撮影をやっている最中のその人たちの収入は?」
「ボクが払いますよ」
「そういう形にすると、アクアとそのバックバンドという形にならない?」
「ボク専用のプロダクションを作って、そのプロダクションが雇う形にします。そのプロダクションは§§プロと委託契約で」
 
「こんな巨額の利益を生むタレントさんを§§プロが簡単に独立させてくれるかな?」
 
「アクアプロジェクトの利益はその会社と§§プロとで半々ということで」
と龍虎。
 
「私はそれでいいと言った」
と宏美。
 
「比率は2:1で§§プロが2でもいいです」
と龍虎は言う。
 
「紅川さんは半々でいいと言うと思う」
と宏美。
 

「だけど、ボクも夢があって」
と龍虎は言う。
 
「これも宏美さんと話していたんですが、自分の代表曲を作り出したいんですよ」
「ほほお」
 
「今までボクの出したCDって全部ミリオン行っているけど、じゃどれが代表曲か?と言われると、どれも微妙なんですよね」
 
「『エメラルドの太陽』じゃない?」
 
「話題にはなりましたけどね〜。それにそもそもボクの出す曲ってボクの人気で売れている面があって。むしろ楽曲と歌唱を評価されるようなスッキリしたヒット曲が欲しいんですよ」
 
「なるほど」
 
「それがボクにとっても代表曲になるんじゃないかと思います。例えば松田聖子なら『SWEET MEMORIES』、ビートルズなら『Yesterday』、ラッキーブロッサムなら『六合の飛行』、XANFUSなら『ダウンストーム』、ローズ+リリーなら『夏の日の想い出』とか、そのユニットの名前を聞いたら誰もが連想する曲。そういう曲がボクにはまだ無いんですよ、そういうヒット曲が欲しいんですよね。これ多分多くの歌手の夢だと思うんですけど」
 
「それはファン以外にも物凄く支持される曲でないといけないだろうね」
 
「はい。たくさん曲を書いてくださっている千里さんの前で言うのは失礼になるのは承知なんですけど、こういうのって作曲家の先生が狙ってできるものでもないし、ボクが頑張ってできるものでもないし、偶然と幸運の作用がなければ生まれないものでしょうけどね」
 
「うん。狙ってグレイトヒットにできるなら、私ももっとミリオン出して、左団扇の生活したいよ。龍ちゃんが言うように、偶然と幸運が味方して生まれるものだろうね」
 
そんなことを言いながら千里は何か凄く大事なことを話しているような気がした。
 

3人の話し合いは明け方近くまで続いた。途中和実は一時寝ていたようで、その間はマキコが対応してくれた。マキコの作るラテアートが和実のとはまた流儀が違うので、これも龍虎は写真に撮っていた。
 
5時頃に和実が起きてきてマキコと交代した。
 
その和実に尋ねた。
 
「ふと思ったけど、昨日はオールスタンディングのイベントやったんでしょ?今はテーブルと椅子が並んでいるね?」
 
「うん。ボニアート・アサドのライブは多人数必要だから、メイドさんをフル動員している。それで人手のある内にスタンディングライブ用の傾斜付きのフロアブロックを撤去してフラットに戻した上で、今日のイベント用にテーブルと椅子を入れたんだよ」
 
「テーブルと椅子って、店内に倉庫とかあるんだっけ?」
「最初の設計では2階に倉庫を設定して、そこから運んで来るつもりだったんだけど、それは移動距離が長すぎて物凄く大変だということが分かって」
 
「ああ」
 
「それで今は家のほうの1階洋間に運び入れている。店舗と自宅玄関との間にベルトコンベヤを置いてそれで運んでいるんだよ」
 
「ベルトコンベヤ!?」
 
「でもそれも雪や雨の日は大変だという指摘があって何かうまい手がないかと思っているんだけどね」
と和実は言う。
 

「だけど2階に運ぶのが大変だというのに、家の方まで運ぶのも大変なんじゃないの?」
 
「それはそうなんだけどね。裏ロビーに置こうかとも思ったけど入りきれないんだよね」
 
「裏ロビー?」
「いやあ、冬子のアドバイスで音響がいいように客室を改造したら微妙な空間が余ってしまって」
「どんな所?」
「こちらなんだけどね」
 
コスモスも興味を持ったようで3人でその「裏ロビー」を見に行く。
 
「ここにこういう空間があったのか」
 
「冬子に言われて、客室を末広がりの形に変更したから、結果的にこういう三角形の空間が余っちゃったんだよ。表側の三角形は物販とかにも使えると思うんだけど、ここは使い道が無くてどうしようと思っている」
 

 
(↑図で客席の奥にある「積層倉庫」と書かれている部分)
 
「ここには入りきれない訳?」
 
「今なら計算上入るはずなんだけどね。追加で頼んでいる、というか元々そちらが先に発注していたんだけど、フランスで作ってもらっていたテーブルが来ると入りきれなくなるんだよ」
 
「重ねても入らない?」
「あんな重たいテーブルを重ねるという作業は、女ばかりのスタッフでは無理。椅子でもけっこう大変」
 
「うーん」
と言って、千里も悩む。
 

その時、龍虎が言った。
 
「今度ボクが入る高校の図書館の書庫が積層型になっているんですよ。あんな感じで、上の方に新たな床を作って積み上げていくことはできませんかね?」
 
「ああ!」
「要するに中二階を作るわけか」
 
「ここは1〜2階が吹き抜けになっているから、中三階か、ひょっとすると中四階くらいまで作れるかも」
 
「でも中二階を作ってそことの出し入れはどうやる?」
「エレベータというかリフトを付ければいいと思う」
と千里。
 
「スロープでもいいかも知れないけど、スタッフが女子ばかりならスロープをたぶん登りきれませんよ。お金は掛かるけどエレベータにした方がいいです」
とコスモスが言う。
 
「それって幾らくらいするんだろう?」
 
「このくらいの広さなら、たぶん1層につき100万円くらいだと思う。それと昇降機がたぶん150万くらい」
 
と千里。
 
「そのくらいで作れるなら検討してもいいかな」
と和実は言った。
 

「もし3層にするなら最初から3層で作った方がいい。2層でいったん作って足りなくなって3層に改造しようとしたら大変なことになる。リフトも最初から3層用のものにする」
 
「うん。今の段階では2層で足りるけど、確かにどうせ積層床を作るのなら最初から3層にした方がいいかもね」
 
「ところでテーブルにはキャスター付けてるんだっけ?」
「付けてくれという要望があったから、来週までに取り付ける」
「ああ、大変だね、伊藤君が」
「うん。彼にかなり助けてもらってる」
 
「椅子も付けた方がいいかな?」
「椅子にはキャスターは付けずに、移動にはキャスター付き荷台を使えばいいと思う。あれあまり高いものではないよ」
「そうか。椅子の方はそれにしよう」
 

「あれ?でも龍ちゃん、入る学校決まったの?」
と千里が訊いた。
 
「合格発表はまだなんですよ。でもほぼ確定です」
「ああ、内定状態か」
「ええ。東京北区のC学園なんですけどね」
 
「そこ女子校じゃなかったっけ?」
「この春から高等部の芸術科に限り、男子を最大3人入れることにしたそうです」
「へー!」
 
「でもだったら、それで勧誘されたの?」
「いやそれが」
と言って龍虎は頭を掻いている。
 
「別の学校の説明会に行くつもりが、間違ってそこに行っちゃって」
「ああ」
 
「それで『うちは女子校なんですけど、田代さんって性転換なさっているんでしたっけ?』と訊かれて『え?D高校って女子校なんですか?』とこちらも言って、それで間違いに気付いて」
 
「なるほど〜」
「それで実はといって、その男子枠創設の話を聞いたんですよ」
 
「間違いが発端というのは面白いね」
と千里は言う。
 
「そもそもうちのオーディションも間違いで受けたようなものだし」
とコスモス。
 
「まああれは間違いというか騙されたというか」
と龍虎。
 
「ああ、それなら私も間違ってメイドになっちゃったんだけどね」
と和実。
 
「まあ間違いというのは便利な言葉だね」
と千里は笑って言っていた。
 

その後テーブルに戻ってしばらく話していたが、6時近くになり、そろそろ眠くなってきたね、という話になった所で、解散することにする。
 
「これ朝御飯に」
 
と言って和実がオムライスを3つ作ってくれたので、ひとつずつもらう。お金を払ってお店を出てから、千里は宏美と龍虎を《こうちゃん》に乗せて、元居た栃木県のホテルに送り届けた。
 
龍虎はホテルに辿り着くとすぐにベッドに入って、すやすやと眠ってしまった。その様子を微笑んで見つめた宏美は、部屋を出てロビーに行き、そこからある人物に電話を掛けた。
 
「こんな時間に申し訳ありません。アクアの気持ちは確認できました。ドラマの展開についてはA案の方でお願いします。はい大丈夫です。万一のことがありましたら、私が腹を切りますから」
 
プロデューサーとその後しばらく話した上で宏美は部屋に戻ると、自分もベッドに潜り込んで熟睡した。
 

一方、千里はいったんお店の中に戻り、オムライスをあと2つとカフェラテにミルクをひとつずつ作ってもらって2000円払った上で、2時間後くらいにまた来ていいか?と尋ね、OKをもらう。
 
「寝てると思うから起こして」
「うん。疲れている時にごめんね〜」
「それはお互い様」
 
千里はお店の外から《ちょっとした作業》をした上で、《くうちゃん》に大阪に転送してもらった。
 

千里は大阪の貴司のマンションに来ると、わざわざ鍵を開けて中に入る。お茶を入れようと、ケトルでお湯を湧かしていたら、京平が起きてくる。
 
「お母ちゃん、おはよう」
「おはよう、京平」
と言ってキスをする。
 
「今日はおみやげ。オムライス買ってきたよ」
「わあ、なんか美味しそう」
「ミルクもあるよ」
 
「いただきまぁす」
と言って、美味しそうに食べ始める。
 
それで千里は今日の京平当番の《たいちゃん》も交えて3人で一緒にオムライスを食べながら、たくさん京平の報告を聞いた。
 
千里と京平は、京平が《くうちゃん》と共同で作り出す特殊な空間の中で会うことが多いのだが、たまにはこのマンションや、用賀のアパートで会うこともある。今日のように大阪のマンションで会う場合は《くうちゃん》に2人が会っている場をロックしてもらっているので、ここの音が貴司や阿倍子に聞こえることは無い。
 

京平とのふれあいの時間が終わると、千里は持って来たプラスチック容器と紙袋をしっかり回収して、またドアから出て行く。そしていったん仙台に転送してもらう。和実を起こそうと思ったのだが、和実は千里が携帯で電話する前に店のドアを開けて中に入れてくれた。
 
千里がお店の前に来た《雰囲気》で起きたのだという。
 
「お店で寝てたの?」
「どっちみち、もうすぐライムちゃんが出てくるから、開けてあげないといけないし」
「たいへんだね!」
 
それでオムライス4つとカフェラテ3つにミルク1つを作ってもらい、料金を4000円払う。
 
「ありがとう。じゃ今日のイベント運営頑張ってね」
「こちらこそありがとう。そちらも試合頑張ってね」
と言って別れる。
 
サンドベージュとの決戦は今夜17:00である。
 

仙台のお店の前から、大宮の彪志のアパート前に転送してもらう。朋子が鍵を開けて中に入れてくれた。
 
「おはよう」
「おはよう」
「お母さん、朝御飯にしましょう」
「何かいい匂いがするね」
 
彪志と桃香を起こす。
 
「おお、ハートマークのオムライス」
「和実のお店で買ってきた」
「仙台に行って来たの?」
「うん。でもすぐ出かけるから、お昼は適当に食べててね」
 
「このカフェラテ、ラテアートが凄い!」
と彪志が言っている。
 
「よくこういうの造形するよね〜。職人芸だよね」
 
この中で仙台で作ってもらったオムライスが熱々で、カフェラテのラテアートも崩れていないことに疑問を感じたのは朋子だけである!桃香は何も考えていないし、彪志は青葉との付き合いで、たいていの不思議なことには慣れてしまい、鈍感になっている。
 

4人でオムライスを食べ、朋子と彪志と千里はカフェラテ、桃香はミルクを飲む。それで食事が終わると千里は
 
「じゃ、そろそろ行くね」
と言う。
 
「千里、今夜は?」
と桃香が訊く。
 
「都内で夜10時くらいまで用事があるんだけど、そのあと深夜長野県まで行ってこなくちゃいけない。夜中2時から会議で」
 
「長野〜!?2時〜!? 千里、ほんっとに忙しいね」
 
「帰りは明日の朝。向こうで何か買ってくるね」
「あ、長野だと、お焼きがあるといいな」
「OK。あったら買ってくるね」
 
と言って、千里は出かけた。
 
そのまま用賀の自分のアパートに転送してもらい、シャワーを浴びてから取り敢えずぐっすりと寝た。
 

 

お昼過ぎに目を覚ます。
 
「さすがに疲れたなあ」
と独りごとを言い、お肉を焼いて御飯の上に乗せ豚丼にして食べると、結構元気が出る気がした。オールジャパン決勝戦が行われる国立代々木第1体育館に行く。
 
一般にバスケットでは女子の試合が前座で男子が真打ちという感じの扱いなのだが、今年のオールジャパンでは、今日は12:00, 14:00 に男子の準決勝2試合が行われ、その後で女子の決勝となる。男子の試合が前座のようで少し気分がよい。
 
チームのメンバーと合流する。純子はいつものように元気だ。
 
純子も絵津子も常にポジティブで、見ていて気持ちが良い。しかしその純子も今日は最大のライバルであるその絵津子との決戦だ。おそらくお互いにマーカーになるのだろう。
 
千里のマーカーになるのは誰だろうか? 大沼マリアか、翡翠史帆か。大沼は静岡L学園→東京W大の出身で、2015年度に千里がW大学に練習に行っていた時期、たくさん手合わせしている。ユニバーシアード代表候補にもなっていたのでユニバーシアード代表の練習でも一緒になっている。
 
翡翠史帆と千里はオールスターの投票で最後まで得票を争った。そのオールスターは来週である。
 
千里は目を瞑って瞑想に近い状態で、昨年までサンドベージュを牽引していたシューター、三木エレンのことを考えていた。たぶん彼女は藍川真璃子以降で最大のシューターだった。藍川真璃子は1970年から1983年まで日本代表を務め、三木エレンは1995年から2015年まで日本代表を務めた。藍川と三木の間には、丸山・佐原・大川などのシューターもいるが、藍川と三木に比べると実績は小さい。自分はフル代表に入ったのが遅いからさすがにあの2人のような実績はあげられないなあ、などとも考える。
 

男子の準決勝が終わった後、コートの清掃が行われる。
 
照明が落とされた代々木第1のセンターコートのサイドライン外側に両軍のスターティング5が並ぶ。そしてディフェンディング・チャンピオンのサンドベージュから選手がひとりずつ紹介される。続いてレッドインパルスのスターター5人が紹介される。そして両軍5人ずつの選手がコートに並んだ。
 
SB 田宮寛香/翡翠史帆/沼田久恵/平田徳香/夢原円
RI 入野朋美/村山千里/広川妙子/勘屋江里菜/三輪容子
 
結果的に絵津子も純子もベンチスタートとなった。
 
円と容子でティップオフが行われる。
 
17:09 ゲームは開始された。
 
千里にとっては初めてのオールジャパン決勝戦である。
 

試合は均衡した感じで始まる。
 
両軍ともベテラン選手が多いので、お互い知り尽くしている感があり、攻めが予測されて停められてしまう。攻防が入れ替わるだけで点がなかなか入らない。このあたりは未知の相手と戦うことの多い国際大会との違いだなと千里は思いながらプレイしていた。
 
Wリーグの新エースになった感の円に、容子もかなりいい線で戦っており、見応えのある戦いが続く。
 
しかし千里は史帆を圧倒する。千里は史帆のマークをまるで黙殺するようにどんどんスリーを放り込む。あまりに差が出るので史帆が心細そうにベンチを見るが、ベンチは動かない。それで気合いを入れ直して対抗してくるものの全くかなわない。
 
恐らくは彼女の成長のためにはここで千里とマッチアップさせておくことが大事と考えたのと、まだ序盤なので充分挽回できるとみたからであろう。
 
一方でPF対決、センター対決はややサンドベージュ側に分(ぶ)がある感じで進行した。それで第1ピリオドは24-22で終了した。22点の内、12点が千里の得点である。
 

第2ピリオドでは第1ピリオドに出ていなかった選手を中心に運用した。ここで絵津子(SB)と純子(RI)の対決ができるので、お互いに物凄く張り切っていた。ふたりは高校1年の時以来好敵手として鎬(しのぎ)を削ってきた。この日もお互いマーカーになって、闘魂あふれるプレイを見せていた。
 
このピリオドを20-16で終える。
 
前半合計で44-38である。
 
ここまでは6点差はあっても、ほぼ互角で戦っている感じであった。
 

ハーフタイムショーではお正月っぽく振袖を着た女性たちの集団パフォーマンスが行われていた。
 
「きれーい」
という声があがっているが、千里は目を瞑って瞑想するかのようにしていた。
 
「でもあの最前列右から2番目の子、ちょっと男の娘っぽくない?」
んどと長原有香が言っている。
 
「そう言われるとそんな感じもしないでもないけど、どうだろうね」
と小松日奈。
 
「だけど周囲には男みたいな女がたくさんいるからなあ」
と桔梗乃愛。
 
「女湯で悲鳴あげられたことのある人はこの中でも多いでしょ?」
「まあそれはお互い様で」
 

第3ピリオド、双方とも示し合わせていたかのように、今年が最後かもという選手が全員出た。レッドインパルスの今年いっぱいでの引退を表明している三笠さん、春名さん、勘屋さんが出ている。
 
ところがこのピリオド前半にバランスが崩れた。おそらく彼女も今年いっぱいで引退と思われるサンドベージュのポイントガードで主将の田宮さんが、パス筋を塞がれていたことから自ら侵入してレイアップシュートを決めたのに端を発し、突然「ポイントゲッター」に目覚めてしまったのである。
 
どんどん自ら得点を決めるし、スティールも決める。それでほんの数分の間にひとりで12点取り、そこまでの得点が60-42と18点もの大差になってしまう。
 
レッドインパルスの松山監督もひじょうに短時間にゲームが動いたので対応が遅れた。
 
タイムを取って、主力を投入するも、田宮さんの勢いが止まらない。こちらは最初広川キャプテンがマッチアップしていたのだが、今日の田宮さんは普段の田宮さんではない。広川さんは「え〜〜!?」という顔をしている。
 

広川キャプテンは彼女の対応を純子にするよう言った。すると向こうは絵津子を出して来て、絵津子が純子を誘うようにする。こちらは千里が出て行き、絵津子の相手は千里がすることにした。
 
純子も今日の異様な雰囲気の田宮さんに最初かなり戸惑っていたが、持ち前の勘で何とか対応していく。それでやっと田宮さんの勢いを止めることができた。
 
しかしこの回、サンドベージュは大きく点差を付けて66-52と14点差である。
 

第3ピリオドが終わった後のインターバルでレッドインパルスのベンチはムードが悪かった。いつもいい所まで行って、サンドベージュには苦渋を飲まされている。それほどまでにサンドベージュは強い。今回も予想外の田宮さんの頑張りがあり、思わぬ大差を付けられてしまった。
 
これを挽回できるか?
 
キャプテンを初めベテラン選手達の雰囲気が暗い。
 
しかし純子は元気である。
 
「さあ、みなさん、次のピリオドは見せ場ですよ。ここから逆転して、20点差で勝利しましょう」
と威勢の良い言葉を挙げている。
 
「ジュンは元気だね」
とキャプテンが苦笑しながら言う。キャプテンもここは踏ん張り時だと分かっているだろうが、今までたくさん負けているだけに、やはり勝てないのかなあという方向に考えてしまうのだろう。
 
「男の娘は純粋な女の子に比べて恋愛では不利かも知れないけど、男の娘ならではの魅力で迫ると、かえって女の子にはできない大胆な迫り方もできて、彼氏のハートをキャッチできる場合もあるんですよ」
と純子が言うと
 
「何の話をしている?」
と勘屋さんが呆れている。
 
「んじゃ、最後のピリオドは男の娘疑惑のあるメンツで出て行ってもらおうか」
と黒江コーチが笑って言った。
 
「私も中高生時代、よく男の子だと思われていたよ。男の娘じゃなくて男の子ね」
と183cmの黒江コーチは言っている。
 
「じゃ、誰々ですか?」
「まず186cmのヒナ」
「はい」
と小松日奈が苦笑して手を挙げる。
「男の子と思われてたろ?」
「銭湯に行くとふつうに『あんたこっち違う』と言われました」
 
「181cmのジュン」
「はい。私も普通に男と思われてました」
と渡辺純子。
 
「176cmのホープ」
「まあ男と思われるのには慣れてますね」
と久保田希望。
 
「173cmのジーコ」
「私実は男ですというジョークを言おうとすると、だいたい他の人に先を越されます」
と黒木不二子。
 
「そして自分は男の娘であると主張しているサン」
「それ本当なんですけどね〜」
「でも一昨年子供産んでいるし」
「最近の男の娘は子供も産めるんですよ」
 
チームメイトはみんな千里が乳パッドを使用しているのを知っているので、妊娠出産したのは間違い無いと思われており、それで男の娘という話はジョークとみなされている。
 
「じゃその5人の男の娘パワーでサンドベージュを倒してきて」
「分かりました!」
 

第4ピリオドは双方このようなラインナップで来た。
 
SB 山岸典子/翡翠史帆/湧見絵津子/広川久美/夢原円
RI 黒木不二子/村山千里/渡辺純子/久保田希望/小松日奈
 
若手主体であるが、千里はたぶんこれが本当の両者の最強ラインナップだと思った。不二子は登録はPF(パワーフォワード)であるが、実際にはガードフォワード(GF)の性格が強く、旭川N高校時代からしばしばポイントガード役も務めていた。
 
松前乃々羽は「パスの下手な」ポイントガードだが、黒木不二子は「ドリブルが下手な」ポイントガードで、どちらもポイントガードに絶対必要なものが欠けている。しかしそれが意外性を生み出す。千里も純子も希望も日奈もそういう不二子のプレイをたくさん見ているし、純子や希望は高校時代その「下手なドリブル」に散々やられてきている。
 
このピリオドの相手では、不二子のドリブルが下手であることと、それに突っ込むと絶対やられることを認識しているのは元チームメイトの絵津子だけである。
 
いかにもスティールできそうに見えるので突っ込んで行くと、絶対に失敗するのである。
 
この日も山岸典子がスティールに行くと、不二子はそれを見てドリブルを失敗し、ボールが転がっていったものの、そこに希望が走り込んでボールを拾い、結果的に典子が飛び出してきて抜けた穴から中に突っ込んで得点するというプレイがあった。
 
典子が「え〜〜!?」という顔をしていた。それで絵津子に「あれ突っ込んでいったらだめ」と注意していた。
 

翡翠史帆はこのピリオドでも千里とマッチアップして負け続けた。サンドベージュの監督もかなり我慢していたものの、途中であきらめ。大沼マリアを出してくる。しかしマリアは千里によけい勝てない。マリアは最近の1年間の千里の進化を知らないのである。監督は絵津子に千里を対応させたいのだが、純子が絵津子を離してくれないので、結果的にマリアの担当になってしまうのである。
 
そういう訳でこのピリオド残り2分までに千里は5本のスリーを放り込む。一方、サンドベージュは不二子の“ハプニング・プレイ”に翻弄されて、なかなか点数が取れなくなっていた。それでこの時点で80-72まで追いすがったが、この15点は千里と純子の共同作業によるものともいえる。
 
ここでレッドインパルスは相手に混乱をもたらして健闘した不二子を下げて、鞠原江美子を投入する。相手はホッとした感もあったが、今度はサンドベージュはこのラインナップから誰が攻撃の起点になるのか判断できなくなったようで、さっきまでとは別の混乱が生じる。それで江美子・純子・希望に連続得点を許してしまう。
 
これで80-78まで追撃して、もうあと1ゴールで追いつく状態である。
 

サンドベージュが絵津子で2点取り、レッドインパルスが千里の今日10本目のスリーで82-81と1点差に迫る。
 
サンドベージュの攻撃。残りは23秒。ショットクロックは止まる。
 
ところがここで田宮寛香(SB)から夢原円(SB)へのパスをうまく純子(RI)が途中カットした。そのまま速攻に行くが、絵津子(SB)が必死で戻って回り込み何とか停める。純子は反対側に走り込んで来た小松日奈(RI)にパスする。日奈がそのまま中に侵入しようとするが、大沼マリア(SB)に阻止される。日奈はミドルシュートに切り替えて、そこから撃った。ゴールまで4mくらいである。
 
入るか!?
 
やや微妙か?と思った時、ゴールから1.5mくらいの所に走り込んで来た夢原円(SB)が思いっきりジャンプし必死に手を伸ばし、かろうじて指を当てる。
 
ボールは円の指に当たって軌道が変わり、バックボードに当たった上でコートの端に飛んで行き、そのままアウトオブバウンズとなった。
 

審判が笛を吹いた。
 
ああ、ゴールテンディングになったかな、と千里は思った。
 
バスケットでは、シュートされたボールが最高点に達し、落ち始めた後を叩くのは違反である。ブロックする場合は、最高点に到達する前の、放物線の前半にブロックしなければならないのである。
 
この、一般の人にはやや不思議に思えるかも知れないルールは昔NBAでジョージ・マイカンという物凄く長身の選手がいて、相手チームのシュートがゴールそばにスタンバイしているマイカンに全てブロックされてしまうという事態が起きたために、導入されたものである。野球の走塁妨害に似たルールと言えるかも知れない。
 
円がもう少し日奈に近い位置でブロックしたのなら正当なブロックなのだが、今ブロックした位置はゴールに近すぎたのである。
 
計算上は小松日奈の背丈で4mの距離から50度の角度でシュートされたボールは回転を無視して計算した場合、2.4mの距離を飛んだ所で最高点(床から3.5m)に達する。つまり円がゴールから1.6m以上離れた地点までにブロックすれば正当なブロックだったのだが、円がブロックした場所は、その最高点に到達したポイントより、わずかにゴールに近かったようだ。
 
実際千里の目にもボールのカーブの頂点の少し先で円は弾いた気がした。ただ3.5mなどという高さに指が到達した円も物凄い。
 
おそらくは円も頂点に到達する前にはじけるかどうか五分五分と見たのだろう。しかしそのまま放置すれば日奈のシュートはかなりの確率で入る。それを阻止しようとしたのは当然である。
 
むろんそんなプレイは円の背丈とジャンプ力が無ければできないことで、うまく行っていたら、円のスーパープレイになっていた所であった。
 

夢原円もゴールテンディングを素直に認めて手を上げている(ちなみにゴールテンディングはファウルではない)。
 
そして審判は右手の指を2本立てている。得点ボードが82-83となり、場内アナウンスは「2ポイントフィールドゴール、レッドインパルス小松日奈」と言っている。
 
これでレッドインパルスの逆転である。
 
場内が騒然とする。
 
日奈のシュートはゴールに入っていない。
 
それなのに2点が認められるというのに、サンドベージュのファンが納得していない。レッドインパルスのファンでさえ戸惑っている。
 
試合は大事な山場である。罵声まで飛んでいる。
 

主審はきちんと説明した方がいいと判断したようである。
 
マイクを取って説明する。
 
「今のプレイ、青の23番(日奈)のシュートが最高点に達し、ボールが落ち始めた直後に、白の10番(円)がボールに触れました。これはゴールテンディングになり、ボールはたとえゴールに入らなかったとしても、得点が認められます。従って今のプレイで青側に2点が入ります」
 
主審の説明で『ボールが入らなかったけど得点になる』というルールがあるのだということを多くの観客が理解したようであるが、それでもそんな細かいルールは知らない人も多いので、相変わらずかなりの観客が納得していないようである。
 
選手達が困惑している。
 
日本一のチームを決める大会の決勝戦。その最後の最後でこのような微妙なプレイが生まれてしまったことに、お互いすっきりしない思いができてしまった。千里はこれはこのまま勝っても、後味が悪くなるという気がした。
 
その時唐突に昨夜アクアとコスモスと夜通し話した時に、アクアが言っていたことばが思い起こされたのである。
 
『自分はスッキリとしたヒット曲が欲しい』
 
そうだ。スッキリしないままの状態で勝っても後味が悪い。だったらスッキリとした状態で勝てばいいんだ。
 

千里は場の雰囲気が騒然としていて、みんなが少し浮き足立っていることを認識する。まだ審判に罵声を浴びせている観客もいる。選手も全員気持ちが乱れそうになるのを何とか抑えようとしている。
 
チャンスだ!と千里は思った。
 
試合が再開される。
 
残りは5秒である。
 
サンドベージュは逆転する気、満々である。
 
何と言っても自分たちのボールだ。
 
サンドベージュは広川久美がセンターライン付近、他の3人はゴール近くに陣取る。レッドインパルスの選手もゴール近くに集まる。
 
田宮が審判からボールをもらい、大きく振りかぶる。
 
田宮は意外にもセンターライン付近に居る久美に向けて投げた。
 
つまりコートの端から端まで投げると、どうしてもコースの精度が落ちる。どちらの選手が取るかは50:50(フィフティー・フィフティ)になってしまう。それより、確実に味方にボールをつなげるように敢えて中継したのである。
 
それでボールを受け取った久美が「エン!」と叫んでボールを投げた時のことであった。
 

いつの間にか久美のそばに来ていた千里がそのパスをブロックするかのようにきれいに叩き落とした。
 
そして落ちたボールをそのままドリブルに変えて走る。
 
スリーポイントラインの手前で停止して、きれいなフォームでシュートする。
 
直後に試合終了のブザーが鳴った。
 

このブザーが鳴った時点で既に勝敗は決していた。
 
だから千里のシュートが入るかどうかは、この試合の結果には影響しない。
 
しかし千里は「スッキリ」と勝ちたかったのである。
 
実は久美がボールを受け取る時、千里は気配を殺して久美の背面に立っていたのである。それで気配を殺しているので久美自身は気付かず、久美の陰になっていたので、投げた田宮も気付かなかった。
 
しかもサンドベージュは白いユニフォーム、レッドインパルスは赤いユニフォーム。白いユニフォームの選手の後ろに隠れると目立たないのである。身長も広川久美は173cm、千里は168cmで久美の方が大きい。
 
千里は昔U20アジア選手権で190cm以上の長身で白いユニフォームを着た中国選手の後ろに黒いユニフォームを着た167cmの竹宮星乃が隠れていて、パスを横取りする形で日本の勝利につながるスティールを決めたことを思い出していた。
 

千里が放ったボールは美しい放物線を描いて、ダイレクトにゴールに飛び込んだ。
 
審判が3点のジェスチャーをしている。
 
「3ポイントフィールドゴール、レッドインパルス村山千里」
という場内アナウンスがある。
 
得点板が82-86となった。
 
これで試合終了である。
 

サンドベージュの応援席からため息が漏れ、レッドインパルスの応援席から物凄い歓声が聞こえてくる。
 
千里は追いついてこちらのコートに来た純子・江美子と笑顔で抱き合った。向こう側では、希望と日奈が抱き合っている。ベンチに居た選手も飛び出してきてハグし合う。
 

整列する。
 
「86-82でレッドインパルスの勝ち」
と主審が告げた。
 
お互いに相手のベンチに挨拶に行く。観客席のファンにも挨拶する。
 
その後、胴上げが始まる。
 
松山監督、黒江アシスタントコーチ、小坂代表、そして広川キャプテン、勘屋さん、三輪さん、更には千里が胴上げされ、純子、日奈も胴上げされた。
 

10分ほどおいて表彰式が始まった。
 
最初に個人成績が発表される。
 
「得点1位は村山千里・レッドインパルス125点、2位・夢原円・サンドベージュ75点、3位・高梁王子・ジョイフルゴールド69点」
 
王子のジョイフルゴールドは準々決勝で敗退していたのだが、表彰式のために呼ばれていたようで、名前を呼ばれて、ゲスト席で頭を下げていた。千里は目が合ったので手を振っておいた。王子の隣には玲央美と渚紗も座っていたが玲央美がすぐに名前を呼ばれた。
 
「アシスト1位は佐藤玲央美・ジョイフルゴールド32本、2位は入野朋美・レッドインパルス26本、3位・翡翠史帆・サンドベージュおよび松前乃々羽・ハイプレッシャーズ共に25本」
 
玲央美も立ち上がってお辞儀をしている。彼女にも手を振っておく。
 
「リバウンドは1位・夢原円・サンドベージュ41本、2位・堀江希優・ハイプレッシャーズ32本、3位・三輪容子・レッドインパルス28本」
 
ハイプレッシャーズの堀江希優が2位に食い込んだのは、何と言ってもあの快進撃のおかげで、乃々羽の貢献度が高い。
 
「スリーポイントは1位・村山千里・レッドインパルス39本、2位は中折渚紗・40 minutes 21本。3位は萩尾月香・ビューティーマジック15本」
 
このほか、ブロックショットは夢原円、スティールは広川妙子が1位であった。
 
なお1試合あたりの数字では、RI, SB, HPが4試合、JG, 40, BMが3試合なので
 
得点は 1.千里 31.25/ 2.王子23.0/ 3.円 18.75
アシスト 1.玲央美 10.67/ 2.朋美 6.5/ 3.史帆&乃々羽 6.25
リバウンド 1.円 10.25/ 2.希優 8.0/ 3.容子 7.0
3P 1.千里 9.75/ 2.渚紗 7.0/ 3.月香 5.0
 
となり、微妙に順位が入れ替わった。
 
(試合数は 4=RI SB Hi W大/ 3=BM JG 40 Rocu TS大 岐阜F/ 他は2試合以下)
 

各部門の1位に記念品が渡される。
 
千里・玲央美・円の3人が前に出て、千里が得点と3P、玲央美がアシスト、円がリバウンの1位の賞状と記念品を三屋裕子会長から受け取った。3人でお互い握手する。2位以下への賞状は後で事務局から伝達される。
 
続いてベスト5が発表される。
 
「松前乃々羽(Hi)、村山千里(RI)、渡辺純子(RI)、湧見絵津子(SB)、夢原円(SB)」
 
このコールに会場がどよめく。名前を呼ばれた乃々羽本人が「うっそー!?」という声を挙げた。しかし、今大会の快進撃の立役者である。成績だけから見たら選ばれて当然だ。チームメイトたちから笑顔で拍手され前に出る。
 
今回は決勝戦に進出した2チームは、サンドベージュは田宮寛香・竹山裕美・山岸典子、レッドインパルスは三笠恵比子・入野朋美・湊川妃菜と各々3人のポイントガードが分散して使われており、誰か1人卓越した成績を残した人は居なかったのもあったかな、と千里は思った。
 
純子と絵津子も驚いていたようだが、実際の2人のプレイを見れば当然であろう。数字だけでは高梁王子や佐藤玲央美の方がいいかも知れないがやはり準々決勝で敗退したチームから選ぶわけにはいかなかったであろう。
 
5人が前に出て、賞状とトロフィーに記念品の入った箱をもらった。お互いに笑顔で握手しあった。
 

そしていよいよチームの表彰である。
 
まず3位の、ビューティーマジックとハイプレッシャーズが表彰台に登る。バスケット協会のふたりの理事さんから全員銅メダルを掛けてもらう。そして各々のキャプテンが3位のプレートを受け取った。
 
続いて準優勝のサンドベージュのメンバーが表彰台に登る。Wリーグ会長でもあるバスケット協会の副会長から銀メダルを掛けてもらう。そして準優勝のプレートと賞金(200万円と書いたボード)をもらう。
 
最後に優勝のレッドインパルスのメンバーが表彰台に登る。バスケット協会の三屋会長の手で金メダルを掛けてもらう。その後、広川キャプテンが皇后杯の銀色のカップを受け取り、勘屋さんがJOC杯、三笠さんが日本バスケットボール協会杯、朋美が優勝のプレート、賞金(500万円と書かれたボード)を春名さんが受け取り、千里がウィニングボールを受け取った。
 
君が代の音楽が流れる中、日の丸、バスケ協会のマークが描かれた旗、そしてレッドインパルスのエンブレムを染め抜いた旗が、掲揚された。
 
大きな拍手の中、女子の部の閉会が宣言され、選手が退場する。その後は各軍入り乱れて交歓した。
 
「最後はやはり男の娘パワーで頑張れましたね」
などと純子が言っているので、絵津子が
「何それ〜?」
と言う。
 
「うん。実はうちのチームは全員男の娘なんだよ」
「それは凄いことを知ってしまった」
 
 
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