【娘たちの振り返るといるよ】(1)

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龍虎はその日、親友の南川彩佳が出場する子供囲碁大会を見学に行くことにしていた。龍虎自身は彩佳に色々教えられて、“二眼を作った地は取られないこと”と、序盤の布石の打ち方(小目打ち:初心者は星では辛い)、それに多少の簡単な定石を覚えているくらいである。彩佳によれば“30級程度”という話だ。しかし彩佳は結構強いらしく、春の市内子供囲碁大会ではBEST8まで進出したらしい。
 
今回は埼玉県大里・児玉地区(*1)の大会で、春の大会と直接の関係は無いものの、春よりレベルの高い大会らしい。
 
「彩佳、何着ていくの?」
と同様に見学に行くことになった桐絵が尋ねる。
 
「振袖着ていくことになってしまった」
と彩佳。
 
「すごーい!彩佳、振袖なんて持ってるんだ?」
「従姉が小学生の頃に何度か着た着物らしい。小振袖といって、普通の振袖よりは袖丈が短いんだよ。普通の振袖を私の身長で着ると、袖を地面に引きずってしまう」
「なるほどー」
 
その話を聞いて龍虎は、そういえば小さい頃に振袖を着て民謡の大会に出たことがあったなぁというのを思い出していた。あの振袖頂いたけど、どこにしまってたっけ?などと思う。
 
「私たちは普通の服でいいんだよね?」
と桐絵。
「うん。普通の洋服でいいよ」
と彩佳は言ったが、龍虎の表情を不思議そうな顔で眺めていた。
 

(*1)埼玉県は伝統的には下記の9郡(地区)に分けられる(最近これとは別の10地域方式の分類も行われ始めている)。
 

(↑平成大合併前の自治体境界による地域区分)
 
東側に北葛飾郡・南埼玉郡・北足立郡。
西側に秩父郡、中央に比企郡、その南に入間郡。
北側に東から北埼玉郡・大里郡・児玉郡。
 
龍虎が住む熊谷市は大里郡、西湖が住む桶川市は北足立郡である。
 
2020年頃には亜矢芽と翔和が熊谷、千里と由美・緩菜・早月が浦和、波留と幸祐が久喜に住み、康子はその3ヶ所のどこにでも短時間で移動できる桶川に住むようになる。桶川から見ると熊谷は北西20km, 浦和は南東20km, 久喜は北東12km になる。なお康子のもうひとりの孫である奏音は富山県高岡市に住む。
 

2012年9月29日〜10月3日。岐阜県高山市で国体バスケット競技が行われた。今年は成年男子が47都道府県代表だったので(*2)、貴司は大阪代表のメンバーとしてこれに参加した。
 
しかし1回戦で長野代表に敗れ、初日で帰ってくることになってしまった。今回の代表は大阪のトップチームAL電機の選手が中核で、実際問題として貴司はこの試合であまり使ってもらえず、彼自身としても不満の残る大会となった。
 

(*2)国体バスケット競技では、成年男子・成年女子・少年男子・少年女子の4つのジャンルの内、どれかひとつだけが47都道府県代表で行い、他の3つはブロック代表(北海道・東北・関東・北信越・東海・近畿・中国・四国・九州の9地区11代表)+開催県の12チームで行われる。
 
どのジャンルが47都道府県代表になるかは年によって違い、2018年までの大会ではこのようになっている。
 
少年男子 2007 2010 2014 2018
少年女子 2006 2011 2015
成年男子 2008 2012 2016
成年女子 2009 2013 2017
 
(2006,2007の所は誤りでは無い。ここだけ順序が逆である)
 
なお「少年」の部には現在高校生が出場しているが、2019年茨城大会以降はU16の設定になる。つまり2018年時点の高校生は2019以降は成年の部に出なければならない(高校2年でも誕生日前なら出場可能)。結果的に“高校三冠”は2019年以降は発生しないことになるだろう。
 

貴司は翌日には大阪に戻りMM化学のチームに合流した。大阪のリーグ戦は10月20日(土)から始まる。その前に10月6日からは近畿実業団選手権も始まる。チームは「オールジャパン目指して頑張るぞ!」などといって盛り上がっていた。
 
しかし貴司はチーム内で練習していて、物足りなさを感じていた。
 
もっと強い人たちに揉まれたい。
 
それは今年貴司が初めて日本代表の人たちと一緒に練習をし、外国代表との試合に出て感じたことだった。そしてようやく千里が前々から「もっと強いチームに行くべき」と言っていたことの意味が分かったのである。そうだ。千里は高校3年の時から日本代表に入って強い人たちと一緒にやっていた。そのハイレベルを知っていたから自分にも荒海に揉まれろというのを言ってきたのだ。それを貴司はやっと理解した。
 
10月6-7日(土日)に近畿実業団選手権は1〜3回戦が行われ、貴司たちのMM化学は1回戦不戦勝、2回戦は快勝したものの、3回戦で兵庫県の強豪に敗れて準決勝に進出できなかった。
 
この大会は2位までが来年秋の全日本実業団競技大会に進出できたのだが、そちらには行けない。一応来週行われる順位決定戦で7位以内に入れば全日本実業団選手権には行けるのだが、オールジャパンに行くためには選手権ではなく競技大会の上位に入って社会人選手権に行く必要がある。
 

10月6日(土).
 
その日龍虎は何だか嫌な予感がしていた。
 
この日は母が合唱部の大会の引率、父が吹奏楽部の大会の引率で朝早くから出かけていた。龍虎は8時頃になったら適当な服を着て駅まで行こうと思っていた。ところが7時すぎに、唐突に川南がやってくる。
 
「おーい、龍、元気か?」
といつものように明るい。龍虎はとっても嫌な予感がした。
 

川南は勝手に鍵を開けて中に上がり込んでくる。
 
(川南と夏恋はこの家の鍵を持っている。実は彩佳も鍵を持っている!)
 
「お母さん、お父さんは?」
「ふたりとも部活の引率」
 
「学校の先生も忙しいなぁ」
「ほんと大変みたい」
 
「じゃ、龍は私たちと一緒にバスケの試合見に行こうよ」
「バスケ?」
 
「リンク栃木vsトヨタ自動車アルバルクだぞ。市岡ショーンと田臥勇太の対決が見られるぞ。これ、ゴールドチケットで入手に苦労したんだから」
などと川南は言っているが
 
「ごめーん。ボク今日は友だちの出る囲碁大会見に行く」
と龍虎は言う。
 
川南さんに連れて行かれたら、きっとまた女装させられる!と龍虎は思う。用事があって良かった!
 
「へー。それどこで何時から?」
「えっと・・・10時からだけど。深谷市文化センター」
「何時に終わるの?」
 
彩佳はお昼過ぎには終わると言っていた気がしたけど、遅めに言っておいたほうがいいだろうと思う。きっとバスケの試合はお昼過ぎくらいからなのではなかろうか。
 
「たぶん2時くらいかなあ」
「だったら間に合うよ。試合は4時半からだから。深谷から大田区まで1時間半もあれば行くよ」
 
え〜〜〜!?
 
(この日のこの試合は本当は16:00からだったのだが、川南は時間を勘違いしている。なお、チケットは直接行くことにしていた夏恋が持っている)
 
それで結局この日、龍虎は彩佳の囲碁大会を見た後、東京の大田区総合体育館に行ってバスケの試合を見ることになってしまったのである。
 
「午前中には渋谷あたりで龍にかっあいい服を買ってあげようと思っていたのに」
などと川南は言っている。
 
どうやら今日は女装は免れるかな?とホッとするとともに、少し惜しい気もした。
 

「ところで龍虎は何着ていくの?」
「え?普通の服だけど」
「普通の服というと、ワンピースとか、マリンルックとか」
「トレーナーにズボンだよ!」
 
「それはいけない。やはり龍虎のズボンは全部廃棄して箪笥の中はスカートだけにしなくては」
などと川南は言っている。
 
「まあ大会に出る子は振袖らしいけどね」
 
と言ってしまったことを龍虎は後悔することになる。
 
「振袖か!確か龍も振袖持ってたよな?」
「え?え?」
 

「確か押し入れに入っていたぞ」
 
と言って、川南は勝手に脚立を持ってくると、押し入れの上の天袋を開ける。そしてそこから桐の衣裳ケースを取り出した。そこには数枚の浴衣の下に確かに青い振袖が入っていた。
 
龍虎はそれを見てドキッとした。
 
こんな所に入っていたのか・・・。
 
「おお、長襦袢、肌襦袢もあるではないか。これ着よう」
「え〜〜〜!?」
 
ところがその振袖を着たのはもう4年くらい前のことなので、肌襦袢は入らない。
 
「入らないから着るのは中止ということで」
「いや、肌襦袢はスリップで代用できる」
 
と言って、川南は龍虎の部屋の衣裳棚を勝手に開けると、スリップを取り出す。川南はそのスリップを取り出す時に全く迷わずに引き出しを開けた。つまり、どこに何が入っているか把握しているようである!ボクの部屋なのに。
 
それで結局そのスリップに合うパンティということで、シルク風のきれいなパンティを穿かせられてしまう。それでスリップも着せられて、その上に長襦袢(これは何とか入った)を着せられ、最後に青い振袖を着せられた。
 
龍虎はドキドキしていた。“青い振袖”には別の想い出があるのだが、そのことを龍虎は人に言ったことがない。この青い振袖は、浦和に住んでいた時に民謡の先生から頂いたものだが、青い振袖を見る度に“ある人”のことを思い出す。それは胸がキュッとなる記憶だ。
 

振袖の着付けはどうしても時間が掛かる。龍虎は川南に言われて先にトイレに行ってきてから着付けしてもらったのだが、その間に桐絵から電話が掛かってくる。
 
「ごめーん!ちょっと遅れるから先に行ってて」
と返事しておいた。
 

きれいに振袖を着せられた所を鏡で見て、ちょっと涙腺が潤う感じである。帯は一緒に入っていたオレンジ色の青海波(せいがいは)模様の帯を締めてもらった。
 
感動しているふうの龍虎を見て川南は言った。
 
「龍、この振袖着せたらすごくいい顔になった。この振袖好き?」
 
龍虎は素直にコクリと頷いた。
 
「龍、自分で振袖とか着れる?」
 
龍虎は首を横に振る。
 
「じゃ今度少し着方を教えてあげようか?」
「うん」
と龍虎は珍しく素直に返事をした。
 

ともかくも、そういう訳で龍虎は川南に振袖を着せられて一緒にお出かけすることになったのである。
 
川南の運転するマーチに乗って深谷市文化センターまで行く。
 
「少し遅くなったかも。駐車場に入れておくから先に入ってて」
と言われて玄関の所でおろしてもらう。
 
それで中に入って行っていたら
 
「君、もう登録してる?」
とピンクの振袖を着た24-25歳くらいの女の人から訊かれる。
 
「あ、いえ。今着いた所で」
と答えながら、登録って何だろう?と思う。
 
「じゃここにすぐ名前書いて。本当はもう締め切り3分過ぎているよ」
「ごめんなさい」
 
龍虎はなぜ叱られるのかよく分からなかったが、取り敢えず謝った上で渡された名簿に「熊谷QS小学校5年・田代龍虎」と署名した。
 
「あなた何級?」
と訊かれる。
「きゅう?」
「囲碁の級数よ。それとも段位持ってる?」
 
「あ、えっと友人が『あんたは30級』と言ってました」
と龍虎が言うと
 
「30級かぁ。分かった。じゃ対局場所はこれに表示されるから、表示が出たらそこに行ってね」
 
と女の人は笑うようにして言い、龍虎に何やら四角い、ディスプレイのある小さな機械を渡した。(ポケベルであるが龍虎はポケベルというもの自体を知らない)
 

“たいきょく”って何だろう?と思いながら、龍虎は彩佳たちを探してフロアの中を歩き回る。
 
やがて見つけるので近寄っていく。
 
「ごめーん。遅くなった」
と龍虎が彩佳と桐絵に声を掛けると、2人はギョッとしている。
 
「なんか凄い服を着てきている」
「川南さんに着せられたんだよぉ」
「そういうことか!」
と言って、ふたりは笑った。川南がしばしば龍虎に“かぁいい”格好をさせるのは、ふたりにもすっかりおなじみである。
 
「でも入場するのにも時間制限があったのかな。遅刻とかいって入口の所で叱られちゃった」
 
「へ?」
 
「それに入場するのに記名するのね。それで名前を書いたら、これ渡されて、数字が出たらそこに行けと言われたけど、どういう意味だろう?」
 
と言って龍虎がポケベルを見せると、彩佳は顔をしかめている。桐絵は呆れたような顔をしている。
 
「龍、それは参加者が持つポケベル」
「え!?」
「つまり龍は今日の大会にエントリーしたということね」
と彩佳。
 
「え〜〜〜〜!?」
 
「ふつうただの見学者はこんな服着ないから、張り切ってこんな服を着てきたのは当然参加者だろうと思われたんだね」
と桐絵。
 
「ど、どうしよう?」
と言って龍虎は焦るが
 
「まあ、龍の実力なら最初の対戦で簡単に負けるだろうから、その後は適当に見学していればいいよ」
と彩佳は言う。
 
「あ、そうだよね。そういうことにしよう」
と龍虎はホッとして言った。
 
なお、龍虎が“女物の和服”を着ていることについては、もう今更なので、彩佳も桐絵も突っ込まない。
 

やがて彩佳のポケベルにも龍虎のポケベルにも番号が出る。いよいよ大会が始まるようである。桐絵は「彩佳のを見るね」と言うので、龍虎も「そうして。ボクはたぶん1分で負けるし」と言って、自分の番号のテーブルに行った。
 
龍虎がその番号のテーブルの椅子に座っていると、中学生くらいの男子が来た。学生服を着ている。わぁ、強そう。これは本当に1分投了コースだな、と龍虎は思った。
 
「僕が握っていい?」
と相手が訊くので
「よろしくお願いします」
と言う。“握り”は、囲碁自体もしないまま、それで随分彩佳・桐絵・宏恵あたりとやっていたので、やり方は分かる。
 
彼が白石の碁笥に手を入れ、石を握る。
 
それで龍虎は黒石を1個置いた。
 
これは握った白石の数が偶数か奇数かで先行・後攻を決めるのである。黒石を1個置いたのは、龍虎が石の数を奇数だと予想したことになる。
 
それで彼が石を数えてみると白石は9個だった。それで龍虎が先手となるので黒石の碁笥を取り、中学生が白石の碁笥を取った。
 

「ではよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
と挨拶して打ち始める。
 
最初龍虎はごく普通に右上隅、17四の小目に打とうと思った。
 
ところがここで龍虎は小目に打とうとして、石を落としてしまった。
 
うっ・・・
 
その石は右上隅16四の星の所に落ちる。
 
むろん・・・囲碁ではいったん置いた石を移動させるのは反則。即負けである。
 
仕方ないので放置して時計を押す。
 
この大会は「1人30秒以内の早打ち」ルールになっている。
 
すると、龍虎の“初手星”を見て、相手の中学生は腕を組んで考えるようにした。普通小学生程度の子であれば、初手はたいてい小目に打つ。それが星に打つということは、こいつは凄い上級者なのでは?とどうも相手は思ってしまった気もした。
 
30秒ぎりぎりくらいに、相手は反対側の小目に白石を打った。そして時計を押す。
 
龍虎は考えても仕方ないので右手前の星に黒石を打ち、時計を押した。相手はかなり悩んでから時間制限ギリギリに自分の右手前(龍虎からは左上)の小目に白石を打った。
 

対局は“考えても仕方ない”と思っている龍虎が即打ち、相手の中学生は時間ギリギリまで考えて打つというのを続ける。正直、龍虎は目の前の碁盤に並ぶ石の全体の状況がどうなっているのか、さっぱり分からない。単にローカルな石の並びに適用できる定石を思い出しながら打っているだけである。しかし、ちゃんと定石で打ってくることで相手はこちらを初心者ではないと考え、警戒している気もする。
 
そして7分ほど経った頃、男子中学生はかなり考えてから白石を持ち、打とうとしてから一瞬迷った。ところがその迷った間に時計が30秒経ったことを示すアラームが鳴ってしまう。
 
「しまった」
と中学生は言い、次の瞬間
 
「負けました」
と言って頭を下げた。
 
龍虎も頭を下げた。そしてお互いに「ありがとうございました」と言い合った。中学生は肩を落として席を立った。
 
「勝っちゃったよ。嘘みたい」
と龍虎は呟き、取り敢えず勝ったことを報告するために本部に向かった。
 

約8分後、龍虎は新たな対局場所を指定され、そのテーブルに行く。
 
それで座って待っていたのだが・・・
 
相手が来ない!
 
これどうしたらいいの〜〜!?
 
龍虎は席に座ったまま手を挙げた。
 
スタッフの人と思われる和服を着た男性が寄ってきた。
 
「どうしました?」
「相手が来ないのですが」
「おや。えっと何分経ったかな?」
と言って時計を見ている。
 
「既に5分経っているね。では君の不戦勝」
「不戦・・・」
 
「一緒に本部に行って報告しよう」
「はい」
 
そういう訳で龍虎は2回戦は不戦勝になってしまったのである。
 
(後で聞くとお腹を壊してトイレに籠もっていたらしい)
 

10分後、新たな対局の指示がある。そのテーブルに行くと、向こうは小学2-3年生という感じの女の子である。それが無表情な感じで、強そう〜と龍虎は思う。
 
「どうぞ、そちらが握って下さい」
と彼女は言った。向こうがどう見ても上段者だが、こちらが年上なので譲ったのだろう。
 
「では握りますね」
と龍虎は言って、白石を取る。彼女は黒石を2個置いた。白石を並べると6個だった。それで彼女が先手となる。彼女が黒石の碁笥を取り、龍虎が白石の碁笥を取って対局を始める。
 
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 
それで彼女は黒石を取ると・・・
 
五の五に打った。
 
何〜〜〜〜!?
 
彼女が時計を押す。30秒がカウントされ始める。次は龍虎が打たなければならない。
 
しかし・・・・
 
こんなの見たことないよ。これどう次打てばいいの〜?龍虎はどうしていいか分からなかった。時計はどんどん過ぎていく。その時脳内に声が響いた。
 
『天元に打て』
 
天元!?? それどうなる訳???
 
しかし時間が無い。龍虎は白石を持つと、時間ギリギリに天元に打ち、すぐに時計を押した。
 

今回の対局では龍虎はどこに打てばいいのか、さっぱり分からなかった。どうにも考えるヒントが無いのである。見たことも無い手ばかりが続く。しかし相手の女の子はだいたい10-20秒ほど考えては次の手を打っていく。こちらは脳内に響く声に従って打っていく。
 
盤上の情勢は全く分からない!
 
ところが10分程打った所で、龍虎の手を見て相手の女の子は突然「えっ!?」と言った。
 
何?何?どうしたの??
 
そして彼女はいきなり頭を下げた。
 
「ありません」
 
うっそ〜〜!?
 
全く訳が分からないまま龍虎も頭を下げた。
 
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
と言い合う。
 
彼女は「失敗したぁ!」と言って、更に
 
「ここの所、本当はハネないといけなかったですよね。うっかりノビてしまったから、緩すぎて、その後、こちらの集団が死んでしまった。でもここの所でお見合いにしてしまうって凄いですね。まさかそんな手があるとは思いませんでした」
 
などと言っている。
 
龍虎はさっぱり分からない!!
 
龍虎も何か言わなきゃいけない気がした。『最後の局面、6六から当てる手』という声がする。それで龍虎は言ってみる。
 
「でも最後の局面、まだここから当てる手がありましたよ」
「え!?」
と言って彼女はしばらく悩んでる。
 
「あ、それだと生きるかも」
「後で再度並べてみるといいかも」
「やってみます。そうか!まだ投了は早かったか!でも思いつかなかった」
 
そういう訳でこの対局は彼女が勝手に暴走して勝手に投了してしまった様子であった。
 
改めて御礼を言い合って、龍虎は自分の勝利を本部に報告に言った。
 

感想戦が長かったので、次の対局はほんの2分後であった。しかしここで残っているのが8人しか居ない。つまり次は準々決勝である。そして残りはトーナメント表が黒板に書かれた。それによると次の対戦相手は彩佳だった!その彩佳が驚いてこちらを見ている。ギャラリーの中にいる桐絵も驚いている。ボクもまさか準々決勝まで残るなんて、思いも寄らなかったよぉ。
 
指定されたテーブルに座る。彩佳は腕を組んでこちらを見てる。龍虎は
 
「そちらが握って下さい」
と言った。
 
「では握らせて頂きます」
と言って彩佳は白石を碁笥の中から握って取り出す。龍虎は黒石を2個置いた。白石は8個だった。
 
それで龍虎から打ち始める。
 
右上隅小目に打ち、彩佳は星で応じる。龍虎が左上隅小目に打ち、彩佳はやはり星で応じる。ごく標準的な布石で対局は始まった。
 
龍虎は脳内に響く声に従って打っていく。彩佳はかなり時間を使って打っていく。準々決勝からは持ち時間が10分ある(使い切ったら30秒の早碁)ので、対局は彩佳が長考し、龍虎は即打つという繰り返しで進んでいった。
 
龍虎はよく分からないのだが、こちらの分が悪いような気がした。やがて15分ほど対局が進んだ所で脳内に響く声は言った。
 
『投了しようか』
『うん』
 
それで龍虎は頭を下げて言った。
 
「負けました」
 
周囲がざわっとした。彩佳は一瞬首を傾げたものの、お辞儀をした。
 
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 
「でもどうして投了したの?」
と彩佳が訊く。
 
「この石はもう生きれない。それを取られたらもう挽回できない」
と龍虎は脳内に響く声の言う通りに言う。
 
「ほんとに? 殺せるかどうか凄く微妙な気がしたけど」
「ちょっとやってみる?」
「うん」
 
それで彩佳と龍虎は投了の場面の先を少し打ってみる。
 
「ああ、本当だ。これは私の勝ちだ」
と彩佳は言っている。周囲のギャラリーもやっと納得したようである。
 
「でも凄い。龍、いったいいつの間にこんなに強くなったのの?」
「あははは」
 
ボクこの後、どうしよう?
 
『お前お小遣いで***という囲碁ソフトを買え。それで練習していたら、半年で今日実際に打ったくらいまでは強くなるぞ』
 
と脳内の声がした。
 
マジでこれは彩佳に怪しまれない内に、こっそり練習しなきゃ!
 
『あと千里が囲碁は強い。あいつに九子で打ってもらえ。かなり勉強になる』
 
千里さんか。
 
でもそれは少しソフトで練習してからにしようかな。。。と龍虎は思った。
 

彩佳は結局この大会で準優勝であった。それで彩佳は主宰者から3級を認定されていた(優勝者は2級)が、龍虎もBEST8に残ったということで5級を認定された。
 
うっそー!?まだボク30級くらいだと思うのに。
 
しかし脳内に響く声は言った。
 
『いや、お前は既に10級くらいの実力はある。お前は勘が良いからあまり考えずに打ってもけっこう相手の急所を責めているんだよ』
 
へ〜〜!
 

囲碁大会が終わったのは12時前である。それで結局、龍虎・彩佳・桐絵の3人は川南にお昼をおごってもらった。主として桐絵!の希望でココスに入る。
 
「でもマジで龍は凄く強かった。対局では結果的に私が勝ったけど、読みでは龍の方が上回っていた」
と彩佳は言った。
 
「なんかさっきは何かの魂がボクに乗り移っていたみたいなんだよ」
と龍虎は言った。
 
「まじ!?」
 
「だからあれは本当のボクの実力じゃないよ」
と龍虎。
 
「いや、そうかも知れん。いきなりあんなに進化するなんて考えられん」
と桐絵が言う。
 
「龍って、前から思っていたけど、巫女的な性格があるよね」
と桐絵。
「ああ、それは私も感じたことある」
と彩佳。
 
「龍、将来巫女さんになる?」
「え?でも巫女さんって女の人がするんじゃないの?」
 
と龍虎が言うと桐絵と彩佳は顔を見合わせている。川南が笑っている。
 
「質問です。振袖を着るのは男ですか?女ですか?」
と桐絵が訊く。
「うーんと、振袖着るのは女の人では?」
と龍虎が言う。そして龍虎は遙か昔の記憶の中にある、青い振袖を着た実母(長野夕香)の姿を思い浮かべていた。
 
しかし彩佳が言った。
 
「つまり振袖を着ている龍は女の子なんだな」
 
龍虎は虚を突かれた。(なぜこの程度で虚を突かれるのかは作者にも理解不能である)
 
「あれ〜〜〜!?」
 

龍虎たちがココスでお昼を食べていた頃、その建物の陰でコートを着て襟を立て、シルクハットをかぶってサングラスをし、マスクをするという、見ただけで通報したくなるような人物が頷くような仕草を度々していた。
 
「龍虎、あの時本来死ぬはずだったのが、神様の気まぐれで45年だけ寿命が延長された。俺はせいぜいお前が52歳前には死んだりしないように見守っておいてやるからな。いつでも振り返れば俺がいることを忘れるなよ」
 
そう怪しげな人物は呟いていた。
 
もっともその人物は
「あいつ男にするにはもったいない美貌だから、女の子に改造して俺の子供を産ませたいなあ」
 
などと危ないことも呟いていた。
 
龍虎の男性器は風前の灯火である。
 

食事が終わった後は、桐絵と彩佳も東京に出たいということだったので、試合が行われる大田区総合体育館まで全員行った。そこで夏恋と合流するが、桐絵と彩佳は会場近くの梅屋敷駅から京急で品川に出て、あとは山手線で移動したようである。帰りも体育館まで来てもらうことにし、交通費にと言って、川南はふたりに千円札を1枚ずつ渡してあげた(このあたりの軍資金も千里が提供している)。
 

10月8日(月).
 
貴司は何かに動かされるような気持ちで会社に休みたいという連絡を入れ、朝から新幹線に乗り込んだ。東京駅から総武線に乗り千葉に移動。千里が住んでいるアパートに行ってみた。
 
新大阪6:33-9:03東京9:26-10:05千葉
 
ドキドキしながら呼び鈴を鳴らすと「はーい、今開けるね」という声が聞こえるが、千里ではない。そういえば千里は女性の友人と一緒に住んでいるんだった。そのルームメイトだろうか? 貴司は千里のルームメイトと会った時のことを何も想定していなかったので焦った。
 
ドアを開けたのは千里と同年代か少し上くらいの感じの女性である。妙に派手な化粧をしている。そして貴司はこの女性を過去に1度見たことがあるような気がした。やはりルームメイトさんかな?
 
「あ、えっと・・・どなたでしたっけ?」
と彼女は言った。
 
「すみません。私、村山千里の友人なのですが、村山は今日は・・・」
と貴司はややしどろもどろに答える。
 
「あぁ、大学院を受けることになったというので、ここ数日、大学の図書館に行って勉強しているみたいですよ。携帯通じませんでした?」
 
「あ、いえ。このあたりを通りかかったので、急に立ち寄っただけですので、すみません」
 
「ああ、なるほど。じゃメールとか送ってみるといいですよ」
「そうします。どうもすみませんでした」
 
と言ってから貴司はふと訊いてみた。
 
「そちらは村山さんのルームメイトさんでしたっけ?」
「いえ。大学のクラスメイトです。ここはクラスメイトの溜まり場になっているんで」
「そういえば、そんな話を聞いたような」
 
「千里のルームメイトの桃香も図書館に行って勉強してるんですよ。ふたりとも大学院受けることになって」
 
「へー。でも大学院の入試っていつでしたっけ?」
「既に終わっていたんですけどね」
「あら」
 
「でも教官に言ったら、小論文と面接で入れてもらえることになったみたいです。二次募集という名目で」
「それは良かった」
 
「桃香は何にも就職活動してなかった!とか言って、取り敢えず大学院に進学して2年後に就職を狙うとかで」
「勉強に夢中になってて忘れていたのかな?」
「あの子の場合はバイトが忙しくて忘れていたかも」
「ああ・・・」
「千里は大学出たら彼氏と結婚するからというので卒業した後は就職もしないつもりだったらしいんですけどね」
 
貴司はドキっとした。
 
「その彼氏に振られちゃったらしくて。それで人生プランが崩壊して、先のことを考え直すのに2年間大学院に行くと言ってました」
「そうですか・・・」
 
罪悪感が貴司の心を苛んだ。
 
「話聞いたら酷いんですよね。結納まで交わしていたのに、いきなり別の女を妊娠させてそちらと結婚するからといって婚約破棄されたらしいんですよ」
「あぁ・・・」
 
「そんな悪い男は死刑にすべきですよ」
「そ、そうですね」
「千里ともし会ったら、少し慰めてやって下さい」
「はい。とにかくメールしてみます」
「ええ」
 
それで貴司は彼女に御礼を言って、とぼとぼとアパートの階段を降りていった。
 

「誰?」
 
と部屋の中から朱音が美緒に声を掛けた。
 
「何か声は聞いた記憶があったんだけど」
 
「千里を振った彼氏」
「え〜〜〜!?」
「以前1度見てたからね」
 
その時はこのアパートの1室で千里と貴司が、1室で美緒と清紀が、隣同士の部屋で一夜を過ごしたのである。あれはお互いの音が丸聞こえで楽しかったなあ、などと美緒は思い起こす。
 
「そうか。それで私も聞いた記憶があったんだ」
と朱音が言っている。朱音も千里と貴司がこのアパートに泊まった日に居合わせたことがある。
 
「だからあれこれ言ってやったら、かなりショック受けてる様子だった」
「ああ、それでわざと良心が痛むようなこと言ったんだ?」
 
「私なら、あんな男のちんちん切り落としちゃうけどなあ」
と美緒は言っている。
 
「美緒、清紀君のちんちん切り落としてあげたら?きっと涙流して喜ぶよ」
「そんな親切なことはしてやらない」
 
「でもあんたたち結婚するんでしょ?」
「まさか。だってまだ一度もセックスしてないのに」
「清紀君は美緒にしてもらったと言ってなかった?」
「ああ。私があいつに入れただけ。私は入れてもらってない。私は自分に入れてくれない男には興味無い」
 

「そんなこと言いながら、あんたたち既に2年くらい続いている気がする」
「ただの友だちだよ〜」
 
「同棲している男女の友だちなんて聞いたこと無い」
「ただの同居だよ〜。私たちお互い恋愛対象外だし」
「千里みたいなこと言ってる」
 
千里と桃香は2年生の終わり頃からこのアパートで一緒に暮らしているが、桃香が2人の関係を恋人だと友人たちに言いふらしているのに対して、千里は2人は友だちであると主張している。
 
「だって桃香はレスビアンで私は男だから恋愛対象外。私はストレートだから恋愛対象は男の人。だから桃香は恋愛対象外」
などと千里は言うが、前半で自分を男だと言い、後半では女だと言っているのは矛盾だと、玲奈などには指摘される。
 
そして美緒と清紀もちょうど千里たちと同じ頃から共同生活している。清紀はゲイなので男の子にしか興味は無い。美緒はセックスしてくれない男の子には興味が無い。それで美緒も清紀も各々の恋人(どちらも男!)を連れ込んで勝手にセックスしている。
 
美緒としては本当に「女友だち」と共同生活している感覚に近いのだが、清紀が自分のことをどう思っているのかは、美緒としても実はよく分からない。
 
取り敢えずお互いに相手がいない時は一緒のお布団で(裸になって)寝たりはするし相互自慰とかシックスナインくらいはするけどね〜などと美緒は考えていた。
 
(美緒にとってはシックスナイン程度は性行為の内に入らないらしい)
 
でももし清紀が私に結婚してくれなんて言ったら・・・・
 
やはり私がタキシードであいつがウェディングドレスかな?
 
などと考えると少し楽しくなった。
 

アパートを出た貴司は、千葉駅まで戻り、Pasmoで改札を通ってから総武線快速(久里浜行き)に乗り、ボーっとしていたが、船橋まで来た所でハッとして電車から降りた。
 
(総武線だけならこの当時もICOCAで乗れたが、貴司は関東出張も多いのでPasmoも持っていた)
 
「えーっと」
と考えてから、東武線に乗り換えることにする。それで、流山おおたかの森駅でつくばエクスプレスに乗り換え、守谷駅で関鉄常総線に乗り継いだ。何とも複雑な乗り継ぎだが、常総線沿線への連絡はどうやっても面倒なのである。
 
千葉11:41-11:55船橋12:07-12:48流山おおたかの森12:55-13:02守谷13:23-13:51石下
 
石下駅で降りてから、偶然客を乗せて駅まで来たタクシーを掴まえ、“常総ラボ”まで行く。
 
誰かいるかな?
 
と思って入って行くと、白鳥さんがひとりで練習していた。
 
「こんにちは」
「こんにちは〜、細川さん」
と彼女は笑顔でこちらに挨拶してくれた。
 
「今日は白鳥さんひとりですか?」
「そうなんですよ。だからもう帰ろうかと思っていたんだけど、細川さん、よかったら練習相手になってもらえません?」
 
「こちらこそよろしく」
 

それで貴司は彼女と1時間くらいマッチングの練習をした。
 
むろん勝負としては貴司が圧勝するのだが、貴司はMM化学のチームメイトとの練習では得られないレベルを感じていた。MM化学のメンバーで貴司が多少とも考えて突破しなければならないのはキャプテンの藤元さんくらいで、他のメンバーは貴司が何も考えていなくても反射神経だけで突破できる。しかし、白鳥さんはかなり頭を働かせないと突破できない。
 
「さすが男子日本代表!凄く気持ちいい汗流せました」
と白鳥さんは言っている。
 
「いや、僕の方こそ、凄くいい練習ができました。うちのチームでは白鳥さんレベルの相手がいないんですよ」
 
「でも日本代表は凄いでしょ?」
「あのレベルは凄いです。でもこれからバスケシーズンに入るから、日本代表の活動は春以降だし」
 
貴司がそんなことを言っていたら、白鳥さんは考えるようにして言った。
 
「細川さん、大阪でしたよね?」
「ええ」
 
「私の友人が参加しているバスケチームが市川にあるんですけど、あのメンツもかなり強いですよ。もしお時間が取れたら参加してみません?細川さんのレベルなら歓迎してもらえると思う」
 
「いや、済みません。市川市ならここよりは東京駅から近いけど、頻繁には東京方面に来られないので」
 
「いえ、千葉県市川市(いちかわし)ではなく、兵庫県市川町(いちかわちょう)なんですよ」
「兵庫に市川ってありましたっけ!?」
 
「JR播但(ばんたん)線の甘地(あまじ)駅の近くに練習場があるんですよ。ここより広いですよ」
 
「播但線・・・?」
貴司は必死でその付近の地理を思い出す。
 
(播但線は山陽本線の姫路から山陰本線の和田山までを結ぶ路線。播磨と但馬を結ぶので播但。ほとんどが各駅停車だが、大阪−鳥取(浜坂)間の特急はまかぜは播但線を経由する)
 

「でも細川さん、確か千里(せんり)でしたよね?」
「はい」
「だったら、中国自動車道から播但連絡道路に入って、市川南で降りたらいいですよ。お車はお持ちでしたよね?」
 
「あ、はい。それ、中国自動車道からどのくらいですかね?」
「ちょっと待って」
 
と言って白鳥さんは壁際に置いていたバッグの中から全国高速道路地図を取り出す。それで兵庫県付近を開く。
 
「市川南はここですよ」
「ああ、福崎ICから分岐してすぐか(*2)」
 
「近いですね。播但連絡道路自体は、姫路から山陽道・中国道と交差して、9号線沿いの和田山まで行きますね。和田山から舞鶴若狭道の春日ICまで北近畿豊岡道で連絡されています。和田山からは更に豊岡市まで伸びる予定みたいですね」
 

(*2)貴司のマンションから市川までの行き方は
 
千里IC(中央環状線3.5km)中国豊中IC(中国自動車道70.9km)福崎IC(播但連絡道3.3km)市川南ランプ
 
となり、ラッシュに引っかからなければ1時間ちょっとで行ける。料金は播但道路の福崎北−市川南間は50円、中国自動車道の豊中−福崎間は
2007年の料金表で2050円、2018年現在の料金は2120円である。2012年時点の料金は資料が無く不明。2018年現在は全区間ETCで走行できるが、2012年時点では播但道路は通行券方式である。
 
なお貴司は行きは21-22時頃、帰りはAM2-3時頃になるので、当時は早朝夜間割引(2005.1.11-2014.3.31)が適用され往復ともに50%引きの約1000円で利用できていた。
 

「紹介状書いてあげますから、直接行ってみればいいですよ」
と白鳥さんは言う。
 
「ありがとうございます。やはり活動は休日の日中とかですか?」
と貴司が尋ねると
 
「あの人たちはみんな会社勤めしてるんで、平日の仕事が終わった夜9時か10時頃から始めるんですよ」
 
「へー!」
「それでだいたい夜中12時くらいまで。基本的に練習は平日だけど、休日もたいてい何人かは出てますよ」
 
「それなら・・・・私はもしかしたらチームの練習が終わってから間に合うかも」
「日によって変動があるから、夜10時頃行けば間違い無いです」
 
「ありがとうございます!行ってみます」
 

貴司は何だか嬉しくなり、白鳥さんが書いてくれた毛筆!の達筆な(実は達筆すぎて読めない!)紹介状を持ち帰途に就いた。なお帰りは白鳥さんがここに来るのに使っているという、BMW F650GSのタンデムシートに乗せてもらって石下駅まで行った。
 
しかしバイクなので身体が密着する。貴司はしっかり白鳥さんに抱きついている。彼女の引き締まった筋肉質の身体が千里を思い起こさせた。この人、ほんとに身体を鍛えているんだなあ。千里が居なかったら興味持ってしまうかもなどと思ったりしている。しかし貴司は彼女に訊かれた。
 
「細川さん、もしかしてバストがあります?」
 
しまったぁ。これ胸が白鳥さんの背中を圧迫しているよな?でも密着していないと危険だし。
 
「あ、ちょっと胸の筋肉が発達しているかも」
などと貴司が言うと
 
「あ、そうですよね。男の人におっぱいがある訳ないしと思いました」
と言われて貴司は冷や汗を掻いた。
 
貴司の身体は千里との婚約破棄の時に夢の中??で「死刑の執行猶予」にされた時に「男性性を没収」されて、まるで女のような身体になっているのである。取り敢えず立っておしっこができない身体だし、スポーツ用ブラを着けておかないと、身体を動かすのにバストが邪魔である。
 
やがて石下駅に到着するので、貴司は白鳥さんによくよく御礼を言い、
 
石下15:20-15:52守谷16:07-16:40秋葉原16:48-16:52東京17:10-19:43新大阪
 
というルートで大阪に帰還した。
 

貴司はその日の内に市川に行ってみることにした。
 
千里(せんり)の自宅に戻った後、21時頃まで仮眠してからAUDI A4 Avantに乗って千里ICから中央環状線に乗り、中国豊中ICで中国道に移る。そして福崎から播但連絡道に行って、市川南で降り、地図を書いてもらった体育館に到着したのは、22時すぎであった。
 
音は聞こえないが灯りはついている。それで貴司は玄関を入り、階段を登って2階に行く。そしてフロアの入口のドア(気密ドアになっている)を開けた。
 
「ニーハオ」
と近くに居た人が声を掛けてきたので、貴司は
 
「あ、えっと・・・ニイハオ」
と片言の中国語で応じる。
 
「ああ、あんた日本人?」
「はい。あのぉ。女装ビーツの白鳥さんから紹介状を書いて頂いたのですが」
と言って、彼女が書いてくれた巻物!?を渡す。
 
「へー。君もバスケットやるの?」
「はい」
「今フリー?」
 
「いえ。大阪の実業団のMM化学という所に所属しているのですが、もしよろしかったらこちらの練習にも参加させてもらえないかと」
 
「君、日本代表なの?僕らで相手になるかな」
と別の人が来て白鳥さんの手紙を見ながら言う。
 
「まあ、どのくらいの実力か試してみればいいね」
と年長っぽく、ひとりだけ別の色のユニフォームを付けている人が言った。この人が監督らしかった。
 

そこには監督以外に8人の選手がいた。貴司はその中の4番を付けている人と最初に手合わせした。
 
全くかなわなかった。
 
この人強ぇ〜〜〜!
 
次に5番を付けている人とやる。4番の人と顔が似ているので兄弟かなと思った。
 
勝てない!
 
6番を付けている女性、7番を付けている女性とやるが彼女たちを全く抜けない。女性でこんなに強いって・・・明らかに千里より強い。つまり日本代表以上じゃん!
 
8番、9番を付けた男性とやる。8番の人には全く勝てなかったが、9番の人には何とか2回勝てた。それでも2勝4敗である。10番を付けた男性が出てくる。彼には何とか4勝2敗になった。
 
「ふむ。清川より下、万奈より上か。だったら、君が新しい10番」
と監督が言った。
 
「へ?」
「万奈は11番に変更。11番の青池は12番に変更」
 
「OK」
と言って10番を付けていた男性が自分のユニフォームを脱いで貴司に渡した。
 
「ありがとうございます」
 
それで11番を付けていた青池と呼ばれた女性?が自分の着ていたユニフォームを脱いで万奈さんに渡す。そして青池さんは倉庫に行って12番のユニフォームを持って来て着た。
 
「これで我が市川ドラゴンズは9名となった」
と4番を付けた南田歓喜(なんだかんき)さんという人が言った。5番の人はその人の弟で南田鵜波(なんだうぱ)さんらしい。どちらも変わった名前だなと貴司は思った。
 
「ちなみに君が青池にも勝てなかったら不合格だった」
などと監督が言っている。
 
「まあ思っていたよりは少し強いね」
とその青池さん。この人は一見女性に見えたのだが、話し方が中性的である。男性と思えば男性にも見える。声も女性の声に聞こえるのだが、男性の声と思えば男性の声に聞こえなくもない。
 
「うちは12人になるまでは受け入れる。それを越えたら一番弱い人がマネージャーに降格」
 
ひぇ〜〜〜!
 
「日々の勝負で順位はどんどん入れ替わるから、細川君も4番の番号を取れるように頑張ること」
 
「分かりました!」
 
「ところで君、男性だっけ?女性だっけ?」
と監督が尋ねた。
 
「えっと・・・」
と貴司がどう答えるか考えていたら、青池さんが貴司の身体の胸部分とお股に触った。
 
「おっぱいある。ちんちん無い」
「じゃ女性か」
「現在一時的にそうなっているかも」
「その内男になるの?」
「なりたいです」
 
「でもまあ今は女だったら、ウォーミングアップのジョギングは5kmでいいよ」
「5km?」
「男性には30kmを課している」
 
うっそー!?
 
「まあ時々30kmのジョギングでダウンして練習できないままリタイアしてしまう人もいる」
「あはは」
「君、女でよかったね。まださすがに5kmでリタイアした人はいない」
 
「頑張ります」
 
無茶苦茶ハードじゃんと貴司は思ったが、それだけ鍛えられるということかも知れないと思い直す。5kmくらいは何とかなるだろう。さすがに30km走った後のバスケ練習は無茶な気がするけど!(そもそも30km走る自信が無い!)
 
なお貴司が全くかなわなかった2人の女性は前橋さんと七瀬さん、8番の男性は九重さんといった。
 
こうして、貴司の市川町通いは始まったのであった。
 

この時期、MM化学のバスケ部員は15時で仕事を免除になり、だいたい15時半から18時半まで練習していたので、貴司はそのあと自宅に戻り、1時間仮眠して20時頃に家を出て市川に向かった。この時間だとラッシュに掛からないので1時間で到達できる。そして着いたらまずはジョギングをした。
 
この日々のジョギング(町のメインストリート往復)には、前橋・七瀬・青池の3人が付き合ってくれた。青池さんは一応女性扱いのようである。
 
練習はだいたい(約30分のジョギングの後小休憩して)22時から始まり0時すぎに終了したが、貴司はA4 Avantの車内で1-2時間仮眠してから帰っていたので、千里(せんり)に辿り着くのはだいたい午前3-4時になった。それから3-4時間睡眠を取って7時半頃に会社に出るのである。
 
(結局合計では6時間ほど寝ている計算になる)
 
しかし30kmのジョギングってどんなに頑張っても3時間は掛かりそうな気がする。それなら男性メンバーは18時頃から練習開始しているのだろうか?つまり会社が終わってすぐジョギングを始めるのかも知れない。
 

ところで、この生活パターンでは、貴司は阿倍子と会う時間がほぼ無い!
 
びゃくちゃん(白鳥)・こうちゃん(市川ドラゴンズの監督!)の主たる目的はそちらなのだが、貴司本人としても、阿倍子とデートすれば自分に男性器が無いことがバレそうなので、あまり顔を合わせたくない気分だったのである。
 

2012年10月9日、
 
千里は裁判所からの通知を受け取った。
 
《申立人の性別の取り扱いを男から女に変更する》
 
それを見て、千里は涙を流し、その通知書を胸に抱きしめた。
 
「千里、何かあったの?」
と桃香が訊くので、通知書を見せる。
 
「おお!とうとう千里もちゃんと女になったな。よし祝杯をあげよう」
「そうだね」
「みんなも呼んでパーティーを」
「やめて〜〜〜!」
 
と千里は言ったものの、桃香が大学の友人たちに電話を掛けて、みんな食糧持参で集まってきてくれた。
 
同じ数物科の岡原朱音、水上玲奈、田代真帆、山崎友紀、春日美緒、紙屋清紀(女装)、生物科の田崎香奈、苫篠優子、三村聡美、中森亜矢、佐伯由梨亜。
 
要するにいつもの“女子会”のメンツである!
 
2DKのアパートにこの人数で集まるとかなり狭いのだが、それでもここでお祝い会をしようということになったのは《飲み過ぎてダウンしてもいい》ようにするためである。
 

ケチな桃香が清紀に「お金出すから」と言って一番絞りを1箱(24缶)買ってきてもらったのだが、実際には清紀は2箱買ってきた。
 
「1箱は私のおごりね〜」
と美緒が言っていた。
 
更に友紀がサントリーの角瓶、優子が月桂冠1.8Lを持ち込んでいる。
 
最初朱音が音頭を取ってビールで乾杯し、牛肉と豚肉にホルモンまで入れて5kgほどお肉を買ってきてもらったものをホットプレートでどんどん焼く。
 
「よし。次は清紀が性転換する番だ」
「僕は別に女の子にはなりたくない」
「そう言ってますが、どうする美緒?」
「やはり今夜お酒でダウンした所を寝ている内に病院に運び込んで、切ってしまえばよい」
「よし。それでは今夜は清紀が男である最後の夜だな」
「勘弁して〜」
「明日からはもう立ちションできなくなるから、今夜の内に満喫しておくように」
 
最初の内はみんなで千里、次いで清紀をからかっていたものの、次第に混沌とした世界になり、このところ大学院の入試代わりのレポート作成で睡眠不足の桃香が最初にダウン。お酒に弱い由梨亜がダウン。3番目にダウンしたのが清紀で
 
「万が一にも性転換されないようにずっと起きてると言ってたくせに」
「ほんとに病院に運び込んで性転換したろか?」
「切り取ったちんちんもここで焼肉にして食べちゃおう」
 
などと言われていた。
 
「手術代金は?」
「本人のクレカで払っておけばいい」
「来月の請求書見て仰天するかな?」
「リボ払いにしておけばいいよ」
「それって払い終わるのは20年後だったりして」
 

この日最後まで起きていたのは千里と美緒で(この2人は異常にお酒に強い)、美緒はみんなが寝ているのを見て、昨日貴司がここに来たことを語った。
 
「あいつ来たの?」
「千里がショックで将来を見失って取り敢えず大学院に進学することにしたと言ったら、向こうもかなりショックを受けていたみたいだった」
「・・・」
「だからさ、これはまだ脈がある。あの男、まだ千里のことが好きだと見た。千里頑張りなよ。まだ取り返せるよ」
 
「・・・・・」
 
「昨日来たのも、千里とセックスしたかったのかもね」
「まさか?」
「だって別れた女とのセックスって、後腐れ無くていいじゃん」
「そういうもん?」
 
「私は別れた男から誘われたら即OKするが」
「うーん。。。そういう発想は無かった」
 
「男ってそういうもんじゃない?」
「いや、美緒の発想はあいつの発想と似ている気がする」
「千里も清紀とセックスすればいいのに。私は別に気にしないよ」
 
「いや、あの子はちんちん無い子には興味ないはず」
「そうなんだよね〜。だから自由にしていいって言うのにしてくれないんだもん」
 
その後、美緒は自分をダシにしながら千里の心をメンテするかのように、色々千里の心の中に溜まっているものを吐き出させ、千里は涙を流しながら色々なことを語った。
 
「お土産をリクエストしてきたの?図々しい奴だ!」
と千里はアジアカップの時に貴司の求めに応じて色々差し入れしたことを聞いて呆れるように言った。
 
この日は千里が主たる語り手で、美緒は概ね聞き手に徹してくれた。彼女は最初に「まだ取り返せる」と言った他は、何もアドバイスはしなかったものの、この夜の美緒との3時間ほどにわたる会話で千里は随分気持ちが楽になった気がした。そしてまた活力が湧いてくる気分だった。
 

10月13-14日。
 
貴司は今週毎日通っていた市川ドラゴンズでの練習のお陰でプレイがかなり進化しており、その貴司の活躍でMM化学は順位決定戦で5位になり、来年2月に金沢市で行われる全日本実業団選手権に進出した。
 
「細川、凄い進化。何があったの?」
と藤元主将から言われた。
 
「実はMM化学の練習が終わった後、個人的に夜中まで練習してるんですよ。ジョギングも毎日5kmやってるし」
「凄いな」
 
「ところでお薬とかやってないよね?」
と藤元が小さい声で訊いた。
 
貴司はビクッとしたが、キャプテンが言っているのがホルモン剤ではなく興奮剤の類いのことを言っているのにすぐ気付く。
 
「そんなのやってませんよ〜。まだ人間やめたくないから」
「だったらいいけど」
 
人間はやめてないけど、男はやめさせられてしまっている気がするなあと思う。
 
「彼女との仲は良好?」
「あ、はい」
と言って焦る。実はもう半月以上阿倍子と会ってないのである。
 
「吉子がさ、今度4人で食事でもしようよと言っていたよ」
 
あ・・・。藤元さんが言う“彼女”って千里のことか!
 
藤元主将の奥さんは、千里の従姉なのである。たぶん奥さんは自分が千里と婚約解消したことを知らないんだ。
 
「そうですね。少し落ち着いてから」
と貴司は答えておいた。
 
 
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【娘たちの振り返るといるよ】(1)