【娘たちの振り返るといるよ】(2)

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10月下旬、千里は性別の変更が戸籍・住民票に反映されるのを待って、その変更された戸籍謄本を持ち、バスケット協会に向かった。
 
日本バスケットボール協会は以前は他の多くの体育協会が入居している岸記念体育会館(代々木競技場のそば)にあったのだが、今年3月に西五反田の第2オークラビルに移転している。五反田駅から歩いて5分くらいの所である。
 
予め連絡していた医学委員の由里浜さんに性別が訂正された戸籍謄本を渡した。
 
「お疲れ様でした。これであなたの性別に関する処理は終わりですね」
「これまで色々お手数お掛けしました」
 
「でもあなたの後、結構な数の性別変更処理をしているのよ」
と由里浜さんは言う。
 
「その内の幾人かは私の知っている人のような気がします」
「まあ元々性別が曖昧だった人とかも結構いるしね」
「スポーツ女子には多いと思いますよ。私などは全く迷いが無かったですけど、男子選手か、女子選手か選べと言われて、かなり悩んで決断した人もいるみたいです」
 
「悩む人が多いよね〜。そうだ。あなた警察とか保険事務所とかへの連絡はもう終わった?」
 
「それなんですけど、考えてみたのですが、そういう連絡の必要がある所は全く無いという結論に到達しました」
 
「そうなの!?」
 
「パスポートは以前お目にかけたように元々性別Fだったんですよね」
「あれは不思議ね」
 
「保険証は高校3年の時に国民健康保険に入って、その時性別女で発行されていたのですが、その後、19歳の時に自分の会社を設立してそちらの健康保険に切り替えたので、その時もやはり性別女で発行しているんですよね」
「うーん・・・・」
 
「年金手帳にしても、その会社を作った時点で20歳未満で2号保険者になったので、その時年金資格取得届けは性別女で提出して通っていますし」
 
「ああ。普通は大学生の場合、20歳になった時点で1号保険者になるから、その時は住民票に基づいて年金手帳が発行されて、男性として登録されたんだろうけど、あなたは20歳未満でお仕事を始めて2号保険者になっちゃったからそちらの登録が優先されたのね」
 
「そうみたいです」
 
「そもそもあなたの場合、最初に国民健康保険証を作った時、性別女で登録されてしまったから、それが全てに反映されてしまった気もする」
 
「そうかも知れません」
 
「免許証は?」
 
「運転免許は、元々自動車学校に入る時に性別女で申告していたし、運転免許の申請書も性別女で出して、それで特に何も言われなかったし」
 
「要するにあなたって戸籍・住民票以外の全ての登録が女になっていたのね?」
「どうもそういうことのようです」
 

2012年11月3日、龍虎はなぜか青い立派なドレスを着て、東京中野のスターホールに来ていた。
 
このドレスは例によって川南さんが買ってくれたものだが、むろん龍虎は着用拒否したはずだった。それで9月の発表会の時に着るつもりだった男児用のスーツを着るはずで、確かに前日用意していた。
 
でもなぜか今朝は見つからなかった!
 
(こういうのは田代家の日常茶飯事である)
 
同伴してくれているピアノ教室の先生は
「やはり龍虎ちゃんはドレスが似合うわあ」
などと言っている。この先生はどう考えても龍虎の性別を勘違いしている。
 
今日の大会の出演者は62名と発表されている。1人5分として5時間強掛かる。9時から始まってお昼休みをはさんで3時くらいまでの長丁場である。
 
演奏は小学1年生の子からどうも学年順に始まったようである。しかしその先頭で出てきてチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲1番第一楽章より』を弾いた1年生の女の子が超絶巧かった。
 
すごっ!さすが大会は違う!と龍虎は思った。
 
ボクなんかの演奏で恥ずかしくないかなあ。
 

しかしやはり低学年の出場者は少ない。1年生、2年生、3年生と進み、11時すぎに4年生に突入した。
 
4年生の4番目に弾いた子は「**小学校4年あまぎせいこ君・曲はショパン『別れの曲』です」と言われた。
 
龍虎は自分と同じ曲を弾くというので彼女に興味を持った。あれ?でも今「せいこ君」と言った?なんで女の子に『君』を付けるんだろう?と思って見ていたら、出てきた子はパンタロンスーツを着ている。へー、珍しいと思った。女の子たちはほとんどみんなドレスである。
 
しかし彼女の演奏に龍虎は厳しい顔になる。
 
物凄く上手いのである。
 
身長は自分と同じくらいだ。だからたぶん指の長さも同じくらいだと思うのに、ほとんど音を省略していない。龍虎は物凄く闘争心を掻き立てられた。
 
それで龍虎は昼休みの間、御飯も食べずに駐車場に駐めた母の車の中でひたすら持って来た電子キーボードで練習を続けた。
 

午後1時から大会は再開される。
 
2番目に「○○小学校5年たしろりゅうこちゃん、曲はショパン『別れの曲』です」と呼ばれて、龍虎はステージにあがった。龍虎は無心になっていた。
 
「どうぞ」と司会者から言われて、龍虎はピアノの上に両手を置くと、もう目をつぶって弾きだした。
 
龍虎は全ての音を省略せずに弾く気になっていた。それは物理的に指が届かない龍虎にとっては、ほぼ不可能に近いことである。しかしそれをやるつもりでいた。
 
むろん指が届かないのだが、そこを瞬間的な指の移動でほとんど違和感無く弾く。指が届く人でも各々の指が鍵盤を叩くタイミングは微妙にずれる。その「許容範囲」の時間内で指を素早く移動して両方弾くのである。
 
龍虎はこの手法で全ての音を完全に演奏した。
 
弾き終えた時、龍虎は一瞬頭が空白になった。手が筋肉疲労でこわばっているのも感じる。
 
しかし物凄い拍手が送られているのに気付き、立ち上がって、両手でドレスの裾をつかみ、膝を曲げて観客に挨拶した。
 

15:20に演奏は終了。審査に入るが、その間、ゲストで来ていたプロのピアニストがベートーヴェンのピアノソナタ14番『月光』を弾いてくれて、龍虎たちはその美しい調べに陶酔した。
 
やがて審査員長が出てきて、結果を発表する。
 
優勝はリスト『ラ・カンパネラ』を弾いた6年生の人、準優勝はラヴェル『夜のガスパール』から第3曲『スカルボ』を弾いたやはり6年生の人、3位はショパン『革命』を弾いた5年生の人だった。
 
龍虎は個人的には3位になった人がいちばん巧かった気がした。1位の人と2位の人が弾いた曲は、どちらも超難曲であり、それに挑戦したのは凄いが、“弾きこなしていない”と思ったのである。音を追うだけで精一杯という感じの演奏だった。
 
「この他に特別賞を差し上げます」
と司会者は言い、
「チャイコフスキー『ピアノ協奏曲1番第一楽章より』を弾いた田中慶子ちゃん、ショパン『別れの曲』を弾いた、田代龍子ちゃん」
と呼ばれる。
 
龍虎は思わず嬉しさをそのまま表情に出して、先生に背中を叩かれてステージに登る。もうひとり特別賞をもらった子はこの大会の先頭で弾いた小学1年生である。それで最初に田中さん、続いて龍虎が賞状をもらった。
 
「特別賞のおふたりは偶然にも頭に『田』の字が付く女の子ですね」
などと司会者さんが言っている!
 
ボク女の子って言われてる!と思うが、ドレスを着ていて男と思う人はまず居ない!
 
そして賞状の名前は「田代龍子」と書かれていた!(お約束)
 
龍虎は、ステージ上から客席を見ていて、自分と同じ『別れの曲』を弾いた、あまぎせいこちゃんを認めたのでそちらを注視した。ドレスではないので結構目立つのである。
 
彼女が目をつぶって、眠っている?ふうなのを見て、龍虎はなぜか敗北感を感じた。
 
くそー。あの子に負けないようにピアノの練習頑張るぞ!と龍虎は思った。
 

11月3-4日、全日本社会人バスケットボール選手権大会が秋田市で開かれた。ここに出てきているのは、実業団、クラブチーム、教員連盟の代表であるが、クラブチームは今年からは新たに創設された全日本クラブバスケットボール選抜大会(9.8-9前橋市)の上位3チームが出られることになった。ローキューツはこれに優勝してここに出てきた。
 
一方、実業団の方は9.15-17に行われた全日本実業団バスケットボール競技大会の上位3チームが出てきている。玲央美たちのジョイフルゴールドはこれに優勝してこの大会に出てきた。
 
両者はクラブチームの1位と実業団の1位なので、決勝戦で当たる可能性が高い、と玲央美は思っていた。お互いに相手が強敵というのは分かっている。この大会は2位以上でお正月のオールジャパンの出場権が取れるので、とにかく準決勝にまで勝てばオールジャパンに行けることになる。2010年に社会人選手権では準決勝でローキューツとジョイフルゴールドが激突し、当時まだ成長中のチームだったので苦戦したが、何とかジョイフルゴールドが勝ってオールジャパンの切符を掴んだ。
 
昨年は決勝戦で両者は当たり、また激戦の末ジョイフルゴールドが勝ったが、どちらも2位以上で一緒にオールジャパンに出ている。
 
しかし今年はローキューツに千里が居ない。
 
麻依子も居ない。
 
誠美はまだ居るものの、ちょっと寂しいなと玲央美は思うが、今年もローキューツを倒して優勝するぞと玲央美は自分の心を引き締めた。
 

ところがである。
 
今年のローキューツは準決勝で当たった山形D銀行(実業団2位)に僅差で敗れてしまったのである。
 
久しぶりのオールジャパン出場を決めて、D銀行の鶴田早苗たちが涙を流して喜んでいたが、玲央美は詰まらないなと思った。今年のローキューツだって、森田雪子・風谷翠花・原口揚羽・水嶋ソフィアなど高校時代に鎬を削った相手がいるから、きっと決勝戦まで来ると思っていたのに。
 
玲央美は決勝戦でD銀行を圧倒し、得点女王・スリーポイント女王・アシスト女王の三冠、それにMVPにも選ばれたものの、フラストレーションが溜まる思いだった。
 
やはり千里とやりたいよぉ。
 

スリファーズ(thurifers:香炉を持つ者という意味)という3人組歌唱ユニットのリーダーである牧元春奈は2012年8月25日、アメリカ・カリフォルニア州バーリンゲームのX病院で性転換手術を受け、高岡市内で1ヶ月ほど静養していたのだが、9月下旬に新曲を録音、11月3日から25日まで全国ツアーを敢行した。
 
しかしさすがに体調に不安があるので、青葉がこのツアーにほぼ随行して彼女の身体のメンテをしてあげた(全部には付き合いきれないので、一部は菊枝に代行してもらった)。
 
11月23日には沖縄公演に付いていったのだが、この時は同じくツアーに随行している、スリファーズの実質的なプロデューサーである冬子(ケイ)に誘われ、青葉はエステに行った。
 
女性専科のエステで身体を揉みほぐされて、青葉は“女になった歓び”をあらためて感じた。那覇から戻った後、24日には横浜公演に行くのだが、途中桃香・千里と会って、彪志と一緒に4人でお昼を食べた。
 
「青葉、手術して女の子になった感想は?」
「凄く調子がいいよ」
と青葉は答える。これは本当に正直な気持ちだ。
「昨夜は彪志君に入れてもらったか?」
「もちろん入れてもらったよ」
と青葉がぬけぬけと言うので、かえって彪志君の方が恥ずかしがっている。
 
昨夜は青葉は彪志のアパートに泊まっているのである。
 
「千里は入れさせてくれない」
と桃香が言っている。
 
「当然」
と千里。
 
「減るもんじゃないし、させてくれてもいいのに」
「**ちゃんとすればいいじゃん」
と千里は言う。
「ちょっ!」
 
「桃姉、浮気?」
と青葉が訊くと
「桃香が浮気しないのは2月31日くらい」
などと千里は言っている。
 
もっともこの時、青葉と千里には認識のズレがあり、青葉は桃香が千里と恋人同士なので、**ちゃんとするのが浮気だと思っている。しかし千里は桃香が**ちゃんと現在付き合っているという認識なので、千里を夜中に襲うのが浮気という認識である。
 

胎児が子宮内で死亡してしまい、その掻爬手術を9月22日に受けた篠田阿倍子はその後、半ばボーっとして神戸の自宅で過ごしていた。
 
病院には1日だけ入院させてもらい9月24日には自宅に戻ったのだが・・・・
 
実はその後、全く貴司に会えないのである。
 
何度か連絡するも「ごめん。忙しくてそちらに行く余裕が無い」という話である。そもそもバスケット選手は冬の間はシーズンで忙しくなるようだ。会社の仕事は結構免除してもらい、出張なども少ないようなのだが、その分ひたすら練習しているようである。どうも聞いていると貴司は夕方から夜中まで1日5〜6時間練習しているようだ。
 
そういう訳で全く会えないので、ひょっとするとこのまま自然消滅してしまうのかも知れないという気がしてきた。
 
「でも生活費どうしよう・・・」
と阿倍子は思う。
 
現在阿倍子は全く収入源が無いのである。9月に貴司から、少しお金をもらったものの、それを節約して少しずつ使っていたのが底を突きかけていた。バイトしようにも、まだ体調が悪く、買物に行くだけでも途中で座り込んでしまうことが多い。
 

ところがその貴司が12月の頭になって突然やってきたのである。
 
「ごめーん。ご無沙汰して」
と言っている。
 
「ううん。忙しかったみたいだし」
「ちょっと頼まれてくれない?」
「あ、うん。何?」
 
「年賀状を書かないといけないんだけど、バスケット選手は印刷した年賀状の送付が禁止なんだよ。だから宛名も裏も全部手書きしないといけなくて」
 
「大変ね!」
 
「でも僕字が下手でさ。それに今シーズン中で物凄く忙しくて」
と貴司は言うが、阿倍子は物凄く不安であった。
 
「私も字が下手なんだけど」
「そうなの?」
 
「ちょっと書いてみるね」
と言って阿倍子は、その付近の広告の裏にボールペンで
 
『謹んで新年のご挨拶を申し上げます』
と書いてみせた。
 
「うっ・・・」
と貴司が声をあげた。
 
「分かった。ごめん。誰か友だちに頼むよ」
「ごめんねー。役に立てなくて」
 
「じゃ悪いけど、時間があまりないから、また」
と言って、貴司はもう出ようとする。
 
「あ、貴司さん、今日は泊まっていけないの?」
と阿倍子が言うと、貴司はギクッとする。
 
泊まる・・・結果的に一緒に寝ると・・・自分が今男の身体ではないことがバレてしまう!
 
(それで貴司は実はここの所、浮気をしていない)
 
「ごめーん。この後、また練習に行かないといけないんだよ」
と貴司は言った。
 
(実際、市川体育館にはいつでも行っていいし)
 
「大変ね」
「じゃ、また」
 
と言って貴司がもう帰りそうなので、阿倍子は恥を忍んで言った。
 
「あの、悪いんだけど」
「何?」
「実はお金が無くて。お母ちゃんの入院費も払えなくて」
 
本当はそれ以前に自分の食費が無い!
 
実は手持ちの現金が残り143円で、19円の豆腐と、17円のうどんと、どちらを買ってこようかと悩んでいた状態だった。
 
「それは大変だ。いくらくらい必要?」
「もしよかったら、毎月3万くらい貸してもらえると助かるんだけど。とは言っても、いつ返せるか分からないんだけど」
 
「阿倍子さん、今、何で暮らしているんだっけ?」
 
「まだ体調が良くなくてバイトとかにも出られないの。夏まではお父ちゃんの会社から、傷病手当金で給料の7割をもらっていたんだけど、お父ちゃん亡くなってそれももらえなくなったし」
 
「じゃもしかして今無収入?」
 
阿倍子はコクリと頷く。
 
「だったら、取り敢えず毎月10万くらい阿倍子さんの口座に振り込むよ」
「ほんと?助かる」
「口座番号教えて」
「うん」
 
それで阿倍子が通帳を出してそれを見ながら口座番号をメモすると、貴司はそのメモを持ち「これ当座の資金に」と言って5万円渡してから帰っていった。
 

阿倍子は「これで何とか年を越せる〜」と思った。
 
でも阿倍子はふと思った。
 
キスしてくれなかった・・・・・。
 
でも・・・そもそも、最後にキスしてもらったの、いつだっけ??
 
阿倍子はしばらく考えていた。
 
ひょっとすると6月に貴司と京都のホテルで一晩一緒に過ごして以来キスしてない!??
 
その日、阿倍子“が”貴司をほぼレイプするに近い状態でセックスをし、その結果妊娠してしまったので、それで彼を当時の婚約者(たぶん結納の時に姿を見せた女)から奪い取った。しかし、その子供は結局流産してしまったのである。
 
「赤ちゃん流れちゃったし、私最終的には捨てられるかも」
と阿倍子は弱気な気持ちで呟くように言った。
 

2012年12月22日(土).
 
この日は土曜日なので会社は無い。市川ドラゴンズも練習はお休みのはずである。(行けば誰かいるだろうけど)
 
貴司は手帳を開いて、今日の日付の所にハートマーク♥が描かれていることを認識する。それはもう先月の頭くらいからずっと認識していた。正確にはここにハートマーク♥を書いた6月以来、常時認識し続けていた。
 
本来は今日は千里との結婚式をする予定だった。
 
なんでこんなことになってしまったんだろう・・・と貴司は物凄く落ち込んだ。
 
朝から何も食べずにボーっとした状態で過ごしたが、11時すぎ、居ても立ってもいられなくなり、マンションを出ると千里中央駅から北大阪急行(御堂筋線直行)に乗り、いつも通勤で降りる会社最寄りの心斎橋駅で、今日は降りずに乗り換え、某駅まで行く。そこから少し歩いてNホテルに入る。
 
中に入るなりウェディングドレスを着た女性を見かけてギョッとする。
 
むろん千里ではない。今日ここで結婚式を挙げた女性のようである。ドレスのまま友人と立ち話をしているようだ。物凄く幸せそうな顔をしている。ああ、本当は千里も今日こんな顔をしていたはずだったと思うと、また罪悪感が貴司の心を苛んだ。
 
しばらく見とれていて、ふと振り返った。
 
そちらにはラウンジがありレストランになっている。そして貴司はそのラウンジ・レストランの中に信じがたい人の姿を見つけた。
 

貴司がラウンジに入っていくと、千里がこちらに気付いて笑顔で手を振ってくれた。貴司は緊張した顔のまま、千里の向かい側の席に座った。
 
アジアカップの時に会って以来3ヶ月ぶりだ。ただ、あの時は数十mの距離があった。こんなに至近距離で会うのは千里に婚約破棄を告げた7月6日以来である。
 
「何かこちらに用事あったの?」
と貴司は千里に訊いた。
 
「まあ、お昼でも食べない?」
と千里は笑顔で言う。その笑顔を見ていて貴司は涙が出てきた。
 
「うん、それもいいかな」
と貴司が言うと、千里はボーイを呼んで
「こちらにもスペシャルランチを」
とオーダーした。そして千里は
 
「モエ・エ・シャンドンの何か美味しいのあります?」
とボーイに訊く。
 
モエエ・・・?って何だっけ?
 
「少々お待ち下さい」
と言ってボーイはソムリエを呼んできた。それで貴司はそのモエエ何とかというのはお酒の名前か、と思い至る。
 
「今日は私たちの結婚記念日なの。モエ・エ・シャンドンのシャンパンで何かふさわしいものあるかしら?」
と千里が言うので貴司は心臓をグサッと刺されたような罪悪感を感じた。
 
「それではモエ・ロゼ・アンペリアルの2004年ものはいかがでしょうか?」
「うん。じゃ、それで」
 
ソムリエがシャンパングラスにそのシャンパンを注ぎ
 
「結婚記念日おめでとうございます」
と言ってくれる。
 
「私たちの幸せを祈って」
と言って千里がグラスを掲げるので、貴司も意を決してグラスを掲げた。それでグラスを合わせてから一口飲むと物凄く美味しい。
 
「これ美味しい」
「うん。私も美味しいと思った」
と千里は笑顔で言った。
 

2人は食事をしながら、シャンパンを飲みながらおしゃべりをした。話題は主として貴司のチームの大阪リーグでの戦績である。
 
「このままだと優勝できるんじゃない?」
「AL電機と最終戦で当たるんだよ。それが全て」
「ああ、MM化学にとっては天敵だよね」
「まあ大阪実業団の全てのチームにとって天敵というか」
「私が見てなくてもちゃんと練習してる?」
「自分なりに頑張っているつもり」
と言ってから貴司は千里に尋ねた。
 
「千里今日は時間あるの?手合わせできないよね?」
「私は貴司に振られちゃったからね。新しい彼女と手合わせしたら?」
 
また貴司は罪悪感が心を刺す。
 
「まあでもこの婚姻届を私、役場に提出しちゃおうかなあ。そしたら貴司と手合わせしてもいいな」
と言ってハンドバッグから婚姻届けを取り出した。
 
ギクッとする。
 
結納式の時にふたりで書いて、双方の親の署名ももらった婚姻届けである。むろん千里が提出すれば、それはそのまま受け付けられるであろう。
 
「あらためて済まない。その提出はしないで欲しい」
と貴司は言った。
 
「まあいいや。この婚姻届けはこの後も度々貴司を責めるためにとっておこう」
と言って千里はそれを自分のバッグにしまった。
 
やはり俺を責めているのか!
 

「だいぶここ長居しちゃったね。千里、僕のマンションにでも来て少しゆっくり話さない?」
 
貴司は何の下心も無しにそう言った。
 
「でもマンションには阿倍子さんがいるんでしょ?」
「彼女とは同居していない。結婚式が延びたから、同居開始もそれまで延びた」
「・・・・セックスはしてるんだよね?」
「してない」
「なんで?」
 
どう説明しよう!?
 
「いや、実は立たないんだ」
「ああ。とうとう立たなくなったのね。女をたくさん泣かせてきた天罰ね」
「うっ・・・」
 
また心臓に千里の言葉が突き刺さる。
 
「もう役に立たないおちんちんは取っちゃって、女の子になる?」
 
むろん千里はジョークで言っているのだろうが、貴司は今本当に「取られてしまっている」状態だ!
 
「えーっと・・・」
 
貴司の反応がいつもの「やめて」とか「勘弁して」とかではなく、戸惑っているようなので、千里は貴司の気持ちを図りかねた。まさか本当に女の子になりたいとか?
 
貴司はこの時唐突に尿意をもよおした。
 
「ちょっとごめん。トイレ行ってくる」
「どうぞ」
 

それで貴司はラウンジを出て1階フロント近くのトイレに入る。一瞬迷ったものの、ちゃんと男子トイレに入り、個室がうまい具合に空いていたので、そこに入る。
 
なんで男子トイレの個室って1つしか無いんだろう?困るよ、などと思っている。貴司は7月6日以来、個室でしかおしっこをすることができない身体になっている。
 
それでズボンを下げて、トランクスを下げて便器に座り、おしっこを出した時、何か物凄く妙な感覚だった。
 
え!?
 
と思って見ると、ちんちんがある!
 
嘘!?
 
なんでちんちんがあるの〜〜!?
 
ハッとして胸を触る。
 
胸が平らになってる!
 
嬉しい!!!!
 
男の身体に戻れた。
 
貴司は思わず涙が出てきた。
 

個室を出て手を洗ってから、貴司は涙の跡を千里に見られないように、ウエットティッシュで顔を拭いた。そしてラウンジの席に戻る。
 
そしてつい貴司は千里に言ってしまった。
 
「ねえ、千里、僕とセックスしてよ」
 
すると千里は吹き出した。
 
そして少し考えるようにして言った。
 
「私大阪に来て、貴司を何とか誘い出して、そのままホテルに連れ込んで、再略奪しようと思っていたのに」
 
貴司はドキッとする。
 
「でもしない」
と千里は言った。
 
「どうして?」
「貴司が阿倍子さんときっちり別れたら、セックスしてあげる」
 
「悪いけど結婚は阿倍子とする。でも千里とセックスしたい」
と貴司が言うと
「なんかとんでもないこと言われている気がするけど」
と千里は言った。
 
確かにとんでもないこと言っているかも知れないと貴司自身も思った。しかし千里は厳しい顔で貴司に通告した。
 
「私は貴司の妻ではあるけど、貴司の愛人でもないし、私は売春婦でもないから、そういう話はお断り。私とセックスしたいなら、阿倍子さんと別れて私に再度プロポーズすることね」
 
「だよなあ、それは分かっているんだけど」
と貴司は肩を落として言った。でも千里が「自分は貴司の妻だ」と断言したことが貴司はとても嬉しかった。千里ってなんて健気なんだと感動する。
 

結局その後ふたりは、オープンサンド、パンケーキ、サラダ、チキンなどを適宜追加注文しながら2時間くらいバスケの話題を話した。会話はとても盛り上がり、千里にしても貴司にしても、とても楽しい気分になった。
 
それでさすがにそろそろ出ようか、と言っていた時、思わぬ人たちの姿がある。
 
「吉子ちゃん!」
「藤元さん!」
 
それはチームの主将の藤元さんと、奥さんであり千里の従姉でもある吉子であった。
 
「これは面白い遭遇だ」
と藤元さんが笑顔で言っている。
 
「デートしてたの?」
「今別れようとしていた所で」
「だったら、お茶だけでも追加しない?4人で話そうよ」
 

藤元さんたちは買物に出てきたらしいが、荷物は車に積んでいるらしい。冬なので劣化の心配をする必要が無い。それで結局藤元さんたちはパスタを頼み、千里と貴司はコーヒーを頼んで、4人で1時間ほど話し込んだ。
 
親戚の噂話なども出たのだが、貴司はやはり自分と千里の結婚問題がこの2人には知られていないことを再確認することとなった。
 
「でもそちらいつ結婚するの?」
と藤元さんから尋ねられると、千里は例の婚姻届けを取り出す。
 
「婚姻届けは書いたんですよ。後は日付を記入して提出するだけ」
「おお!ちゃんと親の署名ももらってるじゃん。まだいつ提出するか決めてないの?」
 
「貴司が妊娠しているみたいだから、その赤ちゃんが生まれてからかな」
などと千里が言うので
 
「貴司君の方が妊娠してるの!?」
と思わず吉子も藤元さんも言った。
 
「それ赤ちゃん産まれる前に籍を入れなくていいわけ?」
「私が認知したから大丈夫」
「千里ちゃんの方が認知したんだ!?」
 

かなり盛り上がったあとで藤元は言った。
 
「それでさ、まだこれ他の奴には言わないでいて欲しいんだけど」
「はい?」
「俺、今度の3月でこのチームやめるから」
「え?そうなんですか?」
 
「bjの千葉ロケッツに移籍する」
「bjに行っちゃうんですか?」
「千葉ロケッツは来シーズンから新リーグのNBLに合流するんだよ」
「おぉ!!」
「だからトップリーグになる」
 
長らく対立してきたbjとJBLが、麻生会長(元総理)らの尽力もあり、やっと統合されることになり、来年から両者を統合したNBLという新しいリーグが発足することになっている。それで千葉ロケッツは現在はbjに所属しているものの、来シーズンからは新しい統合リーグのチームになるのである。
 
そこに藤元さんは行くらしい。
 
「藤元さんならトップリーグでできますよ」
と貴司が言うと
 
「細川もトップリーグで行ける」
と藤元は言った。
 
「来期は体制が大きく変わるチームが多いと思う。だからチャンスだよ。細川も幾つかチーム巡りしてみなよ。日本代表なんだし、絶対取ってくれる所あるぞ」
 
「それ私も賛成」
と千里が言った。
 
「ほら奥さんもそう言っている」
「少しくらい給料減っても、私が何とかするからさ」
「うーん・・・」
 
「あまりゆっくりしていると、どこも陣容が固まってしまうぞ。年内にも動き出した方がいい」
 
「少し考えてみます」
と貴司は言った。
 

藤元と吉子は夕方からbjの試合を見に行くと行っていたので、レストランを出たところで別れた。2人が地下鉄の駅の方に行くのを見送ってから
 
「じゃ今日はこれで」
と千里が言う。
 
「うん。それじゃまた」
と貴司も言った。
 
そして握手をして別れた。
 

千里は「ちょっとトイレ」と言って、ホテルの中に舞い戻る。貴司は迷ったものの、千里のトイレを待つのも変だし、藤元たちと顔を合わせるのも気まずい気がして、少し距離はあるが反対側の地下鉄の駅まで歩いた。
 
そして何気なくポケットからスマホを取り出そうとした時、そこに何か紙が入っていることに気付く。
 
何だろうと思い取りだしてみる。そこには数字と記号が書かれていた。
 
《12**》
 

何だろう?と思う。千里の字である。貴司はたっぷり1分近く考えてから、
「あっ!」
 
と声をあげた。そして急いで走ってNホテルに戻る。
 
エレベータで12階に上る。
 
そして1222号室のドアの前で千里に電話を掛けた。
 
ドアが開く。中に入る。
 
千里はいきなり熱いキスをした。貴司は一瞬戸惑ったものの、舌を絡めあった。そして心臓が物凄い鼓動を刻む。ついでに半年ぶりに強い男性的衝動を感じた。
 
5分くらいした所で身体を離す。
 
「気付かなかったらもう振るつもりだったよ」
と千里は言った。
 
「ごめん。地下鉄の駅まで行ってから気がついた」
と貴司。
 
「今夜は私たちの初夜だよ。だって今日が結婚式だったんだから」
と千里が言うので、貴司はドキドキする。
 
「うん」
 

「でも言っておくけど、貴司が阿倍子さんと別れない限り、私は貴司とセックスしないからね」
 
「しないの〜〜?」
と言って貴司は凄く哀しそうである。
 
全くこの男は・・・と千里も呆れる。
 
「でもさっきも言ったように、私は2007年1月13日に貴司と三三九度をした時以来、貴司の妻だから。夫婦である以上同じ部屋で一晩過ごすのは問題無いよね?」
 
と千里が言うと、貴司はじっと千里を見つめていた。
 
「ちなみにこの部屋は細川貴司・細川千里名義で借りているから」
 
貴司は少し驚くような表情をしたものの、まだじっとこちらを見ている。
 
「ちなみにホテル代金は細川千里名義のカードで払っているから」
 
と千里が言うと、貴司も相好を崩した。
 
このカードは貴司のクレカ(VISAゴールド)のファミリーカードとして発行されたものである。貴司としては、婚約解消に伴って返却して欲しかったのだが、どうも千里は返すつもりは無いようだ。まあいいかと貴司も思った。
 
「まあお話しようよ。ベッドに座って」
と千里は笑顔で言った。
 
「うん」
と貴司も言った。
 
それでふたりは本当にダブルベッドに腰掛けたまま、ずっと色々お話をした。
 

「そうだ。ねぇ、千里」
「うん?」
 
「ほんとに悪いんだけど」
「どうしたの?他にも婚約者がいるの?」
「さすがにそんなに居ない!」
 
「だったら、どうしたの?マイハニー」
と千里から言われて貴司はドキドキしている。
 
「年賀状を今年も書いてくれないかなと思って」
と貴司が言うので千里は吹き出した。
 
「そんなの愛しい愛しい阿倍子さんに書いてもらったら?」
「あの子、とんでもなく字が下手なんだよ」
「へー。だったら貴司が自分で書いたら?」
「僕の悪筆は知ってるだろ?」
「そうだねぇ。まあいいか。じゃ今年は私たちが結婚した年だから、細川貴司・千里の連名で。『結婚しました』のメッセージ付きで」
「済まないけど、細川貴司だけで」
「いいよ。いつもの年のように」
 
「助かる!」
「でも明日は新婚旅行に行こうよ」
「え?」
 
「AUDIに一緒に乗ってさ」
「・・・いいよ」
 
「行き先は広島」
「広島?」
と貴司は一瞬言ってからすぐ気がついた。
 
「ウィンターカップか!」
「そそ。チケットは確保しているよ。2セット」
と言って千里はウィンターカップの23日から28日までのチケット6枚を見せた。
 
今年のウィンターカップは東京体育館が工事中のため広島で行われるのである。
 
「凄い」
と言ってから貴司は指を折って数えた。
 
「もしかしてそれ女子の決勝まで?」
「当然。私は男子の試合には興味無い」
 
12月29日は男子の3位決定戦と決勝戦が行われる。女子は28日に3位決定戦と決勝戦が行われる。
 
「なるほどー! あ、でも・・・僕会社があるんだけど」
「新婚旅行くらい休めないの?」
「ごめん」
 
「仕方ないなあ。ワーカホリックだから」
「明日・明後日は一緒するよ」
 
(明日23日は天皇誕生日の日曜日で明後日24日は振替休日)
 
「まあいいよ。取り敢えずそれで」
 

「だったらさ。明日車を運転するのなら、今夜はもう寝ない?」
「新婚初夜は徹夜だよ」
「うーん。まあ何とかなるかな」
 
「セックスには応じられないけど、貴司が自分で逝くのは勝手だから。私は手伝えないけど」
「手伝ってくれないと逝けないんだけど」
 
貴司は千里の手の中でないと、オナニーでも逝けないのである。
 
「だったら我慢するしかないね」
と千里が言うと、貴司は情けなさそうな顔をした。
 
結局その夜は4時までおしゃべりを続け、その後少し眠くなったねと言って、千里は!ダブルベッドの上で寝た。
 
ちなみに貴司はカーペットの上で寝た! 千里は「毛布が無いと寒いよね」と言って、自分のコートを貴司に貸してあげたが、貴司は千里のコート(の匂い?)を快適に感じながら熟睡した。実際問題として貴司はさすがに疲れていて、何もしないまま睡眠に落ちていった。久しぶりに戻ってきたちんちんをいじる元気も残っていなかった。
 

千里は23日夜と24日夜の2日掛けて貴司の年賀状100枚を“呉竹の筆ペン”を使って書き上げた。「投函もしとくね」と言って、北海道分と東京分は《てんちゃん》に頼んで、東京経由旭川まで行ってもらい、各々そちらから投函した。それで元旦に届く確率があがるはずである。
 
千里は貴司に「来年も書いてあげるから、もっと早く持って来て」と言った。
 
そして千里は言った。
 
「結婚記念日に合わせて、毎月22日前後の土日に、私たち会えるといいね」
と。
「どこで会えるのかな?」
と貴司は訊いた。
 
「やはり私たちの思いが高い場所だよ。大阪ならNホテル、関東なら横浜のあそことか」
 
「じゃ基本はNホテルにしない?状況次第で変更」
と貴司は言った。
 
「もしメールで連絡した場合はそのメールは即削除で」
「分かった」
 
それから、ふたりの毎月の逢瀬は始まったのである。
 
貴司は広島から戻ると、MM化学の練習が年末年始の休みに突入したこともあり、市川ラボに泊まり込んで練習に明け暮れた。市川ラボには泊まれる設備もあり、部屋を割り当ててもらったのである。
 
そういう訳で貴司は11月下旬に年賀状を持って阿倍子の所に行った以降、一度も阿倍子と会わないまま、過ごすことになった。さすがに反省していたので、この時期は浮気もしていない。
 

ところで市川ラボというのは、実は常総ラボと並行して建設されていたものである。これは千里が2013年4月に大阪に引っ越して貴司と一緒に暮らし始めた時に、いつでも思い立った時に練習できるようにと場所を求めて、千里(せんり)のマンションから1時間程度で行ける場所を、探してもらったものである。
 
ここは常総ラボと違い、住宅地にも近いので、完全防音で建設することにした。また市川ラボはコートが1面しか取れないが、やはり色々使い手を考えるとコートが2面取れる設計がいいと考え、常総ラボの倍の面積が取れる土地を確保した。
 
ここの土地は58×48=2784m2で、体育館はフロア面積35m×44m、建物面積36m×45m (1620m2)である。体育館前面のスペースも22m×48mあり、ここにも30台程度の車を駐めることができる。そこは一般利用者用の駐車スペースと考えている。貴司のAUDIもここに駐車させている。
 
体育館は2階にあり完全防音で空調完備である。1階には千里の個人用駐車スペース(約20台駐車可能)、シュート練習室、筋トレ室、休憩室、用具室、トイレ、シャワー、キッチン、そして宿泊室(3畳)が10個設置されている。地下には25m×8コースのプールとお風呂も設置されているほか、実は楽器倉庫、防音スタジオ、作曲作業室、などもある。
 
地元のスポーツ振興課と話し合い、日中は地域の学校やスポーツ少年団などに無料開放することにした。プールも来年の夏以降地元の小中学生の水泳の授業に解放予定である。その代わり騒音をもらさないという前提で夜間の使用を認可してもらったのである。
 
常総ラボの倍の面積であり、プールまで装備しているので工事期間もかかり、ほぼ同じ頃に着工したにも関わらず、完成も1ヶ月遅くなった。常総ラボは9月7日に千里に引き渡されたが、市川ラボは10月7日に引き渡されている。
 
つまり貴司は常総ラボも市川ラボもほぼ完成したての体育館で練習したのである。
 

なお、市川ドラゴンズのメンバーは《こうちゃん》の友人の龍たちで、ここでは八大龍王の名前を“コードネーム”として名乗っている。
 
4.南田歓喜♂(ナンダ) 5.南田鵜波♂(ウパナンダ) 6.前橋♀(善女龍王) 7.七瀬♀(七面天女) 8.九重♂(九頭龍王) 9.清川♂(清涼龍王) 11.万奈♂(マナスヴィン) 12.青池?(青蓮華龍王)
 
本当は七面天女は八大龍王タクシャカ龍王の娘、善女龍王は八大龍王サーガラ龍王の娘だが、男女比の問題で名称代替して参加している。
 
前橋と七瀬は実際問題としてWNBA選手並みの運動能力の持ち主なので千里より強いのは当然である。《こうちゃん》が貴司を「虐めて」やろうと、わざわざアメリカから呼び寄せたのである。西洋ドラゴンだらけで東洋系の龍が肩身の狭い思いをするヨーロッパと違いアメリカはわりと東洋系の龍にも住みやすいらしいが、それでも日本は龍が多いので心地よい、と気に入ったようである。取り敢えずふたりとも、牛丼と天麩羅のトリコになったとか。
 
青池の“性別”と“本当の実力”は誰も知らない。
 
しかしキャプテンの南田兄より遙かに強いのは間違い無い。
 
青池は《チェックゲート》であり、彼(彼女?)に負けるというのは、つまり青池の観点で“見込みが無い”という意味である。
 

12月23日(日祝).
 
この日龍虎が通うバレエ教室では毎年恒例の発表会が行われた。
 
今年の演目はチャイコフスキーの『くるみ割り人形』で、龍虎が踊るのは《スペインの踊り》の男性側である。龍虎はこの日、母と一緒に市内の文化ホールにやってきた。ここには太陽・月という2つのホールがあるが、その内の太陽ホールで今日の発表会は行われる。9月にはピアノ教室の発表会が行われた場所である。
 
『くるみ割り人形』の第2幕舞踏会で様々な踊りが披露されるが、その順序は“本来は”こんな感じである。
 
情景 クララと王子
→スペインの踊り→アラビアの踊り→中国の踊り→ロシアの踊り→フランスの踊り→ジゴーニュおばさんと道化たち→花のワルツ
→金平糖の精と王子(パドドゥ→王子のバリエーション→金平糖の精のバリエーション→コーダ)
→終幕のワルツ
 
しかしこの公演では第1幕の曲も加えてこのようにアレンジしている。
 
行進曲(全員)
→雪片のワルツ(クララ・王子+女子全員)
→ロシアの踊り:トレパック(男子5人)
→アラビアの踊り:コーヒー(男男女×3組)
→中国の踊り:お茶(男女ペア+バック6人)
→フランスの踊り:葦笛(男女ペア×2組)
→スペインの踊り:チョコレート(男女ペア×2組)
→金平糖の精の踊り(金平糖)
→花のワルツ(全員)
 
曲の並びは実は『くるみ割り人形組曲』の方に近い。但し組曲にはスペインの踊りが入っていない!
 
なおクララと金平糖は兼任で、中学3年生の雪乃さんが演じる。彼女にとっては、この教室最後の発表会である。
 
行進曲の時に“くるみ割り人形”の扮装をする中学3年の渡辺君はかぶり物を取って王子として雪片のワルツを踊る。女子は全員ロマンティックチュチュで行進曲→雪片のワルツを踊る。
 
(ロマンティックチュチュは下半身が普通のスカートのようになっている衣裳。これに対してクラシックチュチュは裾が水平になっている衣裳で『くるみ割り人形』では金平糖の精などが着る)
 
その後、男子5人(小4〜中3)によるトレパックがあるので、アラビアに出る女子はその間にロマンティックチュチュからアラビアの衣裳に着替える。雪乃さんは雪片のワルツの後はしばらくお休みでクライマックスの金平糖で素敵な踊りを披露。そして最後に全員で花のワルツである。
 
龍虎の場合は行進曲に出た後、しばらくお休みで最後から3番目にスペインで踊ってから、金平糖を見学し、花のワルツに参加である。龍虎は一応小5男子なのでトレパックにも出る?とも言われたのだが、背が低くて
 
「小学2年の“女の子”が無理矢理参加しているように見える」というのでキャンセルされた。
 

さて・・・・。
 
この手のイベントで突発的な事態が発生するのは、いつものことである。
 
「日出美ちゃんがお休み!?」
「39度の熱が出て、とても動けないらしくて」
「あらぁ・・・」
「インフルエンザかもということで」
 
「アラビアの踊りどうしましょう?」
「うーん」
 
と言って先生が悩んでいる。その時、龍虎は何気なく先生を見ていた。先生が龍虎に気付く。
 
「ねぇ、龍ちゃん、アラビアを踊ってくれたりしないよね?」
「え?でも衣裳は・・・?」
 
「誰か代役さんが使うだろうからといって、日出美ちゃんのお姉さんが、今こちらに持って来てくれるらしい」
 
「それ女の子の衣裳ですよね?」
と龍虎が言うと
 
「龍が女の子の衣裳着るのは全く問題無い」
と鈴菜が言う。彼女は龍虎と同じ5年生で、アラビアの後方左で踊る。
 
「龍ちゃん、おちんちんを病気で取っちゃったんでしょ?だから女子の衣裳も着れるんだよね?」
とアラビアの前方で踊る蓮花ちゃんが言っている。
 
「どこからおちんちんを取ったなんて話が・・・」
 
「だってサポーターとか使ってないのに、お股に盛り上がりとか無いし」
「龍ちゃんはお股は女の子とほとんど同じ形だから、サポーターを付けると止めるものがなくてサポーターが動き回ると聞いた」
 
龍虎は困ったような顔をしているが、母は笑っている。
 
「龍、あんた踊れるんなら、代わってあげなよ。先生、出番は連続してはいないんですか?」
 
「そうなんです。アラビアを踊ってから、2つ挟んでからスペインなので、その間に本来のフラメンコの衣裳に着替えられるんですよ」
 
「じゃ、やりましょう。いいよね、龍?」
「うん。だったらやります」
 
「それに日出美ちゃん、背が小さいし、あの子の衣裳が入る子は限られる気もする」
「うん。龍ちゃんなら入る」
 
と他の子たちが言っていた。
 
それで龍虎は急遽、日出美ちゃんのピンチヒッターでアラビアの踊りも踊ることになったのである。
 

本番開始が迫る中、龍虎が取り敢えず普通の練習着のレオタードのままアラビアの右後ろの女子役を演じた。
 
「凄い。ノーミスだった」
 
「夏休みに蓮花ちゃんが旅行中に練習した時は左側だったから、それと対称になるように踊った」
と龍虎は言っている。
 
「それが一発でできる所が凄い」
と蓮花が言っている。
 
そんなことをしている内に日出美ちゃんのお姉さんがやってきて日出美ちゃんの衣裳を先生に預けた。お姉さんも以前この教室にいたのだが、もう卒業している。
 
「ちょっと着てみて」
「はい」
 
それで龍虎が着てみると少し大きいくらいである。
 
「大きいのは問題無いね」
「龍ちゃん、小さいからなあ」
 

「じゃ龍ちゃんは行進曲・雪片のワルツの後、トレパックの間にアラビアの衣裳に着替えて、アラビアが終わったらフラミンゴに着換えて、フラミンゴを踊った後は、そのままの衣裳で花のワルツに参加、で」
 
と先生は言った。
 
「待って下さい。ボク、雪片のワルツにも出るんですか?」
「あ、ごめん。それは女子だけだった」
と言ってから先生は言った。
 
「ロマンティックチュチュ着て雪片も踊る?」
「雪片踊れるとは思うけど、チュチュは勘弁して下さい」
 
「ん?」
 
「踊れるんだっけ?」
 
龍虎はしまったぁ!と思った。
 
「日出美ちゃんは雪の精4で、4・5・6が並んで踊るから、先頭に立つ4を省略すると結構雪の精5の人が戸惑うのよね」
 
「龍ちゃんは見たことのある役なら自分で踊れるんですよ」
と蓮花は言っている。
 
「ちょっとそのアラビアの衣裳のままでいいから雪の精4を踊ってみてよ」
 
それで他の女子も入ってやってみると、龍虎は完璧にこなした。
 
「すごーい!」
「初めてでこんなに踊れるなんて」
「だって、4・5・6は、1・2・3と対称な動きだから、1の一恵さんの動きを感じとって動けばできますよ」
「一恵ちゃんが見えない位置もあるのに」
「見えなくても感じられますよ」
「すごーい」
 
(龍虎は千里ほどではないが、本来視界の外にある人の動きをけっこう把握する力がある)
 
「龍は他の人の練習を見学する時に、いつも脳内でシミュレーションしながら見ているから、できるのよね」
と長く龍虎を見てきている蓮花は言っている。
 
「じゃ龍ちゃん、雪片もお願い。チュチュはたぶん日出美ちゃんのが入るんじゃないかな」
 
「あはは・・・結局チュチュを着るのか」
「あんたいつもスカートとかドレスとか穿いてるし、今更でしょ?」
と母から言われてしまった。
 

11時頃にお昼を軽く取って休憩してから発表会は13時に始まる。
 
龍虎は休憩時間の間に、母の車の中で練習用の下着を本番用に交換し、ついでにそのままロマンティックチュチュを着てしまった。普通の靴を履いたままホールに戻り(龍虎は人前にスカート姿を見せるのは平気である)、控室前の廊下でバレエシューズに履き替える。男子の生徒の中には黒いバレエシューズを使う子もいるが、龍虎はいつも白を使っているので、他の女子たちの中に入っても違和感が無い。
 
全員整列し、スタンバイする。やがて行進曲の音楽が流れ始めるので順番に2人ずつ入場していき、行進曲を踊る。バレエ教室では女子が圧倒的に多いので先頭の数組は男女ペアになるが、その後ろは女子同士のペアである。この行進曲の段階ではクララは端の方に立っている。くるみ割り人形はかぶり物をしたまま、マネキンのように不動の姿勢で立っている。
 
やがてクララとくるみ割り人形を残して全員退場。くるみ割り人形はかぶり物を取って王子となり、最初は王子だけが中央で踊る中、雪の精役の女子たちが3〜4人単位で走り回る。ここで龍虎は4・5・6番の子3人の先頭に立って走り回った。
 
トレパックに出る男子たちが出てきて舞踏会が始まる。彼らが出ている間に龍虎は蓮花・鈴菜と一緒に“女子控室”に入ってロマンティックチュチュを脱ぎ、アラビアの踊りの衣裳を着けた。
 

「行くよ」
とリーダー格の蓮花が言い、すぐ舞台袖に向かう。アラビアの衣裳を着けた6人の男子たちも“男子控室”から出てくる。9人でコサックダンスのようなトレパックを見ている。
 
「そろそろ終わる」
と先生が言う。
 
トレパックが終わる。そして9人で出て行こうとした時・・・
 
蓮花が躓いて倒れてしまった。
 
「蓮花ちゃん!?」
 
彼女は足首を手で押さえている。
 
「どうしたの?」
「足をくじいたみたい」
「大丈夫?」
 
トレパックの男の子たちが退場したのにアラビアの踊り手たちが出て来ないので音楽担当の先生が慌ててCDの再生を停めている。
 
「蓮花ちゃん、踊りどうしよう?」
 
「踊れるとは思うけど多分充分な演技ができないです。鈴菜ちゃん、悪いけど前面で踊ってくれない?たしか鈴奈ちゃんも前面の踊り練習してたよね?」
と蓮花は言った。
 
「え〜〜?夏休みに蓮花さんが旅行で休んでいた時に少しやったけど、その後やってないから自信無い」
と鈴菜は言っている。
 
「だったら・・・」
と前面で踊る男の子が言う。
 
「田代君が前面で踊るしかない」
「え〜〜〜!?」
と言ったのはむろん龍虎ひとりであり、他の子はどうもそれしかないと思っている様子である。
 
アラビアの子たちがなかなか出て来ないので客席はざわめいている。
 
「仕方ない。今日は龍ちゃん、前面で踊って。前面の踊りはできるよね?」
と先生まで言った。
 
「はい」
と龍虎は答える。
 
「だったら、前が龍ちゃん、左が鈴菜ちゃん、右が蓮花ちゃん」
「よし、それで行こう」
 

それでアラビアの9人が出て行く。CDの再生が再開される。
 
龍虎は予定していた右後ろではなく前面に立ち、2人の男子に支えられるようにして、なまめかしい感じの“コーヒー”を踊った。その男子たちにリフトされたまま踊る所も、美しく踊った。
 
3分半ほどのダンスが終わり、退場する。代わって中国の踊りの子たちが入ってくる。
 
龍虎は鈴菜と一緒に蓮花を支えるようにして“女子控室”に戻る。
 
「湿布しておこう」
と言って先生が薬箱から湿布薬を取り出してきて蓮花の足首の所に貼る。
 
「龍ちゃん、すぐフラメンコに着換えて」
「はい」
 
それで龍虎は急いでアラビアの衣裳を脱いで、スペインの踊りの男の子の方の衣裳を着た。少しざわめきがある。
 
「龍ちゃん、なんで男の子の衣裳を着るんだっけ?」
「女の子は、妃呂ちゃんと、唯花ちゃんですー」
と龍虎は答える。
 
「あ、男子の頭数が足りないから、男役だったのね?」
「でも龍ちゃんは背が低いからもっと背の高い子が男役をすれば良かったのに」
 
「今から私の衣裳と交換する?」
と身長140cmでスペインの女の子の方の衣裳を着けている妃呂が言う。
 
「いや、時間がないから、そのままの配役で」
と先生が言い、それで妃呂・唯花といっしょに出て行く。“男子控室”から、もうひとりの男役の井村君が出てきた。
 
それで龍虎(125cm)と唯花(135cm)、井村君(160cm)と妃呂(140cm)のペアで舞台に出ていく。軽快な音楽に乗せて、スペインの踊り(チョコレート)を踊った。
 

この後の出番は花のワルツだが、それには今着けている衣裳のまま出ることになっているので、もう着換える必要は無い。雪乃さんが美しく金平糖を踊っているのを見ながら、舞台袖でみんなと一緒に待っている。
 
やがて雪乃さんの踊りが美しく終了し、音楽は『花のワルツ』に変わる。全員で出て行き、ワルツを踊り始めた。龍虎はスペインの踊りをペアで踊った唯花ちゃんとそのままペアを組んでワルツを踊った。
 

演奏が全て終了してから、唯花や鈴菜たちと一緒に“女子控室”に戻った。
 
「何か色々トラブルはあったけど、何とかなったね〜」
「中国の踊りで燈籠が倒れたりとか、トレパックで佐藤君が倒れそうになってそのままバク転しちゃったとか」
「あれはかえって受けてた」
 
「蓮花ちゃんと龍虎ちゃん、なんで逆になったの?」
という質問がある。
 
「あれ私が舞台袖で出る直前に転んで足をひねっちゃって」
「あらら」
「それで充分な演技ができない感じだったから、代わってもらったのよ」
「確かに前面のポットは動きが激しいもんなあ」
「でも龍ちゃんがいて良かった」
「蓮花ちゃん、足大丈夫?」
「湿布を貼ってもらったから、もう大丈夫」
 
「でも龍ちゃんのコーヒーって凄いセクシーだったね」
「あ、思った思った。あれは中学生女子の演技だよ」
「まああまりセクシーすぎると、バレエ教室の発表会としては問題があるかもね」
「龍ちゃんって、本来は身長無いのに、舞台の上ではけっこう大きく見えるのよね」
 
「そうそう。普通にしてると小学2年生くらいの女の子に見えるのに、ステージの上では中学生女子に見える」
などと言われている。
 
それで龍虎が
「あのぉ、ボク男の子ですけど」
と言うと
 
みんな顔を見合わせている。
 
「なぜ男の子が“女子控室”に居る?」
「え?ここ女子控室だっけ?」
「私たちが男に見える?」
「ごめーん。男子控室ってどこだったっけ?」
「いや、龍ちゃんは女子控室に居ていい」
 
「なんか小さい頃の病気で、ちんちん取っちゃったんでしょ?」
「ちんちん無いなら、女の子と同じでいいよね?」
「だいたい、龍ちゃん、女子トイレ使っていた」
「だって女の子の衣裳着けて男子トイレに入れないもん」
 
「いや、ふだんから龍ちゃんは女子トイレでよく見かける」
 
龍虎は多くの場合、男子トイレに入ろうとしても「君こっち違う」と言われて追い出されるのである。
 
「そもそも龍ちゃん、立っておしっこはできないんでしょ?」
「確かにできないけど」
 
龍虎はちんちんが短すぎるので、ズボンの前開きから出しておしっこすることができない。もっとも、そもそも龍虎は女子用のズボンを穿いていることが多いので、ちんちんの位置が合わず、もし長さが足りたとしてもそこから出すこと自体ができない。
 
(女子用ズボンのファスナーは単なる着脱用で短いので、ペニスの位置まで降りない)
 
「じゃ、やはり女子控室にいて全く問題が無い」
とみんな言っている。
 
そういう訳で、龍虎はこの発表会で、女子用のロマンティックチュチュで行進曲と雪片のワルツを踊り、アラビアの踊りでも女子用の衣裳を着て踊り、最後だけスペインの踊りの男子用の衣裳でスペインと花のワルツを踊ったのであった。
 
 
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【娘たちの振り返るといるよ】(2)