【娘たちのお正月準備】(3)

前頁次頁目次

 
深夜のファミレスでの4人の会話は続いていた。
 
「そういう前提で行くとですよ。スポーツ得意でボーイッシュな女の子なんて桃香にとっては凄い好みという気がしない?」
と美緒は言った。
 
「確かに」
と玲奈も同意する。
 
「でも千里は『自分はストレート』だと言ってたよ。女の子には興味無いって」
と友紀。
 
「ストレートってそういう意味なのか」
と由梨亜。
 
「だって千里は女の子なんだから」
「最近の日本語は難しい」
 
「だったら千里は桃香には関心無いのでは?」
 
「うん。でも桃香も普通の女の子ではない。あの子結構男らしいよ」
と美緒。
「言えてる」
 
「だから千里にとっても桃香はストライクゾーンにぎりぎり入っている可能性がある」
「だけど千里には彼氏居るんでしょ?」
「うん。でも彼氏は大阪に住んでいるみたいなんだよね」
 
「遠距離恋愛か」
「それなら地元にもうひとりくらい恋人作ってもいいでしょ?」
と美緒が言うが
 
「いや、そういう発想をするのは美緒か桃香くらいだ」
とみんなから言われる。
 
「でも桃香が強引に千里に攻勢を掛けたら、分からなくもない気がしない?」
と美緒。
「まあ恋人未満くらいの関係までは行くかもね」
と玲奈も言った。
 

4人は千里と桃香の噂話を1時間くらいした後、また別のカップルの噂話をする。そうやって明け方まで、様々な噂話をした後、
 
「今日は桃香は日中バイトに出ているはずだから、留守宅で寝せてもらおう」
などと言って、ファミレスを出た後、朝の街を歩いて桃香のアパートまで行き勝手に鍵を開けて中に入って、布団を出して来て適当にかぶって寝た。 
これが11月7日の朝である。
 

一方同じ7日、高知では全日本社会人選手権の2日目が行われる。
 
今日は9:30から男女の準決勝が4つのコートに別れて同時に行われた。千里たちはサブアリーナのDコートで、玲央美たちジョイフルゴールドと激突した。 
「まあ事実上の決勝戦のような気がするよ」
と薫は言う。
「うん。でも負けた方はオールジャパンに行けない。厳しいね」
と千里は言った。
 
いつもなら試合前でも笑顔で手を振ってきたりする玲央美が最初から厳しい表情でこちらを見ている。熊野サクラや近江満子・池谷初美なども一様に厳しい表情だ。昭子だけはおろおろしている雰囲気。
 
試合はむろんジョイフルゴールドのサクラ、ローキューツの誠美というライバル同士でティップオフをする。
 
これに誠美が勝って、ローキューツが先に攻撃した。
 
千里に玲央美、誠美にサクラ、麻依子に初美、薫に希優、と自然にマッチングが定まる。ポイントガードは凪子(元L女子校)と満子(元R高校 )の旭川対決である。
 
まずは薫・麻依子・千里の3人が複雑に絡む連携プレイから千里がスリーを放り込み、ローキューツが先行した。
 

序盤から双方とも難しい連係プレイを繰り出してくる。お互い単純なスタンドプレイで得点させてくれる相手ではないと思っている。サブアリーナの方は最初はほとんど観客が居なかったものの、どうも最初見ていた数人がチームメイトを呼び寄せたようで、途中からけっこうな人数が観戦する中の試合になった。
 
ゲームは均衡して進む。ジョイフルゴールドはメンバーが疲れないようにローザ、美花・稀美・昭子といった所を適宜投入していくし、ローキューツも国香・夢香・桃子・岬・聡美といったメンツを入れていって、疲労の蓄積を避ける。 
どちらもメンバーが交替しながら複雑な連携プレイをして巧妙にスペースを作ったり、あるいはトラップに掛けようとするので、見ている観客のほうが混乱して「え!?」という声を出したりしていたが、メンバーが交替してもどちらも連携ミスはしない。そして結果的に試合はロースコアで進んだ。
 
結局第3ピリオドまで終わって45-45の同点である。
 

「向こうは仕掛けて来ますかね?」
と夏美が半ば独り言のように言う。
 
「仕掛けないでしょ。この試合は無理した方が負ける試合」
と凪子が言う。
 
「うん。我慢して我慢して我慢しきらないと、無理な作戦をするとそこから崩壊するよ」
「観客さん増えたけど、見ていてストレスを感じる試合だろうなあ」
と寛子。
「まあ客を呼べるような試合ではないね。これ」
と麻依子も言った。
 
とは言っても、サブアリーナの席は全部埋まってしまい、立って見る人まで出ている。
 
そしてゲームは第4ピリオド半ばまで行っても52-52の同点である。
 
ローキューツが攻め上がっていった時、玲央美が千里に小さな声で言った。 
「そろそろ勝負行かない?」
「そちらからどうぞ」
「マジ行くよ?」
「それ停めるから」
 
ここで麻依子が得点して52-54となった所で、ジョイフルゴールドはまた連携プレイかと思わせて、玲央美が独走する。しかし千里はそれにしっかり付いてきて、スリーポイントラインの付近で対峙する。
 
いきなり玲央美はスリーを撃つ。
 
しかしきれいに千里がブロックする。
 
こぼれ球を岬が取って自らドリブルして攻め上がる。凪子にパスしようとするが、満子が物凄いディフェンスをしている。麻依子を見るがローザが完全にパス筋を塞いでいる。
 
仕方ないので自分で中に進入する。誰にも邪魔されずにシュート。52-56.  
満子がボールを持ち、いきなりロングスローイン。これを岬の独走を放置してコート半ば付近に居た昭子が取ってドリブルで少し進み、カバーに走り寄った千里が彼女の所に辿り着く前にシュート。55-56.
 
昭子は千里にニコッと微笑み、千里も思わず昭子の頭を撫で撫でした。ふたりが接触しているので副審が寄ってきたものの、ふたりが笑顔なので当惑している感じだった。
 

しかしこのあたりから、お互いのマークが外れたり変則的になったりして、ミスマッチも頻繁に発生し、結果的に一転してハイスコアのゲームになった。 
残り5分から残り2分になる3分間の得点は10-11で、ここまで62-63である。  
次のジョイフルゴールドの攻撃で玲央美が麻依子のディフェンスを振り切ってスリーを入れ、65-63. しかし次の攻撃では千里がスリーを入れて65-66. 試合は攻撃の度にリードが変わるめまぐるしい展開である。そして残り1分を切った所で、ローキューツが得点して69-70とローキューツ1点のリードである。どちらも速攻を繰り返す上にスクリーンプレイを使うのでマークがどんどん入れ替わってしまう。千里は不本意ながら、ローザを相手にしたり、昭子と“師弟対決”したりして、なかなか玲央美と対峙できない。
 
ここから、ローザと誠美が2点ずつ取って73-74.残りは36秒。更に玲央美が2点プレイで75-74として残り28秒。ローキューツの攻撃。
 
ここではローキューツはリードされているから攻めなければならないがあまり速攻すると次のジョイフルゴールドの攻撃機会に時間をたくさん残してしまう。それでややゆっくりと攻め上がる。
 
ゆっくり攻め上がったので、お互いのマークが本来の組合せに戻った。 
「ここは当然スリーで来るよね?」
と玲央美が言う。
 
「当然。そうするよ」
と言って千里はドリブルしながら玲央美に突進する。
 
玲央美が「え!?」と声をあげた。玲央美の横を通過する直前に千里は麻依子にパスする。麻依子は制限エリアに進入しながらボールをキャッチする。そしてそのままレイアップに行こうとする。必死でサクラが停めようとする。しかし麻依子はサクラが目の前で完全にブロックしているのを見ると、空中で体勢を変えて千里に鋭いパスを送る。
 
その時千里はもうスリーポイントライン付近まで走り抜けていた。
 
今度は玲央美が「あっ」と言った。
 
千里が美しくスリーを入れる。これで75-77.
 
残り5秒。
 

エンドラインでボールを持ったサクラが思いっきりふりかぶった。
 
今度は千里が「あっ」と言う番だった。玲央美を探す。
 
もうコートの向こうまで行っている。
 
玲央美は千里がスリーを撃った瞬間にダッシュを始めていたのである。 
千里は必死で戻るが、玲央美はもうボールをキャッチしている。ドリブルでスリーポイントラインの所まで行く。
 
そして千里が玲央美の所に到達する直前に玲央美はシュートを撃っていた。 
美しい弧を描き、ボールはダイレクトにゴールに突き刺さった。
 
78-77.
 
残り1秒!
 

ローキューツはタイムを取った。
 
凪子、千里、麻依子、桃子、誠美という背の高いメンツで出て行く。向こうもサクラ、ローザ、玲央美、初美、美花と背の高いメンツを並べている。 
凪子がロングスローインする。
 
激しいキャッチ争い。
 
しかしここでボールを確保したのは玲央美であった。
 
取られないようにしっかり胸に抱きしめたままブザー。
 
千里は大きくため息をついた。
 

整列する。
 
「78対77でジョイフルゴールドの勝ち」
と審判が告げる。
 
「ありがとうございました」
と言ってお互い歩み寄って握手したりハグしたりする。
 
こうして今年のローキューツはジョイフルゴールド敗れて、社会人選手権ルートではオールジャパンの切符を逃したのであった。
 
もうひとつのルートである関東総合は11月27-28日に行われる。
 

同時に行われていた女形ズと千女会の準決勝は女形ズが辛勝してオールジャパンの切符をつかんだ。
 
12:50から行われた3位決定戦ではローキューツが先日の千葉秋季選手権に続いて千女会を破り、ローキューツはこの大会では3位になった。
 
14:30から行われた決勝戦ではジョイフルゴールドが大差で女形ズに勝ち、この大会の優勝を勝ち取った。
 
なお、ジョイフルゴールドは社会人選手権経由でオールジャパン出場を決めたので来週行われる予定の東京都秋季選手権の準決勝・決勝は辞退することになった(対戦予定だった多摩ちゃんずは不戦勝で決勝進出)。
 
今回の社会人選手権1回戦でジョイフルゴールドに敗れた江戸娘は、その東京都秋季選手権で準決勝に進出しており、そちら経由でのオールジャパン出場を目指す。(準決勝の相手C大学と準決勝を戦い、勝てば多摩ちゃんずとの決勝戦になる)
 

11月上旬に、千里は母からの電話を受けた。
 
「玲羅の最終面談に行ってきたんだけど」
と母が切り出すので、千里はだいたいそれで用件は想像が付く。
 
「どこか入れそうな大学ある?それとも専門学校とかにする?」
「本人はできたら大学に行きたいと言っているのよ。でも先生が言うには玲羅の成績で入れる大学って、北海道内に限れば、6つくらいしか無いらしくて」
 
「6つもあるか・・・」
「ひとつは旭川A大学の保健福祉学部。割と近くていいと思うんだけど。美輪子の所に下宿させる手もあるし」
 
「新婚さんの所に下宿するのは気が引けるけど。でも看護師さんになりたいの?」
「いや、看護婦になれる保険看護科はこの子の成績では無理だって。もうひとつコミュニティ科というのがあって、そこなら入れると」
 
「それ何か資格取れるの?」
「社会福祉士というのが取れるらしいんだけど」
「それって、名称独占資格でしょ?」
「何それ?」
「社会福祉士というのを名刺に印刷できる以外には何の特権も無い資格。調理師とか着付師などと同類」
「うーん。。。。」
「もし介護とかの仕事したいのなら、むしろニチイとかに通ってホームヘルパーの資格を取った方がずっと役に立つし就職先もある」
「あの子、介護の仕事するのかしら・・・」
 
「性格的には合わない気がするけどなあ。腕力も無いし。あれは体力仕事だよ。それにあの子、アバウトな性格だから、入居者さんとかに怪我させそう」
 
「だよね〜。それに本人も旭川よりは札幌に行きたいみたいで」
「まあ遊ぶ所が多いからね。札幌だと、どのあたり?」
 
「札幌K大学の観光学部、北海S大学の商学部、札幌C大学の中国語文化学科、札幌B大学の芸術学部。玲羅の成績で入れるのはこの4つだって。実はもうひとつ、稚内S大学の情報メディア学部も入れそうということだけど、本人も稚内まで行きたくないというし」
 
要するに、名前を書けば合格するレベルかな〜と千里は思った。
 
「まあよほどこだわりが無い限り稚内に行くことはないだろうね」
「私もそう思う」
 
「あの子、中国語できるんだっけ?」
「英語の成績もいつも赤点ギリギリだよ」
「無理っぽいな。観光学部って何するの?」
「私もよく分からない」
「商学部とか、あの子簿記とかできたっけ?」
「あの子、計算は苦手だよ。それにあの子にOLとか務まるとは思えない」
 
だよね〜。玲羅が経理の仕事とかしたら、帳簿が全く現金と合わなくなりそうだ。 
「だとすると、札幌K大学の観光学部と、札幌B大学の芸術学部の二択という気がする。あの子、歌はうまいし、ピアノも割と弾くでしょ?」
「うん。レッスンとかに行かせてもやれなかったのに、自分で学校のピアノとか弾いていたみたいだし」
 

「それで千里、相談なんだけど」
 
うん。多分その先が本題だよなあと千里も思う。
 
「取り敢えず受験料、入学金、初年度の授業料とかは出してあげるから、好きな大学に行かせなよ」
と千里は母から言われる前に言った。
 
「ほんと?何か悪いね。父ちゃんの放送大学の授業料も出してもらってるのに」
「まあ、今は私も少し余力があるから。こちらがお金無くなったらごめんね」
 
「そういえばあんたお正月はどうするの?」
「ピンポイント往復になりそう。31日にそちらに着いて1月2日に戻る」
「どんな服、着て来るの?」
「お正月だし、振袖もいいかなあ。成人式の予行も兼ねて」
 
「それ私は見たいけど、父ちゃんには見せないでよね」
「お父ちゃんに見せたらダメ?」
「それはまた今度にして」
 
うーん。いつかは明かさないといけないんだけどなあ、と千里は思った。 

11月12-14日。
 
小樽市でウィンターカップの北海道予選が行われた。
 
旭川N高校は1回戦不戦勝の後、順調に2回戦・3回戦を勝ち上がり、準々決勝で釧路Z高校を撃破。1試合だけ行われる“準決勝”で札幌D学園にも勝って、ウィンターカップの出場権を獲得した。
 
その後行われた札幌P高校(自動出場)との“決勝戦”では延長戦にもつれる激戦となったものの、セカンドオーバータイム(第6ピリオド)終了間際、同点の場面でP高校・渡辺純子がゴール下の乱戦からシュートを決めて土壇場で2点差を付ける。ところが残り6秒からのN高校の攻撃で胡蝶がブザービーターとなるスリーを決めて劇的な逆転勝ちをおさめた。
 
旭川N高校はこれでこの大会二連覇である。
 
渡辺純子がほんとに悔しそうな顔をしていた。
 
なお、旭川N高校の「3年生枠」は本来は3名までなのだが、今年はインターハイで活躍した3年生がひじょうに多かったことから今年だけ特別に5人認められ、絵津子・ソフィア・不二子・紅鹿・胡蝶の5人が14-18番の背番号を付けて参加している。5人とも進路は(内々々定くらいで)ほぼ決まっている。 

11月13-14日。
 
東京都秋季選手権の準決勝・決勝が行われ、江戸娘が優勝して関東総合選手権への出場を決めた。関東総合選手権には、千里たちローキューツも11月3日の千葉県秋季選手権に優勝して出場を決めている。
 
関東総合選手権は、優勝しなければオールジャパンに出られない。つまりこちら経由での切符は1枚のみである。
 

千里は《いんちゃん》に言われて、その日都内の美容外科のそばまでやってきた。大学を出てから来たので教科書などの入った重いバッグを持っている。 
『なんで今更、私がsub-qなんか打たないといけないのよ〜?』
『だって元々の予定では千里はこの時期まで本当はおっぱいが全然無かったのをSub-q打ってプチ豊胸することになっていたから、辻褄合わせ』
と《いんちゃん》は言う。
 
現在千里のバストはDカップ近くある。中学生の時以来ずっと女性ホルモンを摂っていたので発達した、という建前ではあるが、本当はその時期から千里の体内で卵巣が働き始めたからである。千里の体内に卵巣と子宮が実は存在していることを知っているのは、おそらく天津子と小春に《くうちゃん》くらいだ。他の眷属たちも美鳳も知らないし、千里自身さえもしばしばそのことを忘れていることがある(あるお方の作用である)。
 
『千里は2009年1月13日に男の身体に戻っている時、唐突にバスケ協会から身体検査を受けてくれと言われて、その時4時間ほど女の子の身体にしてもらった。その4時間の埋め合わせで今日4時間だけ男の子に戻るから、その間にsub-qを打ってもらいたいんだよ』
 
『なんか面倒くさいなあ』
 
その4時間というのは午後4時から8時までらしい。それで千里はその時刻になるまで、病院の前をうろうろしていた。なお病院の予約は親切にも美鳳さんが入れてくれている。
 
『なんか美容整形を受けるかどうか迷っている子という感じだよ』
『ああ、そう思われているかもね』
 
『よし。時間だ』
と言って千里はsuntoの時計で4時になって身体が切り替わったのを感じ取ってから病院の中に入った。
 
『おっぱいが全然無いの、すごーく変な感じ』
『おっぱいより、あそこの方が変な感じなのでは?』
『もうそれは無視してる』
『ああ』
 

治療自体はバストに注射を打つだけなので20分ほどで終わる。事前に血圧・体温などの測定やカウンセリングはあったものの、そのあたりは適当に済ませ、偽造!の保護者同意書も提出した。心臓に意識を集中していたので、血圧もちゃんと人並みに測定できた(千里の心臓はしばしば鼓動をサボっている)。
 
それで6時前には病院を出て、千葉に戻る。
 
『ちょっと胸が痛い』
『まあ仕方ない』
『これ8時になったら痛みも消えるよね?』
『うん。元の女の子の身体に戻るからね』
 
千葉駅で電車を降りてバスを待っていたら、到着したバスから桃香が降りてきた。お互いに手を振る。
 
「千里どこ行くの?」
「自宅に戻るつもりだけど」
「あ、だったら、ちょっと解析学の分からない所教えてくれない?」
「いいよ」
 
それで自宅に戻るのは中断して、歩いて桃香のアパートまで行った。中に入り桃香がお湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れてくれる。千里は荷物を台所に置いたのだが、
 
「ごめん。ここ物取るのに邪魔だから少し動かすね」
と言って荷物を動かそうとした。
 
「うん。OKOK」
と千里は答えたのだが・・・
 
「何この重さは〜〜!?」
と桃香が言う。
 
「ああ。教科書とか岩波数学辞典とか英語の辞書とか入っているし、バイトで使うパソコンセット(ノートPC・予備バッテリー・通信カード・小型MIDIキーボード。ついでにフルートも入れている)とか入っているし」
 
と言って千里は自分で立っていって、荷物を邪魔にならなそうな所に動かした。 
ちなみにタロットカードと財布・パスポート・非常用現金はショルダーバッグに入れており、常に手の届く範囲に置いている。
 
「こんな重たいのを持ち歩いているなんて信じられん」
「まあ鍛錬ということで」
 

結局、桃香はその荷物が置いてあった場所に椅子を置いて、棚の上からおやつを出して来た。お茶と一緒に頂く。
 
「それで、どのあたりが分からないの?」
と千里は訊いた。
「なんか今更先生に質問できない気がしてさあ」
「うん」
 
「ルベーグ積分というのの意味がよく分からないんだけどさ」
「ルベーグという言葉を考えない方がいい。単にふつうの積分の定義の仕方が違うだけだよ」
「あ、そうだったんだっけ?」
 
「古いリーマン方式の積分の定義では積分できないようものでもルベーグ方式でなら積分できる。本来の感覚的な“積分”の概念に、より近いと私は思う」
 
「より強力なのか。たとえば?」
「たとえば、有理数に対して1、無理数に対して0の値を取るような関数はリーマン積分不能だよね?」
「あ、そういう話が授業で出てきた気が・・・」
「でもルベーグの方式ではちゃんと積分できて、結果は0になる」
「それって無理数の方が有理数よりずっとたくさんあるから?」
「うん。その感覚でいいと思う。だから、そういうのがルベーグ積分だよ」
 
「そうだったのか。なんかルベーグという単語聞いただけで、頭が拒絶反応を起こしてしまっていた」
「難儀だね〜」
 
「あとバナッハ空間というのが分からん」
「完備なノルム空間だよ」
「ノルム空間って?」
「ふつうの線形空間のベクトルのノルムは分かるよね?」
「えっと長さみたいなもんだっけ?」
「そうそう。長さが定義された空間がノルム空間だよ。その中で完備、つまりその空間の中で極限を取った時、その極限がちゃんとその空間の中に収まっているものがバナッハ空間」
 
「すまん。もう分からなくなった」
「たとえば有理数の集合の中で極限を取ると、結果が無理数になっちゃう場合もあるでしょ?」
「ああ、そのくらいなら分かる」
「だから有理数の集合は完備ではない。実数なら完備」
「つまりきちんと埋まった空間ということかな?」
「そうそうそれがバナッハ空間」
 
「あとヒルベルト空間というのは?」
 
千里は頭を抱え込んだ。
 
「ねぇ、桃香、後期になってから、解析学の授業内容分かってた?」
「いやそれが全部頭の上を飛んで行っている感じで。さっぱり内容が分からないから授業中眠くて眠くて」
 
「確かにこのあたりの基本的な概念自体を理解してないと、知らない外国語の授業聞いている気分かもね」
と千里は半分呆れながら言う。
 
「そうそう!まさにそんな感じなんだよ。教科書見ても全く理解不能だし」
「たいへんね〜」
と言いながらも千里は、桃香の求めに応じて解析学の基本的な用語をひとつひとつ解説していった。桃香もそれでかなり雰囲気が分かってきたようである。 
桃香がだいぶ分かってきたので教科書に載っている練習問題を解いてみると言って少し悩んでいるようなので、千里はお茶が切れたなと思い
 
「コーヒーでも入れるね」
と言って席を立ち、ヤカンに少量の水を入れてコンロに掛けた。
 
そしてコーヒーサーバーに適当な量のインスタントコーヒーの粉を入れていたら、背後に足音がする。
 
「桃香、終わった?」
と言って振り向こうとした時、千里はいきなりお股を触られた。
 
「きゃっ!」
と声をあげる。
 
「何すんのよ〜?」
「ごめん、ごめん。千里があまりにも可愛いんで、本当に男の子なんだっけ?と疑問を感じてしまって確認してみた」
 
「それで男の子だった?」
「確かに男の子だった。残念だ」
「私はおかげで今日は襲われずに済むみたい」
「そんな、同級生を襲ったりしないよぉ」
「全然信用できない!」
 
結局千里はこの日、22時すぎまで桃香のアパートに居て、一緒にストックのインスタントラーメンで晩ご飯にした。それで食べている最中に電話が入る。雨宮先生である。
 
「今からですか〜?」
「明日の朝までに何とか仕上げなきゃいけないのよ」
「何だかいつもそんな話ばかりですね〜」
と言いつつも、行かない訳にはいかない。
 
電話を切ると桃香が
 
「何か仕事?」
と訊く。
 
「そう。バイト先から緊急呼び出し」
「だったら荷物は、ここに置いておくといいよ。それ重たすぎるもん」
「ああ。そうしようかな」
 
と言い、千里はバッグの中からパソコン(やフルート)の入ったソフトケースだけ取り出して、財布などの入ったショルダーとそれだけ持ち、
 
「じゃ行ってくるね」
 
と言ってアパートのドアを開けた。
 
するとその時、ちょうどドアを開けて入って来ようとしていた人物とぶつかりそうになる。実際身体が少し接触した。身長差があるので、千里のバストが相手の肩の付近に接触する。さっきプチ豊胸をしたばかりなので、そこをぶつけると、けっこう痛い。
 
「わっごめん」
「ごめーん」
と言い合う。
 
「朱音か。どうしたの?」
「千里か。いや、遅くなったからここに泊めてもらおうかと思って来た」
「そうなんだ。私は今からバイト先に行く所」
 
「へー。“ここから”バイト先に行くんだ?」
と朱音が言ったが、彼女が“ここから”と言った意味に千里は気付かずに 
「うん。じゃ、またね」
と言って出かける。
 
「じゃまた」
 
と朱音も言って手を振って千里を見送った。千里がアパートの階段を降りていくのを朱音は首を傾げながらじっと見ていた。
 

11月20-21日。
 
浅口市(倉敷の西隣にある市)でウィンターカップの岡山県予選、準決勝と決勝が行われた。高梁王子を擁する岡山E女子高は準決勝で倉敷S高校を倒し、決勝では岡山H女子高を倒して東京体育館への切符を掴んだ。
 
この決勝戦では1年生のスモールフォワード翡翠史帆がひとりで30得点をあげる活躍を見せ、ダブルチームを受けて24得点“しか”取れなかった王子の代わりの得点源となって優勝に大きく貢献した。
 
翡翠はこの大会、総得点数でも高梁、H女子高の山城麗美に次いで3位となり、王子に次ぐチームの核となった。
 
彼女はインターハイの時は県予選には出ていたものの、本戦では12人の枠に入ることができず、客席から応援をしていた。しかし今回の活躍でウィンターカップ本戦ではベンチ枠どころか、スターターの可能性も出てきた。
 

11月12-28日に中国の広州(こうしゅう/クァンチョウ)でアジア大会が行われた。バスケットの男子は前回6位でベスト8に入っているので、一次リーグは免除で2次リーグからの参加になり、グループFを4勝1敗の1位で通過。決勝トーナメントで準々決勝の北朝鮮には勝ったものの準決勝の韓国に敗れ、3位決定戦でもイランに敗れて4位に終わった。
 
女子は23日から試合が始まったが初戦の台湾戦を落としてしまう。次のモルジブ戦には勝ってB組2位で決勝トーナメントに進出するが、準決勝でA組1位の中国に敗れ、更に3位決定戦で韓国に敗れた台湾に再度敗れてこちらも4位となった。
 
結果的には男子と同じ成績ではあるものの、前回6位から4位に上げた男子に対して前回3位だったのが4位に後退した女子に関しては、監督の采配、またそもそもの選手選考に問題があったと批判が吹き荒れる。活躍できなかった選手にも批判が殺到し、たくさん起用されたもののいい所が無かったベテランポイントガードの足立さんがあらためて記者に「自分はこの大会で日本代表を引退したい」と語る一幕まであった。
 
それで大会が終わった翌29日、現地で記者会見を開いた風城監督は成績不振を理由に辞意を表明した。
 
しばらく女子バスケットから離れていたのを突然監督に指名され、現在の女子バスケットの有力選手などの情報をほとんど知らないまま実質1〜2日で選手の選考をすることになり気の毒ではあったが、実際酷い結果になった以上は退任は仕方ない。しかしこれでフル代表の監督人事はまた迷走することになった。 

広州でアジア大会の準決勝・決勝が行われていた11月27-28日、日本では関東総合バスケットボール選手権が埼玉県深谷市の深谷市総合体育館(ビッグタートル)で行われた。2008年のインターハイで男子バスケットのメイン会場になった体育館である。あの時、千里たち女子は本庄総合公園体育館(シルクドーム)がメイン会場であった。
 
関東総合選手権は関東地区8都県の予選を勝ち上がった8つのチームによって競われる。千里たちの初日の相手はU20代表監督でもある篠原さんが率いる茨城S学園であったが、30点差で勝利した。S学園も千里にダブルチームを掛けたものの、さすがに高校生のダブルチームでは千里は抑えきれないし、千里の得点力を削いでも、麻依子や誠美がどんどん得点する。そしてゴール下で186cmの誠美の存在感は絶対的であった。名将・篠原にも手の打ちようが無く「参った」という表情であった。
 
この日勝ち残ったのは、千里たち千葉ローキューツのほかは、東京の江戸娘、群馬の赤城鐵道、神奈川の湘南自動車の4者である。今年は高校・大学チームが全部1回戦で消えてしまい、クラブチーム2つと実業団2つが残った。 

江戸娘のメンバーはいったん自宅に戻ってまた明日出てくるということだったが、ローキューツは千葉県内のあちこちにメンバーがいることもあり、高崎市内の温泉旅館にみんなで泊まった(費用は千里持ち)。旅館は高崎駅まで送迎バスを出してくれる。高崎駅と深谷駅の間はJRで30分くらい。深谷駅と会場は2kmほど離れていて27日はとりあえず往復とも歩いた(千里や麻依子・誠美などはジョギングで移動した)。
 
夕食は、焼肉の食べ放題にしてもらっていたので、みんなよく食べていた。 
「1人2000円で旅館とは契約しておいたんだけど、旅館は元取れないかも知れないなあ」
などと千里は浩子や玉緒と言い合っていたが、
 
「いや、2000円の元を取るくらいは食べないと」
などと聡美や岬などは言っている。
 
「さっきトイレに行った時、『あの団体さん、女子チームと言っていたよね?』と若いスタッフさんが言ってるの耳にしちゃった」
などと夏美が言っている。
 
「まあ性別疑惑を持たれるのはいつものこと」
と言いながら、薫はたくさん食べている。
 
「薫は結局性転換手術済みなんだよね?」
「何を今更。戸籍も女に変更したよ」
「いつの間に!?」
「誕生日になったらすぐ手続きした」
 
薫は6月生まれである。
 
「言ってくれれば女になった記念パーティーとか開いてあげたのに」
「そういう恥ずかしいのは勘弁して〜」
 

28日には朝9:30から準決勝が行われる。相手は昨年も準決勝でローキューツと当たった赤城鐵道RRRR (Red Rook Railway Robins)であった。昨年のこの大会の優勝チームである。
 
向こうも昨年ローキューツにはかなり手を焼いた記憶があるので、最初から全力で来たのだが、今年のローキューツは昨年とはまるでパワーの違うチームになっている。ここも千里にはダブルチームが必要とみて途中から2人掛かりで停めに来たが、千里に2人掛けてしまうと、残りの3人では、今年のローキューツの薫・麻依子・国香・桃子・岬・凪子・誠美といったレベルの選手4人を相手にできない。夏美や聡美でもかなり強い。それで簡単にゾーンにほころびが生じて、そこから得点される。そちらに気を取られると千里がすかさずスリーを放り込む。
 
それで結局その作戦が破綻して12点差でローキューツが勝った。
 

午後から決勝戦が行われる。相手は神奈川の湘南自動車シャット・トリコロール(Chatte Tricolore *1)である。ニックネームの通り、ユニフォームには可愛い三毛猫のイラストが入っている。準決勝で江戸娘を20点差で下して勝ち上がってきている。昨年は実はここは1回戦で赤城鐵道に敗れていた。
 
メンバーを見ていると、元静岡L学園の舞田光、元東京U学院の松元ツバメなどが入っており、千里と目が合うと手を振ってきたので、こちらも手を振っておいた。他に元金沢T高校の清川飛鳥なども入っている。この人は誠美と手を振り合っていた。
 
「こちらを充分知っている相手って感じだね」
「たぶん、うちを結構研究しているような気がする」
「まあ頑張るだけだね」
 

(*1)フランス語で猫は chat(シャ)と言うが、オス・メスを意識すると、オスが chat(シャ)で、メスは chatte(シャット)になる。定冠詞を付ければle chat / la chatte (ルシャ/ラシャット)である。
 
黒猫の場合はオスが char noir(シャ・ノワール)、メスが chatte noire(シャット・ノワール)、白猫はオスがchat blanc(シャ・ブラン)、メスはchatte blanche(シャット・ブランシュ)だが、三毛猫はメスしか居ないので chatte tricolore(シャット・トリコロール)が一般的である。むろんごく稀なオスの三毛猫はchat tricolore(シャ・トリコロール)になる。noirは女性形でnoireに、blancは女性形でblancheになるが、tricoloreという形容詞は男女同形。 
むろんカフェ・チェーンの「シャノアール」も黒猫の意味。創業者が同名のパリの喫茶店から名前を借りたものらしい。同系列のヴェローチェはイタリア語で「速い」という意味の veloce で、迅速なサービスということでの命名らしい。 

湘南自動車の清川と、ローキューツの誠美でティップオフをする。誠美が勝ってローキューツが攻めて行くが、向こうは松元が千里に付いたほかは残りの4人でダイヤモンド型のゾーンを組んだ。
 
しかし千里はスピードを急変させることで彼女を振り切りフリーになる。そこに凪子から矢のようなパスが来て、千里はスリーを放り込む。0-3とローキューツが先行してゲームは始まった。
 
その後も、松元は攻守ともに千里とマッチングすることになるのだが、第1ピリオドも半分くらいまで進んだ所で、向こうの意図が明らかになる。松元は千里を“完全に封じる”ことは意図していない。千里へのパスを少しでも減らせばいいという感覚でプレイしている。
 
確かに千里にかなりしっかりと松元が付いているので、他のメンバーは千里にパスしにくい状況になっていた。それで麻依子や誠美、あるいは薫や岬などを使った攻めの比重が多くなった。それが向こうの狙いだったのである。結果的に第1ピリオドは20-22とほぼ互角の点数となった。
 

勝負は後半と見て第2ピリオドでは、千里と誠美を休ませ、浩子/国香/薫/岬/桃子といったメンツで出て行き様子を見る。千里が出ていないので、松元も早々に退いてベンチで休ませているようであった。つまり松元はこの試合ではひとりで千里に対峙するつもりなのだろう。
 
このピリオドでは、国香がこのピリオドだけに全力を使うつもりでプレイしたので18-22と4点リードを取ることができた。前半で38-44である。
 
ハーフタイムを終えて千里と誠美が復帰する。向こうも松元が復帰する。展開は第1ピリオドと同じような感じになり、向こうは千里を完全には封じないものの、千里を使ったローキューツ側の攻撃を減らすようにプレイする。このピリオドでは16-20とローキューツ4点リードで終わり、ここまでの合計は54-64である。
 
インターバルで薫が首を傾げている。
 
「どうしたの?」
「いや、おかしい。私は何か見落としている」
「へ?」
「こんな作戦でうちに勝てると思う?」
「え?」
「杞憂ならいいんだけど・・・」
と薫は腕を組んで考え込むようにしていた。
 

第4ピリオド、向こうはスモールフォワードに、背番号34を付けた馬鈴を出して来た。ユニフォームにはBAREIと書かれている。珍しい苗字だなと千里は思った。身長が170cmくらいだろうか。ふつうの女子としては高身長だがバスケ選手としては、わりとよくいる身長だ。しかし彼女は横幅が大きい。体重は90kg近くあるのではという感じで、正直この体格でまともなプレイができるようには思えなかった。
 
最初見た時は!
 
ところが実際にゲームが再開されると、彼女は思った以上のスピードプレイヤーであった。その巨体を物凄い速度で走らせ、俊足の凪子の前に回り込んだりする。凪子が思わず「嘘!?」と叫んだ。ついでに彼女は凪子の一瞬の隙を突いて、ドリブル中のボールをスティールする。
 
そのまま自らドリブルして走る。誠美がゴール下で対峙したものの、誠美と激突しながらゴールを決める。
 
さすがにこれはチャージングが取られて得点無効になったものの、誠美が凄い顔で彼女を睨む。慌てて千里は誠美をなだめて、興奮しないように注意した。 
(バスケットでは相手を睨み付けただけでテクニカル・ファウルを取られる可能性がある) 

第4ピリオド前半では、湘南自動車はほとんどの攻撃を彼女を軸にして戦った。すると体格的に彼女とマッチングできるのが誠美くらいで、自然とこの2人が対峙するのだが、最初こそチャージングを取られたものの、その後は、向こうも激突を避けて、誠美の虚を突くような軽いフットワークで翻弄し、どんどんゴールを決めていく。彼女はあの体重にもかかわらずとても軽やかなフットワークを見せるのである。ジャンプ力が凄い。170cmしか身長が無いのに、ほぼ置いて来るようなシュートを見せる(さすがにダンクにはならない)。 
おそらく彼女は驚異的に頑丈な下半身を持っている。千里は彼女はボクシングでもしていたのではと思った。
 
監督がタイムを取った。
 
この時点で70-72と2点差に迫られている。
 
「こういう選手を隠していたのか」
「準々決勝でも準決勝でも使っていない。隠し球にしていた」
「たぶんスタミナに課題があるんですよ」
 
「しかしこれどうする?」
「とにかく僕に任せて下さい。何とかします」
と誠美が言う。
 
しかし前半既にそうなっていたのだが、誠美が馬鈴にマッチアップしているので、向こうのセンター清川が事実上フリーになっていた。誠美に代わって清川にマッチアップしていた薫ではリバウンドを取るのがうまい清川を押さえきれない。実際このピリオドではリバウンドをほとんど向こうに取られていた。 
「長門(桃子)も出て。清川さんにマッチアップして」
と監督が指示する。
 
「分かりました」
 
それで凪子/千里/麻依子/桃子/誠美というオーダーで出て行く。向こうは選手交代無しである。
 

それで誠美が「何とかする」と言ったように、気合いを入れ直して対峙するので、こちらもファウルを取られたりするものの、そこまでよりは馬鈴の得点を抑えることができた。しかしさすがに桃子では清川に完全には対抗できない。リバウンドでは薫がマッチアップしていた時よりずっと改善されたものの、彼女の攻撃は桃子では抑えきれない。そして、馬鈴と清川に気を取られすぎると、舞田が麻依子を振り切って華麗に得点を決めたりする。
 
結局この第4ピリオドの10分間については、ローキューツは総合力で湘南自動車に競り負けていた。
 
前半ほどひどいことにはならないものの、じわじわと向こうの得点が重なり、あっという間に逆転され、どんどん離されていった。
 
監督が再度タイムアウトを取り、対策を話し合ったものの、妙手は浮かばなかった。桃子が消耗しているので元代に出てもらったものの、むろん彼女では清川さんにかなわない。
 
結局84-78まで行ったところでブザーが鳴る。
 
千里は目を瞑って首を振った。
 

整列する。
 
「84対78でシャット・トリコロールの勝ち」
「ありがとうございました」
 
千里は松元さんや舞田さんなどと握手し、健闘を称え合った。
 
こうしてローキューツは関東総合で準優勝に終わり、こちらのルートでも今年はオールジャパンへの出場を逃してしまったのであった。
 

控室に帰ってから着換えながら
「悔しい!」
「オールジャパン行きたかった」
という声がたくさん出た。
 
玉緒が言う。
「私、就職しないことに決めた」
「え〜〜!?」
「大学は卒業しちゃうけど、バイトしながら、このチームでまだ1年頑張るよ。そして来年こそはオールジャパンに行こうよ」
 
「うん。来年こそは頑張ろう」
と多くの子たちの声が出た。
 
「じゃ取り敢えず2月の関東クラブ選手権に向けて練習を重ねようよ」
「うん、私ももう少し練習に出てこられるように調整を試みるよ」
 
「ところで、さっき唐突に思いついたけど、あの人、馬鈴(ばれい)の苗字で、背番号34ってさ、チャールズ・バークレイを意識しているんじゃない?」
と麻依子が言うと
 
「なるほど!」
という声が多数あがっていた。
 
「体格もバークレイっぽいよね」
「確かに確かに」
 
チャールズ・バークレイは1980年代後半から1990年代に掛けてNBAでプレイした選手で選手番号34はフィラデルフィア76ersとフェニックス・サンズで永久欠番になっている。193cm 120kgと、どっしりした体格でゴール下を完全に支配し、リバウンドを取りまくった。体重があるのにジャンプ力もあり「空飛ぶ冷蔵庫」の異名を取る。生涯得点23757 リバウンド12546 は分かるが、4215アシストというのも光る。パワーフォワード登録だが、オールラウンド・プレーヤーであった。1992,1996五輪ゴールドメダリスト。
 

12月3日(金)。U20アジア選手権の直後に頼んでいた“プリンタ染め”の振袖が出来上がったという連絡が来たので、東京近辺に居るメンバーで取りに行くことにした。振袖を頼んだのは、留実子、サクラ、誠美、華香、玲央美、江美子、桂華と千里の8人だが、旭川の留実子、大阪の江美子、愛知の華香、博多の桂華が来られず、千里(千葉市のアパート)・誠美(市原市の実家)・玲央美(杉並区のマンション)・サクラ(三鷹市内の銀行寮)の4人が8人分の受け取りに行った。他の4人には宅配便で送ってあげることにしている。
 
千里が頼んだのは水色基調で、雌雄の鳳凰と更に子供の鳳凰2羽が遊んでいる絵柄である。玲央美は黄基調で、ライオンが赤白青のバスケットボールで遊んでいる絵柄。誠美は赤基調で、大柄な牡丹の花をあしらい、満月、孔雀まで描いた“花鳥風月”、サクラはピンク基調で御所車をメインモチーフにして多数の桜の花を描いた“春の道行き”である。
 
「みんなきれいに出来てるなあ」
 
「よかったら着付けしてお写真撮りましょうか?」
「でも着付けは?」
「うちの女房ができますから、無料サービスでやらせますよ」
と専務さんが言う。
 
「おお、それでは頼もう」
 
『千里』が「私もできるよ」と言って、結局玲央美の着付けは『千里』がしてあげることにした。専務の奥さんに誠美とサクラの着付けをしてもらう。 
『千里』が玲央美に着付けしてあげたら彼女は「ありがと。きーちゃん」と小さな声で言ったので、バレてるなあと思って、『千里』も微笑んだ。その後『千里』自身も自分で着付けしたが、帯だけは専務の奥さんに締めてもらった。自分で着物の帯を締めるには前で締めて半回転させる必要があり、その時着崩れしやすいのである。
 

1時間ほどで全員の着付けが終わり、専務が4人の各々のカメラや携帯で撮影してくれた。
 
「あ、玲央美が何か新しい携帯使ってる」
という指摘がある。
 
「iPhone買ったの?」
と誠美が言うが
 
「ううん。これはGALAXY」
と玲央美は言っている。
 
「それもしかして電話機なの?」
と、こういうものに疎い《千里》が尋ねている。玲央美がその千里を見てあれ?という顔をした。実は着付けの時だけ入れ替わっていて、もう元に戻っているのである。
 
「スマートフォンと言うんだよ。従来の携帯電話はフィーチャフォン」
「数字のボタンも無いのに、どうやって電話するわけ?」
「電話する時はテンキーを表示させるんだよ」
と言って操作してみせる。
 
「千里触ってみる?」
と玲央美は言ったのだが、誠美が停めてくれた。
 
「やめた方がいい。千里って静電体質だから。こないだうちの監督が買ってきた液晶ポータブルテレビ、千里が触っただけで壊れたもん」
 
「なんて破壊力のある・・・」
「そういえば、こないだ私が触った銀行のATMがいきなり停まった」
「危ない人だ」
「ATMでは千里の後ろには並ばない方がいいな」
 
「でも千里、いつもノートパソコンは持ち歩いているよね?」
「いつも、棚とかテーブルとかの金属部分に触ってから電気逃がした後で操作する。監督のテレビはうっかり何もせずに触っちゃって」
 
「やはり千里にはスマホは触らせない方がいいようだ」
と玲央美は言った。
 
《きーちゃん》や《てんちゃん》ならいいけど、《千里》はやばそうだな、と玲央美は思った。
 

ともかくも4人の写真を撮った後、また脱いでたたんでケースに仕舞う。脱ぐのは各自自分で出来たので、それを千里と専務の奥さんが手分けして畳み、ケースに仕舞った。《千里》も畳むだけならできる。
 
「これ、たたみ方が分からないと、うかつにケースからも出せないね」
とサクラが言うので
 
「困った時は呼び出して。行ってたたんであげるから」
と千里が言う。
 
「頼むかも知れない!」
とサクラも誠美も言った。
 

その日、桃香がバイトを終えてアパートに戻り、パソコンを立ち上げてメールチェックしていたら、何だか異様に時間が掛かる。
 
何だ?何だ?と思ったら、1通巨大なメールが来ていたようである。見ると、高校時代の恋人の優子からである。高校生時代、桃香と優子は《北のモモ・南のユウ》と並び称される“女の子キラー”だったのだが、一時期、ふたりで付き合っていたこともある。しかし、桃香が大学に入る前にきれいに別れたはずであった。ちなみに桃香の携帯に付いている銀色のリングのストラップは優子とお揃いのものである。
 
「100KB!?しかも添付ファイル無しって、文章だけ〜?」
 
(JISコードで)100KBということはだいたい2000-2500行程度はある。
 
「一体何を書いて来たんだ〜?」
 
と思う。ちなみにタイトルは《お願い。読んで。あなたの優子より》である。優子とは9月に千里を連れて帰省した時、千里が着付けの練習をしている間に出かけていて高岡の町で遭遇したが、高岡での成人式に誘われたので出てもいいよとは言っておいた。
 
桃香は数秒考えた後、そのメールをゴミ箱に放り込むと、メニューから『ゴミ箱を空にする』を選んだ。
 

12月4日(土)。
 
ローキューツのメンバーが9人、千葉駅に集まった。
 
石矢浩子、弓原玉緒、愛沢国香、溝口麻依子、歌子薫、島田司紗、東石聡美、および西原監督と谷地コーチである。
 
五十嵐岬や長門桃子・馬飼凪子なども行きたいと言っていたのだが、バイトがどうしても抜けられないということだった。みんな大会に合わせてバイトを休ませてもらうので、大会でない時はバイト先の都合優先になってしまう。 
9人は一緒にモノレールに乗り、終点の千城台駅まで行く。
 
ここに10人乗りのキャラバンを知人から借りてきた千里が待っている。実は普通免許で運転できる最大定員の車である。人数が増えた場合は、誰かもう1人車を持ってくる予定であった。
 
(11-29人乗りを運転するには中型免許が必要だが、中型免許は普通免許を取って2年以上経たないと取れない。千里は2009年3月30日に普通免許を取得したので、中型を取れるのは来年の3月30日以降、大型は2012年3月30日以降ということになる) 
このキャラバンにモノレールで来た9人が乗り込み、房総百貨店体育館まで行った。
 
2.5kmほどの距離で、走っても15分くらい掛かるが、車なら3分ほどで到着する。千里は体育館前の駐車場に車を駐めた。
 

鍵を預かっている谷地コーチが玄関を開け、みんなで入る。
 
「まだシンナーの臭いがする」
「窓を開けて練習していれば、すぐに取れるよ」
 
ここは房総百貨店の女子バレー部が練習に使用していた体育館で、バレーの線が引かれていたのを、いったん床の表面を削り、ラインの跡を床材と同色のペイントで塗って目立たなくした上に、ウレタンを塗り直し、その上に来年4月からの新しいルールに基づくバスケットのライン(制限エリアを長方形にし、3Pラインを6.75mにする)を引いたのである。
 
最初はそのままの床にカラーテープを貼って対応するつもりだったが、実際のフロアを見たら、数年間放置されていたせいもあり、かなり表面が傷んでいたのである。バレーの回転レシーブなどしたら大怪我しそうな、ささくれも多数発見された。バスケットには回転レシーブは無いものの、転んだ時にそこにぶつかって怪我する可能性はある。
 
それでこれは危険だということになり、房総百貨店側と交渉して、ローキューツが全額工事費を負担して、床全面の表面を研磨/ウレタン塗装し直したのである。費用は300万ほど掛かったものの、おかげで、きれいにリフレッシュした床に新しいラインをペイントすることができた。ラインは通常練習用の2コートレイアウト(黄色ライン)と、正規サイズのセンターコートのレイアウト(白ライン)を引いている。どちらもコート自体のサイズは正規の28m x 15mであるが、練習用のコートでは、コート外のエリアが狭い。
 
元々がバレーの練習用に建てられた体育館で、バレーのコートはバスケットのコートより小さいので、やむを得ないところだ。
 
本当はコート外のエリアは、エンドライン方向に2m以上、オフィシャル席やベンチのある側に最低2m(できたら4m程度)欲しいのだが、この体育館のフロア自体が30m x 35mなので、2コートレイアウトではベンチエリアは(各々の壁側に)2mギリギリ, エンドラインの向こう側はわずか1mしか無い。この部分が狭いので安全のため壁にクッション材を貼り付けている。この加工費が材料費込みでまた100万円掛かったが、クッション材にカラフルなものを使用したので、とても明るい感じの体育館になった。
 
一応千葉県クラブバスケット連盟の人に見てもらったら壁のクッション材を好感してくれたようで、この春からルールが改訂され、まだ新しいルールのラインが引かれた体育館が皆無であることもあり「大会の予選などには使えるね」という「口頭での」コメントをもらっている。また中高生や趣味の大会などの会場に使わせてもらえないかという「内々の」話には房総百貨店側の承認も取った上でOKしておいた。
 
また、2コート用の壁取り付け式ゴール4個、センターコート用の吊り下げ式ゴール2個、電子式の得点掲示システムとソフトウェア、ショットクロック、練習用ボール・試合用公式球やボール入れ、ラックなど、そのほか様々な備品で、結局床工事も含めて合計1500万円ほどの出費になってしまった。しかし床工事などをこちらの負担でしたことで、ここの借り賃を年間300万という話から250万に値下げしてくれた。
 
この出費は千里としては予定外であったものの、雨宮先生から回してもらった山村星歌の曲が思わぬヒットでCD印税だけでも4000万円(8000万円を蓮菜と山分け)、著作権使用料を入れると最終的に1億円近い売上げになりそうなので、何とかなるかなという感じなのである。
 
ただし印税が入ってくるのは3月、著作権使用料は6月以降なのに工事費等は即払わなければならなかったので、結構きつかった!
 

この日はセンターコート仕様で、実際に(4人対4人で)ゲームをやってみた。やはり最初は
 
「制限エリアの形が凄く気持ち悪い!」
 
などという声も出るがこれはもう慣れてもらうしかない。今までの台形の制限エリアの線をレイアップシュートのステップの目安にしていた子も多く、タイミングが合わなくて、シュートを外す子が相次いだ。
 
「これ全員早くこのラインに慣れた方がいいね」
という声が多く出る。
 
「ただし2月の関東クラブ選手権、3月の全日本クラブ選手権までは台形の制限エリアだからね〜」
「それは今まで使っていた市の体育館で感覚を忘れないようにしよう」
 
ゲームでは、監督が得点板、コーチがショットクロックを担当してくれたが、派手にショットクロックが鳴ったりするので、
 
「まるで公式戦やってるみたい」
 
などという声があがっていた。今までの体育館では、練習に出てくる人数が少ないのもあり、手でめくる方式の得点板を使うことが多かった。一応手めくり式の得点板も、監督が古いのを学校から安く買い取って持って来てくれた。(2個5000円で買ったらしい。これでも新品を買うと1個3万円くらいする)
 

「車係は、車を出せるメンバーで回していくことにして、その日参加できない場合は早めに連絡を」
「駅まで来て、迎えに来て欲しい場合の連絡どうする?」
「mixiのローキューツ・コミュに誰が練習に出てるか書き込むから、それ見て連絡して」
 
「車係をしてくれた人にはガソリン代相当を含めて1回1000円支給ということで」
「特に負荷が大きかった日は個別検討」
 
「ノートを付けといて、支給漏れが出ないように気をつけよう」
 
「誰かその会計係をしてくれない?」
 
「じゃ私がしますよ」
と玉緒が言うので、任せることにする。確かに彼女は出席率がいいし、几帳面な性格なので、こういうのに向いているかも知れない。
 
「どうしても車を使えるメンツが居ない場合は、タクシーを使って、代金は後日精算で」
「その場合、面倒でも領収書をもらっておいてね」
 
「くれぐれも、夕方4時以降に、体育館と駅の間を歩いたりしないこと」
「その場合はやはり男装だな」
「逆に変質者と間違われたりして」
「コーチは女装してください」
「なんで〜!?」
 
「昼間は走ってもいいですね?」
「うん。歩くより走った方がいいと思う」
「ただし夏の日中は熱中症が怖いから、気温高そうだったら無理しないで」
 
「冷蔵庫とかあったら、ミネラルウォーターを冷やしておけるなあ」
「んじゃ1台買って置いとこうか?」
「おお、素晴らしい!」
 
「夏はアイスクリーム、冬は甘酒とかもあるといいなあ」
「じゃそのあたりは玉緒に余分にお金渡しておくから適当に」
「じゃ、早速アイスを1箱買ってこよう」
「今の時期にアイスなの〜?」
 
 
前頁次頁目次