【クロ子義経】(5)

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ヒバリの解説。
『一行は東海道は目立つし、東山道は難所も多いのでということで北陸道を行くことにしました。そして現在は石川県小松市にある安宅関に掛かりました。(*19)この関を管理していたのは富樫泰家でした』
 
関所のセットに、義経一行が入ってくる。
 
先頭に立っている弁慶(品川ありさ)が言う。
『ここに関所がございましたか』
 
関守の富樫左衛門(川崎ゆりこ)が言う。
『そなたたちはいづれの御方か?』
 
『平家によって焼かれた南都東大寺再建のため国々へ勧進をお願いに参っております。我らは北陸道を承っております。どうか関所通過をお願いします』
 
『あいにく現在、山伏は通してはならぬというお達しが来ているので、申し訳ないが通すことができません』
 
『なぜそのようなことが?』
『判官殿(源義経)と二品殿(源頼朝)が不仲になられて、判官殿が山伏の格好をして奥州に向かっているという報せが来ておるのですよ。ですから山伏は一切通さないことになっています。ここ数日で抵抗した山伏数名をやむを得ず斬りました』
 
『なるほど。それはニセ山伏を通してはならんということですよね?でしたら本物の山伏なら通ってもよいでしょう?』
 
『いえ、本物の山伏であっても通してはならぬと言われております』
と富樫(川崎ゆりこ)。
 
『困ったものですな。私たちはどうしても通りたいのですが』
『無理に通るというのであらば斬るしかないが』
 
『そうですか。我々は引き返すことは許されていない。とあらば斬られるのも仕方ない。でしたら、斬られる前に最後のお勤めをしてから殺されましょうぞ』
と弁慶(品川ありさ)。
 
富樫もその「最後のお勤め」を認めたら、弁慶は
 
『それ山伏とは役行者(えんのぎょうじゃ)の行義を受け、即身成仏の本体をここにて打ち止め給わんこと、明王の照覧はかり難う、熊野権現の御罰当たらんこと、たちどころにおいて疑いあるべからず。オン・アビラウンケン』
などと唱えて大きな数珠を押しもんでいる。
 
ここに居る役人たちは全員仏罰を受けて死んでしまうだろう、などという呪いのことばである。その様が、いかにも本物の山伏にしか見えないので、富樫も役人たちも慌てる。
 
これは本気で上級の山伏を怒らせたか?と焦ったのである。
 

『待たれい!そなたたちは東大寺再建のための勧進をしているとおっしゃったか?』
『いかにも』
『では勧進をなさっているのであれば、勧進帳を持っておられるか?』
『もちろん』
『ではその勧進帳を読んで見せてはもらえないか?』
『よかろう』
 
と言って品川ありさは巻物を1つ取り出した。
 
むろん、勧進帳などではない。取り出したのは実は近頃流行の小説が書かれた巻物である!越前で商人から買ったもので、静が昨夜は大笑いしながら読んでいた代物だ。しかし弁慶は本当にそこに勧進の趣旨が書かれているかのように“読み”始めた。
 
『大恩教主の秋の月は涅槃の雲に隠れ、生死長夜の長き夢、驚かすべき人もなし。ここに中頃、帝おはします。御名を聖武皇帝と申し奉る。日頃三宝を信じ、衆生を慈しみ給う。たまたま霊夢に感じ給うて、国土安泰、天下安穏のため、廬舎那仏を建立し給う』
 
テレビカメラは品川ありさが“読んで”いる巻物を映す。そこにはそんな難しい文章などは書かられておらず
 
《そういうわけでボクはあの子のことが忘れなくなったんだ》
《でもあんた、その子の名前とか訊かなかったの?》
《訊きたかったけど、その子の顔に見とれていて》
 
などと、安っぽい恋愛小説にありそうなセリフが書かれていて、アクアや葉月が描いた落書きの絵まで入っている。
 
しかし品川ありさの“朗読”は続く。
 
『然るに去んじ治承の頃、焼亡しおわんぬ。かかる霊場絶えなむ事を嘆き、俊乗坊重源、勅命を被って無常の観門に涙を流し、上下の真俗を勧めて、かの霊場を再建せんと諸国、勧進す。一紙半銭、奉財の輩は現世にては無比の楽に誇り、当来にては数千蓮華の上に座す。帰命稽首、敬って白す』
 

弁慶の読む“勧進帳”がどうにも本物っぽいので、富樫はむしろ感動している。そして念のためと思い、弁慶に山伏の意味や服装などについて、また呪文などについても問う。しかし弁慶は元々が仏門の修行をした身なので、よどみなく富樫の質問に答えた。
 
富樫(川崎ゆりこ)は言った。
 
『このような御高僧を疑ったりして、誠に申し訳無かった。私もその勧進を致しましょう』
と言って、富樫は白綾袴・加賀絹などを弁慶に奉った。
 
『これはありがたい。そなたの現当二世は安楽ですぞ。では通ってもよいか?』
 
『はい、どうぞお通り下さい』
と富樫は弁慶に礼をして通過を認めた。
 
それで一行が関所を通って、出口へ行こうとする。弁慶が通り、常陸坊が通り、鷲尾三郎が通り、海野五郎に静までも通り、最後に義経が通ろうとした時、富樫が彼を見とがめた。
 
『その強力(ごうりき)、待て』
と富樫は言った。
 

『どうかしましたか?』
と弁慶が平静を装って尋ねる。
 
『その強力、九郎判官殿に似ている気がする』
と富樫が言う。
 
『何と!判官殿に似ているとな?何と腹立つことだ。今日はこのまま能登辺りまで行こうと思っていたのに。強力のくせに僅かしか荷物を持っていないから怪しまれるのだ。更に判官殿に似ているとは、お前の業(ごう)のせいだ。こうしてくれる、こうしてくれる』
 
と言って、品川ありさは強力姿の義経(演:?)を持っていた金剛杖で打ちつける。弁慶があまりにその強力を叩くので、富樫が停めた。そして言った。
 
『本当にその強力が判官殿であるなら、その家臣が主君を叩いたりする訳がない。疑いは晴れた。通ってよいぞ』
 
ここでヒバリが登場して解説する。
 
『富樫は弁慶の態度からむしろその男が義経であることを確信したのです。しかしまた同時に、弁慶の義経を思うその深さに感動したのです。疑いを晴らすために敢えて自分の主君を杖で叩くなど、普通思いもよらないもの。きっと弁慶はこのあと主君を打ち据えた罪で自死したいと言うかも知れない。その自分の命を捨てて主君を守ろうとしている弁慶に感動し、富樫もまたそのような部下を持った義経のためなら、自分が処罰されてもいいと覚悟を決めたのです』
 

『通ってもいいのか?』
と弁慶が尋ねる。
 
『うむ。通ってよい』
と富樫は言った。
 
それで弁慶も強力(義経)も、関所の出口を出て行ったのであった。
 

(*19)富樫はここで義経一行を見逃したことで、頼朝の怒りを買い、官職を剥奪された・・・ともいうのだが、実際問題としてこのエピソード自体が完全な創作で、そもそも安宅の関なるもの自体が存在しなかったと言われている。
 
この物語は本来、石川県の安宅ではなく、富山県の小矢部川を渡る“如意の渡し”での出来事として義経記に見られるものである。話のパターンはほぼ同じで、義経が疑われたので弁慶が手加減なく義経を打つ。それでこの渡しを管理していた平権守が感動して、川を渡してあげたというものである。
 
それをもとに室町時代に舞台を安宅に移し、勧進帳を“読む”エピソードを加えて能の『安宅』が生まれ、更に江戸時代にこれをもとに歌舞伎の『勧進帳』が生まれた。
 
義経記にも富樫介という人物が出てくるが、怪しんだりせず、勧進をしているという弁慶に、それはご苦労様ですと言って、寄付をしてくれているだけである。
 
なお現代の「安宅」「勧進帳」では、弁慶たちが関所を通過した後、富樫が追いかけてきて、一緒に宴会をするシーンがあるが、さすがにこれはあり得ない。そんなことをすれば富樫の部下に、やはりあれは義経では?と疑う者が出て、元も子もない。おそらくは最初はそのようなシーンは無かったのが、それだと富樫は愚かなので、弁慶に美事に欺されてこれは義経では無いと思ったのだろうと解釈する観客があったので、そうではなく、富樫は弁慶の心に打たれて敢えて欺されてあげたのだというのを観客に伝えるために付け加えられたシーンだろう。
 

(**)義経と頼朝の呼称について。
 
義経は九郎、判官、伊予守・予州(旧字体では伊豫守・豫州)などと呼ばれる。
 
九郎というのは源義朝の九男だからであるが、吾妻鏡では六男と書かれている。実は八男ではないかという説もある。しかし本人は九郎を自称した。
 
判官(ほうがん)というのは役所の第3官のことで、義経は一ノ谷合戦の後で左衛門少尉に任じられており、この少尉というのが第3官である。
 
ここでトップは左衛門督(さえもんのかみ)、次官は左衛門佐(さえもんのすけ)、第3が左衛門尉(さえもんのじょう)である。この尉には大尉と少尉があるが義経は少尉である。現代の軍隊の階級ではトップが将官、次が佐官、次が尉官であるが、こういう昔の衛門の官位名が流用されている。江戸時代の名奉行・遠山景元は左衛門尉であった。
 
なお「判官」は本来「はんがん」と読むのだが、近世以降、慣習的に義経のみ「ほうがん」という読み方が定着した。「判官贔屓」は「ほうがんびいき」である。
 
また義経は既に頼朝との仲が険悪になっていた文治元(1185)年8月(壇ノ浦から5ヶ月後)、伊予守(いよのかみ)に任じられている。それで義経に近い人たちは彼のことをそれ以降、伊予守あるいは婉曲表現で予州(よしゅう)と呼ぶ。予州とは本来伊予国そのものを指すことばである。
 
なお、義行あるいは義顕というのは、義経と対立した頼朝が“勝手に改名”したものであり、義経本人も知らなかったかも知れない!?
 

頼朝は三郎、兵衛佐、鎌倉殿、二品などと呼ばれる。
 
三郎は三男だからである。
 
兵衛佐(ひょうえのすけ)とは頼朝が右兵衛権佐に任じられていたからだが、この任官は平治の乱の第一段(藤原信頼がクーデターで信西らを倒した事件)の直後であり、平治の乱の第2段(平清盛によりクーデター派が倒された事件)でキャンセルになっている。頼朝が右兵衛権佐であったのはわずか14日間である。
 
しかし頼朝はこのわずか14日間の任官により、兵衛佐(ひょうえのすけ)、佐殿(すけどの)、あるいは唐風に武衛(ぶえい)などと呼ばれていた。
 
二品(にほん)というのは元暦2(1185)年の壇ノ浦合戦が終わった後、従二位に叙せられたからで、二品は二位の別称である。
 
鎌倉殿は鎌倉におられる方ということで、彼が鎌倉を本拠地として活動したからであるが、次第に「鎌倉殿」の実態は曖昧になっていき、頼朝本人の意向より政権全体の意向が「鎌倉殿」の名前で発表されるようになっていく。
 

ヒバリの語り
『安宅の関を越えた義経一行は現在の金沢市金石町付近で、別行動をしていた蕨姫の一行と落ち合いました。蕨姫は再会を喜び、一緒に奥能登の現在の町野町にある、平時忠の屋敷まで行き、歓待されます。ここで義経は蕨姫に鳥羽天皇由来の“蝉折の笛”を託します。鳥羽天皇が亡くなった後、平家の誰かが所持していたものを、義経が預かっていたものでした。この笛は現在は須須神社(珠洲市)に収められています』
 
『平時忠の家で休んだ義経たちはその後、蕨姫と別れて、能登半島先端・珠洲の港から現在の新潟市に相当する蒲原津(かんばらのつ)まで船で移動し、そこから陸路を信夫郷(現在の福島市付近)にある佐藤基治の屋敷まで行きました』
 
『ちなみにこの間、千光坊たちの囮一行は東山道の厳しい道を突破した後も、信夫郷には行かず、取り敢えず磐城方面で待機していました』
 
『義経たちが藤原秀衡の所に直接行かず、佐藤基治の所に来たのは、佐藤が義経にとって“身内”だからでした。秀衡はあくまで東北の支配者ですから、身内の情で動く訳にはいきません。それで佐藤家に入って、秀衡の意向を伺ったのです』
 

佐藤家に到着した“静”(アクア)は、まずは佐藤継信・忠信の両親である佐藤基治と乙和姫の前に手を突いて頭を下げ謝った。
 
『申し訳無い。継信殿、忠信殿を失ってしまいました』
 
『頭をあげて下さい。ふたりとも伊予守殿のために戦って散ったのです。どちらも類い希なる源氏将軍の部下として幸せであったでしょう』
と佐藤基治(春風アルト)。
 
『どうかしばらくこちらで休んで下さい。二品殿(頼朝)ともきっと和解できる時が来ますよ』
と乙和姫(大宮どれみ)も言った。
 
両親への挨拶を済ませ、仏檀で手を合わせ立ち上がると、浪の戸姫(山下ルンバ)がいます。
 
『あなた、お帰りなさいませ。お疲れ様でした』
と浪の戸姫が言う。
 
『ただいま。寂しい思いをさせたね』
と山伏姿のままのアクアは言った。
 
そのアクアに山下ルンバが抱きついた所で画面は切り替わる。
 

テレビを見ていた政子が言った。
 
「なんか怪しい気がしていたけど、実は静の方が義経だったのね?」
「まあそういうことだね」
と私。
 
「だから静は義経の黒子(くろこ)として活動していたのさ」
 
「ほんとにクロウ義経じゃなくてクロ子義経だったんだ!」
 

明智ヒバリが登場して解説をする。
 
『頼朝が伊豆で挙兵した時、義経はすぐ馳せ参じるつもりだったのですが、藤原秀衡と佐藤基治は、義経があまりにも優男で背も低く、そんなひ弱に見える若武者には誰も従おうとしないことを危惧しました。それで義経の身代わり・影武者を立て、義経本人は、優男でまるで女のようにしか見えないのを逆手に取って、義経の妻・浪の戸の侍女で、夜のお世話も命じられている“静”を名乗ってずっと“義経”に付き従い、実際の指揮をしていたのです』
 
『このことは、ごく近い腹心だけが知っていましたし、静が素顔で義経として指揮をする場合、例えば一ノ谷の鵯越のような場合は、“義経”の身代わりを務める佐藤行信が御高祖頭巾で女装して静の振りをしていたのでした』
 
『なお、鎌倉に行く時に静の母役をしてくれた磯禅師は、実は義経がまだ子供の頃、京都で知り合っていた人で、白拍子の元締めのような仕事をしていた人です。義経は彼女から一通り白拍子の舞を習っていました』
 
画面ではこれまで義経を演じていて、強力姿を解いた佐藤行信(演:今井葉月)が両親に挨拶してから仏檀に手を合わせるところが映った。
 
テロップで「佐藤行信・佐藤忠信:今井葉月・姫路スピカ(ダブルロール&ダブルキャスト)」と表示された。
 

「ああ。やはりスピカちゃんも代役を務めていたのね?」
と政子は言った。
「そそ。忠信の顔が映っているところでは、義経の影武者役はスピカが演じている」
と私。
 
「なんか凄く複雑なことしてない?」
「だから簡単には説明できないって言ったでしょ?」
「私、5分後には分からなくなっている気がする」
「そういう視聴者も多いと思うよ〜」
 

ヒバリの解説。
『佐藤家では本来の佐藤行信と義経に戻った2人ですが、藤原一族でこのことを知っているのは藤原秀衡だけだったので、すぐに佐藤行信が義経を装い、本物の義経は小袖姿に振り分け髪で女装して過ごしていました。しかしこれから1189年の春まで、浪の戸姫にとって至福の時間が過ぎていったのでした』
 
アクアの義経(小袖を着て女装し“静”を装っている)と山下ルンバの浪の戸姫が、じゃれあったり、一緒に寺社参拝などしている様子が映る。ネットではルンバを非難する書き込みが溢れている!
 
『義経が秀衡に送った密書に秀衡はすぐに返事をよこしました。奥州藤原氏は義経殿を歓迎するから、ぜひ平泉まで参られよということでした。それで義経一行は別ルートでこちらに向かっていた千光坊たちが到着してから、義経の妻・浪の戸、および佐藤家の手の者も付いて、平泉に向かったのです』
 
『秀衡は実は、関東の覇者となった頼朝が東北も支配下に収めるつもりではないか、自分たちを攻め滅ぼすつもりではないかと疑っていました。そこで頼朝に対抗するため、平家を倒した優秀な将軍である義経を歓迎したいと考えたのです。それで一行は平泉の衣川館に入りました。あくまで佐藤行信が義経を装い、本物の義経が女装で侍女として付き従っているのを見て藤原秀衡は笑っていましたが、このことは秀衡の息子たちは知らないことでした』
 
背景に、藤原秀衡(演:北村圭吾)が立派な部屋の椅子に座り、“義経”(佐藤行信:演=今井葉月)、弁慶(品川ありさ)、静(アクア)、佐藤基治(春風アルト)、乙和姫(大宮どれみ)、が手前側に座って、和やかに話し合っている所が映った。
 
ちなみに乙和姫は藤原清衡の孫なので、秀衡の従兄妹にあたる。
 

ヒバリの語りは続く。
 
『藤原秀衡が生きている間は頼朝も平泉には手を出せずにいました。なんといっても東北の覇者なので、秀衡が号令を掛ければ数十万の兵が動員できる可能性があります。そこに義経がいたら、もしかしたらこちらが負けるかも知れないと頼朝も考えます。後白河法皇はコロコロ態度を変えるので全くあてに出来ません。義経有利とみたら即自分は朝敵にされてしまうでしょう』
 
『しかし秀衡は文治3年(1187)10月29日に亡くなります。秀衡は息子たち6人に、仲良くひとつにまとまって義経殿と協調してやっていくように遺言しました』
 
背景には病床の秀衡の周囲に6人の息子が並んでいるところが映る。
 
『秀衡の死を聞いて、頼朝はチャンスだと思いました。秀衡あってこその奥州藤原氏であり、秀衡に恩のある領主は沢山いましたが、息子たちにはそれほどの人望がありません。翌文治4年(1188)2月、秀衡の後をついだ藤原泰衡に、義経を追討せよという宣旨を出させるのです』
 
『これが頼朝(実際には多分北条時政か梶原景時)のうまい所で、頼朝自身に追討の宣旨を出すのではなく、泰衡に出して、内輪揉めを誘っているのです。しかしこの年は泰衡はちゃんと秀衡の遺言を守って義経と協調する態度を示していて、事は動きませんでした』
 
『しかし秀衡が亡くなって1年も経つと、秀衡の息子たちの結束が乱れ始めました。意見の対立から兄弟間に疑心暗鬼が起きます。この時、兄弟の中の1人、藤原高衡が実は梶原景時と通じていることに、他の5人は気付いていませんでした』
 
『文治5年(1189)2月15日、藤原泰衡は弟の頼衡を殺害してしまいます。更に一週間後の2月22日には、明確な義経派であった忠衡とその同母弟・通衡も殺害してしまうのです。忠衡の妻は佐藤兄弟の姉妹・藤の江姫で、義経とは義兄弟になっていました』
 
(佐藤七郎前信・次郎治信・太郎行信・三郎継信・四郎忠信・五郎重光・藤の江・浪の江・浪の戸が兄弟姉妹で、藤の江は藤原忠衡の妻、浪の戸は源義経の妻。一番年上は七郎前信らしい。この兄弟姉妹の中には、佐藤基治と正室・大窪太郎女の子供と、継室・乙女姫の子供、更には基治の兄・佐藤正信が亡くなったので正信と梅唇尼との子供たちを養子にした者が混じっている)
 
『自分の味方であった忠衡が討たれてしまったことから義経は身の危険を感じます。それで東北を出て西国に落ちていった方がいいかも知れないと考え、誰か受け入れてくれる人がないか、駿河次郎に密書を持たせて西国に向かわせました。しかし誰かに密告されたようで駿河次郎は京都で捕縛され、鎌倉に送られて斬られてしまいました』
 

『閏4月30日。この日衣川館に居たのは、こういう面々です』
 
『源義経、弁慶、片岡、鈴木三郎、亀井六郎、増尾十郎、熊井忠基、備前平四郎(*20)』
 
『義経記はこの日、常陸坊海尊ほか11名が朝からお寺の参拝に外出していたと記しています』
 

(*20)義経記では源義経、弁慶、片岡、鈴木三郎、亀井六郎、鷲尾義久、増尾十郎、伊勢三郎、備前平四郎、十郎権頭兼房、喜三太、それに久我姫と2人の子供、と記している。この物語では衣川館で亡くなったのは浪の戸姫という立場を取るので、久我姫の従者である十郎権頭兼房は採用しない。また伊勢三郎については、前述(*16)のように、この物語では既に3年前に亡くなっているという立場を取る。
 
なお、吾妻鏡では文治5年6月26日の記事に「奥州兵革有り。泰衡弟泉の三郎忠衡(年二十三)を誅す。これ豫州に同意するの間、宣下の旨有るに依ってなりと。」
と書かれていて、忠衡の死は義経の死より後になっている。しかし忠衡が生きていたら、泰衡は義経を殺すことはできなかったのではと思えるので、この物語では先に忠衡が殺されて、その後、義経が襲われたという、義経記の記述に沿った。
 

『大変です。物凄い軍勢がやってきました』
と亀井六郎が走って義経(今井葉月)の所にやってくる。
 
『何と。常陸坊も千光坊も出ているというのに』
と“義経”(葉月)。
 
『だから良かったかも知れませんよ』
と浪の戸姫(山下ルンバ)。
 
浪の戸姫は館内にいる侍女たちに呼びかけた。
 
『侍女たちは逃げなさい。敵方も女までは殺しません』
 
それでほとんどの侍女が逃げて行く。
 
『あなたたちも逃げなさい』
とまだ数人残っている侍女に浪の戸姫が言う。
 
『姫様はどうなさるのですか?』
『私は非力ながらも軍勢を足止めするために戦います。その間に襲撃に気付いて主は逃げてくれるはず』
『でしたら私も戦います』
『私も戦います』
 
と残っている侍女たちは言う。
 
『逃げなさい。犬死にですよ』
『犬死にで結構です。姫様に殉じます』
『分かった。だったら弓矢なり薙刀なり持って戦いなさい』
『はい!』
 

館の正面では弁慶がひとり気を吐いていた。大量の敵の前で舞を舞う余裕を見せる。それを敵方もじっと見ている。みんな弁慶が物凄く強いのを知っているので突撃するのが恐いのである。やがて舞を終えた弁慶が突撃するが、敵の兵たちはみんな退いて弁慶のそばに行かないようにした。
 
鈴木三郎はひとりで十数人斬ったものの、やがて倒れてしまった。亀井六郎もやはり十数人斬ってから倒れた。やがて増尾十郎が討ち死にする。備前平四郎も多数の敵を斬ってから倒れる。熊井も10人くらい斬ってから倒れた。
 
弁慶と片岡はお互い背を向け合って敵と戦っていた。ふたりは大量に敵を斬っていく。弁慶が恐くてみんな近づけないものの、それでも弁慶の方からやってきて敵を斬っていく。しかしその内、片岡が倒れてしまい、ひとり弁慶だけが残った。
 
敵兵はひたすら弁慶に矢を射たが、弁慶は敵兵たちを睨んだまま立っていた。それで更に矢を射る。しかし弁慶は立っている。
 
その状態で10分くらい経過する。
 
その内誰ともなく言う。
『ひょっとして死んでいるのでは?』
『でも立っているぞ!?』
 
ひとりの武士が弁慶(品川ありさ)の傍を走り抜けたら、弁慶は倒れてしまった。
 
弁慶が“動いた”気がしてみんな、おののくのだが、弁慶は倒れたままである。
 
恐る恐る近寄って見ると、もう死んでいることが分かった。
 
『なんと!立ったまま死んでいたのか!』
『恐ろしき強者(つわもの)の中には死んでも立ち続けるものがあると聞く。弁慶は誠の強者(つわもの)であった』
 
と敵方の武将たちは弁慶の強さに感激した。
 

館の中に突入してきた武士たちを義経(実は佐藤行信)はひたすら斬って行っていた。浪の戸の侍女たちがあるいは義経の楯になり、あるいは浪の戸姫の楯になって倒れていった。残るは義経(今井葉月)と浪の戸(山下ルンバ)だけである。
 
『主は充分遠くまで逃げられたであろうか?』
と“義経”がつぶやく。
『常陸坊殿が付いていますから。弁慶殿は直情の強者ですが、常陸坊殿はずるがしこくて、メンツより実を取る人。きっと大丈夫ですよ』
と浪の戸(ルンバ)も答える。
 
『ではそろそろ終わりにするか』
『はい』
 
それで葉月とルンバは各々目の前にいる兵に突撃し、ルンバは最初の1人を斬ったものの、次の兵に斬られて倒れた。葉月は、なお5人斬ったものの最後は相手の兵2人に左右から刺されて絶命した。
 
(義経の代理をしている佐藤行信と浪の戸姫は兄妹である。念のため)
 

「葉月ちゃんもルンバちゃんも格好いい!!」
とテレビを見ていた政子は叫んだ。
 
「ふたりともこのシーンで随分ファンが増えたよね」
と私も言った。
 

ヒバリが登場して語る。
 
『この日衣川館を不在にしていた常陸坊海尊・千光坊七郎・鷲尾義久・海野浪安について、泰衡は捜索させたもののその行方を掴むことはできませんでした。泰衡は常陸坊たちと一緒にいたはずの、浪の戸姫の“侍女”については、全く注意も払っていませんでした』
 
背景でひとりの武士が泰衡に申し上げる。
『予州様の御子様の遺体が見当たらないのですが』
『それは死んでいたということにしておけ。めんどくさい』
と泰衡は言った。
『では奥方のそばで刺されて死んでいたことにします』
 
それで鎌倉の方には「義経の子は義経が自決する時に先に刺し殺した」と報告したものの、この後、常陸坊海尊が義経の子を連れて逃げたらしいという伝説が生まれることとなった。その助かった子・般若は後に伊達家の祖になったという説もある(真岡市遍照寺の伝承)。
 

『衣川館で死亡した“義経”の首は酒樽に浸けて、1ヶ月以上掛けて鎌倉に送られました。首実検は梶原景時と和田義盛によって行われました』
 
背景に今井葉月の“首”(3Dプリンタで作って、桜木ワルツと山下ルンバの2人で着色し、乾かない内に!水を掛けて適当に崩したもの)が置かれたのを梶原景時(タンニ・バーム)らが見て
 
『確かに義経殿に似ていると思いますが』
『あまりにも崩れすぎて、確信は持てません』
 
などと言っていた。40日間も経てば、人相を確認するのはかなり困難である。
 
頼朝(秋風コスモス)がしかめっ面をしていて、その後ろで北条政子(高崎ひろか)は忍び笑いをしていた。
 
北条にとっては「義経は生きているかも」と思わせておいた方が色々便利なのである。
 

ヒバリは語る。
 
『藤原泰衡は義経を殺したから、これで頼朝には奥州を安堵してもらえるだろうと思ったのですが、そう甘くはありませんでした。頼朝は泰衡に対して「義経はわが家人である。自分の家人を勝手に殺したのは許しがたい」と言って、30万騎の大軍を奥州に進めたのです』
 
『圧倒的な力の差で、まずは国衡が討ち死にし、泰衡は逃亡しました』
 
『ところが泰衡は部下の河田二郎に裏切られて殺されてしまいました』
 
『そして河田二郎が得意げに泰衡の首を持ってくると、頼朝はただちに河田を捕縛しました。そして「主君を裏切るとは言語道断」と言って河田二郎を処刑してしまったのです。この処断について頼朝は多くの人から称讃を受けました。やはり武士の世界でいちばんやってはいけないことは主君を裏切ることなのです』
 

『さあ行くよ!』
 
と元気な声をあげて、壺袿姿で元気に歩いているのは浄瑠璃姫(原町カペラ)である。
 
『姫様、お待ち下さい。私は疲れました』
などと言いながら彼女に付き従っているのは侍女の薬師殿(演:桜野みちる)である。
 
『頑張ろう。暗くなる前に追分宿にたどりつきたい』
 
ふたりは矢作宿を出発してから、さすがに東海道は避け、中山道から日光街道・奥州街道を目指していた。
 
『予州様が生きているというのは本当なのですか?』
と薬師殿が言う。
 
『間違い無いと思う。陸奥の昆布商人が八戸(はちのへ)で見たと言うのよね、伊予守様に生き写しの女人で、そばに凄い大男も居たって。大男は弁慶様か千光坊様じゃないかなあ』
と浄瑠璃姫(原町カペラ)
 
『弁慶様はよいとして、いつから予州様は女人になられたので?』
『あの人はほとんど女だよ』
『女なら契れないのでは?』
『ほぼ女の子なのに、契るための器官はちゃんと付いているから』
 
『でも逆賊ですよ?』
『逆賊と思っている人なんて居ないって。伊予守様は英雄だよ』
 

同じ頃、中山道を逆向きに歩いている“女性ふたり連れ”もあった。
 
13歳になった“仮名・壱”と18歳の“仮名・蜜”である。
 
出演しているのはオーディション選出の女子中学生、河田瑛子と榊原柚花である。
 
つまり・・・女同士である!
 
『追分宿で今夜は泊まろう』
『追分宿からは北国街道に行くんですね』
『うん。能登の時忠殿の屋敷まではまだ半月くらい掛かるけど、“壱”だいじょうぶ?』
『平気平気。私、まだ若いもん。“蜜”と一緒にいられるだけで私幸せ』
 
『でも女同士でひとつの布団に寝てるの、他の人に見られたら気味悪がられるかも』
『“蜜”はもう男に戻れないのでは?』
『自信無い。もう6年も女を装っていたから』
『女らしくなれるように玉を取っちゃう?』
『やだ』
 
『竿(さお)も使ってないくせに』
『使いたい』
『何かあったらいけないから、時忠様のお屋敷に着くまではお預けね』
 
『やりたーい』
『また触ってあげるから』
『触られるだけでできないのもつらい』
『じゃ触らない方がいい?』
『触って触って』
 
女同士いちゃいちゃしながら歩いているので、ふたりを追い越して行く人たちが首をひねることもあった。
 

「小さい頃の2人は男の子同士にやらせて、少し大きくなった所は女の子同士にやらせたんだ?」
とテレビを見ながら政子が言っている。
 
「ドラマがきっかけで恋が生まれたりすると面倒だからさ」
と私は言った。
 
「私はドラマをきっかけに恋が芽生えたけど」
と政子。
 
「ドラマがきっかけではない気もするけど」
「うーん、最初のきっかけは何だったっけ?」
 
と政子は自分と亮平の馴れそめを思い出せないようである。
 

《追分宿》というテロップが流れる。
 
深夜、宿に忍び込む男たちがある。
 
怪しげな雰囲気に気付いて客のひとりが悲鳴をあげると、その客は男たちに刺し殺されてしまった。
 
しかしその騒動で客たちはみんな目を覚ます。
 
『みんな金目の物は全部出せ』
などと男たちが言っている。客たちが震えながら旅費にと持っていた布や絹などを出す。
 
男たちがやがて浄瑠璃姫(原町カペラ)の前に来た。
『金目のものを出せ』
 
それに対して浄瑠璃姫は荷物の中から1つの鼓を出した。
『それをくれるのか?』
と男たちが言うが、浄瑠璃姫は何も言わずにポン!と鼓を打った。
 

すると突然窓を開けて飛び込んで来た男がいる。
 
佐藤忠信(今井葉月)である。
 
『何だ貴様?』
と男たちが言うが、忠信は自分に向かって来る男を2人、鮮やかに斬った。
 
『わっ、こいつ強いぞ』
と男たちがひるむ。
 
すると男たちの中のリーダーっぽい男が忠信の前に出た。
 
刀を抜いて構える。
 
しかし忠信はその男を全く問題にもせずに切り捨てた。
 
『わっ、親分がやられた!』
と言って、盗賊たちは盗ったものも放置して逃げて行った。
 
忠信はそれを見ると、さっと窓の外に飛び出していった。
 
(ちなみにここは2階である)
 

提灯を持って宿の者があがってきた。
 
『何の騒ぎです?』
『盗賊がきたんです』
『え〜〜!?』
『客がひとり斬られた。その人です』
『わあ、それは気の毒なことを』
 
『でもお侍様が盗賊たちを切り倒してくれました』
『そこに倒れている2人とこちらに倒れている男が盗賊です』
 
『おお、そのお侍様は?』
『どこかに行ってしまわれました』
 
浄瑠璃姫(原町カペラ)は何事もなかったかのように、その鼓を荷物の中にしまっていた。
 
『なんかすごいねー』
『ボクが対処しなきゃいけないかな?と思ったら、あのまるで狐みたいな身のこなしの人が全部片付けちゃった』
と“壱”と“蜜”は話し合っていた。
 

《夏・八戸・高館》(*21)
というテロップが流れる。
 
『丹波、今日は暑いよ。氷室の氷取ってきてくれない?』
と小袖姿のアクアが言うが返事が無い。
 
『丹波?』
 
そこに“長門の君”(海野五郎浪安)がやってくる。
『丹波の君(鷲尾三郎義久)は、御台所殿からの手紙を受け取りに南部様のお屋敷まで行きましたぞ』
 
『へー。今度は何の用事かね〜』
『あの御方もあれこれ画策しているようですな』
と“伊賀の君”千光坊七郎も来て言う。
 
『常陸の君(常陸坊海尊)は今度はいつ戻るんだろう』
『あいつは風来坊だからなあ』
 
『氷室の氷は私が取って来ましょう』
と言って“長門の君”(海野五郎:演=坂田由里)が馬に乗って出て行った。
 

(*21)伝説によれば、平泉から逃れた義経たちは海路で種差海岸まで行き、最初館越に居たが、1年ほど後に高館(現在の八戸航空基地の近く)に移動したという。
 
八戸近辺は奥州藤原氏が倒れた後は南部氏の支配地となった。南部光行は父・加賀美遠光(武田信義の弟か甥)とともに、頼朝の奥州攻撃に参加し、その功績として南部地区を安堵されたと言われる。光行の嫡男・実光は北条時頼の側近として仕えた。要するにここは北条の息の掛かった地域である。
 
文治6(1190)年3月には、義経が生きていて、陸奥の国で蜂起するという噂があり、鎌倉が焦るという事件があったが、ガセであったということになった。しかしもしかしたらガセということにしたのかも知れない。
 
義経が本当に生きていたとしても、奥州藤原が倒れた今、鎌倉に対抗することは不可能だし、もし義経が生きていたら、それを北条も知っていて黙殺していたケースしか考えられない。
 

そこに密偵の香殿(斎藤恵梨香)が戻って来る。
 
『おお、お疲れ』
『こちらが私が調べました、筑紫(九州)方面の情勢です』
と言って巻物を提出する。
『ありがとう。しばらく休んでいてくれ』
『はい』
 
小袖姿のアクアは巻物を解いて読む。
『ほほお、久留目(現在の久留米)に先帝を祭る社を作るのか』
『按察使局伊勢がその地に赴いたのですよ』
『ああ。片岡が掬い上げた女か』
 
(この物語では安徳天皇は二位尼が抱いて入水したという立場を取るが、先帝を抱いて入水したのは按察使局伊勢という説もある。彼女が久留米水天宮の祖となった)
 
『筑紫の地は鎌倉の目も届きにくいですし、やりやすいのでしょう』
『かもね〜』
『松浦直殿が、予州殿が参られるのなら歓迎とおっしゃっていました』
『それはありがたい。しかしやめておこう』
と言って近くに居る千光坊(スキ也)を見るが彼も頷く。
 
『今は北条殿、というより御台所殿の気まぐれでここに居られるから。私が西国に移動したらまた揉め事の種になって多くの人が死ぬ』
 
『随分死にましたなあ』
と千光坊も感慨深げに言った。
 

場面は変わって、北条政子(高崎ひろか)が密偵から渡された巻物を読んでいる。
 
『なるほど。そういう手があるか。“静”殿もほんとにうまい手を考える』
とつぶやくと、畠山重忠を呼んだ。
 
『さすが御台所様、それはうまい手ですね。早速そのように進めましょう』
と畠山は言った。
 
『ところで大姫様の四十九日ですが(*22)』
『あれも若いのに親より先に逝ってしまった。盛大に弔ってやってくれ』
『はい。しっかり準備を進めます』
と言って畠山は下がった。
 
政子はつぶやいた。
『私だって逆賊といわれながら三郎殿(頼朝)に恋い焦がれて、結果的に激動の世の中を生きて来た。一幡のいちずな気持ちも分かるよ。元気にしてるかな?』
 
そんなことを思いながら、政子は廊下に出ると遙か北の空を見上げた。
 

(*22)正史では、大姫が亡くなったのはこれより7年後、建久8(1197)年7月14日である。そして頼朝自身が建久10(1199)年1月13日にわずか53歳で亡くなり、頼朝は天皇の外祖父になることは叶わなかった。
 
頼朝が亡くなった後は、征夷大将軍はほぼ名前だけの存在になり、頼朝の血筋も早々に絶えて(むしろ絶やしたというべき)、北条家による支配体制が確立していく。北条家は平家の一族なので、源平の合戦の最終覇者は実は平家だったことになる。
 

場面は再び八戸の高館に移る。
 
しばらくアクアが小袖姿のまま、ひとりで西国の情勢の調査書を読んでいたら足音がする。
 
『丹波?』
と声を出してアクアが振り向こうとしたら、いきなり後ろから両目に手を当てられる。
 
『だぁ〜れだ?』
 
アクアは驚いて振り返りながら言った。
『浄瑠璃?』
 
『牛若様、遭いたかったぁ』
と言って原町カペラがアクアに抱きつく。
 
(ネットでは「こら離れろ!」というツイートが多数)
 
『良く来たなぁ。それにここがよく分かったね』
『途中で金売吉次様に会って、場所を教えてもらいましたから』
 
『吉次!?あいつ死んだのでは?』
『生きてましたよ。また金(きん)売りの商売に戻ったとおっしゃってました』
 
金売吉次こと堀影光は文治2年9月20日、ちょうど静が鎌倉から京都に戻る途中の頃に京都で頼朝の御家人・糟屋有季に捕縛され、拷問に掛けられて義経の居場所を吐かせられた上で斬られたというのが通説ではあるものの、生存説もあり、実際問題としてよく分かっていない。
 
『ところで私を後ろから襲うのは危険だぞ。危うく刺す所だった』
と言ってアクアは短刀を鞘にしまう。
 
『きゃっ!』
と原町カペラが悲鳴をあげた。
 

浄瑠璃姫の侍女・薬師殿(桜野みちる)がそんな2人の様子を微笑んで眺めていると、千光坊がお茶を出してくれので
『わ、すみません。殿方にお茶を出して頂いて』
と恐縮して受け取る。
 
『なに、ここは主が主ですし、男とか女とか全く気にも留めませんから』
と千光坊は言っている。
 
 
『ところでどなたでしたっけ?』
と千光坊。
 
『私の最初の妻なのだよ』
と義経(アクア)は言った。
 
『ほほお』
 
(この物語では鬼一法眼および皆鶴姫は存在しない立場を取っているので、浄瑠璃姫が義経の最初の女である)
 
『しかし女手があると助かる。我々ではなかなか子供の世話が出来なくて』
と千光坊が言うので、浄瑠璃姫が見ると、向こうの間に子供が2人寝ている。
 
『それはどなたの子供?』
『実は浪の戸の子供なんだよ。衣川館が襲撃された日、たまたまこの子たちをお参りに連れて行っていた。あの時、浪の戸も伴っていれば死なせずに済んだのだが』
と義経は悔やんでいる。
 

『小さい方の子はまだお乳が必要だよね?どうしてるの?』
『もらい乳をしている』
『ね、ね、私が赤ちゃん産めば、お乳出してあげられるよ』
と浄瑠璃姫は義経に売り込む。
 
『それ10月10日(とつき・とおか)かかる』
『早速今夜にも製造しようよ』
『その件はまたあらためて話し合うということで』
 
『ちんちんまだ付いてるよね?』
『付いてるけど』
『じゃ製造できるね。牛若様ってほとんど女の人にしか見えないから、付いているのかどうか不安になっちゃう』
『ボク、髭も生えないんだよね〜』
『いっそ女人になられます?』
『まあここでは女人の振りして暮らしているのだけどね』
『九郎様、小袖姿がよく似合いますよ。髪も振り分け髪の方が可愛くていいし』
 
『姫様、ここでは大和の君ということになっていますから、牛若とか九郎とか義経とか予州とかの名前は使わないで下さい』
と千光坊が注意するので浄瑠璃姫は頷く。
 
『取り敢えず、私がこの子たちの母親になってもいい?』
『うーん。まあいいか。今の所ボクには誰も妻はいないし』
と言ってアクアは微笑んだ
 
丹波の君(鷲尾三郎)が戻ってきて、大和の君(義経)に北条政子からの密書を渡す。そこに長門の君(海野五郎)も戻ってきて、氷室の氷を砕いて飲み物を作ることになる。奥で休んでいた香殿も呼ばれて出てくる。
 
『冷たくて美味しい!』
と浄瑠璃姫が歓声をあげ、それを見て微笑むアクアのアップの上に《完》の文字が表示された。
 

続いて場面は主演者一同が百人一首をしている場面に移り、エンドロールが流れる。
 
制作、監督、撮影、音楽、美術などのスタッフが表示された後、出演者の一覧が出る。最初に先頭でも表示されたように
 
高 ア 品
崎   川
ひ ク あ
ろ   り
か ア さ
 
とメイン3人の名前が出た後、出演者の名前が所属別!に表示された。
 
■§§ミュージック(アーティスト番号順。括弧内はデビュー年)
源頼朝 秋風コスモス
富樫泰家 川崎ゆりこ
佐藤四郎忠信・佐藤太郎行信 今井葉月(2015)
平教経 西宮ネオン(2015)
佐藤四郎忠信・佐藤太郎行信・建礼門院 姫路スピカ(2016)
木曽義仲 白鳥リズム(2017)
熊谷直実 花咲ロンド(2017)
巴御前 石川ポルカ(2018)
佐藤三郎継信 桜木ワルツ(2018)
浄瑠璃姫 原町カペラ(2019)
浪の戸姫 山下ルンバ(2019)
那須与一 桜野レイア(2019)
平敦盛 東雲はるこ(2020)
 
■§§ミュージック・研修生・練習生
鷲尾三郎義久 木下宏紀
海野五郎浪安 坂田由里
平維盛 篠原倉光
義経の少年時代 渡辺灯美
 
■リセエンヌ・ド(lycéenne d'or)
亀井六郎重清 佐藤ゆか
源有綱 高島瑞絵
伊勢三郎義盛 南田容子
一条能成 山口暢香
 
■信濃町ガールズ(五十音順)
河越重房 青木由衣子
楯親忠 今川容子
海野幸氏 上田信貴
源義高 上田雅水
駿河次郎清重 大崎志乃舞
菊王丸 太田芳絵
香殿 斎藤恵梨香
根井行親 左蔵真未
今井兼平 桜井真理子
阿野全成 中村昭恵
平知盛 町田朱美
郷御前 水谷康恵
源義円 三田雪代
樋口兼光 悠木恵美
 
■§§プロ(デビュー順)
二位の尼 上野陸奥子
北条時政 立川ピアノ
乙和姫 大宮どれみ
平宗盛 日野ソナタ
佐藤基治 春風アルト
吉野の執行 冬風オペラ
磯禅師 満月さやか
薬師殿 桜野みちる
ナレーター 明智ヒバリ
 
■オーディション選出(クレジット分のみ。登場順)
武田信義 竹原隼人
畠山重忠 勝沢成良
平知度 山崎宗志
源親義 宮田啓輔
平山季重 生方聖也
船頭(屋島合戦前) 猿田浩夢
近藤親家 多山雅治
祐殿 谷畑博子
江田源三弘基 簑田啓吾
工藤祐経 金井誠一
産婆 八坂千代
大姫の侍女 三田貴代
仮名・壱 河田瑛子
仮名・密 榊原柚花
 
■一般出演
藤原秀衡 北村圭吾
梶原景時 タンニ・バーム
堀彌太郎景光 マツ也(先割れフォーク)
千光坊七郎 スキ也(先割れフォーク)
廊御方 萩原愛美
源一幡 水原裕樹(劇団桃色鉛筆)
安徳天皇 間島志保美(劇団桃色鉛筆)
 
■エキストラ
10000人のエキストラの皆さん
 
■友情出演
玉虫の前 松梨詩恩
土佐坊昌俊 大林亮平(Wooden Four)
安達新三郎清常 森原准太(Wooden Four)
大納言平時忠 本騨真樹(Wooden Four)
常陸坊海尊 木取道雄(Wooden Four)
 
■特別出演
後白河法皇 藤原中臣
 
最後(トメ)の藤原中臣は大きく“起こし”で表示された。
 
藤原さんは「ボクみたいな端役がそんな大物扱いされたら恥ずかしい」と本当に恥ずかしがっていたのだが、実際に放送されたドラマを見て咳き込んだ。
 
「蛍蝶さんが出てたの〜〜〜?」
 
「ああ。今井葉月のお父さんに頼む予定だったのですが、公演の日程とぶつかってしまって。そしたらお祖父さんが『ぼくが代わりに出ようか』とおっしゃって」
と秋風コスモスは説明する。
 
「蛍蝶さんが出てるのに、ボクがトメになったら叱られるよ!」
「蛍蝶さん、自分は引退した身だからとおっしゃってました」
 
「それにしても申し訳無い」
というので、藤原中臣さんは、柳原蛍蝶の所に、高級和菓子を持って“お詫び”に行ったらしいが、蛍蝶は「いや中臣君は充分トメに値する」と言っていたらしい。
 

(*15)衣川館で亡くなった“義経の妻”について
 
吾妻鏡・文治5年(1189)・閏4月30日の記事はこのようになっている。
 
閏4月30日 己未
今日陸奥の国に於いて、泰衡源與州を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依ってなり。豫州民部少輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。
 
この女子4歳はその妻22歳が産んだ子であろうから、衣川館で義経と運命を共にした妻が1186年に女の子を産んでいたことになる。
 
義経の妻の数は6人という意見が多いようである。24人という説もあるらしいが、それはさすがに無理がある。様々な文献に出てくる名前は私が把握している範囲では7人である。
 
■存在が明確なもの
郷(さと)御前 河越重頼の娘
蕨(わらび)姫 平時忠の娘
静(しずか)御前 白拍子
浪の戸 佐藤基治の娘
 
義経千本桜は河越重頼の娘が平時忠の養女になって義経に嫁いだとしているが、作者が混乱していたか、話を単純化するためにそうしたかと思われる。郷御前と蕨姫は別人のはず。
 
■存在がやや怪しいもの
浄瑠璃姫 兼高長者の娘
 
■存在が結構怪しいもの
久我姫 久我大臣の娘あるいは久我大将の娘。名前を良子御前と書いた文献も見るが出典不明。
 
■存在がかなり怪しいもの
皆鶴姫 鬼一法眼の娘
 

取り敢えず皆鶴姫は無視する。
 
蕨姫(平時忠の娘)は1185年に義経と結婚した時23歳あるいは28歳だったというので年齢が合わない。静は1186年に鎌倉で男の子を出産したのだから違う。浄瑠璃姫は伝説の域を出ないが、彼女が東北に向かったのはもっと後と思われる(既に死亡していたという説もある)。
 
久我姫だが、義経記はこの人が衣川館で義経に殉じたとしている。
 
父親の久我大臣とは“久我内大臣”と呼ばれた源雅通ではないかと思われる。義経記には久我姫が9歳で父を亡くしたと書かれていて、久我雅通は1175年に亡くなっているので、久我姫が1168年生まれなら符合する。その場合義経の北行が1186年なら当時19歳。衣川館が襲撃された1189年には22歳になり、吾妻鏡の記述と一致する。
 
しかし肝心の、源雅通にそのような娘が居たという記録が見当たらないのが困ったものである。源雅通の娘としては、藤原実守に嫁いだ人、建春門院の女房になった人(三条殿)だけが記録されている。義経ほどの人に嫁いだ娘がいたとしたら、記録されていて然るべきである。
 
義経記では、平泉に逃れるという時に、義経がこの人を連れて行くべきかどうかかなり悩むシーンがある。結果的に連れて行くのだが、なにせ深窓の令嬢なのでまともに歩けず、義経の郎党たちが「先に行ってますね」と言って置いていかれる始末である。かなり足手まといになっている。
 
この旅は物見遊山の旅ではない。
 
発見されれば全員命を落とす厳しい旅である。郎党たちは逆賊の汚名を着ても、これまでの恩義で義経に命を預けてくれている。それなのに個人的感情でこのような足手まといの女を連れて行ったとしたらあまりにも愚かすぎる。義経の性質としてそのようなことは考えられない。
 
しかもこの姫は妊娠中で、旅の途中で出産するのである(男の子で亀鶴御前と名付けられる)。朝敵としてすみやかに捕らえるべく全国に号令が掛かっている中で、妊娠中の妻を連れて行くなんて、そこからして不可能である。義経記では姫を稚児に変装させているが、出産間近の女ではそのような変装は不可能。
 
要するにこの話は破綻している。
 
だいたい、女を連れて行けるのであれば、吉野で静と別れる必要が全く無かったのである。どう考えても大臣の姫君などより、堀川夜討での動きに見られるように戦闘的な静の方がずっと役に立つし、長旅にも耐えると考えられる。
 
そういう訳で妊娠中の久我姫を連れて逃避行したというのはあり得ないし、逃避行の時は別行動だったとしても、監視されているのは間違い無い義経の妻が後から赤子を連れて平泉に向かうというのもあり得ない。
 
そういう訳で久我大臣の娘が一緒にあるいは別途平泉に行って衣川館で義経と運命を共にしたというのは不可能としか思えないのである。
 

通説では衣川館で死んだのは郷御前(河越重頼の娘)とするが、上記久我大臣の娘同様、彼女も厳しい北行の旅が可能だったか、大いに疑問がある。
 
義経の北行の時期は、西国に逃れようとして嵐に遭い、大物浜でバラバラになってしまった文治元(1185)年の11月よりは後である。また郷御前が文治2(1186)年に子供を産んだとしたら、この年の最後の文治2年12月29日に産んだとした場合でも、この日はグレゴリウス暦では1187.2.16になり、ここから逆算すると受精日は1186.5.26ということになり、これは文治2年4月29日である。
 
そういう背景で郷御前が1186年に子供を産んだのなら考えられるのは次のようなケースである。
(a)義経と郷御前の双方が文治2年4月29日までに平泉に到着しており、そこで受胎した。(b)京都で受胎し、文治2年の夏の間に平泉に移動してそこで出産した。(c)京都で受胎・出産し、それが文治5(1189)年閏4月30日までの間に平泉に移動した。
 
監視がある中での妊娠中の移動はやはり考えにくいので、あり得るとしたら(a)か(c)である。(a)の問題点は厳しい冬の東北を姫君の足で踏破できるのかという問題である。すると(c)のケースが考えられるが、赤子あるいは幼少の子供を連れての旅は無理が出来ない。監視のある中でそういう旅をするのはやはり厳しいのではないかという気がするのである。
 
そうなると、郷御前が衣川に移動して義経に殉じたという考えも、微妙に困難なことと思われる。
 

近年注目されたのが、衣川館で死んだのは、元々東北に住んでいた、佐藤基治の娘・浪の戸姫とする説である。つまり佐藤継信・忠信兄弟の妹である。
 
佐藤兄弟の献身は尋常でないが、それも妹が義経の妻であったなら、妹のためにも必死で頑張ったというのが納得できる。
 
元々浪の戸姫は東北にいたので、東北に亡命してきた義経の傍に付いていても全く不自然ではない。但し、もし浪の戸が1186年に女の子を産んだとしたら先ほどの考察のように、義経は文治元年(1185年)11月17日に吉野で静と別れた後、文治2(1186)年4月下旬頃までには東北に移動していたことになる。その場合、1186年頃に盛んに京都の近辺に義経が出没していた噂が流れたのは、佐藤忠信や掘景光あたりの仕業という可能性が出てくる。
 
なお浪の戸はこの女の子の他に安居丸という男の子も産んでいて、その子は佐藤家の血筋の者に育てられ佐藤基信と名乗ったともいうが、そういう子がいたら、どうやって助かったのか、あるいはなぜ衣川館で女の子の方だけを道連れにしたのかがよく分からない。普通は、女の子は見逃されたとしても男の子は確実に殺されていたはずである。
 
以上のような考察をまとめると、このような結論が導かれる。
 
−衣川館で義経と運命を共にしたのは浪の戸姫
 
−義経は文治元年11月に都落ちした後、文治2年4月頃までには平泉に移動しており、そこで浪の戸との間に女の子を作った。
 
−義経の郎党たちは文治2年夏頃までは京都周辺でわざと騒ぎを起こして鎌倉方を牽制していたものの、源有綱・伊勢三郎・掘景光・佐藤忠信が相次いで捕らわれたことでそういう活動は鳴りを潜め、残った者たちは少しずつ平泉に移動した。
 
−浪の戸と義経の間に男の子も産まれていたという話は怪しい。
 

この物語はこの「衣川館で死んだのは浪の戸姫」という説に沿って書いたものです。この説を唱えられている人のサイトを私は2015年1月に見て、それに沿って青葉物語の『春宴』を書いたのですが、あらためて探してもそのサイトを見つけることができませんでした。今回はあらためて義経記や吾妻鏡の原文を読んだ上で、独自に考察してみた結果、やはり浪の戸姫説が最も納得がいくように思い、その線でまとめてみました。
 

「ところで結局義経を演じていたのは誰だっけ?」
と政子は訊いた。
 
「アクアだけど」
と私は答えた。
 
「アクアは静御前じゃないの?」
「このドラマでは静御前というのは架空の存在で、義経が静という白拍子の振りをしていて、今井葉月演じる佐藤行信が義経の振りをしていたんだよ」
 
政子はしばらく考えていた。
「つまりアクアは女装してたんだ?」
「何を今更。最近アクアは女役だけでいい。男役はさせなくてもいいという意見が強い」
「賛成。これ録画してる?」
「してないけど」
「なんで録画しないのよ!?」
「DVDが発売されるから、それ買ってあげるよ」
「おぉ!楽しみだ」
 
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【クロ子義経】(5)