【クロ子義経】(4)

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明智ヒバリの解説は続く。
 
『壇ノ浦の合戦で安徳天皇が亡くなり、二皇併立の異常事態は解消されたものの三種の神器の内の剣が失われたことは大きな衝撃となりました。源範頼は現地に留まって引き続き剣の捜索を含めた戦後処理をおこない、義経は京都に戻ることになります』
 
『捕縛された平家の武将たちの多くは処刑されることを覚悟していましたが、その中にあって必死の延命活動をしたのが平時忠です』
 

場面は平時忠(演:本騨真樹@wooden four)が義経(演:?)に何かを申し出たところのようである。
 
『は?何をくれるって?』
という義経の声はアクアだが、顔は映らない。
 
『ええ。ですから、娘の蕨を判官様の妻として差し上げますので』
『うーん。そういうのは勝手にもらう訳にはいかん。鎌倉殿に相談して許可が出たらもらってやる』
『はい、何でしたら鎌倉殿には妹の蕗を差し上げたいのですが』
『分かった。それも聞いておくが、鎌倉殿は北条政子殿ひとすじゆえ、側室は娶らぬかも知れんぞ』
『もしもらって頂けましたら』
 
それで義経が鎌倉に手紙を書き、時忠の意向を伝えると、頼朝は義経と蕨姫の婚儀は許可したものの、蕗姫は要らないと言ってきた。使者に立った義経の兄・阿野全成の腹心は
 
『いや、最初は頼朝様もくれるものはもらおうという態度だったのですが、政子様が激怒なさって』
 
などとこっそり義経に言っていた。義経はうかつなことは言えないのでただ笑っていた。
 

そして場面は義経と蕨姫の婚儀のシーンになるが・・・・
 
『判官殿はどうなされた?』
と出席者のひとりが言う。
 
『院(後白河法皇)に呼ばれて外出なさった』
『婚儀の夜なのに?』
『それで弟の能成様が新郎の代理をなさっておる』
『しかしほんとに忙しそうだな』
 
明智ヒバリがまた解説を入れる。
 
『平時忠はまた訴えました。ひとつ、自分は平家の都落ち以来、ずっと三種神器がそこなわれたりしないようにずっと守ってきた。壇ノ浦でも剣は(姉の)二位尼から奪うことができなかったものの、鏡と珠の保護にも貢献した。だから罪一等を減じて欲しい。ふたつ、そもそも自分は武士ではなく文官であるから、死刑の対象外のはず』
 
『そういった必死の弁明が認められて、彼は能登国に流罪という処断が下ったのでした。彼の子孫は現在でも能登の輪島市で続いており、その屋敷“上時国家”“下時国家”は能登の観光コースにも組み込まれています。平時国は平時忠の子です』
 
場面は時忠の一行が能登に旅立つシーンだが、そこに静が訪れた。
 
『義経殿の御側室殿であったかな?』
と時忠が静に言った。
 
『蕨姫様とはすっかり仲良くなりましたよ。元々主(あるじ)がこだわらない性格なので、郷姫様、蕨姫様、久我姫様、それに私と4人で碁や双六などしたり和歌を詠んだりして楽しく過ごしております。判官殿はほとんど家に戻らず忙しく飛び回っておりますし』
 
『夜のお渡りの頻度は?』
 
『判官殿は誰とも寝ませんよ。戦場にあっては私が毎晩護衛を兼ねて添い寝させて頂きますが、私も実際には一度も抱かれたことはありません』
 
時忠は困惑した。
 
『もしや義経殿は実は女人ということは?』
『それはないですね。男の方であることだけは確認させて頂きました』
『まあよいか。男か女かなんて些細なこと』
『時忠殿は女人になられる予定は?』
 
時忠は顔をしかめた。
 
『あれ、あまり人に言わないでよ』
『女房装束、似合っていたのに。あ、これ餞別代わりに』
と言って静が時忠に渡したのは、美しい五衣唐衣裳のセットである。
 
『実はうちの妻は能登なんて行きたくないと言って都に残るのだけど』
『ですからお寂しいでしょ?これを身に付ければ気が紛れますよ』
『はまったらどうしよう?』
 

明智ヒバリの語り。
 
『頼朝と義経の関係は4月中までは良好でした。5月、頼朝から義経に平宗盛親子を連行してくるようにという指示があるので、連れて鎌倉に下っていくのですが、頼朝は唐突に《鎌倉には宗盛親子だけを入れよ。義経は鎌倉に入ってはならぬ》という指示を出し、義経は困惑します。それで義経は腰越の満福寺に留め置かれます。久しぶりに兄と対面出来ると思っていた義経は頼朝の態度に不可解な思いを持つのでした』
 
『結局、頼朝は義経の鎌倉入りを許可しないまま、宗盛親子と、一ノ谷で捕縛していた平重衡を義経に預けて帰京を命じました。義経は結局頼朝の態度が理解できないまま京都に戻り、まずは宗盛・清宗親子を処刑します。そして重衡はその身を東大寺に引き渡しました』
 
『奈良の人たちは奈良を焼き討ちして多数の一般人の死者を出し、多数の仏像を燃やしてしまった重衡を恨んでおり、重衡は奈良の人たちにより斬首・梟首されました。ただ死の直前に懇願により、壇ノ浦で海中から掬い上げられて生還した妻“大納言典侍”藤原輔子と対面を許可されました』
 
『奈良の仏教勢力は、憎き平重衡の身柄を義経が渡してくれたことで、彼をヒーローとしてあがめました。そのためこの後、南都は義経を全面的にバックアップし、義経がこの後頼朝と対立することになっても、ずっと義経を支援してくれたのです』
 

(**)この時期の元号と西暦年対照
 
1180 治承4
1181 治承5 養和元
1182 治承6 養和2 寿永元
1183 治承7 寿永2
1184 寿永3 元暦元
1185 寿永4 元暦2 文治元
1186 文治2
1187 文治3
1188 文治4
1189 文治5
1190 文治6 建久元
 
主な出来事
1180 以仁王の宣旨 富士川
1181 清盛没
1182
1183 倶利伽羅峠 水島
1184 宇治川(義仲没) 一ノ谷
1185 屋島 壇ノ浦 頼朝と義経の対立 鎌倉幕府の発足
1186 静の舞
1187 藤原秀衡没
1188
1189 藤原泰衡が義経を殺害? 頼朝が泰衡を滅ぼす
1190
1191
1192 後白河法皇崩御 頼朝が征夷大将軍に
1199 頼朝死去 梶原景時が討たれる
 

《元暦2年9月29日・京都》
というテロップが流れる。
 
旅姿の山伏が歩いていると、義経の郎党のひとり・江田源三弘基とすれ違いそうになる。
 
『あれ?土佐坊殿ではないか?』
と江田源三(演:オーディシヨン選出の簑田くんという高校生。たぶん男子)。
 
『あ、そなたは安芸坊だったな?』
と土佐坊昌俊(演:大林亮平)も嬉しそうな顔で言う。
 
『興福寺に居た頃が懐かしいな』
『ああ、長門坊と3人で随分悪いことしたよな』
 
と2人はしばし懐かしくなって昔のことを語った。
 
『都に来たの?』
『ああちょっと熊野詣でにな。今夜は都で泊まるけど』
『宿はどこ?』
『**寺という所なんだが』
『ああ。あそこか。後で酒でも持っていこうか?』
 
『それもいいな』
と言ってから、土佐坊は訊く。
 
『ところでお主(ぬし)、暇か?ちょっと人を集めているのだが』
 
『ん?何かあったのか?』
『実は今俺は鎌倉殿に頼まれて一仕事することになって、人数が要るんだよ』
『お前、二品殿の家人になったの?』
『いや、まだ家人ではないのだけどね』
『すまん。俺は伊予守(義経)様の郎党に加えてもらったのよ』
『予州殿のか?』
と言いながら土佐坊はかなり焦っている。
 
『だったら、無理だよな。すまん。このことは予州殿やその家人には言わないようにな』
『あ、うん』
『また後日、酒を飲もう。すまないが今夜は忙しくて』
 
と言って土佐坊は焦った顔で行ってしまった。それで江田源三は首をひねった。
 

テレビを見ていた政子が喜んでいる。
 
「亮平、出るとは聞いていたけど、土佐坊かぁ。亮平って悪役が似合うよね」
などと言っている。
 
「確かに昔からよく悪役をしてるよね。『立つ!』では善役だけど」
と私。
 
「今回は徳川光義だけど、次は家光をするという話もあるんだよ。暴れん坊将軍」
「暴れん坊将軍は8代将軍・吉宗だと思うけど」
「あれ〜〜?家光って何代目だっけ?」
「3代目だよ」
「うーん。。。もしかしたら3代目の娘かな」
「亮平君は女役はしないと思うけど」
 
「ふふふ。私、亮平のあんみつ姫のビデオ、みちるちゃんに頼んでDVDに焼いてもらったの持ってるよ。かっわいいんだよ。全然女の子に“見えない”のが凄い」
 
「ああ。亮平君が黒歴史にしたいと言っていたやつか」
 
と言ってから私は政子に訊いた。
 
「ところでマーサ、亮平君との関係はどうなってる訳?」
「付き合ってるけど」
「それは良かった。復活したんだ?」
「結婚しようと思ってる」
「いいんじゃないの?ローズ+リリーはどうするの?」
「もちろん継続。家事も赤ちゃんのお世話も全部亮平がすると言ってるし」
「マーサ妊娠した?」
「まだしてないけど、生でしてるから、その内妊娠するかも」
「まあいいけどね」
 

江田源三が六条堀川の義経邸に着くと、弁慶(品川ありさ)が
 
『お帰り』
と言う。しかし江田が何か考え事をしているので訊く。
『どうかしたのか?』
『いや、言ってはならぬと言われたのだが』
『誰に?』
『えっと・・・』
『おぬし、まさか殿に隠しごとなどするのではあるまいな?』
『とんでもない』
 
それで江田源三はさっき古い知り合いで土佐坊という男に会ったこと。何か仕事があるらしくて誘われたものの、自分は義経の郎党だからといって断ったこと、彼は頼朝に何か頼まれて人を集めていると言っていたことを語る。
 
『怪しいな』
と義経(後ろ姿)が言う。
 
『しかしおぬしも、そういう時はもっと詳しい話を聞いてから抜け出してくればいいのに』
と弁慶が言うと源三は
『すまん』
と言った。
 
『まあまあ。源三はそういう謀(はかりごと)には向いてない』
と義経は言う。
 
『私がそいつ、ここに連れてきましょう』
と弁慶は言った。
 

土佐坊が寺で休んでいると、そこに武蔵坊弁慶がやってくる。彼は笑顔である。
 
『鎌倉よりはるばるお疲れ様です。ぜひ伊予守が会いたいと申しております。良かったらご足労いただけませんか?』
 
土佐坊は「あいつ義経に言ったな?」と焦ったものの、怪しまれないようにするには義経に会っておかねばなるまいし、襲撃の下見にもなると思う。それで弁慶に付いていく。
 
『土佐坊よ。鎌倉殿より手紙などは無かったろうか?』
と義経(やはり後ろ向き)が訊く。
 
『手紙は預かっていないのですが、言葉で伝えてくれるよう頼まれておりました。遅くなってすみません。明日にもこちらに参るつもりでした』
と土佐坊。
 
『おぉ、何と言われた?』
 
『京都の治安がしっかり治まっているのは義経様のお力だと思う。今後もよろしく頼むとおっしゃっておりました』
 
『ほんとか?』
 
義経は半信半疑ではあったものの、そのまま土佐坊を帰した。
 

六条堀川の義経宅では土佐坊が帰るのと入れ替わりくらいに静(アクア)が帰宅した。
 
『どうも様子がおかしい。大通りに多数の武者が行き交っている。これは誰かがことを起こすつもりではあるまいか?』
と静(アクア)。
 
『今、土佐坊昌俊が来た所よ。あいつ頼朝殿から何か密命を帯びてきているようだ』
と義経。
 
『それはつまり、義経様を討つつもりなのでしょう』
と弁慶(品川ありさ)は言った。
 
『取り敢えず密偵に調べさせよう』
と静は言って、平清盛公から預かっていて、現在は静の配下になっている密偵を2人土佐坊が泊まっている寺に行かせた。
 
(清盛は常磐御前の夫なので、実は義経にとって義父である! この付近は平家物語の記述に基づいている)
 
ところがその密偵がなかなか戻って来ない。静(アクア)は腕を組んで考えた。そして
『こういう時は女の方がかえって警戒されないかも知れない』
 
と言って、今度は女の密偵で香君(演:斎藤恵梨香@信濃町ガールズ)という者に様子を見に行かせた。すると香君は戻ってきて言った。
 
『先に見に行った2人は土佐坊が泊まっている宿の門前で斬り殺されていました。宿には鞍置き馬が多数集められております。鎧兜をつけ弓矢を持った武装の兵士も多数集まってきています』
 
『今夜にもやる気だな』
と静(アクア)。
 
『しかし困った。こんな時に、今この家には私たちしかおりませんぞ』
と弁慶(ありさ)が言う。
 
『佐藤忠信と駿河次郎はわりと近くにいるよな?』
と義経。
 
『四郎殿(忠信)は母上様(常磐御前)のお宅にお使いに』
『香殿、すぐ呼びに行ってくれ』
『はい。行って参ります』
と言って、香君は飛び出していく。
 
『熊井が洛南の彼女の家に居ます』
『源三、すぐ呼んできてくれ』
『はい』
それで江田源三も飛び出していく。
 
『駿河次郎は鞍馬山かな?』
『仕方ない。私が呼んで来る』
と弁慶。
 
『私が戻る前に襲撃されたら・・・』
『大丈夫。私ひとりで30人くらい斬るから』
と静(アクア)。
 
『私も頑張れば10人くらいは斬れるかな』
とやや不安げに義経は言った。
 
『まあ忠信殿がすぐ戻れるだろうし』
と言って弁慶は馬に乗って出て行った。
 

30分ほどで急を聞いた佐藤忠信(今井葉月)が戻ってきた。
 
『殿、私が戻りましたからには私が1人で20人くらい斬りますから』
と佐藤忠信(葉月)。
 
『そうか。静は1人で30人斬ると言っておるぞ』
と義経。
 
『負けたぁ』
 
『香君、あなたは戦闘向きではない。隠れていなさい』
と静(アクア)が言うので、香君は屋敷内の納戸に隠れていて、万が一の時は参戦すると言った。
 

結局こちらの戦力は、義経・静・忠信の他は、静が呼び寄せた“戦闘もできる”密偵が3人と警備の武士5人の合計11人にすぎない。しかし向こうは70-80騎と思われた。
 
やがて門の外が騒がしくなる。義経は警備の武士に門を開けさせた。
 
土佐坊たちは、どうやって屋敷内に突入しようかと算段していた所に向こうから門を開けたので、一瞬たじろぐ。
 
義経は馬に乗って、ただ一騎で門の外に走り出る。そして大きな声で叫ぶ。
 
『夜討ちにも、また昼戦(ひるいくさ)にも、義経をたやすく討つべき者は、日本国には見たことないぞ」
 
と言うと、襲撃側の武士たちは皆圧倒されて数歩下がった。
 

警備の武士たちが矢を射かける。密偵たちがちょこまか走り回って敵方の武士の鐙を切ったりするので彼らが落馬する。静と忠信が落馬した武士たちをどんどん薙刀や槍で刺し殺していく。義経は馬で走り回り、乗馬の武士たちを倒して行く。
 
義経側が圧倒的に少人数なのに、やられるのは襲撃側の武士ばかりである。
 
そんなことをしている内に、江田源三弘基と熊井太郎忠基が戻って来た。
 
『おお、心強いぞ』
と佐藤忠信。
 
『俺たちが来る前に片付けておいてもらわないとな』
と江田源三。
 
それでこちらの戦力が少しだけ増すことになる。江田はさっき叱られたこともあり、かなり奮戦した。人数が増えたので、佐藤忠信は静の傍にきて、静を守るように闘った。
 
それで15分くらい戦闘している内に、とうとう弁慶と駿河次郎が到着した。
 
『弁慶だ!』
『弁慶が来てしまった!』
という声が敵陣からあがる。弁慶は挨拶代わりに義経の近くに迫っていた武士を2人、あっさり串刺しにする。
 
『ダメだ。かなわない』
『あいつひとりで百人分くらいあるぞ』
『強すぎだ』
と言って敵兵は逃げ出してしまった。
 
それでこの日の夜襲は失敗してしまったのである。
 
弁慶は『まだ10人しか斬ってないのに』と文句を言っていた。
 

義経が馬を下りてじっとそれを見ていた。
 
『江田?』
と言って駿河次郎が駆け寄った。
 
『私を守って矢に倒れた』
と義経が言った。
 
江田源三弘基が首に矢を受けて絶命していたのである。
 
『源三よくぞ義経を守った』
と言って静(アクア)が彼の遺体を抱きしめて涙を流した。
 
(源三役の簑田くんは「アクアちゃんって女の子みたいな感触だから、抱きしめられて思わず立っちゃった」などと後で言っていた)
 

(**)静御前については、吾妻鏡に書かれている、運命に翻弄される元白拍子という、はかないイメージが世間的には強く印象付けられているが、平家物語に描かれた堀川夜討での静はまさに「かっこいい」静である。この物語のように戦闘にまでは参加していないものの、密偵を放って状況を調べさせたり、義経が甲冑を着けるのを手伝ったりしている。
 
平家物語を読んだ上で吾妻鏡を読めば、あのような“戦う静”なら、頼朝の前でも臆せず強気な歌を歌うのも道理なのだが、おそらく中世にはこういう“強い女”は庶民感情に合わず、あまり話題にされなくなっていったのかも知れない。
 
だいたい吾妻鏡の記述でも、静は義経の行方についてデタラメをまくしたて、聞かれる度に違うことを言って、鎌倉方を混乱させているのである。つまり義経たちを逃がすために静はわざと捕まったともとれる。
 

ヒバリの解説。
 
『土佐坊昌俊は鞍馬山に隠れましたが、鞍馬山は元々義経のシンパの多い場所です。あっという間につかまって、弁慶が連行してきました。土佐坊昌俊は確かに頼朝の命令で義経を襲ったことを自白します。義経は土佐坊が素直に自白したので、頼朝の所に帰してやろうかと言いました。しかし土佐坊は、自分は兵衛佐殿(頼朝)に命を預けた身なので、義経殿を討たないままおめおめと鎌倉には戻れないから打ち首にしてくれと言いました。それで義経は「全くあっぱれな武士である」と彼を褒めて、駿河次郎に命じて斬首させたのです』
 
『義経はもはや頼朝との対決は避けられないと考え、後白河法皇に言って、頼朝討伐の命令を出してもらいました』
 

場面は後白河法皇(藤原中臣)と義経(アクア!)が密会している場面である。後白河法皇は頼朝討伐の命令書を文官に書かせて義経に渡した後、更に義経に鼓(つつみ)を渡した。
 
『これは何か意味があるのでしょうか?』
『鼓ってふつうどうする?』
『鼓は打つものでは?』
『うん。だからそうしなさい』
 
『つまり「打て」と「討て」の掛詞で、義経に頼朝討伐を命じている訳です』
と明智ヒバリは説明する。
 

『義経が頼朝討伐令にもとづき武士を召集したのに対して、頼朝も義経を討つべく御家人を召集します』
 
『ところがこの義経・頼朝双方の武士召集令については、どちらにも兵が集まりませんでした。要するにへたに“兄弟喧嘩”に関わって、自分が味方した方が万が一にも負けると自分の身が危ないと、みんな尻込みしてしまったのです』
 
『やむを得ず頼朝は自ら腹心だけを連れて鎌倉を出て京都に向かいました。しかし義経側も寡兵なので、戦っても仕方ないと考え、いったん支援者の多い西国に退こうとして、11月3日、都落ちします』
 
『この時義経に付き従ったのは吾妻鏡によると、平時実(時忠の子で蕨姫の兄)、一条能成(義経の弟)、源有綱(義経の妹婿)、堀彌太郎景光、佐藤四郎忠信、伊勢三郎能盛、片岡八郎弘綱、弁慶法師ほか300騎とされています』
 
『ところがそこに頼朝のシンパ・太田頼基らが襲いかかります。河尻の戦いです。義経側が一応撃退したものの、義経はここで多くの兵を失いました。更に11月6日、西国に向かおうと乗船した船が暴風雨に遭い、一行はバラバラになってしまったのです』
 

明智ヒバリは語る。
 
『頼朝と義経の対立の原因は今日ではよく分からないという意見が多いです。吾妻鏡は義経が勝手に任官などを受けたからと書いていますが、その任官を頼朝は受け入れている形跡があります。梶原景時の讒言のせいだというのも後世広まった説ですが、梶原景時という人は誰のことも悪く言う人で、そういう人の言葉に果たして頼朝が影響されたかは疑問もあります』
 
『近年強くなっているのは、北条家の意向が強く出たのではないかという説です。要するに北条としては、あまりにも有能で実績もあげた義経が鎌倉の政権に加わった場合、自分たちの好きなようにできないので、排斥してしまったというものです。実際北条は頼朝の死後、残っていた源氏の血筋の者をことごとく攻め滅ぼしてしまいました。更に幕府の中で誰が中心になるのかについても争いが続き、梶原景時の変(1199)・比企の乱(1203)・畠山重忠の乱(1205)などといった事件により、北条氏以外の勢力が排除されていくのです』
 

『義経の船が難破したのが11月6日ですが、頼朝?は11月12日、唐突に義経の正妻ということになっている郷御前の父・河越重頼の所領を没収し、重頼とその子(郷御前の兄)重房を処刑してしまいます。謀反人の妻の父と兄だからという理由ですが、そもそも河越家は頼朝と深い関わりのある家で、そこから郷御前は頼朝側のスパイとして義経の元に送り込まれた人です』
 
『そして頼朝は郷御前の母、この人は頼朝自身の乳母の娘で、頼朝の嫡男・頼家の乳母でもあるのですが、彼女の所を訪れ、彼女を哀れんで、本領である河越荘の安堵を約束し、地元の名主たちにもちゃんと河越尼の指示に従うよう命じています。この河越一族に対する頼朝の行動はどうにも首尾一貫性に欠けます。あるいはこの頃から既に頼朝は鎌倉幕府内での実権があまり無くなっていたのかもしれません』
 
『なお、義経の妻たち、郷御前、蕨姫、久我姫は、義経の都落ちの後は常磐御前の家に保護されたのではないかと言われています。この時期“義経の妻”が1186年に女の子を出産したことが、吾妻鏡には書かれており、通説では産んだのは郷御前ではないかとするのですが、異論もあります(*15)』
 
『しかしそういう訳で平家討伐の英雄から一転して幕府に追われる身となってしまった義経は、船の難波の後、静・弁慶・源有綱・掘景光のわずか4人の伴を連れて吉野の山に紛れ込んだとされます。佐藤忠信は連絡役として京都市内に潜伏しました』
 
『しかし義経たちはこの後1年ほど、後白河法皇の手駒として、頼朝を苦しめることになるのです』
 

ヒバリの語りは続く。
 
『11月17日、河尻の戦いから12日後、義経一行がバラバラになってから11日後、河越重頼らが処刑された5日後、義経一行が吉野の山に潜伏しているという情報があり、吉野山の僧兵たちに捜索の命令がありますが、誰も見つかりませんでした(実際にはあまり捜索する気はない)。ところが夜10時頃』
 
『若い女性が藤尾坂を下りてきて蔵王堂で一休みしていたようでした。こんな夜更けにこんな場所に女性がいるというのは?と思い、僧兵が声を掛けます』
 
『もし御前、そなたどこかにお参りにでも参られたのか?』
と僧兵。
 
『私は九郎大夫判官の妾で静と申します。船が難破して大物浜に打ち上げられてから予州(義経のこと)と一緒にこの山に来て5日ほど滞在しました。しかし衆徒蜂起の噂を聞いたので伊予守(予州に同じ)は山伏に姿を変え、どこか他の所に行くということでした。女は足手まといになるからと言われて、金銀を与えられ、伴に雑色を付けて京に戻るよう言われたのですが、雑色が私から金銀を奪って私を雪の中に捨てて逃げてしまいました。私はやっとのことで山を下りてここまで辿り着いたのです』
 
と静(アクア)が言う。
 
『それは大変でしたね!』
 

ヒバリは語る。
 
『吉野の執行(管理者のこと:演=冬風オペラ)は静にたいへん同情し、鎌倉に送るにしても少し身体を休ませてからにしたいと、義経の後任として京都守護に入った北条時政(演:立川ピアノ)に申し出て認められました。時政の命令で静の証言に基づき義経のいそうな場所を捜索しますが、義経は見つかりませんでした。静は12月8日に北条時政の屋敷に移送されました。そして12月15日の静の証言』
 
簡素な小袖姿のアクアが語る。
 
『予州は都を出て西国に向かうということでしたので同行しました。大物浜から出港しましたが、船が転覆して乗っていた者もバラバラになりました。その夜は天王寺に泊まりました。予州は迎えを寄こすといってどこかに行かれました。しばらく待つと迎えの馬が来たのでそれに乗って進むこと3日して吉野山に至り、予州に再会しました。そこで5日滞在したのですが、また別れることになりました。行き先は聞いておりません。私は雪山を何とか頑張って下りて蔵王堂に到着し、執行様に保護して頂きました』
 
なんか先日話したことと微妙に違っている。
 
ヒバリの解説。
『それで結局、静は鎌倉に送られることになり、2月中旬に京都を出発。母の磯禅師が付き添って、3月1日鎌倉に到着。安達新三郎清常の屋敷に入りました』
 
静(アクア)と磯禅師(演:満月さやか)が馬に乗り、鎌倉方の役人と一緒に道を行くシーンが映る。やがて到着する。
 
静が安達を見て、笑顔で挨拶する。
『新三郎様、お久しゅうございます。ご出世なさったんですね!御家人になられたのですか?』
 
清常(演:森原准太)は焦る。実は頼朝の命令で京都の義経の屋敷で雑色として働いていたことがあるのである。要するにスパイである。静がそんな下っ端の下男の顔まで覚えていたとは思いも寄らなかった。清常は慌てたものの
 
『あの後、頼朝様に拾って頂いたんですよ。まだ御家人の身分ではないのですが、頼朝様のおそばに仕えさせて頂いております』
と答える。
 
『それはよかった。伊予守に仕えてくださっていた方々の行く末を心配しておりました』
と静は笑顔で言った。
 

ヒバリが解説する。
 
『安達は以前間者をしていた負い目もあるので、静と母の扱いは客人として丁寧なものでした。また北条政子が気を遣って色々贈り物などもしてくれたので、静と磯禅師は快適に暮らすことができました』
 
『一方で静は幕府の役人に取り調べられるものの、静の言うことが聞く度に微妙に違うし、肝心なことは忘れたと言うので、役人たちも報告書をまとめられずに困りました』
 
『頼朝は静の処分に悩むのですが、政子が言いました』
 
北条政子(演:高崎ひろか)が源頼朝(演:秋風コスモス)に厳しく言う。
 
『罪人でもない女人をこんなに長期間拘束しているのは頼朝様の人柄を問われますよ。早く解放してあげてください。男同士の争いに女は関係無いではありませんか』
 
『しかしあの女、なかなか口を割らん』
『本当に何も知らないのではないですか?単に足手まといになるから放置しただけでしょう。それにあの子、妊娠していますよ。早く解放してあげなきゃ』
 
頼朝がピクッとした。
 
『だったら、あの女が出産するまで留め置く』
『じゃ赤ちゃんが産まれたら京都に帰しますか?』
『産まれた赤ん坊が女だったら許す。しかし男ならその赤子は殺す』
『頼朝殿が赤子を恐れるのですか?』
『成長すれば我にわざわいをなすかも知れない。実際私や義経は清盛殿に情けを掛けられて、その後平家を倒した。同様のことを繰り返してはいけない』
『あら、だったら頼朝様を先に殺してしまいましょうか?』
などと政子が言うので、頼朝は不愉快な顔をした。
 

ヒバリは語る。
 
『北条政子はかなり頑張って、静が産んだ子供が男の子であっても助命するよう説得を試みたのですが、頼朝の意向は覆りませんでした』
 
そして安達邸。
 
北条政子は人払いをして、政子(高崎ひろか)と静(アクア)の2人だけで話していた。話を聞いた静は戸惑うように言った。
 
『私、妊娠とかしてないんですけど』
『妊娠していると言った方が情けを掛けてもらえるから、そういうことにしたのよ。だから赤ちゃん産んだら京都に戻れることになったから』
 
『妊娠もしてないのに、どうやって産めばいいのでしょう?』
『それは適当な赤ちゃんを調達するから』
『でも男の子だったら殺されるんでしょ?』
 
『うん。だから女の赤ちゃんを調達する。ちょうど夏頃に赤ちゃん産みそうな女が3人ほどいるのよ。3人もいれば誰かは女の子を産むと思うから、その子を身代わりにする。そのあたりは私の腹心の女房にやらせるから』
『分かりました。お任せします』
 

『それと4月に頼朝が鶴岡八幡宮に参拝するのだけど、その時にあなた、白拍子の舞を舞ってくれないかしら?』
と政子(高崎ひろか)は言った。
 
静(アクア)は厳しい顔をして断る。
 
『私は伊予守の妾です。もはや白拍子ではありませんから、衆人の前で舞を舞うのは恥辱です』
 
『私もそう思ったんだけど、頼朝と言い争いをしていて、そういう話が出てきて。あなたが白拍子ではなく、義経殿の奥様であることは私も認識している。でも舞の名人がこの鎌倉の土地に来ていて、源氏の守り神である八幡大菩薩にその舞をお目に掛けないのも惜しい。これは私からもお願い』
 
ヒバリの解説。
『静はかなり渋ったものの、政子が静の身を守ろうと努力している気持ちは伝わってきたので、これに同意するのです』
 

《文治2年4月8日》というテロップが流れる。
 
静(アクア)が白い水干を着ている。
 
つまり静は男装している!
 
白拍子というのは男装して舞うものである。
 
テレビを見ていてこちらの政子が「アクアちゃんの男装だ」と騒いでいるが、テレビの中の北条政子(高崎ひろか)も見とれて『格好いい!』と呟いた。
 
(このセリフは台本には無かったもので、ひろかが思わず言ってしまったものをそのまま生かすことにした)
 
義経の側室が舞を舞うというので、伴奏陣が豪華である。工藤左衛門尉祐経が鼓を打ち、畠山次郎重忠が銅拍子を打つ。工藤は元々楽を得意としており、また畠山重忠は元々義経に同情的だったこともあり、この役を買って出たらしい。
 
(なお、畠山重忠役は富士川の戦いの所にも出ていた、オーディション選出の勝沢さん、工藤祐経役はやはりオーディション選出の金井さんである。ふたりともオーディションの時に実は和楽器の演奏ができる人という枠で合格している)
 

静が歌を歌う。
『よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき』
 
「吉野山」と「義経の山」が掛詞になっている。そして自分は義経を愛していると歌っている。これに頼朝は激怒するものの、北条政子は『健気ではないですか。私があの子の立場でもこのように言いますよ』というので他の人たちも静の覚悟を褒め称えた。
 
更に他の曲を歌いながら舞を舞ったあと、更にこのような歌を歌う。
『しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな』
 
自分の名前「静」と糸の「倭文(しづ)」を掛けている。「をたまき」は苧環。糸を巻いたもので、時の経過を表している。義経が頼朝と仲良くやっていた頃に戻れたらと歌っている。これも他の人がみんな頼朝におもねる発言ばかりする中で、はばからずに義経を慕う姿に、多くの人が感動したのである。
 
頼朝(秋風コスモス)が不機嫌そうに言う。
『八幡宮の神前で芸を見せるのに、誰もが関東万歳を言っている中ではばからずに反逆の義経を慕う歌を歌うとは大したもんだ』
 
それに対して北条政子(高崎ひろか)は言う。
 
『あなたが流人として伊豆に流された時、私とあなたが思いを通わせ、父時政でさえ、平家の勢いをはばかって、あなたと八重姫との子供(千鶴丸)は殺されましたし。そんな中、私は父の目を盗んで、闇に紛れ、大雨の中、あなたの所に通いました。また石橋山の戦いでは(敗戦した後)あなたとはぐれてしまい、あなたが無事かどうか知るすべもなく心細い思いでした。あの時の私自身の気持ちを思えば、今の静の心と同じです。もし彼女が伊予守(義経)から長年愛されたことを忘れたとしたら、それこそ貞女の姿ではありません。あっぱれと褒めてあげましょうよ』
 
いつも政子に頭のあがらない頼朝なのだが、この時は政子の優しい言葉に頼朝も怒りを収め、自分の卯花重の御衣を出して静に渡してあげたのであった。自分の衣を渡すというのは、平安時代には一般的な、称讃を表す行為である。
 

ヒバリは解説する。
 
『静はその後、5月27日には、北条政子の娘・一幡に乞われて南御堂(勝長寿院)でも舞を奉納しています』
 
『それに先立つ5月14日には静親子が滞在している安達清常の屋敷に、鶴岡八幡宮の舞で伴奏した工藤左衛門尉祐経、梶原景時の息子・梶原三郎景茂、千葉常胤の孫・千葉平次常秀、八田太郎朝重(詳細不明)、頼朝の右筆の藤原判官代邦通など、多数が押し掛けてきて宴会を始めてしまったことがありました』
 
『歓迎して静の母・磯禅師が舞を舞ったのですが、この時、酒に酔った梶原景茂が静にエロチックな言葉を掛け、静が怒るシーンもあったと吾妻鏡には書かれています。吾妻鏡は鎌倉幕府側の記録なのに、義経にはほんとに同情的で、梶原一族は悪者という立場なんですね』
 
『さて、京都の方では義経の義弟・源有綱(高島瑞絵@リセエンヌ・ドー)が、6月16日、奈良の宇陀に潜伏していた所を北条時定の手勢に発見され殺害されました。更に7月25日には伊勢三郎義盛(南田容子@リセエンヌ・ドー)が、発見され梟首されました(*16)』
 
「なんかさりげなくナレ死」とネットでは追悼のメッセージが書き込まれていた。
 

(*16)「玉葉」巻46・文治2年7月25日(庚子)の記事に「九郎義行郎徒、伊勢三郎丸梟首」とある。「義経記」では伊勢三郎は義経の北行(文治3年2月)に同行し、衣川館で死んだことになっているのだが、義経記はあくまで小説でもあるし、玉葉の記事のほうが信頼できると思われるので、こちらの記述に従うことにする。
 
資料の信頼度としては、玉葉が最も信頼でき、吾妻鏡はそれより少し落ちるが、この2つがこの時期の記録としては最も信頼性が高い。
 
義経記は他の資料と比較して、あまりにも違いのある記述が多く、内容はほとんど信頼に値しない。例えば静が鶴岡八幡宮で舞ったのは出産の後ということになっている。工藤祐経の妻が口説き落として舞わせたとするが、そちらは或いは本当かも知れない。例によって最初に梶原景時が高圧的な態度で舞を命じて静が拒否したが、頼朝の意向に従わない者が居るという既成事実を作りたくないので工藤に改めて説得役を命じたとある。やはり梶原景時はどこの本でも徹底的に悪役である。
 

《文治2年閏7月29日・安達清常邸》というテロップが流れる(*17).
 
ヒバリの解説。
『静、母の磯禅師、大姫(一幡)の侍女・蜜局君、それに北条政子が寄こした腹心の産婆が産屋に集まっています。出産なのだからと言って清常など男どもはここには近づかないように言っています』
 
『ここしばらくお腹に詰め物をして妊婦を装うのが大変でした』
と静(アクア)が言う。
 
『出産なさいましたらお腹も引っ込みますから、今夜までですね』
と産婆(オーディション選出の八坂さん)。
 
『ところで身代わりを務めてくれる女の赤ちゃんというのは、どなたの子供なのですか?』
と静が尋ねる。
 
『それなんですが、実は赤子に身代わりを務めさせることを同意してくれていた女房3人の内1人が昨夜、死産したんです』
と蜜局君が言う。
 
『あらぁ』
『赤子は男の子でした。ですから結果的に身代わりとしては最適になります。母親は亡くなったゆえに手放したくないようでしたが、御台所様(北条政子)が説得して、身代わりとして出すことを同意して下さいました』
 
『それはお気の毒でした。自由の利かぬ身なのでお見舞いできませんが、よろしくお伝え下さい』
と静(アクア)。
 

テレビを見ていて政子が騒いでいる。
 
「ね、ね、なんで上田雅水くんが大姫の侍女役をしてる訳?」
と訊く。
「それは大姫の侍女だからだと思うよ」
と私は答えた。
 
「そうやって義高を助けたんだ?」
「さあ」
「でも女を装うには、最低でも玉は取った方がいいよね?」
「玉を取ったら大姫が困ると思うけど」
「そこは何とかテクニックで」
 
この件は多くの視聴者が驚いたようだが、番組では敢えて解説はしなかった。
 

(*17) 文治2年閏7月29日はグレゴリウス暦では1186.9.21で、この出産日から逆算すると、受精日は1185.12.29となり、これは文治元年11月29日である。しかし静が吉野の執行に保護されたのは11月17日である。つまりこの御産は予定日より最低12日以上遅れた晩産であることになる。いくら義経と静が大胆でも、吉野の執行に拘束されている間に密会していたことはないであろう。
 
恐らくは、2度と会えないかも知れないという状況の中でお互いに激情の中で熱く愛し合った最後の夜に受精したのであろう。
 

安達清常が数人の侍と一緒に宴会をしているシーンが映る。多くの友人たちが酒を飲んでいるが清常は飲んでいない。今から場合によっては赤ん坊を殺さなければならないと思うと、憂鬱な気分で酒など飲む気にはなれないのである。戦場では多数の武士を斬ってきた彼だが、赤ん坊を殺すのは何とも罪悪感が大きい。
 
『しかしまだ産まれないのかな』
と言って清常は立ち上がり、産屋の様子を見に行った。
 
ところが庭に何かを抱えている女がいるのに気付く。
 
『何者だ?』
と清常が訊く。
 
『いえ、私は怪しいものでは・・・』
と答えるのはオーディション選出の三田さんという高校生である。ローカルな集団アイドルに所属しているが演技力があったので採用した。公的書類の確認などはしていないが、たぶん女子で、女子高生だろう。
 
『充分怪しい。何を持っている』
と問い詰める。提灯の灯りを近づけると、おくるみに包んだ赤ん坊のようである。
 
(清常は赤子を産屋から連れ出した所と思ったのだが、実は連れ込もうとしていた所)
 
『赤ん坊が産まれたのか?男か?女か?』
『えっと・・・』
『貸せ』
と言って清常は提灯を投げ捨てて両手で赤ん坊を奪取しようとするが、女はなかなか渡さない。
 
『渡さないということは男だったな?渡さないと斬るぞ』
 
騒ぎを聞きつけた磯禅師(満月さやか)が産屋から飛び出してくる。
 
『赤子を渡しなさい』
と磯禅師が命じて、赤ん坊をおくるみごと女から取り上げる。
 
清常が赤子の股間に触る。
 
『付いてる。確かに男だ。こちらによこせ』
『はい、申し訳ありません』
と言って磯禅師が赤ん坊を安達清常に渡した。
 
清常はその赤ん坊を抱えると、近くの崖まで走り、赤ん坊を崖の下に向けて投じた。
 
彼は大きく息をつき、それから崩れるように座り込むと泣いてしまった。
 
追いかけて来た磯禅師(満月さやか)と蜜局君(上田雅水)が悲しんでくれている清常の姿に涙していた。
 

「ここのシーン、赤ん坊を抱えて出てくるのが蜜局君の役でさ」
と私は言った。
 
「うん」
「言い争いから安達清常はその女房を斬ってしまうという台本だったんだよ。最初は」
「え〜?」
と政子が声をあげる。
 
「その結果、大姫は恋人をほんとうに失ってショックで寝込み衰弱死する」
「それは悲劇がすぎる」
 
「昔の年末年始の大型時代劇でそういう場面があったのを脚本家さんが覚えていて、同じ筋立てにしようとしたんだけど、撮影現場で、満月さやかさんが『ここは殺される必要無いと思います』と言って、それで検討した結果、清常は蜜局君を殺さないことになった」
と私は解説する。
 
「それがいいと思う」
と政子も同意した。
 

ヒバリの解説
『出産から少しおいて身体を休めた上で、静と磯禅師は9月16日、解放されて京都に戻っていきました。北条政子と大姫が静を気遣って、多数の品を持たせてあげました。正史では静に関する記述はこれで終わっています』
 
『静たちは半年に渡って自分たちを泊めて親切にしてくれた安達清常に感謝の言葉を掛けましたが、清常は静の産んだ子供を殺したことに罪悪感を持っていたので「申し訳なかった」とあらためて謝りました。磯禅師は「お役目だから仕方ないです」と彼を気遣いました』
 
『静が京に向けて旅だってすぐ、京都では義経の部下の掘景光(マツ也)と佐藤忠信(今井葉月)が相次いで捕縛され殺害される事件がありました。景光は少年時代の義経が平泉に初めて行った時同行してくれた人ですし、佐藤忠信は兄弟のように仲が良く、本当に義経に献身してくれた人で、義経は彼の死に涙しました』
 
このヒバリのナレーションに『え〜〜!?葉月ちゃん、まさかのナレ死!』
と驚きと追悼のツイートが多数なされた。
 

市女笠を持ち、壺折った袿(うちき)を着た旅姿の静は一軒の家に入ると
 
『疲れたぁ!』
と声をあげた。
 
『お疲れ様でした。鎌倉はどうでしたか?』
と声を掛けたのは弁慶(品川ありさ)である。
 
『頼朝殿はあれは長くないな』
と静は言った。
 
『ご病気か何か?』
『頼朝殿の一番の腹心であったはずの河越殿親子が誅せられ、本当の味方は誰も居なくなった。もう鎌倉の中心は北条時政だ』
と静(アクア)は言う。
 
『郷御前はたいそう心を痛められて寝込んでおられるそうです』
『河越に返してやりたいが、あそこも危ない。母君(常磐御前)の元に置いておくのがよいだろう』
『蕨姫はどうでしょうか?』
 
『能登まで同行しようかと思う』
『なるほど』
と言ってから弁慶は静に尋ねた。
 
『いつ出発しますか?』
『3日後に発つ。同行できる者を集めよ』
『分かりました』
 

テレビを見ていた政子は混乱している。
 
「ねぇ、これ静だよね?」
「そうだけど」
「話している内容がまるで義経なんだけど?」
「まあそういうこともあるかもね」
 
ネットでも随分混乱している書き込みが多かった。
 

一行は深夜すぎに、その家を旅立った。
 
一行は、義経のほか、静(アクア)、武蔵坊弁慶(品川ありさ)、常陸坊海尊(木取道雄@Wooden Four)、鷲尾三郎義久(木下宏紀)、海野五郎浪安(坂田由里)、の合計6名である(*18).
 
義経以外の6人は山伏姿(アクアも男装の山伏姿)、義経だけはできるだけ顔を隠させるために強力、つまり荷物持ちということにした(実際顔が見えない)。
 
ヒバリが解説する。
『山伏姿を選んだのは、坊さんに化けた場合、髪を剃らなければならないのが面倒ですし、行き先を詮索される可能性があるものの、山伏なら「熊野の山伏が出羽に行くところ」とか「出羽の山伏が国に帰る所」などと言えるからというのがありました。また弁慶によく似た讃岐坊という山伏が出羽にいることから、弁慶は彼を装うことにしたのです。他の者も適当な名前を名乗ることにしました』
 
『結局蕨姫は別行動をとることにし、武士ではなく公卿なので“お尋ね者にはなってない”義経の弟である一条能成(山口暢香)の手の者が同行して能登国にいる父親・平時忠の許へ落ちていくことになりました。彼女は元々行動の自由がありますし、父親の所へ行くのに人にはばかることはありません』
 
(なお義経シンパである蕨姫の兄・平時実は上総国に流されている。鎌倉の近くなので近寄れない。彼は義経が奥州で倒れた後、京都に戻され官位にも復している)
 
『また義経たちは自分たちの居所を推察されにくいように、囮の一行も仕立てました。この囮のパーティーはこのような面々でした』
 
千光坊七郎、亀井六郎重清(佐藤ゆか)、駿河次郎清重(大崎志乃舞)、熊井太郎忠基、片岡太郎常春、備前平四郎房成[義経役]。
 
『亀井と駿河がこちらに入ったのは2人は義経の郎党としてわりと顔が知られているからです。鷲尾と海野はわりと新しく義経の家人になった人なのであまり顔が知られていないことから本物のパーティーに参加しました』
 

(*18)義経の北行に同行した伴は、物語により異なっている。
 
義経記では全部で16人で、増尾七郎、片岡(経春?)、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、伊勢三郎、熊井太郎、鷲尾三郎、亀井六郎、駿河次郎、といった面々を含む。その他に久我大臣の娘とその従者の兼房が付き従うことになる。あまりにも大人数で目立ちすぎである。ただ義経記は最初に16人と書いていたのに、久我姫が加わった後も16人と書いている。
 
能の『安宅』では、弁慶・義経・強力のほか9人とされるから全部で12人。これも多すぎる。
 
歌舞伎の『勧進帳』では、武蔵坊弁慶・源義経・亀井六郎・片岡八郎・駿河次郎・常陸坊海尊の1行6名である。目立たないように行動するなら、このくらいが限界。むしろこれを3人ずつ2組に分けたいくらいである。
 
 
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【クロ子義経】(4)