【クロ子義経】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2019-04-21
2019年12月30日(月)、政子は控室のテレビを点けた。
「始まるよ、始まるよ」
と楽しそうな顔で言う。
テレビの画面に大きく
『Matsushiba Denki Presents』
『§§Music Produce』
『The源平記』
『Staring』
と表示された後で
高 ア 品
崎 川
ひ ク あ
ろ り
か ア さ
のように表示された。
「3人を並列にするのに苦労(くろう)してるね」
と私が言うと、政子は
「うん、九郎(くろう)義経の物語だよ」
と言った。
話が通じていない!
先の3人の名前の並べ方は、左から読めば高崎ひろかがメイン、右から読めば品川ありさがメイン、しかし中央が主と考えるとアクアがメインに見える。きっとかなり悩んでこの方式を採ったのだろうと私は考えた。
政子は「“くろう義経”と言うより“くろこ義経”だよね」などと言っている。
ドラマは冒頭、大きな満月が映り、やがて古風な橋が映る。そこに僧兵の格好をした品川ありさが映った。
「あ、やはりありさちゃんが弁慶なんだ。なんてったって、あの子背が高いもんね」
と政子は言っている。私は内情を話した。
「確かに最初、弁慶は背の高いありさだろうとみんなが思っていた。ところがそこに高崎ひろかが異論を挟んだんだよ」
「へー」
「ありさちゃんって背が高いから、しばしば男役とか、時にはオカマ役とかやらされて可哀相だって。だから自分に弁慶をやらせてくれって」
「でもひろかちゃんはアクアと大差無い背丈だよ」
「うん。でも高下駄履いて頑張って弁慶の演技をしてたんだよ」
「すごーい」
「それで少し撮影が進んだ所で、足くじいちゃってさ」
「あぁ」
「それでコスモスが『やはり高下駄で弁慶の激しい動きは無理だ』と言って」
「そんな気がする」
「そしたら、ありさ自身も『ひろかの友情には感謝するけど、やはりここは自分の役どころだよ』と言って、結局ありさが弁慶をすることになって、ひろかは北条政子をすることになった」
「あ、北条政子なんだ?」
「ひろかが弁慶の場合は、ありさが頼朝をして、北条政子は西宮ネオンの予定だったんだけどね」
「なんでネオン君が女役なの〜〜〜!?」
「だって§§ミュージックって女子ばかりなのに、それがみんな男役でしょ?だから、数少ない男子に女役をさせようかという話があって、北条政子がネオン、建礼門院が篠原倉光、浄瑠璃姫が上田信貴とか」
「なんか趣旨がおかしくなってない?」
「でもありさを弁慶に戻すのと同時に、彼らは女役ではなく平家の武将をしてもらうことにした」
「上田信貴くんのスカート姿可愛かったね」
「まだ中学生だからね〜」
弁慶が橋の所に立っていると、やがて横笛の音が聞こえてくる。ありさの弁慶が「ん?」という顔をすると、やがてカメラは黄色い小袖を着て肩くらいの長さの振り分け髪の人物が横笛を吹きながらやってくるのを撮す。
「きゃー!!!アクアちゃん!!!!可愛い!!!!!」
と政子が叫ぶ。
「ね、ね、牛若丸は女の子という設定なの?」
「まさか」
テレビの中では弁慶(品川ありさ)がその人物を呼び止めた。
『おい、娘。お前何だか立派そうなモノをぶら下げているな。女にはふさわしくない。ここに置いていけ』
『あいにくぶら下げているようなモノは無いが』
と牛若丸(アクア)が答える。
この発言はかなり物議を醸(かも)した。ツイッターにはこの発言の直後に《つまり、ちんこはぶらさがってないってこと?》
《やはりアクア様におちんちんなんかあるわけ無いよ》
などという書き込みが大量に発生した。
『違う!股座(またぐら)には一物など無いだろうけど、その腰に下げている刀だよ』
と弁慶(ありさ)。
(ここでネットはまた『やはり無いんだ!』と騒ぐ)
『ああ。これか。これはぶらぶら揺れないようにしっかり留めてあるが』
と牛若丸(アクア)。
『だからそれをよこせ』
『何のために?』
『書写山のお堂が焼けてしまったから、再建するのにお金が要るんだ。だから俺は1000人の刀を奪い取って、それを再建費用にしようと思った。これまで999人から刀を奪った。お前から奪えば1000人目で大願成就だ』
『お堂の再建のために勧進をするのはよいが、だからといって他人の物を奪うというのは頂けないなあ』
『俺も心苦しいが、お堂再建のためだ。如意輪観音様もこの程度はお許しになるだろう。だから娘、怪我しない内に刀を置いていけ』
『嫌だと言ったら?』
『女相手に手荒なまねはしたくないのだが』
と言って、弁慶(品川ありさ)は手に持った薙刀を鞘(さや)の付いたまま、バトンでも回すかのようにぐるぐると回し始めた。
「これ、すごーい!」
とテレビを見ながら政子が言う。
「うん。スポーツウーマンのありさだからできるワザだよ。あの子軽く100回くらい腕立て伏せするし。これできたのは、他には西宮ネオンだけ。だから、ひろかが弁慶やる場合は、このシーンだけネオンが吹き替えすることも検討したんだけどね」
「へー。やはり女の子の衣装付けて?」
「弁慶は女の子衣装は無いと思うけど」
「そうだっけ?」
テレビの中の弁慶は薙刀を振り回しながら牛若丸に近づいてくる。しかし牛若丸は動じない。弁慶が回していた薙刀を止め、(鞘の付いたまま)
『エイヤ!』
と声を上げて突いてきた。しかし牛若丸はひょいと飛び上がると、橋の欄干の上に飛び乗った。
『意外と身軽だな』
と言って弁慶は再度、その欄干に乗った牛若丸の足元をすくうようにする。すると牛若丸はさっと飛び退き、橋の中央に立つ。そこに弁慶が薙刀で突くと今度は反対側の欄干に飛び移る。
「これ特撮?」
と政子がテレビを夢中になって見ながら訊く。
「飛び上がる所、欄干の上に着地する所、を撮って繋ぎ合わせている。だから実際には欄干のすぐそばから飛んでいるんだよ」
「へー。それにしても凄い」
「念のため欄干の外側にはマットを敷いている」
「ああ、それは敷いてて欲しい」
「でも1度も転落しなかったよ」
「さっすが。アクアってわりと運動神経いいんだね」
「だと思うよ」
弁慶が薙刀で突いたり払ったりし、それを牛若丸が飛んで避けるというシーンは1分くらい続いた。政子は息を呑んで見守っている。
さすがに弁慶の息が上がってきた。するとそこにアクアが鮮やかに素早く刀を抜くと、弁慶の薙刀の柄を切断してしまった。
『あっ』
と言って弁慶が切られた薙刀を捨てる。
『娘、俺はお前を見直した。こんな凄い奴に出会ったのは初めてだ。もはや俺はお前を女とは思わん。真剣勝負だ』
と言って弁慶が刀を抜く。
『えっと、私は女ではないのだが』
と牛若丸。
『うん。お前は男並みだ』
と言って、弁慶が刀で斬りかかるが、牛若丸はこれも交わしてしまう。そしてまた欄干の上から橋の上へ。また、反対側の欄干へと飛び回って、弁慶の刀は空を切るばかりである。牛若丸の方は自分の刀を鞘に収めてしまっている。『こら、刀を抜け』と弁慶は言うが、牛若丸は抜かない。
「これどこの橋の上で撮影したの?古風な橋だけど」
とテレビを見ている政子が訊く。
「セットだよ」
「セットでこんなの作ったんだ?」
「最初、古風な木橋のあるお城とか神社とかに照会したんだよ。でも欄干の上に飛び乗ったりして、欄干が壊れたら困るし、そういう撮影をしていて俳優さんが橋から転落しても責任持てないと言われて」
「確かに転落事故は怖い」
「それで大人の男が飛び乗っても平気なくらい丈夫な橋の橋桁・欄干を建設会社に頼んでスティールで作ってもらって、その上に大道具係の人が木の薄板を巻いて古風な感じに仕上げたんだよ」
「すごーい。だったらお金掛かってるね?」
「うん。この橋のセットだけで1500万円かかった」
「きゃー!」
刀を持った弁慶と牛若丸の対決がまた30秒ほど続く。そして相手にかわされてばかりいる弁慶の息が荒くなってきた頃、突然牛若丸は弁慶の左斜め後ろに来る。『あっ』と声を出す間も無く、牛若丸は弁慶の手首をぐいっと握り、その刀を奪い取ってしまった。
『しまった』
と弁慶。
『勝負あったかな』
と牛若丸。
弁慶は牛若丸の前にひれ伏した。
『娘、参った。首をはねるなり、なんなり、好きにしてくれ』
『仏に仕える身でありながら、このような悪行をするとは。全く危ない奴だ。名を名乗れ』
『紀伊国で生まれ、播磨国で育ち、一時は比叡山で僧兵をしておりました武蔵坊弁慶と申します』
『だったら弁慶。私の家人(けにん)になれ。一生を私のために献げよ』
『はい、姫様の部下になり、姫様に一生を捧げます』
(個人的に貴人に仕える者を“家人”、代々その貴族家に仕える家の者を“家来”という。特に頼朝以降、鎌倉幕府に仕える武士を“御家人”と呼ぶことになる)
『えっと。私は女ではないのだが。私は左馬頭・源義朝の九男、義経である』
『へ?』
『だからそなたは今後、源九郎義経の家人(けにん)である』
『え〜〜〜!?』
と弁慶(ありさ)は声をあげてから小さな声で言った。
『ほんとに男なの?』
『男だけど』
『じゃ、ちんこあるの?』
『あるけど』
『それだけは絶対嘘だ!』
(ネットでは《ありさの見解に賛成》という声が圧倒的であった)
ナレーターの明智ヒバリが登場して源平の戦いの始まりを語った。
『長く続いた平安時代も11世紀半ばになると藤原摂関家の力が衰え、やがて白河天皇が幼い皇子・堀河天皇に譲位して院政を始めます。白河上皇の後は鳥羽天皇が更に院政を敷きますが、その鳥羽天皇が1156年に亡くなった後、権力の座を巡って、崇徳上皇と後白河天皇が対立し、両者は武力対決となります。崇徳上皇が源為義・源為朝・平忠正らの武士を集めていた所に、後白河天皇方の源義朝・平清盛らが7月11日未明急襲して相手方を拘束してしまい、あっけなく決着が付いてしまいました。“いい頃狙った”保元の乱です』
『乱の後は学僧の信西(しんぜい)が権力を掌握し、崇徳上皇を讃岐に流罪にして、崇徳方の武士たちを全員死刑にしてしまいます。日本で死刑というものが行われたのは346年ぶりのことでした。この時、平忠正の死刑は甥の平清盛に執行命令が、源為義と5人の息子は為義の息子である源義朝に執行命令が下りました。義朝は自分の武功を返上するから父や弟たちを助命してくれと懇願しましたが、理論家で法律論に詳しく弁も立つ信西には言い勝てず、泣く泣く父と5人の弟を斬りました』
『乱の後は信西を中心とした新政権が運営されていきますが、強引なやり方に反発する人たちが増大しました。その中に二条天皇親政派、後白河上皇院政派がありましたが、平清盛らは中立を保っていました。1159年(*1)12月9日、反信西派の中心・藤原信頼は、都の治安を守っていた平清盛が熊野に参詣に行った隙を狙い、源義朝らに命じて、信西の居る三条殿を急襲してクーデターを起こします。信頼らは二条天皇と後白河上皇を拘束し信西の息子たちを捕縛しました。信西自身は逃亡したものの逃げられぬと悟り自死しました』
『ところが平清盛が戻って来ると、12月26日、二条天皇と後白河上皇は軟禁されていた場所から脱出し、平清盛の屋敷に逃げ込みました。そのため信西を倒した源義朝や藤原信頼たちは賊軍ということになってしまいます。彼らは平清盛の軍勢にあっけなく捕らえられ、或いは殺されてしまいました』
『この時、源義朝とその息子の長男義平、次男朝長、四男義門が死亡。三男の源頼朝(みなもとのよりとも)と五男の源希義は伊豆・土佐に流罪となりました。六男の源範頼は元々遠江国(静岡県)におり、存在を知られていなかったため連座を免れています。そして七男の今若・八男の乙若・九男の牛若の3人は生母の常磐御前が連れて都を脱出しました』
※源義朝の子供たち
1.源義平(母:三浦義明の娘)平治の乱の戦闘で死亡。
2.源朝長(母:波多野義通の妹)平治の乱で死亡。
3.源頼朝(母:由良御前)池禅尼の嘆願により助命。伊豆に流罪。
4.源義門(母:由良御前)平治の乱で戦死。
5.源希義(母:由良御前) 土佐に流罪。
*.坊門姫(母:由良御前)女性なので処罰対象外。彼女の曾孫の藤原頼経は実朝死亡後、鎌倉4代将軍となった。
6.源範頼(母:池田宿の遊女)遠江国で生まれ育つ。
7.阿野全成(今若丸:母は常盤御前)醍醐寺にて出家。
8.源義円(乙若丸:母は常盤御前)園城寺で出家。
9.源義経(牛若丸:母は常盤御前)出家拒否!
(*1) 三条殿急襲は平治元年12月9日で、実はこの日はユリウス暦では1160年の1月19日になります。しかし平治元年の大半が1159年に重なっているため、社会の教科書などでは、平治の乱が起きたのは“いい刻に起きた”1159年とされています。
明智ヒバリの解説は続く。
『平治の乱の後は、二条天皇の側近も後白河上皇の側近も多くが賊軍として捕らえられあるいは殺されたため、代わって平清盛が政治の実権を掌握することになります。ここで武家政治が始まったのです。また平治の乱で源氏の中心人物の多くが死亡したため、世は平氏の天下となり、二位の尼(清盛妻)の弟・平時忠が“平氏にあらずんば人にあらず”と暴言するような状態になります』
『3人の幼い息子を連れて脱出した常磐御前は捕らえられますが、平清盛は彼女の美貌に驚き、彼女に自分の妾になるよう言います。息子たちの命も掛かっているので常盤御前は応じますが、清盛と常磐御前の間に生まれた女の子が廊御方で、お母さんに似て絶世の美女だったそうです。彼女は平家一門と一緒に行動し、後に壇ノ浦の戦いで建礼門院などと一緒に保護されています。もっとも清盛は祇王の物語でも分かるように女にすぐ飽きるので、常磐御前はその後、一条長成と再婚し、一条能成ともうひとり女の子を産んでいます。一条能成は源義経の弟として、平泉まで義経と行動を共にしました。彼は平泉での戦いの時はたまたま京都に来ており、義経の家人の中で数少ない生存者となって、頼朝の死後は官位に復帰しています』
『常磐御前が源義朝との間に産んでいた3人の男の子のうち上の2人・今若丸と乙若丸は醍醐寺・園城寺で出家させたのですが、幼い牛若丸はまだ出家には早いだろうと、出家しないまま鞍馬寺に預けられました。しかし牛若はこの鞍馬寺で、幼い頃からカラス天狗たちに武芸を仕込まれます」
ここで§§ミュージックの練習生ではあるが、まだ“信濃町ガールズ”にも入っていない小学2年生の渡辺灯美ちゃんがアクア同様に小袖に垂髪姿で、カラス天狗の面を付けた山伏衣装の人たちと剣術の練習をしているシーンが映る。
山伏の役をしているのは時代劇の殺陣(たて)専門の役者さんたちである。渡辺灯美ちゃんは実は幼稚園の時から剣道を習っているので、剣術の練習が様になっている。実はそういう特技を持っていたので採用したのである。
「ね、ね、かわいい子だね。やはり男の娘?」
と政子が訊くが、私は
「女の子だけど」
と答える。それで政子は
「なーんだ」
とがっかりしたように言った。
『やがて成長した牛若丸は勝手に自分で元服して義経の名前を名乗ります。これは父の名・義朝から1字、清和源氏の祖先である経基王(清和天皇の孫*2)から1字づつ取ったものです』
『彼は、母・常磐御前の新しい夫となった一条長成の親族(*3)である奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って平泉に行きました。この道の途中、矢作宿(愛知県岡崎市)で義経は兼高長者に歓迎され、その娘・浄瑠璃姫と夜を共にします。浄瑠璃姫は義経の旅に同行することを希望しましたが、厳しい旅なので断念し、義経は自分の愛用の笛を与え、印としました』
ここでアクアと浄瑠璃姫役の原町カペラが見詰め合っている様子。愛用の笛を渡すシーン。そして旅立って行く義経をカペラがじっと見詰めるシーンが映る。
『義経は奥州藤原氏の元でしばらく過ごしていましたが、やがて藤原秀衡の勧めで今日では“狐忠信”で名高い佐藤忠信の妹・浪の戸姫と結婚しました』
ここでアクアと浪の戸姫役の山下ルンバが結婚式を挙げるシーンが映ると、ネットには女性ファンたちの悲鳴が書き込まれる。
「山下ルンバは今日女性のアンチを1万人くらい作ったね」
と政子がいうが
「だからルンバが引き受けたんだよ。若い子がやったら可哀想だもん」
と私は説明する。
「なるほどー。偉い」
「ついでにアクアとルンバの年齢を考えるとカップルとして成立しにくい」
「それもいえる!」
と言いつつ、私は桜木ワルツと今井葉月の関係は怪しいよなと思った。ワルツは葉月のお姉さん代わりを自称しているが、葉月側はむしろお母さんのように慕っている。そしてワルツ側は自分で姉代わりと言いつつも、姉弟(姉妹?)以上の感情を持っているようにも見えるのである。
『義経が京都の五条天神で弁慶と出会ったのは彼が平泉に行った2〜3年後のことで、当時義経は平泉を本拠地としながらも、時々都の様子を探りに来ていたものと思われます。そんな時に弁慶という貴重な戦力を獲得することができたのです』
『なお、義経と弁慶が出会った場所は、唱歌では五条大橋となっていますが、実際にはその近くの五条天神であったそうです。しかし天神の境内で立ち回りをすると迷惑なので両者同意の上、近くの五条大橋に移動して戦ったともいいます。この五条大橋は現在の五条大橋より少し北側の、現在の松原大橋の場所にありました。現在の松原通りが当時は五条通りと呼ばれていました。実際五条天神に面した通りが松原通りです』
と明智ヒバリは地図を指し示しながら説明した。
(*2)経基王の父は清和天皇の皇子・貞純親王とされ、そのためこの流れを清和源氏といっていたのだが、近年、実は経基王の父は陽成天皇の皇子・元平親王なのではという説が強まっている。陽成天皇の子孫なのに何故清和源氏を名乗ったのかというと、陽成天皇が宮中の女性たちに裸で舞をさせるなど変態的趣向のあった人で、その子孫を名乗るのが恥ずかしかったので、陽成天皇の父である清和天皇の子孫であると名乗ったという説である。
遍照僧正の『天つ風、雲の通ひ路吹き閉ぢよ、乙女の姿しばし留めむ』というのも実はこの宮中の女性のヌードダンスの様子を歌ったものではという説もある。曇ると女性の姿がよく見えないので、月を隠さないでくれ、ということである。
(*3)藤原秀衡は、一条長成の伯母の曾孫の夫に当たる。
明智ヒバリは続いて義経と弁慶が出会った後のことを語る。
『義経が平泉に行ったのが1174年、京都に偶然出て来たところで弁慶と出会ったのが1176年か1177年くらいなのですが、1180年には後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏打倒の宣旨を出します。以仁王自身の蜂起は失敗したものの、この宣旨を源義朝の弟で、頼朝や義経の叔父にあたる源行家が全国に伝え歩き、平治の乱の後各地で雌伏していた源氏の残党たちに蜂起を促して回りました。その中で、伊豆の源頼朝、土佐の源希義、木曽の源義仲などが実際に挙兵しました』
『これに対して平家方は四国で挙兵した源希義の軍を鎮圧。源希義を殺害します。頼朝の軍も平氏の軍に敗れて、頼朝は木の洞穴に隠れて何とか逃れました。頼朝は海を渡って房総半島に退き軍を建て直し、そこに頼朝の弟・阿野全成(今若)、次いで源義円(乙若)も駆けつけました」
『そして1180年10月富士川』
と言ったところで明智ヒバリは言葉を停めた。
大きな川を挟んで大軍が対峙しているところが映る。
「凄い人数だね」
とテレビを見ながら政子が言う。
「エキストラは§§ミュージックのファンクラブの人たちから募集した。原則として撮影地に数時間で来られる人。交通費は自腹。日当5000円、お弁当とお茶は出る」
と私は説明する。
「それでも凄い費用が掛かったのでは?」
「いくつかの戦いの場面をまとめて撮っているんだけど、この撮影には1万人が参加している」
「すごっ」
「まあお弁当代と衣装代だけでも2億飛んでる」
「なんか凄い予算掛けてるね!」
「衣装は全部インクジェットプリンタで作ったから、昔ほどは掛からないんだよね」
「文明の利器は凄いね」
「鎧も刀もプラスチックだしね」
「鉄だと重いよね」
「鉄だと海の戦闘シーンで落ちると沈むしね」
「それは恐い!」
画面ではお互いに鬨(とき)の声があがっている。
画面には平氏の大将・平維盛役の篠原倉光くん(研修生)と、源氏の大将・源頼朝役の秋風コスモスが交互に映る。源氏の軍隊と平氏の軍隊は、お互いの空気を読みながら仕掛ける時を伺っている。しかし両軍動かないまま夜を迎え、全てが闇になる。お互い鬨の声もやみ、静かになる。
画面には仮眠を取っている平氏たちが映っている。各々の大将が幹部の武士と話し合っている所も映る。これら端役の役者さんたちは全てオーディションで選ばれた人たちである。町の劇団などに属している人、中には旅役者さんなどもいて、みんな演技力が高い。
画面は源氏方で、源頼朝(秋風コスモス)と北条時政(立川ピアノ)・阿野全成(中村昭恵@信濃町ガールズ)・源義円(三田雪代@信濃町ガールズ)および武田信義役の竹原さんという人と打合せしている所が映っていた。
『これだけの軍勢だ。乱戦になると敵味方が分からなくなってしまいがちだ。何かいい手は無いだろうか』
と頼朝(コスモス)が言う。
北条時政(立川ピアノ)が言った
『古(いにしえ)の天下分け目の戦い、壬申の乱では、天武天皇側は味方の符合として、兵士全員に赤い布を付けさせたと言います。それでそのようなものを付けていない大友皇子側の兵と区別が付いたのです』
『それはよい。だったら、全員に赤い布を持たせるか?』
『いや、赤王と呼ばれた天武天皇なれば赤でしょうが、源氏は昔から白と決まっています』
『よし。それなら白い布を武具に付けさせよう』
『白い布は全軍所持していますよ。白い麻布はあれこれ使うので』
『この戦いは厳しいと思う。形勢不利ならあまり被害が出ない内に引かなければならないと思うが、それをこの多数の軍勢に伝える方法はないだろうか?』
すると頼朝の弟・阿野全成が言った。
『音で伝えるのがいいと思う。私が源氏の印である白旗の大旗を持って後方の高い場所に立っていよう。それで進軍の時は太鼓、退く時は銅鑼を打つ。白旗は進軍の方向。攻める時は水平に前に向け、退く時は後ろに向けて横に振り、不動の時はまっすぐ垂直に掲げる』
『進むのが太鼓、退くのが銅鑼というのは分かりやすいな』
『相手方の音の合図と紛らわしいと思ったら旗を見ればよい』
『もし撤退する場合は、頼朝様、伝令を出してください。私が白旗を横に振って銅鑼を打ったら撤退の合図です』
『しかしそんな目立つ場所に立っていたら、真っ先に矢を射かけられるぞ』
『死んでもお役目果たします。私が死んだら、次の戦いからは乙若、お前が代わってくれ』
と全成(中村昭恵)が言うと
『分かった』
と弟の義円(三田雪代)は緊張した面持ちで答えた。
『ではそうするか。全成の所への伝令は重忠、そちが果たせ』
『かしこまりました!』
と畠山重忠(オーディションで選ばれた勝沢さん)が答えた。
(畠山重忠は当初平家方で参戦し、石橋山の戦いで頼朝軍を壊滅させた。しかしその後、頼朝が軍勢を建て直して再起すると圧倒的な兵力を見て降参。先祖伝来の白旗を持って頼朝の前に帰順。その後、頼朝にとって貴重な腹心として活躍した。同僚の梶原景時が独善的で義経をはじめ多くの家臣を讒言して死に追いやったのに対し、畠山重忠はひじょうに好人物で、奥州の処理でも敵方から尊敬されたという)
『こういう戦いでは、奇襲戦法が使われやすいと思う』
と北条時政が言うと、みんな緊張する。
『だいたいこういう場合の奇襲は明け方だ。平氏方はそれを狙ってくるかも』
『だったらこちらはもっと前の夜中にしないか?』
『今夜は月は何時頃出る?』
と北条時政が近くに控えていた文官に尋ねる。
『戌四刻五分(20:45)です』
と文官が暦を見て答えると
『そんなことが分かるのか?』
と武田信義が驚いている。
頼朝は「ふーん」という顔をしている。多分意味が分かっていない!
『だったら、俺がその月が出る前に平氏の後ろを突こう』
と武田信義。
『危険だぞ』
と頼朝。
『任せろ。俺が精鋭を率いてやる。甲斐源氏が男だというのを見せてやろうぞ』
と武田信義は言った。
『失敗したら女になる?』
『どうやったら女になれるんだ!?』
(武田信義は、武田信玄につながる甲斐武田家の祖となる人物。頼朝と並ぶ源氏の統領の地位を目指したが、頼朝と北条がうますぎて屈服し、頼朝の御家人という立場に甘んじるハメになる。67歳で祭事の射手を務めるなど元気で、かなり高齢になるまで生きていたものと見られる。頼朝とどちらが先に死んだかは不明)
この日の日没は申四刻七分(16:50)であった。しばらく待ち、天文薄明も終わって暗くなった、今の時刻でいえば18時半頃、武田信義が率いる精鋭部隊が富士川を渡り始めた。
テレビの画面には信義たちが馬で静かに川を渡ろうとしている場面が映る。部隊はできるだけ静かに渡ろうとしていたのだが、部下のひとりがうっかり水面で休んでいた水鳥を馬の蹄で踏みそうになる。
するとその水鳥が驚いて飛び上がり、そこから連鎖的に多数の水鳥が飛び立って物凄い騒ぎになった。
この暗い中多数の水鳥が飛び立つシーンが圧巻である。これは実は昼間撮影して、画像処理で明度を落としたものである。
『しまった』
と武田信義は思ったのだが、ここで思わぬ事態が起きた。
物凄い数の鳥が飛び立ったため、その音を平氏の軍勢が敵襲と思い、慌ててしまったのである。全く戦闘準備をしていなかったので、武器を捨てて逃げる者、応戦しようと馬に乗ったはいいが武器を持っていないことに気付き、慌てて探すもの、中には馬を棒杭に留めていたことを忘れて馬を出そうとし、杭の回りでぐるぐる回ってしまう者もあった。
(この馬がぐるぐる回るシーンはスタントマン会社のアクターさんにお願いして実行してもらった)
結果的に平氏の軍勢は総崩れになって全員逃げ出してしまったのである。平氏の大将である平維盛(篠原倉光@研修生)や平知度(オーディション選出の山崎さん)らが
『こら、逃げるな!戦え!』
と叫ぶものの、パニックになっている兵士たちには伝わらない。それで結局、平維盛や知度たちも退却せざるを得なくなってしまう。
一方、驚いたのは源氏の軍勢も同様である。
『敵襲か?』
『応戦は?』
と言って、各部隊のリーダーは後方の崖の上に陣取る阿野全成の旗を見る。
『旗はまっすぐ立っているぞ』
『太鼓も銅鑼も鳴らない。みんな動くな』
『動かなかったら平氏の軍勢にやられますよ』
『やられても動くな。攻撃すべき時はちゃんと指令が出る』
それで源氏の軍勢は動揺したものの、事前の指示の伝え方が周知されていたため、何とかパニックを起こさず、不動のままでいたのであった。
これが名高い“富士川の戦い”であるが、実際には戦闘は行われていない。平家側が勝手にパニックを起こして逃げ出しただけである。
『信義く〜ん、失敗したね』
と頼朝が楽しそうに言った。
『面目ない』
『失敗したら女の子になるんだっけ?』
『女になってどうすんのさ?』
『僕のお嫁さんになってもらおうかな』
と頼朝が言うと、北条時政がギロリと睨む。彼は北条政子の父である。
『勘弁してくれ〜』
と信義が困っていると、時政が助け船を出した。
『頼朝殿、結果的に信義殿の部隊のおかげで平家の軍勢は総崩れになって退却してしまいました。作戦は失敗したかも知れませんが、戦いは勝利したのだから信義殿の行動は価値があったのです』
『じゃ、いいことにするか』
と頼朝は残念そうに言った。
一方信義は
『どうやったら男の俺が嫁になれるんだ?』
と悩んでいた。
武家の女の衣装を着けた竹原さんの映像が背景に映るが、女物の衣装が全く似合っていない!身長180cmで元ラガーマンの竹原さんには女装は辛そうだ。
“戦い”の夜が明けた時、頼朝の陣を訪れた30人ほどの集団があった。
『源義朝が九男、義経、遅ればせながら馳せ参じました。源頼朝殿の指揮下に入らせて頂けましたら幸いです』
と頭を下に伏せたまま言う。
『おぉ、確か奥州に行っていたんだったな。よろしく。全成と義円の弟であったな』
と勝利の後なので頼朝(コスモス)は機嫌がよい。
『いや、三兄弟別々の寺に預けられましたし、牛若は平治の乱の時にはまだ生まれて1年くらいでしたので(*5)、私も兄の今若も実質初対面に近いですね。しかし凜々しく良き男に育ったな』
と義円(三田雪代@信濃町ガールズ)も楽しそうに言った。
(*5)通説では義経は保元4年2月2日生とされる。保元4年は平治の乱が起きた平治元年と同じ年1159年で(4月に改元されている)、それなら義経は平治の乱が起きた時、まだ生まれて10ヶ月ほどだったことになる。しかし“牛若丸”という名前は丑年の丑日に生まれたからだという俗説もあり、もしそうなら保元2年(1157)丑年の7月2日丑日の生まれという可能性がある。その場合は平治の乱の時は3歳だったことになる。ちなみに今若は1153年、乙若は1155年生まれなので、牛若が1159年の生まれなら、間にもうひとり居たが、死産か夭折した可能性もある。
明智ヒバリが登場して語りを入れる。
『頼朝はまた援軍が増えた。しかも信頼出来る弟だと嬉しがり、陣中で腹心の梶原景時に場所を移動させ、そこに義経の一行を案内して休ませました。この時、移動させられた景時は義経を恨むようになるのですが、そのことに頼朝も義経も気付いていませんでした』
『さて、この義経が連れて来た手勢の中に1人“怪しい”人物がいたのに頼朝は気付かなかったのですが、陣に同行している北条政子が気付きました』
北条政子(高崎ひろか)が、義経の手勢の中のひとりが陣から離れた所を狙って声を掛ける。高崎ひろかはここで初登場である。
『ねぇ、あなた』
『はい?』
と返事をして、振り向いたのはアクアである。
「きゃー!!アクアちゃん」
とテレビを見ていた政子は声をあげる。
『あ、やはりそうだ。あなた女でしょ?女の声だもん』
と北条政子(高崎ひろか)。
『北の方様、ご機嫌麗しゅうございます。私は義経様の夜のお世話を致しております、静(しずか)と申します。実は義経様の奥方(浪の戸姫)の侍女で、元は白拍子のあがりなのでございます』
『へー。白拍子!一度見てみたいね』
『もう引退して久しゅうございます。白拍子をしていたおかげで身体の動きもよく、薙刀や刀も使えますし、馬にも乗れるので、奥方様より同行を命じられて、義経様に付き従っております。場合によっては身を以て義経様を守れと命じられております』
と静(アクア)は言う。
『すごーい。女なのに、馬にも乗れて刀も使えるって凄い』
と北条政子(高崎ひろか)。
『木曽の義仲様の奥方、巴御前様なども武芸が達者ということでございますが、私は巴様ほど強くはなくても、義経様の矢除けくらいは務まるかなと思っております』
『そっか。呼び止めて御免ね。だけど男ばかりの戦場で女の身は大変でしょう。おしっこするのにも困るよね?』
『慣れておりますから』
『何か困ったことあったら言ってね。女同士助け合いましょ』
『ありがとうございます。何かありましたら、よろしくお願いします』
これが北条政子と静御前の初対面だったのである。
ネットは騒然としていた。アクアが静御前を演じているのなら、義経は誰が演じていたのだ?というのである。よく考えてみると、先ほどの義経の頼朝との対面シーンで、義経の顔は映らなかったのである(声はアクアだった)。
「だったら葉月ちゃんがボディダブルしていたのでは?」
「いや、葉月ちゃんは佐藤忠信役で出ていた」
「うん。弁慶役の品川ありさちゃんと並んでいた」
「だったら姫路スピカか誰かが吹き替えをしたのでは?」
「だから顔が映らないようにしていたのかな?」
明智ヒバリが再度登場して語りを入れる。
『富士川の戦いの翌月11月19日、阿野全成が北条政子の妹・阿波局と結婚しました。恐らく時政としては、ひょっとすると兄弟の仲違いもあるかも知れないので、両方に唾(つば)を付けておこうということだったのでしょう』
『富士川の戦いに敗れた平氏は平清盛直々に指揮して軍勢を建て直し、取り敢えず京都近辺の蜂起はどんどん鎮圧していきました。平家に対する抵抗勢力の多い南都・奈良は平重衡が焼き討ちをして町全体を破壊しました。この時、多くの一般市民が犠牲になり、“奈良の大仏”をはじめ多数の仏像が失われました』
『しかしその平清盛も翌1181年閏2月、熱病に冒されて急逝。息子の宗盛たちではとてもその存在の消失を埋めることは困難と思われました。源氏は勢い付き、4月、両者の大軍が墨俣川で対峙しましたが、この戦いでは源氏方が大敗。乙若丸こと源義円が戦死しました。その死の報せを聞き、今若こと全成も牛若こと義経も涙しました』
ネットでは「雪代ちゃん(義円役)ナレ死!」という追悼のメッセージ?があふれた。
ヒバリの語りは続く。
『源氏と平氏の戦いは1182年・養和の大飢饉で一時休止になりますが、1183年になるとまた動き出します。2月、頼朝は野木宮合戦で関東を平定しました。この時、甲斐源氏に合流していた、頼朝や義経の兄弟で義朝の六男にあたる源範頼が頼朝に合流しました。頼朝の兄弟の合流は彼が最後です。彼の母親は池田宿の遊女だったため、範頼はここまで歴史の表舞台に出ていなかったのです』
『頼朝軍が強大になってきているのは、平氏としては憂慮すべき事態でしたが、北陸方面で力を蓄えてきている木曽義仲も気になりました。平氏としては先にこちらを叩こうと考え、平維盛・平行盛・平忠度が率いる10万の討伐軍を北陸に派遣しました。対する義仲の軍はわずか5000ほどでした。そして寿永2年5月11日』
というところでヒバリは言葉を切った。
テレビの画面には現代の倶利伽羅峠の道の駅に置かれた“火牛”の像がそばにいる観光客っぽい家族と一緒に映る。
『おい、義仲、敵はありゃ20万くらいいるぞ』
と乱暴に声を掛けて今井兼平(義仲の乳母子で義仲四天王の1人・巴御前の兄・演:桜井真理子@信濃町ガールズ)は、あぐらをかいて座った。
『ああ、それは楽しそうだ』
とお酒(実際には水)を飲みながら本当に楽しそうに言っているのが兼平の妹で義仲の妻である巴御前(演:石川ポルカ)である。
『じゃ逃げるか?』
と義仲(演:白鳥リズム)が言うと、
『こんな所でビビって逃げるようなものなら、あんたのチンコぶった切って、倶利伽羅峠の崖の下に投げ捨ててやるよ』
などと巴御前(石川ポルカ)は言っている。
『崖の下か・・・・』
と樋口兼光(今井兼平・巴御前の兄・演:悠木恵美@信濃町ガールズ)が言って考えるようにした。
『何何、やっぱり義仲のちんこ切っちゃう?』
と巴御前。
『俺のちんこ切るなら、代わりに巴のちんこ寄こせ』
と義仲。
『俺にちんこが付いてないのは知ってるだろ?』
『いや隠しているかも知れん』
とても女子アイドルたちの会話とは思えない。全員女を忘れてやりますと言っていたが、このシーンには「あんなセリフ言わせるって可哀相」と結構抗議がきた。
『義仲のちんこ切り落とすなら、火にくべて焼いて、みんなで食っちまうか』
と根井行親(演:左蔵真未@信濃町ガールズ)。
『火か・・・・』
と兼光がまたつぶやく。
『ちんこって美味いのか?』
と巴。
『食ってみたことはないから分からんな』
と楯親忠(根井行親の息子・演:今川容子@信濃町ガールズ)
『巴こそ、義仲のちんこ舐めたりしたことはないのか?』
『かじったら痛いと言われた』
『そりゃ痛いわな』
『だったらこうしよう』
と樋口兼光が言った。
『どうやってちょんぎるの?やはりみんなで押さえつけておいて、刀でスパッと切る?』
と巴。
『油の類いを集められるだけ集めろ。それから牛をたくさん集めろ』
『やはりちんこは不味いから牛を食うのか?』
『殿のちんこを食いたければ個人的に後でやってくれ。それより戦いだ。こういうやり方を思いついたんだよ』
それで全員樋口の説明を聞いたのであった。
『よし、それで行こう。行親と親忠は牛を集めろ、兼平は油を集める。巴は布と紐を集めろ。兼光は用意出来たところからどんどん牛を仕立てろ』
と義仲が指示を出す。
それで近隣から大量に牛が集められた。
夕方近く、楯親忠率いる軍勢約1000名を平通盛・平知度らが布陣する志雄山(能登国志雄町:現宝達志水町)に向かわせ、結果的にそちらの三万の兵士を釘付けにする。一方でこの案の立案者である樋口兼光自身が率いる特殊部隊が用意した多数の牛を連れ、牛飼いたちに案内させて山道を越える。そして平維盛・平行盛・平忠度が率いる7万人の本隊が居る場所の後方に回り込ませる。彼らは牛を休ませて角に布を巻き付ける一方で地面に多数の木の棒を立て、そこにも布を巻く。
深夜丑二刻(1:30)、月が沈む。それを合図に樋口たちの部隊は連れている牛の角に巻いた布に油を染み込ませる。そして松明(たいまつ)を焚き、地面に刺した棒や、牛の角の布に移す。兵士たち自身も両手に松明を持つ。戦闘に参加しない牛飼いたちにも両手に松明を持たせて後方に待機させた。それと同時に本隊側では木を叩き、馬をいななかせ、兵士たちにも思いっきり鬨の声をあげさせた。
平氏の軍勢は多くが寝入りばなだった。大きな音がするので義仲軍が夜襲を掛けてきたと思ったものの、ふと気付くと後方にも大量に松明が見える。
『馬鹿な。いつの間にあんな大軍が?』
『ひょっとして単に松明を立てただけでは?』
『違う。多数の松明が動いている。本当にあれだけの人数がいるんだ』
『あれは5000はいるぞ』
『きっと鎌倉の頼朝が援軍を送ってきたんだ』
この時、実際に後方に回り込んだのは300人くらいの兵士と200頭くらいの牛にすぎない。それが両方の角、または両手に松明を持っているので“動いている”松明は500×2=1000ほどである。しかしそれ以外に地面に固定で刺している松明や牛飼いたちが持つ松明も1000ほどあり、実際の松明総数は2000ほど、その内ほんとうに動いているのは半分の1000ほどにすぎなかったが、不意打ちをくらってパニックになっていることもあり、2000の松明は夜目には5000に見えてしまう。
平氏側はパニックになってしまった。
幹部の武将が必死に制止しようとしても無駄で軍勢は総崩れになる。前方にも後方にも大軍がいる(と思っている)ので、横に逃げる。多くが人間の習性で左側に逃げたのだが、その先には高い崖があった。元々他地域から連れて来た軍勢で現地の地理に不案内。しかも月が沈んだ闇夜である。崖になっているのは足元が無くなってから分かる。先に目の前に崖があると気付いた者も、後ろからどんどん押されるので、やはり崖から落ちてしまった。
その多数の兵士が崖から落ちていくシーンがテレビ画面には映される。ここは富士川の戦いの撮影に参加したエキストラの人たち(の一部)の演技である。実際には1mほどの高さから飛び降りている。下には念のためマットを敷いている。これに実際の倶利伽羅峠の崖で撮影した映像を適宜ミックスしている。崖から多数の人が落ちていく遠景はCGである。
明智ヒバリが登場して語りを入れる。
『こうして倶利伽羅峠の“戦い”では多くの平家の兵士達が、戦わずして勝手に崖から落ちて死亡してしまったのでした。その数は数万人に及びます』
『本隊が思わぬ大軍に急襲されたと報せを受けた、志雄山の別働隊も本隊を救援に向かおうとしますが、当然、楯親忠率いる軍勢と激突します。こちらは本格的な白兵戦となりました。人数としては平家側が圧倒的なのですが、何とか持ち堪えている内に倶利伽羅峠の戦いに決着を付けた本隊が合流。互角の戦いとなります。しかし倶利伽羅峠で勝って勢いに乗る義仲軍の士気が高かったこともあり、この戦いは義仲軍の勝利となりました』
『倶利伽羅峠の二回戦ともいうべきこの志雄山の戦いでは、平家側の大将の1人で清盛の七男・平知度が源氏方の源親義と相討ちになって死亡しています』
背景で相討ちのシーンが流れるが、平知度役も源親義役もオーディション選出の人である。特に源親義役の人はここに出てくるだけでセリフも無く退場である!
ネットでは「またナレ死!」というツイートが多数発生していた。
ヒバリの語りは続く。
『勝利の勢いに乗る義仲はそのまま京都に向けて進軍し、7月28日に京都に入りました。その軍勢に恐れをなした平家一門は、幼い安徳天皇を連れ、三種の神器を持って京都から脱出しました』
『木曽義仲の最大の失敗はこの大軍を京都に入れてしまったことです。京都にはこんなに大量の兵士たちが食べるだけの食糧が存在しません。また元々荒っぽい男たちや、田舎育ちの者が多いので、乱暴狼藉を働く者もありました。この義仲軍の統制の乱れには都に残った後白河法皇も困り果て、源頼朝に、そちらが京都に入ってくれないかと要請したほどでした』
『一方で後白河法皇は平家側と三種の神器を返して欲しいと交渉するのですが、平家側としてはそれを返却すると、こちらは賊軍と認定される危険があるので拒否します。それで法皇はやむを得ず、神器が無いまま、安徳天皇の弟・尊成親王に皇位を践祚させました。これが後鳥羽天皇ですが、神器を持たないまま即位したことで、後々までその正統性に疑問をつけられることとなります』
『京都を脱出した平家一門は讃岐国屋島(高松市)に臨時の内裏を作り、こちらにおられる安徳天皇こそ正統な天皇であると主張していました。つまりこの時は一時的に天皇が2人居る異常事態が発生していたのです』
背景に束帯姿の幼い男の子が後白河法王(演:藤原中臣)や木曽義仲(白鳥リズム)らに祝福されている様子が映り、続いて五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)を着けた幼い女の子が平宗盛(日野ソナタ)・平知盛(町田朱美@信濃町ガールズ)らにかしずかれている様子が映る。各々に“後鳥羽天皇”“安徳天皇”というテロップが入る。
テレビを見ていた政子が言った。
「安徳天皇って女帝?それとも男の娘?」
「公式には男の天皇ということになっているけど、当時から女帝ではという噂がかなり強かった」
と私は答えた。
「へー!」
「平家物語にはこういう記述がある。后御産の時、御殿の棟より甑をまろばかすことあり。皇子御誕生には南へ落とし、皇女誕生には北へ落とすを、これは北に落としたりければ、こはいかにと騒がれて、取り上げて落とし直したりけれども」
「日本語で言ってぇ!」
「つまりだね。お后が、ここでは建礼門院徳子だけど、天皇の子供を産んだ時、御殿の屋根の上から、茶碗を落とす習慣があった。男の子が生まれた場合は南へ落とし、女の子が生まれた場合は北へ落とす。それで実際に徳子が子供を産んだ時、茶碗は北へ落とされた。それで、え?姫御子様だったの?とみんなが騒いでいたら、茶碗が取り上げられて再度南へ落とし直された」
「それって、生まれたのが男の子でないと天皇にできないから、女の子が生まれたけど、男の子だったということにされたのでは?」
「だと当時みんな思っていたんだろうね。慈円僧正が書いた『愚管抄』でも安徳天皇のことを、平清盛の祈願により厳島神社の神が化生した存在で、元々“龍王の娘”だから海に還っていったのだと書いてある」
「厳島神社の神って、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)じゃん」
「だから、みんなが安徳天皇は実際には女の子だと思っていたのだと思う」
「女の子だとは知られていたけど、時の権力者・平清盛の孫だから、みんな性別を公言できなかったということか」
「清盛としても、次に徳子が男の子を産んでくれれば、その子と天皇は交替させればいいと思っていたのかもね。時代が下って『義経千本桜』になると、安徳天皇が壇ノ浦から生き延びて女の子として暮らしているシーンが出てくるしね」
「あぁ」
「他に京都・泉涌寺に伝わる安徳天皇の御影がある。これがどう見ても女の子の絵なんだよね。この絵には宅間法眼の名前が入っている。法眼というのは絵師に対する尊称だから、宅間派の誰かが描いたということだよね。宅間派というのは、平安時代末期から室町時代初頭に掛けて活躍しているから、わりと当時に近い人が描いたものかも。元々は長楽寺にあったものが、何かの折りに泉涌寺に移されたらしい。現在、長楽寺には渡辺拍舟(1908-1988)の模写が納められている」
「やはり女の子確定かなぁ」
と政子は言っている。
「でも男の子だけど女装好きだったということはないの?」
と政子はワクワクテカテカした目で訊く。
「あり得ないことはないけど、やはり普通に女の子だったのではという気がするよ」
「女装していた天皇っていないの?」
「日本の天皇では知らないけど、ローマ皇帝のネロは女装好きで、よく女装でパーティーなどに出ていたらしい。彼の場合はただの女装趣味だったみたいだけど、3世紀のヘリオガバルス帝は常に女装していて、みんなに自分を《女帝》と呼ぶように言い、性転換手術も受けてヴァギナまで作ったらしいよ」
「すごーい!3世紀に性転換か」
「ちんちん切って、割れ目ちゃん作るくらいは当時の医療技術でも難しくなかったと思う。機能するほどのヴァギナを作るのはさすがに難しかったんじゃないかな。形だけ穴を開けることは可能だったかも知れないけど」
「そうだよね。宦官がいたんだから、ちんちん切るのは難しくないよね」
「まあ死亡率も高かったろうけどね。ヘリオガバルス帝は自分が手術受ける前に男の子のちんちんを何本も切らせて手術の練習をさせていたらしい」
「それ女の子になりたい子?」
「別にそういう訳ではなかったと思うけど」
「女の子になりたい訳でもない男の子のちんちん切ったら迷惑じゃん」
「迷惑というか無くなったら不便だよね、普通の男の子は」
えっと“不便”というだけでいいんだっけ?
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【クロ子義経】(1)