【クロ子義経】(3)

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ヒバリが語る。
 
『義経の軍は、安徳天皇や三種の神器の奪還はできなかったものの、屋島から平家を追い出し、これで平家は瀬戸内海東側の拠点を失うことになります。屋島はこの日到着した伊予水軍の数十艘に加えて数日後に掘景光が率いてきた源氏本隊(*10)と熊野水軍の連合軍によって完全に制圧されました』
 
『一方、河野通信を討ちに行っていた田口成直(*11)は河野の家人150人を殺害したものの、まんまと河野本人には逃げられてしまいました。この時、彼の本陣に、義経の部下・伊勢三郎義盛(演:南田容子)が武器を持たず白装束を着て訪れました。交渉をしたいという意味です』
 
『伊勢三郎は成直に、彼の伯父たちが皆討ち死にし、父親の成良も捕縛されて息子の身を案じていると言います。それで成直は驚いたものの、屋島が源氏に奪取された報せは聞いていたので、伊勢三郎の話を信じて投降してしまったのです。ちなみに伊勢三郎は元山賊で、口も上手く、成直はすっかり欺されてしまいました。義経の部下にはこういう一癖も二癖もある者が多いです。一方父の田口成良は捕縛などされておらず、屋島を奪われたので彦島を目指して移動中でした。他の平家の残党も彦島周辺に集結していきます』
 

 

(*10)この本隊は梶原景時が率いてきたという説が流布しており、また逆櫓論争をして、これが景時が義経を恨むようになったきっかけのひとつともされるが、実際には当時景時は九州に行っている範頼の軍にいたらしい。吾妻鏡以降、何が何でも梶原景時を悪役にしたいという空気が強い。“逆櫓”については後述。
 
(*11)田口成直ではなく、兄の田口教能(別名教良)であったという説もある。教能・成直兄弟の父は田口成良で、この田口成良の別名が阿波重能である。
 

ヒバリは話を少し戻した。
 
『ところで時の流れを追うと、木曽義仲が金環食の中で平家に大敗した水島の戦いが1183年閏10月、義経が鵯越(ひよどりごえ)からの奇襲で一ノ谷にて平家を破ったのが1184年2月、屋島の戦いに勝利して平家の東瀬戸の拠点を奪ったのが1185年2月なのですが、ずっと話を戻して、1183年4月、まだ木曽義仲と源頼朝との仲が決裂する前のこと、頼朝は義仲が暴走しないように、人質を出すよう要求し、義仲の息子で当時11歳の義高が源頼朝の所に送られることになりました』
 
1180.04.27 以仁王の宣旨
1180.10.20 富士川の戦いで頼朝勝利
1183.04___ 義高と大姫の結婚
____.05.11 倶利伽羅峠の戦いで義仲勝利
____.07.28 木曽義仲が入京。平家は3日前に脱出
__.閏10.01 水島の戦いで義仲大敗
 

『誰と結婚させるですって?』
と北条政子(高崎ひろか)が詰め寄るように源頼朝(秋風コスモス)に言った。
 
『だから大姫と結婚させる』
『ダメです。大姫は殿が将来天下を取った時に、帝(みかど)に差し上げるために大事に育ててきています。それをあんな田舎武者の息子などと結婚させられますか?』
 
と政子が厳しい顔で言うので、頼朝もたじたじとなるが、
『義仲とそう約束したんだ』
『何もうちの娘と結婚させなくても、梶原景時あたりとでも結婚させたらいいじゃないですか?』
『景時は男だけど』
『じゃ景時の娘と』
『困ったことにあいつには娘が居ない』
『じゃ息子の景季あたりに女の服を着せて』
『無茶言うな』
『うちの大姫と結婚させるというほうが遙かに無茶です』
 

ヒバリが登場して語る。
 
『北条政子は猛反対したものの、頼朝は大姫との結婚を押し切ってしまいました』
 
ヒバリの背景に頼朝の大姫(長女の意味)である一幡(いちまん,6歳)と、義仲の長男・義高(11歳)が嬉しそうな顔で並んで結婚式を挙げている。現代の年齢の言い方では一幡が5歳、義高が10歳で、半ばおままごとに近い結婚である。むろんふたりはセックスなどしない!大姫に初潮が来るまではお預けである。
 
一幡を演じているのは実際には小学1年生で劇団桃色鉛筆に所属している水原裕樹くん、義高を演じているのは実際には小学6年生で信濃町ガールズの上田雅水くんである。
 
つまり・・・両方とも男の子である!
 
夫婦役をさせるので、万が一にも本当に恋愛感情が生まれたりしないように男の子同士でキャスティングしたし、またわざと違う所属の子のペアにしたのだが、それでも恋愛感情が生まれたりしたら知らない!
 

ヒバリの語りは続く。
 
『ところが水島の戦いで義仲が敗退して朝廷の期待を裏切ると、義仲と頼朝の仲も決裂。義経・範頼に命じて義仲を討たせます。それで木曽義仲は1184年1月20日粟津の戦いで戦死します。一幡と義高の結婚から1年も経っていませんでした』
 
『頼朝としては義高は人質として不要になりましたし、生かしておけば将来自分を親の敵(かたき)として狙う可能性もあります。そこで頼朝は義高を殺害するよう部下に命じたのです』
 
『大変です。頼朝様が義高様を殺そうとしています』
と青くなった侍女の祐殿が走り込んで来て言った。1184年4月21日というテロップが流れている。
 
『何ですって!?』
と一幡(7歳・演:水原裕樹)が青ざめて言う。
 
(侍女・祐殿を演じているのはオーディション選出の谷畑博子さん。実は男性なのだが、女装すると女にしか見えないので、本人の希望に従い、女性役をしてもらった。女声の出し方も上手い。男性器は“まだついてる”し、おっぱいも無いらしい。普段は自動車販売店に(男性用)スーツ姿で務めており“猫をかぶっている”。本名は博隆ということだったが、女役をするので女性名のクレジットにした)
 
義高(12歳・演:上田雅水)は静かに言った。
 
『それは覚悟していた。私も征東大将軍の息子だ。潔く討たれようぞ』
 
『何と立派なお覚悟でしょう!世の人もきっと褒め称えますぞ。私も若と一緒に冥土への旅、ご同行つかまつります』
 
と側近の海野幸氏(うんの・ゆきうじ,13歳)も言う。彼は義仲の家来の息子で、義高が一幡の所に送り込まれてきた時、義高付きの小姓として同行して来たものである。彼の父・海野幸広は水島の戦いで戦死している。
 
この海野幸氏を演じているのは上田雅水の兄でやはり信濃町ガールズに所属する上田信貴である。
 
『そうか。すまんな。一緒に立派な最期を遂げようぞ』
と義高は言っている。
 
『ちょっと、ふたりとも何言っているの?そんな簡単に死んじゃだめ!』
と一幡が泣き叫ぶように言います。
 

「この子、小さいのに凄い演技力だね。きっと大人になったら大女優になるよ」
とテレビを見ながら政子が言っている。
 
「大女優って、この子男の子だけど」
「え〜〜〜〜!?」
と驚いたように言ってから政子は小声で
 
「すごーい。可愛い男の娘だね。やはり女の子になりたがってるの?」
などと訊く。
 
「役の上で女の子役をしているだけで、別に女の子になりたい訳ではないよ」
「え〜?もったいない。こんな可愛いのに。ちょっと手術受けさせて女の子にしてあげようよ」
「それ迷惑だから」
 
迷惑というだけでいいのかな??
 

『しかしみっともないことはできないぞ』
と義高は言う。
 
『みっともなくても生きていればきっといいこともある。逃げるのよ!』
と一幡。
 
『逃げてもすぐ見つかりますよ』
と海野。
 
『そうだ!女の子の服を着たらきっと気付かれないよ』
と一幡。
『女の服!?そんな恥ずかしい格好ができるか』
と義高。
 
『でも生き残るためよ。そうだ。幸氏さん、身代わりしてよ。幸氏さん、割と太郎(義高)と似た顔立ちだし。確か親戚になるんだよね?』
 
『従兄弟なんだけど、確かに似た顔立ちと言われていた。ただ私は鬚を伸ばしているが、義高殿はまだ鬚が生えていない』
と海野。
 
『そのお鬚、悪いけど剃ったりできません?』
と一幡は必死である。
 
『それで幸氏さんが、ここで私と一緒におしゃべりしていたら、まだ太郎がいると思われて、いくら何でも私の目の前では殺さないだろうから、きっと私が寝るまで待つと思うの。その間に本物の太郎は逃げられるわ』
 
義高と海野が顔を見合わせます。
 
『ここはいったん逃げてもいいかも知れない』
『そうしようか?』
 
(ちなみにここにいる4人は全員戸籍上は男子である)
 
ヒバリの語り。
 
『それで侍女の祐殿が、女童(めのわらわ)用の服を持って来て、義高はそれに着換えて髪も元結を切って女のように髪上げをして大垂髪に変更することにしました。そして、幸氏が鬚(ひげ)を剃って義高の服を着、一幡と一緒の御帳の中で双六(バックギャモンのこと)をしていることになりました。一方、義高は祐殿ほか数名が手引きをして女装で館を脱出するのです』
 

深夜亥の刻(22時頃)、頼朝の命を受けた数人の武士が、一幡と義高の寝所に密かに忍び寄ります。ところが一幡と義高の声がします。どうもふたりは双六をしているようです。
 
『どうしますか?』
『姫君が寝られるのを待とう。さすがに姫君の前でやるわけにはいくまい』
『姫君が寝られてから、そっと若君を連れ出し、討たせていただく』
 
それで武士たちはふたりが寝るまで3時間以上待つことになった。ところが武士たちが待ちくたびれて来た丑の刻(2時)近く。一幡が言った。
 
『義高様はもう安全な所まで逃げられたかしら?』
『もうかなり時間が経ちます。きっともう酒匂川(さかわがわ)を越えられた頃でしょう』
と、武士達が義高だと思っていた相手。
 
武士たちの顔色が変わる。
 
『御免』
と言って部屋の中に入っていく。
 
『何?あなたたちは?』
と一幡が言うが、武士たちは帳をめくり、中を見た。一幡と双六盤を挟んで座っているのは鬚(ひげ)の生えた武者である。義高にはまだ鬚が無い。
 
『貴様、まさか海野幸氏か?』
『何を言っている?私は源義高であるが?』
『ふざけるな!義高殿には鬚など無いわ。義高殿はどこに行った?』
『何の話だ?』
 
その時、別の武士が言った。
 
『さっき、おふたりは酒匂川とおっしゃっていました。小田原方面に逃れられたのでは?』
 
『すぐ追うぞ』
 
それで武士たちは走り出して行った。
 

明智ヒバリが登場して語る。
 
『実際には祐殿および数名の侍女と一緒に逃げ出した義高は小田原方面ではなく逆の武蔵国方面に逃げていたのです。2日掛けても義高が見つからないので、ひょっとしてと思い、頼朝は関東一円に義高捜索の触れをします。すると5日後の4月26日、頼朝の家臣で藤内光澄という者が、湯島郷(後の江戸)の廃寺に義高たちが隠れている所を発見。一緒にいた祐殿もろとも、殺害したのでした』
 
背景に、祐殿および2人の侍女が、女装の義高を守ろうとして一緒に斬られるシーンが映る。そして女のような髪にした義高の首が鎌倉にもたらされた。
 
ヒバリは語る。
 
『義高が殺されたという報せに一幡はショックを受け、寝込んでしまいます。すると北条政子は頼朝にありったけの非難を浴びせます』
 
背景には北条政子(高崎ひろか)が源頼朝(秋風コスモス)に詰めより頼朝がたじたじとなっている場面が映る。
 
『政子は非難します。こうするつもりなら最初から大姫と結婚させるべきではなかったし、結婚させた以上、自分の親族として扱うべきだった。もうこんな先見の明もなく、薄情で肝っ玉の小さい男とは離婚だ。北条の支援が無かったら、あんたなんか平氏の残党にやられて死んでしまうんだから、などと言われ、困った頼朝は、義高を討った藤内光澄以下を処刑し晒し首にしてしまったのです』
 

「え〜〜!?それって酷くない?」
とテレビを見ていた政子が言う。
 
「酷いよね。手柄を立てた部下を死刑にしちゃうんだから。でも頼朝ってどうもそういうふらふらした所がある性格なんだよ。義経の方が肝が据わっていて、よほど大将の器だと思う。まあだから、北条にしても梶原にしても、義経が恐かったんだろうけどね」
と私は言う。
 
「なるほどー」
と言ってから、政子は首を傾げるようにして言った。
 
「ねぇ、さっきヒバリちゃんの背景に流れていた、義高や祐殿が殺されるシーンだけどさ。あれ演じてたの、本当に上田雅水ちゃんだった?女装してお化粧しているからよく分からなかったけど、お兄さんの上田信貴ちゃんにも見えたんだけど」
 
「ふっふっふ」
 

ヒバリは更に語る。
 
『義仲が討たれ、更にその子・義隆も討たれたのが1184年の4月で、これは一ノ谷の合戦の2ヶ月後のことでした。義経は翌年1185年2月19日には屋島の戦いに勝利しています。義高が討たれてから10ヶ月後のことです』
 
『屋島の戦いの後、義経は京都の後白河法皇や鎌倉の頼朝、九州に展開している範頼と早馬で連絡を取りながら、彦島の平家を攻めることにします。それで義経が率いる源氏の軍と伊予水軍・熊野水軍の連合軍が瀬戸内海を西行し、3月中旬には長門近辺に集結したのです』
 

ヒバリは昔の時代の速度表現について簡単な解説をした。
 
『今では速度の単位として自動車などでは時速何キロ、海上では何ノットという言い方をします。ノット(knot)というのは1時間に何海里進むかで、1海里は1852mです。つまりノット数を1.852倍するとkm/hの数値が得られます。例えば6.5kn=12km/hです』
 
『ちなみにこの“海里”の数値ですが、1852という数字を覚えるのに「分からなくなったらカレンダーを見ろ」というのがあります』
と言ってヒバリは2020年のカレンダーを見せる。今回の特別番組の写真を使用したカレンダーである。1月の写真は“牛若丸”状態で笛を吹くアクアだ。
 

 
『何月のカレンダーでもいいから、手近のカレンダーを見ます。1日の所から縦に見ると、1, 8, 15, 22 と並んでいます。この1の位だけ見ると 1852 でこれが海里をメートルで表した数字です』
 
『さて、日本では明治時代になるまで、明確な速度の単位がなく、江戸時代の和算書などでは、火縄が燃える時間あたりの進む距離で表せといったことが書かれています。火縄というのは、火を付けた縄の燃えた長さで時間を計るもので、火時計の一種です』
 
ヒバリが《火時計》と書かれたプレートを持っている。“ひどけい”と聞くと一般に《日時計》の方を連想する人が多いので、区別するためである。背景には近江神宮境内にある火時計の映像が映る。この火時計は線香を使用した精巧なもので、線香が燃え進むと金属球を吊った糸を焼き切り銅鑼に当たって時報が鳴るという優れモノである。近江神宮の火時計の場合、一時(いっとき:2時間)おきに時報が鳴り14個の銅球で14時(14とき:28時間)計測することができる。ヒバリはこの時計の仕組みを説明した。
 
火縄を使用するものは線香タイプに比べると精度は落ちるものの、何と言っても安価である。普通は火縄に結び目を作っておき、その結び目が燃えた所で時を知ることができるようになっている。
 
『人の歩く速度は4km/hとするとノットでは2.2ノット、半時(はんとき)に36町です(町=109m)。それでこの半時に歩ける距離を日本では“里(り)”と呼びました。中国の里の6倍相当です』
 

ヒバリは続いて船の速度について説明した。
 
『現代の船は石油を燃やしてエンジンで動作していますので結構な速度が出ます。例えば庶民の足として活躍している阪九フェリーとか、大阪−志布志や大洗−苫小牧のさんふらわあ等が23-25ノットくらい、高速船になると新潟と佐渡の間を結ぶジェットフォイルは46ノットも出ます』
 
『ローカルな航路ですと、もっと遅い船が使用されています。10ノット程度とか、中には5-6ノットというのんびりした旅客船が就航している場合もあります』
 
『エンジンを積んだ船ならそのくらいの速度が出ますが、昔の人力ではこんなに出る訳もありません。例えば公園のスワンボートは1-2ノット程度、手漕ぎボートで4-5ノット程度と思われます。多数の漕ぎ手を乗せたボート競争のボート場合、男子のエイトなら10ノット近く出ますが、エイトなどの場合、漕ぎ手しか乗っていないので、乗客が乗っていれば、さすがにこんなには出ません』
 
『福岡県柳川市の川下りの場合4.5kmを70分掛けて移動するので平均して2ノットということになります。船頭1人で最大20人くらい乗る舟ですが実際にはもっと少ない人数で運行することが多いようです』
 
『福岡の神湊(こうのみなと)から宗像大社中津宮のある大島までの航路は現在はエンジンを積んだ船で20ノットの旅客船で15分、12.5ノットのフェリーで25分で到達しますが、昔は手漕ぎの渡船で4時間ほど掛かっていたらしいです。ノットに換算すると1.3ノットくらいでしょうか』
 
『平安時代の舟というのは、帆は張っているのですが、この帆は追い風でしか使えず、向かい風でも推進できる帆は江戸時代になってやっと現れています。それ以前の推力のメインはやはり人力です』
 
ここで古代の和船の想像図が背景に表示される。
 
『昔の船では船頭は船尾に乗って櫂(かい:オール)を操作します。この櫂は地域により違う形で発達しており、瀬戸内海では長櫂、東北では車櫂というものが用いられました。これは推進力と進行方向の制御を兼ねていました』
 
『船の両舷には船竅iせがい)という張り出した材木の上に水主(かこ)が多数乗って、艪(ろ)を操作します。この艪という推進機構は東アジア独特で西洋などには見られないものです。現代のボートのオールとは違って応力を受けないため、疲労も少なくて長時間漕いでいることができます。また少人数の水主でかなり大きな船を推進させることができます。ただ立って操作する必要があり、安定性が悪いので悪天候の時は使用できません』
 
『平家が安徳天皇などを乗せていた大型の船の場合、恐らく10-20人程度の水主を使用したのではないかと思われます。なお、水主や船頭は船を操作するだけの乗員なので非戦闘員です。戦闘自体には参加しません』
 
『義経たちが屋島の戦いで大阪から徳島まで行った時は、嵐の中なので水主は使用していないはずです(不安定の前に風で吹き飛ばされる)。帆の推進力と船頭の櫂操作だけで進行したものと思われます。この時は120kmほどを4時間で渡っているので平均速度30km/h, 16.5ノットくらいで、現代のフェリーの速度です。大嵐の風で流されたのでなければ絶対に考えられない速度でした』
 

『ところで昔の船の“艪”(ろ)という機構は前進する能力しか持たず、後退することはできませんでした。後退する必要のある船には、普通の艪と逆向きに取り付けた“逆艪”(さかろ)を使用します』
 
『屋島の戦いの時、梶原景時が船に逆櫓を付けようとしたら義経が許可しなかったという話があります。義経は後退するような機構をつけていたら乗員が怖がって退却してしまう。だから軍船は前進するだけでよいのだと言ったというのです』
 
『このため梶原景時は義経を恨むようになったという話があるのですが、実際には当時梶原景時は大坂におらず、範頼がいる九州に行っていたので、そのような論争はもしあったとしても梶原景時ではないことになります』
 
とヒバリは説明した。
 

その日、義経の部屋には側近だけが集まっていた。
 
義経(アクア?)、静(アクア)、弁慶(品川ありさ)、千光坊(スキ也)、佐藤四郎忠信(今井葉月)、一条能成(山口暢香)、源有綱(高島瑞絵)、掘景光(マツ也)、亀井六郎重清(佐藤ゆか)、伊勢三郎義盛(南田容子)、駿河次郎清重(大崎志乃舞)、鷲尾三郎義久(木下宏紀)、それにいづれ彦島での決戦は避けられないと考え一ノ谷の合戦終了後、1年前から斥候させていた漁師出身の海野浪安(坂田由里)である。彼は鵯越(ひよどりごえ)を降りた者の1人である。この日は海野の報告を聞くのがメインだった。
 
『だったら、潮の流れが勝負を分けるな』
と静は言った。
 
『はい。この付近はいつも速い潮が流れています。速い時は半時(はんとき=1時間)に140-150町ほども流れることがあります』
 
『そんなに速いのか!』
『この地図で見て頂いて、秋津島(本州)と筑紫島(九州)の間を大瀬戸、秋津島と彦島の間を小瀬戸と言いますが、大瀬戸の中でこの壇ノ浦と和布刈(めかり)の間を特に早鞆の瀬戸(はやとものせと)といって、海峡の幅が6町(650m)もありません。ここがいちばん速い時には1分(ぶ)で7町くらい、ですから半時に140-150町相当の速さになるんですよ』
 
『そこは怖いな』

 
『これがここの満珠島・干珠島あたりになればかなり緩やかになります』
 
『それ、どちらが満珠島でどちらが干珠島?』
『それが聞く人ごとに違うことを言うのでハッキリ分かりません(*12)』
『むむむ』
『まあいいか』
 
『それから、こことこことここ、湾になっている所では反流になりますのでお気を付け下さい』
 
(上記の地図で濃い青で塗った部分である)
 
『それは知らないと戸惑うだろうな』
 
『普通の軍船は普通半時に30町か40町くらい、櫛崎殿から頂いた早船でも半時に70-80町くらいしか進めません。だからここの瀬戸の流れが速い時は完全に逆向きに押し戻されることになります』
 

(*12)「萬珠島・千珠島」ではなく「満珠島・干珠島」であることに注意。満潮・干潮から採られた名前で、ここに彦火火出見尊(山幸彦)が海神より授かった潮満珠(しおみつたま)と潮干瓊(しおひのたま)を埋めたという伝説がある。
 
どちらがどちらの名前なのかは一定しておらず、現代の公式文書でも、土地台帳では沖の島が干珠、国土地理院の地図では沖の島が満珠とされている。忌宮神社は沖の島を満珠としている。
 

『勝負所は東流れと西流れが切り替わる時かな』
と弁慶が言う。
 
(風は東風というのは東から吹いてきた風だが、潮流は東流れとは東へと流れていく潮である。風向きの言い方と潮流の向きの言い方が逆なので注意)
 
『はい。そういう時は潮止まりと言いまして、一時的に潮流がほとんど無くなりますから、この海域に慣れていない水主(かこ)たちにも何とかなると思います』
『平家方はこの付近の潮流に詳しい者ばかりと考えた方がいいだろうね』
 
『流れの切り替わりは月の出入りと何時(なんとき)くらいずれる?』
『周防灘(瀬戸内海側)と響灘(福岡県の北・山口県の西)との間の潮位の差で流れが生じるんですが、各々の潮位の変化が結構難しいので、地元の漁師でも予測は困難です』
 
『うーん・・・』
 
『やはり小潮(*14)の時の方が攻めやすいかな?』
『はい。大潮(*14)の時は慣れている平家方が圧倒的に有利になりますよ』
『ということは上弦か下弦の月の時期に攻めた方がいいな』
『そうなります。小潮の時はどうかすると片瀬になる場合もあります』
『片瀬って何だっけ?』
 
『潮流の向きは普通は日に2回切り替わるのですが、小潮の時は潮位差が小さいので、東流れが少しずつ弱くなっていって、そろそろ西流れに切り替わるかな・・・と思ったら切り替わらないまま、また東流れが強くなることがあるんです』
『何と!?』
 
『それは小潮の時はいつも起きるのか?』
『そうとは限りません。でもそういう時は切り替わってもあまり強くならない内にまた反転しますよ』
『どっちみちこちらにとって有利だな?』
『はい。潮が弱い時こそ、不慣れな水主たちにも何とかなります』
 

「潮止まりってさぁ」
と政子は言った。その言い方から何かエッチなこと考えたなと私は思った。
 
「男の子が少しずつ服装を女物に変えていって、潮流転換するみたいに女の子に性転換するかと思ったら、学校に出て行くので仕方無く、男の子の服に戻すようなものかな」
 
私は敢えてコメントはしないことにした。
 
「でもそういう時もパンティは女の子用を穿いてた方がいいよね?」
「そうだね。体育とか身体検査とか無い日ならね」
 

(*14)潮汐は基本的に月の引力の影響が最も大きいが、太陽の引力も潮汐に影響を与える。太陽の潮汐力は月の潮汐力の約0.4倍である。
 
満月・新月の時は太陽と月が同じ方向に潮汐力を働かせるので潮汐は大きくなり、潮流も速くなる。これを【大潮】という。逆に上弦・下弦の時は太陽と月が直角方向にあるので、双方の潮汐力が打ち消しあい、潮汐は小さくなって潮流も遅くなる。これを【小潮】という。
 
関門海峡の潮流は周防灘と響灘の潮位差によって生じる。周防灘の潮位差は最大で4m近くあるのに、響灘は1.5m程度しかないので、満潮の時は周防灘の水面が高くなり西流れが生じ、干潮の時は響灘が高くなって東流れが生じる。
 
干満が1日2回あるので普段は1日2回潮だが、小潮の時は水面高低の反転までたどりつかずに潮流反転も起きず、1日1回潮になってしまうことがある。ただしその場合でも潮は一時的にかなり弱くなり、潮流反転の時に近い緩やかな流れになる。
 
壇ノ浦の戦いが起きた元暦2年3月24日は下弦の月で小潮である。この日の太陽と月の出入、満干・潮流の向きは海上保安庁の計算サイトで見ると、このようになっていた。なお、この数値は“日本標準時”なので、下関時刻はこれより16分引く必要がある。
 
0:30頃 潮流が西向きに転換
1:28 月出
3:30頃 満潮
5:00頃 夜明け
5:30 日出
6:53 月が南中
8:30頃 潮流が東向きに転換
9:30頃 干潮
12:12 太陽が南中
12:16 月入
15:00頃 満潮
18:55 日没
19:13 月が北中
19:25頃 日暮れ
21:40頃 干潮
25:30頃 潮流が西向きに転換
 
朝夕(海上保安庁水路部)
潮流(海上保安庁水路部)
 
上記海上保安庁水路部の計算による当日(元暦2年3月24日=ユリウス暦1185.4.25)の壇ノ浦の1時間ごとの潮流推測値(単位はノット)は下記のようになっている。
 
0:00 東0.4
1:00 西2.2
2:00 西4.4
3:00 西5.6
4:00 西5.9
5:00 西5.4
6:00 西4.3
7:00 西2.7
8:00 西0.8
9:00 東1.0
10:00 東2.3
11:00 東3.0
12:00 東2.7
13:00 東1.8
14:00 東0.7
15:00 東0.2
16:00 東0.5
17:00 東1.4
18:00 東2.5
19:00 東3.9
20:00 東5.1
21:00 東5.9
22:00 東6.1
23:00 東5.3
24:00 東3.6
25:00 東1.1
26:00 西1.6
 
つまりこの日は片瀬(1日1回潮)になっていた。但し15時頃は潮流がかなり弱くなっている。
 

ヒバリが語る。
 
『義経は小潮になる3月24日を決戦の時と決め、陸上から支援してくれるよう、九州側にいる範頼にも伝えましたが、平家方に情報漏れするのを避けるため、このことは義経の側近と範頼の側近だけが知っていました』
 
『一週間ほど前に範頼の軍から義経の軍に移動してきていた梶原景時は、数日以内に攻撃を仕掛けると耳にしたようで、義経の所に来て、自分に先陣を務めさせて欲しいと言いました。しかし義経は許可しませんでした。義経が詳細にこの海域の潮の状況を調査し、地元の船頭もある程度確保していたのに対して、景時はそういう情報も持っていないでしょうし、この海域に慣れた船頭もいないでしょう』
 
『攻撃は私が最初に出るから、それまでは他の者は動いてはならない』
と義経(演:?)が言うと、梶原景時(演:タンニ・バーム)は
 
『でも大将が先陣に出るなんて聞いたことないですよ』
と言った。すると義経はこう答えた。
 
『景時殿、そなたはとんでもない勘違いをしている』
『え?何か?』
 
『私は大将などではない。大将は鎌倉におられる頼朝殿だ。私は下っ端の捨て駒に過ぎない。私が死んでも頼朝殿は何とも思われないだろう。私の成功は全て頼朝殿の成功であり、私の失敗は全て私の責任である。私の仕事は頼朝殿の捨て駒になることだから、私は死んでも構わないのだよ。だから私が先陣を務める。それで私がやられた時は侍大将たる景時殿の出番だ。私が少しでも平家の戦力を削いで、景時殿がやりやすいようにするから』
 
と義経は言った。
 
景時(カメラに向かっている)は黙って義経(カメラに背を向けている)を見つめていた。そこにヒバリの語りが入る。
 
『この時、景時は思ったのです。こいつには色々個人的な恨みもあるにはあるが、それ以上にこいつは危険だ。こんな奴がいたら、自分は頼朝を倒して天下を取ることができないではないか?こいつは絶対陥れてやらなければならない。理想は頼朝と離反させて潰し合いをさせることだ、と』
 

『そして元暦2年3月24日の早朝4時頃、義経は手勢の船100艘ほどを率いて、拠点にしていた小月の港を出発しました。これは潮流の西流れが最も強い時間帯に出発したかったからです』
 
『源氏船団の出港は平家側の斥候により早馬と狼煙のリレーで彦島の本陣に伝えられ、平家側は安徳天皇たちが乗る船も一緒に彦島を出発、両者は朝6時頃、壇ノ浦より少し東側の領域で相まみえました』
 
『平家がわざわざ戦の場に天皇や多数の女性たちまで連れてきたのは、彼女らを彦島に残して出て行けば、範頼の軍がそこを急襲して、天皇を奪還する恐れがあったからです。それで平家はこれら足手まといになる者たちを連れて一緒に行動する必要がありました。これが最終的には勝負の分かれ目になったとも言われています』
 
『屋島の戦いの時は一番大きな船に天皇や二位の尼などが乗っておられたのですが、この戦いの指揮を執ることになった平知盛は、それをおとりにして伏兵を潜ませ、天皇や女性たちは中規模の船数艘に分散して載せていました』
 
『平家方は、その大きな船を反流があって比較的潮流が弱い田ノ浦湾に行かせ、自分たちは源氏と矢を射合って戦いを始めました。最初は源氏方優勢で進みました。潮流は強い西流れなので源平双方流されて、壇ノ浦と和布刈の間の早鞆の瀬戸付近が戦場になります。すると義経配下の船の内半数くらいは早い潮流に慣れていないので、うまく操船できず、岸にぶつかってしまう船などもあります。このため源氏方の勢いが弱くなります』
 
画面では源平双方が海上で戦っているシーンが映るが、これは千本浜で撮影した映像と、室内のセットで撮影した映像、模型を使った撮影、更にはCGを、たくみに混ぜて使用している。
 

「なんかさあ」
とテレビを見ている政子が言った。
 
「紅白って今でもよく対抗戦があるけど、しばしば赤は月経の色、白は精液の色で赤は女性の色、白は男性の色ともいわれるよね」
「うん。そういう話はある」
 
「でもこの番組見てたら、平家ってわりと女性的、源氏って男性的な気がする。この船上でも源氏はほぼ男性ばかりなのに、平家はかなり女性が参加しているし」
 
「それはあると思う。混乱した船上の中で、平家の武将の中には源氏の武将を装おうとした者もあったけど、お歯黒をしていたのでバレたという話もある。平家って、武力も持つ貴族で、源氏は純粋な武士。だから平家の幹部たちって、美学で動いている面もある」
 
「当時女性は戦場にいても殺されないよね?」
「巴御前や、この番組での静御前みたいに戦闘自体に参加していない限りは、殺されるまではなかったと思う。まあ船が沈んだり、流れ矢に当たって死ぬことはあるだろうけど」
 
「じゃ女装すれば逃げられかも?」
「まあ女装して女に見える人ならね」
 

『先陣の義経たちの形勢が不利になっているのを見て、後方に控えていた景時が率いる残り300艘ほどの船が応援に来ます。しかし彼らはこの海域に慣れていない船頭ばかりなので、義経たち以上に操船に失敗してリタイアする船が続出します。また囮とは知らずに“天皇を奪回しようと”田ノ浦に居る大型の船を目指していき、そこに潜む大量の兵から激しい攻撃を受けて大きな被害を出しました』
 
ヒバリが語る背景に多くの戦闘シーンが流れている。
 
『そして7時を過ぎると潮流は緩やかになり、源氏方の船も何とか操船できるようになります。ここでしばらく互角の戦いが続くのですが、8時半になると潮の流れが東向きに変わり、11時頃には潮流の速さが3ノットに達します。大きな船ほど推力が弱いため潮に流されようになり、結果的に源氏方は後退することになります。戦線は満珠島・干珠島付近まで下がってしまいました』
 
↓(再掲)

 
『ところが12時頃に、平家方の田口成良率いる300艘ほどが突然源氏方に寝返ってしまったのです。それまで平家の赤旗を掲げていたのが、唐突に源氏の白旗を掲げました。これで形勢は逆転してしまいました』
 
背景には赤旗を掲げていた船がそれを降ろして白旗を揚げる様子が映る。
 
『実はこれには伏線がありました。屋島の戦いの時に田口成良の子・田口成直が大軍を率いて屋島を出て河野通信を討ちに行っていました。その隙を狙って義経は屋島を攻略しています。そしてその直後、義経の部下・伊勢三郎が、成直を欺し、父の成良が捕虜になっているから、あなたも投降しなさいと言って、投降させてしまったのです。そのため結果的に子の成直が人質になっている状態で、今度は義経の腹心・掘景光が、父の田口成良を口説いて、彼の部隊は壇ノ浦の戦いの途中で寝返る密約ができていました。ですから最初から源氏の白旗を用意して彦島から出陣していたのです』
 

『元々源氏が400艘ほど、平家が800艘ほどで戦っていたのに、300艘が寝返った結果、源氏700艘と平家500艘と、形勢がひっくり返ってしまいます。そもそも平家方の船には天皇や女性たちなど非戦闘員が多数乗った船もあるので、500艘の内、実際の戦力にならない船もかなりありました』
 
『そして田口成良の寝返りをきっかけに、他にも源氏方に寝返る武将がどんどん出てきます。白旗など用意していなかった武将も、取り敢えず赤旗を降ろし、適当な白い布を掲げて源氏方であることを示しています』
 
『更に沿岸には範頼の軍が居て、岸から多数の矢を射てきます。加えて田口成良は源氏方に極めて重要な情報をもたらしました』
 
『それは田ノ浦湾に待避している大型の船に安徳天皇は乗っておらず、戦場の後方に居る中型の船に隠れているというのです。そこで源氏方は大型の船は無視して、平家の船の後方にいる中型の船を目指しました』
 
『ところが平家方が劣勢になったと思われた14時すぎ、平家方の船に異変が起きます。それは平家方の船から身投げする者が出始めたのです』
とヒバリは語った。
 

『まず平清盛の弟たちですが、平経盛(つねもり:平敦盛の父)は戦いから離脱して上陸し、出家!しますが、その後、戦場に戻り、弟の平教盛(のりもり)と一緒に、鎧に重りを付けて手を取り合って水中に身投げしました』
 
『これで平清盛の兄弟で残ったのは平頼盛(よりもり)だけです。彼は木曽義仲が京都に攻めてきて平家一門が都落ちした時、宗盛から忘れられていて!ひとり京都に取り残されてしまいました。それで仕方なく源氏方に投降したので、それ以降頼朝の配下に組み込まれました。彼は頼朝が朝廷や平家側と様々な交渉をするのに重要な役割を果たすことになります。壇ノ浦以降は出家して余生を過ごしています』
 
『清盛の息子達の中で、長男重盛(しげもり)と次男基盛(もともり)は源平の合戦が始まる前に亡くなっています。その重盛の息子で、資盛(すけもり)と有盛(ありもり)、それに基盛の息子の行盛(ゆきもり)は3人で一緒に水中に身を投じました』
 

 
『但し行盛については最後まで戦って討ち死にしたという説もあります』
 

画面には中型の屋形船が映る。
 
正面には二位尼(平時子−清盛妻:演=上野陸奥子−今井葉月の叔母)が8歳(満でいうと6歳)の安徳天皇を抱えている。二位尼は覚悟を決めているのか喪服用の灰色二枚重ねの衣を頭にかぶり、練絹の袴を穿いている。近くには建礼門院(平徳子−清盛娘で安徳天皇母)が正装の五衣唐衣裳を着ている。その他、多数の女性たちが乗っている。
 
そこに平家方総大将の平知盛(演:町田朱美@信濃町ガールズ)が乗り込んでくる。
 
『もはやこれまでです。見苦しいものは捨てて、船内を掃除して下さい』
と言って、自ら掃除を始めるので、女房たちも協力して船内のゴミを拾い、拭き掃除などをする。
 
ひとりの女房が尋ねた。
『戦況はどうですか?』
すると知盛はカラカラと大笑いして言った。
『間もなく皆さんは見たこともないような関東男たちを見ることになるでしょう』
 
ヒバリが画面隅の枠内に姿を現し厳しい顔で解説する。
 
『関東男、つまり東(あづま)武士というのは源氏の武士たちのことで“見る”というのはセックスするということ。つまり君たちはもうすぐ源氏の武士たちにレイプされるだろうね、と言っているのです。古来、戦争では敵方の男は殺し、女は犯すのが基本でした』
 

船内では女房たちが恐怖のあまり悲鳴をあげる。
 
すると二位尼は立ち上がって言った。
『私は女ですが、敵の手には掛かりません。主上のお供をして参ります。自分も主上のお供をしようと思うものは、私に続きなさい』
 
すると美しい服を着て黒髪を背中の下まで伸ばした、幼い安徳天皇(演:間島志保美:年長さん)が言う。
『尼前(あまぜ)、我をどこに連れて行くのか?』
 
ここで二位尼は安徳天皇の祖母である。しかし安徳天皇は幼いながらも自分が天皇であるという意識があるので、二位尼はあくまで臣下にすぎない。
 
そう天皇が訊いたのに対して、二位尼は答えた。
『この国は粟散辺地(ぞくさんへんち:粟粒を撒き散らしたような辺境の地)で不快な所でございます。極楽浄土という素晴らしい土地へお連れ申しあげます』
 
それで二位尼は天皇に東を伏し拝んで伊勢の大神宮にお暇を申させ給い(つまりここで天皇は退位したことになる)、次いで西を向いて阿弥陀浄土の迎えを頼んで念仏を唱えさせた。
 
それから二位の尼は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の箱を脇にはさみ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を腰に差し、天皇を抱いて水中に身投げをした。天皇の衣が花のように美しく広がった。
 
(このシーンで飛び込む時に上野陸奥子が抱いているのは人形である)
 
なおこのシーン、平家物語は「悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御姿を散らし、情けなきかな」と描写する。わざわざ花にたとえるのが、安徳帝が女帝であると示唆するかのようである。
 

知盛(町田朱美)は二位尼と先帝の身投げを見て満足そうに他の船に移って行った。船内では続いて建礼門院(演:姫路スピカ)が両袖に焼石と硯を入れて重しにして飛び込む。更に大納言佐が八咫鏡を持って海に飛び込もうとした所を源氏方の武士に袖を船端に射付けられて転び、身投げは叶わなかった。
 
彼女を保護して鏡の箱を回収しようとした武士が、中身を確認するのに箱を開けると、突然目がくらみ、鼻血が垂れた。すると近くに居た女性が
 
『それは御神鏡なるぞ。凡人は拝見しようとすれば命が無い』
と言ったので、武士は思わず退く。それでその女性が箱にふたをする。
 
そこに義経の部下・掘景光と渡辺党の渡辺源五右馬允眤(わたなべ・げんごむまのじょう・むつる)がやってくる。
 
『どうかしたのか?』
『帝と二位尼、それに何人か女が飛び込んだ』
と箱を抱えている女性が言うので、船縁に出てみると、ひとりの女性が波間に浮かんでいる。それで渡辺が熊手で女性の髪を引っかけて船上に引き上げた。
 
『そなたは?』
と渡辺が尋ねると
『前(さき)の太政大臣・平清盛が長女・徳子と申します』
と名乗る。
 
『何と!建礼門院様であらせられますか!』
と掘も渡辺も驚いた。
 
ヒバリが画面隅に登場して解説する。
『建礼門院は重しにと硯などを袖に入れたのですが、硯程度が重しになる訳がないですよね。また彼女は死ぬ時にみっともない格好はできないと、正装の五衣唐衣裳を着ていたので、この何重にも重ね着した服が浮きの役割をして沈まなかったようです。この建礼門院の服装が「まるで十二枚くらい重ねたようだ」と言われ、ここからこの衣装を「十二単(じゅうにひとえ)」とも呼ぶようになったと言われています。つまり十二単という名前はこの時のエピソードをもとに生まれた鎌倉時代以降の俗称で、正式名はあくまで五衣唐衣裳(いつつぎぬ・からぎぬ・も)です』
 

「あれ〜〜?姫路スピカちゃん、建礼門院だったの?」
とテレビを見ていた政子が声をあげた。
 
「え?どうかした?」
「スピカちゃんはてっきり義経役だと思っていたのに」
「まああの子はアクアと身長が近いから、結構ボディダブルやスタンドインをしているよね」
と私も答えた。
 
ネットでも、姫路スピカは義経と思っていたのに、という声が多数あった。
 

別の武士が別の女性たちも掬い上げた。按察使局伊勢(あぜちのつぼね・いせ)という女性、それに平重衡の妻・大納言典侍などである。義経の妹にあたる廊御方(平清盛と常磐御前の娘。演:エキストラから昇格した仮名・萩原愛美さん)は、みんなが飛び込んだので自分も飛び込まないといけないのか?と、おろおろしていた所を弟の一条能成が保護した。
 
『姉上、死んではなりませぬ。あなたは清盛殿の血は引いていても、私や義経殿の姉妹ですぞ。私のそばにいてください』
 
また、波間に箱が浮いているのを見てひとりの武士が引き上げたが、神鏡の箱を抱えている女性が
『それは神璽なるぞ。私が預かる』
と言う。女ならば、いざという時には力尽くで奪い取れるだろうと考え、武士はその箱を女性に預けた。
 

掘景光は腕を組んで、自分たちに飛び込んだ女性たちを助けてあげてと言った人物を見ていた。彼女は神鏡の箱と神璽の箱を膝に抱えている。
 
『女房殿、どこかで拝見つかまつったことが無かったろうか?』
『あはは。吉次くん、久しぶり〜』
『そなたまさか平時忠殿か?そなた充分女に見えるぞ!?』
『僕、鏡と珠を守ったんだから、殺さないでぇ』
『俺は戦意の無い奴は殺さん』
 
『それよりこの神宝、判官(ほうがん:義経のこと)殿に預けたい。連れて行ってくれ』
『分かった。剣は?』
『二位尼が腰に差して飛び込んだ』
『何と!?』
 
掘が近くにいる武士を見る。
『探してきます』
と言って3人の武士が甲冑を脱いでから海に飛び込んだ。
 

明智ヒバリが解説する
 
『源氏方は、他に安徳天皇の皇太子扱いであった7歳の守貞親王を乳母の治部卿局とともに保護しました。親王はこのあと出家しますが、後に承久の乱の後、天皇になったことのない身でありながら異例の“治天の君”に就任しています』
 
『なお、この治部卿局というのは実は平知盛の妻です。その知盛はあちこちの船に自決を促して回った上で、浮かび上がって辱めを受けてはならないと、鎧を二重に着て水中に身を投げました』
 
背景では平知盛役の町田朱美(信濃町ガールズ)が、着ている鎧の上に更に鎧を着て、海に飛び込むシーンが出る。実際には町田は水深2mほどの所に飛び込んでおり、海に入っていくシーンはスタントマンさん、更に鎧を重ね着した知盛が海中深く沈んで行く様子は人形を使って撮影している。
 
ヒバリは更に語る。
 
『そしてその辱めを受けたのが知盛の兄で平家一族の中心だったはずの平宗盛と嫡男・清宗でした』
 
『宗盛は弟の知盛から自決を促されたものの、死ぬのが恐くておろおろしている内に部下から「見苦しいですぞ」と言われて、息子の清宗と一緒に海に突き落とされてしまいます』
 
『しかしそれでも死にきれずに海面を泳いでいたら、義経の部下・伊勢三郎が熊手で2人を船上に引き上げてしまいました。それで親子共々源氏に拘束されることになりました』
 

『最後まで戦ったのが平教経(のりつね、演:西宮ネオン)です。彼は敗戦濃厚な戦場の中でもひとり気を吐き、多数の源氏の武士を斬っていきます』
 
とヒバリ言ったところで、ヒバリの映像は隅に縮小されて、戦闘画面になる。西宮ネオン演じる平教経がひたすらエキストラの武士役の人たちを斬っていく。
 
『くそぉ、雑魚ばかり斬っても仕方ない。どこかに大物は居ないか?』
などと言っていた時、遙か向こうに立派なV字型の、牛の角のような兜と金色の鎧を着けている武士を見る。
 
『よし、あいつを斬ろう』
と言ってそこに突進するが、その武士はこちらに気付くと、ひょいと他の船に飛び移る。
 
『ん?』
と声を出しながら教経もその船に飛び移るが、向こうは更に別の船に飛び移る。それでこちらもまた飛び移る。これを5〜6回繰り返した。
 
『こら!どこの誰か知らんが俺と勝負しろ!俺は平教経だ!』
と教経役の西宮ネオンが叫ぶが、向こうは船から船へと飛び移るばかりである。
 
八艘くらい飛び回った所で、小柄で御高祖頭巾の上に兜を着け、水色の鎧を着けた武士が教経の前に立った。
 
『ん?女か?どけ。俺はあの牛みたいな兜を着けた武士を追っている』
と教経(西宮ネオン)が言う。
 
多くの上級武士はこの時代、むしろ烏帽子を着けた上に兜をかぶっている。この時代の兜には烏帽子の先を出す穴まで空いている!
 

『あいにく九郎判官殿は忙しい故、妻の私が相手しよう。佐藤静(さとうしずか)である』
 
『何?あいつが義経なのか!?逃げてばかりの根性無しだな。しかし義経殿の奥方が武芸ができるとは知らなかった。悪いが、女の相手はしていられない。どいてくれ。義経殿と勝負したい』
 
『我が兄、佐藤三郎継信は、屋島の戦いでそなたの弓に討たれた。仇を討たせてもらう』
と静(アクア)。
 
『ああ、思い出した。お前はあの時、義経の後ろを走っていた奴だ。俺の矢が少し逸れてお前の所に飛んでいったら、近くにいた別の武士が身をもってかばった』
と教経はその時のことを思い出す。
 
『よかろう。先に奥方を斬ってから、義経殿を斬る』
と言って教経は刀を抜いた。
 
静も刀を抜く。
 
双方睨み合うが、一瞬西宮ネオンは『え?』と呟く。しかし気を取り直して相手を睨む。
 

双方突進する。
 
教経が真横から太刀を払うようにして静の鎧の隙間を狙うが、静は空中に飛び上がってそれを避け、回転しながら教経の後ろから彼の鎧の継ぎ目に刀を刺した。
 
(このシーンはバネの利く飛び板を使って撮影したが、体重の軽いアクアは本当に西宮ネオンの頭上を飛び越えている。このシーンは5回くらいやって成功した。ちなみに刀は刺すと刀身が三脚の足のように折りたたまれるタイプ。時代劇の撮影では昔からよく使われる小道具である)
 

静はすぐに刀を構え直すが、教経はそのまま前のめりに倒れてしまった。物凄い血が出ている。船板が赤く染まる。静はじっと倒れた教経を見ている。
 
『死んだかな?』
と呟いたら、教経は倒れたまま身体を反転させてこちらを見た。
 
『あはは。俺ともあろうものが最後に女に負けるとはなあ。しかし静殿、気合いが物凄い。最初あまりの気迫に一瞬たじろぎそうになったぞ。そなたは日本一の武芸者だ。男だったら俺の妻にしたいところだ』
 
『男では妻にはできないと思いますが』
『あ、そうか。俺は何を言っているんだ?』
 
画面がスイープされてヒバリが登場し
『きっと「男にしてやりたい」と「俺の妻にしたい」が混線したんです』
とフリップを持って解説したが、ネットでは
 
「アクアは男であっても俺の嫁さんにしたい」
「アクア様を私の奥さんにしたい」
という書き込みが多数であった。
 

テレビを見ていた政子は
「ね、ね、女の子を男の子にするには、ちんちんが必要だよね?ネオン君のちんちんを取ってアクアに移植するのかな?」
などと言っている。
 
「アクアにはちんちん付いていると思うけど」
「ほんとかなあ」
 

画面は再度スイープされて教経と静の場面に戻る。
 
『言い残すことがあらば、頼盛殿なり誰なりに伝えるが』
と静(アクア)が言うと
『頼盛?あんな裏切り者に伝えることはない!』
と教経(西宮ネオン)は怒ったように言う。
 
そして立ち上がった。
 
『まだ動けるのか』
と言って静が刀を構えるが、そこに怪力で知られた安芸太郎・次郎の兄弟と、兄弟の郎党の大男がやってきた。
 
『静殿、危ない所でした。ここは我らにお任せ下さい』
と言う。3人はさっきの戦闘を見ていないので、まさか静が教経を斬ったとは思ってもいない。
 
それで真っ先に郎党の大男が突撃するが、教経は既に瀕死の状態なのにその大男を軽く海の中に放り投げてしまった。大きな水音がする。
 
静は思わず『凄い』と声をあげた。
 
それで安芸太郎・次郎が左右から同時に飛びかかった。しかし教経はこの2人を各々片腕で脇に抱え込んでしまう。
 
『何て力なの!?』
と静(アクア)が驚いたように言う。
 
『さらば、おのれら死途の山の供せよ』
と言って、教経はその2人を抱えたまま海に飛び込んでしまった。
 
3人はそのまま浮き上がってこない。静は刀を収め、その海に向かって合掌した。
 

明智ヒバリが解説する。
 
『壇ノ浦の合戦は『玉葉』では申の刻(午後4時頃)終わったとされています。それからしばらくの間、この近辺には多数の遺体が打ち上げられます。しかし安徳天皇らしき遺体、二位尼らしき遺体は見つからず、また源氏方が大量の人員を動員して海底を捜索したものの、三種の神器のひとつであり、二位尼が腰に差して入水した、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、別名・草薙剣(くさなぎのつるぎ)は発見できませんでした』
 
(安徳天皇の遺体は下関の浜に打ち上げられたという説、網に引っかかっていたのが見つかったという説もあるが信頼出来ない。二位尼の遺体が広島の宮島に打ち上げられたという説もあるが、遠すぎて考えにくい)
 
『但しこの剣は元々崇神天皇の時代に作られた形代、つまりコピーであり、本物はずっと名古屋の熱田神宮に置かれています。壇ノ浦の合戦の後、伊勢神宮より新たな形代とすべき剣が贈られ、現在はその剣が宮中に置かれています』
 
(正確には一時的に清涼殿昼御座の剣で代用していたが(失われたのは夜御座の剣)、1210年、3代将軍・源実朝の時代に、順徳天皇が即位した時、伊勢神宮から神庫(ほくら)にあった剣の中から選ばれた剣が天皇に贈られ、それがその後、天叢雲剣の形代として宮中に保管されている。なお熱田神宮の剣は太平洋戦争の直後、米軍による接収を恐れて水無神社に移されていた)
 
『合戦の後、あちこちで剣を発見したといって、奉献されたものもあるのですが、いづれもニセモノと判定されました。判定の基準はよく分かりません。その中のひとつは平野神社に預けられたと太平記にありますが現在その所在は不明です』
 
『壇ノ浦の戦いから6年後の建久2年(1191)、後鳥羽天皇の勅命により戦場近くの阿弥陀寺に安徳天皇の御影堂が建立され、建礼門院の乳姉妹で、少将の局命阿尼という人がそこに奉仕することになりました。ここには平家一門14人の供養塔も並んでいます。阿弥陀寺は明治時代に寺から神社に変更になり、赤間神宮と改名されました』
 
と言うヒバリの背景に、現代の赤間神宮の水天門が映る。
 
『明治天皇の皇后・昭憲皇太后宮はここで「いまも猶、袖こそぬるれ、わたつみの龍のみやこのみゆき思へば」との御歌を奉献なさいました。それをきっかけに、安徳天皇が龍宮に行かれたのであれば、それにふさわしい門をということで、このように竜宮城のような門が作られたのです。昭和33年に完成しています』
 
 
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【クロ子義経】(3)