【クロ子義経】(2)

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明智ヒバリの語りは続く。
 
『都落ちした平家が山口県の彦島と香川県の屋島に本拠を置き、瀬戸内海を勢力下に置いたのに対して、源氏方は水軍を持っていなかったので、これを攻めあぐねました。しかし何とかしなければというので、木曽義仲自身が1万人近い兵を率いて屋島に向かいました。しかし平家は義仲が瀬戸内海を渡海する前、現在の倉敷市にある水島で叩くことにしました。時は寿永2年閏10月1日』

 
『平家方が、わざわざ対岸まで行って源氏の軍勢と戦うことにしたのは、実はこの閏10月1日、グレゴリウス暦で11月24日という日付に重大な意味があったためなのですが、そのことを木曽義仲の側は全く知りませんでした』
 

『平家方は夜の内に船を出し、水島沖に舟を並べ、舟と舟の間に板を渡して水面上に広い陣地を作っていました。源氏方も何とか調達した舟を揃え、平家の陣に攻めていきます』
 
『この時代の水上の戦いというのは、現代のように大砲を撃ち合ったりというのは無いので、専ら相手の舟に飛び乗って甲板の上で白兵戦を行うというものです。平家方は水上での戦いに慣らしている馬も多数動員していました』
 
ここで海岸に多数の舟が並んでいるシーンが出るが、これは富士川の撮影にも参加したエキストラを使って沼津市の千本浜海水浴場で撮影したものである。エキストラの人たちはこのように動いている。
 
(土)富士市内
13:00
A斑=体育館で倶利伽羅峠の崖
B斑=牧場で倶利伽羅峠の火牛
C斑=オープンセットで衣川館の戦闘
D斑=市内の急傾斜面(高さ3m)で一ノ谷鵯越
E斑=田子の浦みなと公園で一ノ谷海岸戦闘
17:00-18:00 バーベキュー これも撮影!!
18:00-21:00 富士川の戦い(頼朝vs忠度・知度・維盛)
 
(日)AM10:00
(A)沼津市千本浜海水浴場 水島の戦い(義仲vs重衡・通盛・教経)
(B)西伊豆町堂ヶ島 屋島の戦い(義経vs宗盛)
(C)富士川の戦い撮影場の清掃
PM 千本浜海水浴場
12:30 壇ノ浦の戦い
15:30-16:30 バーベキュー これも撮影!!
16:30-17:00 白鳥リズム・スペシャルステージ!
17:00-18:00 海岸清掃
 

舟は一部だけ本物(但しエンジンは付いていない)で多くは発泡スチロールを組立てスプレーで色を塗った張りぼてに近いものである(一応水には浮くが人は乗らない:撮影終了後はファンクラブグッズ通販のクッションに再利用させてもらった)。その張りぼても入れて千艘の舟を用意しており、費用は2億円近く掛かっている。海戦で舟の上に乗る人は、最低25mは泳げることを条件にしており、救命胴衣の上に(プラスチック製)甲冑や(女性貴族役の人は)袿などを着けている。泳げない人は浜辺の戦闘シーンに入ってもらった。万一の場合に備えて、ライフセーバーの資格を持つ人を200人動員しているが、幸いにも事故はなかった。
 
ちなみに男性でも女性の服を着れば女性に見える人は女性貴族役をしてもらっていいと発表したら、希望者が50人もいて、念のため面談の上、実際に女性貴族役をしてもらった。見ていたらほんとに可愛い子がいて、ひとりには廊御方役をしてもらい、しっかり顔も映っている(この人には普通に役者さんのギャラを払った:化粧品を買うといって喜んでいた)。
 

水島の戦いの様子が映る。沖に舟を並べて陣取る平家に対して、源氏方は浜辺に並び、こちらも舟を出して戦闘体制である。源氏方の舟に対して平家方が矢を射始めたところから戦闘は始まった。
 
テロップで《寿永2年閏10月1日朝9時》というのが流れる。
 
明智ヒバリの姿が画面左隅に枠を取って映り、こう語る。
 
『戦いは最初は義仲側が押す状況で展開しましたが、劣勢の平家方の武士の中にチラッ、チラッと太陽を見上げる者がありました。その意味を源氏方の武士たちは見当もつきませんでした。そして現地時刻10時5分頃』
 
巴御前役の石川ポルカがふと空を見上げて声をあげる。
 
『何だ!あれは!?太陽が!??』
『太陽が欠けてる』
と近くで戦っていた楯親忠(今川容子@信濃町ガールズ)が驚いたように声をあげる。
 
最初は僅かな欠けだったため、気付かない者もあったが、気付いた者が声をあげるので、多くの兵士たちに知れ渡っていく。そして太陽の欠けはどんどん大きくなっていった。
 
『神が怒っているんだ!』
 
『やはり三種の神器を持っておられる向こうの帝が本物なんだ。その帝を攻めたりするから天が怒っているんだ』
 
などと言い出す者がある(実際には平家方の武士が言葉に出して、それが源氏方の武士にも伝搬した)。
 
戦闘をやめる者がある。退却してしまう者もある。
 
義仲や今井兼平らは
 
『ひるむな!月だって欠けるではないか』
 
などと声に出し、一時は驚いたものの気を取り直した巴御前も
 
『宮中に置くべき三種の神器を持ち出した平家に神は怒っているのだ。こちらに分があるぞ。戦え!』
 
などと声を出すが、武士たちの動揺と混乱はどうにもならない。源氏方が混乱している間に平家側はどんどん攻めて、源氏方は総崩れになってしまう。そして太陽がほとんど欠けてしまった頃、戦いは平家方の圧勝で勝利した。源氏方は幾人もの有力武将を失い、逃亡した兵士たちも多く、壊滅状態となった。
 

明智ヒバリが登場して語る。
 
『この日、実は金環食が起きたのです。四国の西半分、九州の北半分くらいが金環食帯に入っています。戦闘が行われた水島付近は金環食帯には入っていないものの、93%まで欠ける大きな部分食が発生しました。NASAのコンピュータによる計算を見ますと、この日の倉敷市では、日本標準時で10:10から部分食が始まり、11:48に93%の最大食、13:32に部分食が終了しています』
 
NASAの日食サイト
 
『平家はこの日日食が起きることを知っており、わざと戦闘時間がその日食に掛かるようにこちらから海を渡って相手の陣地の近くまで行き戦いを始めました。ここに来ていたのが、頼朝の本隊や、義経の軍などなら、日食のことも知っている文官がいたかもしれませんが、義仲の軍には、あいにくそういうスタッフはおらず、日食の発生に武士たちが混乱してしまい、この戦いは平家の勝利になったのです』
 
なお、この日食の映像は実はこの放送のわずか4日前、2019.12.26にアラビア半島からインド、インドネシア、グアムなどで観測された金環食の映像を使用している。スタッフをサウジアラビア、スリランカ、スマトラ、グアムに派遣して撮影しているが、万一どこででも撮影失敗した場合に備えて、2017.2.26にチリで撮影された金環食の映像を購入して、それであらかじめ映像を編集しておいた。実際には今年の金環食の映像が撮れたので、それを3日で差し替えている。
 
どっちみち、物凄い予算を掛けている!
 

ヒバリの語りは続く。
 
『この後、義仲たちはいったん京都に戻るものの、敗戦で失った信頼は大きく、また頼朝との対立も回復不能な状態になっており、頼朝は義経を総大将とする木曽義仲討伐軍を京都に派遣しました。義仲は後白河法王を脅迫して自分を征東大将軍に任じさせ、頼朝討伐の院庁下文を出させたものの、水島の戦いで戦力を失った上、義仲が法皇を拘束している状況から、義仲に従う武士は少なく、年が改まって寿永3年1月20日、宇治川の戦いで義経軍に大敗。それに続く粟津の戦いで腹心の今井兼平らとともに戦死しました』
 
これに対してネットでは「白鳥リズム、ナレ死!」という追悼文(?)が多数出た。
 
『なお巴御前については消息が分かっていません。義仲は「武装を解けば義経たちも女の命までは奪わないだろうから、それでどこかに落ち延びよ」と言ったのですが、彼女がその言葉に従って落ち延びていったのか、それとも最後まで武士として戦って戦死したのかは、義仲も戦場で巴御前とはぐれてしまったため、分かりません。しかし気丈な彼女のことですから最後まで戦って命を落とした可能性が高いと思います』
 
とヒバリが語るので「石川ポルカもナレ死!」とネットでは追悼ツイートが出る。
 

『義経は義仲の轍を踏まないよう、大軍を京都に入れることを避けました。むしろ京都の治安維持に必要な数百名の義経直属の軍だけを京都に入れ、本隊は源範頼が率いて京都近郊に駐留させました。人口の多い消費地である都心でなければ数万の兵の食糧調達も何とかなるのです』
 
『さて、源氏が義仲と頼朝でいわば内輪もめをしていた間に、水島の戦いの勝利で勢いに乗る平家は戦力を回復させ、京都奪回のため、福原(神戸市)まで迫っていました。朝廷内部では、平家と和解して三種の神器を取り戻すべきという意見と、平家を討伐すべきという意見が対立しますが、平家が戻ってきたら今度は平家に幽閉されそうな後白河法皇は戦いを決断。寿永3年1月26日、密かに平家討伐と三種の神器奪回の宣旨を頼朝に出しました』
 
『源氏方は範頼が率いる6万の大軍を京都に入れないまま、摂津に進めます。これは今の地形で言うと、淀川より西の領域になります。福原は現在の神戸市内で摂津国の西端付近です。一方、義経が率いる1万ほどの別働隊は丹波の山の中を進軍して平家の後方に回り込もうとしていました』
 

場面は義経(アクア)が先頭に立ち、乗馬で山中の道を進む場面となる。
 
「アクアちゃん、やはり義経してる!」
と政子が声を出す。同様の声がネットにも書き込まれていた。
 
従っているのはこのようなメンツである。
 
佐藤忠信(今井葉月)、佐藤継信(桜木ワルツ)、駿河清重(大崎志乃舞)、亀井重清(佐藤ゆか)、伊勢義盛(南田容子)、一条能成(山口暢香)、源有綱(高島瑞絵)、掘景光(マツ也)、千光坊七郎(スキ也)。そのほか60名ほど。
 
このメンツは全員乗馬の訓練を受けてこの撮影に臨んでいる。同行しているエキストラの人たちも乗馬のできる人たちである。
 
ここで、大崎志乃舞は信濃町ガールズのメンバーだが、佐藤・南田・山口・高島の4人は、今年の春に中学を卒業し、自動的に信濃町ガールズも卒業することになって、この4人で結成したリセエンヌ・ドウ(フランス語で“黄金の女子高生”という意味)のメンバーである。身分としては§§ミュージックの研修生で、お給料は無く(但しレッスン代も無料)、ステージやテレビなどへの出演があれば、その都度ギャラ(数千円)をもらうことになっている。仕事に出て行く時のアゴ・アシ・マクラはむろん事務所持ちである。
 
信濃町ガールズは仙台のクレールで定演しているが、リセエンヌ・ドウは現在、福島のムーランパーク(若葉が作った体育館およびその付帯設備)で定演している。アブクマーズの試合がある日はハーフタイムショーにも出演するので、それ目当てで試合のチケットを買って見に来る人もあり、アブクマーズの観客動員にも貢献している。また、仙台のクレールに頻繁に来ていた人で、わざわざ福島まで出てきてくれる人などもあるらしい。
 
「あれ?ありさちゃんが居ない」
と政子が言う。
 
そうなのである。このメンツの中に当然居ておかしくない、弁慶がいない。と思っていたら
『殿!道に詳しい者を見つけました』
と言って、弁慶役の品川ありさが後ろに人を乗せて馬で駆けてきた。
 
(実はこのメンツで馬を駆けさせることができるのは、ありさ・アクア・葉月の3人だけである)
 
全員いったん下馬する。
 

『そちら様が今評判の九郎義経様ですか!かっこいいなあ』
と言って、その若い男(演:木下宏紀@研修生)が向かって言っているのは、掘景光を演じているマツ也である。取り敢えずこの中では最年長だ。
 
『いや、わしは殿の護衛のようなものだ。殿はこちらだ』
とアクア演じる義経の方に手を向ける。
 
『嘘!?九郎義経さまって、女だったんですか?』
と若者。
『私は男なんだけど』
とアクア。
 
『え?でも女にしか見えないし、女の声だし』
『まだ若いから声変わりもしてないのだよ』
『へー。ほんとですか?でも袿(うちき)とか着たら女に見えそう』
などと若者は言っている。
 
『それより我々はこの付近に出たいのだが』
と言って、僧兵出身で弁慶の元同僚でもある千光坊七郎が地図を示す。
『ここに書いてある道を進みたいのだが、今来ている道でよいのだろうか?』
 
『合ってますけど、人が通れるのはこの付近までですよ。ここから2〜3町(200-300m)も行くと、とても普通の人は通れなくなります。物凄い傾斜を登ったり、蟻の門渡りって幅がこのくらいの所を通ったり』
と言って若者が手を広げてみせる幅は2尺(60cm)程度である。
 
『しかし君たちは通っているのだろう?』
『まあ、おいらたちは通るけどね』
『だったらそこを通りたい。案内してくれ』
『分かりました。でも無理だと思ったら言ってください。迂回路を案内しますから』
『迂回路というのはどのあたりを通る?』
『この付近だと思いますが』
と若者が指で示すが
『それでは遅くなる。やはりこの道を突破しよう』
『分かりました』
 
『そうだ。君の名は?』
『三郎です。兄貴2人いるけど、太郎は今隣村まで行っていて今日は留守で、次郎は去年、嫁に行っちまって』
『待て、兄さんが嫁に行ったのか?』
『ええ。男でも構わんと言われて、長者さんとこの妾さんになりました。名前も次郎を次(つぎ)と改めて』
『美人だった?』
『花嫁衣装着たら女に見えるからびっくりしました』
『まあ、たまにそういう人はいるかもね』
 
『小さい頃に猪に襲われて金玉食われてしまって、金玉無かったんですよね。だから女並みの腕力しかないから猟師はできなくて、畑仕事ばかりしてたんです。鬚(ひげ)も生えてなかったし』
 
『ああ、金玉が無かったら女並みかも』
『九郎義経様もやはり、金玉無いんですか?』
『そんなことはない。ちなみにここにいる中で殿がいちばん強いぞ』
『へー!見かけにはよらないもんですね』
 

明智ヒバリが登場して語りを入れる。
 
『それで三郎は弁慶の馬に同乗し険しい山道を進みました』
 
『ところでなぜ義経一行はこのように少ない人数で進んでいるのでしょうか』
 
『源氏方は7万騎ほどの勢力だったのですが、本隊6万騎を源範頼が率いて海岸線を進み、義経が率いる別働隊1万は丹波の山道を進んで平家の後方に回り込もうとしていました。義経たちは実は途中の三草山で平資盛・平有盛の軍と激突し、義経たちが勝って平家軍は敗走します。この平家軍を義経軍に同行していた頼朝の部下・土肥実平率いる7千騎が追送しました。これは後方に回り込もうとしていた別働隊の大半なので、平家はこの別働隊の全員が平資盛たちを追っていったものと思ったわけです』
 
『しかし義経は残る3千騎ほどの部隊を甲斐源氏に所属する安田義定に預けて平家軍を側面から襲うことになる、夢野口に進めさせました。この夢野口の付近には平通盛・平教経らが陣取っていました』
 
『そして義経自身は腹心の精鋭わずか70騎ほどで、鵯越(ひよどりごえ)の難所を密かに進んでいたのです』

 

『義経たちの別働隊と平資盛たちが三草山で激突したのが2月5日なのですが、2月6日、後白河法皇は藤原親信を平家方に派遣して和平交渉を申し入れています。このことは源氏方には知らされていませんでした。それで2月7日に起きたことは、平家にとっては“だまし討ち”になったのですが、源氏方もまさか和平交渉の話があるとは全く知らなかったのです』
 
『源氏方は最初から2月7日の昼頃に戦闘を開始するつもりで、範頼軍も義経軍もそれに向けて兵を進めていました』
 
『ところが、源氏方の中で、頼朝の家臣・熊谷直実(花咲ロンド)や平山季重(オーディション選出の生方さん)ら5騎が抜け駆けして7日早朝、平家の陣に突入してしまいました』
 
背景に花咲ロンド・生方さんと乗馬のできる俳優さん3名が突撃していくシーンが映る。
 
『平家としては前日和平の話が来ており、襲ってきたのもわずか5騎なので、最初はほとんど放置していたのですが、盛んに攻撃してくるので仕方なく応戦します。しかしこの5騎がなかなか手強い。それで数十人で取り囲んで、何とか討ち取ろうとしていた所に、もう戦いが始まっているという報せに驚いて急行してきた土肥実平の7000の兵が到着し、一ノ谷の西側・塩屋口では本格的な戦闘が始まってしまいました』
 
『西側で戦闘が始まってしまったと聞いた範頼は『早すぎる!』と困惑するものの、向こうが戦いを始めてしまった以上こちらもやらなければならないので、午前6時頃、一ノ谷の東側・生田口で平家方に矢を射かけ、平家側も応戦して、こちらも本格的な戦闘が始まってしまいました』
 
『平家は“和平交渉を始めると言っているのに、なんで源氏は攻撃してくるんだ?”と戸惑いながらも、一ノ谷の東西で戦い始めたところで、今度は午前7時頃、夢野口に安田義定たちが到着。彼らも“どうしてこんなに早く戦闘が起きているのだ?”と思いながらも平通盛たちの軍と戦い始めました』
 
『その頃、義経達はまだ鵯越の険しい道を進んでいました。そもそも戦闘は昼頃始める予定だったので、その頃までには目的地に到着する予定だったのです』
 

『殿、どうも下では戦闘が始まってしまったようですぞ』
と千光坊七郎(スキ也)が言います。
 
『そんな馬鹿な。戦闘開始は昼頃の予定だったのに』
と佐藤継信(桜木ワルツ)。
 
『これでは我々が到着するころには戦闘は終わっているかも』
と佐藤忠信(今井葉月)
 
『それは困る。この戦いに義経が参加しなかったとあらば、鎌倉殿(頼朝)は怒るぞ』
と義経(アクア)。
 
『しかし目的地まで辿り着くにはまだ2刻(4時間)近く掛かりますよ』
 
義経は遙か山の下の方で起きている戦闘を見下ろしながら少し考えていた。
 
『三郎』
『はい』
『この崖をまっすぐ降りることはできないか?』
『この崖をですか?無茶ですよ』
『人が通ることはできぬか?』
『ここを降りていけるのは狐とか狸とか兎とかですよ』
『馬はどうだ?』
『馬にも無理だと思いますけどねぇ。たまに鹿が降りていくのを見ることはありますけど』
 
『鹿が降りるとな?』
『はい』
『鹿が降りるなら、鹿も四つ足、馬も四つ足、きっと馬にも降りられる』
『そんな無茶な!』
『試してみよう。静!』
『はい』
 
後方を進んでいた静が義経の所に馬を寄せる。静はいわゆる御高祖頭巾(おこそずきん)のような頭巾をかぶっている。目だけ出ていて人相がよく分からない。
 
ネットが騒ぐ。
 
「やはりまだ出ていない姫路スピカあたりがアクアのボディダブルしているんだよ」
「結局アクアが静と義経の二役なんだろうね」
 

義経は静に言った。
 
『すまんが、そちはここに留まれ』
『分かりました』
『そしてその馬を貸せ』
『はい』
 
それで静が馬を降り、アクア演じる義経はその馬を受け取ると、谷に突き落とした。
 
『え!?』
と静も驚いているが、静を載せていた馬は突き落とされると、何とか崖を駆け下りていく。転んだりしない。
 
『見よ。馬もちゃんとこの崖を降りられるぞ』
とアクア演じる義経は言うが、他の者はあっけにとられている。
 
『ちゃんと馬は降りられることが分かった。ここを駆け下りるぞ』
と義経。
 
『ほんとにここを降りるんですか?』
と佐藤継信(桜木ワルツ)が不安そうな顔で言う。
 
『私が先陣を切る。皆の者、付いてこられる者だけ続け』
 
みんな顔を見合わせているが、義経は馬に跨がる。
 
『三郎。そなたは済まんが、静を連れて、本来の道を行ってくれ』
『分かりました。ここを降りようなんて、義経様は凄いです。家人になりたいくらいです』
と猟師の若者(木下宏紀@研修生)。
 
『私の家人になるか?』
『はい』
『だったら私の字を1文字やるから鷲尾三郎義久と名乗れ』
『ありがとうございます』
『義久、そちへの最初の命令だ。静を守って下まで降りてこい』
『御命、承ります』
 

それで三郎と静を残し、まずは義経が自分の馬に乗って崖を駆け下りていく。それに弁慶(品川ありさ)が
 
『殿が行ったぞ。皆続け』
と言って、義経をガードするように急いで馬で駆け下りていく。これに佐藤継信(桜木ワルツ)・忠信(今井葉月)兄弟が続く。更に駿河清重、亀井重清、伊勢義盛、一条能成、源有綱、と続いたところで、まだ不安そうな顔をしている武士たちに掘景光(マツ也)が言った。
 
『俺はこの崖を降りるのが恐い。だから留まって、義久殿や静殿と一緒に普通の道を行く。恐い奴はみんな俺と行動を共にしろ。それで義経殿は怒ったりはせぬぞ』
 
それでホッとしたような顔の武士たちが多数いる。すると千光坊七郎(スキ也)が言う。
 
『お前は降りぬか。俺は降りるぞ。こんなとんでもないことをやる殿には命賭けで付いていくよ。男ならこういうのに賭けようじゃないか』
と千光坊(スキ也)が言うと
 
『俺は女になってもいいから無茶はしない』
と景光(マツ也)。
 
『お前が女になったら俺の嫁にならんか?』
『おい、お前そういう趣味があるのか?』
『修行場では可愛い稚児は可愛い服着せて化粧もさせて愛でるものと決まっている』
『お前ら修行場で何やってんのさ?』
 
話の脱線に武士達は顔をしかめている。
 
『まあこの崖を無事に降りられる確率はたぶん半分だ。怪我したり死んだりしてもおかしくない。だからここで死んでもいいと思う奴だけが来い』
 
そう千光坊七郎は言うと、自分の馬に乗り、崖を駆け下りていった。残った武士たちは、なお、お互い顔を見合わせていたが、その内の数人が決意したように馬に乗ると千光坊七郎の後に続いた。結局その場に居た70騎ほどの内、50騎ほどが崖を駆け下り、20騎ほどが残った。彼らは掘景光(マツ也)と鷲尾三郎義久・静らと一緒にこちらも充分険しい山道を進んだ。三郎が徒歩で先頭を行き、静を同乗させた掘景光がそれに続いた。
 

場面は塩屋口(一ノ谷の西側)付近の戦闘場面に変わる。平忠度らの平家方と、土肥実平らの源氏方が戦っていたが、戦況は膠着しかけていた。
 
ところがその平家方の後方に突然険しい崖を馬で駆け下りてきた武士たちがいた。先頭に立っているのが義経(アクア)、そして弁慶(品川ありさ)が続く。
 
『嘘だろ?あの崖を降りてきたのか!?』
と平家の武士たちが驚く。そこは険しい崖なので、安全な方角と思い、そこを背景に陣を敷いていたのである。
 
『次々と降りてくるぞ!』
 

明智ヒバリが登場して語る。
 
『平家はあり得ない方角からの急襲に混乱しました。義経率いる部隊は次々と崖を駆け下りてきます。中には馬と一緒に転がって落ちてきて、下で動かなくなる者もありますが、無事駆け下りてきて、平家に向かって来る武士たちも大勢います。平家方は結果的に陣を直撃されることになりました』
 
『そして大将の平忠度(たいらのただのり*6)も源氏方の岡部忠澄に討ち取られてしまいます。大将がやられた平家方は総崩れになり、兵士たちは慌てて逃走しました』
 

(*6)平忠度は名前が「ただのり」であることから、かなり古い時代から無賃乗車の代名詞的に使われてきた。彼が薩摩守(さつまのかみ)であったことから、「さつまただのり」あるいは「さつまのかみ」だけで無賃乗車を表す。
 
狂言『薩摩守』でも、忠度を名乗って船賃を踏み倒そうとする僧が登場する。
 

ヒバリの語りは続く。
 
『西側で平忠度の軍が崩れたことから、それは夢野口、更には生田口にも伝染して、平家方は急速に戦意を喪失し、多くの兵士が逃げ出してしまいます。結果的にはわずか数十騎による義経率いる精鋭の奇襲が、戦いに決着をつけることとなったのです』
 
場面では混乱し平家の兵士たちが逃げ惑っている中、戦いの先陣を切った熊谷直実(花咲ロンド)が戦える相手を物色していた。そこに立派な甲冑をつけた武士が逃げて行くのを見る。
 
『待たれよ』
と声を掛ける。
 
『そなたは臆病にも逃げるのか?』
と熊谷直実が声を掛けると、その武士は振り返って名を名乗った。
 
『我は平経盛が三男、平敦盛(たいらのあつもり)なり。いざ尋常に勝負せよ』
 
直実は相手が思わぬ大物であったこととまだ若かったことに驚いたものの、「尋常に勝負」と言われたら戦わぬは武士の恥である。直実(花咲ロンド)が刀を抜く。敦盛(東雲はるこ)も刀を抜く。しかし歴戦の戦士・熊谷直実と16歳の若武者・平敦盛では全く勝負にならなかった。あっという間に決着は付き、敦盛は熊谷直実の刀に倒れた。
 
直実は倒れた敦盛の目をそっと閉じてやる。
 
『女にしてもいいくらいの美人だ。それにうちの息子と同い年くらいではないか。哀れだ』
と直実は言った。
 
明智ヒバリが目を瞑ったまま画面左下隅の枠の中に現れ
 
『熊谷直実はこの後、世をはかなみ出家してしまうのでした』
と語った。
 

「今の敦盛(あつもり)やった子、すっごいお得じゃない?」
と政子が言った。
 
「登場シーンは1分も無かったのに、今の場面で20-30万人はファンが出来たよね」
と私も言う。
 
「信濃町ガールズの子?」
「今年の第6回ロックギャル・コンテストの優勝者だよ」
「おぉ!」
 
「春くらいにデビュー予定。明日も歌うけどね」
「わぁ」
「この子にデビュー曲を書いてあげない?」
「私が書いていいの?」
「よろしく」
 
「張り切って可愛いの書くね」
と言って、政子はレターペーパーを1枚取ると、《青い清流》を使って詩を書き始めた。
 

明智ヒバリが映っている枠が画面全体に広がり、解説をする。
 
『平家はこの戦いで大敗し、平忠度、平敦盛、平通盛、平業盛、平師盛といった清盛の息子・甥・孫などを含めて多数の有力武将が討死、あるいは捕らえられて殺されています。大将格の平重衡は捕らえられて鎌倉に護送されました。また平維盛はこの戦いの最中に陣から逃亡したものも、その後死亡したと言われますが死亡の経緯については諸説あります』
 
背景には平維盛役の篠原倉光(研修生)が、白い死装束を着て舟に乗って沖へと漕ぎ出していく様子が映った。
 
『寿永3年(*7)2月7日・一ノ谷の戦いの敗戦で、平家は都奪還を断念し、本拠地の屋島に退くこととなりました。この後1年ほど、もうひとつの本拠地である山口県の彦島に平知盛、屋島には安徳天皇と平宗盛がいるという体制が続きます』
 

(*7)この時期、源氏と平氏が異なる元号を使用しているので、ひじょうに分かりにくい。諸事情はあるのだが、結果だけまとめると下記のようになる。
 

 

ヒバリの語りは続く。
 
『この後1年、源平の戦いは一進一退が続きます。この年の夏には三日平氏の乱といって近畿地方で散発的に平家残党の蜂起があり、義経が対処しますが、ゲリラ的な戦闘になりさすがの義経も苦労します。頼朝は義経が結果的に近畿から離れられない状況なので、範頼を大将とする平家討伐軍を西国に送ります』
 
『範頼は食糧不足とそこからくる軍規の乱れに苦労しますが、12月に倉敷市の藤戸の戦いで平行盛の軍に辛勝。九州の源氏協力勢力の支援で食糧と船を確保することができました。元暦2年2月1日には福岡県芦屋町の葦屋浦の戦いで平氏の原田種直を倒し、これで範頼は彦島対岸の九州地区を押さえました。これで結果的に平知盛は彦島から動くことが出来なくなりました』
 
『ところで頼朝は義経に自分の腹心・河越重頼の娘・郷(さと)と結婚するよう勧めました。自分と義経の関係をより強固にするための政略結婚です。一応、歴史上は彼女が義経の正室とみなされています。腹心の娘ということで、実際スパイ的な意味合いもありました。ところが・・・』
 

義経が郷御前と結婚式をあげようと準備している場面が映る。ところがそこに佐藤忠信(今井葉月)が走り込んで来る。
 
『義経様、六条のほうで平家が暴れております』
『何?すぐ行く』
 
と言って、義経は郷御前(水谷康恵@信濃町ガールズ)に
『済まぬが仕事だ。お主はゆっくりしていてくれ』
と言い、忠信と一緒に走って行ってしまった。
 
(義経はずっと後ろ姿で、顔は最後まで映らなかった)
 
私どうしたらいいの〜?という感じで郷が立ちつくしていると、兄の河越重房(青木由衣子@信濃町ガールズ)がやってくる。
 
『あれ?義経殿は?』
『お仕事に行かれました』
『今日は祝言なのに!?』
『平家の武士が暴れているとかで』
『あの方は、お忙しすぎる・・・』
 

明智ヒバリは語る。
 
『そういう訳で郷御前との結婚式は行われた(?)ものの、義経は三日平氏の乱の対処、そして次の屋島の戦いの準備などで忙しすぎて、ゆっくり妻と過ごす時間もなく、名前だけの妻だった可能性もあります。義経には6人の妻妾が居たのですが、郷御前、平時忠の娘・蕨姫、久我某の娘、の3人については結婚の実態がよく分かりません』
 
『さて義経が京都でゲリラ的な蜂起に振り回されている間に、西国に向かった範頼の軍は鎌倉からの補給ラインが物凄く長い上に瀬戸内海は平氏が押さえているので、長期間は対峙していられない状況でした。人数が多いので軍規を保つのも大変です。範頼から苦境を聞いた義経は、早い時期に屋島を叩かなければならないと決断しました』
 
『後白河法皇は義経が京都を不在にすると京都の治安に不安があったのですが、義経は何とか説き伏せて元暦2年1月10日、法皇より西国出陣の許可をもらいました。義経は、相手が水上戦を得意としていることから、熊野水軍と伊予水軍の協力を得て渡辺津、今の大阪市天満橋付近にあった港に船や武器・食糧を集積しました。京都の治安維持のために頼朝に頼んで派遣してもらった100騎の増援を含め200騎ほどを残すことにします。河越重頼なども京都に残りました』
 
『2月17日、その日は夕方から雨がひどくなり、風もかなり出ていました』
 

テレビ画面には、義経が陣屋の戸を開けて外の様子を見ている後ろ姿が映る。
 
『これは酷いな。明日四国に渡るというのは、とても無理だ』
と義経。
 
『この分だと明日いっぱいくらいはきっと荒れてますよ。戦(いくさ)はこの嵐が終わってからですな』
と掘景光(マツ也)は言いながら手近にあった酒を杯に注いで一口飲む。
 

その嵐の中、佐藤忠信(今井葉月)が陣屋に入ってくる。
 
『おお、忠信殿戻られたか』
と景光。
『吉次殿、いい匂いですな』
 
(掘景光の別名は金売吉次(きんうり・きちじ)。元々は貴金属の行商人だった。全国の道に精通しているので、元服したばかりの義経が最初に平泉に行く時に同行者となり、その後義経の腹心のひとりとなる)
 
『まあ貴殿も1杯飲まれよ』
『かたじけない』
と言って、忠信もお酒(実際には水)を1口飲む。
 
『忠信殿、どうでした?』
と言って奥から出てきたのは静(アクア)である。小袖姿である。一緒に佐藤継信(桜木ワルツ)と弁慶(品川ありさ)など数人の側近も出てくる。
 
『うん。状況を報告する』
と言って忠信(葉月)が地図のようなものを広げた。
 
ネットでは
《アクアが静の役をしているということは、ここに映っている義経は誰?》《やはり姫路スピカか?》
といった書き込みがある。
 

『これが屋島付近の地図です。このように多数の島が前方にあって、それぞれの島に兵がいます。その防衛線を突破して屋島まで攻め入るのはなかなか難しいです』
と忠信は説明する。
 

 
なお、ここで忠信・継信・静・景光・弁慶たちは座って輪を作っているが、カメラは義経の背後から会議の様子を映しており、結果的に義経の顔は映らない。
 
『無理に突破して屋島本隊を攻めても各々の島にいる兵に背後を襲われる』
 
『ということは陸地側から攻めるべきですね』
と静。
 
『地元で確認したのですが、篦原(のはら:現在の高松市)の里と屋島の間は浅瀬になっていて、干潮の時は馬や人の足でも島に渡ることができるんですよ』
『なるほど』
 
『ちょっと待って』
と言って静は本のようなものを取り出す。
 
『屋島と京の時差は1分(いちぶ)くらいだから月入りの時刻はこうなる』
と言って静は時刻を書き出す。(今は17日夕方。↓の括弧書きは現代の言い方)
 
二月十八日 辰二刻O分(7:30)
二月十九日 辰三刻一分(8:03)
二月二十日 辰四刻四分(8:42)
二月廿一日 巳一刻八分(9:24)
二月廿二日 巳三刻四分(10:12)
二月廿三日 午一刻一分(11:03)
二月廿四日 午三刻O分(12:00)
 
ここで分(ぶ)は刻(こく)の1/10で現代の3分(ふん)相当である。
 
『月入りの時が干潮だっけ?』
と掘景光が確認する。
 
『そうそう。月の出・月の入りの時が干潮、月がいちばん高くなる時が満潮。見えないけど月が地面の下、いちばん低い所にある時も満潮』
 
『攻撃は早朝がいいなよ?』
『当然』
『だとすると、これはせめて21日くらいまでには攻めたいな』
『だけどここから伊予までは船で3日掛かる』
『ということは明日の朝出港して最速で20日夕方か』
『少し離れた所に船をつけて後ろから回り込もう』
『じゃ明日の朝出発』
『無理だと思う。この嵐、たぶん明日いっぱいは吹いている』
『だけどそれ以上遅らせたくないぞ』
 

『それとこちらの方が重要だと思うのですが』
と忠信(今井葉月)が言う。
 
『屋島の本隊が、向こうで聞いた時、ここ数日中と言っていたのでたぶん昨日か今日あたりに河野通信殿を討たんとして、田口成直殿が3000騎の大軍を率いて出陣なさったのですよ』
 
『何と!』
『だったら屋島は今手薄だよな?』
『はい。そう思います。残っているのは恐らく1000騎ほどですが、実際には男木島・女木島・大島・兜島・鎧島・稲毛島、それに庵治半島とかに50-100騎くらいずつ分散しているのですよ。だから、今、檀ノ浦(*8)にいるのは多分500騎程度です』
 
『だったら今すぐ攻めるべきだな』
と静(アクア)が言う。
 
『うん。次に干潮が早朝と重なる半月後を待っていたら、その本隊が戻ってくる可能性がある』
と継信(桜木ワルツ)。
 
『第1の目的は言仁様(安徳天皇)と二位尼殿を確保して三種の神器を奪還すること。そのためにはできるだけ相手が手薄な所を襲いたい』
と弁慶(品川ありさ)。
 
『よし。今夜出よう』
と静(アクア)は言った。
 
『え〜〜〜〜!?』
とさすがにみんな驚く。外は暴風雨の真っ最中である。
 

(*8)ひじょうに紛らわしいのだが、次の2つの地名がある。
 
檀ノ浦(高松:香川県)
壇ノ浦(下関:山口県)
 
同じ「だんのうら」と読むものの、屋島の戦いの舞台になったのは木偏の檀ノ浦で、最終的に平清盛の一族が滅亡した壇ノ浦の戦いの舞台になったほうは土偏。
 

『いや、それはいいかも知れない』
と佐藤継信(桜木ワルツ)が言った。
 
『夜中に船を出せば、取り敢えず夜中の間はまず敵に発見されない。今夜少しでも船を進めておけば、明日日中にも夜中にも航海して、19日朝に到着出来る可能性がある』
 
『しかしこの嵐の中、船を出すのか?』
『全員行く必要は無い。景光、そなたは残って本隊を率いて、嵐が収まってから出港してこい』
と静(アクア)が言う。
 
『分かった』
『この嵐の中、海を渡ってもいいという命知らずだけを連れて行こう。それでいいですか?義経殿』
と静は少し離れて立っている義経に語りかけた。
 
『まあここで海の藻屑と消えて馬鹿な奴めと笑われるか、それとも嵐の中よく海を渡ったと褒め称えられるか、運次第だな』
と義経は向こうを向いたまま言った。
 

政子がテレビを見ていて言った。
 
「ねぇ、なんで義経じゃなくて静が議論の中心にいる訳?」
「ふっふっふ」
 
この場面はネットでも政子と同様の戸惑いを感じた視聴者が多かったようである。
 

明智ヒバリが登場して語る。
 
『この嵐の中出港するという話にほとんどの武将が“無茶です”と言いました。しかし一ノ谷で義経に従って崖を降りた30名ほどの武士たち、あの時は崖を降りなかったものの、掘影光や静とともに山道を進み、何とか合戦の最後の付近に間に合った20人ほどの武士たちも義経に同行すると言いました』
 
『それ以外にも、こんなとんでもないことを考える義経に従おうという命知らずが100人ほど出ます。その中に那須十郎・那須与一の兄弟もいました(“与一”は11の意味でつまり十一男。従って十郎が兄で与一が弟)。結局総勢150名ほどの武士が今夜出発することになります。しかし船頭たちは皆、船を出すことを拒否します』
 
『貴様らそれでも男か?』
『今日から女になります』
『じゃ魔羅を切り落としてやる』
『こら待て』
 
『弓矢で脅しつけて船を出させようとした弁慶(品川ありさ)を義経は停め、褒美の額を増やすと言いました。すると5人の年老いた船頭が、自分は老い先短いし、そんなに褒美をもらえるなら、船を出してもいいと言ってくれたのです。全員その褒美は息子に渡してくれるよう言いました。そこで義経率いる150名ほどがその5艘の船に分乗して、夜中の2時頃、渡辺津を出ました』
 
テレビ画面では凄まじく揺れる船内で気分が悪くなって辛そうにしている者、揺れで船室の中を転がっていく者、吐く者もある。佐藤継信(桜木ワルツ)が壁につかまりながら船室を出て物凄い風(大型の扇風機で風を送っている)の中、甲板を這っていき、船頭(オーディション選出の猿田さん:60歳)に声を掛ける。
 
『なんか凄い速さだな』
『風でどんどん押されます。船頭50年やってて、こんな速さは初めてです』
『明け方までに淡路島に辿り着けるか?』
『今淡路島の沖を通過中です』
『何と!もう淡路まで来てしまったのか!?淡路のどの付近だ?』
『済みません。風に訊いてください。私はもう船の姿勢を保つだけで精一杯です』
『うむむ。方角は合っているのだろうな?』
『稲光で淡路の島影が見えますから、航路は間違っていないはずです』
 

明智ヒバリが語る。
 
『当時はもちろんGPSもジャイロコンパスもありません。嵐の夜ですから星も見えません。その中で船を出したのは無謀を通り越してほとんど自殺行為です。船頭が言ったように稲光でたまに見える島影だけが頼りです。しかしこの時はこの5艘は運良く朝までに四国の徳島付近(*9)に到着してしまったのです。それは航海というよりほぼ漂流に近いものだったでしょう』
 
『当時、渡辺津から四国まで“航海”する場合は淡路島の港に寄港しながら、だいたい3日掛かりでした。それをわずか4時間で渡りきったことになります。もっとも昔は基本的に昼間しか航海しませんし、潮流や風の関係で、日中でも航海に条件のよい数時間しか船は運航されないのが普通です。ですから3日と言っても実際の航海時間は合計で12時間程度でしょう。しかしこの時は暴風に流される形で、その更に3分の1という短時間で到着してしまいました』
 

 
テレビ画面では雨が降る中浜辺に到着した(漂着した?)5艘の船から武士たちが出てくるものの、大半が砂浜の上で倒れて横になっているシーンが出てくる。
 
『貴様ら情けないぞ。それでも源氏の武士か?立て』
と叫んでいるのは弁慶(品川ありさ)だが、佐藤忠信(今井葉月)が言う。
 
『弁慶殿、さすがにあの嵐ではみんな辛かったでしょう。一時(2時間)ほど休みましょう』
 
『仕方ないな。倒れている奴らを担いで進む訳にもいかん』
 
地元の協力者が彼らに食事を提供してくれたものの、実際にそれを食べることができたのは、弁慶・千光坊・義経・静・佐藤兄弟などわずかだった。那須与一(桜野レイア)はしっかり食べていたので「おぬし凄いな」と佐藤継信(桜木ワルツ)から声を掛けられていた。
 
『しかし、大将(義経)の奥方殿もしっかり食べておられるな』
と那須与一。
 
『あの方は凄いぞ。宇治川の戦いでも獅子奮迅の活躍であったし、一ノ谷でも到着は遅くなったものの10人は斬ったはず』
と佐藤継信。
 
『すげー。戦(いくさ)に女連れてくるのかよと思ったけど、今夜の航海だけで俺は大将も奥方も見直したぞ』
と那須与一(桜野レイア)は言った。
 
『あの方は男だったら武士として名前をあげているよ』
『しかし奥方が男だったら困るよな?』
『まあ男では子供を産めないな』
『子供産めない前に旗をさす穴が無くて困るだろ?』
『まあそれも多少は問題だな』
 

(*9)吾妻鏡は義経たちの上陸地を“椿浦”と記すが、平家物語は“阿波勝浦”と記す。一般的に史料の信頼性では吾妻鏡の方が高いのだが、椿浦は現在の阿南市に当たり、屋島へは遠すぎると考えられる。それで定説では平家物語に記された小松島市の“勝浦”が正しいのではないかとされ、阿波赤石駅から3kmほどの芝田小学校の近くに《源義経上陸の地》の石碑が立てられている。
 

明智ヒバリが語る。
 
『2月18日朝に四国に上陸した義経たちは、まだ風雨の強い中、地元の協力者・近藤親家の案内で、陸路を1日掛けて屋島に向かいます。屋島というのは現在の高松市のそばにある島で、21世紀の現代には埋め立てで陸続きに近い形になっていますが、一応“相引川”と呼ばれる狭い海峡で隔てられています。当時は明確に独立した島でした。その東側には屋島と平行して庵治半島があります。屋島の行宮(あんぐう)は島の南東、庵治半島との間の水道の奥深くの檀ノ浦(だんのうら)にありました』
 
↓(再掲)

 

『義経たちが上陸した徳島の地から屋島までは約80kmあり、義経たちが屋島対岸の篦原(のはら:現在の高松市)の地に辿り着いたのは2月19日の早朝でした』
 
場面は義経たち150名ほどが馬で浜辺に立ち、屋島を眺めるシーンとなる。この屋島は現代の屋島の写真をPhotoshopで加工して埋め立て地を消し、コンクリートのビルやアスファルトの道路などを消した、映像担当さんたちの力作である。なお実際にアクアたちが馬で浜辺に立っているのは実は伊豆の堂ヶ島である。
 
『あれが屋島か』
『義仲殿はまともに正面から攻めようとして、先に向こうから出てきた水軍にやられてしまった』
『義仲殿ほどの人がやられた所だ。心して掛からねば』
 
『干潮まであとどのくらいだ?』
と弁慶(品川ありさ)が訊くと甲冑を着て御高祖頭巾をしている静が言う。
 
『今有明の月が沈もうとしている。あと1刻もしない内に干潮になると思う』
 
(一般に月が昇る頃・沈む頃に干潮が来て、月が南中・北中する頃に満潮が起きる。ただしその港などによっては地形的な条件で早まったり遅くなったりする)
 
『よし。少し休もう。月が沈む頃、瀬を渡るぞ』
と義経(向こうを向いていて顔を見せていない!)は言った。
 
(この当日、元暦2年2月19日=グレゴリウス暦1185.3.29=ユリウス暦1185.3.22の高松地方の月入は朝8:07(現地時刻8:03)。実際に干潮になったのは海上保安庁水路部の計算サイトによると7:30頃である。13:00頃が満潮)
 

海上保安庁水路部の計算サイト(ユリウス暦で指定する)
 

辰一刻(7時)、月はまだ沈んでいないものの、もう充分な浅瀬になっている。義経は突撃を指令する。予め因果を含めて立ち退かせておいた近隣の民家に佐藤継信指揮下の別働隊が火を付けて回る。こちらが大勢いると見せかけるためである。そして地元の猟師に案内させ、嵐の海を渡った150騎+近藤親家配下50騎の合計200騎ほどで、最も浅瀬になっている所を越えて、屋島に攻め入った。
 
明智ヒバリが語る。
 
『平家では海側から攻められる場合だけを想定していましたし、嵐がやっと鎮まった頃なので、こんな時に源氏が来るとは思ってもいませんでした。手勢が少ないこともあり、慌てて天皇たちを守って、とりあえず船に乗り対岸の庵治半島に逃れます』
 
『ところが落ち着いてよく観察すると源氏方の武士はそう多くありません。これなら何とか応戦出来ると、向こうも源氏方に向けて矢を射始めました。源氏方もたくさん矢を射ますが、天皇たちが乗っていると思われる豪華な装飾の船には矢を向けません』
 

義経は言った。
『矢を射てばかりでは埒があかない。突撃するぞ。親家殿、援護を頼む』
『分かった』
と近藤親家(オーディション選出の多山さん)。
 
それで近藤親家配下の武士たちの援護射撃の中、義経は弓を手にして浅瀬を馬で走る。佐藤兄弟、弁慶、千光坊、駿河次郎、鷲尾三郎、それに静などが続く。弁慶と千光坊は
 
『殿お待ち下さい』
と言って、義経の前に出て先頭に立った。他にも20騎ほどが続き、矢が飛び交う中、平家方に攻め込む。
 
そして天皇がおられると思われ船まであと40-50mという時、横の方の少し離れた場所に停泊している船から、平教経(西宮ネオン)が強弓を思いっきり引き、義経に狙いを定めた。
 
教経の矢が放たれる。
 
しかし矢は狙いをはずれて、義経の後方を走る静の所に飛んできた。この時、静のいちばん近くに居たのは佐藤継信(桜木ワルツ)である。虫の知らせでもあったかのように右手を見ると、矢が飛んできている。
 
『危ない!』
と言って、継信は馬の尻を叩いて、静の横に走り込んだ。
 
『あっ』
と静が声をあげる。
 
矢は継信の胸に刺さり、継信は落馬した。
 
近くに居た弓の名手、亀井六郎重清(佐藤ゆか@lyceenne-d'or)が矢を射てきた平教経に向けて強弓を射たが、教経はすんででかわした。ただ、どうも腕をかすったようで手を押さえている。しかしこれで教経も義経を強弓で狙うのはできなくなったであろう。
 
『継信!』
と静が降りて介抱したが、継信(桜木ワルツ)は
『短い間でしたが、楽しゅうございました。ご武運を』
と言って、事切れた。
 
『継信』
と言って、静は彼を抱きしめた。
 

義経は『気を抜かれるな。あそこに1人来たぞ』と馬上から言う。
 
(義経は終始向こうを向いたままである。カメラは決して義経の顔を映さない)
 
見るとひとりの若武者がこちらに走り寄ってくる。白い布を付けていないから平家方の武士だろう。静(アクア)は立ち上がって刀を抜き対峙しようとしたが、少し離れた所に居た佐藤忠信が弓矢でその若武者を射殺した。これは継信を射殺した平教経の小姓で菊王丸という武士であった。《菊王丸−演:太田芳絵》というテロップだけが出て、矢が胸に刺さって倒れている所が映る。演じているのは信濃町ガールズの子である。セリフは無かった!
 
忠信(今井葉月)が下馬して
 
『兄上・・・』
と言って継信(桜木ワルツ)を抱きしめる。
 

「ねえ。もしかして葉月ちゃん、ワルツちゃんのこと好きなのでは?」
とテレビを見ながら政子が言っている。
 
「今のを見てそう思った視聴者はわりといる気がする」
と私は答えた。
 
「まあワルツは葉月のお母さん代わりを自称しているけどね」
「ああ。母と娘か」
 
「母と息子じゃなくて?」
「いや、葉月ちゃん、あれ密かに性転換手術したのでは?もう男の子の雰囲気がまるで無いんだよ」
と政子が言う。
 
それは怪しいよなと私も思った。
 

テレビ画面の中、静(アクア)が言った。
 
『忠信、そなたは継信の遺体を馬に乗せて屋島側に戻れ』
『分かりました』
 
それで忠信が退く。静は馬に乗ると
 
『進みましょうぞ』
と義経に声を掛けた。
 
『よし、進め』
と義経が言って、あと少しで辿り着けそうな、天皇がおられると思われる船を目指すが、さすがに守りが堅い。おびただしい数の矢が飛んでくる。馬をやられて落馬する者もある。継信同様、義経の楯になって矢に倒れた者が2人あった。
 
『殿、これは無理です。いったん引きましょう』
と千光坊(スキ也)が言い、それで義経もいったん引くことにした。
 

ここで戦況は一時休止のような感じになる。
 
お昼頃になれば、河野通信の指令で伊予水軍が援軍にやってくることになっている。河野も本人が今、平家の大軍に攻められているのだが、義経たちの本隊がきたらいつでも支援出来るように別働隊を編成しておいてくれたのである。しかし伊予水軍が来るまでには近くの島に居た平家側の戦力も集まってくるだろう。義経たちは何とか昼前に決着を付けたかった。
 
するとそこに平家方から1艘の小舟が漕ぎ出てきた。
 
見ると船頭の他は、豪華な唐衣を着た女性(松梨詩恩)が乗っているだけである。《玉虫の前》というテロップが流れる。玉虫の前は竿の先に扇を掲げている。
 
『何だあれは?』
と義経(例によってカメラには背を向けている)。
 
『あの扇を射貫いてみせよという意味では?』
と義経の弟・一条能成(山口暢香@lyceenne-d'or)。
 
『戦場で何をふざけているんだ?平家は戦(いくさ)をしているという緊張感が無い』
と静が文句を言っている。
 
『しかしここは放置すれば源氏はこんな的(まと)も射ることができないのかと笑われますぞ』
と千光坊七郎(スキ也)。
 
『やむを得ん。六郎殿、そなたできんか?』
と静が亀井六郎に言う。
 
『私の矢は当たりもしますが外れもするので、重忠殿のほうが確実です』
 
と六郎。しかし突然名前をあげられた畠山重忠(オーディション選出の勝沢さん)は
 
『もう少し近ければ当てる自信があるのですが。那須十郎殿は?』
などと言っている。
 
ところがその那須十郎は怪我しているようである。それで彼は
 
『与一、お前がやれ』
と弟の那須与一を指名した。
 
『え〜〜!?』
と那須与一(桜野レイア)は驚いているが
 
『あまりグズグズしていると、源氏には弓矢の使える者は居ないのかと笑われる』
と兄から言われ、兄の強弓を借りて馬を少し進める。
 
そして弓をいっぱいに引くと『南無八幡大菩薩』と念じて矢を射た。すると矢は美事に扇の要の所に当たり、扇は竿の先から外れて海に落ちた。平家・源氏双方から歓声があがる。不安そうな顔で竿を掲げていた玉虫の前(松梨詩恩)が感心したような顔をしている。
 

すると、今度は別の船が漕ぎだしてきて、50歳ほどの武士が船の上で舞を舞い始めた。
 
『平家は何考えてんだ!?』
『ここは戦(いくさ)の場だぞ?』
 
千光坊が那須与一に命じる。
『あいつも射ろ』
 
『え〜〜?戦闘態勢にない相手を射るんですか?』
と那須与一は困惑して言う。
 
『戦場を馬鹿にしている奴は地獄に落としてやれ』
と千光坊。
 
それで那須与一も命令なので仕方なく、その50歳くらいの武者を射た。武者が矢に射られて海に落ちる。
 
これに源氏方では歓声があがったが、平家方は凍り付いたような空気が流れた。
 

怒った平家方が源氏方に向けて再度矢を射始めた。源氏方も応戦して戦いは再開である。
 
ところが少ししたところで遙か海上に多数の船影が見える。
 
『白旗を掲げている』
『源氏だ!』
『伊予水軍だ!』
 
船の数から見て1000人は居そうである。それで平家方には撤退命令が出た。
 
天皇が乗っておられると思われる船を取り囲むようにして平家方の船が沖に向けて移動し始める。
 
『どうします?』
と源有綱(高島瑞絵@lyceenne-d'or)が訊く。
 
『我々は船を持っていないし、伊予水軍はあの距離からは追いつけない。よって追撃は不可能だ』
と静が言った。
 
『深追いして伏兵に遭ったらいかん。伊予水軍には追撃不要という狼煙を上げよう』
と弁慶(品川ありさ)が言った。
 
画面が引くと静の近くで義経(例によって後ろ姿)が佐藤継信の亡骸(なきがら)を抱きしめているのが映り、静(アクア)は悲しそうな目でそれを見ていた。
 
 
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【クロ子義経】(2)