【夏の日の想い出・高校1年の春】(1)

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ボクが◆◆高校に合格した、その合格発表があったのは3月1日の木曜日で、その翌日金曜日、母と一緒に入学手続きに行ったのだが、ボクはその日なぜか「女子制服の採寸」をされてしまった。そしてそのことがきっかけで、帰り道、ボクはとうとう母に自分の女性志向のことを話した。
 
話してしまったので少し気楽になって、大胆にもなって翌日の土曜日は父が休日出勤で出かけてるのをいいことに、日中スカートを穿いて家の中で過ごしていた。
 
「あんた、そんな服、どこに隠してたの?」
などと訊かれるが
「えへへ」
と言ってボクは適当に誤魔化していた。
 
16時頃。そろそろズボンに穿き換えて晩御飯の買い物にでも行ってくるかな、と思っていた頃(スカートのまま近所の出歩きは禁止と母から言われた。実はけっこう既に出歩いてるんだけど!)、玄関のチャイムが鳴る。母はちょうど電話をしていたので
「冬、ちょっと出て。宅急便屋さんだと思う」
と言う。
 
それでボクはスカート姿のまま玄関に出て行ったのだが、宅急便屋さんでは無かった!
 
「こんにちは。**信用金庫のものですが」
などと言われる。母にその旨伝えると、「あらら」と言って、電話していた友人に「ごめん、後で掛け直す」と言って電話を切り、玄関に出た。ボクも何となくそのまま玄関の所に付いて行った。
 
信用金庫の人は、どうも新人研修を兼ねて新人さんと先輩の2人組で口座開設の営業に回っていたようであった。主にその新人さんが話していたが、その人の雰囲気が何だか爽やかで、とても良さげだったので、母は好感して、しばし話に付き合ってあげた。
 
「お子様は何人ですか?」
「あ、えっと、この子が今年高校に入るのと、あと1人、成人式迎えたばかりの姉と」
「あら、それでしたら妹さんの方は大学進学に向けて学資の積み立て、お姉さんの方は結婚式の資金積み立てなど、なさいませんか?」
 
まあボクは「妹」に見えるだろうね、「弟」じゃなくて!
 
「いや、毎月積み立てられるほどお金が無いので」
「それでしたら、普通預金とのセットにして、毎月少しずつ普通預金に入れてある程度残高に余裕がある時に、積み立ての方に振り替える手もありますよ」
「ああ、そうですね・・・」
 
などと話したりしている内、まあ口座作るだけならいいか、ということになる。
 
それで、母はボクと姉の名前を口座開設届の用紙に書いた。まず「唐本萌依」
と書き、1986年5月11日生・女と書いてから、ボクの顔をチラっと見て、「唐本冬子」1991年10月8日生・女と書いた。
 
本人確認書類を求められ、母は自分の健康保険証を出した。
「お子様の健康保険証はありますか?」
と尋ねられたが、母は「姉は自分で持って出ているので」と言う。新人さんがどうしましょ? という感じで先輩さんを見るが、先輩さんは
「お母様の保険証を確認しましたから、良いでしょう」
と言って、それでいいことになってしまった。
 
ボクはわりとアバウトなんだな、と思ったが、口座開設できそうな時にここであまり厳格なことを言って、断られたらという雰囲気だった気もする。もう夕方近くで、たぶんその日あまり実績が取れなかったので、ここは口座を取りたい、ということで緩くなったのかも知れないという気もした。
 
母は姉の健康保険証が今手許にないことだけを言ったのだが、ついでにボクの方の健康保険証に関してもパスになってしまった感じだった。
 
一週間後にその信用金庫から、総合口座の通帳とカードが送られてきた。姉は「私別にここの信用金庫、使わな〜い」と言っていたが、ボクはもらって大事に机の中にしまった。
 
かくしてボクの1つ目の「唐本冬子」名義の通帳はできたのであった。
 
(2つ目の「唐本冬子」名義の通帳は、1年半後に美智子が大手都市銀行で《通称使用》の形で開設した。通称使用は特別永住者の歌手の口座開設で経験して知っていたらしい。また、大手なので逆に銀行側も性同一性障害の人の通称使用についても既に内規ができていた。更に美智子がアイドル歌手のマネージングなどしていて銀行に顔が利いたこともありスムーズに作れたらしい)
 

やがて4月になり入学式がある。ボクは生徒手帳を受け取ってから、その最後のページに転写されている自分の写真が女子制服を着た写真であったことにぶっ飛んだのだが、気を取り直して、その日帰宅してから通学用の定期券を買いに行った。ボクは母にお金をもらうと中学の制服を着て出かける。
 
「あんた・・・その服どうしたの?」
「え?これは中学の時の制服じゃん」
「そんな服、持ってたんだっけ?」
「うん。これで通学してたけど」
「えー!?」
 
「じゃ、行ってくるね」
「ちょっと待って、それで買いに行くの?」
「うん。ちょっとそんな気分だから」
「ね、あんた、今からでも高校の女子制服頼む?」
「うーん。取り敢えずボク、男子制服で通学するから」
「そ、そう?」
 
電車の駅まで行き、申込書を書いた。「唐本冬彦・15歳・男」と書いて生徒手帳と一緒に提出する。ところが生徒手帳に写っているのはどう見ても女子生徒の写真だ。
 
窓口の50代くらいの感じの女性は「ん?」という感じで悩んだ感じがした。「えっと・・・ご本人ですか?」と訊かれた。
「はい」とボクは女声で答える。彼女はこちらを見つめるが、そこにはセーラー服を着た少女が見える。服は違うものの生徒手帳に写っている少女と同じ顔に見える。
 
そして生徒手帳の名前は確かに「冬彦」で申込書の名前と一致している。つまり何の問題も無い気がするが、どこか変な気がする。3秒ほど間があってから「あ、そうか」と窓口の人は言った。
 
「あなた性別が間違ってるわよ」
と窓口の女性は言い、申込書の性別の所を「女」に修正した。
 
そして定期券を発行してくれた。
定期券の券面には「唐本冬彦・15歳・女」と印刷されていた。
 
その後はずっとこの定期の期限更新で行ったので、ボクは3年間自動改札で(女性を表す)赤いランプの付く定期券で通学した。
 

入学してすぐのある日の昼休み、ボクは図書館に行ってみた。中学の図書室の倍くらいの広さがあり、本棚の高さもかなりある。歴史の古い高校だけあって蔵書数は書庫の分まで入れて8万冊ということだった。
 
ボクは美術史の本に目を留め、近くの机に座って読み始めたが、昼休み終了5分前のチャイムが鳴ってしまう。禁帯出ではないので、借りていこうかと思い、受付のところに行った。昼休み終了なので列ができていたが、並んでしばらく待ち、自分の順番が来る。最初に生徒手帳裏面のバーコードをスキャンする。
 
すると図書委員の子が言った。
「あれ?これ違いますよ」
 
見るとモニターに女子制服を着ているボクの写真が出ている。あはは、そりゃ別人と思うよね〜。だってボク学生服着てるし。
 
「あ、すみません。さっきぶつかって落とした時に反対に拾ったのかも」
と言うと、ボクは読んでいた本を元の所に戻して、図書館を出た。
 
うーん。。。。これは問題だ!
 
これじゃ図書館、使えないじゃん!!
 

高校入学して最初の週の金曜日。1時間目は予定を変更して頭髪・服装検査と言われた。
 
うちの中学から多くの生徒が進学した※※高校とかは規則が厳しいらしく、どこどこが何cmとか定規で測られるとか言っていたが、うちの高校はそのあたりが緩くて、
「髪型は男女とも自然で端正なものであること、パーマ・染色・脱色禁止」
ということだけであった。
 
それでも「これは長すぎる」とか「こら、パーマ掛けただろ?」などと注意されている子がいる。女子の方は女の先生がチェックしていたが、髪型ではあまり注意されていなかったものの「スカート短すぎ」「ウェスト下げて誤魔化そうとしてもダメ」などと注意されている子が数名いた。
 
男子の方も、ボクの前にいた子は春休み髪を放置していたっぽく
「横髪は耳に掛からないようにしろ。後ろ髪は学生服のカラーに掛からないように。前髪は眉に掛からないように。月曜までに切って来い」
などと言われていた。
 
そして次に先生はボクの髪型を見て「うーん」と一瞬うなった。
 
ボクの髪は横では完全に耳を覆って顎の下まであるし、前髪は眉毛どころか目の下くらいまでの長さなのを左右に掻き分けている。後ろ髪は肩に少し掛かっている。
 
「後ろ髪は肩に掛からないように。少し切って来い」
とだけ言われた。
「はい」
とボクは素直に返事をした。
 
先に検査を終えて後方で見ていた紀美香が
「明らかに飯田君と唐本君の検査基準が違う」
などと言う。すると近くに居た菊池君が
「唐本が耳出るくらいのベリーショートにしちゃうと、自然な髪型ではなくなってむしろ校則違反」
と言う。
 
「そうだよねー」と紀美香も言った。
 

頭髪服装検査が終わった後、みんな席につく。教室はざわざわとしていたが、
「席についたか? 静かにして」
と担任は言う。そしてその次に担任が言った言葉は一瞬にして教室にパニックを引き起こした。
 
「今から新入生実力テストを行う」
 
「エー!!?」という声が起きたが、廊下を通して他の教室からもやはり「うっそー」とか「えー!」という声が聞こえてくる。ボクは隣の席の紀美香と顔を見合わせて「参ったね」という顔をした。
 
「そんな話、聞いてません」と仁恵が言う。
「うん。今言ったから」と先生。
 
2時間目から6時間目までの5時間を使って、実力テストをするということらしい。後で聞いた話では、5月の連休明けから始まる補習のクラス分けに使うということだった。補習(参加は自由)のクラスは完全に成績順らしい。
 

 
ボクはその日たまたま女子下着をつけていた。体育のある日は自制して男子下着を着けて学校には出てきていたのだが、その日は体育が無いので安心してブラとショーツを着けていたのである。そういう日で良かった!とボクは思った。ボクは女子下着を着けている時と男子下着の時では、テストの点が10点は違う。
 
更にボクはいつも持ち歩いているスポーツバッグの中から小さなポーチを取り出し、試験が始まる前にトイレ(自制的に男子トイレ)に行き、個室の中でそこに御守り代わりに入れていたシフォンスカートを取り出すと、ズボンの内側に穿いた。自分がスカートを穿いているという意識だけで、また更に点数を上積みすることができるはずである。
 
果たして、ボクはその日の突発実力テストをかなり快調に解くことが出来た。
 
なお、後で聞いた話だが、この日、政子は例によって試験中ボーっとしていて何も書かなかったらしく全科目白紙答案(正確には答案用紙の裏に詩を書いていた)だったらしい。それで「お前ふざけるな」と担任に叱られ、翌日土曜日に学校に出てきて、ひとりだけ試験を再度受けさせられることになったらしい。
 

その政子がひとり試験を再度受けさせられていた日、ボクはひとりで町に出た。服装はレモンイエローのポロシャツに薄ピンクの春物セーター、黒いハーフパンツといういでたちである。出がけに母から
「うーん・・・女装ではないが、ふつうに女子高生に見える」
などと言われた。
 
その日の用事は英語の辞書の物色であった。これまで中学で使用してきた辞典は収録語数が6万語ほどで、英語の小説などを読んでいて、しばしば載ってない単語があり、けっこう困っていた。一応分からない単語はネットで調べればいいのだが、紙の辞書である程度の語数をカバーしているものを持っておきたかった。
 
よく推奨されているのを見かけるいくつかの辞典を手に取ってみたのだが、微妙に満足出来ない。試しにいくつかの単語を探してみたのだが、載ってないのである。うーん。。。。と悩んでいた時、ふと少し巨大なサイズの英和辞典が目に付いた。
 
さすがにこのサイズの辞典をカバンに入れて学校には持って行けないよな、とは思うものの、開いて先程から試していたいくつかの単語を探してみると、全部載っている。これ、凄い!欲しいと思って値段を見てみる。
 
18900円!?
 
ひぇー!!
 
さすが良いお値段する。買えない! 親にも買ってとは言えない!
 
うーん。。。バイトでもするかなあ。。。  とボクは思った。
ふと以前若葉から「高校に入ったらバイトしてごらんよ。女の子として」と言われたことを思い出した。
 
よし。バイトしてお金貯めて、これ買おうと思い、その日は取り敢えず学校に持って行くための辞典として、ロングマン英和辞典(収録語数10万)を買って本屋さんを出た。この辞書は出たばかりで新しいこととコーパス(最新の統計にもとづき使用頻度順に語義を並べる)を採用しているのを好感した。
 

そのまま街を歩いていたら、バッタリと有咲に遭遇した。
 
「おお、奇遇〜」とボク。
「やはり愛の力かしら」と有咲。
「え、ボクたち愛し合ってたの?」
「知らなかったの? 永遠の愛を誓った仲じゃん」
「そうだっけ?」
「ああ、なんて冷たいのかしら? 私にあんなことまでしておいて」
 
ボクは実はその点がずっと気になっていたので訊いてみた。
 
「ね、有咲、もしボクが変なこと言ってたら御免。ボク、あの時、有咲とHしたんだっけ?」
「え? なんて酷いことを。私にあんなことまでしておいて、そんな言い方って無いわ」
「ごめーん。ボクやっぱりしちゃったのね?」
とボクが焦って言うと
「おほほほほほほ」
などと、有咲はわざとらしく笑った。ボクはどう反応していいのか戸惑った。
 
「あ、そうだ。私、もうバイト決めたんだ」
と有咲は突然話題を切り替えて言った。どうもその件は棚上げのようである。
 
「へー。どこ?」
と、仕方無いのでボクもそちらに合わせる。
 
「スタジオ」
「スタジオって、写真とか撮るところ?」
「ううん。うちはレコーディングとかする所」
「へー、面白そう」
「昨日面接受けて、即決で採用してもらった」
「よかったね」
「この近くなんだ。ちょっと覗いていく?」
「いいの?」
「外から見るだけならね」
 
ということで、ボクは有咲に連れられて、そのスタジオの所まで行き、外から様子を眺めた。
 
「ここ結構有名なスタジオらしくてさ。昨日面接受けてた時は、凄い大物の歌手を見かけたよ」
「有咲、偉いね、こういう時に個人名出さないね」とボクは言う。
「そりゃ、守秘義務があるから」
「うん。それ分かっているのが偉い」
 
しばし、スタジオの外で話していたのだが、その時、スタジオの出入口から40歳前後の男性が出てきて
「あれ? 町田君だったっけ?」と有咲に声を掛けた。
「はい。お早うございます、麻布先生」
「もう今日から入るんだったっけ?」
「いえ。来週からですが、ちょっと見学に。外からですけど」
「ああ。中に入ってもいいよ。そちらはお友だち?」
「はい」
「じゃ、一緒に見学するといいよ。但し中で見聞きしたことは一切口外しないと約束出来る?」
「はい」とボクは言った。
 
麻布さんは飲み物を買いに出てきたようで、自販機でジュースをたくさん買っていた。ボクたちは「運ぶの手伝います」と言って、ジュースを2人で分担して持った。そしてそのままスタジオのビルの中に入る。
 
エレベータで5階まで行き降りる。コントロールルームに入るが、ガラスの向こうでは比較的名前が売れている若手ロックバンドが演奏していた。ボクたちは変に騒いだりせずに静かにその様子を見ていた。元々4ピースバンドの筈だが、フロアには8人の演奏者がいる。見知らない顔はサポートミュージシャンなのだろう。
 
ボクはエンジニアの人たちの動きをじっと眺める。眺めている内にそれぞれの機械の役割や操作が何となく想像が付いてくる感じがした。何だか面白そう。一度こういうの操作してみたいなあという気がしてくる。
 
麻布さんは大きなスライド式のレバーが並んでいる卓の前に座り、そばに座っているラフな格好の人と話しながら、演奏しているメンバーとも色々話をしながら作業を進めていた。ボクはそのラフな格好をしている人に見覚えがあったので、記憶を辿り、数年前に解散したバンドでギターを弾いていた人だということに思い至る。今演奏しているバンドのスタッフについては、ボクも確認していなかったが、多分、アレンジャーかサウンドプロデューサーなどとして関わっているのだろう。
 
15分くらいしたところで「ちょっと休憩しましょう」という声が掛かり、バンドの人たちがロビーに出る。アレンジャーさんもそちらに行くが、ボクたちは助手の人たちと一緒にジュースを持って外に出て、「お疲れ様でした」と言って演奏者の人に1本ずつ渡す。そしてそのまま助手の人たちと一緒にコントロールルームに引き上げた。
 
ここで初めて麻布さんが口を開く。
「君、静かに見学していたね」
「部外者が騒いだりしていたら、演奏している方の気が散ります。集中してお仕事なさっているのだから。それにここの時間単価高そうですし」
とボクはにこやかに言う。
「うん。とっても高い。でも、その高いスタジオで録音したというのをステータスにしたい人たちがいるからね」
と麻布さんもにこやかに言った。
 
ボクは演奏している人たちのことは一切話題に出さなかった。むしろスタジオの機器について、聞いても良さそうな範囲で質問をした。
 
「昔はスタジオのグレードは、何と言っても録音用の機材で歴然としていたんだよ。良い録音機器・システムを使って作られた音源と、安い機材で作られた音源では音質に明らかな差があった。それに昔は新しいテイクを録音するには前に録音したものを上書きして消してしまうのが前提だったから、演奏者の側も、新しいテイクを取るのは賭けだったんだよね」
と麻布さん。
 
「それがDAWで一新されたんですね?」
とボクは尋ねた。
「そうそう。君、こういうのに興味あるの?」
「ええ。少し」
「全部デジタルで、ハードディスクに録音するようになって、機材による差はほとんど無くなったし、前のテイクを残したまま、別のテイクを録音して出来の良い方を使うということが気軽にできるようになった。DAWで音源制作の場は、過去のものとはまるで違ったものになったんだよね」
 
有咲も昨日採用されたばかりで、まだここのお仕事のことも機材などのこともほとんど知らない。それでも、ボクや有咲がその付近のことでいろいろ質問すると麻布さんは機嫌が良いようで、いろいろなことをボクたちに教えてくれた。なんとなくこのロックバンドのレコーディングが順調に行っているので機嫌が良いのだろうと推測した。
 
「君、そういうのに興味あるなら、この本読んでみなさい」
と言って、麻布さんはスタジオに置かれていた専門書をボクに貸してくれた。
「返すのは、町田君に渡してもらえばいいから」
「はい。ありがとうございます。ではお借りします」
 

この時期、ボクはDTMに興味を持っていて、そのためのソフトとか買ってやってみたいなとは思っていたものの、お小遣いで買えるようなソフトでは無い。それもあって、ボクはやはりバイトしようという気持ちを強めていった。
 
学校も2年生になると補習も増えてくるが、1年生の内はそれほどでもない。やるなら今のうちだという気がしたが、この学校の規則では成績が学年全体の平均より上でないと、バイトは許可されない。ボクはぎりぎりで合格している。バイトをするためにはまず成績を上げなきゃいけないのか、ということに思い至った。
 

月曜日。先週の答案がまとめて返された。成績表も一緒である。ボクは400人中120位になっていた。そういえば、ボクは入試の試験の成績はかなり良かったはずである。内申点が悪かったので合否判定ではギリギリの所でこの高校にパスしていたのだが、内申書を除外して試験のみならかなりの高得点だったはずなのだ。それに入試に向けてたくさん勉強した余波がある。それでこの新入生実力テストでもかなり高い点を出したようであった。
 
昼休み、奈緒と購買部の所で会ったので訊いてみた。
「奈緒、何位だった?」
「うん。11位。1桁狙ってたんだけどなあ。残念。次の実力テストまでにまた鍛えなくちゃ」
「すごいなあ。ボクは120位だったよ」
「ふーん。。。試験受ける時、女物の下着を着けてたね?」
「なんで分かるのさ!」
「男物の下着だったら、たぶん220位だったよ」
「そうかも」
「女子制服を着ていたら、100の付かない20位だったね」
「むむむ」
 
「でも、冬、これでバイトできるんじゃない?」
「あ、そうか!真ん中より上だから、許可取れるね」
「冬、言ってたよね。女の子としてバイトしてみようかな、なんて」
「えへへ」
 
それでボクは担任の所に行き、バイトの許可証を発行してもらった。
「どんなバイトをする予定?」
「えーっと、応募してみないと分かりませんが、ファーストフードとか、シアトル系カフェとか、コンビニとか、ファミレスとか、そんな感じの所になるかなと」
「うん、そんな所なら構わないだろうね。決まったら届けてね」
「はい」
 

その週の水曜日、朝通学途中の駅でバッタリと貞子に会った。
「お久〜」と挨拶して、ついでにハグすると周囲がギョッとする視線。ボクたち当人同士は女の子同士の気安さでハグしているのだが、知らない人が見たら男子高校生と女子高校生の抱擁だ。
 
「あ、そうそう。これ陸上部のOGに配ってるんだ。冬にも1枚あげるね」
と言って封筒を1枚もらった。
 
「若葉の学校は、冬んとこの近くだよね?」
「あ、うん。隣の駅」
「じゃ、これ若葉んとこに持って行ってくれない?」
「おっけー」
と気軽に答えて、ボクは貞子から若葉の分の封筒も預かった。
 
その日の昼休み、ボクはお弁当を食べるのは後回しにして、若葉の所にお届け物をすることにした。姉から押しつけられた!ひまわりの柄のミニトートに封筒を入れ、その日は暑そうだったので学生服を脱いでワイシャツ姿になり、定期券を持って校門を出た。
 
電車を1駅だけ乗って、若葉の通う◎◎女子高に行く。校門の所に警備の人が立っていたので会釈して、ボクは校内に入った。職員玄関っぽい所から中に入る。そばに事務室があったので、ボクはガラス窓をトントンとノックした。
 
「はい、どうしましたか?」
「こんにちは。私、4年C組の山吹若葉の友人なのですが、中学のクラブ活動の同窓会の連絡を持って来たので、取り次いで頂けますでしょうか?」
とボクは女声で言う。
「はいはい、ちょっと待って下さいね」
と言われ、校内放送で若葉が呼び出されてきた。ついでに和泉もくっついて来ている。
 
「やっほー」とボクはふたりに手を振る。
 
「やっぱり冬だ。窓から見てて、それっぽい気がしたから」
と和泉。
「若葉。これ貞子から頼まれた」
と言って封筒を渡す。若葉は中身を見て
「了解。了解。ありがとう」
と言ったが、その後、小声で
「ね、校門の所で咎められなかった?」
と訊く。
 
「ん?」
「だって、この学校、原則として男子禁制だからさ」
「へ?」
「中に入れる男性は写真付きの職員証を持っている先生や事務員・用務員に、同じく写真付きの保護者証を持った父親くらいだよ。それ以外はあらかじめ許可証を取ってないと入れない」
「へー」
「だから、なぜ女装もしてない冬が入ってこれたのかと」
「さ、さあ?」
ボクは曖昧に微笑んだ。
 
「まあ、女子がワイシャツ着てたって、女子にしか見えないからね」
とまじめな顔で和泉は言った。
 

その週の金曜日、ボクが晩御飯を作りながら、何気なく合間にテレビを見ていたら全国チェーンのハンバーガー屋さんのCMが流れていた。その瞬間、ボクはそこにバイトの応募をしてみようかと思った。
 
ネットにつながっている居間のパソコンに自分のユーザーでログインし、そのハンバーガー屋さんのサイトに接続し、バイト募集の情報を確認する。ボクは応募口に電話した。
 
「ああ、高校生? バイトは禁止されてない?」
「はい。許可をもらっています」
「じゃ、明日にでも履歴書持って、お店に来て」
「はい。お伺いします」
 
ボクは母に学業に影響の出ない範囲でバイトをしたいと言った。
「そうだねぇ。まあ1年生の内ならいいか。社会勉強だよね」
「うん」
 
ということで母も許してくれたので、ボクはパソコンで《唐本冬子》の履歴書を作ると印刷し、封筒に入れた。
 

翌日土曜日、ボクは、お店で動きやすそうな服装、白いポロシャツにグレーのショートパンツを穿き、朝からそのお店に行った。時間が早いのでお客さんがほとんどいない。まずは筆記試験を受けさせられた。答案用紙に「唐本冬子」
と署名すると気持ちが引き締まる。
 
いくつかの場面での基本的な客への対応を問われる問題だったが、ボクはこれに全問正解した(常識があれば全問正解できる問題)。その上で店長さんの面接を受けるが、しばらくやりとりをした結果、即決で採用と言われた。結構内心はドキドキしていたのだが、こちらの性別には何も疑問を持たれていないようであった。
 
給料は振り込みなので、銀行と口座番号を登録する。ここで、この春に作ったばかりの、信用金庫の「唐本冬子」名義の通帳を使うことになった。この通帳が無いと、女ということにしたまま仕事をすることはできないところだった。ボクは母に感謝した。
 
早速店内で研修を受けることになる。
 
「あなた、身長と体重、ウェストは?」
とサブマネージャーさんから聞かれる。
「167cm, 48kg. ウェストは64です」
「ああ。身長の割に、細いわねえ。それならMかなあ」
 
ということでボクはMの制服を支給され、更衣室で着替えてくるように言われる。
 
「うちの更衣室、男女で共用しているのよ。だから、中に入る時はインターフォンで中に誰かいるかどうか確認してから入ってね」
と言いながらサブマネージャーはインターフォンを押して
「誰かいますか?」
と聞いた。
 
「はい。絹川ほか2名です」
という声が帰って来たが、ボクはその声を聞いて「え?」と思った。
 
「あ、女の子ならOKね」
と言ってサブマネージャーさんはドアを開け、ボクを連れて中に入る。ボクは手を振った。
 
「冬! あんたもここでバイト?」と和泉。
「うん。今採用された」とボク。
「あれ?知り合い?」とサブマネージャー。
「はい。お友だちです」とボクと和泉は言った。
「それは良かった。分からない所とかお互いに教え合って頑張ってね」
「はい」
 
そういう訳で、ボクと和泉はバイト先で一緒になることになったのである。和泉は昨日採用され、簡単な訓練を受けて、今日から勤務らしい。
 

ふつう、ここのハンバーガーチェーンでのバイトはある程度の日数の訓練を経てからということになるらしいのだが、ボクや和泉は先週急に辞めることになった人の穴埋めらしく、特にゴールデンウィーク要員という雰囲気だった。それで短時間の訓練での実戦投入になるようであった。
 
「最初からこんなこと言って申し訳ありません。28日と29日は外してもらってもいいですか?」
「ああ。大丈夫だよ。最初から言っていてもらえば調整はきくから。でも試験の時以外は、週に2回以上シフトを入れてね」
「はい」
 
ボクは最初30分ほどのDVDを見せられた後、簡単なマニュアルを読まされ、衛生管理に関する注意事項なども読まされた。その上で基本的な仕事の流れを再度説明してもらったが、その辺りはむしろ後で他の先輩たちからいろいろ教えてもらって覚えていった。分厚いマニュアルもあったが「ああ、あれ読んだ人はいない」などと先輩から言われた。
 
初日の午前中に、注文を受けてレジを打つ練習をさせられたが、割とスムーズに応対できたので、優秀優秀と言われる。何といっても客として何度もこのチェーンには来ているので、だいたいの対応の仕方は分かっている。クーポンや携帯電話を使った注文も、いつも姉がしているのを見ていたので、受け方も見ている。
 
和泉が「この子、料理得意ですよ」と言ってくれたので、キッチンでのハンバーガー作りやポテトを揚げる作業もさせられたが、一度作っているところを見せてもらったら、その通り手際よく作ることができて、
「じゃ今日はキッチンメインで。また午後時間が空いたころにレジやってもらうから、他の子がしている所を良く見ててね」
と言われた。
 
和泉の方はむしろハンバーガー作りはあまりうまくなかったので主としてフロアを回って、掃除したり下げられたトレイや皿を洗ったりする作業をメインにしつつレジ係もやっていた。店内を巡回しているとお客様から色々声を掛けられていたが、彼女は人当たりがソフトなので、そつなく対応していた。ボクはそういう彼女の動きや対応の仕方も見て、自分が声を掛けられた時のシミュレーションを頭の中でしていた。
 

21-22の2日間働いたのでけっこう感覚が分かり、その次は24(火) 26(木)の夕方働き、28-29日は友人の集まりがあったのでパスして30(祝)は1日働いてから、連休後半は3〜6日の4日間、フル稼働した。
 
その後は、土日に6時間ずつと水曜日の夕方に3時間シフトを入れるようにした。偶然にも、これが和泉のシフトと同じであった。
 
「あれ?君たち、話し合って同じ時間にしたの?」
「いえ偶然です。でも私たち仲が良いので、よかったら一緒の時間にさせてください」
「うん、いいよ。協力し合って、頑張ってね」
と店長さんは言った。
 
ボクたちはおかげで、色々教え合うこともできたし、また少し時間が取れるような時は厨房の奥や更衣室で音楽のこともあれこれ小声で話していた。
 
「へー。冬、コーラス部には入らなかったんだ?」
「だって女子だけなんだもん。うちのコーラス部は」
「でも冬は、中学でも女子の合唱部にいたんだよね?」
 
「えへへ。でも和泉もコーラス部には入らなかったんだ?」
「うん。当面は★★レコードでのレッスン優先」
「すごいね〜。ほんとそちらも頑張ってね。デビューできるといいね」
「うん。もしかしたら秋くらいに取り敢えずインディーズでCD出してもらえるかも」
「おぉ、凄い! 出たらすぐ買うからね」
「うん。よろしくー。サイン書いてあげるからね」
「うん。お願ーい」
 
ボクが実は男の子であるというのは、和泉だけが知っていたのであるが、誰もボクの性別に関しては疑念を持ったりすることも無かったようであった。和泉とはこれまで何度か偶然会って話しただけだったのだが、このバイトでずっと長時間接していて、とても仲良くなった。
 

この高1の初期の頃、ボクはバイトのある水曜日以外は、授業が終わるとまずは書道部の部室に行き、人が来るのを待ち、誰か来れば練習をするものの、30分くらい待っても誰も来ない場合は、体育館に行って用具室にあるピアノを弾いていた。そして、しばしばそこにコーラス部の詩津紅(しづく)が来て、ボクは彼女とデュエットで色々な歌を歌っていた。
 
詩津紅もボクが来てないかな? と様子を見に来るのを常にしていた感じであった。コーラス部の練習はこの年、月水金のみだったので、火曜と木曜は、彼女も暇だったのである。それで逆に火曜・木曜はボクも書道部の方には顔を出さずに最初から体育用具室に行くこともあったし、また詩津紅が書道部の部室まで来ることもあった。
 
「私、誤解してた」
とある時、詩津紅は言った。
「何を?」
「私、最初、冬は女の子の声が出る男の子だと思ってたんだよね」
「へ?違うの?」
「違うよ。冬はむしろ男装女子高生だよ。冬って中身も女の子なんだもん」
「そうかな?」
「私、うっかり冬に恋しちゃうとこだった」
「ごめーん。ボク、女の子には恋愛的な興味無いから」
「うん。そんな感じね」
と言って詩津紅は微笑んだ。
 
デュエットは和泉ともよくやっていた。土日のバイトは7時〜13時の時間帯にしていたが、土曜日は和泉がその後、★★レコードで受けている歌のレッスンに行くものの、日曜日はだいたい空いているので、カラオケ屋さんに行って2時間くらい一緒に歌っていた。お互いの歌を聴いていろいろ注意し合ったりもしたが、デュエットもかなりした。
 
ボクが色々な歌手の歌をデュエット曲に編曲してきたので、その譜面でふたりでよく歌っていた。おおむね和泉の方が高音が出るので、和泉がメインメロディーを歌い、ボクはその3度下を歌っていた。一方体育用具室での、ボクと詩津紅とのデュエットでは、たいていボクがメインメロディーをソプラノで歌い、アルトの詩津紅がそれにハモるように歌っていた。
 
しかしこの時期、和泉にも詩津紅にも言われていたのは
「こんなにきれいな女声が出るんなら、もう性転換して女子高生になりなよ」
ということだった。
 
この時期、体育館で練習している部活の人たちがボクと詩津紅の歌を聴いていたものの、みんな、詩津紅と誰か他の女の子がデュエットしていてボクはピアノ係だと思い込んでいたらしい。この時期、ボクが女声を持っていることを知っている子はそう多くなかった。
 

一方でボクは有咲がバイトしているスタジオにもよく顔を出していた。土曜日のハンバーガーショップでのバイトの後、和泉が歌のレッスンに行くので、ボクはその後、スタジオに顔を出していた。
 
ボクは見よう見まねで、副調内のほとんどの機器の操作がだいたい飲み込めていったので、半ばアシスタントに近いことをしながら、麻布さんや、その助手さんたちからいろいろと技術的なことも教えてもらっていた。
 
「うーん。。。唐本ちゃんにもバイト代払った方がいい気がしてきた」
などと麻布さんは言ったが
「他のバイトもしてて週1度しか顔を出せないし、色々先生から教えて頂いていることとバーターということで」
などとボクは言っていた。
 
プロのアーティストのレコーディングは長丁場である。特に追い込みになると何日も連続して作業しているので、食事などもしながらになる。ボクはよくコーヒーなどを入れてミュージシャンやスタッフの人たちに配ったり、また時には、付属のキッチンで、ラーメンやカレーライス程度のものを作って出したりもしていた。有咲が「この子、料理がすごっく上手いですから」などというのでさせてもらった感じであった。
 
このスタジオは都心からは大きく離れているが、それだけに集中して作業に打ち込みやすいというので、結構大物のアーティストがレコーディングに来ていた。しかしそういう不便な場所ゆえに、食事などで困ることもあったようである。ボクの住んでいる地区の近所に24時間営業のスーパーがあるので、何度か夜かなり遅く有咲から電話が掛かってきて、食糧を調達してタクシーで持って行ったこともあった。
 
「えっと・・・高校生って確か夜10時以降は仕事ができなかった気が・・・」
「硬いこと言わない」
 
さすがにそういう夜遅くの対応はそうそうは無かったが、平日の夕方に頼まれて食材を買っていき、そのままボクが調理して、などということはしばしばあった。
 
そして・・・・このスタジオでもボクは完全に女の子ということで通していた!
 

麻布さんは、このスタジオでのプロ級ミュージシャンの音源制作でのエンジニアというのが主たる仕事であったが、若いわりにコネが多いようでコンサートのPAの仕事も知り合いから特に頼まれると受けていた。ある土曜日にボクがいつも通りにスタジオに顔を出すと、
 
「あ、唐本ちゃん助かった。今日は町田ちゃんが急用らしくて休みなんだよ」
と言われる。
 
「あら」
「今からMURASAKIのライブのPAやりに行くから、ちょっと手伝って」
「はい!」
 
大物アーティストになると、専任のPAが付いていることが多いのだが、この人は半年ほど前にそれまで所属していたグループから「独立」して、まだスタッフが固まっていなかったようで、スポット的に依頼があったらしい。
 
ボクはスタジオの電話を借りて母に電話し、いつも出入りしているスタジオで、有咲が休んでいて、その代わりを頼まれたので遅くなると連絡した。
 
「遅くって何時頃?」
「たぶん10時くらいになる」
「分かった。気をつけてね」
 
麻布さんが使っているいつもの助手の人2人と一緒に車で会場に入った。大型機材の運び込みは、私の腕力では無理なので、細々としたものを運ぶ。また使い走りをたくさん頼まれるので、ほんとに会場内をたくさん走り回った!
 
「唐本ちゃん、人の顔をすぐ覚えるね」
「はい、それ私、得意です」
「**さん分かる?」
「分かります」
「じゃ、これちょっと伝えてきてくれる?」
 
という感じで、その日はひたすらメッセンジャー・ガールだったのである。
 
助手の人が配線を確認、モニターの状況をチェックした。
 
「これ少し音出してみたいね」
「唐本ちゃん、そこのマイクから何か歌ってみて」
「はい」
 
と答えると、ボクはステージ中央のマイクの前に立ち、MURASAKIの最新の持ち歌を歌い出す。
 
「うまいじゃん! もう少しマイクに近づいて歌って うん。いい感じいい感じ」
 
その後、ボクは「音出す係」になり、音響確認用に用意していたギター、ベースを弾いてみたり、本番用のドラムスセットに座って、ドンチチャチャ、ドンチチャチャという感じで8ビートのリズムを打ってみたりして、それで麻布さんはセッティングを確認していた。ドラムスは最初の設定があまり良くなかったようで調整に少し時間が掛かっていた。
 
「しかし君、ほんとに器用だね!」
「器用貧乏というのは、よく言われます」
 
「でも君、あれだけ歌がうまかったら、歌手になれるよ!」
「あはは、なれたらいいですね」
 

やがてバックバンドの人たちが到着したが、MURASAKI本人の到着は遅れているようだった。そのうちリハーサルを始めなければいけない時間になるのに、まだ本人が来ない。
 
「困ったな。充分な時間の余裕を持って入ってくれることになってたから、リハーサル歌手は用意していないのに」
とプロダクションの人っぽい人が言っている。
 
「誰かリハーサル用に呼び出しますか?」
「いや。それでは間に合わない。本人、電話通じない?」
「通じません」
 
「リハーサル無しでやるか?」
「それはちょっと不安が。。。というか、MURASAKIさん、本番には間に合うんでしょうね?」
「うーん。。。」
 
などという会話があった時、その会話の輪に入っていた麻布さんがチラっとこちらを見た。
 
「畠山さん、うちのスタッフに歌のうまい女子高生がいるんですが、彼女にリハーサルを歌わせましょうか?」
と麻布さんがプロダクションの人に言う。
 
ボクは一瞬あたりを見回したが、麻布さんの2人の助手はいづれも男子大学生である。まさか・・・・
 
「あ、その子、MURASAKIの歌、歌えますかね?」と畠山さん。
「おーい、唐本ちゃん、ちょっと来て」
 
やはりボクか!
 
「はい」
と返事して、ボクはそちらに行く。
 
「これ今日のセトリ(セットリスト:歌う曲目)なんだけど、歌える? 何なら歌詞カード見ながら歌ってもいいけど」
と訊かれる。
 
ボクはざっと曲目を見ていった。聴いたことのある曲ばかりである。
「全部歌えます。これアンコールは***と***ですか?」
「よく分かるね!それも歌える?」
「はい」
 
「よし、じゃ君、ちょっとリハーサルで代わりに歌ってくれる?」
「はい、やらせてください」
 
「よし、リハーサルを始める。バンドの方、よろしくお願いします」
 
一方で畠山さんは「会社に連絡して、誰か合い鍵持たせてマンションに行かせて。ひょっとしたら寝てるのかも知れん。その時は叩き起こして連れて来いって」
と若い人に指示を出していた。
 

そういう訳で、ボクはなかなか到着しないMURASAKI本人の代わりにリハーサルで歌うことになってしまった!
 
最初の曲の前奏をバックバンドの人たちが始める。ボクは笑顔でそのスタートを見てから、前を向き直し、歌を歌い始めた。
 
ここのホールは、以前倫代に誘われて地元のオーケストラの定期演奏会で来たことがある。その時は、観客席に座ってステージを見ていた。小学校・中学校で、他の会場ではあるがステージに立って歌うという経験は何度か合唱部でした。しかしその時は観客席には多数の人がいた。
 
今、観客席にいるのは、PAの麻布さんと助手の人、それにプロダクションの畠山さん、それにレコード会社の関係者だけである。
 
その空っぽの観客席に向かって歌うのは少し変な感じもしたが、ボクはそこに満員の観衆がいることを想像して歌っていった。
 
間奏部分ではボクはマイクのスイッチを切って手拍子を打ったり、またアドリブでダンスをしたりした。
 
1曲目の演奏が終わる。
 
「ありがとうございました。なんかこうしてるとMCでもしたくなりますね」
などとボクは調子に乗って言ってみたのだが
 
「じゃ、しゃべってみて。但し1分以内」
と畠山さんから指示が出る。
 
「了解です。今歌った曲は、終わってしまった恋を歌ったものです。恋の歌というのは多いですが、特に終わった恋を歌う歌は多いですね。私も失恋は何度かしましたが、悲しくて涙が出てきます。でもいつか人は立ち上がらなければなりません。ですから明るい希望を持てるような曲も必要なんです。それでは次の曲はそういう恋への希望を歌った曲です。****聴いて下さい」
 
ボクは心の中で秒数をカウントしながらしゃべった。そして2曲目の演奏が始まる。
 
そんな感じでボクはセットリストに書かれていた曲を順に歌っていった。演奏していくにつれ、バンドの人たちの調子が上がっていくのを感じる。音の走りが良い。ボクも遅れないように、しっかり歌っていった。
 
最初は直立で歌っていたのだが、調子が出てくるとこちらもアクションを付けながら歌いたくなってくる。アドリブでいろいろダンスをしながら歌っていく。あまり調子に乗って、間奏部分でクルリと1回転バレエのピルエットのようにして回転したが、その回転の途中で歌い出すタイミングが来てしまった!
 
あまりお腹に力が入らないところだが、そこは根性で声を出してしっかり歌い始める。
 
畠山さんが笑っていたが、ボクはお辞儀をして歌い続けた。麻布さんは少し咎めるような視線だったので、心の中で「ごめんなさい」と言った。
 
やがて10曲歌った所で5分間の休憩と言われる。あ、これが《テイク・ファイブ》だよね、とボクは思った。
 
休憩時間にはうがいをして飴をなめた。その休憩時間にMURASAKIが寝ていたのをプロダクションの人が起こして、今から連れてくるという連絡があったことを聞いた。良かった、良かった。
 
まだすぐ到着する雰囲気ではないので、後半のリハーサルもボクが歌って進行する。後半はボクはステージを歩いてみたり、いろんなアクションをしながら歌った。そして、アンコール前の最後の曲をボクが歌った所で、MURASAKI本人が、やっと到着した!
 
そこで、その後の2曲を本人に歌わせることになった。
 
寝起きのせいかあまり調子が出ないようだったが、さすがプロで、無難に曲をまとめていた。ボクは手拍子を打ちながら歌を聴いていた。
 
リハーサルが終わった所で公演前の休憩に入るが、ボクは畠山さん、そしてPA卓のところから立って近づいてきた麻布さんと笑顔で握手をした。
 

やがて開場し、お客さんが入ってくる。席は7〜8割埋まった感じであった。
 
麻布さんの2人の助手の内、ひとりはPA卓の所で麻布さんの隣に座り、操作の手伝いをしている。もうひとりはステージの傍にいて、モニタースピーカーの類いの調整をしている。私はコンサート中は、主としてそのステージ側の助手の人のそばに居て、時々、そことPA卓との間を往復して、伝言を伝えていた。
 
曲の合間には色々彼から話しかけられる。ああ、男子大学生としてはそばに女子高生がいれば、いろいろお話とかしたくなるよなあ、などと思いながらボクは彼の話を聞いていた。あまり女の子と話すのは慣れてない純情男子という感じで、話題もあまり女の子が興味を持たないような話が多かったが、ボクは笑顔で相槌を打っていた。
 

やがて21時前にライブが終了する。ここのホールの規則で21時半までに撤収を完了しなければならないので、この後は大忙しである。いろいろ荷物を持って車に運んでいく。機材を全部積んで、車がホールを出たのは21:35であった。
 
「お家まで送っていくよ」と言われたのだが、最寄りの駅まででいいです、と言って駅で降ろしてもらった。麻布さんからポチ袋をもらったが中身は1万円も入っていてボクはびっくりした。ボクは駅のトイレで父に見られてもいい程度の服装に着替えてから家に電話し、迎えに来てもらって帰宅した。
 

次の水曜日、バイト先の厨房の奥で和泉と話していた時、和泉が「そうそう」
と言って話し始めた。
 
「こないだ、***ホールでMURASAKIのライブがあったんだけどね。本人直前までマンションで寝ていて、プロダクションの人が起こしに行って連れてくるなんて事件があったらしいんだよ。これ内緒ね」
と和泉。
 
「へ。へー!」
「あの人、前にも似たようなことしてて、その時は公演開始が30分遅れて曲を少しカットする羽目になったんだよね」
「ああ」
 
「今回もリハには間に合わなくて。たまたま現場のスタッフにMURASAKIの曲を歌える女子高生がいて、リハでは代わりに歌ったんだって」
「ふーん」
「ファンだったのかなあ。そういう人が偶然いて助かったって、うちの社長言ってたよ。なんか凄く歌がうまかったらしいんだよね。しまった、連絡先きいてて、うちに勧誘するんだった、とか言ってた」
 
「あれ?和泉ってMURASAKIと同じ事務所?」
「うん。私は契約している訳じゃなくて、単に顔出してるだけだけどね」
「はあ」
 
「ちょっと私もその子の歌って聴いてみたかったね。MURASAKIの曲って歌いにくい曲が多いからさ。それを畠山さんが褒めるほど上手に歌いこなすって、結構な歌唱力のある子じゃないかなと思うんだよね」
 
「ああ、あの畠山さんって人が社長?」
「うん。そうだよ。って、畠山さん、知ってるの?」
「あ・・・えっと・・・そのMURASAKIのリハで歌った女の子というのがボクだったりして」
「えー!?」
 
「しー、しずかに」
「うん」
と言ったが、ボクたちはサブマネージャーに視線で叱られた。厨房であんな声を出してはいけない。
 
「冬が歌ったの?」と和泉は小声で訊く。
 
「うん。観客のいないステージだったけど、凄く気持ち良かった」
「わあ。でもよく歌えたね。出たばかりのアルバムの曲もあったらしいのに」
「ボク、一度聴いた曲は歌えるから」
「あ、そうだった! でも聴いた曲をピアノとかで再現できる人はけっこういるけど、歌える人は少ないんじゃないかなあ」
 
「ボク、人の顔とかも1回見ただけで覚えるし、それと近いものかもね」
「なるほどねー」
と言ってから、和泉は
「一度うちの事務所に顔出してみる? 冬にはきっと興味持ってもらえるよ」
と言った。
 
「そうだなあ・・・・・ボク、まだ女子として行動するのに不安があるから、もう少しちゃんと女子高生になれてから、かな」
とボクは言う。
 
しかし和泉は顔をしかめるようにして
「今既に完璧に女子高生だと思うけど」
と言った。
 
 
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【夏の日の想い出・高校1年の春】(1)