【夏の日の想い出・失恋の想い出】(1)

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彼女のことはSとだけ書いておこう。Sは中学3年の4月に他県から転校してきた。ボクは席が隣になったこともあり、色々この学校のことも教えてあげたりしたし、あれこれよく話もしていた。
 
「でも唐本君って少し不思議な雰囲気持ってるよね」
「そう?」
「今まで私が知ってた男の子の中にはいなかったタイプだなあ」
「ふーん」
「あまり他の男の子とはしゃべってないよね」
「そうだね。ボクあまり友だちいないから」
 
中学時代のボクというのは1年生の春から2年生の秋まで陸上部にいたので、同じ部にいた人とは会えばいろいろ話すものの、元々転校していく子・転校してくる子の多い学校でもあり、3年生の時のクラスには陸上部にいた子がいなかったので、クラスではほとんど誰とも話していなかった。陸上部で今副部長をしている貞子やボクと同様2年の秋で陸上部をやめたものの交流のある美枝などとは廊下で話をすることはあったものの、どちらかというとボクの当時の学園生活はかなり孤独に近いものだった。ボクは男の子たちとは全く話が合わなかったし、といって、クラスメイトの女の子たちとは微妙な壁のようなものを感じていた。
 
「でも私にはいろいろ親切にしてくれるのね」
「別に孤独を愛してるとか、友だちとの交流が嫌いな訳じゃないからね」
とボクは笑う。
 
ボクはSのことはただの友だちのつもりだったのだけど、彼女がボクを特別な目で見始めたのはたぶんあの時からではないかと思う。それはゴールデンウィークの直前頃だった。
 
その日放課後図書館に行って本を借りてきてから帰ろうとしたら、彼女もちょうど帰るところで、ボクらは一緒に教室を出て、並んで歩きながらあれこれおしゃべりをしていた。
 
「でも不思議だなあ。私、これまであまり男の子と話をしたことなかったのに唐本君とはごく普通に話が出来る。私、他の女の子なんかと話すのと似たような感覚で話しているのに」
「うーん。ボク雑学だからね。たいていの話題には付いてくよ」
「でも男の子とはあまり話さないんだ」
「ちょっと下ネタとか苦手なんで」
「へー。純情なのかな」
 
男の子のクラスメイトたちの話というと、どうにもオナニーとかの話が多い。ボクはそばで聞いていても、ちょっとその話の輪には入りたくない気分だった。野球とかの話もさっぱり分からないし。なんかよく殴り合ってるし!
 
校門を出て少し先まで歩いていた時、後ろの方からトトトトと走ってくる人の足音が聞こえた。そしてその足音の主はSにぶつかるようにすると彼女が手に持っていたスポーツバッグを奪ってそのまま走り去ろうとした。
 
「きゃー」といってSが倒れる。
「待て!」とボクは叫ぶと全力でその男を追いかけた。こちらは腐っても元陸上部員である。あっという間に追いついて相手の足をはらって停める。男が倒れた所でSのバッグを取り返す。
「返してもらうよ」と言い、ボクはSのところに戻った。
 
「はい、どうぞ」
「ありがとう。唐本君、足が速いのね!」
「一応元陸上部だからね」
「あ、そんなこと言ってたね。あ、そうか。それで前村さんなんかともよく話してるんだ」
「うん。彼女に副部長を押しつけたからね。去年の秋に辞めてなかったら、あやうくボクが副部長をやるハメになってた」
「えー?副部長って女子がするんじゃないの?」
「うん。まあ、そうだけどね」
「唐本君ってやっぱり何だか不思議な男の子だ」
 
彼女は興味津々という雰囲気の笑顔でボクを見つめていた。
 

その後、彼女と急速に話をする機会が増えたような気がする。なぜか放課後一緒に帰る機会も増えた。
 
ある時、彼女は「クッキー焼いてみたから食べてみて」などと言ってボクにクッキーをくれた。「わあ、ありがとう」と言ってもらい、食べてみると美味しい。「美味しい、Sちゃん、上手だね。じゃ今度ボクも何か作ってきてあげるよ」と言って、翌日マドレーヌを焼いていってあげた。
「えー?唐本君お菓子作りするのね」といって受け取ると食べて「凄ーい。美味しい。上手なのね。私も頑張らなくちゃ」などと言っていた。
 
そんなある日、ボクは貞子から「ちょっと来て」と言って廊下の影に連れ込まれた。「どうしたの?」と訊く。
 
「冬さ、Sちゃんと最近よく話してるよね」
「うん。ボク友だちが少ないから、おしゃぺりの相手ができて楽しい」
「・・・・Sちゃんが冬のこと好きだってのには気付いてないの?」
「え?」
「やっぱり気付いてなかったか」
「だって・・・・」
「冬は基本的に男の子が恋愛対象だもんね」
「いや、そういうつもりはないけど」
「でもSちゃん、完璧に冬を男の子として意識してるよ」
「うーん。。。。そう言われたらそんな気がしてきた」
「どうするの?自分は女の子は恋愛対象じゃないと言う?」
「困ったな」
「困るくらいなら彼女があまり傷つかない内にちゃんと言わなきゃダメだよ」
「いや、そういう意味の困ったじゃなくて・・・・」
「冬もSちゃんのことが好き?」
「少し考えてみる」
「うん」
 

その日もSとは帰りが一緒になったが、貞子に恋愛要素を指摘されてみると、変に意識してしまい、何だか会話がたどたどしくなってしまった。
「どうしたの?今日の唐本君、変」
「あ、ごめん。ちょっと考え事しちゃって・・・」
「あ、そうだ、唐本君の誕生日っていつ?」
「誕生日?10月8日」
「わあ。。。天秤座か」
「うん。Sちゃんの誕生日は?」
「私は12月22日」
「それって射手座?山羊座?」
「それが実は分からないのよ。自分では性格的に山羊座かなって思ってるんだけど。何か星占いの本、見る度に12月22日生まれは、射手座って書いてある本と山羊座って書いてある本があるんだ」
「出生時刻分かる?」
「それで分かるの?」
「うん」
「夕方の5時23分」
「ちょっと待って。調べてみる」
ボクは携帯を取り出すと、ホロスコープ計算サイトにアクセスして、Sの出生データを入れてみた。
「Sちゃん射手座だよ」
「え?ほんと?」
「射手座の29度58分41秒。ギリギリだね」
「へー」
「天秤座と山羊座だと相性悪いけど、天秤座と射手座なら相性いいね」
「ほんと、よかった」
 
ボクの頭の中で、その自分で言った「相性いい」という言葉がいつまでも鳴り響いていた。
 

翌日は土曜日だったのでボクはお昼御飯の後、町に参考書を見に行くと言って家を出たが、いつしか、近所の高台の見晴らしのいい場所に来ていた。Sのことを考えてみる。自分としては友だちのつもりだった。でもこれって恋にしてもいいのだろうか?
 
恋って今まで片思いなら何度もしたことがある。ボクは自分はバイだなというのは意識していた。恋をした相手がだいたい男女半々だった。でも相手が男の子の場合は相手が自分を同性と思っているので発展の要素が無かったし、相手が女の子の場合でも、たいてい親しくなっていく課程で相手がボクの女の子っぽさに気付いてしまい、結果的に女友達みたいな感じになって恋愛要素が育たなかった。Sの場合は、彼女がボクの女の子っぽさを感じ取る以前に仲が進行してしまったのかも知れない。Sのこと嫌いではないよなあ。でもホントは友だちでいたかった気もするのだけど。でも恋人になってもいい気もしてきていた。
 
そんな感じで悩んでいた時、ポンと肩を叩く人があった。
「あ、絵里花先輩」
「どうしたの?冬。何か悩んでるみたい」
それは陸上部の1年先輩の絵里花であった。今は高校1年生である。
 
「うん。ちょっと」
「珍しいね。あまり悩むタイプじゃないと思ったけど」
「けっこう葛藤ありますよー」
 
絵里花は少し考えるふうにしてから、こんなことを言い出した。
「そんな時はパーっと女装しちゃおう」
「えー?」
「女装すれば気分が変わるからきっと悩みも解決するよ」
「そうですか?」
「うちにおいで。また女装させてあげるから」
「あはは」
 
絵里花先輩は自宅にボクに合う女の子用の服を用意してくれていて、ボクに時々女装をさせてくれていた。ボクも女の子の服を着て可愛い感じに変身するのが、まんざらでもないので、こちらから進んで女装させてもらいに行くこともあった。その格好でさすがに外を出歩く勇気はないが、女装で絵里花先輩や貞子などとおしゃべりしていると、普段と違った感覚に不思議な脳の刺激を感じて、しばしば壁にぶちあたっていたことが解決したりするのをこれまで何度か体験していた。
 
先輩の家に行くと今日はお父さんもお母さんもいなかった。
「今日はお店が忙しいみたいで、お母さん手伝いに行ってるんだ」
「いいんですか?留守の時に」
「冬はここでは冬子だよ。女の子の友だち連れてきて叱られる訳がない」
「そうですね」
 
ここでの女装もこれが4回目。変に恥ずかしがったりはしない程度には慣れてきた。下着はボク専用のものだが、上着やスカートはけっこう絵里花先輩自身のを貸してくれていた。
「今日はこれ着てみない?」
「わぁ。マーメイドスタイル。可愛い。お借りします」
 
「冬子、突然誘っても足の毛はちゃんと処理済みだよね」
「偶然ですよ。いつも処理しているわけじゃないけど」
「まだ抜いてるの?」
「悲しいことに抜くのでは追いつかなくなって最近は剃ってます」
「去勢しちゃえばいいのに」
「えっと・・」
「去勢しないと身体はどんどん男の子になっちゃうよ」
「うん」
 
ボクは着て来た服を全部脱ぐと、女の子パンティを穿き、ブラジャーを付け、今日はキャミソールを着た上にマーメイドスカートを穿き、それに合わせてマリンルックのプルオーバーを着た。
 
「わあ、可愛い。もう冬は私専用の着せ替え人形にしたい」
「えへへ。悪くないなあ、それ」
「お茶入れるね」「うん」
 
絵里花はエスプレッソマシンで濃いエスプレッソを作り、泡立てたミルクを入れて甘ーいマキアートを作ってくれた。
 
「ボクいつもはブラックコーヒーだけど、たまにこういう甘ーいの飲むと、これもいいなと思う」
「以前からブラックだったっけ?」
「陸上やってた時は甘いのじゃんじゃん飲んでたけど、辞めた後いきなり体重52kgまで行ったから、やばいと思ってカロリー考えるようになったの」
「へー。昔は40kgくらいだったよね」
「今体重48kgまで落とした」
「身長いくらだっけ?」
「167cm」
「ちょっと待って・・・」
絵里花が携帯を操作している。
 
「標準体重は61.3kg, 美容体重でも55.7kgと出るけど」
「でも体重52kgの時は重くて身体が動かない感じだった。67のスカートもきつかったし」
「ふーん。。。。やっぱり日常的にもスカート穿いてるんだ」
「あ、えっと・・・それはお姉ちゃんが通販で買ったののデザインが気にいらないから、ちょっと穿いてみてと言って穿かされて・・・結局ボクもその時はサイズが厳しかったから返品したというので・・・・」
「ふふふ。私の前で言い訳しなくてもいいのに。でもサイズが合っていたら、そのスカートもらってたの?」
「うーん。姉ちゃんもなんかボクに女の子の服を着せたがるんだよね」
「それは冬子の本質が分かってるからでしょ」
 
「ボク今そのあたりで悩んでいて・・・」
「好きな女の子ができたの?」
「何で分かるの!?」
「そんな気がしたよ」
 
「ボク、今まで片思いでなら女の子好きになったこと何度かあるけど、今度のは両思いっぽくて。それでボク自身が女の子っぽいのに、ほんとに女の子と恋人になっちゃってもいいのかなって悩んじゃったの」
「彼女の前では男の子っぽくしてるの?」
ボクは首を振る。
 
「だって数日前まで恋人に近い状態になってること自体に気付かなかったんだもん」
「友だちのつもりだったんだ?」
「うん。だからふつうに絵里花や貞子と話すときのこんな感じの口調で話してる。声は男の子の声使ってるけど」
「冬子の言葉って《ボク少女》の話し方だよね。一人称はボクだけど女の子の口調なんだもん」
「男の子っぽい話し方を試してみたら気持ち悪いからやめろと貞子に言われた」
「うん。それって想像するだけでも気持ち悪い」
 
「中学生の恋でそこまで考える必要もないんだろうけどさ。この恋がもしうまく行っちゃったとして、ずっと続いていって結婚しようなんてことになった時に、ボク男として彼女と結婚する自信が無い」
「女の子同士で結婚しちゃってもいいんじゃない?」
「えー?そんなのもあり?」
「世の中にレスビアンというものがあること知らない?」
「レスビアンでも結婚するの?」
「結婚式する人いるよ。国によっては法的にも夫婦になれる国もある」
「そうだったんだ!」
 
「でも自覚もしてるみたいだけど、中学生の恋でそんな先まで考える必要無いじゃん。先のことはなりゆきに任せればいいよ。今冬子がその子のこと好きなんだったら素直に好きと言えばいいし、無理に男の子っぽく振る舞う必要もないんじゃない?きっと相手の子も今の冬子の性格があって冬子のこと好きになったんだと思うよ。あるがままの本音の冬子で付き合えばいいじゃん」
「そうだね・・・・あれ。。。ボク根本的に何を悩んでたのかな?」
「悩んでたというより少し混乱してただけかもね」
「そうだね」
 
「今日みたいな可愛い格好で彼女とデートする?」
「えーっと。それはちょっとやめとく。だいたいボクこういう格好で外を歩く勇気無い」
「えー?だって女の子サンタの衣装で配達とかしたじゃん。一昨年も去年も」
「うーん。サンタは特別」
「ふつうの女の子の服も変わらないと思うけどなあ。そうだ。私の中学の時の制服まだ取ってあるのよ。ちょっとそれも着てみない?」
「あ、うん」
 
ボクはマリンルックの上下を脱ぐと、女子制服を身につけてみた。
鏡に映してみると、普通の女子中学生がそこにいた。
 
「冬の制服姿は久しぶりに見たけど、やっぱり全然違和感無いね」
「うん。自分でも何か素敵な気分」
「制服、他の子に借りたりして着たりしてないの?」
 
「1年生の春に、教室でなんか試着会みたいになっちゃったことあって、男子みんな女子制服を交替で着てたのよね。あ、ボクも着てみたいと思ったんだけど、ボクにはお声が掛からなくて」
「それは・・・たぶん、冬子が男子の頭数に入ってないからよ」
と絵里花は笑っている。
 
「あ、そうかも」
「その制服あげようか?私はもう着ないし」
「でも家の中での置き場所に困る」
「堂々と着て、学校にもそれで行くとか」
「そこまでの勇気が無いのよね」
「じゃ、その気になった時のために、まだしばらく取っておくよ」
「ありがとう」
 
その後、ボクはまたさきほどのマリンルックの服に着替えて、コーヒーを飲みながらおしゃべりをしていた。すると絵里花のお母さんが帰ってきた。
「お邪魔してます」
「あ、いらっしゃーい、冬子ちゃん。あら?その服は」
「うん。私が去年着てた服。冬子は私の着せ替え人形なの」
「あらら」
「だって冬子って制服着てる時以外は地味なポロシャツにジーンズとかばかりで。もっと可愛いの着なきゃっていって着せてるの」
「冬子ちゃん、そんなに可愛いのにね」
「自分が可愛い女の子だという自覚に欠けてるのよね」
 
お母さんがお店から昨日の残り物のパウンドケーキを持ってきてくれていたので、またお茶を入れてそれを頂きながら、3人でおしゃべりを続けた。16時頃「御飯作らないといけないのでそろそろ帰ります」と言い、着替えに行こうとしたら「あ、今日はそれ貸してあげるから、そのまま帰りなよ」と絵里花が言う。お母さんの手前、変な言い訳ができないのでボクはちょっと困ったが、まいっかと思い「じゃ、借りていきますね」と言って、元々着て来た服の入った紙袋を持ち、家を出た。
 

さて、家に帰らなきゃとは思うものの、この格好で帰ったら母がパニックになりそうだ。姉は喜びそうな気もするが。となると途中で着換える必要があるが、ここから自宅まではずっと住宅街。あまり着換えられそうな場所は無い。
「仕方ない」
 
ボクはいったん町に出ることにした。そもそも参考書を買いに行ったんだった。そろそろ日も傾いてくるけど、まいっかな。バスに乗って商店街のある地区に行く。まずは本来の目的であった本屋さんに入り、参考書を選んだ。それを買っていこうと思い、レジの方へ行きかけた時、ふと平積みになっている本に目を留めた。「神秘のタロットカード」などと書いてある。
 
ボクは高校生の頃以降は占いに対する興味が薄らいでいくのだけど、この頃はまだけっこう占いに関心があった。タロットカード付きで値段は1200円である。お小遣いの残高はけっこうある。買っちゃえと思い、それも一緒に持ってレジに行った。
 
本屋さんの後、着換えるのにドーナツ屋さんのトイレを使わせてもらおうと思い近くのそのお店に入った。オールドファッションを1個とコーヒーを頼み、受け取ってテーブルの方に行く。何となく今買ったタロットカードの本を開けて眺めていた。ドーナツのほうを一口も食べないうちにコーヒーが無くなってしまった。お代わり自由なのでもらってこようと思い、席を立ったところで、ちょうど後ろから来た女の子と衝突してしまった。
 
「きゃ」「あ、ごめん」
女の子は持っていたトレイを落としてしまう。載せていたドーナツも床に落ちてしまった。
「ごめーん。買い直してあげる」
ボクは落ちたドーナツがストロベリーリングとポンデダブルショコラと見て取りそれをカウンターで注文して持ってきた。
「代わりの買ってきたよ」と言って渡した時、彼女がSであることに気付いた。ぎゃっとボクは心の中で叫ぶ。
 
「ありがとう。ここ座って良い?」と訊く。
「うん」
 
落ちたドーナツは彼女が片付けてくれていた。ボクはドキドキしながら席についた。
「何かどこかで会ったことがあるような気がするけど思い出せない」
などと彼女は言う。あれ?もしかして・・・・
「わあ、タロットカード?占いするんですか?」
「あ、えっと少しね」
タロットは姉がしているのを時々見ているので、少しはやり方が分かる。
 
「ね、もし良かったら私を占ってくれません?」と彼女は笑顔で言う。可愛い!でもその時、同時に彼女はボクを認識していないことも確信した。
「いいよ」とボクは答えた。
 
彼女とは学校でしか会ってないからSは学生服のボクしか見てない。声も学校では男の子の声でしゃべっている。でも今ボクは女の子の服を着ていて、声も中性的な、女の子の声にも聞こえる声で話している。顔は同じなんだけど、これでは確かに同一人物とは認識できないかも知れない。
 
「私好きな人がいて、よく彼と話すんだけど、彼、私のことどう思ってるのかなとか、彼私の思いに気付いているのかなとか、この恋の行方どうなるのかなとか」
 
ボクはトレイを脇のほうにやり、テーブルを念のため紙ナプキンで拭いてから、タロットカードをシャッフルし、集めて揃えてカットして、3枚横に並べた。左から「聖杯の王子」「隠者」「恋人」のカードが出た。
 
「今は純愛というか、半ば友情半ば恋という感じですね。彼はあなたの思いにたぶん最近気付いたところ。あなたのこと好きだけど、ピュアな感情で、今の段階ではすぐにあなたにアクションを起こさないかも知れない」
 
「ああ、そうかも。彼ってあまり積極的に何かするタイプじゃないのよね。わりと受け身な性格なんです」
「現状はあなたの思いに気付いて彼なりに少し悩んでる段階っぽい。でも未来のところに恋人のカードが出てるから、あまり遠くない時期に恋人になれるよ」
 
「ほんと?嬉しい。これって彼の告白を待つべき?それともこちらからアタックしちゃった方がいい?」
 
ボクはカードをシャッフルしなおし、まとめたパイルから2枚引いた。
愚者と棒の4(成功)が出る。
「待ってると彼いつまでも何も言わないかも。こちらから言っちゃえば彼は戸惑いながらもあなたの愛を受け入れます」
「わあ、やはりそうか。そんな気がしたのよね。でも告白する勇気無いなあ」
「手紙とか書くのも手かもね」
「あ、そうか!手紙なら書ける気がする」
 
そのあと彼女はタロットカードを見たがっていたので、まとめて78枚渡して存分に見てもらった。ボクはコーヒーをお代わりしてきて、飲みながらドーナツを食べながら、彼女と世間話をした。なぜか嵐の話題で盛り上がった。
「あ、じゃSちゃんは二宮君のファンなんだ」
「へー、恵子ちゃんは櫻井君がいいんだ」
 
そうそう。ボクはさすがに冬彦と名乗る訳にもいかないので恵子と名乗った。瞬間的な思いつきの名前である。ボクたちはそのままそこで30分くらい話してから、一緒にお店を出て、商店街の端で別れた。
 
彼女がバス停の方に行ったのを見てボクは商店街に戻ってスーパーに入り、トイレに行った。一瞬だけ迷ったものの女子トイレのほうに入り、個室に飛び込んだ。
 
手早く着換える。とにかくスカートさえ替えておけば何とかなる。絵里花から借りたマーメイドスカートを脱いで、元々穿いていたジーンズを穿く。上も替えたかったが、元の服に戻っちゃって女子トイレをパスする勇気が無かったので、上はマリンルックのプルオーバーのまま個室を出る。そのまま外に出てそのスーパーで晩御飯の材料を買ってから、バスで自宅方面に帰還した。
 

帰宅すると「あれ?その服は?」と母から訊かれた。
「うん。友だちと偶然会って、おうちにお邪魔して話してた時に、うっかり、自分のシャツを汚しちゃったら、貸してくれたんだ」
「あ、えっと・・・女の子の友だち?」
「ボク、男の子の友だちいないよ。ちょっと着換えてくる」
 
そんなことを言ってボクは自分の部屋に戻ると、プルオーバーを脱いで、タンスの中から出した、ゆったりめのトレーナーを着る。下着は取り敢えずそのままである。元々着ていたポロシャツは洗濯機に放り込んだ。
 
「遅くなってごめんね。晩御飯作るね」
と言って、ボクは晩御飯の酢豚を作り始める。材料を切って適宜中華鍋で炒めてはいったん取り出す。豚肉も角切りにして片栗粉を付けて揚げ、油を別の鍋に移してから、他の材料も入れて一気に炒める。素材がきれいに絡み合ったところで火を止めた。御飯を盛る。取り皿とお箸を並べてから、食卓の中央に置いた鍋敷きの上に中華鍋を置いた。
 
「お姉ちゃーん、御飯だよ」と姉を呼ぶ。帰宅の遅い父のために少し取り分けてラップを掛けた。パソコンで何か見ていた母がふたを閉じて食卓の方に来た。姉も部屋から出て来た。
 
「頂きまーす」
「うーん。美味しい。酢豚もやっぱり冬彦がいちばんうまいね」と母。「というか、ほぼ全ての料理で冬彦がいちばんうまいよね」と姉。
「カレーみたいに誰が作っても同じになりそうな料理でもやっぱり冬彦の作ったカレーは美味しいのよね」と母。
「タマネギをしっかり炒めてるもんね。あと材料投入のタイミングでも味の違いが出てくるみたい。でも私上手にタマネギ炒められないもんなあ」と姉。「冬彦がお嫁に行っちゃったら、御飯が不安だわ」と母。
「私とどちらが先にお嫁に行くかなあ」と姉。
「えーっと、ボクがお嫁に行くというのはもう確定?」とボク。
「うん」と母と姉。
 
「いいお嫁さんになるよね」
「相手は男の人でも女の人でもいいよね」
「あ、冬彦の友だちって女の子ばかりだし、女の子のお嫁さんになるかもね」
「ああ、最近ほんといろんなパターンあるし、それもいいんじゃない?」
「うーん。。。まあ、女の子のお嫁さんならいいかなあ・・・」
とボクは頭を掻きながら答えた。
 

御飯が終わって、台所の片付けをしてお風呂に入る。着替えを持ってから、お風呂に行き、トレーナーとジーンズを脱いだ。
 
ずっと付けっぱなしのキャミソールと女の子パンティが顕わになる。洗面台の鏡に映してみる。ちょっとドキドキ。キャミソールを脱ぐとブラが見える。更にドキドキ。ふっとため息を付いて、ブラジャーの後ろのホックを外し肩紐も外し、それからパンティーを脱ぐ。そこからポロリと出て来たものを見て、別の意味のため息を付く。
 
明日にも絵里花の所に持って行き返して洗濯もお願いしないといけないので、畳んで着替えの所に一緒に置いた。浴室に入り、身体を洗って湯船につかり、今日の夕方のできごとをまた思い起こしていた。Sの気持ちは分かった。あの占いは、ボクは自分の感情は交えずにカードに出ただけの内容をそのまま伝えたつもりだ。でも、ボクがしたアドバイスに沿って彼女が行動すれば、ボクは彼女の意志表示に対して何らかの回答を出す必要がある。もう自分としても、何と答えるべきかは、心が定まっていた。
 
でも、どういうふうに言おうか・・・・そんなことを考えていた時、脱衣場のドアが開いた。あ、しまった。ブラを見えるような場所に置いておいた。やばい。
 
と思ったものの、ドアはすぐに閉められた。うーん。母だろうか、姉だろうか。まあ、なるようになれだ。
 
Sにする返事について色々考えてるうちにけっこう時間も経っている気がしたのであがることにする。お風呂からあがりバスタオルで身体を拭き、パジャマを着る。自分の部屋に戻って、今日買ってきた参考書を読み始めた。
 
23時半頃。トントンと小さなノックの音があった。襖を開けると姉だった。
「ちょっといい?」
「うん」と言って姉を入れる。やはりさっきお風呂場のドアを開けたのは姉だったなと思った。ボクたちは部屋の中央に向かい合って座った。
 
「訊きたいことがあるから正直に答えなさい」と姉は厳しい顔をしている。
「さっき冬彦がお風呂に入っているのに気付かなくてドアを開けちゃったんだけど、着替えの所にブラジャーがあった」
「うん」
 
「あれは誰のブラ? 見たことないブラだけど、新品には見えない。冬彦、女の子の友だち多いよね。今日も女の子の友だちと会ってきたんでしょ。あれはその子の所から盗んできたもの?」
 
「違うよ。あれはボクのブラだよ」
「ほんとに? 冬はこれまでノーブランドのブラばかり着けてたじゃん。でもあれはワコールだった。それでタグがかすれていて、かなり着込んでいる感じだった」
「あのブラは今日会った子のうちにずっと置かせてもらってるの。洗濯も彼女がしてくれてるの」
 
「なるほど・・・・やはり冬って日常的に女の子の服、着てるんだ?」
「そんなに日常的に着ている訳じゃないよ」
「ふーん。洗濯物気をつけていても、冬の女物の服が洗濯されている気配無いし最近はあまり女装してないのかなと思ったら、そうやって友だちの所で女装してたのか」
「えーっと、そう頻繁にしている訳でもないけど・・・」
「分かった! そういう協力者が何人かいるんだな?」
「あ、それは・・・・」
 
「まあいいや。そのブラと、パンティもかな。洗濯機に入れといていいよ。母ちゃんから訊かれたら私のだって言うし、乾いたら私の部屋のタンスに入れておくから、向こうに持って行く時はそこから勝手に持ってっていい」
「ありがとう」
「下着だけ?今日持ち帰ったのは」
「えっと、プルオーバーはお母ちゃんの見てるところで洗濯機に入れたけど実はスカートもある」
 
「私のものの振りして洗濯してあげるから出しなさい」
「うん」
と言ってボクは紙袋の底に入れておいたマーメイドスカートを出した。
「可愛い!こんなの着るんだ、冬彦って」
「うん、まあ」
「ちょっと穿いてみてよ」
「えー?」
と言いながらもボクはそれを穿いてみせた。
 
「私がよく冬彦に通販の失敗物のスカート穿かせてるけど、穿かせた時に、違和感無いなあと思ってたのよね。自分でも時々穿いてるから、穿きこなしちゃうんだな」
「そんなに頻繁には穿いてないけどね」
 
姉はいつしか笑顔になっていた。その日はスカートを穿いたまま姉と1時間くらいあれこれ話していた。
 

月曜日、昼休みにSが「ちょっと渡したいものがあるから放課後、校舎裏手の柳の木のところに来てくれない?」と言った。「いいよ」
 
ボクは放課後になるとその木のところに行った。ほどなくSがやってきた。
 
「唐本君、私直接言おうかと思ってたんだけど、勇気が無くって。それで手紙に書いてきたの」と言ってSは可愛い封筒に入れられた手紙を渡す。ボクはそれを受け取って便箋3枚に綴られた彼女の熱い思いを読んだ。心がキュンとなる。
 
「ボクも意気地無しだから、うまく口では言えなくて。それでこれ」
と言って、レモンイエローの洋封筒に入れた手紙を渡した。彼女がそれを受け取る。開けて便箋を広げる。そこには「好き。付き合って欲しい」という短文が書かれていた。
 
「唐本君・・・・」
「Sさん・・・・」
 
僕たちはしばし見つめ合い、やがて手を取り合い、そして笑顔になった。ここはキスしちゃう場面かなという気もしたけど、当時のボクはまだうぶで、彼女にキスをすることはできなかった。
 
校庭の脇にカマボコ型の体育用具室があり、ボクたちはその用具室の屋根の上に一緒に座って、いろいろな話をした。告白をして恋人になったからといって、特段これまでと違う話をするわけではない。今までと同じような話なのだけど、ふたりの関係がこれまでの友だちから恋人に変化したことで、会話も何か熱いものになったような気がした。
 
ちょうどそこにロードワークから帰ってきた貞子が通りかかる。ボクたちが並んで座っているのを見て笑顔で手を振った。ボクは手を振り返した。
 
こうしてボクはSと恋人になった。
 

 
ボクたちは別にこそこそと付き合ったりはしていなかったから、昼休みも放課後もよく教室で話していた。ボクたちが話していると、クラスの他の女の子が寄ってくることもあったが、気にせずその子たちも入れておしゃべりをしていた。他の子が会話に加わることをSも気にしていない感じだった。
 
デートもよくした。土日に一緒に市の図書館に行ったり、町に出て一緒に参考書や問題集を見たり、公園でジュースなど買ってベンチに座って話したりもした。お小遣いに余裕がある時はドーナツ屋さんに入って話すこともあった。お母さんにお金をもらって1度は一緒に映画を見に行ったりもした。
 
映画に行った後は(その分のお金ももらっていたので)ハンバーガー屋さんに行った。中学生のお小遣いではなかなか入れないところである。
 
「何頼む?お母ちゃんからお金もらってるし、おごってあげるよ」
「じゃ、ベーコンレタスバーガーのMセット」
「じゃ、ボクはえびフィレオのSセットにしよう」
「S?Lにしないの?」
「ボク少食だから」
「へー」
 
彼女に先にテーブルを確保しておいてもらい、品物が出て来たところでそれを持って彼女の所に行く。食べながら映画の感想などを話していたが、ボクはえびフィレオを半分まで食べた所でギブアップした。
 
「だめー。食べきれない。残して持ち帰ろう」と言う。
「うっそー。信じられない。男の子なんてバーガー2〜3個食べちゃうかと思ってたのに。こないだ会ったうちの従兄なんてビッグマック2個食べて、まだ入るかもなんて言ってた」
「それはまた凄いね」
「陸上部してた頃もそんな感じだった?」
「ボク当時体重が40kgしかなかったから、せめてあと5kg増やせって言われて。頑張って食べてたけど、体重全然増えなかった。当時は晩御飯3杯も食べてたよ」
「3杯って普通じゃん」
「そう?」
「男の子って5〜6杯食べない?」
「えー!?そんなに食べるもの?」
「男の子の友だちとかの食べるの見たことない?」
「うーん。ボク男の子の友だちいないから。あ、でも陸上部辞めた後は一時期体重が52kgまで行っちゃった。今は48kg前後で安定しているけどね」
「48kgって、女の子並みの体重だね。というかあたしより軽いし」
 
「でも52kgあった時は身体が重くて重くて辛かったんだよね。あ、ポテト、よかったら食べない?全然手付けてないから」
「うん。じゃ、もらっちゃおう。でも唐本君、食糧危機になっても生き残れるね」
「あ、そうかも」
 

やがて1学期が終わり学校は夏休みに入ったが、ボクたちは週に1回くらい、どこかで落ち合って散歩をしたり、公園の芝生の上などに座ったりしておしゃべりを楽しんでいた。
 
「でも唐本君って凄く優しいよね」
「そうかな?」
「なんか柔らかーく包み込まれるような感じなの」
「まあボク、ワイルドじゃないから」
「唐本君いつも『僕』と言うよね。『俺』とか言わないの?」
「うーん。それは使ったことない」
「ほら、言ってみてよ。『俺』って」
「・・・・ごめん。それ言えない」
「面白いなあ。私が知ってる男の子って、みんな普段『僕』とか言ってても、女の子の前では格好付けるみたいに『俺』って言ってたから」
「ボク、あまり男らしくないから」
「スポーツやってたのにあまり腕力もないよね。ほらまたやってみよう」
 
と言って彼女はベンチの上に肘を置いて腕相撲の体勢を取る。ボクは微笑んで彼女と腕を合わせ、せーので力を入れる。あっという間に負けてしまう。
「わーい。また私の勝ち。ね、ね、手加減してないよね」
「全力だよー」
「でも、私、男の子とちゃんとした交際まで行ったのも初めてだけど、こんなに優しくされたのも初めて。だから私唐本君のこと好き」
「ボクも交際は初めてだけど、Sさんのこと好き」
 
そしてボクたちは見つめ合い、微笑み合っていた。いつか・・・・キスなんてする勇気が出るかな。。。。
 
でもこの時期、本当にボクは悩んでいた。絵里花には割り切ったみたいなことを言ったものの、やはりSと一緒にいる時は自分のできる範囲で男の子っぽい自分を出していた。「男らしくないから」なんて自分でSに言いつつも普段の自分よりかなり男っぽい行動をしていた気がする。でもボク自身の心情としては、やはりできるだけ女の子っぽい自分でありたかった。更には女の子っぽくありたい自分が本当に女の子と恋人でありつづけることが許されるのだろうかというのも、日々自分の心を苛む課題だった。
 
でもこの時期、そういう問題を置いておいてもボクは日々が楽しかったし、彼女といる時間はとても幸せだった。彼女にはたくさん「好き」と言ったし、彼女もボクに「好き」と言ってくれた。
 

 
何かおかしいという気がしたのは2学期に入って9月の中旬頃だった。1学期はいつもSと一緒に帰っていたのに、その一週間一度も一緒に帰ることができなかった。なぜかタイミングが合わないのである。しかしそう気にすることでも無いんだろうと思い、ボクは彼女のことを思いながらひとりで帰り道を辿っていた。16日から18日までの連休にも何とか会ってデートしたかったのだが、なぜかどうしても連絡が取れなかった。
 
なかなか会えないお詫びの意味もこめてだろうか。22日の日には彼女から手紙をもらった。物凄く熱烈な思いが書き綴られていて、ボクはもう次会ったら彼女にキスしてしまおうと決意した。しかしその直後の23〜24日の土日にも彼女と会うことはできなかった。
 
やっと会えたのが週明け、25日の月曜日だった。「話があるの」と言われてボクは校舎の裏手の柳の木の所に行った。ボクはこの時、完全に彼女にキスするつもりでいた。
 
「何だかここのところ、うまく会えなかったね。忙しかった?」
「唐本君、こんなこと聞いたら驚くだろうな・・・・」
「ん?どうしたの?」
「私ね。。。。他の男の子とHしちゃった」
「え?」
 
ボクは頭の中が真っ白になった。
 
「彼、2学期に入ってから私にラブレターくれて。。。。その後猛烈なアタックされて。。。。それで会って話してたら、凄く口説かれて。。。」
「・・・・」
「こないだの連休にも会ったんだけど、そこでまた熱烈な告白されて、なんかそういう雰囲気になっちゃってキスしちゃって。。。。。そして昨日とうとうHしちゃったの」
 
彼女を非難したり、あるいは彼女にすがったりするような気持ちは、なぜか起きなかった。ボクは彼女と何となく一緒に歩き、近くの公園のペンチに座って、何だかとてもふつうにおしゃべりをしていた。
 
重大なことが起きている気がするのに、なぜ自分はこんなにふつうの話ばかりしてるんだ?と思うくらい、ボクと彼女はごくふつうの話をしていた。好きなおやつの話をしたり、あるいはジャニーズの有望株の子の話をしたり。ごく普通に話してごく普通に笑ったりした。3〜4歳の女の子を連れた若い夫婦が、ボクたちの前で子供を遊ばせていた。その無邪気な様子にボクは微笑んでいた。
 
やがて18時のチャイムが鳴る。もう日も落ちてそろそろあたりは暗くなり始めていた。タイムリミットが来たのをボクは感じた。
「大通りまで送って行くよ」
「うん」
 
ボクたちは手をつないでその道を歩いていった。その時ボクは彼女と手をつなぐのはこれが最後なんだというのを初めて認識した。彼女の顔がとても愛おしかった。キスしたい。でもボクにはそれはもう許されていないことも認識していた。やがて通りに出る。バス停まで行く。彼女はここからバスに乗って帰る。ボクは彼女の乗るバスが来るまでバス停で話をしていた。そしてバスが来る。彼女が乗り込もうとするけどボクは「もう少し待って」と言った。彼女はもうステップに足を掛けている。そこで動作を停めてしまったので、運転手さんが「お客さん、乗るんですか?乗らないんですか?」と訊く。
 
ボクと彼女は見つめ合っていた。運転手さんが「お客さん、早く決めて下さい」
と言っている。それでもボクたちは手をつないだまま見つめ合っていた。
 
そして彼女は小さく「ごめんね」と言って手を離した。
 
彼女はステップを上がり、バスのドアは閉まった。そしてバスは発車して行った。ボクはそのバスをいつまでも見送っていた。バスが見えなくなってしまってからもずっと見送っていた。
 
ボクは歩いて家に帰ったけど、自分のてのひらから掴んでいたはずの大きなものが抜け落ちて行ったような感覚に襲われた。
 

その後、1ヶ月くらいのことは何も覚えていない。ほとんど記憶が飛んでいる。誕生日を家族に祝ってもらったのも、まるで夢の中のようだ。学校の先生からも貞子や美枝からも「どうしたの?」とか「大丈夫?」と訊かれたけど、ボクは何も答えることができなかった。
 
勉強も何もしていない。宿題も全くやっていかないので先生から「何か悩み事でもあるのか?」と訊かれた。でもボクは何も答えられなかった。元々ボクはオナニーってあまりすることがない。でもその1ヶ月は全くしなかった。おしっこする時以外はアレに触りもしなかった。
 
ただ、心の中にぽっかりと大きな穴が空いてしまった感じだった。それは何をしても埋めることのできないものだった。教室の中でSと顔を合わせることはあるけど、何も話さない。
 
自分の気持ちを整理する意味も兼ねて彼女に手紙を書こうかとも思った。一応書いてはみた。でもそれを投函する気持ちにはなれなかった。
 

11月の初め頃。ボクはぼんやりして歩いていて、曲がり角で人とぶつかりそうになった。
「あ、ごめん」「ごめーん」
「あ」「なーんだ。冬か」「絵里花先輩」
 
「ね。貞子から聞いたよ。失恋したんだって?」
「貞子には言ってないんだけどな・・・分かっちゃうのか」
「その顔を見たらね。冬、私失恋しましたって顔に書いてあるよ」
「そんな顔してる?」
 
「こういう時はパーっと女装しようよ」
「そうだね」
ボクはそれもいいなと思った。確かに気分転換にはなりそうだし。
 
ボクは絵里花の家に行き、いつものように女の子の服を着せてもらった。今日の衣装は白いお嬢様風のワンピースだ。
 
「これ凄くいい服なんじゃない?」
「うん。でも冬子に着てもらうんだったらいいよ」
「ありがとう。じゃ今日はこれで過ごさせてもらおう」
 
その日は甘ーいミルクティーをもらって飲んだ。昨日の残り物というチョコケーキをもらって食べる。
「美味しいよぉ」
ボクはそんなことを言いながら涙が出て来た。
「やっと涙が出たね」
「悲しいよお」
「よしよし」
「もう男の子なんて嫌だ。今すぐ女の子になりたい」
「取り敢えず泣きなさい。たくさん泣いて泣き尽くすまで泣いたら去勢してあげるから」
「うん」
 
涙が次から次へとあふれてきた。ハンカチが涙でじゅっくりと濡れてしまい、絵里花が新しいハンカチを渡してくれた。そのハンカチもずぶ濡れになるほど、ボクは泣いた。
 
その後少し落ち着いてきて、絵里花とは部活の話とか、おやつの話とか、更にはお互いの過去の恋の話までした。
「でも、冬子の話聞いてると、女の子との恋より男の子との恋の方が圧倒的に多いじゃん」
「うん。もうボク男の子辞めちゃいたい。性転換したい気分」
「これ飲む?」
といって絵里花はシート状の錠剤を出した。
 
「大会に生理がぶつかると困るから調整用に処方してもらってるの」
「ピル?」
「そう。エストロゲンとプロゲステロンの混合製剤だよ」
「飲んじゃおうかな・・・・」
絵里花はシートから3個錠剤を取り出した。
 
「さて。この3つの内、2個は本物のピルです。1個は休薬用のプラセボです。1錠だけあげる。本物に当たる確率は3分の2」
「え?え?」
ボクはじっと錠剤を見つめ1錠取って飲んだ。
 
「さあ、今飲んだのは本物かあるいは偽薬か。それは神のみぞ知るだね」
「うん」
絵里花は薬を片付けた。
 
「これあげるから持って帰って」と絵里花は紙袋を渡した。
「これは・・・・」
「中学の女子制服。もし着て学校に行きたいと思っても今月いっぱいは我慢しなさい。来月になってもまだこれを着て学校に行きたい気分だったら、着て行くといいよ」
「今とってもこれ着て学校に行きたい気分」
「それやるともう後戻りできなくなるから」
「かもね」
「ね、その服を着ずに手に持って、町で少し遊んでおいでよ」
「ああ」
「いつでもその服に着替えられるという気持ちがあると、けっこう女の子の気持ちでいられるでしょ?」
「うん」
 

ボクは下着は女の子下着のまま、上着は男の子の服に戻し、絵里花からもらった女子制服の紙袋を持って絵里花の家を出、バスに乗って町に行った。女の子下着を着けたままという気持ちがあると、これで散歩しているだけでも結構気が晴れる思いがした。それにさっき女性ホルモンを飲んじゃった・・・かも知れないというのはボクの気持ちを凄く落ち着かせた。
 
タピオカドリンクの店でジャスミンティーを頼み、飲みながら周囲を見回していると、少し離れたテーブルにボクと同じくらいの年の女の子がいて、何やら便箋に書いていた。誰へのお手紙書いているんだろうと思いながら見ていたら、その子の友人かな?と思う感じの子が寄ってきた。
「政子、何書いてるの?」
「詩。ぽえむ」
「へー。。。どれどれ。うーん。メランコリック。ちょっと病的な気がするぞ」
「私、こういう壊れた感じの詩が好きなの」
「こんなのばかり書いてると、その内頭も壊れちゃうよ」
「うーん。私、既に壊れてるかも」
「自覚があるならいいか。でさ、高校どこに行くか決めた?」
「私◆◆を受けようかなあ」
 
「へ?なんでまたそんな進学校を」
「こないだ電車に乗ってて、バッグを落としたのを女子高生が拾ってくれたのよね。その人が◆◆の制服着てたんだ。それでああ、◆◆もいいかなと思って」
「でもあそこ結構レベル高いよ。大丈夫?」
「勉強する」
 
その子たちはまだ長く話していたが、ボクはそろそろ帰らなきゃと思ってジャスミンティーの飲みがらを潰してからゴミ箱に入れ、バス停の方へ行った。そうだ。ボクも進学する高校を決めないと。
 

その晩、ボクは物凄く久しぶりにオナニーをした。お風呂からあがったあと、布団の中で裸になってしたけど、何だかとても濃いのが出た。そして出した後しばらくボクは放心状態になっていた。そしてボクはそのまま眠ってしまった。
 
目が覚めてからボクは服を着ると(女の子下着を着けて、その下着を汚さないようにトイレからこっそり調達してきていた生理用ナプキンを付けた)、Sから来た手紙の類をビニール袋に入れて持ち、まだ起きていた母に「そのあたりを少し散歩してくる」と言って外に出た。
 
夜11時を回っている。住宅街はほとんど人通りがない。ボクは公園まで来ると手紙を出して便箋を1枚ずつライターで火を付けて燃やして行った。
 
燃えろ、燃えろ、悲しい想い出なんて残さなくていい。全部燃えてしまえ。ボクの心の中から消えてしまえ。そう祈りながら、ボクは手紙や、一緒に行った映画の半券や、一緒に撮ったプリクラなどを燃やして行った。燃やし尽くすまでに幸いにも誰も通りかからなかった。
 
全部燃やしてしまうとボクは持参のペットボトルに入れていた水を掛けて万一にも火事のもとになったりしないようにしてから、家路についた。ちゃんと立ち直るまで少し時間がかかるかも知れないけど、もうこの恋を引きずるのはやめよう。また明日から頑張ろう。ボクはそう心に誓った。
 
家に戻ってからパジャマに着替え、姉の部屋をトントンと叩く。「はーい」と言って姉が襖を開ける。
「ちょっとお願いがあるの」
「ん?」
取り敢えず中に入れてもらう。
 
「冬彦、何か気持ちの切り替えが出来たね」
「うん」
「ここしばらくずっと放心状態だったよね」
「うん。さすがに今回は参った」
「でもまた元の冬彦に戻ってる」
「うん。ボク頑張る。それでね、これをお姉ちゃんの部屋に置かせてもらえない?」
といって紙袋を渡した。
 
「女子制服!?」
「うん。去年卒業した先輩からもらったの。実は春頃からあげると言われてたんだけど、隠し場所に困るからといって保留してたのよね。でも、とうとうもらっちゃった」
「私の部屋に置いておいて時々着たいのね」
 
「ほんとうはそれ着て学校に出て行きたいんだけど、それやるともう後戻りができなくなるから、そんなことするかどうかは年末までに考える。もしかしたら3学期はそれ着て出て行っちゃうかも」
「いいけど、それしたかったら、ちゃんとお母ちゃんとお父ちゃんを説得しなさい」
「もちろんそうするよ、そういう気持ちになったら」
「うん。それだけの覚悟があるならいい」
 
「でもそこまでするかどうかとは別に、時々その服を着たいの」
「まあ、いいんじゃない?じゃ、私のロッカーの端に掛けとくから自由に着て」
「うん」
 
姉は制服をハンガーに掛けると、自分のロッカーの端に掛けた。端だとけっこう目立たないので母もすぐには気付かないだろう。
 
「冬彦、失恋したの?」
「そうだけど」
「・・・・ふーん。返事できるようにはなったんだ」
「まあね」
「この1ヶ月くらいはとてもそういう質問ができない感じだったぞ」
「もうすぐ高校受検だし。受検勉強頑張る。それ頑張ってたら、失恋のことも忘れられるかも知れないし」
「そうだね。何かに気持ちを集中するのはいいことだよ」
「うん。じゃおやすみ」
「おやすみ・・・ね、パジャマの上からブラ線が見えてるよ」
「あ・・・・」
「起きたらブラは外してから出て行きなよ」
「うん」
 

学校でボクが志望校を◆◆高校にすると言ったら担任の先生は驚いた。
 
「あそこは進学校だから厳しいぞ。今の成績ではかなりきつい。特にここ2ヶ月ほど、お前かなり成績落としているし」
「頑張ります」
「そうか。しかしあそこは勉強さえできれば生活面についてはあまりうるさく言わないって学校で、公立にしては自由な校風だし、あるいは唐本の性格には合っているのかもな。でも今年、あそこを受ける生徒は他にいないぞ」
 
「いいです。どうせボク友だちいないし」
「そうだな。お前のことは1年に入ってきた時から友だちを作らない奴だなと少し心配していたけど、結局ずっと作らなかったな。陸上部関係の女の子たちとは時々話をしているようだけど」
「ええ。前村さんがボクにとっては最大の親友です」
「確かに仲がいい感じだな。でも異性では話しにくいこともあるだろう」
「そうですね・・・」
 
ボクも貞子も「同性」感覚だから、けっこうお互いに何でも話せるんだけどね。ただそれでも失恋の件は貞子にも言えなかった。あれは本当に凄まじい衝撃だった。
 

その日、ボクが帰ろうと思って下駄箱の所まで行くと、ちょうどSが帰ろうとしているところだった。
 
「元気?」とボクは声を掛けた。
「うん。唐本君、ここ一週間くらいまた元気になったみたい」
「うん。さすがに立ち直るのに時間かかった。というか、まだ実は全然立ち直ってないんだけどね。取り敢えず立ち直ろうという気持ちにだけはなった」
「そう」
 
「彼氏とうまく行ってる?」
「・・・ごめん。その質問はしないで」
「いいよ。でもボクはSさんの気持ちはもう受け止められないからね」
「うん。分かってる。自分で選んだ道だもん」
「高校どこ行くの?」
「何となく流れでみんなと同じ※※高校かな、と。でも少し迷ってて」
「ボクは◆◆高校を受けるよ。離ればなれになるけど頑張って」
 
「まさか私に配慮してわざと別の高校を受けるんじゃないよね?」
「ボクもさすがにそこまで優しくはないよ」
とボクは初めて彼女に嘘をついた。
「だったら良かった。でも私唐本君のこと今でも・・・・」
 
ボクは彼女の唇に人差し指を置いて、それから自分の唇の前にも置いて、それ以上言うなと伝えた。
「じゃ、また」
ボクは手を振って帰って行った。あれ?唇に何気なく指を置いちゃったけどこれ間接キスだったりして・・・・
 

ボクはそれから猛勉強をして何とか◆◆高校に合格した。Sも順当に※※高校に合格した。ボクは凄く迷ったけど、結局3学期に女子制服で学校に出て行ったりはせず、学生服で最後まで通学したし、自分の性別のことを母や父に言うこともなかった。
 
卒業式の日、ボクはSに声を掛けた。
 
「ね。ひとつだけボク、謝らなければいけないことあるんだ。それを伝えたいから、もし良かったら明日の午後2時に、△△町のドーナツ屋さんに来てくれない?」
「あ、うん」
「縒りを戻したいとか、そんなことは絶対言わないから」
「分かった」
 

ボクはタロットカードをテーブルの上に置いて彼女を待っていた。約束の時刻を30分過ぎてからSが入ってくるのを見て、ボクは立ち上がって手を振った。
 
「え・・?恵子さん?うちの学校だったんだっけ?」
ボクは学校の女子制服を着ていた。
 
「Sちゃん。ボクだよ」とボクは男の子の声で言った。
「えー!?」
「でも今日はこちらの声で話しちゃう」と女の子の声に戻して話す。
「うそ・・・」
 
ボクたちはカフェオレを飲みドーナツを食べながら話した。
「あの占いはあくまでカードに出たのをそのまま話した。自分に関わる占いだからといって内容をねじ曲げてはいないよ」
「あの占いは、すごく納得できたもん。嘘が混じってたら違和感あったと思う」
 
「ただ、あの占いをしたことで、ボク自身の気持ちも固まったし、それでこちらもお手紙書いたんだけどね」
彼女は頷いていた。
 
「ボク、自分の性別意識に揺れがあるんだよね。でも普段めったにこういう格好はしない。タロットをした時は、そのごく珍しい時だった。今日はあの時以来だよ。女の子の服を着て町に出て来たの」
「そうか・・・唐本君って男らしくないんじゃなくて女らしかったのか」
「でも自分の性別は性別として、Sちゃんへの気持ちは本物だった。それは嘘ついてないから」
「うん」
 
「あの占いをしたのがボクだったことを言わないままというのは不誠実だと思ったから、今日呼び出したの」
「ほんとに唐本君・・・いや唐本さんって優しいのね」
「でもこれでボク自身は気持ちの区切りがついた気がする。Sちゃんも次はいい男の子と巡り会えるといいね」
 
「うん。。。。ね。カード2枚引いてよ」
「何占うの?」
「1枚は私のために。高校でいい恋に巡り会えるか」
ボクはカードを1枚パイルから抜いてその場に置いた。
「もう1枚は冬ちゃんのために。高校でいい彼氏か彼女に巡り会えるか」
ボクはもう1枚カードを引いて隣に置いた。
 
1枚目のカード。恋人。
「Sちゃん、いい恋ができるよ」
「そう」
 
2枚目のカード。聖杯の王女。
「ボクは女の子の恋人ができそう」
「それ、冬ちゃんにとってはレスビアンなのね」
「そうかも」
 
ボクはこの占いを最後に、その後5年くらいタロットに触らなかったし、それ以外の占いからも遠ざかっていた。
 

高校の入学式が終わり、そのあと体育館でクラブの勧誘を見てて、何となく書道部に入り部室に行ったら、あのタピオカドリンクのお店で見た子がいた。ああ、この子も合格したのか。向こうから声を掛けられ、苗字の読み方を訊かれた。
 
「からもと、だよ。そちらは、なかたさん?なかださん?詩を書くんだっけ」
「なかた、だよ。詩は好き。あ、そうそう。私恋人いるからね。念のため」
「あ、こちらも恋愛要素無しの方が気楽。ボク小学校でも中学校でも女の子の友だちしかできなかったから。高校でもそんな感じになりそうで」
「ふーん。なんか面白そうな人。じゃ、とりあえず握手」
 
 
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【夏の日の想い出・失恋の想い出】(1)