【夏の日の想い出・Long Long Ago】(5)

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10月29日の晩、コスモスからの電話を受けた青葉は凄く嫌な予感がした。
 

10月上旬。第2女子寮の建設が進む中、現在の女子寮の8階が一時的に使用されることになった。現在8階の8部屋に住人は居ないものの、その内の2部屋に舞音のコスプレ衣装が置かれており、残りの部屋には新入居する寮生のための家具等の予備が置かれている。しかし取り敢えず808を空けて掃除し、人が住める状態にして、ここに本宅に住んでいる寮母の天羽亜矢子と娘の松梨詩恩が暫定入居した。
 
移動の目的は本宅の建て替え工事をするためで、天羽一家の荷物は取り敢えず庭に建っているコロナ隔離用アパートの1階に移動しており、天羽親子は身の回りのものだけ持って8階に移動した。
 
もうひとり本宅に住んでいた花ちゃんは、しばらく1階の守衛室!に同居させてもらうことにした。これは花ちゃんは寮生たちの相談に乗ることが多いので、8階では寮生たちが恐れ多くて!?近づけないからである。荷物はやはり隔離用アパート1階に退避させた。お風呂は花咲ロンドの部屋で入れさせてもらう。
 
なおこの寮には必ず女性の警備員さん(心が女であれば法的な性別は問わない)を配置してもらうことになっている。
 
旧本宅・間取り略図


本宅の住人が移動した翌日の朝には本宅跡が更地になっていた、というより、深さ6-7mの穴が空いていて、鉄板でしっかり山留めされているのを見て、みんなびっくりした!
 
「一晩で立っていたものが無くなって穴になってる」
などと、ひまわりが言うので
 
「それ、すごーく別の意味に聞こえるのだが」
と花ちゃんが言っていた。
 
播磨工務店の斫り専門部隊・茶組の仕事(しごと)というより仕業(しわざ)だが、あまり人間離れしたことを堂々とやらないで欲しいなあ、と稲田姉妹などは思った。
 
茶組(作るのより壊す方が好きな連中が集まっている。圧倒的に男(オス)が多いし、300歳程度以下の若い龍が多い)がやったのは、建っていた家を“ひょいと”持ち上げ、それを“かかえて”どこか(ってどこ?)に飛んで運んでいき、基礎のコンクリートはぷちぷちみたいにして遊びなから握り潰し、深さ7mの所までの土を“よいしょっと”持ち上げて、これもどこか?に運んでいき、できた穴に、予め(白組が)作っていた鉄板でできた箱状のものを置いてギュッと押し込み、上辺が地面の高さになるようにしたのである。彼らにとっては砂場遊びのようなものである。
 
こういう連中をきちんとコントロールしている千里は心底恐い、と山村(こうちゃん)などは思っている。
 
この後、播磨工務店の白組(上島邸やカナダの伯爵邸の工事をした部隊)が入り、本宅の新築工事が始まった。
 

11月4日(木).
 
水泳の津幡組の内、学校を卒業している選手が、11/6-7日に宇都宮市で行われれる第4回日本社会人選手権水泳競技大会(日環アリーナ栃木屋内水泳場)に参加するため、A318で熊谷に飛んできた。ホテル昭和に泊まり、郷愁村の50mプールで練習しながら大会に参加する。熊谷から宇都宮までは東北道で1時間半くらいである。
 
(宇都宮に最も近い空港はたぶん茨城空港(百里基地)だが、そちらに降りても練習場所が無い。それで次に近い空港である熊谷を拠点にすることにした)
 

津幡組は大会後、11月8日(月)にA318で能登空港に帰還したが、スタッフの1人として来ていた田中世梨奈は7日夕方、宇都宮の会場でみんなと別れて、SCCのドライバーさんが運転する車で東京に出た(夕食代わりのお弁当をもらったので、車内で食べた)。
 
取り敢えず足立区五反野の研修所に行く。
 
実はアクアが歌うワンティスのトリビュートアルバムの音源制作に参加するために来たのである。世梨奈は身分的には〒〒スイミングクラブに所属したまま、長期出張扱いになる(§§ミュージックから〒〒スイミングクラブに報酬を払う。世梨奈は普通に給料と出張手当をもらう形。
 
研修所で今回の制作に関して、全体の統括をする秋風コスモス、そして現場で指揮をする花咲ロンドから説明を受け、できあがっている分のスコアをもらう。なお、事前にワンティスが演奏したCDは送ってもらっており、それを聴いて曲のイメージは掴んでいた。
 
制作参加は明日の朝からお願いしますと言われて、この日はシャトルバスに乗って、世田谷区用賀の男子寮に移動する。ここは5階以下が§§ミュージックの男子寮で、6階はこのアパートを所有している千里が直接貸していて、§§ミュージックのタレント・今井葉月と、世梨奈や青葉の中学以来の友人である鶴野明日香が住んでいる。明日香は全国企業の工作機器メーカーK社の東京本社に勤務している。
 
「おお、借りっぱなしの真っ赤なアクアがある」
などと思いながら、世梨奈は千里から送ってもらっていたIDカードで中に入る。
 
昨年4月、明日香はK社の“金沢支店”に就職したのだが、入社式は全国の支店の社員を一同に集めて東京で行うということだった。コロナの折、新幹線や飛行機は使いたくないと言っていたら、青葉がアクアを貸してくれて、それを運転して東京に出て来た。ところが明日香は思わぬことから本社勤務になってしまい、結局乗ってきたアクアを借りっぱなしになっているらしい(正確にはもう少しややこしい事情があったらしいが、聞いてもよく分からなかった!)。
 
それで青葉のアクアがここにずっと駐められているのである。(*15)
 
(*15) 今年春の車検の時だけ千里が一時的に高岡に持っていったが、また持って返ってきてくれた!千里はその間、自分のインプレッサを代車として貸してくれた。
 
インプはパワーが凄くてアクアとはかなり感覚が違ったが、普段会社ではレクサスを運転しているので、戸惑うことは無かった。明日香は仕事の半分が社長の車の運転なので、アクアは東京周辺の道を多く知るための運転練習用に使っているのである。明日香は1年半の経験で、既に都内・横浜・千葉くらいまでの道はタクシー運転手並みに知り尽くしている。
 

世梨奈は建物の中に入り、エレベータで6階に上がった。241号室(*16)のピンポンを鳴らすと明日香がドアを開けてくれた。
 
「遅くなってごめんねー」
「ううん。そちらも大会の後なのにお疲れ様」
 
(*16) 6階の部屋は明日香が241, 葉月が243である。オーナーの千里は 2+4=6だから問題無いなどと言う。本当は葉月の部屋を“ふしみ(伏見)”という語呂合わせにしたかったから。
 

そういう訳で、アルバムの制作中、約2ヶ月間、ここ明日香の部屋 (2LDK) に居候することになっている。家賃の半額を負担する約束だったのだが・・・
 
「家賃4万9千円〜!?嘘でしょ。ここ、こんなに広くて駅にも近いのに」
と世梨奈は言った。
 
「前住んでた経堂駅近くの1DKアパートが使えなくなって、代わりにここ使ってと言われたのよ。だから前のアパートと同じ家賃ということで」
 
なおこの戸は、LDKと8畳の部屋、6畳の部屋から成っており、8畳を明日香が使っているので、世梨奈は6畳を使うことにした(実は物置と化していたのを頑張って片付けた)。それで8:6分割して、世梨奈は49000×(6/14) = 21000円払うことで話はまとまった(でも端数は面倒だから2万円でいいと言われた)。
 
しかし男子寮と聞いていたのに、翌朝五反野に出掛けようと下に降りたら、セーラー服姿の女子学生が何人もいて挨拶を交わしたので
「あれ?男子寮じゃなくて、こちらも女子寮なのかな」
と世梨奈は思った。
 
それでその日、山下ルンバ(花ちゃん)から滞在中の家賃について訊かれると
 
「用賀の“女子寮”6Fの友人の部屋に居候して月に2万円払うことにしました」
と答えた。
 
「じゃ食事代込みで」
と言われて(昼は研修所で食事が出る:夜も遅くなったら出る)、月に8万円と言われて取り敢えず現金でもらったので、明日香と山分けした!(結果的にこの期間、明日香は49000円の家賃を払う一方で世梨奈から6万もらうので毎月11000円のプラス!←本当は世梨奈は明日香に6万ではなく4万払えばいいはずだが、ふたりともよく分からなくなっている)
 
なお用賀から制作場所の五反野の研修所までは、シャトルバスを運行しているのでそれを使うように言われ、シャトルバスの無い時間帯にはSCCのドライバーを呼んでと言われてコールカードを渡された。
 

世梨奈たち津幡組が熊谷に出てくる3日前、11月1日(月).
 
吉田邦生(よしだ・ほうせい)はいつものように朝8時半、H銀行金沢支店の渉外係に出勤したのだが、係長に呼ばれた。
 
「出張に行って来て欲しいのだけど」
「はい、どちらまで」
「東京まで」
「新幹線ですか?」
「飛行機を用意した。能登空港からの便を使うからそちらに行ってくれる?」
 
金沢からは小松空港からの便を使うことが多いが、能登空港からの便を使うと条件にもよるが地元から補助金が出ることもあり、そちらを使うことはよくある。なお金沢の場所にもよるが中心付近から小松空港までは1時間、能登空港までは1時間半である。
 
「はい。で、出張先はどこですか?」
「能登空港で向こうの人が待ってるからその人に確認して」
「分かりました。東京なら泊まりになりますかね」
「うん。着替えを持って行ってね。だからいったん自宅に戻ってから、12時に能登空港のロビーに行って」
「分かりました」
 
それで吉田は要件も聞かされないまま、出勤に使ったバイクNinja 1000 に乗って自宅に戻る。それで念のため3日分の着替えをバッグに詰め、ノートパソコンやスマホの充電アダプター、電源延長ケーブル、なども一緒に詰めて、Ninja 1000で津幡北バイパス・のと里山海道を走って、11時半頃、能登空港に到着した。
 

行けば分かると言われたけど、相手はこちらを知ってるのかなあと思っていたら、トントンと後ろから肩を叩かれる。
 
「お世話になります。H銀行の吉田と申します」
と振り向き際言ったのだが
「くにちゃん、随分硬い格好してきたね」
と言うのは、高校の1年後輩、日高久美子である。彼女はポロシャツにジーンズのパンツである。結構大きなバストが目立つのが少しまぶしい。
 
「日高さん!?君ももしかして一緒に行くの?」
「うん。そんな堅苦しく苗字で呼ばなくても女の子同士なんだから、くーみんでいいのに。でもくにちゃん、まるで男の人みたいな格好してきてる」
 
「僕は男なんだけど」
「でも性転換してもう戸籍も女に直したんでしょ?『北陸霊界探訪』で言ってたじゃん。女子制服着て銀行で勤務している所も出てたし」
 
あの番組は自分に関する誤った情報を垂れ流しているなと吉田は思った。取り敢えず性別の件は置いておく。
 
「でも、くーみんは今何の仕事してるんだっけ?」
「仕事にあぶれてる。大学出て入った会社は6月に倒産して」
「ありゃ」
「コンビニでバイトしてたけど、仕事がきついわりに給料安くてさ。身体壊して先月は1ヶ月、ひたすら寝てたんだよ。やっと体調が戻ってきた」
「それは大変だったね」
 
「それで今回の仕事に乗ったのよ。あれ?くにちゃん、楽器持って来てないの?」
「楽器!??」
 
そういえば、久美子は楽器ケースを持っている。大きさと形からしてアルトサックスだろうか?
 
「楽器って何するの?」
「あれ、聞いてないの?アクアちゃんの伴奏の仕事だよ」
「なぜ僕たちが・・・」
「本来のアクアちゃんの仕事に割り込んでアルバム制作の仕事が発生したらしいのよね。だから本来の伴奏者であるエレメントガードがスケジュール的に使えないから、アルバム制作の間、臨時バンドを編成することになったって・・・聞いてないの?」
 
何それ〜〜!?そんな話何も聞いてないぞ。
 
「まあ楽器は現地で借りればいいよね」
 
と言っていたら、向こうから来たのは、上野美津穂である。
 
「おっす、くにちゃん、くーみん。それじゃ行こうか」
と美津穂は言っている。
 
「みつりん、くにちゃんが楽器持って来てないって」
「ああ、全然問題無い。必要な楽器は買って支給するから」
「おお、さすがアクアちゃんのプロジェクト。予算あるんだね〜」
 
「じゃ行くよ」
と言って、美津穂は2人を空港に駐まっているHonda-JetRedに乗せたのである。
 
「可愛い!」
と久美子が声をあげていた。
 
“飛行機を用意した”って航空券を用意したんじゃなくて、自家用機なのか!
 
そういえば“津幡組”は青葉のコネで、§§ミュージックの自家用機をかなり使っているみたいだ。§§ミュージックは自家用機を10機くらい持ってるらしいし。やはりアクアの利益が凄まじいんだろうなあ。あの子もよく倒れないよ。
 

「じゃ離陸許可が出たら出発ね」
 
向かい合う4席の内、前向きの席に久美子と吉田が座り、美津穂は久美子に向かい合う席に座った。離陸許可はすぐ出た。何しろ定期便は1日に東京と2往復だけだから、たいてい空いている(その他に中国とのチャーター便がほぼ毎日飛んでいたが、コロナでかなり減便していると思う)。
 
「そういえば、くにちゃん、トランペットは吹けたよね?」
と美津穂が離陸した後で、尋ねる。
 
「吹けることは吹けるけど」
 
高校時代の合唱軽音部では、基本的にはチューバとドラムスの担当だったが、編成によってはトランペットも吹いていた。
 
「うん。確か吹いてる所見た記憶あったから。まあホルン吹ける人なら多分トランペットも吹けるだろうと思ったしね」
 
ホルンは・・・吹いたことない!
 
しかしそれではどっちみち“楽器を持ってくる”ことはできなかった。高校時代に使っていた楽器は、チューバもドラムスも学校のだったし、トランペットは呉羽ヒロミのを借りて吹いていた。自分で所有していたのはマウスピースだけだ。あと自分の楽器ってギターくらいしか持ってない。
 
「そんなんでいいの〜?トランペット吹きなんて、いくらでも東京にプロがいるだろうに」
 
「25歳以下で、2ヶ月、場合によっては3ヶ月その作業に専念できる人が欲しかったのよね」
 
「3ヶ月〜!?」
「その間、銀行からこちらに長期出張ということで銀行側とは話が付いてるはず」
 
銀行とは話が付いてるって、自分は聞いてない!!
 
3ヶ月もアパート留守にしたら、電気とか電話止められないだろうか?と少し不安になったが、真珠に電話して処理してもらえばいいかと思った。真珠と(H銀行の)峰代が、吉田のアパートの部屋の合鍵を持っている。
 
勝手に私物も置いてるし!
帰宅すると、勝手に寝てたりするし!
 
それより空港に3ヶ月もバイク置いてたら、放置車両として処分されてたりして!?
 
「他に制作過程をあまり知られたくない。というか、ちょっと事情があって、伴奏者のメンツを知られたくないから(*17)“身内”で確保したかったのよ」
と美津穂は言う。
 
なるほど“身内”ということなら分かる。§§ミュージックには、青葉、美津穂、谷口翼、が関わっている。それなら自分は充分身内になるのだろう。
 
(*17) “上島の娘”花咲鈴美(母は元歌手の花村かほり:本名花崎アユミ)がワンティスのトリビュートアルバムに参加していると知れると騒ぎになるし、せっかく今うまく行っている上島と春風アルトの夫婦仲にも影響するので、鈴美・上島の双方が「そういう騒ぎは回避したい」と言い、伴奏者は明確にしないことになった。
 
鈴美(と、もうひとりの娘である木原扇歌)が伴奏者として参加したことを(鈴美との電話で)知った上島雷太は仰天した。上島はコスモスに電話し、ふたりの親子関係のことは公表しないようにして欲しいと要請した。
 
「でもお父ちゃんが女装したら、扇歌の顔になるよね」
などと鈴美は言っていた。鈴美は母親似なので、鈴美と扇歌が姉妹であることは気付かない人が多い。
 
「・・・僕は女装しないけど」
「私、お父ちゃんの女装写真、雨宮さんからもらったよ。扇歌とほんとによく似ててキキョウ(*18)と2人で大笑いした」
 
「雨宮〜〜〜!?」
 
花咲鈴美はむしろ制作中、ディレクター役の花咲ロンドと親しくなり、
 
「君は私の妹みたいだ。苗字も同じだし」
「お姉さんと呼んでいいですか?」
などとやっていた。ふたりが姉妹と聞いて信じてしまう人まであった!
 
(*18) 福井貴京:本当はタカミと読むが、友人たちはみんキキョウと呼ぶ。福井新一と上島雷太の娘。現在中学3年。石川県輪島市在住。
 

熊谷に向かうホンダジェットの機内で、吉田は
「スーツなんて堅苦しいから脱ぎなよ」
と美津穂に言われてスーツを脱ぎ、ネクタイも外してワイシャツ姿になった。
 
お昼御飯にお弁当を渡されたので機内で食べた。
 
一行は1時間弱のフライトで熊谷市の郷愁飛行場に着陸した。能登空港も山の上の空港で、初めてあそこに来る人は結構恐い感じがするらしいが、この郷愁飛行場は、山の尾根に沿って作られており、能登空港より恐かった。
 
しかしこんな所に空港ができていたのかと吉田は驚いた。
 
そこから美津穂が運転する車で、足立区の§§ミュージック研修所に到着したのが15時頃だった。門を入って左手のほうには真新しい5階建ての建物があるが、吉田たちは正面にある8階建ての建物に入る。入口にPalais de la merという文字板が張られていて、つい「パライス・デ・ラ・マー?」と読んだら、美津穂が「パレ・ドゥ・ラ・メールと読もうか」と言った。フランス語か!
 
Palais de la mer は、海の宮殿という意味で、つまり龍宮城である!タイやヒラメが歌い舞い踊るのである。命名者は、海浜ひまわり!
 

入口の所に警備室があり、女性の守衛さんがガラスの向こうに座っていた。ゲートもあるし、その前に検温機もある。検温器の前に立つと緑のランプが点灯する。「表面体温正常」と表示される(体温が高いと警報がなるらしい)。手をアルコール消毒する(手を出すだけで噴霧される)。
 
「こちら1Xプロジェクトの演奏者です。本日中にIDカードも作ります」
と美津穂が警備員さんに言うと、警備員さんが誰かを呼ぶ。白衣を着た看護婦さんが出て来て、鼻汁を取られる。コロナ検査キットに掛けているようだ。それで10分待ってくれと言われて応接室で待たされた。
 
その間に警備員さんが吉田と久美子の写真撮影をし、身分証明書(運転免許証)を確認の上、訪問者Fと書かれたidカードを2枚渡してくれた。
 
「このidカードはポケットとかバッグに入れておくだけでゲートを通過できるから」
と美津穂が言う。
 
それでカードは取り敢えずバッグに入れた。Fってフリー(free)か何かかなと吉田は思った。しかしかなり厳重なようだ。やはりこういう所は関係者のふりして潜入しようとする奴がいるんだろう。
 
やがて検査結果が出て「陰性です。どうぞ中にお入りください」と言われた。
 
IDカードはバッグに入れたままだが、それでゲートは開いた。美津穂に付いて階段で地下に降りて行く。B11と書かれたスタジオに入る。
 
§§ミュージックの歌手・花咲ロンドがいて、吉田たちを歓迎してくれた。
 
今回のプロジェクトは山下ルンバと花咲ロンドが中心になって進めるらしい。
 

B11のスタジオには後2人女性が居た。そのひとりと久美子は知り合いのようで手を振り合っている。
 
「おはよう、真知子ちゃん」
「おはよう、くーみん」
 
あ、そうか。芸能界は何時に会っても、その日最初に会った時は「おはよう」になるんだったと思い起こす。吉田も
「おはようございます」
と挨拶した。
 
「くーみんも、このプロジェクトに参加するんだ?」
「うん。でも真知子ちゃんが参加するなら、私みたいな素人は逃げ出したくなる」
「そんな大したもんでもないけど。アスカ先生なんかとは違うし」
 
“あすか”って、鶴野明日香のことではないみたいだなと思って吉田は聞いていた。
 
「そうだ。紹介するね。これ、高校の合唱軽音部の時のバンドメイトで、吉田邦生(よしだくにお)ちゃん。年は1つ上で、大宮万葉と同学年」
 
「吉田です。よろしくお願いします」
「こちらヴァイオリニストの鈴木真知子ちゃん。すっごく上手いんだよ」
「鈴木真知子です。よろしくお願いします」
 
あ、そうだ。芸能界では“ちゃん”が普通の敬称だ、というのも思い起こす。
 
「でも“くにお”ってまるで男の人みたいな名前ね」
 
えっと、僕、男なんだけど。ついでに名前は“ほうせい”なんだけど。
 
「こういう字を書くのよ」
と言って、久美子はスマホのメモ帳アプリを開き、“邦生”と書いてみせた。
「ああ、その“くにお”か。了解」
 
なお、もうひとりいた女性は大崎志乃舞さんと言って、§§ミュージックのタレントさんらしい。ΨΨテレビの『3×3大作戦』という番組にレギュラー出演していると久美子が説明したが、その番組は見たこと無かった。
 

「自己紹介が終わったようなので、今回の制作体制について説明しますね」
と花咲ロンドは言った。
 
演奏者はあと数人いるらしいが、合流するのは少し後になるということだった。一応ここにいるメンバーの担当楽器が確認される。
 
鈴木真知子・大崎志乃舞:ヴァイオリン
日高久美子:アルサトックス
吉田邦生:トランペット(曲によってはトロンボーン・ホルン)
上野美津穂:クラリネット
 
「基本的には感染防止のため、各演奏者は各々個室スタジオに入って演奏します。それをここのスタジオの調整室でまとめあげます。ただ微妙なタイミングの問題があるので、ギター・ベース・キーボード・ドラムスは一緒に演奏します。これらの楽器は息を使わないから、比較的感染確率が低いので」
とロンドは言った。
 
ロンドはホワイトボードに書いて説明した。
 
(1) Gt/B/KB/Dr で演奏確定
 
(2) それにSax, Tp(Tb/Horn), Fl(Pic), Cla, Vn(Fiddle), Vc, Vib(Mar) などを乗せる(個別録音。各々1の音源を聴きながら演奏)。必ず入るのはヴァイオリン、アルトサックスとトランペット。但し
 
ヴァイオリンは曲によってはフィドル。
サックスは曲によってはウィンドシンセ。
ペットは曲によってはトロンボーンやホルン。
のこともある、と説明された。
 
他の楽器は曲によって入ったり入らなかったりする。
 
(3) アクアの歌を乗せる(1+2の音源を聴きながら歌う)
 
(4) コーラスや一部の付加楽器(チャイムやタンバリンの類い)を乗せる
 
吉田は「フィドルってどんな楽器だっけ?」と思いながら聞いていた。今ここに居るのは、(クラリネット担当の美津穂以外は)2の過程の固定演奏者ということになるようだ。“あと数人”というのが、フルート/ピッコロ、チェロ、ヴィブラホン/マリンバ、などなのだろう。
 
「ギター・ベース・キーボード・ドラムスの人たちは自分たちのパートの演奏が完成したら、すぐ次の曲に移ります。ですから4つの過程が流れ作業で作られていく訳です」
 
「工場みたいなやり方ですね」
 
「今回のトリビュートアルバムは、既に完成しているワンティスのアルバムのスコアに忠実に沿って演奏する必要があります。それでスコアが固まっているから、こういうことができるんですよ。普通なら全てのパートを録音してから検討して試行錯誤をするから、1つの曲ができるまで半月かかるんですけどね。それだと24曲のアルバム制作に1年掛かる。実際20年前のワンティスは1年がかりで制作していたんですよ」
 
「それが高岡さんの事故死で発売できなくなっちゃったのよね〜。制作費は1億以上かかっていたのに」
と美津穂が補足する。
 
「その後、ワンティスは活動停止になって、その間に1年掛かりで制作した音源が行方不明になってたんだけど、それが唐突に出て来たんで、発売することになったんですよ。でも20年前のバンドのアルバムを今更発売したって誰も買わない。だからトリビュートアルバムを作って一緒に発売することにしたんです」
とロンドは今回の制作の意義を説明した。
 
「まあアクアが歌えばたくさん売れるよね」
と美津穂かが言う。
 
確かにアクアが歌えば中身は何だろうと売れるだろうな。
 

「それでスコアが定まってて、その通りに演奏する必要があるというのがミソか」
「それならMIDIでいいじゃんと思うかも知れないけど、うちのプロダクションは、原則として打ち込み音源は商用作品には使わないので」
 
「私も打ち込みはあまり好きじゃない。最近増えてるボカロもあの音痴加減が我慢ならない」
と鈴木真知子が言っている。
 
ごめんなさい。打ち込み・ボカロ曲好きです、と吉田は思ったが、さすがに言えない。
 
「それにそもそも今回20歳前後の演奏者で構成したのは、“上手さ”より“若さ”を取りたかったからなんですよ。“上手さ”を取るなら、ワンティスが自分で演奏しても良かったんです」
とロンド。
 
「なるほどー」
「だから今回はスコアに正確であれば、多少の技術の低さには目を瞑りますので」
とロンドが言ったので、吉田は気が楽になった。
 

その日は当面制作予定の曲2曲のスコアを渡された。吉田が高校時代には学校の備品の楽器で演奏していたので自己所有していなかったと言うと、ロンドはすぐ手配して今日中には渡すと言い、どこかに電話を掛けていた。
 
「個別に勧誘する時にも伝えているはずですが、今回はアクア以外の演奏者は秘密にしたいというのがあるので、皆さん、アクアの伴奏をしたことは他の人には言わないようにお願いします。また誰が演奏者のメンツに居たかも他人には話さないようにお願いします。むろんSNSに書いたりしてもいけません」
 
と花咲ロンドが言う。
 
そんな話は聞いてない!でも仕事上知り得たことを他で言わないのは当然だと吉田は思った。
 

16時頃、吉田たちの居るB11スタジオの前を何人か通過する。部屋のモニターのスイッチを入れると、隣のB10スタジオの様子が写し出された。
 
B10には、歌手の原町カペラ、アイドルの松元蘭、集団アイドル ColdFly20に居た米本葵心や田倉友利恵がいるので驚く。どうも今回のプロジェクトは敢えて、専門の楽器奏者を使わない方針なのだろうと想像した。だから自分のようなアマチュア演奏者が呼ばれたのかな。
 
若い頃のワンティスの雰囲気を再現するにはきっとその方がいいんだろう。
 
メンバーに高校生がいるので、この基本楽器の演奏は平日は夕方から夜にかけて収録されると説明される(土日は朝から晩までやる)。これに対して、この部屋に居る演奏者、ヴァイオリンやトランペット・サックスなどは日中に練習・演奏収録が行われる。だいたい毎日朝10時から休憩をはさんで17時か18時くらいになると言われた。
 
一応、制作中の都合があるのでということで、ロンドがB10に居る演奏者を紹介してくれた。
 
Gt1 松元蘭(17)
Gt2 田倉友利恵(22) ColdFly5
Bass 花咲鈴美(16) ColdFly5
KB1 米本愛心(20) ColdFly5
KB2 原町カペラ(19)
Dr 木原扇歌(17) ColdFly5
 
カペラの都合がつかない日は、キーボード2は石川ポルカが担当するらしい。確かに歌手をしていればこれから年末年始になるし、他の仕事とぶつかって参加できない日もあるだろう。
 
「でもColdFly5というのができてたんだ?」
と思わず吉田は言った。
 
「ColdFly20が解散しちゃったから、その中の4人でバンド作ったんだよ。ドラムス打てる人がいなかったから、お友達を勧誘して加入させたみたい」
「へー、じゃそのColdFly5が主体?」
「そんな気もするけど、栗原リアちゃん来てないね」
 
と言うと、リアは別の仕事に入るので今回のプロジェクトには参加しないとロンドから説明された。
 

B10でのギター・ドラムスなどでの制作は続いていたが、吉田たちは17時であがった。吉田と久美子の所に、海浜ひまわりが来て
 
「制作期間中は、寮の空き部屋に泊まってください。お部屋は清掃しました。まだアルコールの臭いがしてますが」
「ああ、全然気にしません」
 
「それではこれが部屋の鍵です」
と言って、久美子には“801.日高久美子”と書かれたカード、吉田には“802.吉田邦代”と書かれたカードが渡された。
 
(字が違うけどまあいいかと思った)
 
「このカードで、玄関のゲート、お部屋、郵便受けが開きます。万一紛失した場合はすぐ言ってください。前の鍵を即無効にして新しいカードを発行しますので」
 
「分かりました」
「東雲はるこなんて2〜3ヶ月に1度は無くすんですよ」
「あの子、いつもぼーっとしてるもん!」
「でもあの子なら盗まれることもあるんじゃない?」
「その両方があると思うんですよねー。もっともカードだけ盗んだり拾っても顔認証が通らないから寮内には入れませんけどね」
 
ああ、顔認証とのダブルチェックなのか!それで写真撮られたんだ?
 
「アクアとかは鍵を紛失したことなど無いと言うんですけどね」
「アクアちゃんこそ、盗まれそうなのに。でも確かにあの子はしっかりしてそう」
 

「何かあった時のために保険証の写真を撮らせてください」
「はいはい」
と言って、2人は自分の保険証を出した。ひまわりはコンデジで撮影していた。血液型も訊かれたので答えておいた。
 
「食事は朝晩はデリバーします。お昼はたぶん制作時間帯にぶつかると思いますが、制作の進行の都合で区切りのいい所でお昼が出ると思います」
 
「分かりました」
 
「部屋にはスマホ用のUSB充電用ジャックもありますから、そこから充電してください。ノートパソコンなどは普通にコンセントから取って下さい。WPA-AESのWi-Fiが使えますので、SSID/keyをお渡ししますね」
と言って紙を渡された。
 
「寮内は禁酒禁煙です。また外食は禁止ですが出前を取るのはウーバーを含めて自由です。ただし出前は寮の玄関で受け取って下さい。出前の人は寮内に入れません。外部の人との面会は応接室を使ってください。タレントさんが多数入居しているので、セキュリティ上およびコロナ感染予防上、寮内に外部の人を入れるのは禁止です。また公共交通機関の使用も禁止なので、歩いていける範囲外まで行く時は、SCCのドライバーを呼んでください。これがコールカードです」
 
と言って、ふたりにカードを渡した。QRコードが入っていて、それをスマホで読ませることで、コールセンターと連絡が取れるらしい。
 
「でもスマホに電話番号登録しておいた方が手っ取り早いですよ」
「そうですよね!」
 

それで2人はエレベータで8階まで上がった。久美子が言った。
 
「リアちゃんは、下手だから外されたのかもね」
 
「へー」
「あの子、リズム感が悪いもん」
「それでリズムギターは厳しい」
「つまり最低限の技術は要求されてるってことみたい」
「僕大丈夫かなあ」
「くにちゃんなら大丈夫だと思う」
 

「お疲れ様〜」
と言って手を振り、久美子が801, 吉田が802に入った。
 
部屋は1Kだが、1Kにしてはわりと広い感じなので、
「さすが儲かってるプロダクションは凄いなあ」
と思った。
 
19時頃、
「楽器を持ってきたよ」
と言って、花咲ロンド本人が来るのでびっくりした。
 
それで、トランペット、トロンボーン、にホルンを渡された。
 
「新品ですから安心して使って下さい。名前シール貼っておくといいですよ」
と言ってタックシールも渡された。
 
「各部屋は防音になっていますから、部屋の中で練習していいですから」
「分かりました!」
 
トロンボーンは吹けると思うけど、ホルンなんて吹いたことないから練習しなくちゃ!
 
取り敢えずタックシールにサインペンで“吉田”と名前を書き、ベルの所に貼り付けた。
 
3つともヤマハの製品で、トランペットは YTR-6335RC, トロンボーンは YSL-630, ホルンは YHR-567 である。トランペットとトロンボーンは20万円くらい、ホルンは多分40万円くらいとみた。
 

そういう訳で吉田は2ヶ月ほど“女子寮”で過ごすことになったのだが、吉田はここが“女子寮”であることに全く気付いていない。ひまわりも吉田の保険証を撮影させてもらったが、保険証にはちゃんと“性別・女”と印刷されているので、何も不審に思わなかった!
 
吉田は真珠に電話を掛けると、2ヶ月か、ひょっとしたら3ヶ月、東京に出張になったことを告げ、時々でいいから郵便物のチェックをしてほしいこと、また、着替えを3日分しか持って来てないので、こちらに送って欲しいということを伝えた。
 
「2ヶ月も逢えないの?夜が寂しいよぉ」
「他人が聞いたら誤解するようなこと言うな」
 
むろん2人の間には性的な関係は無いし、恋愛関係も無い(と吉田は思っている)。一応真珠は戸籍の性別は修正済みなので、吉田が自分の性別を変更したりしない限り!?2人は法的には結婚可能である。むろん吉田は彼女が元男の子だったことは全く気にしていない(周囲に性別の曖昧な人が多すぎる)。
 
また真珠には、能登空港にNinja1000を駐めたまま来たので、大型二輪免許を持っている人と行って回収してきてくれないかと頼んだ。Ninja1000のスペアキーの場所は真珠も知っていたはずと思ったが、念のため伝えておいた。
 
(実際には青葉の依頼で津幡組の月見里姉妹の義父?義母?でもある玉無乙子!が回収してくれた。乙子は自分のお店(スートラ:カーマスートラに掛けている)に真珠を勧誘したそうにしていたが、親から叱られて禁酒中なのでと言うと、笑っていた)
 
お金は真珠の口座に取り敢えず5万円振り込んでおいたが、パソコンを持ってきて良かったと吉田は思った。
 

吉田は翌々日、真珠から“パラ・ドラ・メール、吉田邦子様”宛てに、送られてきた着替えの箱を3つ受け取ったが、中身が女物ばかりなので、参ったなと思った。見ると元々持っていた女物の服が多いが、それ以外にわざわざ女物の服を買って送って来ている。真珠は吉田の服のサイズを知っている。ブラジャーのサイズ!?まで知ってる!
 
お化粧セット(銀行の新人研修の時に買ったもの)や化粧水・乳液などまで同梱してあった。生理用ナプキン(ウィスパーさらふわスリム)まで入っていたが、こんなものどうしろというんだ?と思った。
 
下着は女物でも大きな問題は無いし、トップもブラウスくらい着るのは平気だが、真珠がスカートばかり送って来ているので、ズボンは、来る時に穿いてきたスーツのズボンと寝間着用に持ってきたスウェットのズボンしかない。普段着のズボン買わなきゃと思った。
 

音源制作は11月2日から参加したが、最初の曲“サチ・カ”ではトランペットでの参加になった。曲冒頭にファンファーレのように入れる。責任重大なパートだと思った。
 
「邦生(くにお)ちゃん、上手いね。さすが大宮万葉先生ご推薦だけのことがある」
などとロンドさんから言われた。
 
取り敢えず技術的には合格ラインに到達していたようだ。
 
でも使うことになる前にホルンもっと練習しなくちゃ!
 

週末には、寮に常駐している看護師の山口さんから電話が掛かってきた。山口さんは吉田に尋ねた。
 
「吉田さん、ナプキンは普段何を使ってる?」
「ナプキンですか?えっと、スリムガードの羽無しかな」
 
ナプキンなんて用は無いのだが、なんか答えないと悪い気がした。
 
(でも“普通の”男子は生理用品の銘柄なんて知らない!吉田は周囲の女子に“よく教育”されているのでナプキンの主な銘柄が分かる。ナプキン買ってくるの頼まれるし!)
 
「それはいつも在庫してる。うちの寮はナプキンは無料配布だからそちらにポストしておくね」
と山口さんは言った。
 
「はい、ありがとうございます」
「残り少なくなったら、社内システムからオーダー入れてね。id/passはもらった?」
「はい、頂きました」
「急ぎの時は直接取りに来てもいいから。じゃ持って行くね」
 
ということで、山口さんは吉田の居室の郵便受けにスリムガードを1パック放り込んでいってくれた。
 
「僕、やはり女子と間違われているんだったりして?」
と吉田は思った。
 
なお女子寮の“情報調査部”の面々は、吉田の性別に“何の疑問も持たなかった”ので、隠しカメラや盗聴器を仕掛けたりすることも無かった!
 

花ちゃんはここしばらく、数人の信濃町ガールズから、個人的な相談を受けていたが、内容はほぼ同じだった。
 
「信濃町ガールズの本部生になって○年やってきましたが、やはりデビューしたり正式なデビューしてなくても、テレビとかで活躍している人の才能が凄いなあと思っています。自分はとてもあそこまで行けそうにないので、新しい女子寮ができて部屋移動する前に、退団しようかと思うのですが」
 
それに対して花ちゃんの答えは同じだった。
 
「デビューできるかどうかは実力だけじゃなくて運もある。原町カペラなんて2019年にデビューはしたもののこれまで全然売れてなかったのが、今年唐突に売れた。坂田由里も同じ年に信濃町ガールズになって、ひたすら下積みしていたのが今年演技で大きく評価されてブレイクしつつある。だからもう少し頑張ってみるのもひとつの手。でももし辞めるなら、せめて3月まで待ってほしい。今本当に人手が足りない。猫の手も借りたいくらいなんだよ」
 
それでほとんどの子が、取り敢えず3月までは頑張ることを約束してくれた。
 
ただ1人、3年目で現在高校3年生の太田芳絵だけは「デビューできそうにないなら、大学に行ったら?と親が言っている」と言うので、彼女に関しては、3月までは在籍してもらうが、受験が終わる1月下旬までレギュラー出演しているテレビのバラエティ番組(雛壇要員)とドラマ(名も無い役:でもセリフはある)以外では、仕事はできるだけ外して受験勉強がしやすいようにすることで合意した。国立は無理なので私立狙いだが、私立は1月でだいたい試験が終わる。
 
しかし3月には結構な退団者が出るかも知れないなと花ちゃんも思った。信濃町ガールズ本部生の退団者は(伴奏者やマネージャーへの転向を除くと)3年前の山口優花が最後である(2017年夏のオーディション4位で信濃町ガールズに入ったが1年半在籍して2019年3月で退団)。しばらく退団者が出なかったのは、コロナの影響もあるだろうと花ちゃんやゆりこは考えている。2020年の春は、とにかくみんな動きたくなかったのである。
 
(他に2019年末から始めた大型時代劇で全員が名前とセリフのある役をもらったことや、2020年春から始めた、あけぼのテレビで全員様々な番組に出るようになってファンメールも結構もらえるようになったのもあると思う。“売れてる”部類に入らなくても、ファンメールとかもらうと、凄く励みになる)
 

しかし2018-2019年度に入ってきた子たちの中で芽が出てない子は辛いだろうなと花ちゃんは思う。太田芳絵は2019年組である(東雲はるこ・七尾ロマン・町田朱実に次ぐ4位。その3人が凄すぎるので、太田はもし前年参加していたら優勝していたかも知れない)。
 
「私なんてアクアとほぼ一緒に入って、7年間鳴かず飛ばずだけどなあ」
などと彼女は呟いていた。
 

10月29日(金・友引・“たつ”).
 
夕方、私の古い友人である、野村治孝と前村貞子が結婚式を挙げた。2人はもう10年以上付き合っているが、ふたりとも陸上選手なので、貞子が
「東京オリンピックが終わるまでは結婚できない」
と言っていた。それで東京五輪が終わったところで結婚式を挙げたのである。
 
ふたりは中学の陸上部で一緒だったので、当時の陸上部の仲間で、私と若葉、美咲絵里花(現在静岡県の放送局でアナウンサーをしている)、なども出席したし、ふたりの現在の所属チームのメンバーも参加している。
 

結婚式は国分寺市内のホテルで18時半から、親族数人ずつだけが出席して行われ、その後、19時から21時まで、ネットワーク型式で披露宴が行われた。お料理は出席者に前日までに届くように配送されており、会費は振り込みで払っている。ネットワーク方式なので、あまり服装に気を使わなくていいし、会費1万円なのでお金も掛からないし(女性はドレス代もかからないのがポイント)、貞子がオリンピックでメダルを取ったこともあり、出席者は100人を越えた。陸連の強化部長さんが参加して「ベビーに期待する」とか正直に言ってた。
 
もっとも私は会費に加えて御祝儀も白石マネージャーに頼んで渡してきている。
 
参加者が多いので、私は余興に参加しなくても良さそうと思っていたら、宴も終わりに近くなってきた時、新婦から唐突に指名がある。
 
「冬『Long Vacation』を歌ってよ」
「まあいいよ」
 
それで私はキーボードの弾き語りで、出会ってから結婚するまでに長い時間がかかったカップルのことを歌った歌『Long Vacation』を歌った。ちょっと演奏時間が長くなり申し訳なかったが、フルバージョンで歌った。
 
私の正体はバレてるかバレてないか微妙だなと思った。
 
披露宴は私の歌の後、親への花束贈呈で終了した。
 

さて、ワンティスのアルバムの件は、次のように企画が進められた。
 
CDが見付かったのが10月21日、Protoolsのデータが見付かったのが10月28日である。29日にワンティスのメンバーが緊急招集されてコスモス、ケイ、醍醐春海に、TKRの三田原制作部長まで入れて話し合い、4枚組アルバムの制作が決定した(アクアが歌うのでこのアルバムはTKRから発売される。
 
なお、ワンティスは2013年に活動再開した時はいったん★★レコードと再契約したが、村上社長時代、2017.4に契約を更新しなかったので、現在はフリーである。実際問題として演奏活動は実質休止状態にあった。しかし今度のアルバムに関してはTKRに委ねることにした。
 
 
TKRは普通のレコード会社と違って、アルバム制作義務が無いのが良い。
 

見付かった楽曲データは全部で24曲なのだが、これを暫定的に4つのグループに分けた。
 
A:最終盤CDに入っていた12曲
Searching Cow/ Long Long Ago/ Voyage Romantique/ 朝日の海岸/ 光の柱/ 生命の水/ Back to the Town/ リズミトピア/ 川と花の物語/ 忘れられた座席/ 背中に書いたラブレター/ 祭り太鼓
★ノイズ消去だけしてリリース“One Xanadu”
 
B:12/14版に含まれていたもの(完成に近い・歌入り)
一杯の水/ ヴィーナスの涙/ ラピスラズリ/ 人魚諸島
★そのままミックスダウンしてリリース(下川担当)
 
C:12/14版に含まれていたもの(演奏はほぼ完成・歌無し)
夕暮れ時のスピカ/ Deep Mountain/ 極楽鳥/ Divina Commedia
★アクアに歌わせて(海原担当)からミックスダウン(下川)
 
D:9/21版に含まれていたもの(未完成の演奏のみ)
髪の長い少年/ 雪の恵み/ キャット・ウォーク/ 虹色の首飾り
★改めて演奏し(ワンティス)アクアに歌わせて(海原)からミックスダウン(下川)
 
BCDをまとめて1枚のアルバム『イン・ヴィア』とする。“途中”という意味である。
 

上記の作業で2枚組のアルバムが完成するのだが、コスモスは同時に若い人たちにトリビュートアルバムを作らせ一緒に販売したいと提案した。これにはTKRの三田原部長が大いに賛成した。レコード会社としては20年前に活動していたバンドのアルバムを今更出してもセールスが見込めないので、今人気のある人に歌わせてそれで興味を持ってくれた人はワンティス版も買うかもと考えたのであろうと、会議の出席者は想像した。
 
それで、最初このような歌唱者が提案された。
 
アクア、常滑真音、ラピスラズリ、白鳥リズム、姫路スピカ、品川ありさ、高崎ひろか、坂出モナ、羽鳥セシル、松梨詩恩、ColdFly5、羽田小牧、ボニアート・アサド、榎村アケミ
 
(TKRのアーティストから選んでいる)
 

ところがこれに醍醐春海(千里)が反対した。
 
「皆さん、長く音楽業界に関わっておられるから分かると思うのですが、4万の集客力のあるアーティストが2人ジョイントコンサートをすると、常識的に考えると8万まで行かなくても6万人くらい集客できそうな気がするのに、実際には3万枚くらいしかチケット売れませんよね」
 
醍醐春海がそう言うと、みんな
「あ、そうか」
「足し算じゃなくて論理積になるんだよね」
と言っている。
 
三田原さんまで「そうだった」と納得顔である。
 
根本的にはチケットが高いという問題があり、かなり無理してチケット代を出すのにお目当てのアーティストが半分しか見られないのなら見送るという人が多くなるからである。両方に関心のある人だけがチケットを買う。
 
「だからここは最もセールスが期待できるアーティスト1人だけに歌わせるべきです」
 
「つまりアクアか」
 
また
「高岡の“娘”なんだから、もっとも歌唱者としてふさわしい」
という意見もあった。
 
それで、アクアに24曲歌ってもらうということになったのである(イン・ヴィア収録分8曲まで入れると32歌唱)。アクアが歌うのなら伴奏も“彼女の”バックバンド、エレメントガードに演奏させようということになる。
 

すると更に三宅から提案がある。
 
「『イン・ヴィア』の追加伴奏も俺たちじゃなくて若い人にやってもらおう」
 
「ああ」
「やはり高岡が死んだ時の俺たちって25歳くらいだったじゃん。あれはその25歳の音楽だったと思うんだよ。だからせっかく20歳のアクアが歌うんだから、伴奏も40代の俺たちより、20代の伴奏者に任せよう」
と三宅は言う。
 
「うん。それがいいね」
と海原も言い、その方針が固まった。
 
「ところでエレメントガードって何歳だっけ?」
「ヤコは35歳、エミは32歳、ナツは27歳、ユイは25歳です」
 
とコスモスが即答するので、ケイは「コスモスちゃん凄い」と思った。
 
「30代半分、20代半分か」
 
スマホの電卓を叩いていた三宅が言う。
「平均すると29.75。切り捨てして平均年齢20代でいいかな」
 

それでエレメントガードが伴奏してアクアが歌うという話がまとまり掛けたのだが、ケイが言った。
 
「今回の企画ではエレメントガードは休ませませんか?」
「へ?」
 
「アクアが忙しいから、あの子たちもだいたい過労気味なんですよ。それに今彼女らは12月に発売しなければならないシングルの制作中です。これはテレビ番組の主題歌なので絶対にリリースを遅らせられないんですよ。更には年末年始の予定もぎっちり詰まってます」
 
「日本一忙しいアクアのバックバンドだからなあ」
と海原が言う。
 
「だから彼女らとは別に伴奏バンドを構成しましょう」
 
「それでもいいかもね。夏に舞音のアルパムを同時に2枚作った時、歌は舞音が両方歌うけど、伴奏バンドは2組用意したんですよ」
とコスモス。
 
「そもそも今回の制作方法はあの舞音ちゃんのアルバムの制作と似てるんだよ」
「ああ、それはそんな気がした」
 
「アクアが歌うなら伴奏は誰でもいいんじゃない?」
と雨宮先生が言い、25歳以下限定の臨時バンド“ゼロティス”が編成されることになった。メンバーの人選はコスモスに任せると言われた。
 
またトリビュートアルバムは監修も若い人に任せようということになり、その人選もコスモスに一任された。
 
「曲のアレンジも変えていいですか?」
とコスモスが尋ねると、ワンティスの面々は悩んでいたが、雨宮が
 
「若い人に歌わせるなら、若い人に合わせたアレンジをした方がいい」
と言い、それに海原・上島も賛成したので、他のメンバーも同意し、アレンジも若いアレンジャーに任せることになった。
 

ここで山根から提案がある。
 
「トリビュート版を全部アクアに歌わせるんでしょ?そしたら『イン・ヴィア』の追加歌唱は少し変えない?」
「別の子に歌わせる?」
「いや、『インヴィア』のプロジェクトデータの中に残っている音声が高岡と上島のデュエットだから、残り8曲もデュエットがいいかなと思って。例えばアクアと、ハイライト・セブンスターズのヒロシ君とか考えられませんか。レコード会社が違うけど、★★レコードさんなら協力してくれますよね?この2人ならどちらも凄く歌がうまいから、各々のファンも容認してくれるんじゃないかと思うんですよ」
 
「それはひとつの手だけど、ヒロシは忙しくてとてもアクアと双方時間が取れるタイミングができる可能性は低い」
「そっかー」
「誰か若い男性ボーカルで上手くて時間の取れる人いない?」
 
というので、いくつかの名前が出ていたものの、“時間が取れる”“上手い”というのが、ほぼ相反する条件なので、なかなかいい人が居ない。
 
「WADOの若春君じゃなくて、えっと・・・」
「若南ちゃん?」
「そうそう。あそこのレコード会社も協力してくれそう」
「あの子たちは、時間は取れるだろうけど、男声で歌うのは絶対拒否すると思う」
という声が出たところで
 
「あ、そうか」
と三宅が言った。
「アクアは男声も出るから、アクアに男声で歌ってもらって、女性歌手と組み合わせたらいい」
「なるほどー」
「それだとトリビュート版をアクアには女声で歌ってもらえたら、両者の違いが出るね」
 
そこで上島が言う。
「実を言うと、ptxデータに含まれる歌唱データは、高岡と僕のパターンと、僕と雨宮のパターンの双方か残っていたんだよ」
「そういえば、両方収録してたな」
「最終盤は、全部高岡と僕のデュエットになった。でも、『ワンザナドゥ』は高岡と僕の男声デュオ、『イン・ヴィア』は僕と雨宮の男女デュオの方を活かしたらどうだろう?そしたら追加歌唱が男女デュオになるのとつながる」
 
「それいい、そうしよう」
とみんな賛同した。
 
雨宮が
「失礼ね。私、男なのに」
と言っているのは、取り敢えず黙殺する!
 

「で、女性歌手なら誰?」
「若くて、上手い子が条件だな」
「人気があって、アクアとファン層が比較的重なる子」
 
「赤いトマトの水埜香奈絵」
「2年後に使いたい。今の音楽能力では足を引っ張ってアクアの時間を浪費する」
「あの子は上手いけど、譜面が読めないから誰かが仮歌を入れてあげないといけない」
「それに細かい音符で音程が曖昧になる」
「譜面読めないから、正しい音が分からないんだよね」
 
「譜面を見て一発でほぼ完璧に歌える子が欲しいよね」
「つまり譜面が読める子でないとダメか」
「ソルフェージュに強い子」
「その条件でほとんどのアイドル歌手が落ちるな」
 
「山森水絵は?実力は充分。%%レコードだけど共同企画にすれば行けると思う」
「彼女はドラマに主演中」
「うーん・・・」
 
「★★レコードの鈴鹿美里」
「今年はクォーツのボーカルしてるから時間が取れない。今クォーツのアルバム制作中だし」
 
「TKRでキャロル前田。女性ボーカルかどうかは怪しいけど、女声ボーカルなのは間違い無い。彼なら譜面読むのは強いはず」
「性格的に問題がある」
「絶対指示通りに歌ってくれない。自分の音楽にしてしまう」
 
「姫路スピカ」
「ああ!」
「そうだ。§§ミュージックの子たちは、オーディションで初見歌唱が課されてるから、みんな譜面読むのがうまい」
「それで信濃町ガールズの子たちも色々な歌手のコーラスに起用されてるよね」
「ポップ感覚持ってるから、音大生とかより使い手があるんだよ」
 
「彼女なら11月上旬は使えます。『八犬伝』の撮影が延びた時のために備えて、11月上旬の予定を入れてないんです」
 
「『八犬伝』の撮影は?」
「10月いっぱいで終わると思います」
「よし、スピカちゃんを使おう」
「歌う曲の中に『夕暮れ時のスピカ』もあってちょうどいい」
「あ、それはタイトルから姫路スピカちゃんをちょっと連想した」
 
ということで、『イン・ヴィア』の追加歌唱はアクア(男声)とスピカのデュエットになったのである。
 
 
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【夏の日の想い出・Long Long Ago】(5)