【夏の日の想い出・つながり】(5)
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(C)Eriko Kawaguchi 2018-03-23
信次さんの遺体は7月6日に検屍の末引き渡され、桃香は信次さんの母・兄と話し合った上で、信次の愛車ムラーノに乗せて千葉まで運び、その日に通夜、翌日7日の夕方に葬儀を行った。
私と政子ほか、和実・淳・あきら・小夜子などクロスロードのメンバーも葬儀に出たが、確かに千里は何か声を掛けても反応が無く、まるでお人形さんのようであった。千里は当然喪主なのだが、実際の葬儀の運用は桃香・青葉と、お兄さんの太一さんの3人で進めていた。
葬儀には千里のお母さんと妹さん、叔母さん夫婦も来ていたが、お父さんは来ていなかった。
「全くあの意地っ張りが」
とお母さんは文句を言っていた。
(お母さんたちの旅費は妹さんが全員分出したとお母さんは言っていたものの、実際には千里2が妹さんに緊急送金したようである)
「え?腫瘍?」
「うん。春に手術した病院から速達で来ていた。爆発のあったアパートの郵便受けからこれを回収した」
と言って、桃香は「至急・親展」と書かれた信次宛の封書(の外側)を見せる。
「本来ならそのまま千里に渡すべきだが、千里はあの状態ではどうにもならんから、私と太一さんとで開封した」
と桃香は言っている。
「手術で摘出した組織を念のため精密に検査した所、悪性腫瘍が混じっていたということなんだよ。だから至急再健診を受けて欲しいというお手紙」
「うーん・・・・」
「それで実は昨日の内に、こちらの医者に遺体を診てもらったんだよ。そしたら、信次さんは身体のあちこちに酷い腫瘍ができていて、どう考えても余命1〜2ヶ月以内。むしろ生きていたのが奇跡だということだった」
「嘘!?」
「診断書も書いてもらった。念のため今日の午前中に別の医者にも診せた。そちらも同様の診断だった。だから2枚の診断書がある。患部の写真も残してある」
と桃香。
「お母さんがこの件ではかなり怒っている。見落とししたのは医療ミスではないのかと言って。場合によっては医師を訴えたいと言っている」
「それ現在の診断書2枚あっても立証がむずかしいと思う。春の段階ではまだそれほどではなかった可能性が高い。春の段階で転移していたら、いくら何でも見落としたりしないよ。しかも国立**センターでしょ。あそこは日本で最高の水準だよ」
と蓮菜が言う。
「私もそう思うけど、しばらくはこの件は放置したいと思う。怒りのエネルギーがお母さんの精神を支えるから」
と桃香。
「確かにそうかも知れない」
と私も言った。
クロスロードのメンツで別室に集まって話し合った。
「千里ちゃんだけど、あれ精神科のお医者さんに見せた方がよくない?」
と心配してあきらが言った。
「千里は元々が異常だからなあ。精神科のお医者さんには理解不能と思うよ」
と和実は言う。
「私もそう思う。あの子は抗鬱剤とか投与されてもうまく行かないと思う。あの子の精神的なバランスってのは、ふつうの人からするとかなり非常識なポイントでバランスしている。だから抗鬱剤はそのバランスを更に崩すだけという気がする」
と蓮菜が言った。
今回の件では蓮菜もかなり参っているようである。
「お医者さんがそう言うなら、そうかも知れん」
とあきらも妥協する。
「取り敢えず数ヶ月は様子を見た方がいいと思います」
と青葉は言った。
桃香が言う。
「私のアパートに置いて面倒を見たいのだけど、夫を亡くしたばかりの女が愛人の所にずっと居るのはまずいだろうと思うんだよ。それに千里以上に実はショックを受けているふうのお母さんも、あの状態の千里のお世話をすることで精神的に回復していけると思う。だから取り敢えず四十九日までは信次さんの実家に置いた方がいいと思うんだ」
「太一さんの奥さん、お腹大きかったね」
「いちばんの親族だから顔を出させたみたいだけど、実は奥さん、来週が予定日なんだよ」
「それは大変な時に大変なことが起きたもんだ」
「でもこのタイミングで良かったと思う。太一さんの奥さんが出産したら、康子さんの気分もかなり変わるよ」
「だろうね!」
「それと私はあちこち飛び回らなければいかん」
「ん?」
「いくつか問題がある。信次さんの会社はこれは労災では無いと言ってる。しかし会社の勤務中に会社の敷地内で事故死して、労災ではないというのはおかしいと私は主張している。この問題で再度向こうと交渉してくる」
「なぜ会社は労災ではないと主張できる?」
とあきらが少し怒ったような顔で言う。
「それと実は今代理母さんのお腹の中にいる子供のことで仙台の病院に行ってこなければならん」
「あそこの病院か!」
と和実が言う。
「代理母のプロジェクトは、特別養子縁組で産んだ代理母さんとの縁は切れて、養親側の完全な子供になることが絶対条件。だからその条件が成り立たない場合はプロジェクトは終了するという契約書にサインしている」
と桃香。
「あ!特別養子縁組にできない!」
と和実が声をあげた。
「そうなんだよ。特別養子縁組は夫婦でないと養親になれない。だから医者はプロジェクトを中止して子供は中絶すると主張すると思う。それを中絶されないように、何とか医者を説得してくる」
と桃香は言っている。
「桃香なら口説き落とせるかも知れない。私には自信無い」
と淳が言っている。
「でも赤ちゃんの命を助けて欲しい」
と小夜子。
「それと名古屋で、アパート爆発の補償問題についても大家さんと話してくる」
「桃香大変だ!」
「そういう訳でしばらく私もとても千里の面倒まで見てられないんだよ。だから康子さんの所にいるのは私としても助かる」
「なるほど」
「桃香、早月ちゃんは?」
「朱音に預かってもらっている」
「なるほどー」
(実際には朱音の家に「頼む」と言って、放り込んできただけである!)
青葉が考えるようにしてから言った。
「しばらくちー姉には、私の眷属を守りにつけておくから」
「千里にはそもそも眷属さんが付いているのでは?」
と和実が言う。
「それが昨年の夏の事故以来、そのコネクションが壊れているみたいなんだよ」
「昨年の夏の事故?」
「昨年の夏に、ちー姉は一度死んだけど蘇生したんだよ」
「そんな事故があったの!?」
「それ以来ずっと不調が続いているんだ。その前に昨年の春には落雷にも遭っているし」
「うっそー!?」
「千里は厄年だっけ?」
「千里姉は1991年生まれだから、厄年は2009,2023,2027年」
「男命で見ても引っかかってない?」
「男命で見た場合は 2015,2032,2051年」
「どちらも関係無いな」
「千里、2009年には何かあったっけ?」
「2009年は一時的にバスケを辞めていたんだよ。彼氏とも一時的に別れている。それが今日の葬儀にも来ている親友の玲央美さんに励まされて練習再開して、結果的に大きな大会にも出場している」
と青葉は言葉を選びながら話す。大きな大会というのはU19世界選手権だが、千里はバスケ活動のことをあまり桃香に話していないようなので具体的なことは話さなかったようである。
「充分厄年っぽい」
「2015年は何かあった?」
「色々細かいことは省くけど絶好調だったと思う」
と青葉は言った。
実際にはこの年、京平が生まれて千里は貴司の本当の妻としての自信を取り戻したし、アジア選手権で優勝してオリンピック切符を掴んでいる。公私にわたり充実した年である。
「やはり千里は女命で生きてるな」
「サターンリターンは?」
「ちー姉のサターンリターンは確認したけど2021年1月9日20時くらい」
「どうも何も関係無いようだ」
「まあ占いなんて当たらないし」
と言っているのはむろん桃香である。
私たちはけっこうな時間話し合った末、それぞれ気をつけてできるだけ千里に会いに来ようと言ってこの日の話し合いを終えた。
葬儀には玲央美や浩子さんなどのバスケ関係者、ゴールデンシックスのメンバーなど、千里の古い友人たちが何人も出ていた。
名古屋で現在千里が参加していたクラブチームの人が、葬儀の日程が分からないので知りませんか?と交流のあった40 minutesのメンバーに尋ね、彼女がまた数人の知り合いに問い合わせたことから、バスケ関係者にこの情報が広まった。そこから旭川N高校関係者にも情報が流れてゴールデンシックスのメンバーも知ることとなった。
しかし、これらの人の大半が、そもそも千里が結婚して名古屋に行っていたこと自体知らなかった!と言っていた。
「結婚するなら式に呼んで欲しかったなあ」
とこの件を全く知らなかったという花野子が言う。
「震災イベントで一緒に演奏したけど、あれ結婚式の直前でしょ?その時もあの子何にもそんな話はしてなかったのに」
「どうも千里はこっそり結婚したかったようだよ」
と私は言っておいた。
「ケイさんは出席したの?」
「恥ずかしいからと言っていたから、お花だけ贈った」
「だけど名古屋に行っていた割には、しばしば私は千里に会ってたけど」
と高校以来の親友・若生暢子。
たぶん暢子と会っていたのは実際には千里3だろうなと私は思った。千里2は昨年の夏以来、ほとんど海外生活である。
「千里姉は名古屋からほぼ毎日東京に出てきていたようです。新幹線の定期券を買っていたみたいですよ」
と青葉が説明する。
「新幹線の定期券!?」
「東京への通勤の便のため、名古屋駅に近いアパートを借りたんですよ。毎朝信次さんを送り出したら自分は新幹線に乗って東京に出て、色々仕事をしたりバスケットをしたりして、深夜に信次さんが帰宅する前に新幹線で帰るんです」
「すげー生活だ」
「名古屋と東京の間は1時間半だから、都内の奥から出てくるより早いんですよ」
「それは確かにそうかも知れんが」
「定期券って、いくらするの?」
「東京−名古屋間は1ヶ月25万円らしいです」
「恐ろしい」
「いや、年収10億の人には全然痛くない」
と花野子。
「千里ってそんなに収入があるんだっけ?」
「深川アリーナの建設費は実際問題として、ケイさんと千里が半々出したはず。ふたりともポンと現金で払ってる」
と花野子。
「すげー」
「千里はそれ以外に千城台体育館の土地代と建て直し費用もポンと払ったし」
と浩子。
「まあ深川アリーナに比べたら小さな投資額だけどね」
と玲央美。
千城台の体育館は元々は房総百貨店という所が同社のバレーボールチームの練習用に建てたものであったが、同チームの解散後、ローキューツが借りて簡単な改修の上で2011年以来、練習用に使用していた。
しかし元々バレーのコートはバスケよりずっと小さいのに無理矢理バスケのラインを引いたため、コートの外側が短すぎて、勢いよくコートから飛び出すと危険であった。それで可能なら建て直したいね、などとも言っていた2016年、房総百貨店自体が倒産してしまった。ちょうど深川アリーナが竣工した時期だったので、こちらで練習すればいいのではという意見もあったのだが、千葉県のチームの本拠地が東京都内という訳にはいかないし、やはり千葉県内の選手が多いので、千城台が使えると便利という意見もあった。
そこで千里が管財人さんから土地・建物を2億円(実際には土地代のみ)で買い取り、体育館も古い体育館の隣に新しい体育館を建てた上で古い体育館は取り壊した。この建築費に約7億円(付属の宿舎を含む)掛かったので合計9億円の投資をしたことになる。
なお現在ローキューツの運営会社は千里の個人会社フェニックス・トラインから借りて体育館を使用している形を取っており、賃貸料として光熱費込みで毎月10万円!を払っている(普通なら光熱費別で30-40万の家賃を取ってよいところ)。
「でもあの状態じゃ、しばらく仕事出来ないだろうなあ」
と花野子は心配するように言う。
「でも今年は世界選手権に向けて合宿もたくさんやっているのに。あの感じでは日本代表から離脱かな?」
と秋葉夕子が言ったが、玲央美が否定する。
「千里は5人くらい居るから、別の千里がちゃんと代表を務めるよ」
「5人!?」
「いや、その疑惑は高校生の頃からあった」
と暢子。
「むしろ小学生の頃から、きっと千里は3-4人居るとみんな言ってた」
と蓮菜。
「男の子の千里と女の子の千里と男の娘の千里と女の娘の千里」
などと蓮菜が言うと、政子が興味津々という顔をしている。
「千里が男の子だと思ったことは一度も無いし、あいつ絶対ちんちんなんか付いてないと思ってたけど、ちんちんが無いと考えると理解できないこともしばしばあった。だから、ひょっとして千里って、男と女の双子なのではと思うこともあった」
と実弥(留実子)。彼は今日は男性用の喪服を着ている。夫の鞠古知佐さんがなぜか女物の喪服(但しズボン仕様)を着ている!?ので結果的に夫婦に見える。
「大学時代の千里も信じられなかった」
と浩子が言っている。
「だって、ファミレスのバイトと神社のバイトを掛け持ちした上で音楽活動もしていたし、それでバスケもやって、毎週大阪に行って彼氏とデートしてたし。大学も海外遠征に行く時以外は、あまり休んでなかったみたいだし」
「それは確かに千里が5人くらい居ないと不可能だ」
「5人か10人居るなら何とかなるかな」
と話し合いはよく分からない方向に進む。
青葉がどう反応していいか分からず困っていたら、玲央美が青葉の肩をポンポンと叩いた。それを見て私はやはり玲央美は千里が(何人に別れているかまでは分からなくても)分裂していることを認識しているなと思った。
葬儀の後、花野子が自宅に帰り、梨乃も呼んで一緒に御飯を食べながらゴールデンシックスのアルバムの企画を練っていたら、訪問者がある。
「千里!?」
「いやぁ、悪い、悪い。色々心配掛けてるね」
と千里は笑顔で言う。
「千里、凄く元気になってる!」
「私は元々元気」
「・・・もしかして、意気消沈している千里とは別の千里〜〜〜!?」
「玲央美が言っていた通りなんだよ。私は5人くらい居るんだよ」
「ホントに5人いる訳!?」
「まあその内3人が本物で他はニセモノなんだけどね」
「はぁ!?」
「ゴールデンシックスのアルバムの構想練ってたんでしょ?私も入れてよ」
「うん」
「まあ、私が何人もいる経緯、そして貴司のことが好きな筈の私が他の男性と結婚した理由とかも、説明するからさ」
「説明して欲しい!貴司さんとのことも私は不可解だった」
それで千里は持参のケンタッキーフライドチキンを出してから、これまでの経緯を2人に話し始めた。
「こういう話、信じる?」
と1時間くらい掛けて説明してから千里は訊いた。
「千里じゃなかったら、とても信じられない話だ」
と花野子。
「まあ千里ならあり得る話だ」
と梨乃も言った。
なお“千里の夫が亡くなった件”について、千里3と会ったバスケ関係者は
「大変だったね。力を落とさないでね」
などと声を掛けたが、千里3は
「へ?何のこと?」
と言う。
「えっと・・・ご主人が亡くなられたんでしょう?」
と言うと
「冗談を。私そもそも結婚もしてないし。彼氏はいるけどピンピンしてるよ」
と千里3は笑って答えた。
それでみんな「きっとこのことは早く忘れて頑張りたいのだろう」と勝手に解釈して、この件は千里3には言わなくなった!
信次さんが亡くなった1週間後の7月11日、兄の太一さんの奥さん・亜矢芽さんが男の子を産み落とした。康子さんが物凄く嬉しそうにしていて、これで康子さんの気持ちも少しは変わるかも、と和実が報告してくれた。
「千里の様子は?」
「全く変わってない。何か話しかけても無反応。私のことも誰なのか分かってないかもという状態」
「どうする?」
「もうしばらく様子を見るしかないと思う」
「そうか。。。。和実、お店の方は大丈夫なの?」
「うん。あちらはチーフのマキコちゃんが頑張っているから、私が遠出しても何とかなってる。売上も順調だし」
「そういえば屋台村が出来たんだって?」
「そうなんだよ。うちの店が孤軍奮闘している内に、周辺のスーパーとかにも客が増えてさ。それで地元の町の若い人たちと、演習農場に来ている大学生とがタグを組んで屋台村の企画を立てて、それで結果的に人が更に増えているんだよ」
「面白いね。淳さんの方はどう?」
「不安そうな顔をけっこうしている」
「この年齢になってから手術を受けるのは結構不安だろうね。仕事は予定通り休めそう?」
「うん。淳が担当したシステムは7月初めに立ち上がって、今の所だいたい順調に動いているんだよ。だから予定通り9月7日まで出勤したあと休職して、9月12日に手術を受けられると思う」
「またクロスロードのメンバーのおちんちんが1本減るわけだ」
「これでオリジナル・メンバーで、おちんちんがまだ残っているのは、あきらさんだけになるね」
と和実は楽しそうに言っていた。
和実が帰った後、入れ替わるように千里2が来た。たぶん顔を合わせないように待っていたのかなと思った。
「それでさ、千里1が当面使えないと思うから、その代替が必要なんだよ」
と千里2は言った。
「うん。誰かできそうな人居る?」
「丸山アイが使っているスーパーコンピューターにやらせたい」
「スーパーコンピューター!? もしかしてアイちゃん、コンピュータに作曲させてるの?」
「量産品はそれで骨格を作った上で、長崎市の**女子大の音楽科の生徒たちが調整を掛けている」
「うっそー!?」
「1本2万円のバイト」
「美味しいバイトかも」
「それでスーパーコンピューターをもう1台買いたいんだよ」
「そんな簡単に買えるもの?」
「実は数年前に運用終了した、同じ仕様のスーパーコンピューターが3台あって、丸山アイはその内の1台を個人的に買い取って使っていたんだ」
「個人で!?」
「3台は同じ仕様だから実は同じプログラムが動くんだよね。2台にする場合はデータベースを同期させる改修を加えるだけ」
「なるほどー。でもそれ何億なの?」
「3台は同じ仕様なんだけど、使っている素子の仕入れ先が違うんで価格は凄い差があった。アイが個人的に買っていたのは一番安いので、原価で4000万円だった。それを1000万円で買い取った」
「1000万円ならアイちゃんなら買えるか」
「それで別の奴を買いたいんだけど、これは原価が4億円だったんで向こうは8000万円なら売ってもいいと言っているらしいけど、アイちゃんの資金力では厳しいらしい」
「分かった。それ私がお金を出すよ」
「うん。よろしく」
それで私は丸山アイに連絡した。スーパーコンピューターの件を私が知っていたことに向こうは驚いていたが、お金を出してくれるなら助かると彼女は言った。
ただ話を聞いてみると、千里が言っていたのとは内容が違う。どうも千里は話をハンパに聞いて、私に投げてきたようである。
「ここまで私と山吹若葉さんの2人だけでやってきたんですが、利益の出る事業ではないので、もっと参加者を増やした方がいいという話になりまして」
「若葉が関わっていたの!?」
「お金が余って困っているから何か投資することない?と言われたので、じゃ出資してもらえませんか?と言ったら出してくれました」
アイは一度関係者で集まって話したいと言ったので、向こうに日時を調整してもらった。結局、その日の夜26:00(7/12 2:00)に若葉の家に集まることにした。この時間帯になったのは、千里の生活時間帯に合わせたということのようである。若葉もアイも時間に関係無い生活をしている。
千里は現在アメリカで生活しており、午前中にチームの練習に参加していて、午後はフリーなので自主練習をしたり作曲活動をしたりしているようだ。アメリカの午前9-12時は日本の22-25時に相当するので、その後の時間を使うことにした。
この日、7月11日の夕方にはアクアの13枚目のシングル『回れ回れ/旅人の休息』が発売された。『回れ回れ』は岡崎天音(マリ)作詞・大宮万葉(青葉)作曲であるが、実際には制作過程で和泉・千里2・丸山アイの3者の手でかなり調整された。『旅人の休息』は琴沢幸穂名義の作品で実際に書いたのは千里3である。
この発表記者会見には、アクアとコスモス社長、プロデューサーでもあり作曲者でもある青葉、それにこの曲を主題歌・挿入曲とする映画『80日間世界一周』の監督・中村万作さんが出席した。中村監督は昨年は『キャッツアイ・華麗なる賭け』の監督を務めたが、映画が成功で物凄い興行収入になったことから、今年も再登板となった。昨年同様夏休み中にあらかた撮影し、公開は年末である。
記者会見は3月と同様、北新宿のTKR本社・特設ステージ大ホールでおこなう。同社には54人座れる大会議室など多数の会議室があるのだが、これらの会議室の間仕切りを全部取り外すと、椅子付きで192人、椅子無しなら500人収容の大ホールが出現する。この仕様で発表記者会見をするのはアクアのみである(ステラジオは大会議室を使う)。
会見は18時からであるが、17時からリハーサルを行い、アクアのリハーサル歌手を務める葉月の歌唱の後、葉月・コスモス・青葉・私がテーブルの前に座って、会見で話す内容の確認をした。葉月はアクアの代理、私は中村監督の代理である。リハーサルは17:20くらいに終わり、私たちは別室に引き上げる。
なお葉月は放送局に向かい、アクア出演番組のリハーサルに出る。エレメントガードは休憩する。それで別室に入ったのは、コスモス・青葉・私、それに千里2と丸山アイに和泉である。ちなみに私は今回のCDには関わっていないのだが、マリの代理!で来ている。
「本当は1回交代の原則からすると、今回はケイさんの担当だったんですけどね」
と青葉が言う。
「ごめんねー。とても余力が無くて」
と私。
「でも私もたくさん書いてて、楽曲が粗製濫造ぎみになっているんですよ。だから今回は和泉さん、アイさん、千里姉にかなり修正してもらいました」
「ところで、醍醐先生、ご主人が亡くなられたと聞いたのですが、大丈夫ですか?」
とコスモスが訊いた。
「うん。私は大丈夫。泣いてばかりはいられないからね。仕事をしていれば悲しみも乗り越えることができるから。まだ本来は忌引き中なのに出てきてごめんね」
と千里は言う。
私や青葉は無表情でそう言う千里を見ていた。アイも似たような表情なのでああ、アイも千里の分裂に気付いているなと思った。結局、この場で千里が分裂していることを知らなかったのは和泉だけだったのである。
「でも今回はアクアのCDでは初めてのバラード曲になりました」
「うん。私も言われてみて、ああ確かに今までアクアにバラードは無かったなと気付いたんだよね」
と千里は言う。
「リズミックな曲が得意な歌手はバラードが苦手だったりするんだけど、アクアはうまかったね」
「音程が凄く安定しているからスローな曲を歌ってもボロが出ないんですよ」
「リハーサルで歌った葉月もうまかった」
「あの子自身のCDは作らないの?」
という質問が出る。
コスモスが答える。
「あの子、アクアの影武者だけで使うにはもったいないくらいなんですけど、本人がアクアをすごく尊敬しているので、本人の希望通り、ボディダブルとリハーサル歌手をさせているんですよね。実際その仕事だけでかなり多忙なので、もし彼自身も歌手として売れてしまうと、たぶん学業に支障が出ると思うんです。それに彼はアクアの影武者として最高だから、アクアができるだけストレス無く仕事をしていくためには彼の存在が欠かせないんですよ」
「うん。だから彼は今売れてはいけないんだろうね」
「ええ。ですから彼を単独で売り出すとしたら、最低でもアクアが高校を卒業した後です」
「アクアは大学には行くの?」
「行かないと言ってます。実際あれだけ売れていたら大学生と芸能活動の両立は無理ですよ」
「だろうね〜」
やがて中村監督、アクア本人も到着し、18時から記者会見を始める。例によってファッション雑誌や漫画雑誌!?の記者まで詰めかけて物凄い盛況であった。
会見はいつものようにエレメントガードをバックにアクアが生歌で2つの曲をショートバージョンで歌った後で会見に入る。
記者の質問はひとつは初めてバラード調の曲を出したことについてと、もうひとつは、やはり映画に関するものであった。
「映画の撮影は現在主要4人だけで多少の試し撮りを兼ねた撮影をしています。夏休みに入ってから海外ロケを行います」
と中村監督が答える。
「海外ロケはどこどこで行いますか?」
「イギリス、フランス、イタリア、エジプト、インド、香港、横浜、アメリカのサンフランシスコおよびニューヨーク、そしてイギリス、と原作の行程通りに行います。まあ横浜は日本ですね。また80日間もアクア君の夏休みがないので実際には20日ほどで世界一周する予定です」
「ロケで世界一周するメンバーは誰々ですか?」
「主役のアクア君、ボディダブルの今井葉月(はづき)さん、スキ也さんと大林亮平さん、それと撮影スタッフが10名ほどになると思います。プロデューサー、私、助監督、脚本、撮影、音響、照明、衣裳、助手など。なお通訳は地域ごとに交代します」
それ以外にアクアのマネージャー山村さん、Wooden Fourの事務所スタッフのたぶん雪原さんあたりが、各々の事務所側の経費で同行するはずである(宿泊や食事は映画制作側で一緒に用意し費用だけ負担する)。
「各地での撮影は現地の俳優さんたちを使いますか?」
「はい。その方向で調整中です」
1時間ほどの記者会見が終わるとアクアはサブマネージャーの高村友香と一緒にすぐに放送局に移動していった。会見場からは記者たちが三々五々帰っていく。それで私も一度マンションに帰ろうと思ったのだが、廊下の隅でアクアのメインマネージャーの山村さんと、千里(多分千里2)が何やら深刻そうな顔で話しているのを見た。何の話だろうと思ったものの、近寄りがたい雰囲気だったので、私はそのまま引き上げた。
深夜2時。私は若葉の家に赴いた。
既に丸山アイは来ていたが、千里2は私が着いた少し後に到着した。若葉は夜食を予め充分な量作っておいてくれていて、それを暖めて出してくれた。
「若葉、妊娠中なのに、こんな遅い時間大丈夫?」
彼女は現在妊娠7ヶ月である。
「平気平気。私だいたい普通の人と6時間くらい生活時間がずれてるから」
「マリみたいなこと言ってる」
「うん。マリちゃんとは生活時間帯が近いかも知れない」
丸山アイが説明する。
「去年の秋頃に、これはちょっとやばいんじゃないか?と思ったんです。その時点でこれに気付いていたのは、多分私と千里さんくらいじゃないかと思うんですよね」
「私は、いつもお願いしている私の下請け作家さんたちに、少し多めに曲を発注していた。だから春までに実は50曲くらいのストックができていた」
と千里2は言う。
「私はスーパーコンピュータに作曲をやらせてみようと思って、そういう研究をしていた**大学の山鳩助手をヘッドハンティングしたんです。それで山鳩さんから、数年前に運用終了したスーパーコンピューターが眠っていることを聞き、彼の人脈から交渉した所、1000万円で売ってもいいということだったので買い取ることにしたんですよね」
「なるほどー」
「まあそれで細かい経緯は省略するのですが、結局、鹿児島県S市の廃工場を買い取りまして、製造機械などは撤去して床工事と防音・空調工事までして、4月下旬から、その買い取ったスーパーコンピューターの運用を始めました。それと同時に同じアーキテクチャで、最新のCPUを使用したスーパーコンピューターを山鳩さんの指揮下で制作中です。これが年内にも稼働すると思います」
「かなり投資してるね」
「はい。廃工場は土地込み1億円で買い取りました。スパコンを置けるようにするための改修工事で5000万円掛かっています。新しいスパコンの制作予算は8000万円です」
「あ、そのあたりを聞き間違っていた」
と千里が言った。
「ディープラーニングさせる素材と、既存曲との類似チェック用のデータベースを兼ねて、山鳩さん個人で1000曲ほどの過去の楽曲を入力していたのですが、これについては、音源図書館の松前社長と交渉しまして、そちらのCDをお借りして、どんどんデータベース化することにしました。現在専任のスタッフを雇っています。この作業は実は2月から始めまして、年内には1945年以降の全ての国内外の主なヒット曲と、過去10年分の主要アーティストの全楽曲が登録されるはずです。このデータベースについては、音源図書館とAI-Museの共同財産ということにしています」
「AI-Museって、アイちゃんのアイと人工知能のAIの掛詞か」
「はい。そしてMuseum博物館とMusic音楽の掛詞です」
「なるほどなるほど」
「すると固定資産投資が2億4千万と、あとは人件費が・・・月200万円くらいかな?」
「そんなものです。あと電気代が1日5-6万円掛かるんですよ」
「1日で!?」
「昼間はとても動かせないので電気料金の安い夜間、22時から朝8時まで動かしています。それで今の所だいたい1日に1曲作ってくれています」
「それは凄いと思う」
「但し人間のチェックでだいたい半数がアウトになるので実質2日で1曲ですね。それを長崎の**女子大の音楽科の生徒に1曲2万円で調整してもらっています。ですから、電気代と音楽科の生徒の手間賃で合計13万円。これにこちらのスタッフの人件費とスパコンの保守費用を加えると1曲の原価が28万円ほどになります。これを作曲料20万円で提供しているのでとっても赤字です。それに20万円も取れるのは今年だけで上島先生がたぶん来年の春くらいに復帰したら相場が下がると思うんですよね」
「それ、スパコンの減価償却費が入ってない」
「1000万円の減価償却費は耐用年数5年として年間180万ですから1日5000円ですね」
「意外に少ない気もする」
「電気代が凄まじいからね」
「電気代はスパコン本体が1日当たり約55000円、エアコンが1500円、照明が500円です。これはデータ入力用端末の分を含んでいません」
「なるほどねー」
「エアコンの電気代が可愛く感じられる」
「人間も脳味噌がいちばんカロリー消費するからね」
「まあそういう訳でこの事業は現時点ではひたすら赤字を垂れ流す事業なんですけど、将来的に使える事業だと思うんですよ」
「うん、その意見には賛成」
「でも今は原理的に赤字なので、月間120万円、年間1500万円程度の補填が必要です。それより新しいスパコンの制作費用の方が大きいですけどね」
「そのあたりをこの4人で負担しないか?という話かな?」
「そういうことなんですよ。お願いできたらと思うのですが」
「新しいスパコンの制作費8000万も含めてここまでの投資が2.4億なら、取り敢えず3億くらいの資本金で会社設立すればいいのかな?」
「AI-Museの改組でいいんじゃない?」
「AI-Museって登記してるの?」
「私ひとりの株式会社として登記しています。取り敢えず資本金2000万円で設立しました。スパコンの買い取りも九電との契約も法人格が必要だったので。土地の買い取り資金は若葉さんからの借入金として取り敢えず処理しています」
「じゃその会社の増資と定款変更で」
「みなさんがそれでよければそれで」
「じゃアイちゃんが社長、若葉ちゃんが副社長、冬が専務、私が常務といったあたりで」
と千里。
「まあそんなものかもね。出資は1人8000万くらいで」
「切りのいいところで1億にして3台目のスパコンも作ろう」
「あ、それいいね」
「そしたら若葉ちっゃんの出資分は借入金を株式にまるごと転換して」
「うん。それでいいよ」
「じゃそういうことで」
「それから今回はスパコンの立ち上げを最優先で進めたのですが、工場の屋根に太陽光パネルを並べようかと思っているんですよ」
「あ、それはいいことだと思う」
「計算してみたのですが、工場の屋根に全面パネルを並べると23000枚敷くことができて、これが生み出す電力は1日平均19474Kwhになって、これは現在使用している1日の電力6252kwhの3.1倍になるんですよ」
「凄い!」
「それはぜひ敷き詰めよう」
「でも23000枚の太陽光パネルは定価ベースで40億円になるんです。屋根自体も重みに耐えられるよう強化しないといけないし」
「ひゃー!」
「いや、それだけの枚数買うなら、絶対ディスカウントしてくれる」
「たぶん半額以下にはなる」
「もしかしたら4分の1くらいになるかも」
「そのあたりは交渉次第」
「でも屋根の強化工事に20億円掛かったりして」
「もっと掛かるかも」
「でもそれ将来的には考えたいね」
「取り敢えず1億円くらい掛けて1000枚程度敷いたら?」
「それも考えています」
「だけど資金が必要なら出すからさ、2台目のスパコンの制作と楽曲データベースの入力は人数投入して急いだ方がいいと思う」
「賛成。夏休みに入るから学生さんを動員できない?」
「そうですね。ではそれは山鳩さんと話してみます。確かに夏休みはチャンスです」
「収益化だけど、ひとつは編曲を請け負ったらどうだろう?作曲はクリエイティブな部分が大きいけど、編曲は比較的機械的な処理になるから」
「それ適当な受注ルートがあったら、やらせてみたいです。現在の作曲プログラムの中にも編曲ロジックはある程度入っているんですよ。スコアの形で提供しないといけないので」
「あと仕上がった曲にランク付けしてさ、駄作はバイトの女子大生に調整してもらうとして、ごく稀にできるかも知れない良い作品はプロのミュージシャンが編曲して、作曲料方式ではなく、印税方式で売ろうよ。そしたら1曲だけで凄まじい利益が出る可能性がある」
「ワン・オブ・サウザンドか・・・」
「そう、そう」
「工業的に大量生産されている製品の中に、ひじょうに稀に物凄い名品が生まれることがある。ベテランの職人が丹精込めて作ったものより凄いものが。でもそういうのは1000個に1個もできたら良いという意味でOne of Thousandと言う」
「そういう名品が生まれたらいいね」
「言っちゃ悪いけど、上島先生のヒット曲って凄く少ないけど、それがまさにOne of Thousandなのかも」
「ああ、確かにそうかも」
「でもこの話は聞かなかったことにしておいて」
「Your Ears Onlyだね」
「でもそのランク付けと良い作品はプロ編曲家行きにするというのも、山鳩さんとすぐ相談しますよ」
「それと2曲に1曲はボツになっているというけど、恐らくそのボツ作品も編曲次第では使える場合もある気がする」
「あぁ。。。」
「ポップスとして使えなくてもフォークや演歌なら行ける可能性もあるよね?」
「そのあたりを見直すと、もしかしたら採算ラインに到達するかも知れないですね」
「編曲はたぶんスパコンでなくても行けると思うから、普通のマルチコアの高速Linuxマシンで、フォーク専門の編曲システム、演歌専門の編曲システムとか作ってさ、それに掛けてみない?」
「うん。最終的に演歌に編曲したらボツにならない気がする」
「うむむ」
アイが悩んでいるようなので、千里が笑いながら言う。
「アイちゃんは演歌に思い入れがあるから、そういう扱いをされると不快かもしれないけどね」
「確かにアイちゃん以外はここには演歌嫌いが揃っている気もする」
「いや、演歌が好きなのは高倉竜なんですけどね。私自身は演歌がそう好きなわけじゃないんです」
「そのあたり、アイちゃんと竜君はけっこう性格も違う気がするね」
「確かにちんちんをつないでる時と切り落としている時では恋愛やセックス以外のことでもけっこう意識が違いますよ」
「あれ切り落とす訳?」
「よく消毒した上でレーザーメスで切り落とします」
「それでくっつけるの?」
「糸で縫い合わせますよ」
「痛くないの?」
「ちんちんを切られる痛みくらい男なら我慢です」
「切ったら男ではなくなる気がする」
「アイちゃんの言うことはどこまで本当でどこからジョークか、さっばり分からない」
と若葉。
「ちなみに葉月ちゃんにちんちん切ってあげようか?切ったあとでも1ヶ月程度以内ならまたくっつけられるよ、と言ったら、かなり悩んでましたよ」
とアイ。
「ああ」
「取り敢えず睾丸は取っちゃおうよ。アクアはもう取っちゃったよと言ったら更に悩んでました」
「あまり余計な親切はしないように」
と千里が笑いながら釘を刺す。
「アクアって実際問題として去勢してるんだっけ?」
「去勢済みというのに1票」
とアイ。
「性転換済みというのに1票」
と若葉。
千里が困ったような表情で頭を掻いていた。
KARIONのアルバムの制作に関しては6月から7月中旬くらいにかけて作曲が行われ、10曲が揃ったので、6月中旬から8月中旬に掛けて音源製作を進めた。私は実際には曲が揃った時点で上島代替作戦に復帰し、その後は和泉の方で制作を進めてもらった。それで実は和泉がこちらとアクアの兼任になったので、7月発売のアクアのCDの制作は、丸山アイが中心になって進めてくれたのである。そこから千里とアイが、KARION楽曲のリファインにも協力してくれることになったという流れだったようである。
『青い海の思い』(泉月/アイがリファイン)
『金色の昇竜』(泉月/千里がリファイン)
『黒い激情』(泉月/千里がリファイン)
『銀色の遠い道』(泉月名義だが実はアイ)
『桃色メガネの少女』(照海名義)
『ミルク色の雨』(アイ名義)
『オレンジ色の炎』(大町ライト+大宮万葉/アイがリファイン)
『赤い橋のたもとで』(櫛紀香+黒木信司)
『黄色いガラケーの君』(広田純子+花畑恵三)
『ドドメ色の鉢かづき姫』(鮎川ゆま)
ゆまがKARIONのアルバムを作ると聞いて「私のも入れて〜」と言って、昔話シリーズの曲を書いてくれたので、千里と話し合いの上、『藤の木の伝説』 (泉月名義だが実は醍醐作)を次のシングルに先送りすることにした。
小節数を合計1024にする調整は、小風と黒木さんがスコアの上でやってくれたが、最終的にミクシングの段階でまた再調整することにする。
花畑さんはセミプロ扱いなので、上島代替作戦には参加してない。おかげで高品質の作品を書いてくれた。もっとも彼は、今年は上島代替作戦で忙しいプロ作曲家たちに代わって、ふだんの年の1.5倍くらいのペースで曲を書いているらしい。今年はセミプロ作家クラスもみんな忙しいことになっているようだ。
アクアは『ほのぼの奉行所物語』の撮影を7月上旬に終えた後、今年末に公開予定の映画『八十日間世界一周』の制作に入った。実際には6月下旬の段階でアクアは葉月・山村マネージャーと一緒に、中村監督と会い、簡単な打合せをした。
「このお話は知ってる?」
「何か気球に乗って世界一周するお話でしたっけ?」
「それは『気球に乗って五週間』と混線してるな」
「あれ?違いました!?」
「舞台は1872年、今から150年くらい前のイギリス。主人公は大金持ちの紳士、フィリアス・フォッグ。ロンドンの社交クラブで友人たちと話していた時に、『世界は狭くなった』という話題が出る。インドに鉄道が敷かれ、アメリカ大陸横断鉄道が敷かれ、スエズ運河が開通した。だから地球は狭くなったと言うんだよね」
「ああ、そういう時代ですか」
「それでここまで交通が発達すればたぶん3ヶ月もあれば世界一周ができるのではないかという意見が出るんだけど、フォッグは『3ヶ月も要らない。もう少し短い80日で充分だ』と言う。それで賭けるか?みたいな話になり、フォッグは自分の発言を証明するため自分の財産の半分にあたる2万ポンド、これはだいたい5億円くらいかな、それを賭けることになる。残りの2万ポンドを世界一周の旅費に使うから、もし賭けに失敗すれば全財産を失うことになる」
「わぁ・・・」
「それで彼は今日は10月2日だから、80日後の12月21日午後8:45までに戻って来ることをクラブの仲間たちに約束し、雇ったばかりの召使いのパスパルトゥと2人で世界一周旅行に出かけるのだよ。イギリスから船でフランスに渡り、イタリアから地中海航路でエジプトへ。スエズ運河を通って更に航路でイギリス領インド帝国のボンベイへ。そこからインド鉄道でカルカッタへ。航路で香港、横浜と寄って、太平洋航路でアメリカのサンフランシスコへ。鉄道でアメリカ大陸を横断しニューヨークへ。そこから大西洋航路でイギリスへ」
「でもやはり色々予定外のことが起きるんでしょう?」
「そうそう。それを金に任せて解決していく」
「なるほどー」
「ところがフォッグが大金を持っているのを見て、刑事のフィックスがてっきり彼のことを強盗犯だと思い込む」
「へー」
「それでフィックス刑事はフォッグの逮捕状を請求するんだけど、その逮捕状が届く前にフォッグたちは出発してしまう。それでフィックスもフォッグを追って世界一周することになる」
「費用はどうするんです〜?」
「どうするんだろうね。そして一行はインドでサティで夫に殉死させられようとしていた女性、アウダを助ける」
「サティ?」
「昔のインドでは夫が死んだら妻は夫と一緒に火葬されてしまっていたんだよ」
「そんな無茶な!」
「まあそれで助け出すんだけどね」
「だって夫婦はたいてい夫が先に死ぬのに」
「16-17世紀にインドを支配したイスラム政権のムガール帝国がこれを基本的には禁止し、どうしても殉死したいものは太守の許可を取れということにして、許可を取りに来たら必死で死なないように説得したりして、何とかほぼ無くすことに成功する。ところが18世紀の末になって突然インド東部のベンガル地方でこの風習が復活してしまう。かなり強制度が強くて、当時のベンガルの女は、お産で死ぬか、夫に殉死させられるかの二択に近かった」
「ひどーい。なんで女性たちはそんな馬鹿なことに反対しないんです?」
「そういうのが風習の恐ろしさだよ」
「うーん・・・」
「しかしヒンズー教の改革指導者たちがサティは教典的な根拠が無いと訴え、当時インドを支配していたイギリス人のインド総統も禁止令を出したりして、19世紀末にはなんとか再度無くなったんだけど、この物語の舞台になった19世紀の東部インドではまだ結構行われていたんだよね」
「不条理だなあ」
「日本だって江戸時代の初期には主君が死んだらそれに殉死するという風習が一時期広まって、幕府が殉死禁止令を出して、そういうことをやめさせようと苦労しているよね」
「勝手に個人的に死ぬのはいいですけど、事実上強制されると困ったことになりますね」
「僕はこういうのを習慣の迷路と呼んでる。今の日本で問題になっているサービス残業とかも、やはり習慣の迷路だと思うんだよ」
「そうかも知れませんね」
「まあそういう訳でインドから先はアウダも加わって4人での旅になる。最後の方はかなり厳しくて、ニューヨークでイギリス行きの船にあと30分という所で遅れてしまう」
「あらあ」
「でもフォッグはフランス行きの貨物船に乗り込んで、その途中で船を乗っ取って無理矢理リバプールに行かせてしまう」
「いいんですか〜?」
「このあたりはもう無茶苦茶だよね。ほぼ海賊だよ。そして80日目、何とかフォッグはリバプールに到着する。後は列車でロンドンに向かえばよいだけ」
「凄い」
「ところがここでフォッグの逮捕状は届いていたものの、国外なのでそれを執行できずにいたフィックス刑事がフォッグを逮捕してしまう」
「あらぁ」
「そして80日後の午後8:45は拘置所の中で無為に過ぎてしまう。ところがそこにフィックスがやってきて『申し訳無い。真犯人は既に逮捕されていた。間違いでした』と」
「酷い」
「それでフォッグはフィックスを殴るけど、賭けに敗れたというので失意の内に自宅に戻る」
「バッドエンドですか?」
「ところがだね。12月21日の夕方。クラブではフォッグは戻ってくるかねぇ、無理でしょとか、友人たちが会話をしていた。8:40になっても現れないので、やはり無理だったかね、と言ったりもするが、『まああと5分あるから、それまでは待とう』という声もある。そしてみんなが時計に注視する中、8:44:57になってドアが開き『諸君、私は戻ってきた』とフォッグが言う。彼はわずか3秒の差で賭けに勝ったんだよ」
「え!?どうなっているんですか?」
「これは当時の読者は半分も理解した人がいなかったと思う。ヒントはね。彼はヨーロッパからインドへ、インドから日本へ、太平洋を渡ってアメリカへ、大西洋を渡ってイギリスへ、と東向きに1週したことなんだよ」
「え〜〜〜!?」
「後は自分で考えてごらん」
と監督が言うのでアクアも葉月も腕を組み、顔を見合わせて悩んでいた。
それを見て山村マネージャーが我慢できずに含み笑いをしていた。
そういう訳でこの映画では、アクアがフォッグとアウダの2役を演じ、葉月がボディダブルを務める。原作ではフォッグ氏は40歳前後、アウダは多分30歳くらいかと思われるが、この映画ではフォッグは20歳、アウダが16歳という設定にする。またフォッグはイギリス紳士らしい上等のフロックコート姿(撮影ではヴィクトリア朝の紳士服を復元したものを使用する)、アウダはサリーを着る。
最初アクアと葉月がサリーを試着した時は2人とも
「これ凄く頼りないですー」
と言っていた。
当時はまだ現代のような「スーツ」が生まれる前である。スーツは20世紀初頭にフロックコートの裾を短くした形の普段着として生まれた。フロックコート姿ではズボンは上着と別布を使い、スーツは同じ布を使うが、当時の感覚では上着とズボンは別の布を使うのが正式であり、同じ布で上着もズボンも作ってしまうのは、きわめてラフな印象を与えた。
八十日間世界一周の本などではアウダがずっと額にビンディを入れている挿し絵があったりするが、実際には寡婦はビンディを描いてはいけないことになっている。ビンディはあくまで既婚で夫が生存していることを表すマーク。要するにビンディが無い女性は結婚可能であることになる。この映画ではアウダはサティの場面ではビンディを入れているものの、救われた後はそれを消したという設定にする。
パスパルトゥはコミカルな役どころであることからお笑いコンビ先割れフォークのスキ也が起用され、フィックス刑事役はアクアの映画ではおなじみになった感じの大林亮平が務める。
つまりクライマックスではアクアが亮平を殴るシーンが出てくることになるが、今年1-3月のドラマ『少年探偵団』では二十面相役の亮平は何度も小林少年役のアクアに投げ飛ばされたり、殴られたり蹴られたりしている!
7月の前半はこの4人だけでスタジオ内のセットを使用して試し撮りを兼ねた撮影をおこなった。
2018年7月22日(日)。
この日某スポーツ新聞が《桜野みちる・森原准太・熱愛発覚》というスクープを報じた。2人が今年初め頃から恋愛関係にあり、何度もみちるが森原准太のマンションに入って行く姿が目撃されているというのである。
桜野みちるは1994年4月生の24歳、森原准太は1989年9月生の28歳である。
みちると森原の各々の所属事務所はどちらもその日激震が走ったようであるが、結局夕方になって、明日・月曜日に両者共同で記者会見を開くということをFAXで報道各社に送った。
別々の記者会見ではなく、共同で記者会見するということは、交際は事実なのだろうと多くの人が考え、みちるファン・森原ファンの双方から悲鳴があがった。ただし多くのファンは祝福メッセージをネットに書き込んでいた。
記者会見は月曜日の12時から都内のホテルで開かれ、桜野みちる、森原准太、桜野の事務所§§プロダクションの紅川社長、森原の事務所※※エージェンシーの池原社長、双方のレコード会社担当の6人が並んだ。
記者が200人近く詰めかけている。
記者の代表が質問をしてそれに答えていく形を取る。
「最初に質問します。交際は事実でしょうか?」
これには森原君が答えた。
「事実です。僕と桜野みちるさんは、真剣な交際をしています」
この森原君の発言が大量にツイッターに書き込まれ、一時期タイムラインがこれで埋まる状態になる。
「ではご結婚なさるのでしょうか?」
「来年の春くらいに結婚式をあげることを考えています」
「お仕事はどうなさるのでしょうか?」
この質問に対して
「僕は今の仕事を続けます」
と森原が答えたので、会見場に失笑が漏れる。
「えっと、桜野さんは?」
「ファンの方には申し訳無いのですが、私は今年いっぱいで引退することにしました」
とみちるが答える。
ここでまた桜野みちるの発言が大量にツイッターに書き込まれる。
「引退前にライブなどはなさいますか?」
「11月から12月に全国30箇所程度でホールツアーをしたいと思います。ラストは12月31日に関東ドームでライブをして、それで引退とさせて頂きたいと思います」
「12月31日にラストライブということですが、もし12月31日の紅白歌合戦に呼ばれた場合はどうなさいますか?」
「申し訳ありませんが、仮定の質問にはお答えできません」
「妊娠していますか?」
という質問にはまず森原君が答える。
「僕は妊娠していません」
記者席がどっと沸く。隣に居るみちるも吹き出した。
「えっと桜野さんは?」
「私も妊娠はしていません」
と、みちるは笑いながら答えた。
2人があっさり交際、そして結婚予定であることを認めてしまったので、その後の会見は概してなごやかな雰囲気で進んだ。
2人はまだ婚約指輪も交わしておらず、これから用意して結納なども交わすということであった。また桜野みちるは現在出演中のテレビ番組も12月までに全て降板する方向で現在各放送局と交渉中であると紅川社長は述べた。
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【夏の日の想い出・つながり】(5)