【夏の日の想い出・つながり】(3)

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5月下旬。私と「その内婚約することを約束している」木原正望がマンションにやってきた。
 
「フーコ、大変そうだね」
「たいへんだよぉ、もう毎日必死で曲を書いているから、頭がふわふわしている感じ」
 
「全然休めないの?」
「とても休む暇が無い。外出するのも夕食の買物に出る間くらいだよ」
「夕食の買物こそ誰かに頼めばいいのに」
「それが貴重な気分転換の時間だから」
「なるほどー。大変なら僕が何か買ってきてあげようかと思ったけど、要らないかな?」
と正望が言うと、政子が
「ケンタッキーがいい」
と言った。
 

それで正望がチキン8個入りセットを2つ買ってきた。
 
「美味しい美味しい」
と言って政子はご機嫌である。
 
「正望さんはお仕事忙しいの?」
と政子が訊く。
 
「実は***の集団訴訟に参加することになった」
「あれをやるんだ?」
「きちんと証拠固めしていけば勝てると思うんだけど、証言してくれる人を集めるのが大変そうで」
「元従業員とかは口が硬いだろうね」
「守秘義務と真実の解明のどちらを優先すべきかという問題があるしね」
「だったら、かなり忙しくなる?」
「忙しくなる。特に僕なんかは下っ端の使い走りで全国飛び回らないといけない」
「大変そう」
 
「それでフーコ、しばらく会えなくなるかも知れない」
と正望が言うと
「そもそも2人は全然デートしてない」
と政子が指摘する。
 
「それはそうなんだけどねー」
と私。
 
「それでさ、フーコ、婚約しちゃわない?」
「ん?」
 
「ふたりって婚約してたんじゃないんだっけ?」
と政子。
 
「指輪はフーコの指に合わせて買ってるけど、受け取ってくれないんだよ」
と言って、正望は青い宝石ケースを出す。
 
「それいつ買ったの?」
「2011年11月15日」
と私は答えた。
「よく覚えてるね!」
と正望が驚いている。
 
政子は少し左上の方を見るようにしたが、
 
「その日って大安だ!」
と言った。ここでパソコンとかスマホなどを使わなくても六曜が分かってしまうところが“人間コンピュータ”の政子である。
 
「あぁ。そんなこと宝石店で言われた気がする」
と正望。
 
「でも入るの?7年も前なんでしょ?」
と政子は言っている。
 
私は少し考えてから言った。
「じゃ入ったら受け取る」
「うん」
 
正望が指輪ケースを開けてダイヤの指輪を私に渡す。私は左手薬指に填めてみる。
 
「入ったね」
「少し緩い気がする」
「最近忙しいからきっと体重とかも落ちてるんだよ」
「そうかな。きついからたくさん食べてるのに」
「そんなに食べているとは思わないけど」
「まあ、マーサに比べたら、美空とか以外はみんな少食かもね」
 
ともかくもそういう訳で私は正望と婚約することにしたのである。
 
「じゃ、結納もしようよ」
「いいけど、結婚は少し待って。とても今結婚なんかできない」
「うん。僕も今すぐ結婚は無理。今年はいつ東京に戻ってこられるかも分からない」
 

それで私と正望は双方の母をマンションに呼んだ。ふたりは私と正望が婚約したと聞いてびっくりしていた。
 
「あんたたち、もう自然消滅かと心配してた」
「その内婚約すると約束してたから」
 
「それで式はいつあげるの?」
「少なくとも今年は無理」
と私。
「たぶん2−3年は無理」
と正望。
 
「なんで〜?」
と双方の母が言うが
 
「だって無茶苦茶忙しいんだもん」
と私も正望も言った。
 
「それでさ。提案」
と政子が言った。
 
「結納の品を揃えたりするのは双方のお母さんに任せて、取り敢えず今日はふたりで、どこかホテルにでも泊まったら?」
 
「えーっと・・・」
 
「正望さん、今日は休めるの?」
「明日の朝から札幌に行ってこないといけないけど、今日は休める」
「だったら私がホテル取ってあげるよ」
 
そう言って政子は椿山荘(ちんざんそう)に電話すると、庭付きスイートが空いていたので、それを予約してしまった。1泊30万円である。値段を聞いて正望が「ひゃー!」と驚いている。
 
「代金は私が出してあげるね」
と言って、金庫を開けて現金を出してくると30万円数えて私に渡し、管理簿に記入した(現金は私と政子の共同管理のものとして用意している。管理簿に出し入れを書いて、定期的に精算する)。
 
「まあ、たまには休むのもいいかな。じゃ、チェックインタイムになったら行ってこよう」
と私は苦笑しながら言った。
 
「正望さんは次いつ休めるの?」
「分かりません。たぶん月に1度くらいは休めると思うのですが」
 
「じゃとにかく結納品セットを用意しよう」
と正望の母。
「それで正望さんの休める日が決まったら、その日に結納ということで」
と私の母も言った。
 

それで私は久しぶりに正望とデートすることになったのである。
 
「フーコ、前回いつデートしたか覚えてる?」
「ごめん。全然覚えてない」
「一昨年の12月13日」
 
「それ、正望さんが司法修習生の修了試験に合格した時では」
と政子。
 
「そういえばそれ以来会ってなかったかも」
「去年は何度か電話したけど、忙しいから無理と言われた」
「まあ去年はとても余裕が無かったね」
「今年は去年以上に余裕が無い気がする」
 
「次デートするのは結婚式の日だったりして」
と政子は言ったが、本当にそうなるかも知れない、と私は思った。
 

なお、私の婚約については、正望とのデートが終わった翌日、まずは兼岩会長、そのあと丸花社長、紅川会長、と私が直接訪問して承認を得て、そのあと畠山社長、松前社長、町添専務、浦中副社長、津田姉弟、秋風コスモス社長、前橋社長、観世社長、に各々電話して伝え、そのあと必要な人にメールで伝えた。
 
それで最初に兼岩会長と話した段階で、結婚するのがおそらく数年後という状況なので、マスコミなどには発表せず、聞かれたら答えてもいいことにすることにした。
 

これはずっと後に本人から聞いた話である。
 
私と正望が一緒にタクシーで椿山荘に行き、私の母と正望の母が一緒に結納品セットを買いに行った後、政子はマンションでおやつを食べながら男の娘陵辱ビデオ!?を見ながら「やはり男の娘は無理矢理責めるのがいいよね〜」などと言って楽しんでいたが、唐突に
 
「冬の馬鹿!」
と叫ぶと、ビデオを停めて「マニュアルに従って」ちゃんとDVDを片付けた後で自らリーフを運転して、港区内の亮平のマンションに行った。
 
(姉が来ている時に突然凄いビデオが再生されて「私だからよかったものの」と注意されて以来、きちんと「マニュアル」を守っている。政子のようなタイプはいったん覚えた手順はきちんと守る)
 
近所の駐車場に駐め、持っている鍵で勝手にエントランスを開けて、部屋に行く。そして勝手に玄関を開けて中に入る。
 
「亮平いる〜?」
と言ったら、目の前にびっくりした顔をしている女性がいる。
 
「原野妃登美ちゃん!?」
「マリちゃん!?」
 
「あっ、えーと・・・」
と亮平が困ったような顔をしている。
 
「亮平、妃登美ちゃんと付き合ってるの?」
「亮平君、マリちゃんとは切れたんじゃなかったの?」
 

「私は亮平とは別れたよ。だからただの友だちだから気にしないで。デート中だったら御免ね。私は帰るから」
と政子は言う。
 
「私はまだ亮平君とは付き合ってないよ。口説かれて、まあいいかなと思って部屋まで付いてきたけど、まだ1度もしてないよ」
と妃登美は言う。
 
「でもマリちゃん、別れたけど、鍵は持っているんだ?」
「友だちだし」
「友だちだと鍵を持つんだ!」
 
亮平は更に困ったような顔をしている。妃登美と政子は微妙な笑顔で相手を見つめた。
 
「マリちゃん。物は相談」
「何?妃登美ちゃん」
 
「今夜亮平君と一緒に過ごす権利を賭けて、勝負しない?」
「ああ、それもいいね。何の勝負をする?」
「オセロとかは?」
「いいよ」
 
「念のため言っておくけど、私、オセロは強いよ」
「私もわりと強いよ」
 

それでふたりはオセロ盤を出してきて、ゲームを始めた。じゃんけんで妃登美が勝ち、妃登美は後攻を選んで白を持つ。政子は黒を持ち、4つの石を中央に並べた後、政子から打ち始めた。
 
(オセロ(リバーシ)で先攻と後攻のどちらが有利かは未解析である。4×4盤・6×6盤では後攻有利というコンピュータの計算結果が出ている。実際8×8盤のふつうのオセロでも後攻を好む人は多いが、ハイレベルの人同士の勝負では先攻と後攻に有意な勝率差は出ていないし先攻を好む人もいる。但し低レベルの人同士だと後攻が有利である)
 
対局はゆっくりとした速度で進んだ。
 
どちらもしばしば長考する。
 
「マリちゃん、強いね」
「妃登美ちゃんも強いね」
 
勝負はかなり複雑になっており、観戦しながら2人に甘いコーヒーを入れてあげていた亮平も腕を組んで考え込んでいた。
 
1時間も掛けた勝負が決着する。
 
「負けたぁ!」
と政子は両手を頭の後ろにやって言った。
 
「勝ったけど、最後の最後まで勝てないかもと思ってた」
と妃登美も額に手をやりながら言った。
 
「なんか凄い勝負だった」
と亮平も言った。
 
「負けたから仕方ないや。今夜の亮平のおちんちんは妃登美ちゃんに譲ってあげるよ」
 
「じゃ、亮平君のおちんちんもらった」
 
「ちんちんを賭けた勝負だったの〜?」
と亮平が声をあげる。
 
「明日の朝、そのままおちんちんだけ切り取って持ち帰ろうかな」
「それは困る」
 
「代わりにゴムホースでもくっつけておけばいいよ」
「ゴムホースなの〜?」
「実際役割の大半はそれだし」
「いやそれ以外にも大事な役割がある」
 

「結婚するの?」
と政子は妃登美に訊いた。
 
「私、レコード会社首になっちゃったんだよねぇ」
と妃登美が嘆くように言う。
 
「嘘!?」
 
「私、上島雷太先生から曲をもらっていたけどさ、先生がああなっちゃったでしょう?それで上島先生が書いていた曲をたくさんの作曲家さんで代替することになったらしいけど、私は年齢も高いし、それほど売れている訳でもないから、代替曲まで確保できないから、もうあんたは引退しなさいと言われて」
 
「あらぁ・・・」
 
「だから、私、田舎に帰ってお見合いでもしようかと思ってる」
「そうなんだ!?」
 
「だから今夜亮平君と寝られたら、それを想い出に田舎に帰るよ」
と妃登美。
 
妃登美は政子より4つ年上である。確かに30歳を越えた歌手にレコード会社もプロダクションもあまり積極的にはなってくれないだろう。
 
「亮平、だったら妃登美ちゃんを奥さんにしてあげなよ」
と政子は言った。
 
「ちょっと待って。まだ最初のデートだから、あと何回かデートしてから」
と亮平は焦っている。
 
「ううん。亮平君の奥さんとかになっちゃったら、私、華やかな芸能界のこと忘れられなくて、また歌手として復帰できないかなあとか考えたりして、結局不幸な人生を歩んでしまう気がする。14年間歌手としてやってきてゴールドディスクも1度も取れなかったし、きっぱり諦めて普通の主婦になろうと思う。だから、私、亮平君と結婚までするつもりはないよ」
と妃登美は言う。
 
「何ならケイに言って妃登美ちゃんに売れそうな曲を書いてもらおうか?」
「ううん。私も引退の潮時だと思うし。赤ちゃん産むこと考えてもそろそろ産んでおかないとやばいしね」
 
「赤ちゃんかぁ。私も産んじゃおうかな」
「マリちゃんは契約でまだ産めないということは?」
「26歳までは産まないという口約束だったんだよ。だから今から仕込めば違反にならない」
 
「亮平君の子供産むの?」
「どうしようかなあ。まあ私は亮平と結婚するつもりはないんだけどね」
「ふーん・・・・」
「そうだ。妃登美ちゃんが亮平の子供産むとかは?結婚しなくてもきっと毎月400万くらい養育費で送金してくれるよ」
「待って。さすがに400万は無理」
 

結局3人はそのまま3時間くらい、お酒も飲みつつ、出前のお寿司、宅配のピザ、更には政子が勝手に冷蔵庫を開けてお肉をホットプレートで焼いて食べながら、色々とおしゃべりをした。
 
「ああ。でも歌手辞めて田舎に帰ることにいろいろ複雑な気持ちあったんだけど、マリちゃんと話しててスッキリしちゃった」
と妃登美は言う。
 
「ねぇ、マリちゃん、いっそのこと今夜は3Pする?」
と妃登美。
「え〜!?」
と亮平。
「ううん。オセロの勝負で亮平のおちんちんは妃登美ちゃんががもらったんだし、そのおちんちんをたっぷり愛してあげて」
と政子は言う。
 
妃登美は遠回しにさっさと帰れよと言っているのだが、政子には全く通じていない。しかし政子は
 
「そうだ。これ妃登美ちゃんにあげるよ」
と言って、バッグから鍵を取り出して妃登美に渡した。
 
「田舎に帰るのにも引っ越すのに時間掛かるだろうし、それまでは亮平に優しくしてもらうといいよ」
 
「じゃちょっとだけ恋人のまねごとしてみようかな」
「うん」
 
亮平は頭を掻いていた。
 

政子は12時すぎになってから
 
「じゃ今夜はたくさん楽しんでね〜」
とふたりに言ってから、タクシーを呼びマンションの部屋を出て下に降りた。
 
そして恵比寿のマンションに戻ると、裸になってベッドに潜り込み、
「冬の馬鹿!!!」
とまた叫んでから、アクアの写真集を見ながら眠りに就いた。
 

翌日、政子は朝早く起きると、冷凍されているビーフシチューを解凍して食べながら、しばらく考えていた。
 
亮平が妃登美と寝ているところを想像すると、かなり不愉快な気分になる。「もう。亮平の精子は使ってやらないんだから」などと声に出す。それからまたしばらく考えていて「やはり男の娘も遺伝するよね」などとつぶやくと、やがて決意したような顔になる。
 
そしてマンションを出るとタクシーで都内の○○産婦人科を訪れた。
 
「ああ、人工授精で妊娠なさりたいんですね」
「はい。夫は事情があって去勢してしまったので、冷凍精液を使わないと子供が作れないんですが、その精液がこちらの病院で冷凍保存されているはずで」
「確認します」
 
と言って医師は政子の書いた唐本冬彦という名前の精液のデータを検索してくれた。途中で「あれ?」と声をあげる。
 
「唐本冬彦・中田冬彦、2つの名前で登録されていますけど、これ同じ人ですよね?」
と医師は言った。
 
「はい。もしかしたらこの病院に移管される時に混乱したのかも。精液を冷凍した当時はまだ婚約中だったので」
「ええ、この精子は別の病院から転送されてきてますからね」
「5年くらい前に保管してもらっていた病院が閉鎖されたので、こちらに転送してもらったはずです」
「はい。2013年4月に転送されてきています。今日は冬彦さん御本人はいらっしゃらなかったんですか?」
「今物凄く忙しいんですよ。全然時間が取れないみたいで。一応同意書を書いてもらってきました」
 
と言って政子は唐本冬彦名義の人工授精同意書(偽造)を提示する。
 
「分かりました。それであなたは前回の生理はいつありましたか?」
「1ヶ月ほど前です。ですからそろそろ生理が来るはずです」
 
「でしたら生理が来た2週間後に人工授精を実施しましょうか」
「お願いします」
 
それで人工授精は6月2日(土)頃に実施することにした。
 

正望は私と豪華なホテルでの一夜を過ごした後、早朝羽田から札幌に飛び立っていった。その後、北海道で一週間、続いて仙台で一週間過ごすことになったものの、6月3日(日)は休めそうということだった。
 
それでこの日が偶然にも大安であることから、その日に結納を行うことにし、ホテルの予約をした。
 
5月23日(水)に、千里2がふらりとやってきた。
 
「これ、おみやげ〜」
と言って、何かサラミのようなものの入った袋を出す。
 
「Alligatorって、鰐(わに)?」
「そうそう。アリゲーター・ジャーキー。フロリダには結構アリゲーターがいる」
「ああ」
「その辺を歩いていることもあるから気をつけないといけない」
「マジ!?」
「人間と遭遇すると、アリゲーターが食われるか、人間が食われるか勝負」
「壮絶だね!」
 
「政子が喜ぶかもと思って買ってきた」
「今出かけているんだよ」
「だから来たのさ」
「なるほどー!」
 
政子は千里が結婚して夫と一緒に名古屋に行っていると認識している。もっとも千里1も作曲関係の打合せで週に1度くらい東京に出てきているのだが、桃香のアパートには寄ってないようである。
 

「でも今、アメリカにいるんだっけ?」
「今両方を往復中」
「往復!?」
「フランスのLFBは今プレイオフをしているんだよ。もっとも私たちのチームは5月8日の準決勝で負けてしまった」
 
「残念だったね」
 
「でも決勝戦が最長で5月28日まであって、表彰式とかはその後だから、それまではフランスに居ないといけない」
「なるほど」
 
「でもアメリカのWBCBLは5月5日から試合が始まった」
「大変だ!」
 
「それで今月はアメリカとフランスを頻繁に往復している」
「お疲れ様〜」
 
「まあ、冬ほど大変ではない」
「大変だよぉ。200曲書きますなんて、言わなきゃ良かった」
 
「冬も断るのが下手だからなあ」
 

千里は特に用事があった訳ではなく、向こうも色々大変なので気晴らしに立ち寄っただけのような雰囲気であった。
 
「千里の分身さんたちはどうなってるの?」
 
「千里1は名古屋で主婦やってるよ。名古屋の知人に連絡したんで、そちらから連絡が行って、適度なチームで練習させている。今は基礎体力を回復させないといけない」
 
「かなり体力も落ちてるでしょ?」
「まあ1度死んだんだから仕方ないけどね」
 
「3番さんは?」
「9月のワールドカップに向けて合宿に次ぐ合宿。ほとんど遊ぶ暇もないみたい」
「そちらも大変そうだ」
 
「でも1番は、埋め曲が異様に書ける状態になっている。週に2曲くらいのペースで書いている。3番は曲を書くのが気分転換になっている。今年度は3番が書いた曲は、全部ケイの作品として出すことにしたから」
 
「まあいいよ」
と私は苦笑して言った。
 
「したから」というのは、きっと雨宮先生と相談して決めたのだろう。彼女が一部私の担当分を肩代わりしてくれれば、こちらもかなり助かる。
 

「それでさ、雨宮先生と話したんだけど、私たちが何とか冬の代替をするからさ、冬はしばらく、KARIONの方に専念しなよ」
 
そうか。これが今日の本題だったのかと私は考えた。きっとそれも雨宮先生と話して決めたのだろう。でもそれはありがたいと思った。
 
「・・・・そうしようかな」
「6月いっぱいくらい、上島さんの代替の方は考えずに、KARIONの楽曲を書いたら?その間、こちらは冬の名前で楽曲を下川工房に送ってどんどん編曲してもらうから」
 
「なんか、工業製品みたいだ」
「上島ブランドは楽曲の量産品だよ、間違い無く」
「そうかも知れないね」
 

それで、私はしばし「上島代替」プロジェクトから離れることにして、KARIONの楽曲を書くためにリフレッシュすることにした。
 
政子が戻ってきてから言ったら
「じゃ一緒に旅行にでも行こうよ」
と言うので、どこにするか検討することにする。
 
「去年の秋、長崎県に行ったし、年末年始は福岡だったし。3月に岩手に行って。今度は日本海側か北海道行く?」
「まだ寒いけどいい?」
「寒いんだっけ?」
「6月上旬までは雪が降る」
「あまり寒いのもなあ・・・・」
 
などと言っていた時に、桃香が早月ちゃん(ちょうど1歳)を連れて来訪した。
 
「おお、可愛い」
「しゃべる?」
「ママとかマンマとかは言う」
「まあママを呼ぶのはマンマが欲しいからだな」
「ママも食べるものとしてはマンマの一種」
 
「でも赤ちゃんのお世話で忙しいでしょ?」
 
「起きてる時は忙しいけど、寝てる時は暇だ。千里がいないのがこんなに寂しいとは思わなかった」
 
「でも千里って、そもそも物凄く忙しいから、めったに家に居なかったでしょ?」
「それはそうなんだけど、千里は居なくても空気が残っていたんだよ。今はその空気も無いから、孤独感があって」
 
「実家に帰る?」
「それはいやだ。田舎に帰るとそもそもシングルマザーというだけであれこれ言われそうだし。変な男やもめとか押しつけられそうだし」
 
「ありがちありがち」
 
「少し気分転換に旅行にでも行きたいけど、お金も無いし」
などと桃香は言っている。
 
私と政子は思わず顔を見合わせた。
 

「私と政子も、どこか旅行にでも行って一度リフレッシュしようかと思っていたんだけどさ、旅行に行くのに、どこかいい所ないかな?」
 
と私は桃香に訊いた。
 
「そちらも旅行かあ。そうだなあ。リフレッシュするなら、温泉地とか、離島とかいいんじゃない?時間がゆっくり流れているよ。自分が行けないから言うわけじゃないけど、海外に行くと結果的に疲れるよ。習慣の違いとかもあって」
 
「うん。私たちもそう思う。でも温泉かぁ、それも良さそう」
 
「温泉なら、四国の道後温泉とか、兵庫の有馬温泉とか、群馬の草津温泉とか」
「草津は近すぎるかな」
「遠い所なら、北海道の登別温泉、和歌山の白浜温泉、九州の別府温泉」
「それ、ドリフターズの『いい湯だな』だ」
「そうそう」
 
「ドリフターズでは仲本工事の女装がいちばん可愛かったね」
と政子。
「なぜそういう話になる?」
 
「でも別府もいいかもね。しばらく行ってないし」
「以前関鯖食べに行ったね」
「まあコンサートのついでにね」
 
「桃香たちも来ない?実は私が旅先で作曲とかしている時に政子が突然居なくなって困ったりしないように、監視係が必要なんだよ」
 
「政子なら、別府にいたはずが、いつの間にか礼文島行きの飛行機に乗っていたりしかねないな」
と桃香。
 
「えへへ」
 
「まあ礼文島は今空港閉鎖されてるけどね」
「そうなんだっけ!?」
「でもそれでお目付役が欲しいんだよ。ついでに私たちの様子をカメラやビデオで撮影してくれると、後でそれをPVとかに使うかも知れない。桃香はカメラの扱いうまかったよね?」
「うん。わりと自信ある」
 

そういう訳で、私と政子は別府に行ってくることにしたのである。桃香に政子の監視係兼撮影係をお願いして、旅費はサマーガールズ出版から出すことにする。私たちが不在になっている間、マンションには詩津紅・妃美貴の姉妹に入ってもらって、何かあったら連絡してもらうことにする。
 
私たちは新幹線で小倉まで行き、ソニックで別府に入り、鉄輪(かんなわ)温泉に入った。新幹線やソニックに乗っている最中もしばしば桃香がビデオで撮影してくれた。
 
温泉街の小さな旅館に行き、宿泊手続きをする。別府には立派なホテルなどもあるが、心を休めるのであれば、むしろ小さな旅館がいいだろうと考えたのである。
 
旅館に入ったら
「観光ですか?地獄巡りなどなさいました?」
と訊かれる。
 
「そういえば、高校の修学旅行で行ったかな」
と私は言ったのだが
「あの時私旅館で寝てて行ってない。行ってみよう」
と政子が言ったので、4人で行ってみることにした。
 
早月は桃香がだっこ紐で抱いたままである。
 

「でも政子ちゃん、諫早だったか大村だったかの出身でしょ?別府来たこと無かった?」
と桃香が訊く。
「うん諫早の出身。別府は幼稚園の時にも来たんだけど、高崎山の猿とか、マリンパレス(現うみたまご)は見たけど、地獄巡りには行ってないと思う」
 
「へー」
「城島高原で遊んで、臼杵の石仏とかも見た記憶はある」
「あの仏像の首だけのやつだっけ?」
「それは昔の状態で、もう随分昔に胴体の上に戻されたんだよ」
「そうなんだ!知らなかった」
「昔の写真が大量に出回っているからね」
「あれは復元すべきか、首が落ちたままにしておくべきかで、市を二分する大激論をしたんだよ」
「ああ、観光関係の人は、そのままの方がいいと思うかもね」
「今は『首が繋がる』というのでリストラに遭わない御守りと宣伝しているらしい」
「頑張るなあ」
「怪我が治る御守りにもいいかも」
「ああ、確かに」
 

「だけど硫黄の臭いが凄いね」
「まあ地獄だからね」
 
別府には多数の「地獄」と呼ばれる源泉の類いがあるが、特にその中の7つ、海地獄、鬼石坊主地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄、血の池地獄、龍巻地獄を巡る「地獄巡り」が別府の観光の目玉となっている。そしてこの7つの地獄の内、
 
海地獄、鬼石坊主地獄、かまど地獄、鬼山地獄、白池地獄、
 
の5つが鉄輪(かんなわ)温泉のすぐ近くにあるのである。この5つを歩いて巡る観光客も多い。
 
私たちは旅館のワゴン車でいちばん遠くにある海地獄の近くまで連れて行ってもらい、それから少しずつ戻りながら見学していった。
 
海地獄はコバルトブルーのきれいな地獄である。涼しげな色だが温度は98度という。
 
「FeSO4だな」
と桃香が言っている。そういえば遙か昔、化学の時間に習ったような気がするが、もうどういう化合物の色がどうだという対応は完璧に忘れている。
 
「入浴剤にもこういう色のがよくあるよね」
と政子は言っている。
 
実際に入浴剤も売っていたので政子が買っていた。桃香は私たちが海地獄を見ている所をずっと撮影してくれたが、この入浴剤を買う所もまた撮影していた。
 

続いて近くにある鬼石坊主地獄に行く。
 
ここは灰色の熱泥で覆われた地獄で、そこから沸騰してできた気泡が上がってくる様子が見られる。その泥の気泡を坊主頭にたとえてこの名前がある。ここも温度は99度である。いかにも熱そうな感じだ。
 
その近くに山地獄がある。ここは地獄めぐりの組合から脱退しているので別料金になるが、ついでなので寄って行く。小さな岩山があり、その麓付近から多数の湯煙があがっている。その熱を使ってミニ動物園も運営されているので、見ていったが、早月が嬉しそうだった。政子も凄く喜んでいた!
 
更に少し歩いて、かまど地獄に行く。
 
ここはこれだけでひとつの地獄巡りテーマパーク!?となっており、色々な地獄が集まって、地獄の1丁目から6丁目まで揃っている。2丁目の所にお釜の上にあった鬼の像があるので政子は喜んで
「かまどやのお弁当食べたい」
などと言っていたが、早月は恐そうにしていた。
 
(何となく政子は早月と同レベルという気がする)
 
1丁目:灰色の熱泥地獄、2丁目:岩の間から噴出、3丁目:コバルトブルーの池、4丁目:温泉になっている、5丁目:時期によって色が変わる(原因不明)、6丁目:赤い熱泥地獄
 

鬼山地獄に行く。
 
ここは別名ワニ地獄といい、温泉の熱を利用して多数のワニを飼っている。政子はここのワニを見て「フック船長のPVをここで撮りたかったね」などと言っていた。早月はワニを見て恐そうにしていた。
 
この近くに金龍地獄というのがあるのだが、ここは現在閉鎖されており、再開の見込みは立っていないらしい。この付近の地獄の中で最も湧出量の多い地獄で、近隣の11の旅館に温泉を供給しているらしい。
 
閉鎖されているのは仕方ないので先に行く。
 
白池地獄を見る。
 
ここは青白い池である。書かれている説明によると、元々は透明なお湯が、池の中に落ちる時に冷やされて白い色になるのだという。
 
ここはこの温泉の熱を利用して熱帯魚などが飼われている。世界最大の淡水魚といわれるピラルクなどもいる。
 
政子はそれを見て
「美味しそう」
と言っていた!
 

熱帯魚などを見ながら
「この後、どうする? 竜巻地獄・血の池の方にも行く?それとも旅館に帰る?」
 
と私が言うと
 
「血の池地獄はどうでもいいけど、竜巻地獄は見ておきたい気がする」
と政子が言うので、道路に出てタクシーを拾おうかなどと言っていた。
 
そこでバッタリと知った顔に遭遇する。
 
「アイちゃん!?いや違った。竜君か!」
「おはようございます、ケイさん、マリさん、桃香さん」
と高倉竜(丸山アイ)は挨拶した。
 
竜は男装していて、同年代の女性、そして6-7歳くらいの女の子を連れている。その女性も挨拶する。
 
「おはようございます、ケイさん、マリさん」
「おはようございます、城崎綾香さん」
と私とマリは挨拶した。
 

「歌手さん?でも私のこと知ってる?」
と桃香が言う。竜(アイ)は確かに「桃香さん」と言った。
 
「ずっと昔、デートしましたよね?」
 
と竜は桃香に言う。彼は今男装しているので声も男声を使っている。この子はたぶん基本は女の子だと思うのだが、男装している時はふつうに男の子にしか見えないからまた凄い。
 
桃香はしばらく考えていたが
「あ! あの時の。えっと、早紀ちゃんだったっけ?」
「はい」
「男の子に性転換しちゃった?」
 
「ボクの性別のことは知ってる癖に」
と竜が言うと、城崎綾香が嫉妬するような目をしている。
 
「そっか。早紀ちゃんはどちらも行けるんだ」
と桃香が言った。
 
「うん。だから今は男の子だけど、女の子にもなれるよ」
などと竜は言っている。
 
私は桃香と高倉竜のやりとりから、どうも竜(アイ?)は過去に桃香と性的な関係を持ったことがあるようだと感じた。
 

「でもあれ、夢じゃなかったのか・・・」
などと桃香は言っている。
 
「あの時の子供が、この子だよ」
と言って、竜は連れている女の子の方に手を向ける。
 
「え!?」
と桃香。
 
「あの時ので私妊娠しちゃって、この子が生まれたんだよ。だから桃香さんはこの子の父親だよ」
 
「嘘!?」
 
「じゃ、この人と関係があったのは、ずっと昔?」
と城崎綾香が言う。
 
「もちろん。だから別れてから久しいよ」
「だったらいいや」
 
「その子、アイちゃんの子供なの?」
と政子が訊く。
 
「うん。父親は桃香さんで、私が産んだ」
と竜(アイ)。
 
「やはり、桃香って精子持ってるんだ?」
と政子は言いながら、何だか嬉しそうな顔をしている。
 
「たぶん桃香さんはあちこちの女の子に子供を産ませてる」
「やはりそうか」
「ちょっと待ってー」
 
「アイちゃん、いつの間に子供産んでたの?」
と私は訊いた。
 
「まだ高校生だったから、こっそり産んだんだよね〜。実は性転換手術を受けると称して、しばらく学校休んで、その間に産んじゃった」
と竜(アイ)は言っている。
 
「アイちゃんの“性転換手術”の真相はそれか!?」
「私が性転換手術を受けると言ったら、みんな信用したよ」
「信用するだろうね〜」
「でも学校に出て行ったら、男から女になったのか?女から男になったのか?と訊かれた」
「それどっちの服装で出て行ったの?」
「初日は女子ブレザーにスカートだったけど、翌日は男子ブレザーにズボン穿いた」
「アイちゃんの実態が少し見えた」
 

「だったら、この子、早月ちゃんと姉妹になるのかな?」
と政子が訊く。
 
「そうそう」
「君、名前は?」
と政子が訊くと、女の子は
 
「こうたろう」
と答えた。
 
「こうたろう?何だか男の子みたいな名前だね」
「ボク男の子だよ」
 
「嘘!?」
「だったらなんでスカート穿いてるの?」
 
「この子スカートが似合うから穿かせてる」
と竜(アイ)は言っている。
 
「いいんだっけ?」
と私は言ったが
「この子、女の子みたいに可愛いから問題無いと思う」
と政子は言った。
 
「ちなみに私は産んだのが高校生の時だったから、出生届はうちのお姉ちゃんが産んだことにして提出したんだよ。だから、戸籍上は私の姪なんだよね」
 
「男の子なら甥では?」
「ああ、間違い間違い。ちなみに漢字は光の太郎ね」
 
わざと間違ったなと私は思った。
 

「でも、本当にこの光太郎ちゃんって、私の子供なの?」
と桃香が訊く。
 
「そうだよ。何ならDNA鑑定してもいいよ。でも認知とかは求めないし、養育費も要らないから。私、子供が産みたかったから産んだだけだし」
 
「高校生なのに!?」
「いつふらふらと、性別設定手術とかしてしまうかも知れないから、少なくとも女としての機能を持っている間に産んでおきたかったんだよね」
などと竜(アイ)は言っている。
 
「今でも女の機能は持ってるじゃん」
と城崎綾香。
 
「うん。いまだに持っているのは奇跡的だと思う」
と竜(アイ)。
 

「早紀ちゃん、その子のことについては、また後日話し合わせてもらえない?」
と桃香は困惑したような顔で言った。
 
しかし竜(アイ)は言った。
 
「あれ?私の冗談を信じた?」
 
「冗談〜〜〜〜!?」
 
「桃香さんが父親になれる訳ないじゃん」
と竜(アイ)は言っている。
 
「違うの〜〜〜!?」
「みんな信じちゃったの?」
 
「信じた!」
と城崎綾香も私も言った。
 
「いや桃香は実際にあちこちの女の子や男の娘や女の娘に赤ちゃん産ませている気がする。桃香には精子があるって、千里も言ってたもん」
と政子はまだ言っている。
 
女の娘って何だ!?
 

「でもそちらの早月ちゃん?なんか顔の作りが光太郎ちゃんに似ている気がする」
と城崎綾香は言う。
 
「うん。詳しくは説明できないけど、実際にこの2人は本当の兄妹なんだよ」
と竜(アイ)は言う。
 
「その詳しい話が聞きたい」
「じゃ10年後に」
と竜(アイ)は言った。
 
「そうだ。ボクたち車で来てるから、もしまだ見ていなかったら血の池地獄と竜巻地獄を見に行きません?」
と竜(アイ)は言った。
 
「人数乗るかな?」
「エスティマだから乗ると思う」
「そんな大きな車持ってきてるんだ!?」
「お友達が貸してくれたから」
「へー!」
 

それで駐車場の方に行くことにする。金龍地獄のそばを通った時
 
「ここが見られなかったのが残念ね」
と言うと竜(アイ)が
 
「見たいなら、オーナーさんに話そうか?」
と言う。
 
「知り合いなの?」
「うん。ちょっと待ってて」
と言うと竜(アイ)はどこかに電話していた。電話は女声で話している。その声でないと通じないのだろう。すると金龍地獄の玄関が開き
 
「どうぞ」
と中から出てきた老人が言った。
 
「あのぉ、入場料は?」
「閉鎖中ですから無料でいいですよ」
「すみません!」
と私たちは言ったが竜(アイ)が
「じゃ、これ山野さんの、たばこ代に」
と(女声で)言って老人にお札のようなものを握らせた。
 
「ありがとうございます。早紀お嬢様」
と老人は嬉しそうな顔で言った。
 

竜(アイ)は案内不要と言ったので老人はそのまま奥に下がった。
 
私たちは通路を歩いて行くが、確かに閉鎖されて何年も経っているせいか少し荒れているようである。しかし通行するには支障は無い。
 
やがて中庭に出る。温泉の試飲コーナーなどがあるが
「パイプのサビとか出てるから飲まない方がいいよ」
と竜(アイ)は言っていた。
 
「アイちゃんは何度かここ来てるの?」
と政子が訊く。
 
「前回来たのは30年くらい前かな」
「アイちゃん何歳なの!?」
と政子が言うと
「竜男の言うことの80%は嘘かデマカセだから、気にしない方がいいよ」
と城崎綾香は言っている。
 
竜(アイ)は可笑しそうに笑っていた。
 

やがてたくさんの湯煙が立っている池に来る。
 
「ここがこの地獄の本体だよ。1日に900KLも湧出している。だからここの温泉を使っている旅館がいくつもあるから、管理人さんが常駐している」
 
「それで人がいたのか」
 
「この湯煙の向こうに時々チラリと見える阿弥陀(あみだ)様を見るとご利益(りやく)があるとか」
「ほんと?」
「さあ」
 
「竜君のことばを信用しない方がいい」
 
「でも900KLって、どのくらいだっけ?」
 
「小学校のプールが25m x 12m x 1.2m で計算して・・・」
と竜(アイ)は言って政子を見る。
 
「360立方メートル」
と政子は即答する。
 
「さすが、さすが。歩くコンピューター」
と竜(アイ)。
 
「待って、今のどうやって計算したの?」
と綾香が訊く。
 
「マリさんは、計算の天才なんだよ。もっとも今のはボクでも計算できる。12x12は144だから25を掛けるというのは100倍して4分の1すればいい。だから144を2で割って72、更に2で割って36。位取りさえ間違わなければ360と出る」
と竜(アイ)。
 
「私、その手の計算方法は苦手」
と政子。
「だろうね。マリさん、7の7乗は?」
と竜(アイ)。
「82万3543」
と政子は即答する。
 
綾香はスマホの電卓で計算していたが
「あってる。凄い!」
と声をあげる。
 
「計算するんじゃなくて、浮かぶんでしょ?」
「そうそう。このあたりに浮かぶ」
と政子は左上の方を指差しながら言っている。
 
「2020年7月24日は何曜日?それと六曜は?」
「金曜日・先負」
と政子はやはり即答する。
 
「まあそれが合っているかどうかは、スマホのカレンダーで確認するといいよ」
と竜(アイ)は言っている。すると綾香は本当に確認しているようだ。
 
「合ってる!ホントに凄い」
 
「まあこれがマリさんだよ」
と竜(アイ)は言った。
 
「だから900KLというのは、小学校のプール3杯分弱だね」
「そんなに毎日湧き出しているのか!」
 

湯煙のたくさん立つ池を過ぎると、唐突にお稲荷さんがある。
 
「阿弥陀(あみだ)様もいるのに、お稲荷(いなり)さんもあるんだ?」
「まあ、日本人の感覚って、そんなものだから」
 
そこをすぎた所にこの地獄のシンボル、巨大な龍とお釜がある。巨大な龍のそばに小さな金の龍もいる。釜の所にも2体の金の龍がいる。
 
「ここで記念写真、記念写真」
 
と言って、お互いに写真を撮り合う。竜(アイ)と綾香のツーショット、光太郎も入れて3人の写真も撮ってあげた。早月を立たせて、竜(アイ)がふたりは兄妹だと言っていたからというので、その2人のツーショットも撮った。もっとも光太郎がスカートを穿いているし顔立ちも可愛いので、姉妹に見える。
 
「でもこの写真は公開しないで下さいね。ここは閉鎖されていることになっているから」
「OKOK」
「でも何かの折にPVに使えない?オーナーさんと交渉すればいいのかな?」
「じゃその時は私に言って下さい。話をつけますよ」
「よろしく」
 
そこを過ぎると、お地蔵様が6体並んでいる所に来る。
 
大定智悲地蔵尊(地獄道)
大徳清浄地蔵(餓鬼道)
大光明地蔵尊(畜生道)
清浄無垢地蔵尊(修羅道)
大清浄地蔵尊(人間道)
大堅固地蔵尊(天上道)
 
と書かれている。
 
「質問。なぜ餓鬼道の所だけ“尊”の字が無いの?」
「書き忘れたというのに1票」
「字を大きく書きすぎて入らなくなったから省略したというのに1票」
 
その先には8体の仏像が並んでいる。
 
「生まれ年の干支(えと)の菩薩様か。でも、干支は12あるのに、菩薩様は8体しかないよ?」
と綾香。
 
「だぶってるからね」
と言って竜(アイ)は暗唱する。
 
「子:千手観音菩薩、丑・寅:虚空蔵菩薩、卯:文殊菩薩、辰・巳:普賢菩薩、午:勢至菩薩、未・申:大日如来、酉:不動明王、戌・亥:阿弥陀如来」
 
「菩薩じゃないのも混じっている」
と政子。
 
「細かいことは気にしない」
と竜(アイ)。
 
「あれ?戌・亥は八幡大菩薩になってるけど」
と綾香が指摘する。
 
「本地垂迹説では、八幡神は大日如来と同体とされている。だから戌・亥の守り本尊を八幡大菩薩としている寺社もある。ここはその方式を採っているんだろうね。それにこの先に大きな阿弥陀如来像があるから、そちらとの重複を避けたのかもよ」
と竜(アイ)は言った。
 
アイちゃんって、随分仏教に詳しいみたいだなと私は思った。
 

そしてアイが言った通り、いちばん奥には巨大な阿弥陀様が立っていた。高さ5-6mくらいだろうか。両脇に風神と雷神の像もある。
 
「これは外からも見えてたね」
「まあこれだけ大きいと見えるよね」
 
「阿弥陀様の脇侍はふつう観音菩薩と勢至菩薩なんだけど、きっと何か事情があって、このようなことになったんだろうね」
と竜(アイ)。
「阿弥陀様が来日して、日本のSPが両脇に付いているのかも」
と政子。
「それは面白い見解だ」
 
「風神・雷神って日本の神様だっけ?」
と綾香。
 
「世界的に古くから認識されている神様だと思うよ。まあ神様の固有名詞ではなく、むしろ属性を表す言葉だよね。ゼウスだって雷神だし、菅原道真公も雷神」
と竜(アイ)
 
近くには弘法大師の像もあった。
 
しかしなかなか面白い地獄であった。私たちはここがいつかまた営業再開できることを祈って、金龍地獄を後にした。
 

駐車場に行き、車に乗る。
 
「ベビーシートも積んでるから早月ちゃんをそれに乗せて」
「積んでるんだ!?」
「貸してくれた人も小さい子供がいるんだよ」
「なるほどー!」
 
それで三列目の右側にチャイルドシートがあり、そこに光太郎を座らせた上で、左側にベビーシートをセットして早月を乗せた。運転席に竜(アイ)、助手席に綾香が乗り、2列目に政子・私・桃香と乗った。
 
それで高倉竜(丸山アイ)の運転で5分ほど走り、柴石(しばせき)温泉まで行く。別府七地獄の内、残りの2つがこちらにある。
 
まず龍巻地獄に行ってみたのだが、ちょうど噴出したばかりで次の噴出まで30分くらいかかるということだった。それで先に血の池地獄に行ってみる。
 
「酸化鉄だよね」
「うん。Fe2O3。要するにサビの色」
「ああ、なるほど」
 
「昔の人はこういうのが観光客を呼べる物になるとは思いもよらなかったろうな」
「ここは風土記や万葉集にも載っていたらしい」
「そんなに古くからこれを維持しているというのは凄い」
「恐山にも昔血の池地獄があったけど枯渇しちゃったんだよね」
「へー」
「今も“血の池地獄”という看板は立ってるけど、普通の透明な池」
「ちょっとつまらないな」
 

ここをしばらく見てから、龍巻地獄に行く。
 
そろそろ来るのだろう。かなり人が集まっている。
 
「そろそろ来そう」
という声がある。
 
そして池の奥の所から小さな噴出が始まるが、それはすぐに大きな噴出へと成長した。
 
「凄い!」
と政子・綾香が声をあげる。光太郎も
「わぁ」
と言ってみとれている。
 
「あの屋根が邪魔だ」
と政子。
 
「昔は無かったんだけどね。危険だからというのであれが作られた」
「へー」
「あれが無いと20mくらいから最大50mくらいまで噴水が上がることもあるらしいよ」
「確かにそれは危険かも知れん」
 
私たちはその自然の驚異にただ見とれていた。
 
地下に1000-2000mくらいの垂直な水路があり、その下部が地熱で暖められることによって沸点に到達すると緩やかな噴出が始まる。そして噴出が始まると水路内の圧力が下がることにより、沸点が下がり、結果的に爆発的な噴出を引き起こす。しかしある程度噴出してしまうと吹き上げるべき熱水が無くなって、噴出は終わる。
 
間欠泉の原理はそのように説明されている。龍巻地獄のそばにも似たような説明の看板が立っていた。
 
ただこの「垂直管説」は、この龍巻地獄のような小規模な間欠泉には当てはまるものの、かつて熱海に存在した大湯間欠泉(明治時代に枯渇)のような大規模な間欠泉はまた別のメカニズムで起きるらしい。龍巻地獄は30分間隔で7-8分噴出するので、とっても勤勉!?で観光客向きであるが、イエローストーンにあるGiant Geyserなどは数日〜数十日おきに、1日〜数日の長時間の噴出を起こす。ただここは間隔が、とっても気まぐれで、1度も噴出しなかった年(2009)もあれば54回も噴出した年(2007)もあった。観光で見に行っても、見られる確率の低い、困った!?間欠泉である。
 
(英語では間欠泉はgeyser(ガイザー)という。これは昔アイスランドにあった間欠泉(現在はほぼ枯渇)の名前が一般名詞化したものである。もっともgeyserという単語そのものが古スカンジナビア語で「噴出する」という意味のgeusaから来ているらしい)
 

「ケイさんたちはどこに泊まってるの?」
と竜(アイ)が訊く。
 
「鉄輪温泉の**屋」
「それはまた家庭的な宿を」
「竜君たちは?」
「ボクたちはホテル**という所なんですけど」
「ああ、いいホテルだ」
 
「でも、ケイさんたちが取った宿のほうが、昔ながらの日本の温泉を堪能できるよ。いっそのこと、**荘とかにすればよかったのに」
 
「自炊する所でしょ?」
「そうそう。昔ながらの湯治スタイル」
「湯治は長期滞在するからね」
「準備で一週間、本番で一週間、仕上げで一週間だから」
「それだけ長期間滞在するなら、自炊しないと費用が大変なことになるよね」
「うん。だから昔の人は自炊しながら湯治したんだよ」
と竜(アイ)は楽しそうに言っていた。
 

「でものんびり湯治すると、色々病気や怪我が治りそうだよね」
「やはり温浴で身体の循環が正常化されていく効果が大きいと思いますよ。怪我にしても自己修復能力を高めますからね。小栗判官の話はご存知ですか?」
 
「殺されたけど、蘇ったという人だっけ?」
「そうです。和歌山県の湯ノ峰温泉には、小栗判官が使った『つぼ湯』という温泉が残っていますよ。川のそばにあって2〜3人で満員になる小さな温泉ですが」
「よく温泉に入って、生き返ったようだと言うけど、本当に生き返ることもあるんだね〜」
と政子。
 
「まあ伝説ですから。でも私も性転換手術を受けておちんちんを取ったのに小浜(おばま)温泉で体力回復のための湯治をしていたら、おちんちんがまた生えてきたんですよ」
と竜(アイ)。
 
「マジ!?」
と政子。
「せっかく痛い思いして切ったのに、生えてこられるのは困るなあ」
と私。
 
「だから竜男の言うこと信用したらダメだよ」
と綾香も笑いながら言っている。
 

「でも小浜温泉って福井だっけ?」
と綾香が訊くが
 
「小浜温泉は長崎県。福井県の小浜市とは別」
「あ、そうなんだ?」
「川棚温泉は山口県で、長崎県の川棚町とは別。草津温泉は群馬県で滋賀県草津市とは別」
「え!?草津温泉って、滋賀県じゃないの!?」
 
「わりとありがちな誤解。結構草津駅で、草津温泉に行くにはどのバスに乗ればいいですか?と訊く人がある」
 
「ああ」
 

「まあ私たちは湯治じゃなくてリフレッシュだからね」
「次のローズ+リリーのアルバム?」
「いや、今そこまではとても手が回らない。KARIONが放置になってたから、そちらのミニアルバムでも構想を練ろうと思って」
 
「ミニアルバムなら、良かったら丸山アイから1曲提供できません?」
「歓迎歓迎」
「でもどんなテーマで作るんですか?」
「それを今から考えようと思っているんだよ」
「温泉とか地獄とかでもテーマにします?」
 
「そういえば鉄輪温泉の鉄輪(かんなわ)ってどういう意味だろう?」
「色々な説がありますよ。古い文献に出てくる河直山(かなおやま)というのが訛ったという説、念仏の題目から来たという説、遊行僧が持つ錫杖(しゃくじょう)の上の部分にある鉄輪から来たという説」
 
「錫杖!ああ、あれか!」
 
「金属の輪に何個かの遊環が通してあって、地面に突く度にそれが鳴るんですよね。それで熊とかが近づいて来ないようにするためなんですよ」
 
「熊鈴と一緒か!」
「やはり山野を駆け巡る時は、恐かったと思いますよ」
 
「法力のあるお坊さんなら、熊くらい法力で倒したりして」
「まあ、たまにはそんな人もあったでしょうね」
 
と竜(アイ)が言うと、綾香がなぜか呆れたような視線で彼を見ていた。
 

その時、私は錫杖の輪の形に唐突に『世界』を感じた。
 
「1024」
「え?」
 
「10周年だから1024というのはどうだろう?と唐突に思った」
「2の10乗ですか?」
「そうそう。10という数字も入っているしKARIONの4という数字も入っている」
「面白いですね」
 
「ね、ね、アイちゃん、ふつうポップスの曲の小節数って、何小節くらいだっけ?」
 
私は考えながら言ったので、うっかり「竜君」ではなく「アイちゃん」と言ってしまったが、彼は気にすることもない。
 
「KARIONの曲ってスローな曲が多いんですよ。Andante(アンダンテ)の場合、だいたい速度は90BPMくらいだから4.5分の曲で、90 x 4.5 = 405拍。だから4で割って100小節くらいですね」
 
とアイは暗算しながら言った。90x4.5は(100-10)x4.5で 450-45と計算すると405という答えが出る。
 
「だったら10曲くらい書くと、合計小節数を1024にできるよね?」
「それ面白いですね。逆に90BPM 1024小節なら、1024 x 4 ÷ 90 =
はい、マリさん」
「45.5」
「全曲で45分半なら、充分標準的なアルバムですよ」
「だね」
「そういうアルバム出したら、きっと頑張って小節数を数えてみるファンが出ますよ」
「KARIONのファンならやりそうだ」
 
KARIONのファンには元々クラシックファンの人や、音楽の先生、合唱指導者や合唱部・合唱サークルなどのメンバーが多い。音楽理論にも強い人が多いから、そのくらい確認する人が出てきそうだ。
 
「ミニアルバムのつもりだったけど、10曲構成にしようかな」
「いいんじゃないですか? とにかくピアノ譜程度まで書けば、後はきっと和泉さんが編曲してくれますよ。歌唱や演奏は、作曲作業と並行してできるでしょ?」
 
「できると思う。気分転換にもなるし」
 
「例によって、私や醍醐春海さんが水沢歌月風の曲を1曲ずつ提供したら、ケイさんが自分で書く曲は3曲程度で抑えられますよ」
 
「あはは。でもそれお願いできるかな?」
「いいですよ。じゃ水沢歌月風の曲1曲と、丸山アイ風の曲1曲書きましょう。高倉竜風でもいいですが」
 
「ごめん。高倉竜ではKARIONのポリシーと合わないから」
「まあ演歌始めたらファンがびっくりするでしょうね」
 

それで私は旅館まで送ってもらった後、もう起きているかなと思った千里2に電話してみた。今は夏時間なので、こちらの16時はフランスの朝9時である。
 
「だったら、私も水沢歌月風の曲と、醍醐春海名義の曲を提供するよ。醍醐春海名義のは琴沢幸穂(千里3)に書かせるから」
と千里2は言ってくれた。
 
「助かる助かる」
 
「それで冬が3曲くらい書けば、私のとアイちゃんのと合わせて7曲になる。あと3曲は、櫛紀香さん、広田純子&花畑恵三さん、青葉あたりに頼むといいよ。もし余ったら私か青葉の曲をシングルに回せばいいし」
 
「うん。ひょっとして余った場合はそうさせてもらおうかな」
 
 
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【夏の日の想い出・つながり】(3)