【夏の日の想い出・つながり】(4)

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私は和泉から時々送られて来ている歌詞のストックの中から、タイトルを眺めていて
 
『青い海の思い』
『金色の昇竜』
『黒い激情』
という3つの詩を選び、それにそれから2時間ほどで曲を付けた。
 
「今日見た地獄の描写だ」
「まあね」
 
「でも冬、書くのが速い」
と政子に指摘される。
 
「なんか最近急いで書くのが癖になっているんだよ。でもこれ明日もう1度見直す」
「それがいいね。でもこれ全部色の名前が入っている」
 
「そういえばそうだね」
「そのまま色の名前がついた曲を10個集めればいい」
「それは行けるな」
 
それで私は千里2と丸山アイに政子の思いつきをメールしてみた。どちらからもOKという返事があり、まず書いてみるから、色がダブったら連絡してくれと言われた。実際には千里からは
 
『桃色メガネの少女』(照海名義)
『藤の木の伝説』(歌月名義)
 
アイからは
『銀色の遠い道』(歌月名義)
『ミルク色の雨』(アイ名義)
 
というタイトルが送られて来た。
 

私は青葉に電話した。
 
「KARION品質ですか。分かりました。今忙しいですけど、何とかします」
「悪いね。よろしく」
 
それで青葉に色の名前あるいは示唆するものが入っている曲名がいいと言ったら、最近彼女の作詞を担当しているらしい友人の大町ライト(大谷日香理)が書いた詩からKARIONに合いそうな曲ということで『オレンジ色の炎』という曲を送ってきてくれた。歌詞を見ると、世界観が1970年代の歌謡曲か古い時代のフォークという雰囲気だが、曲次第ではちゃんとポップスになると思った。歌詞自体に色々推敲したい気分になる所はあるものの、基本的には使えると思ったので、それで進めて欲しいと言った。ただ歌詞をあと少しリファインできないかというのは伝えた。それは本人に少しやらせてみると青葉は言っていた。
 

『オレンジ色の炎』
 
どうしてあなたは
私を不安にさせるようなことばをつぶやくの?
 
私の愛、まだ足りないかしら?
足りなければもっともっと燃やすわ
愛の炎を
 
でも、たくさん愛してね
貴方の愛が、愛の炎の燃料なの
 
不安を燃料にすると、暗い灰色の炎になる
嫉妬を燃料にすると、毒々しい赤紫の炎になる
愛情を燃料にすると、美しいオレンジ色の炎になる
 
たくさん愛して
たくさん愛を受けとめて
あなたとイチャイチャしていたいの
 
たくさん愛して
たくさん愛を受けとめて
あなたと楽しく過ごしたいの
 
どうしてあなたは
私を怒らせることばを言ったりするの?
 
私って、まだ未熟なのかしら?
足りなければもっともっと熟させるわ
愛の果実を
 
でも、たくさん優しくしてね
貴方の優しさが、愛の果実の栄養なの
 
心細さを栄養にすると、未熟な灰色の果実になる
怒りを栄養にすると、毒々しい赤紫の果実になる
優しさを栄養にすると、美味しそうなオレンジ色の果実になる
 
やさしく愛して
やさしく愛を受けとめて
あなたと気持ち良く過ごしたいの
 
やさしく愛して
やさしく愛を受けとめて
あなたとひとつになってしまいたいの
 
楽しいことをたくさんしましょう
愛は辛いものではいけない
愛は喜びなのよ
 

私は和泉に電話してみた。
 
「フルアルバムを作るのか!」
「小節数を合計1024にする」
「それ分かる人居ないよ〜!」
「でも10曲くらいになるからいいでしょ?」
「実際問題として今年12曲のアルバム作るのはさすがに無理だと思う。他のアーティストでもアルバム制作の予定を延期している人が相次いでいる。みんな楽曲が確保できないんだよ」
 
「取り敢えず8曲確保のメドが立っているんだよ。私の作品3つ、醍醐春海が2つ、丸山アイが2つ、大宮万葉が1つ。醍醐春海と丸山アイは、1つは自分の名義で、1つは私の名義で」
 
「醍醐春海さんや丸山アイちゃんが書いたケイ名義の曲は、ほんとにケイが書いたみたいな曲だったよ。ふたりともそういうのがうまいね」
「ふたりともゴーストライターの達人っぽい」
 
「職人なんだね〜」
 
「うん。醍醐は、自分が作っているのは工業製品だからと言っていた。たぶんレプリカ作りの名人なんだと思う。まさに職人だね」
 
「それで後2曲、櫛紀香さんとか、花畑さんとかから提供してもらえないか、訊いてみてくれない?」
「OKOK」
 
「私は今回はたぶん演奏・歌唱にしか参加できないと思う。編曲とか、伴奏者の手配とか、悪いけどそちらでやってくれないかな?制作中の指揮も」
 
「何とかする。アクアに関する作業は彼女が夏休みに入るまでならまだ軽いから」
 
「彼女?」
「ああ、彼の間違い」
 
アクアの性別も何か最近はほんとに微妙になっているなと私は思った。アクアを見ていて、この子は絶対女の子だとしか思えない時がしばしばあるのである。震災イベントでも1日目のステージは結構中性的だったのだが、2日目のアクアは明らかに女の色気を漂わせていた。あの子、ほんとに女性ホルモンをしているのではと思いたくなった。
 
インターネットでのアンケートでは、アクアが20歳までに性転換するという予想が70%くらいになっていたようである。写真こそ出回らないものの、女子制服姿のアクアを見たという書き込みはたくさんある。特にここ1年ほど増えている気がする。
 
アクアに声変わりの兆候が全く見えないことから、既に去勢済みと考えている人が大半のようでもある。
 

上島先生は3月29日に釈放後記者会見をして無期限の音楽活動自粛を表明したが、その後、自宅には戻らず、実は沖縄の木ノ下大吉先生の御自宅に行き、地元で海岸清掃や木ノ下先生の家の離れに住んでいる明智ヒバリが管理しているウタキの整備や神具造りなどの作業をしていた。ヒバリの歌唱指導もしてあげているようである。海岸清掃に出る時は顔を手ぬぐいで覆っていたので、上島先生であることには誰も気付かなかったようである。
 
上島先生の自宅は様々な損害賠償の原資にするため、売りに出して、5月の中旬に、ある不動産会社が1.5億円で買い取った。その不動産会社では家屋は解体してワンルームマンションを建てるという話である。
 
一方、奥さんの春風アルトさんは、紅川会長が保護し、実は上野陸奥子さんの家に居候していて、取り敢えず6月くらいまでは陸奥子さんの姪(甥?)である今井葉月が密かに様々な連絡役を務めていた。
 
「葉月(ようげつ)ちゃん、最近いつも女装だね」
とアルトさんが言うと
「はい、女子高に進学したので」
と葉月が言うので
「うっそー!?」
とアルトさんは驚いていたという(私もその話を聞いて仰天した)。
 
「葉月ちゃん、だったら性転換しちゃったの?」
「いいえ。ボクは別に女の子にはなりたくないです。でも性転換とかしなくても、女ではないとバレないように3年間女子高生生活をしろと父の命令なんです」
 
「何それ〜?」
「女形(おやま)修行ということで」
「意味が分からん!」
「私もよく分からないんですけど、そこ以外全ての高校に落ちてしまったので」
「ありゃあ」
 

私は紅川会長の許可ももらって、その葉月を通し、一度アルトさんに会いたいと申し入れ、若葉の自宅で会談した。5月末のことであった。若葉の家はセキュリティが厳しいので密談をするのにはとても良いのである。
 
「実はアルトさんの前では言いにくいことなんですが、たぶん当事者は切実だと思うので」
と私は切り出した。
 
「何だろう?」
「実は上島先生の愛人のことなんですが」
と言うと、案の定アルトさんの顔が険しくなる。
 
「先生はお子さんのお母さんたちに、毎月送金していましたよね?」
「・・・うん」
 
「その人たちが困っているのではないかと思って」
「あぁぁ」
 
「その人たちに、せめて日々の生活資金程度だけでも送金してあげたいんです」
「なんでケイちゃんが?」
 
「上島先生には大きな恩があるので。でもその送金先をご存知なのはたぶんアルトさんだけなのではないかと思ったんです」
 
アルトさんはしばらく腕を組んで考えていたが、やがて言った。
 
「送金先までは知らない。でも名前と連絡先だけは分かるよ」
「それでいいです。各々の人と連絡を取ってみます」
 

それで私は初めて上島先生の隠し子たちおよびその母たちの具体的な名前を知った。
 
ひとりは作曲家の福井新一さんと、その娘の貴京(たかみ)ちゃんで小学校の6年生である。福井さんのことは私も知っていたのですぐに連絡を取ったが、彼女は蓄えもあるので、具体的な金銭支援は辞退すると言った上で、私が大変そうなので自分の作品を、上島先生の謹慎が解けるまでの間、私の名前で発表してもらえないかと提案してきた。
 
私はそれを快諾した。結果的には私も楽になるし、楽曲が無くて困っている歌手たちが助かるし、その印税あるいは作曲料で福井さん母娘も助かるのである。
 
ちなみに貴京ちゃんが生まれた時、私はその場に立ち会っている。
 
福井新一さんが産気づいて、病院に行く途中で苦しくなり動けなくなった所にちょうど私や蔵田さんたちが居合わせたのである。それで私は鮎川ゆまたちと一緒に彼女を病院まで連れて行き、結果的に赤ちゃんの誕生にも立ち会った。彼女たちとは、それ以来交流もあったのだが、この時期まで私は実は貴京のお父さんが上島先生とは全然知らなかった(知っていたのは鮎川ゆまくらいだった模様)。
 
貴京は後にローズ+リリーの3代目バックバンドとなる、フラワーガーデンズのギタリストになる。
 

2人目は元ロマンスガールズのユリカ(橘由利香)と、その息子の美晴君ということであった。現在小学5年生ということであった。ユリカさんに連絡を取ると、彼女は私の好意に感謝した上で、実は雨宮先生から支援を受けているから大丈夫だと語った。
 
ロマンスガールズはユリカとエリカの双子姉妹ユニットである。
 
「雨宮先生が上島先生に代わって送金してくれているんですか?」
「いえ、実はうちの息子の父親は、上島雷太なのか、雨宮三森なのか分からないんです」
「え!?」
 
「本当にふしだらな女と思われても仕方ないのですが、物凄く微妙なタイミングでふたりと関係を持ったもので。血液型は上島も雨宮もどちらもAB型なので、それでは判別できないんですよ」
 
「DNA鑑定とかは?」
 
「上島と雨宮が話し合って、鑑定はしないことにしたんです。それでふたりとも父親としてふるまってくれているんですよ。だから、美晴は小さい頃、僕はお父さんが2人居るんだと友だちとかにも言ってました。それで私が男の娘だと周囲に思われていたふしもあって」
 
とユリカは明るく語っていた。
 
取り敢えず問題ないようなので、何かあったら連絡して下さいとだけ言っておいた。
 
(ユリカとエリカの姉妹は実はこの年、各々15曲くらい曲を書いて、その曲は雨宮先生の仲介で醍醐春海あるいは鴨乃清見の名前で発表されていたのだが、そのことを私が知ったのはかなり後のことであった)
 

3人目は歌手の花村かほりさんと、娘の律子ちゃん(中学1年生)だった。花村さんは、ゆきみすず・すずくりこペアが書いた『帰りたい』で2004年のRC大賞を受賞したのだが、次に出したシングルが全く売れず、翌年の春以降はテレビにも露出することなく実質引退状態になってしまった。
 
しかし実はその年、上島先生と恋愛関係になり、律子ちゃんを産んだものの、結局結婚することはできなかったらしい。彼女に私が連絡すると、本当に困っている様子で
 
「実は今週中に電話代を払わないと停められるんです」
 
と言っていたので、取り敢えず20万振り込んであげて、翌日、電話代・電気代を何とか払ってきました!という彼女と、毎月の送金額について話し合った。
 
彼女は現在パン屋さんにパートで勤めてパン作りの仕事をしているものの、給料は毎月8万円くらいらしい。しかし娘さんが中学生なら、かなりお金が入り用のはずである。上島先生からいくらもらっていたのか尋ねたのだが彼女はその額は言わない。
 
「本当に済みません。月々10万くらいでも貸して頂けたら凄く嬉しいです」
 
と言っていたので、私は取り敢えず15万毎月送金してあげることにした。彼女には、送金分は後日上島先生からもらうから、返却のことは考えないでくださいねと言っておいた。
 
彼女がお金に困って変なバイトにでも手を出すとまずいと考えたのである。
 

そして最後のひとりは元歌手で本山たつこさんという人と、娘の扇歌(のりか)ちゃん(中学2年)であった。私はこの人を知らなかったのだが、2000年頃に何枚かCDを出しているらしい。
 
しかし・・・この子が扇歌で、花村さんの所が律子なら、ふたりあわせて「せんりつ(旋律)」じゃんと私は思った。たぶん旋の字を使う適当な名前を思いつかなかったので同音の扇の字に変えたのだろう。
 
結局、上島先生の子供は2004年から2007年まで毎年1人ずつ別の女性から生まれたことになる。恐らく当時上島先生はその女性たちと実際に結婚するつもりだったのだろうと私は思った。実際に先生が結婚したのは2008年に春風アルトさんとである。しかしアルトさんとの間に子供は生まれていない。
 
本山さんに私が連絡すると、彼女はしばらく無言であった。
 
「大丈夫ですか?」
と私が声を掛けると
「ほんとに、お金貸してくれるの?」
と涙声で言う。
 
「はい。私は上島先生に大きな恩があるので、そのせめてもの恩返しです」
「嬉しい。。。実は3日くらい何も食べてないの。娘は学校で給食食べているけど」
 
「即少しお金振り込みます。それであらためて明日くらいにまた話しましょう」
「うん」
 
それで私は指定の口座に30万円振り込んだ。翌日彼女の方から連絡があった。
 
「凄く助かった。電気と携帯とガスと水道が停められていて」
「大変ですね!」
「この家電もケイちゃんが助けてくれなかったら今日停まる予定だった」
「間に合って良かった!」
 
電力会社は送電停止をしても、人道上?の配慮で、電灯が灯せる程度の弱い電気を流してくれる。その電気でこの電話機も動いているのだろうと私は思った。
 
「昨日は娘と一緒に華丸うどんに行って、ふたりでうどん食べて涙流した」
「良かったです」
 
華丸うどんというのが何とも慎ましい。
 
彼女は3月までサンクスのバイトをしていたものの、ファミマに切り替わる際に解雇されてしまって、そのあと仕事を探すものの、なかなか仕事が見つからなくて本当に困っていたらしい。
 
彼女には当面毎月20万円送ってあげることにした。
 
「助かる。本当にありがとう。何か仕事見つかったら連絡するね」
「焦らずに探して下さいね。変な所に勤めたら後悔しますよ」
「もうオカマバーにでも勤めようかと思っていた」
 
「・・・・あのぉ、MTFさんですか?」
 
千里や和実のおかげでもう男の娘が子供を産んでも全然驚かない!
 
「ううん。でも私中学生の頃から、仕草が男っぽいし声も低いからオカマみたいだと言われてたから。歌手になった時もデビュー直前まで事務所の社長は私をてっきりニューハーフ歌手と思っていたみたいで。ところで君、性転換手術は何歳の時に受けたんだっけ?と言われて、へ?と」
 
「あららら」
「上島も私のことオカマと思っていたらしくて、妊娠したと言ったら冗談やめて。男の子が妊娠するわけないじゃん、と言われた」
「えーっと・・・」
 

5月31日(木).
 
政子は珍しく朝9時に起きると、いそいそと出かけて行った。私はデートでもするのかな?と思っていたのだが、政子が行ったのは都内の○○産婦人科である。
 
「確かにあと4〜5日で排卵が起きそうですね」
と医師は診察して言った。
 
精液について確認する。
 
「私も他の病院から引き継いだものなので、経緯がよく分からないのですが、小さな保存容器2個と、大きな保存容器1個があるんですよ。そして大きな保存容器に第1優先、小さな保存容器のものはどうも1回の採精分を分割したようで第2優先、第3優先と書かれていました。ですから、第1優先を使いたいと思うのですが、いいですか」
と医師は言う。
 
「私も冷凍保存したのが随分前なので、そのあたりよく覚えてないんですけど、優先順序が付いていたということは、たぶん第1優先がいちばん濃いんですよね?」
 
「おそらく精子の運動率が良かったんだと思います」
「でしたら第3優先を使って下さい」
「え!?」
 
「夫は去勢してしまったので、もう精子が取れないんですよ。ですから第1優先で失敗してしまったら、後は絶望的になります。第3優先で失敗してもまだ第2優先があると思えます。第1優先の精子は最後の砦ということで」
 
「なるほど。分かりました。しかし第3優先の場合、人工授精ではなく体外受精になるかも知れませんが、その場合、卵子採取とかになってもいいですか?」
 
「はい、いいです」
 
「では体外受精を前提にして、早く排卵が起きてしまわないように、それを抑制する注射をしたいのですが」
「お願いします」
「それと点鼻薬をお渡ししますので、今日、明日と使用して、明後日に再度来院して頂けますか」
「分かりました」
 

それで政子は6月2日(土)に再度その病院を訪れた。
 
「確かにもうすぐ排卵が起きそうな状態ですね」
と医師は診察して言った。
 
「明後日卵子の採取をして、シャーレの中で受精させ、2日間培養してから子宮に投入ということにしたいのですが」
「はい、それでお願いします」
 
「場合によっては顕微鏡受精になるかも知れませんが」
「元気な子がいたら、それでいいです」
 
それでこの日も注射をしてもらって帰宅した。
 
「可愛い男の娘が生まれたらいいなあ。苦労しないように女の子として出生届を出して、女の子として育てたい」
などと政子は妄想していた。
 

6月3日(日).
 
私は都内のホテルの和室で正望との結納の式をおこなった。
 
私は加賀友禅の振袖で、正望はダンヒルのブラックフォーマルで出席する。私の両親と萌依・和義夫妻、正望の母・美代、伯父の康政夫妻(康政は正望の父の兄)、合計9名が出席した。親族は女性は黒留袖、男性はブラックスーツである。
 
私たちが部屋に入る前に、ホテル・スタッフの介添役の人に教えられて、私の父と康政さんの手で結納品が床の間に飾られている。木原家側の結納が右側、唐本家側の結納が左側である。
 
いったん全員出てから、正望と母、伯父が入場し、私と両親が入場する。他の3人は取り敢えず部屋の外で待機する。介添役のホテルのスタッフも入場する。
 
まず正望の伯父・康政が口上を述べる。
 
(美代は正望と血のつながりが無いが、康政は正望の実の伯父である)
 
「この度は、冬子様と、私共の正望に大変結構なご縁を頂戴致しまして、誠にありがとうございます。つきましては本日はお日柄もよろしいので、結納の儀、執り行わせていただきます。どうぞよろしくお願い致します」
 
それで美代さんが飾られている結納の品を持って私の前に置く。
 
「これは正望からの結納でございます。幾久しくお納めください」
と美代さん。
「ありがとうございます。幾久しくお受けいたします」
と私。
その結納の品は目録を確認した後、私の母の手で、あらためて飾られる。そして私の父が受書を持って正望の前に行く。
 
「これは冬子からの受書でございます。幾久しくお納めください」
と父。
「恐れ入ります」
と正望が言って受け取る。
 
次いで私の母がこちら側の結納品を持って正望の前に行き
 
「これは冬子からの結納でございます。幾久しくお納めください」
とと述べる。
「ありがとうございます。幾久しくお受けいたします」
と正望は言って受け取る。
 
目録を確認した上で、美代さんの手で結納品があらためて飾られる。正望の伯父が受書を持って私の前に来る。
 
「これは正望からの受書でございます。幾久しくお納めください」
と康政さん。
「恐れ入ります」
と私は言って受け取る。
 

正望が発言する。
「婚約の記念に冬子さんに指輪を贈りました」
私も
「これを頂きました」
と言ってプラチナの婚約指輪を取り出し、左手薬指に付けて披露する。
 
「そしてお返しにこれを贈ります」
と言って、私は腕時計の箱を取り出し、正望に渡す。
 
「ありがたく頂きます」
と言って、正望はその時計の箱を受け取ると、箱を開けて、時計を左腕に填めた。
 
これはセイコーのアストロン(8X)で15万円ほどの品である。GPS付きのアナログ時計だ。正望が私に贈ってくれた指輪が30万円ほどのものだったので、その半額程度ということで選んだ。なお結納金は結納品セットの中に一緒に入れてあり、正望からは200万円、私からは100万円を渡している。差し引き向こうが100万円負担したことになる。このために正望は昨年のボーナスを全部使わずに取っていたらしい。
 
(+100万円は実は私が貸しておいた。つまり事前に私が100万円の札束を2つ用意し、1つを正望に預けた。正望は自分で用意した100万円の札束と一緒に札束2つを結納で私に渡し、私はもうひとつの札束を結納返しで正望に渡す。結納式の後で正望は受け取った札束を私に返した。結果的に私が用意した2つの札束はどちらも私の所に戻り、正望が用意した札束も私の所に来たことになる)
 

この婚約記念品の披露・交換で結納式は終了となる。
 
康政さんが
「本日は誠にありがとうございました。無事結納を取り交わすことができました。今後ともよろしくお願いいたします」
と言い、私の父が
「こちらこそお世話になりました。今後ともよろしくお願いいたします」
と言った。
 

介添役さんが部屋のドアを開け、外で待機していた3人を中に入れる。介添役さんが電話をすると、じきにホテルのスタッフがワゴンに乗せた料理を運びこんでくる。それでスタッフがテーブルを置いて食事を並べ、お食事会となった。
 
「この子たち、どちらも忙しいらしいから、いつ結婚できるものやらさっぱり分かりませんけど、これを機会にお互いに親戚ということで」
と私の母が言う。
 
「あのことは言ってあるんだっけ?」
と父が不安そうに母に言う。
 
母が答える前に、正望の伯父が言う。私と正望はこの伯父が経営する料理店で何度もデートしている。
 
「冬子さんの性別のことは正望から聞いております。それで子供が作れないというのも聞いていますが、そもそも正望の家系は代々養子で繋がっているんですよ。ですから、養子をもらえばいいということで理解しています。私は冬子さんを何度も見て感じの良い素敵なお嬢さんだと気に入ってますよ」
 
正望も説明する。
 
「私の祖母の範子さんが養子だったんです。曾祖母夫婦には子供ができなかったので、曾祖父の親戚の娘を養子にもらったんですよ。ところが範子さんの夫、私の祖父になる人ですが、この人が早死にしてしまったので、うちの母・美代は範子さんの親友の子供なのですが、そちらから養子に入ったんです。でも母と父の間にも子供ができないまま、父が亡くなってしまいまして、その時、父が他の女性との間に隠し子を作っていたことが判明して。しかもその女性も間もなく亡くなったので、母に養子として引き取られたのが私なんです。だから範子さんと母には血縁関係が無いし、私も母と血縁関係が無いんですよ」
 
「そういう訳で、3代にわたって養子になっているから、正望の子供が養子でも全然問題ないです。結果的に私の祖母も、私の母も、私も子供を産んでないから、冬子さんが子供を産まなくても構いませんよ」
と美代さんは言っている。
 
「アイリッシュ・ジョークに『彼の家系は遺伝的に子供のできない家系だ』というのがありますが、まさにそれがうちの家系ですね」
と正望は言っていた。
 

私と正望の間の子供について、政子は自分が産んだ子供の半分を私の養子にしていいよと言っていた。政子は4人くらい産んで2人を私の養子にとも言っていたが、政子がいつ子供を産むのか、誰の子供を産むのかは分からない。また政子の夫となる人がそういうことに同意してくれるかも不明である。
 
私は唐突に先日丸山アイが連れていた光太郎君のことを思い出していた。
 
光太郎君は実際には長崎の方で、アイの姉の子供として育てられているらしい。東京に帰って来てからアイと一度会う機会があり少し話したのだが実は本当に出産したのもアイの姉だと言っていた。受精して1ヶ月後に、受精卵を自分の子宮からお姉さんの子宮に移植したらしい。(そんなことが本当に可能なのかもよく分からないし、またその話はアイが出産のために性転換手術を受けると称して学校を休んだという話とも矛盾している)
 
そして本当に光太郎君は桃香の遺伝子を持っているので、早月と似ているのだと言っていたが、どういう経緯で桃香の遺伝子を持つ子供ができたのか、また光太郎君の遺伝子上の母親(桃香が遺伝子上の父である場合)はアイなのか、それとも別の誰かなのかについては、アイは微笑むだけで語ることはなかった。
 
「アイちゃんの子宮に胎児がいたのなら、やはり桃香がアイちゃんの中で出してそれで受精したんだっけ?」
「桃香さんとのセックスでは、ボクは女の子機能を使いましたよ。あの人、男役専門みたいだし」
 
「そうみたいだね。早月ちゃんも人工授精なんだよ。桃香は女役をしたことはないと言ってた」
「あの人、ボクのおちんちんに触って、自分は女役はできないからと言ったけど、ちゃんと女の子の部分あるしバージンじゃないからと言ったら入れてくれました。最初は女子高生とやる訳にはいかないとか言ってたんですけどね」
 
「ということはやはり桃香の精子とアイちゃんの卵子で光太郎君が産まれたんだ?」
「そのあたりは内緒。実は光太郎の親というべき人物は4人いるんですよ」
「4人!?」
「全員戸籍上は女性ですけどね」
「そうなんだ!?」
「男女なら2人で作れるけど、女だけで子供を作るには4人必要なんですよ」
「どういう原理?」
 

6月4日(月).
 
政子は三度病院を訪れた。
 
診察を受けて卵子の状態をチェックの上、採卵をすることになる。膣から卵子の採取針を入れて卵子を取ってもらった。これが結構痛いのだが、政子が平然としていたので看護婦さんが
 
「痛くないですか?」
と訊く。
 
「痛いけど、愛の結晶を作るためなら我慢します」
「偉いですね〜」
 
卵子は3個採取した。その内1個が受精できそうだということであった。それで、事前の話し合い通り、第3優先の精子を解凍する。
 
医師が顕微鏡で見ている。
 
「ほとんど活動してませんね。取り敢えず活性化を試みましょう」
と医師は言い、培養液を加えてよく混ぜた上で遠心分離機に掛けた。
 
これで精子の活性度を落としている物質を取り除くことができる。更に培養液を加えてしばらく待つ。これで元気な精子が上の方に泳いで上がってくるはずなのである。政子は待合室で待っていた。
 
30分ほど後に呼ばれる。
 
「全然元気な精子が無いですね。浮かんできている精子もみんな動きが鈍いです。どうします?」
「顕微鏡受精にしてください」
 
「じゃできるだけ元気な精子が無いか探してみますね」
と言って、医師はしばらく探していた。
 
「おっ、ここに凄く元気なのがいましたよ。他の子は弱々しい感じなのに、この子だけ異様に元気です」
 
「ではその子で」
 
「じゃこの精子にトライさせてみますね・・・・よし、卵子に進入した。ピペットで注入しなくても、この子勝手に入っていきましたよ」
 
「元気そうでいいですね」
 
「ではこの受精卵を培養して3日後に胚移植ということで」
「7日ですね」
「はい。また来院して下さい」
「参ります。よろしくお願いします」
 

私が4日の日にマンションで相変わらずひたすら作曲をしていたら、思わぬ来訪者がある。
 
千里と丸山アイである。丸山アイは今日も女装だ。
 
しかしこの組合せというのは何とも不思議だ。
 
「実はアクアの打合せに出てたんだけど、その時、和泉ちゃんから相談された」
と千里は言っている。
 
それでこういう組合せになったのか。しかし丸山アイがアクアに関わっているのだろうか。
 
「冬が書いた曲がさぁ、全然水沢歌月レベルじゃないから、何とかならないかと相談されて」
 
「うーん。。。それは申し訳無い。和泉からも、再考して欲しいとは言われたんだけど」
 
「私たちに預けてよ」
と千里。
 
「へ?」
「それで本来の水沢歌月のレベルにクォリティアップするから」
 
「今、ケイさんは忙しすぎるんです。今の精神状態では、量産品の曲しか書けないですよ」
とアイ。
 
「幸いにも私は“影武者”さんが量産品の曲を書いてくれているから、私はわりとのんびりしたペースで曲を書くことができている」
と千里。
 
「私も実は今回は量産品については、複数の友人に委託しているんですよ。だからわりと精神的な余裕があるんです」
とアイも言う。
 
私は腕を組んで考えたのだが言った。
 
「頼んじゃおうかな」
 
「じゃ楽譜見せて」
「うん」
 

それで私は先日別府に行った時に書いた3曲『青い海の思い』『金色の昇竜』、『黒い激情』の楽譜を2人に見せた。
 
「ああ、これはひどい。普段のケイのレベルにも到達してない」
と千里は遠慮無く言う。さすがにちょっとムッとする。
 
「最近かなり曲が粗製濫造になっていることは認める」
 
「どう分担しましょうか?」
「『青い海の思い』は雰囲気的にアイちゃんの方ができそう。私が『金色の昇竜』をやろうかな」
「その方がいい気がします。この手のノリノリの曲は千里さんの方が得意ですよね」
「うん。この手のバラード調の曲はアイちゃんがうまい」
 
「『黒い激情』はどうしましょう?」
「こういう歌謡曲系の曲はふたりとも行けると思う。じゃんけんしょうか?」
「はい」
 
それでジャンケンすると千里が勝ったが、千里は『え?』という顔をした。
 
「アイちゃん、ジャンケン強すぎる」
と千里は言った。
 
「私が負けたのに?」
とアイ。
 
「私より強い人、初めて見た」
と千里。
 
しかしアイはそれには答えず言った。
「まあ、この曲はたぶん千里さんの方が合ってますよ」
「じゃこれも私が修正するね」
 
「ケイさん、大宮万葉さんが送って来た曲見せてください」
「うん」
 
それで私は青葉が送って来た『オレンジ色の炎』を見せる。
 
「これの手直しを私にさせてください」
とアイは言った。
 
「やはり、水準が足りない?」
「青葉ちゃんも、今たくさん曲を書いているから、ひとつひとつの曲のレベルが低下しているんですよ。それにこれは歌詞の言葉が洗練されていません。この作詞者さん、まだまだ修行が足りない」
 
「うん。色々勉強中ではあるみたい。同人誌とかに書いていたみたいだけどね」
 
「今ある程度の水準が書ける人は、上島代替作戦に関わってない作曲家だけですね。千里さんや私みたいに」
「まあ私やアイちゃんの名前で書いてくれる人がいるからね」
 
「これ修正していい?」
と千里。
「待って。青葉に確認する」
と私。
 
「ああ、だったら私が電話するよ」
と千里。
 
それで千里が愛用のフィーチャホン・赤いT-008を開いて直接青葉に電話し、制作上の都合で曲と歌詞を少し変更させて欲しいと伝えた。青葉はその連絡が千里からあったことで驚いたようだが、自由に修正していいと言った。ただ後学のため、修正した後のものをこちらに送ってもらえないかと言い、それは千里が私に確認した上でOKと伝えた。
 
それで私が2人にCubaseのプロジェクトデータをUSBメモリにコピーして渡したので、2人はそれを持ち、「半月くらい待ってね」と言って帰っていった。
 

6月6日(水).
 
政子は原野妃登美から電話で呼び出されて郊外のレストランで会った。
 
「これ返すね」
と言って妃登美は政子に鍵を渡した。
 
「もういいの?」
「うん。明日郷里に帰るから」
「亮平とは?」
 
「今朝まで一緒に居た。実はあの後ずっとあそこに居たけど、母ちゃんからいつ帰ってくるの?とか言われたから帰ることにした。土曜日にお見合いすることになってるから、その人と結婚するかも。それで引っ越し代も亮平からもらっちゃった。事務所からもらった退職金だけでは引っ越し代を払うとそれだけで無くなってしまって、厳しいと思ってたのよね」
 
田舎への引越で無くなってしまうといったら100万円くらいだろうか。一時はテレビに頻繁に出ていた歌手にしては随分少ない額だと思ったが、退職金をもらえるだけマシなのかも知れない。芸能界は「来期の契約は更新しないから」というメール1本で何の補償も無しに突然失業する世界である。上島先生がらみの整理だから特別に退職金が出たのかもと政子は思った。
 
「そのくらい亮平に出させていいと思うよ。遠距離の引越って料金高いもん」
 
「マリちゃんには住所渡しておくね。携帯の番号・アドレスも、今ここに来る直前に変えてきたから」
と言って彼女は住所と新しい携帯番号・メールアドレスを書いた紙を渡す。念のため妃登美は自分のスマホから政子に一度電話を掛けメールもした。これで政子の携帯に直接彼女の番号とアドレスが記録される。
 
「亮平には渡してないんだけどね」
「まあ連絡取りたい時は取れるでしょ」
「その気になればね。でも私はこれで亮平とは切れたから、マリちゃんもう一度亮平をゲットするなら今がチャンスだよ」
「ううん。私は亮平とは結婚できないということで、亮平本人とも同意しているから」
「そうなの?亮平は料理もできるし、いい主夫になれると思うけど」
「それもいいかもねー」
 
「女装させて主婦でもいいけど」
「そちらが好みかも」
 
「マリちゃんってビアンが基本みたいね」
「そうそう。でも女装の似合う男の娘が好みなのよ」
「純粋女性と恋愛したことないの?」
「それは無いんだよね〜。ケイとは日常的にセックスしてるけど、ケイはほとんど女の子なのに、微妙に男の子がまじっているのがいい」
「ああ。何となく分かる」
 
「だから、私はちんちんの無い男の娘が理想なのかもね」
「タチなのね」
「そうかも。男の子とのセックスは寝てるだけだから、微妙につまらないのよね〜。それなりに気持ちいいけど。亮平が性転換してくれたら結婚してもいいけど」
 
「さすがに亮平は、ちんちん取る気は無いと思うよ」
「ああ、だから私、亮平と破綻したのかもしれない」
 
妃登美は微笑んでそんな政子を見ていた。
 
政子は「これ餞別」と言って、妃登美に祝儀袋を押しつけ、妃登美も
「ありがたくもらっておくね」と言って別れた。
 

6月7日(木).
 
政子は○○産婦人科に行き、あらためて診察を受けた後で胚移植に臨んだ。
 
受精させた卵子は1個だけなので、投入する胚も1個だけである。これが着床しなかったら、次の生理周期でリトライすることになる。しかし政子はこの子は育つような気がすると思っていた。
 
子宮に投入された後30分ほど休むと、もう帰っていいですよ、と言われたので病院を出た。
 
そのままマンションに帰って寝ていようと思ったのだが、電車に乗ってから、ふと気付くとあまり馴染みの無い場所を電車が走っていることに気付く。電車が停まる。牛田駅である。
 
なんで私こんな所にいるの〜!?と思い、慌てて降りる。
 
おかしいなあ。渋谷でJRに乗り換えて恵比寿に帰るつもりだったのに、などと思う(かなりの乗り過ごしである)。取り敢えず、精算して駅を出ると目の前にもうひとつ駅がある。京成関屋である。そうだ。こちらに乗って帰ろうと政子は考えた(むしろ何にも考えていないというべきか)。
 
それで適当に!切符を買って改札を通ると、やってきた電車に乗る。すると近くで女子大生っぽいグループが居る。
 
「まだ咲いてるの?」
「昨日今が見頃ですとか言ってたよ」
「5月頃に咲くものかと思ってた」
「色々品種があるんじゃない?」
 
どうも何かの花を見に行くようである。政子はそれを見たくなった。女子大生たちが次の駅で降りたので、政子もそこで降りる。
 
10分ほど歩いた所に堀切菖蒲園と書かれたゲートがある。女子大生たちに続いて中に入る。
 
「わあ、きれーい」
 
たくさんの花菖蒲(はなしょうぶ)が咲き乱れている。
 
「きれいな、あやめだなぁ」
と政子は声をあげた(*1).
 
そして園内をのんびりと自由に歩き回った。
 
(*1)堀切菖蒲園は《江戸花菖蒲》発祥の地といわれている。戦国時代に東北地方で発見された変種がここに持ち込まれ、江戸時代中期頃までに品種として固定された。その後、全国に広まった。花菖蒲には他に肥後系・伊勢系などもある。また原種の流れを汲むものに山形県長井市で栽培されている長井古種がある。
 
つまり堀切菖蒲園にあるのは「花菖蒲(はなしょうぶ)」であり「あやめ(漢字で書くと菖蒲だが「しょうぶ」と読み菖蒲湯に使う菖蒲とはまた別の植物)」ではない。あやめは5月が旬、花菖蒲は6月上旬が旬である。「いづれがアヤメかカキツバタ」と言われるカキツバタ(漢字では杜若)は、アヤメより少し早い5月上旬が旬。花菖蒲・アヤメ・カキツバタはいづれもアヤメ科アヤメ属の植物で、とてもよく似ているので区別するのが難しい。
 

結局政子は花菖蒲園内を1時間ほど掛けて歩き回り、静観亭に入って4000円の御膳を頼み、それをのんびりと食べながら更に花菖蒲を眺めていた。
 
そして唐突に言った。
 
「この子の名前は、あやめにしよう。男の娘がいいけど、女の子だったとしてもあやめでいいかな」
 
政子は最後までここに咲いているのがあやめではなく花菖蒲であることに気付かなかった。
 
なお、帰りはひとりでマンションに帰り着く自信が無かったので佐良さんに電話して迎えに来てもらった。再度電車に乗ったら次は仙台あたりに着きそうな気がした(この手の前科は多数ある)。
 

6月15日(金).
 
私たちの大学時代の友人・礼美が3人目の子供を出産した。私と政子は一緒にお祝いに行った。礼美は2014年春に大学を卒業して即妊娠。彼氏と慌てて結婚して、その年の12月に1人目、2016年9月に2人目、そして今年2018年6月に3人目を産んだ。
 
産まれたばかりの赤ちゃんを抱いて彼女はとても幸せそうな顔をしていた。私たちも彼女と話して
 
「赤ちゃんもいいね〜。私たちも欲しい」
などと言っていた。
 

6月18日(月).
 
政子はまた○○産婦人科に行き、診察を受けた。
 
「きれいに着床していますね。妊娠成功ですね」
「良かった」
「でもまだ妊娠初期では不安定なので突然胎児の成長が止まったり、あるいは流産ということもありますので、覚悟はしていてください。過度な運動などはしないように」
「分かりました。気をつけます」
「このあとしばらくは2週間に1度来院してもらえますか?」
「はい、そうします、予定日はいつになりますかね?」
 
医師はパソコンの画面を見て確認する。
「来年の2月24日ですね」
「結構早いんですね。10月10日(とつきとおか)というから4月頃かと思っちゃった」
 
「その『十月(とつき)』は1オリジンで数えているから数学的には9ヶ月なんですよね。それにプラス十日、つまり約2週で」
「なるほどー」
「2週ずれるのは、排卵・受精は生理周期の真ん中で起きて、出産は月経と同じ生理周期の端で起きるからですね」
「そうか。出産って、でっかい月経なんだ」
「そうですよ。10回分の月経をまとめてやるんです」
「そうだったのかぁ」
 
「しかもその『月』も4週間のことだから、太陽暦の月より短いんです。30.6日単位にすると、受精から出産までは8.7ヶ月しか無いんですよ」
「ああ。確かに」
と政子は言った。政子の頭の中で(4x9+2)x7÷30.6という計算式が浮かんで瞬間的に8.6928という数値が浮かんだ。
 
「そうだ。性別はいつ頃分かりますか?」
「そうですね〜。結構個人差があるんですよ。分かりやすい子もいれば分かりにくい子もいる。概して男の子のほうが早く分かることが多いです。まあ5ヶ月か7ヶ月くらいですね」
 
「かなり先ですね。でももうどちらかに決まっているんですよね?」
「ええ。受精した時に、その精子がX精子だったかY精子だったかで決まっていますから」
「途中で変わることは無いんですか?」
「それはありません」
 
「男の子が生まれたら、おちんちん切ってくれたりしませんよね?」
「えーっと。。。それは生まれてからあらためて外科か何かで相談して下さい」
と医師は困ったような顔で言った。
 

同日。私がマンションでひたすら楽曲を書いていたら、午前中に丸山アイ、午後から千里が来訪して、先日預けた曲をリファインしたものを渡してくれた。
 
「凄い!これが本来の水沢歌月レベルだよ」
「でも今ケイさんはここまで楽曲を調整するだけの精神的なゆとりが無いでしょ?」
とアイは言う。
 
「そうなんだよ。もうとにかく書き上げたら即下川先生の所に送ってる」
「でもケイさんが凄いペースで楽曲を書いてくれているので、引退させる予定だったのが、曲をもらえた歌手もいるようですよ」
 
「それは良かった」
 
「たぶん、その中からヒット曲出して復活する人もいますよ」
とアイは言う。
 
「そうなるといいね」
 

2018年7月4日(水).
 
私は葵照子(田代蓮菜)からの電話でそのことを知った。
 
「え?千里の旦那さんが亡くなったの!?」
「うん。私もびっくりした。建設現場で上から落ちてきた建材に押しつぶされたらしい」
「えっと名古屋だよね?」
 
多分蓮菜が認識している“千里”は名古屋に行っている千里(千里1)のはずと思ったが念のため確認する。
 
「そうそう。会社内で新しい棟を建設していた所だったらしい」
「じゃ労災か・・・」
 
「いや、それが労災とは認定できないような状況だったらしくて」
「なんで?」
「信次さんは、その建設には全く関わっていなかった。だから無関係なのに、立入禁止区域に入って死亡している」
「仕事ではないということ?」
「そのあたりがよく分からない。私も今から名古屋に行く」
 
「分かった。何か詳しいことがあったら連絡ちょうだい」
「うん」
 

蓮菜から再度連絡があったのは、もう22時すぎであった。
 
「まだ現地に居たいけど、私は仕事があるんで最終新幹線に乗った所。現地に桃香ちゃんがいるし、青葉ちゃんも、名古屋に向かっているみたいだから、何かあったら、桃香ちゃんに電話して。電話番号分かる?」
 
「うん。桃香なら大丈夫」
 
「それで、まだ明確な状況が分からないんだけど、どうも信次さん、浮気していたみたいでさ」
「あぁ・・・」
 
「信次さんが浮気していたというのは、何人かの同僚の口から聞いた」
「うーん・・・」
 
「それでその浮気相手が名古屋支店に来て、信次さんと言い争いになったみたいなんだよ。それでその彼女が走り出して危険区域に入ってしまったので、危ない!とか言って、彼女を追いかけて、その彼女の上に建材が落ちてきたのをかばって自分が下敷きになってしまったみたいなんだよ」
 
「うわぁ」
 
「信次さんが彼女を突き飛ばしたので、彼女は無事。その付近は上にいた建設作業員の人たちが目撃している」
 
「彼女には怪我は無いの?」
「うん。信次さんが突き飛ばしたんで、その時転んで手足をすりむいた程度」
「でも何があったんだろう?」
「その付近については、彼女が落ち着くのを待って事情を聞くことになるみたい。彼女が万が一にも自殺したりしないように、女性社員2人が付いて絶対に目を離さないようにしているらしい」
 
「うん。信次さんが自分の命に替えて助けたんだもん。死なれては困るよ。千里の様子はどう?」
 
「放送禁止用語だけどさ。廃人同然の状態」
「うわぁ・・・」
「何か話しかけても心ここにあらず。たぶん私が来ていること自体、全く認識していなかった。実際、魂の中心と身体の中心が容易にずれてしまう感じ。私も向こうにいる間に3回くらい修正してあげた。青葉が到着したら、その付近だけでも何とかしてくれると思う」
 
「千里は去年からさんざんな目に遭ってるね」
「やはり去年の春に落雷に遭った時から、変な枝道にはまりこんでしまったんじゃないかという気がする。あれで明らかに千里の霊感が落ちた。それが今回の事件にまで繋がっている気がするよ」
 
「そうかもね」
 

私は時間を見計らって桃香にも連絡してみた。桃香は既に私に連絡が入っていること自体に驚いていたようだが、詳しい状況を話してくれた。
 
「アパートでガス爆発!?」
「そうなんだよ。信次さんが亡くなったという連絡を受けた所にちょうど私が行ってさ。茫然自失になっているのを励まして、病院に連れて行ったんだよ。ところが私たちがアパートを出てすぐくらいの時間に、下の階の住人の部屋でガス爆発があって、アパートが崩壊したらしい」
 
「なんてこと・・・」
 
「それがさ、私はこういう話よく分からないんだけど、誰かが千里に強烈な呪いを掛けたみたい」
「え〜〜〜!?」
 
「それを信次さんが肩代わりしてあげたみたいなんだよ。ガス爆発はその呪いの最後っ屁じゃないかと青葉は言っている」
 
「その呪いを掛けた相手は?」
「青葉が言うにはさ、それが信次さんが自分の身を犠牲にして助けた彼女ではないかと」
 
「嫉妬か・・・」
 
「そうそう。たぶん信次さんの愛人が、本妻の千里を恨んで呪い殺そうとしたのではないかと。これ、青葉の見解」
 
「じゃその事故が起きる直前に信次さんが彼女と言い争っていたというのも、そのあたりの揉め事か」
 
「おそらく、いつ奥さんと別れてくれるのよ?とか、そんな話だったかも」
 
「うーん・・・・」
 
「ただ青葉は、それだけでは割り切れないものがあると言っている。明日の午前中にも、会社のカウンセラーが彼女から事情を聞くという方向なんで、それで何か分かるかも」
 
「分かった」
 

深夜になってから、千里2から電話があった。
 
「今どこに居るの?」
「いったん日本に戻ってきたところ。私もちょっと参った。悪いけど、しばらく千里1は作曲どころか編曲とかもできない状態になると思う」
 
「それは仕方ないよ。新婚早々の夫が事故死なんて」
 
「醍醐春海と琴沢幸穂の統括をしている、天野貴子さんと話したんだけど、千里1が使っていたパソコンのハードディスクがガス爆発現場から回収できたらしい。そこからたぶん作りかけの楽曲とかが取り出せると思うから、それをゴールデンシックスの花野子に調整させると雨宮先生は言っている」
 
「カノンも忙しいでしょ?」
 
「うん。彼女も上島代替作戦に駆り出されているから。でも取り敢えずはこちらを優先してさせるということ。花野子にとっても、少し気分転換になるんだよ。ひたすら楽曲書いていたら、精神的に疲労するから。ケイほどじゃないけどね」
 
「うん。こないだも指摘されたけど、かなり疲労している」
 

7月5日のお昼になって、桃香から連絡があり、信次さんが死亡した時の状況が分かった。
 
「昨日言っていた、信次の彼女なんだけど、実際は彼女の完全な片思いで信次さんと具体的な関係があったわけではないみたい」
 
「そうだったんだ!」
 
しかしそれでは信次さんが浮気していたと同僚が言っていたという蓮菜の話はどうなんだろうと私は思った。ひょっとして他にも彼女が居た??
 
「それで一方的に千里のことを恨んで強烈な呪いを掛けたのだけど、呪いを掛けてしまった後で、冷静になったらとんでもないことしてしまったと思い直して、それを停めに来たところで信次さんと言い争いになったらしい」
 
「あぁ・・・」
 
「自分が全部悪い。死んでお詫びをしたいとか言っているのを、せっかく信次さんが自分の命に替えてかばってくれたのに、死んだらその好意を無にするよ、と信次さんのお母さんが言ったらしい」
 
「お母さんがいちばん辛いだろうに、よく言ってあげられたね」
 
「それで泣いてこちらも半分放心状態のよう。そちらは会社の人が責任持って付いてて、当面絶対にひとりにしないようにすると言っていた」
 
「これ以上死なれたらたまらないよね。ガス爆発の方は?怪我人は?」
 
「それが誰一人として怪我してない」
「うそ!?」
 
「全員出かけていたらしい」
 
「それは良かったね。みんな仕事に出かけていたか何か?」
「それが全員が各々異なる理由で出かけていて、結果的に誰も居なかったということ」
「へー!」
 
「1人は小学生のお子さんが具合が悪くなって迎えに行ってた。1人は先着5名様とかのを買いに出てた。1人は風邪で休んだ人の代わりを頼まれて急遽出かけた。1人は幼稚園が臨時で休みになっていたお子さんが突然ナガシマスパーランドに行きたいと言い出したので一緒に出かけた。1人は実家から急な呼び出しがあって出かけた。1人は紛失したクレカを届けてくれた人があると警察から連絡を受けて取りに行った。1人は唐突にパチンコしにいきたくなって出かけた。それで千里は信次さんが亡くなったという連絡で私と一緒に病院に行ったし」
 
「凄い偶然だね!」
「うん。そういうこともあるんだね」
 
「昔アメリカで教会が爆発したのに、全員別々の理由で遅刻して、死者が出なかったということがあったんだよ」
「あ、それ聞いたことある」
 
1950年3月1日19:27、ネブラスカ州BeatriceのWest Side Baptist Churchでの出来事である。本来は19:20から聖歌隊の練習が始まる予定だったので、ちゃんとその時刻までに聖歌隊のメンバーが来ていたら、この爆発に巻き込まれていた所だった。しかし15人の聖歌隊のメンバー全員が異なる理由でこの練習に遅刻してしまったのである。
 
牧師と妻と娘は、娘の洋服が汚れていることに気付き、他のドレスを出してきてアイロンを掛けている内に遅れてしまった。Ladonaは幾何学の宿題がなかなか解けずに遅刻してしまった。Royenaは車のエンジンが掛からずLadonaに乗せていってと頼んだが、そのLadonaが宿題で苦しんでいた。Sadieもやはり車のエンジンがどうしても掛からなかった。Schuster夫人と娘は母の家に呼ばれたため遅くなってしまった。
 
Herbertは大事な手紙を書いていて遅くなった。Harvey氏は妻が出かけていたため子供の世話をしている内に遅くなった。ピアニストのMarilynとその母は、夕食後にふたりともついうたた寝をして寝過ごしてしまった。Lucilleはその日のラジオ番組があまりに面白くて最後まで聴いていたかったため、遅くなった。友人のDorothyは彼女をずっと待っていた。
 
そしてJoyceはこの日寒かったので、もう少し家で暖まっていようと思い遅くなった。彼が渋々家を出て19:27頃に教会に到着する。彼はてっきり自分が最後に教会に到着したと思っていた。そして彼が教会のドアを開けた途端、教会は物凄い音を立てて爆発、屋根は崩れ落ちて瓦礫と化した。
 
Joyceはドアの下敷きになって軽傷を負ったものの(そのドアが防護壁になって彼自身あまり怪我せずに済んだ)、それより教会の中に多数の友人がいたと思い、大声でみんなの名前を呼んだ。しかし実はこの日教会に到着したのは彼が最初だったのである。
 
かくして全くの偶然の積み重ねによって、この教会の爆発事故では、ひとりの死者も出なかったのであった。
 
 
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【夏の日の想い出・つながり】(4)