【夏の日の想い出・辞める時】(1)

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「とうとう手術するんだ?おめでとう」
と私はその日電話を掛けてきた鈴鹿美里の鈴鹿に笑顔で祝福した。
 
「まだちょっとドキドキしてるんですけどね」
 
「ためらっている訳ではないよね?」
と私が尋ねると
「それは無いです。早く手術してもらいたいです」
と鈴鹿は言っている。
 
「しばらくはホルモンバランスが崩れて辛いかも知れないから、あまり仕事を入れないようにした方がいいよ。事務所に言いにくいなら、私が言ってあげるけど」
 
「はい。それは3月くらいまで少し控えめにしてくださるそうです」
「うんうん。新しいホルモンバランスを回復するのに、結構時間が掛かる子もいるからね」
 

信一は洗面道具を前に「うーん・・・」と考えた。一応冬子さんたちのおかげで松江の宿に泊まり、そこで深夜に入浴したものの、その翌日は京都のPAの片隅で寝て、昨夜は結局正隆、三郎、三郎の姉の小枝の4人で徹夜麻雀をしている。やはり疲れてもいるし、お風呂に入りたい。
 
しかし問題は・・・・。
 
昨夜はひたすら負け続けた。信一は麻雀するのは好きではあるものの、無茶苦茶弱いという問題点がある。だいたい正隆たちと麻雀をすると4割くらいの確率で負けているのだが、特に昨夜は信一の負け率が7割くらいあった。昨夜は物真似麻雀ということで、AKB48, ももいろクローバーZ、SUPER☆GIRLS, FLOWER, Dream5, など女性アイドルユニットの歌をひたすら物真似で歌ったが
 
「可愛い!」
「ほんとに女の子が歌っているみたい」
「信ちゃん、もうこのまま女の子になっちゃおう!」
「性転換手術の予約してあげようか?」
などといった声まで掛かっていたので、信一も乗って
 
「じゃ、信一(しんいち)改め信子(のぶこ)ということで」
と言っちゃう。
「OKOK。明日からは信子ちゃんね」
とみんなも言ってくれた。
 
(結局信一は朝まで女装のまま過ごし、結局女装のまま明け方自分のアパートに帰った)
 
さすがに疲れたので16日は土曜日で大学も休みなのをいいことに夕方近くまで寝ていた。松江から送った荷物を届けてくれた宅急便屋さんに起こされる。何も考えずに寝ていたそのままの格好で玄関に行き、荷物を受け取ってハンコを押したが、自分がスカート穿いたままであることに気付いて
 
「あらぁ〜」
 
と思ったものの、
 
「ま、いっか」
 
と思い直した。
 
そして、疲れたからお風呂行ってこようと思い(信一のアパートにお風呂は無い。トイレはある)、洗面道具を用意してから、ハッと思ったのである。
 

ぼく、もう男湯には入れないよね?
 
じゃ女湯に入る?
 
それで考えていたものの、女湯に入ろうとすると、まず番台のおばちゃんから何か言われそうだ。番台で何も言われなかったとしても、脱衣場に自分を知っている人がいたら、そこで悲鳴をあげられるかも知れない。
 
と考えると、女湯には入れないという結論に達する。
 
しかし男湯に入ると、服を脱いだ時点で騒ぎになる。
 
それで10分くらい考えていたものの、自分を知っている人の居ない銭湯まで行けばいいという結論に達した。
 

それで洗面道具(シャンプー・コンディショナー・ボディソープ・バスタオル・フェイスタオル)と替えの下着(パンティ・ブラジャー・キャミソール)を外からは見えない厚手のポリエステルの袋に入れると小銭入れとPASMOのケースを持って結局、スカート姿のままアパートを出た。
 
この替えの下着は松江で千里さんと一緒にしまむらに行って買ってもらったものである。あの時下着を4セット(但しパンティは6枚)買い、その内の1セットは松江の宿で使い、2つ目を夜を過ごした京都のPAで着換えた。それで今2セット残っている。
 
みんなには内緒だが、実は元々若干の女物の下着を持っていたには持っていた。しかし実は持っていたブラジャーはサイズが合わない。持っていたのはA65のブラジャーだが、今自分の胸は千里さん(?)に貼り付けてもらったブレストフォームのおかげでDカップくらいある。千里さんが買ってくれたブラはD70であった。
 
買ってもらった時、こんな大きなカップ?と思ったものの、その後貼り付けられたブレストフォームのおかげで大きな胸になっているので、結果的にちょうどよくなった。しかし、千里さんはそもそもこのブレストフォームを貼り付けるつもりで、Dカップのブラを買ったのだろうか?? しかしあの夢のような現実のような出来事は、どこまでがリアルなのだろう??そもそもあれは本当に千里さんだったのだろうか?
 
どうもあの付近のできごとはよく分からないと信一は思った。
 

電車を降りて5分ほど歩く。この付近はT大の学生さんが多い町である。T大の学生さんは貧乏率が高いので、銭湯利用率も高い。おかげでこの付近には銭湯が3つも残っている。信一はその内のひとつの銭湯の前まで来た。
 
うーん。。。。。
 
と悩む。
 
実はこの場に及んで、まだ女湯に入る勇気が出ないのである。
 
しかし男湯には入れないし、といってせっかくここまで来たのに入らずに帰るのは嫌だ。そもそも自分はお風呂に入りたい。
 
それで1歩前に進むものの、やはり怖くなって立ち止まってしまう。
 
ところが信一が急に立ち止まったので、後ろから来ていた女の子と衝突してしまった。
 
「きゃっ」
「あ、ごめんなさい」
 
「どうかしました?」
「あ、いえ。どっちに入ればいいか一瞬悩んでしまって」
 
「女湯はこちらでいいよ」
と18-19歳くらい、自分と同世代くらいの女子が言う。
 
「ですよね」
と言って、結果的には信一は彼女と一緒に女湯と赤い字で書いてある側のドアを開けて中に入ってしまった。
 

きゃー!女湯に入っちゃったよ。
 
という思いから信一の心臓は物凄く早い鼓動を刻んでいる。
 
信一が悩むように立っていると一緒に入った女の子が「450円だよ」と言うので「ありがとう」と言って、信一はお釣りが出ないように100円玉4枚と50円玉1枚を出して番台の所に置いた。後ろの女の子は500円玉を出したので、番台のおばちゃんは、信一の出した50円玉を彼女の方に押して出し、彼女はそれを受け取った。
 
中に入って空いているロッカーを開け、服を脱ぐ。
 
「何学部だっけ?」
と隣のロッカーを開けた彼女が訊く。
 
「あ、私、実は△△△大学なんだけど、友だちんちに寄ったついでに近くのお風呂に入ってから帰ろうと思って」
 
「ああ、なるほど!友だちって彼氏?」
「あ、いやそういう訳ではないんたけど」
と言って、信一は真っ赤になってしまったので、彼女にはYESの意味に取られた気がした。
 
「うんうん。そのあたりは詮索しないよ。私、早紀(さき)。T大理学部化学科」
「すごーい。理学部とか。あ、私は信子(のぶこ)。△△△大の法学部です」
「法学部のほうが理学部よりよほど凄い」
「でもT大は△△△大とは格が違いますよ」
「そんなこと無いけどなあ。私、あまり受験勉強もしなかったし」
「受験勉強無しでT大に入れるってとんでもない天才だと思う」
「そうかなあ」
 
などと言っている内に2人とも服を脱いで裸になってしまった。
 
「あ、やはり女の子だったね?」
と早紀が言う。
 
「え?」
「いや、声がちょっと男っぽいから、もしかして女装者?とも思ったけど、身体は間違い無く女の子だから、通報する必要は無いみたい」
 
「通報は勘弁してください」
「女の子の身体の人は通報する必要無いよ。まあ一緒に入ろうよ」
「うん」
 

それで信一は早紀と一緒に浴室に入ったが、結果的には彼女と一緒だったことで、女湯に入っているという事実にあまり緊張せずに済んだ。
 
脱衣場にしても浴室にしても、おっぱい丸出し、お股のところも特に隠さず歩いている女性がたくさんいる(当然だ)。しかし信一はそういう女性の姿を見ても特に何とも感じなかった。
 
身体を洗い、湯船に入って、早紀とおしゃべりをしていると、なんか普段の入浴と同じだという気がした。
 
「信子ちゃん、けっこうおっぱい大きいねぇ」
と言って早紀が自分の乳房に触ってくる。
 
ちょっとぉ、触られたら感じちゃうじゃん。
 
「あはは。でも早紀ちゃんも結構なサイズじゃん」
 
と言って、信一も彼女の乳房に触ってしまった。何だか触られた以上こちらも触ってあげないと悪いような気がした。しかし彼女の乳房は凄く柔らかい。私のより柔らかい〜と思う。やはり自分のバストはフェイクだからなあ。これがフェイクってことに、早紀ちゃん、気付かなかったかな?と少し心配してしまう。
 
「私は一応Dカップではあるけど、信子ちゃんのが大きいと思う。信子ちゃんはD?E?」
「Dカップつけてるよ」
「へー」
 
しかし・・・・
 
これまでおっぱいは無くて、ちんちんの付いている人達の裸を見ていたのを、おっぱいがあって、ちんちんの無い人達の裸を目にしているが、そんなの大した差ではないような気がしてきた。
 
早紀とは15分くらいの浴槽内のおしゃべりで随分仲良くなってしまい、(おっぱいの触りっこもしたし)結局あがって脱衣場にもどってから、スマホのアドレスを交換した。
 
でも・・・ぼくのことを女の子と思っている人のアドレスがなんか少しずつ増えてきてないか??と信一は帰りの電車の中で思った。
 

私と政子、千里と鮎川ゆまの4人は11月中旬に出雲まで行き、神迎祭・神在祭を見てきたのだが、その時現地で、ちょっと変わった男の娘(?)信子ちゃんと出会った。
 
彼女は戸籍上は男性だが、罰ゲームで女装して東京から出雲までヒッチハイクで往復して来いと言われてきたということで、女装したのも初めてということであったのだが、実際には彼女の女装はとても自然で、声さえ出さなければ女でないことには気付かないレベルだった。それは「初めての女装」とは、とても思えないものだった。
 
そして彼女は実際問題として「女の子として行動する」味を占めてしまった感じであり「あの子、きっと本当の女の子になっちゃうよね?」と私たちは彼女と別れた後、言い合ったのであった。
 
その信子ちゃんは大学生で友人達と一緒にバンドをしているということで、彼女自身は曲作りもしているということだった。一度作品を見せてよと言ったら、だったら東京に戻ったらCD1枚送りますねということだったのだが、それが11月18日(月)に千里の所に届いたというので、彼女がこちらまで持って来てくれた。
 

「15日の夕方には東京に戻ってきたらしいよ」
と千里は言う。
 
「それはスムーズに進行したね!」
「行きは4日ちょっと掛かったのに帰りは1日半だって。上手い具合にいい人に巡り会えたみたいね」」
「へー」
 
「で、来る途中車内で聴いてきたけど、私の素人感覚からはかなりいいよ」
と千里は言った。
 
「ほほお」
 
「録音は素人だけどね。ノイズも入っているし音割れとかもあるし」
「それは仕方ない」
 
それで私もリビングのCDプレイヤーに掛けてみたのだが・・・
 
「上手いじゃん」
と私は言った。
 
「曲もいいと思わない?」
「思う。センスがいい。ただ、もう少しリファインできる」
「まあきっと、そのあたりがまだまだ素人なんだろうね」
 
「でもこれプロのアレンジャーにきちんと編曲させたら、凄くいい曲になるよ」
 

CDはミニアルバムという感じで6曲入りである。
 
ホーンセクションが入っている曲が3つと、入っていない曲が3つ。つまりベージュスカだけで演奏したのが3曲と、ホーン女子まで入れたのが3曲である。歌は全て、信子が1人で歌っており、他の男性メンバーのコーラスが入っている。ホーン女子の4人は管楽器を吹いているので歌うのは不能だろう。
 
「信子ちゃんの声域はバリトンかな?」
と千里が言う。
「うん。そう思った。音域的にはテノールの音域まで出ているけど、これはバリトンの発声法なんだよ」
 
「練習すれば女の子の声が出ると思わない?」
と微妙な微笑みで千里が訊く。
 
「うん。こういう感じの声を出す人は割と女声の獲得が容易」
「きっと練習するよね?」
「この子が女声出るようになると、ちょっと面白いね」
 

私は大学のお昼休みくらいの時間を狙って信子に電話を掛けてみた。
 
「こんにちは。先日出雲で会った冬子です」
「先日は本当にお世話になりました!」
「あのCD聴いたけど、凄くいいね」
「ありがとうございます!」
 
「信子ちゃんたちのライブも一度聴いてみたいけど、演奏予定とか無いの?」
「わあ、ライブにも来てくださいますか? 実は12月25日に下北沢のライブハウスで演奏やるんですよ。対バンで3つのバンドが出る中のいちばん最初なんですが」
「おお、トップバッターか」
「ほぼ前座ですけど」
と言って少し恐縮しているような感じだ。
 
「ベージュスカだけで出るの?」
「ホーン女子も一緒に8人で出ます。前座だから華々しくぶっ飛ばしてお客さんを乗せられたらと思っているんですよ」
「ああ、いいんじゃない?スカってお客さんを乗せやすいと思うよ」
「ええ。だからノリのいいナンバー中心に演奏しようと思ってます」
 
「あ、それで、もしまだチケットあったら買えないかなと思って。5枚くらい」
「それなら先日さんざんお世話になったし、招待ということで、そちらにお送りします!5枚でよろしいですか?」
「うん。じゃ、CD送ってもらった住所、千里の所に送ってもらえる?」
「はい!」
 
5人というのは、出雲に行った4人のほか、誰かプロダクション関係者に聴かせてみようと思ったのである。
 

「こういう傾向のバンド、どこの事務所が合うかなあ」
と私が迷うように言うと、千里が
「占ってあげようか?」
と言う。
 
「うん。じゃお願い」
「選択肢は?」
 
「○○プロ、∴∴ミュージック、$$アーツ、ζζプロ。まあ千里だから言うけど、私はこの4社と長い関わりがあって、実はこの4社はサマーガールズ出版の株主でもあるんだよ。その他∞∞プロ、&&エージェンシー、@@エージェンシー、##プロ、ともパイプがある」
 
と言いながら、私は8つのプロダクションの名前を紙に並べて書いた。
 
千里はバッグの中からタロットを取り出すと1枚ずつ8枚のカードを並べた。
 
「○○プロ死神、∴∴ミュージック女司祭、$$アーツ棒A、ζζプロ太陽、∞∞プロ聖杯3・感謝の祈り、&&エージェンシー棒5・行き詰まり、@@エージェンシー魔術師、##プロ聖杯2・ロマンス、」
 
「死神って凄いね」
「○○プロは流行歌手には強いけど、多分こういう細く長く売っていきたいバンドには合わないのかも」
と千里。
「確かに言える」
と私。
 
「ポップロックやれとか言われたりしてね」
「ありそう!」
 
「私は&&エージェンシーの棒の5が気になる。ひょっとしてあそこ経営危機とか無いよね?」
と千里が訊く。
 
「どうだろう? ここしばらくの看板だったParking Serviceは昨年解散したものの、代わって看板になったXANFUSは絶好調だし、問題があるとは思えないけどなあ」
と私は答える。
 
「不動産投資の失敗とか?」
「あそこの社長の斉藤さんは、そういう危ないことを一切しない経営者なんだよ。あの人は着実すぎて、逆に得られる利益も得てない気もするんだけど、経営で博打をしてはいけないというポリシーなんだよね」
 
「そういう経営者は良いと思うよ。むしろこの業界では貴重な存在」
と千里。
 
「だと思う。でも多分ベージュスカには合わないんだろうね」
「そうかもね」
 
「いいカードが出ているのは、∴∴ミュージック女司祭、ζζプロ太陽、∞∞プロ聖杯3、@@エージェンシー魔術師、の4社か。千里、補助カードとか出してみない?」
と私は言った。
 
「うん」
それでその4つの上に補助カードを置く。
 
「∴∴ミュージック剣A、ζζプロ運命の輪、∞∞プロ剣2、@@エージェンシー剣8」
 
「なるほど〜。ζζプロで決まりだな」
と言って私はζζプロの兼岩会長に電話を掛けた。
 

信一は、クリスマスライブのチケットを正隆に言って5枚もらい、ライブハウスの案内の紙と自分たちのライブの案内(Photoshopで作ってプリントしたもの)を5枚ずつ同封してから、宛先に《千葉市**区**町**-**-** 村山千里様》と書き、裏の差出人の所には《江戸川区**#丁目**-**》という所まで書いてから少しドキドキしながら《鹿島信子》という差出人名を書いた。
 
大学構内のポストに投函しようとしてから、この名前を見られたら恥ずかしいな、などと考えてしまった(実際にはそんなの誰も見ないし見ても気にしない)。それでキャンパスを出て、通りに面した郵便局まで行って投函した。
 
『郵便局で投函した方が早く着くかも知れないし』
 
などと自分に言い訳する。
 
それで大学に戻ろうとして校門のそばまで来た時。
 
プヮン。
 
という感じの車のクラクションが聞こえる。
 
振り返えると大きなレクサスが停まっている。運転席から男性が飛び出してくる。
 
「あっ」
と言って信子は口を押さえた。
 

「やあ、また会ったね」
と言って男性が笑顔で信子に声を掛けた。
 
それは先日のヒッチハイクで、静岡から東京まで乗せてくれた人であった。
 
「先日は大変お世話になりました」
と言って信子はあらためて頭を下げてから
 
「やだ、私、こんな格好で」
と言って真っ赤になってしまう。
 
女装で会ってたくさんお話しした人に、男装している所を見られるのは物凄く恥ずかしい。
 
「君は可愛いから、ラフな格好していても分かるよ」
と男性は言う。
 
「そ、そうですか?」
と言いながら、信子は焦って頭に血が上ってしまった。
 

そして3時間後。
 
あれ〜〜!?何でぼく、こういうことになっちゃったの!???
 
と信子は訳が分からない思いでホテルの天井を眺めていた。
 
男性に上に乗られるのって結構重いなとか考える。
 
むろん強引なことは何もされていない。ごく自然な流れでこういう場所に来てしまった。確か呼び止められて「こんな格好で恥ずかしい」なんて言ったら、「じゃ洋服プレゼントしてあげるよ」とか言われて、「こんな高い服買ってもらって済みません」と言ったら「じゃお礼代りに食事に付き合わない?」とか言われて・・・・あれれれ?なんでぼく、この人と一緒にホテルに来ちゃったのかなあ。。。。
 
でもでも・・・ぼく、女の子ともこんなこと体験したことないのに、男の人と体験してしまった・・・。ぼく、やはりこのまま女の子になっちゃうんだろうか。もう今更男の子には戻れないんだろうな、とは思ってたけど。
 

そんなことを考えていたら、涙が一粒流れた。
 
その涙に気付いたようで、彼は、動作を中断して信子に声を掛けた。
 
「もしかして初めてだった?」
 
コクリと信子は頷く。
 
「でも、その内体験することだし、私、凄く気持ち良かったし」
 
実際それはまさに天にも昇る心地だったのである。それに乳首舐められるのもあそこを指で刺激されるのも凄く気持ちいい。でもなぜ付け乳の乳首舐められてこんなに気持ちいいの????
 
「そう。気持ち良かったのなら良かった」
と彼は笑顔である。
 
「奥さんいるんですよね?」
と信子は訊きつつ、自分は何を聴いてるんだ?と思う。自分はこの人の彼女になりたいの???
 
「いるよー。だから、こんなおじさんの彼女になってとかは言わないから安心して」
と彼は言う。
 
それはちょっとホッとした。正直こんなことになってしまっても、やはり男性と恋愛関係を結ぶのは、まだちょっと心の準備ができない感覚だ。
 

「でも君、自分に自信を持ってないね?」
と彼は鋭い指摘をする。
 
「私あまり可愛くないし」
「そんなことない。凄く可愛いよ。ミスコンとかに出ても良いくらい」
 
それはさすがに褒めすぎ、と思う。
 
「それに可愛い声出せないし」
と信子が言うと、彼は何か考えているようだった。
 
「ボイストレーナー紹介してあげようか?」
「え?でも」
 
「女の子の声で歌える?」
「それも出ません。女の子の声で話すのより歌う方が難易度は低いと聞いたので、女声歌唱法の本とか買って練習してるんですけど、うまく出せなくて」
 
「ああ、歌の練習してるんだ?」
「ええ。私、バンドやってるんですけど、女の子の声で歌えたら面白いから、習得してみろよとバンド仲間には唆されてるんですけどね」
 
「バンドやってるんだ!」
「アマチュアですけど」
 
「何か歌ってみてよ」
「あ、はい」
 

それで信子は先日出雲の日御碕で夕日を見た時に書いた『Hesper』という歌を歌ってみせた。
 
「君、上手いじゃん」
と彼は驚いたように言う。
 
「ありがとうございます」
「君の声質ならわりと簡単に女声がマスターできると思う」
「ほんとですか?」
「知り合いのボイストレーナーを紹介するから、レッスン受けてごらんよ。レッスン代は僕が出してあげるから」
「え〜〜〜!?」
「気にしないで。僕は経済的にゆとりがあるから、若い人が伸びる手助けができたら嬉しいんだよ」
 
それで彼はその場でそのボイストレーナーさんに電話していた。
 
「あ、君、名前は何だったっけ?」
「鹿島信子です」
と言って枕元にあるメモパッドに漢字で書き渡す。
 
それで彼はその名前を向こうに伝えている。
 
「じゃ取り敢えず1ヶ月の集中レッスン受けてみない?今の時期は大学は試験とか関係無いよね?」
「はい。期末試験は1月下旬です」
 

「ところで今のは君のオリジナル曲?」
「はい」
 
「楽譜見れる?」
「あ。プリントしたものは・・・・データならあるんですが」
「Cubase?」
「はい」
 
「僕の持ち歩いているパソコンにCubaseが入っているから見てみよう」
「Cubaseって、もしかして作曲家さんですか?」
「うん。無名作曲家というやつだよ。下請けで稼ぐ」
などと言って彼はバッグからノートパソコンを取り出した。
 
信子はいつも持ち歩いているバッグの中からUSBメモリーを取り出して渡した。
 
彼の言い方から、信子はこの人ゴーストライターとかで稼いでいるのかな、とふと思った。
 

「君、あまり和声法とか勉強してないでしょ?」
と彼は信子の作った曲をCubaseで見ながら言った。
 
「あ、それは他のバンドの人にも指摘されたことあります」
「ちゃんと勉強した方がいいよ。和音が間違っている所がある」
 
と言って彼はその間違っている箇所を全部指摘してくれた。
 
「わぁ。勉強になります」
「あとね。ここの展開の入り方が安易すぎると思う」
「あ、そこは自分でも違和感あったのですが、いいのが思いつかなくて」
 
「ここは例えばラから入るんじゃなくて、ファから入った方がうまくいく。ひとつの例だけど、ファソララ〜ソとかね」
 
と言って彼は歌ってみせる。わあ、この人、歌も上手いと思った。もしかしてこの人もバンドとかしているのだろうか?
 
彼はその場で30分くらいこの楽曲について色々アドバイスしてくれた。
 
「何だか今日は凄く勉強になりました」
「そう。それは良かった。ところでさ」
「はい?」
 
「今から、もう1回だけできない?」
と彼は言った。
 
「あはははは」
と信子は笑う。
 
「これ以上は誘ったりしないから。正直あまり何度も会ってたら女房にバレて離婚だとか言われかねないし」
 
と彼は言っている。ああ、こういう浮気性の夫を持つと奥さんも大変なんだろうな、と信子は思った。
 
「いいですよ。でもお名前教えてください」
「名乗るほどのものでもないけど、君の名前を教えてもらったから、ユーということで」
「ユーさんですか」
と信子は笑顔で彼のことばを復唱した上で、優しく彼に口づけをした。
 
彼は自分で新しい《帽子》を装着した上で、信子の身体の上にのしかかった来た。
 

2013年12月13日(金)。政子が1年半付き合った恋人・道治君と別れてしまった。政子は実は彼と付き合っているのと並行して、高校時代のクラスメイト貴昭君とも「友だち以上」の関係を続けており、実質的に二股状態にあった。それで結局悩んだ末、貴昭君の方を選んだのかな?とも思っていたのだが、政子は貴昭君とは「今まで通り」で、「お友達」としての関係を続けていくと言っていた。
 
政子のことはちょっと心配だったのだが、15日(日)には毎年恒例となっている蘭若アスカのリサイタルで、私はピアノ伴奏、政子は司会をすることになっていた。ふたりで一緒に出かけて行き、14日のリハーサル、15日の本番としている内は、政子も結構元気な感じであった。
 
15日のリサイタルが終わり、簡単な食事をしたが、この時、政子が「ごく普通の女の子並み」の食欲しか無いようだったので、やはり彼氏と別れたショックは大きいのかなとも思った。政子が疲れているようなので先に帰し、その後、私はアスカの自宅に寄ってから帰宅したのだが、マンションに戻ってみると、政子はボーっとした感じで居間に座っており、TVは砂嵐の状態で放置されていた。
 
「ただいま」
と言って私は政子にキスする。
 
「あ、おかえり、冬」
「明日ちょっと遠出しようか?」
「どこ行くの?」
「ちょっと富山まで」
「青葉に会いに行くの?」
「鈴鹿美里の鈴鹿ちゃんが去勢手術を受けるんだよ。その付き添いというか、お見舞いというか」
と私が言うと政子はいきなり元気になって
 
「行く!」
と笑顔で言った。
 
「そうか。美里もとうとう女の子になるのか」
「手術を受けるのは鈴鹿の方だよ」
「あれ?男の娘なのは美里じゃ無かったっけ?」
「鈴鹿だよ。それと性転換手術ではなくて去勢手術。睾丸を取るだけ」
「おちんちんは取らないの?」
「そこまでは倫理委員会の許可が下りてないし、ご両親も最低18歳になってから考えようよと言っている」
 
「鈴鹿、何歳だっけ?」
「15歳の中学3年生」
「青葉は15歳で性転換手術を受けたよね?」
「あれは物凄く特殊なケースだったから。普通は18歳以上でないと手術してもらえない」
「なんで?こんなの出来るだけ早く手術した方がいいのに。できたら第2次性徴が出始める前の10歳くらいまでに手術すべきだよ」
と政子は言う。
 
「当事者の気持ちとしてはそうなんだけどね〜」
と私はため息をついて答えた。
 
「冬だって実際10歳か11歳くらいで手術してるんでしょ?」
「あんまりそれ言われているんで自分でも自信が無くなって来た」
 

それで私たちは鈴鹿のお母さんとも連絡を取った上で、12月16日(月)の朝から富山県に向かった。
 
東京1012-1127越後湯沢1138-1352高岡
 
お昼は越後湯沢駅で買った駅弁を《特急はくたか》の車内で食べた。駒子弁当、いくらたらこめし、かにずし、雪国弁当、などと買ってシェアする。
 
「駒子って誰だっけ?」
「川端康成の『雪国』のヒロインだよ」
「あ、あの話、この付近だっけ?」
「うん。湯沢温泉の話。国境の長いトンネルってのは清水トンネルで今は上越線も上下1本ずつ通っているけど、当時は単線で運用されていた」
 
「長いの?」
「10km近い」
「長いね!」
「このトンネルが出来る前は、高崎から新潟に行くには、碓氷峠(うすいとうげ)を越えて直江津から回り込むしか無かったんだよ」
「うっそー!?そんな遠回りするの?」
 
「それを谷川岳の下を突っ切る大トンネルを掘って直結したから、東京−新潟間はそれまで11時間掛かっていたのが4時間も短縮されて7時間で行けるようになった。それで川端康成もこのトンネルを通って湯沢温泉にやってきたんだね」
 
「なんか今だと当たり前にある物が昔は大変だったんだね」
と言ってから政子は言った。
 
「でも昔は蒸気機関車でしょ?10kmもトンネル走ってたら、むせない?」
 
「いや、むせるどころか窒息死するよ。だから清水トンネルは開通当初から電気機関車」
「電気機関車があったんだ!?」
「日本最初の電気機関車は、その直江津方面の信越本線・碓氷峠で使用されたドイツ製の電気機関車。あまりにも急勾配で、蒸気機関車では物凄いノロノロ運転を強いられていたから」
「おぉ」
 
「清水トンネルに投入されたのはアメリカ製の電気機関車を参考にして、国内でこの区間のために新たに製造されたものだよ」
「国産第一号か」
「第一号ではないけど、ごく初期の型だね」
 
「丹那トンネルはいつできたんだっけ?」
「清水トンネルの3年後。あちらは悲惨な難工事になったね。距離は向こうが短いのに費用は10倍くらい掛かっているし、殉職者も多い。向こうも当初から電気機関車で運用された」
「へー」
 
「でもロンドンの地下鉄は当初蒸気機関車だったんだよね。あれは電気機関車が実用化されるより前に開業してるから」
 
「それどうなる訳?」
「当然煤だらけになる。しばしば火事も起きていた」
「なんて危ない乗り物なんだ」
 
「煤って発癌物質だよね?」
と政子が確かめるように私に訊く。
 
「うん。だから昔のロンドンの煙突掃除屋さんたちは睾丸癌とかで死亡する人も多かったと言うよ。そういう論文が18世紀に書かれている」
 
「睾丸に行くんだ?」
「陰嚢にひだがたくさんあるから、そこに煤が溜まりやすい。昔は掃除した後、お風呂とかにも入れなかったろうし」
「怖いなあ」
 

高岡からは万葉線に乗り継いで最寄り駅まで行き、その後はタクシーを使った。
 
「これ青葉の家の近くだっけ?」
と政子が訊く。
「そうそう。この川(小矢部川)の向こう側だけどね。青葉も学校が終わってから来て、鈴鹿のヒーリングをしてくれることになっている」
 
「大きい川だね」
「うん。大きな船がけっこう内陸まで入って行けるようになっているから」
「あ?色々工事してるんだ?」
「明治時代には県の予算の半分を注ぎ込んで大改修工事とかしたみたいだよ」
「ひゃー」
「ここだけじゃなくて、黒部川とか神通川とかと合わせてだけどね」
 

鈴鹿本人と双子の妹・美里にご両親は朝7時の便で富山に向かい、既に入院している。
 
「やっほー。元気?」
などと政子が声を掛けて病室に入っていく。
 
「あ、ケイ先生、マリ先生、おはようございます」
とベッドに寝ている鈴鹿とそばに座っている美里が挨拶する。
 
「両親は今売店の方に行っているんですよ」
「ご両親は何か言ってた?」
 
「母からは1度だけ『ほんとうに手術していいのね?』と訊かれたので、『手術したい』とはっきり言いました。父は『考え直すつもりは無いか?』と何度も言ってますが、『考え直したりしないよ』と言ってます」
 
「こういうのは父親の方が辛いよ。たぶん」
「父の気持ちは分かりますけど、自分の気持ちを優先させてもらいます」
「うん」
 
「ついでに松井先生からは『一緒におちんちんも取らない?』と言われたんですけど」
と鈴鹿は言う。
「あの先生なら言うだろうね」
と言って私は笑う。
 
「私は取りたいけど、両親の許しが出ないのでと言ったら、取っちゃっえば既成事実は認めるしかないよ、などと言われてかなり心が揺れましたよ」
 
「さすがにそれやっちゃうと、ご両親が松井先生を訴えるよ」
「ですよねー」
 

「手術同意書はもう書いた?」
と私が訊くと
「書きました。父も署名してくれました」
と鈴鹿は答える。
 
「手術同意書って、親も署名するの?」
と政子が訊く。
 
「未成年の場合は親権者の同意が必要だよ」
と私は答える。
 
「それって法的な問題?」
「手術への同意は《法律行為》ではないらしい。だから、同意書を書いてもらうのは半分は訴訟リスクを減らすためだと思う。だから本人と親権者の双方の署名を求める」
 
「逆に親権者だけが同意してもダメなのね?」
 
「そりゃ本人が去勢するの嫌だと言っているのに親がやってくださいと言って手術しちゃうなんてのはあり得ないよ」
 
「今、一瞬鬼畜な物語を妄想したのに」
「まあ、そういう漫画とかありがちだけどね」
 

私たちが病院を訪れてから1時間ほどで手術の時間になり、鈴鹿が笑顔で手を振って手術室に運ばれていく。
 
私たちは美里やご両親と話しながら待っていたが、手術は30分もせずに終了して、鈴鹿はまた笑顔で手を振って手術室から運び出されてきた。
 
「すず、どんな感じ?」
と美里が訊く。
「まだ麻酔が効いてて分からないよ」
と鈴鹿は言っている。
 
「お父ちゃん、ごめんね。私、もう男の子じゃなくなっちゃった」
と鈴鹿が父に言う。
 
「まあお前が選んだ道だから仕方ない。変に迷ったりせずにしっかり自分の道を歩みなさい。でも悩んだら母ちゃんでもいいから、遠慮無く相談しろよ」
と父は言った。
 
「うん、ありがとう」
 

手術が終わってから少しした所で青葉がやってきてヒーリングをしてくれた。
 
「麻酔が切れた後の痛みが小さくなりますかね?」
「あまり変わらないかもね」
「あはは」
「ただ、傷の治りは早くなるはず」
「助かります」
 
「抜糸とかは必要なかったんですよね?」
とお母さんが訊く。
 
「溶ける糸で縫うって先生言ってたよ」
と美里。
 
「あ、そうだったっけ?」
 
どうも一同の中では美里がいちばん冷静なようであった。
 

17時頃になって麻酔が切れ始めたようであったが、痛みは充分我慢できる範囲のようであった。
 
「性転換手術の時はこんなものじゃないんだろうけどなあ」
と本人は言っている。
 
「まあ痛かったよ」
と青葉は言う。
 
「ちょっと気が重いけど、それを通過しないと女の子になれないからなあ」
と鈴鹿。
 
「朝起きたら女の子になってた、なんてのなら楽なんだろうけどね」
と美里。
 
「それはやはり鈴鹿が眠っている内にこっそり手術室に運び込んで手術してしまうとか」
と政子。
 
「昔はそういう《不意打ち》方式の病院もあったらしいです。患者の恐怖心を煽らないようにというので」
と青葉。
「それは恐怖心は煽らないかも知れないけど、そういう病院には掛かりたくない」
と私。
 
「それどころか、直前になって患者さんが怖くなって、やっぱり手術やめると言い出しても、男性看護師数人で身体を拘束して強引に手術室に連行して、麻酔掛けて性転換しちゃうなんて病院もあったらしいですよ」
と青葉は言う。
 
「それ日本じゃないよね?」
と鈴鹿の父が嫌そうな顔をして言っているが、政子はその話を聞いてキラキラした目をしていた。
 

「朝起きたら、女の子になってたんだよ」
とその子は言った。
 
「そんな馬鹿な話を誰か信じると思う?」
と彼女は言う。
 
「信じる訳無いと思う。だから誰にも言わない」
とその子は言う。
 
「おっぱいも随分大きい。これシリコン?女性ホルモン?」
「これ、ブレストフォームを貼り付けられた夢を見たんだよ。だからブレストフォームだと思っていた。でも、肌との境目が無いし。そもそも触った時に触られている感じがあるし、数日悩んだ結果、これはブレストフォームではなく、本物だという結論に達した」
 
「これは間違いなく本物のおっぱいだと思うよ。ホルモンだけで育てたのならたぶん3年は掛かっていると思う。年齢を考えたら、中学生の頃からホルモン飲んでなきゃあり得ない」
と言いながら、彼女はおっぱいを揉んでいたが
 
「これはシリコンじゃ無いよ。このおっぱいは本物の脂肪でできている」
と彼女は言った。
 
「こちらも間違いなく女の子の形だね」
と言って彼女は下の方にも(使い捨て手袋を付けて)触ってみている。あそこに指を入れられてビクッとする。
 
「実はHもしてみたから間違いなく女の子の形」
「Hって誰としたのさ?」
「それは聞かないで。彼と恋人とかになる予定もないし」
「ふーん。でもこの後、どうするの?」
 
「どっちみち私、結婚とかはできないだろうと思ってたし、それなら別に身体は男でも女でも大差ないから、このままかなあ」
 
「大差無いねぇ。戸籍はどうする訳?」
「どうしよう?」
「病院に行って診断書書いてもらいなよ。そしたら性別変更できるよ」
「え〜〜!?」
 
「取り敢えず年明けからでもいいから、フルタイムになった方がいいと思う」
「フルタイムって?」
とその子が訊くと、彼女は呆れたように言う。
 
「24時間365日女の子の格好でいるということ」
「え〜?恥ずかしい」
「性転換までしておいて、女装を恥ずかしがる意味が分からん。結構な覚悟して手術を受けたんでしょ?」
 
「いやだから手術なんて受けた覚えはないのに、目が覚めたら女の子の形になってて、トイレで見て仰天したんだよ」
 
「うーん・・・」
と彼女は腕を組んで考えた。
 
「ちなみに男の身体に戻りたい訳じゃないよね?」
「それは無い。女の子の身体のままでいいと思っている」
 
「だったら女装生活には移行した方がいい」
「やはりそうかな」
「そのくらいは勇気出して頑張りなよ。私も応援するし、みんなも応援してくれるよ」
 
「あと少し考えさせて」
「じゃクリスマスまでに決断しなさいよ」
「うん。それまでに決断する」
 

2013年の12月はイベントが盛りだくさんであった。
 
私と政子は12月2日に卒論を提出した。同日、国士館で今月下旬に08年組の3日連続ライブをすることを発表した(21 XANFUS, 22 KARION 23 Rose+Lily).
 
12月4日にはスターキッズの新しいアルバム『Moon Road』が発売されたが、この発表記者会見の席で近藤さんと七星さんは、記者達の前で三三九度をして、この日結婚することを発表、そのあと披露宴を開くことも発表して、記者たちの度肝を抜いた。結婚式当日に発表するという、サプライズ結婚であったものの、多数の人が披露宴会場には来て祝福してくれた。
 
12月8日にはYS大賞が発表されてローズ+リリー『花園の君』、KARION『アメノウズメ』がどちらも優秀賞を頂いた。この時点では私はまだKARIONのメンバーであることを公表していないので歌唱は和泉・小風・美空ともうひとりはコーラス隊として入った《愛の風》の美奈子が私のパートを歌ってくれている。
 
この日蘭若アスカはドイツで行われたヴァイオリン・コンクールで美事優勝した。彼女は伴奏者の古城美野里とともに12日朝帰国し、その帰国を私と一緒に迎えた★★レコードの大高さんからぜひアスカのCDを出させてくださいと申し込まれていた。
 
15日はその帰国したばかりのアスカのリサイタルを都内で行い、これは私がいつものように伴奏した。
 
そして16-17日は富山まで往復して去勢手術を受けた鈴鹿を見舞う。この時、鈴鹿のヒーリングをしてくれた青葉は、お母さん(桃香の実母)とともに21日には東京に出てきて1月5日まで滞在した。
 
その21日から23日は08年組の国士館ライブであったが、私たちは各々他の組の演奏にも参加したので、結局全員が3日間稼働した。
 
23日がローズ+リリーの演奏だったのだが、このオープニングで私たちは2009年以来毎年2枚くらいのペースで楽曲を発表していた謎の4人組コーラス・グループ《ロリータ・スプラウト》が実はローズ+リリーであったことを公開し、観客をそして全国のファンを驚かせた。
 
この後、27日にワンティスの《代替演奏者ライブ》、29日にサトと甲斐鈴香の結婚式、29日篠田その歌の引退ライブ、30日RC大賞、31-1日は年越ライブに新年ライブ、1月4日にトラベリングベルズのDAIの結婚式と続いて、1月5日##放送の《08年組特集》でKARIONが実は4人組であったことを公表して、その後半月ほどにわたって全国のポップスファンの間で大きな話題と議論を巻き起こすことになる。
 

23日のライブでロリータ・スプラウトの「正体」を明かした件に付いては、24日にあらためて★★レコードで記者会見を開き、当時私たちが名前を隠して音楽活動を続けていた背景について説明したのだが、その記者会見が終わったあと、私と政子は氷川さんから
 
「会わせたい人がある」
と言われ、別室に行く。
 
ここで私たちが引き合わされたのが、ゴールデンシックスの2人、カノンとリノンであった。加藤課長も同席していた。
 
同世代ということもあり私たちはすぐに彼女たちとお互い友だち言葉で話すようになるのだが、当初ふたりは丁寧な敬語を私たちに使った。
 
「おはようございます。ゴールデンシックスと申します」
と声をそろえて言ったカノン・リノンは実際この時、物凄く緊張していた感じであった。
 
「私はゴールデンシックスのリーダーでカノンこと南国花野子です」
「私はゴールデンシックスのサブリーダーでリノンこと矢嶋梨乃です」
と個別にも名前を名乗る。
 
「ゴールデンシックスって6人組ですか?」
「あ、いえ。最初は6人居たのですが、1人辞め2人辞めで、とうとうこの2人になってしまいまして」
「まあ、それはよくあることですね」
 
この時点ではカノンたち自身も何の仕事をするのか、聞かされていなかったらしい。
 
「まずゴールデンシックスに歌ってもらおうかな」
と加藤さんが言うので、彼女たちは自分たちの持ち歌で、今年リリースしたアルバムの中に入っているらしい『渚の美女』という曲をマイナスワン音源で歌った。
 

私は途中から思わず指でリズムを取りながら聴いていた。そして歌が終わるとパチパチパチと大きな拍手をした。
 
「ブラーヴァ! 君たち凄いうまいね」
と私は笑顔で言う。
 
「ありがとうございます」
と声をそろえて言って、カノンとリノンも笑顔である。歌ったことでかなり緊張が解けたのだろう。
 
「うまいでしょ?ケイちゃん脅威を感じない?」
と加藤課長。
「負けるつもりは無いですけど、凄く上手いですよ」
 
「『負けるつもりは無い』とわざわざケイちゃんが言うほど上手いということだな」
 
「そうですね。あ、お二人は何歳ですか?」
「ケイさんたちの1つ上の学年です」
 
「ほぼ同世代ですね。それと、この伴奏は生演奏ですよね?打ち込みには聞こえなかった」
と私は訊く。
 
「はい。生演奏です。私たちで演奏しました」
「楽器の音が6つあった。ギター2つ、ベース、ドラムス、フルート、ヴァイオリン。多重録音ですか?」
 
「実は音源製作の時だけ、旧メンバーに協力してもらっているんです」
とカノンが説明する。
「多重録音すると、それだけ長時間スタジオを使うからお金も掛かるので」
とリノン。
「昔の友人たちだったら、タダで使えるもので」
とカノン。
 
「なるほど、なるほど。でもそういうのいいね。特にフルートとヴァイオリンが物凄く上手かったけど」
 
「ヴァイオリン弾いているのは芸大の大学院に在学中でプロのヴァイオリニストとしても活動している人です。彼女はピアノも物凄く上手いです。フルートを吹いているのは専門の教育を受けた訳ではないですが、横笛の名手でフルートの他、龍笛・篠笛なども吹きこなします。実は商業的にプレスされた歌手の音源製作にも多数関わっている人なんです」
 
「どちらもプロなんだ!それが君たちのユニットの元メンバーなの?」
「正確にはゴールデンシックスの元になったDRKというバンドのメンバーで、実はゴールデンシックスの曲の大半は、この2人が書いているんですよ」
 
「なるほどー。曲を書いているのはプロなのか。曲自体が凄くいい出来だと思った」
と私は笑顔で言った。
 

「まあそういう訳で、実は春のローズ+リリーのツアーで、こういう悪戯をしようよという提案が出ていたんだよ」
 
と言って加藤課長は初めてその計画を明らかにした。
 
「ローズ+リリーのステージが途中の休憩をはさんで前半・後半が終わり、ローズ+リリーは最後の曲を演奏して下がる。そこでお客さんがアンコールの拍手をする。それで幕が開く」
 
「はい」
「ところがそこに居るのはローズ+リリーではなく別の女の子2人組」
「ほほぉ!」
「それで勝手に1曲歌っちゃう」
「面白いですね」
と私は言う。
 
カノンたちも興味深そうに聞いている。
 
「それでケイちゃんたちが出て行って『君たち誰?』と言う。それが南国さんたちが『私たちはゴールデンセックスだ。私たちはローズ+リリーに勝負を挑むぞ』と言う」
と課長が言うと
 
「すみません。ゴールデンシックスです」
とカノンが言う。
 
「あれ?今僕何て言った?」
「ゴールデンセックスとおっしゃいました」
と氷川さん。
 
「ごめーん!」
と言って課長が赤くなっている。
 
政子は面白がっている。
 
「あのアドレスに郵送したよと言う所を間違ってあのドレスで女装したよと言う程度の間違いだよね」
 
などと言うが
 
「それはマリさんだけです」
と氷川さんから言われている。
 
「まあそれで、カノンちゃんとケイちゃんで勝負して、勝った方がアンコールの演奏をするという趣旨なのよ。実はアンコールまでお客さんをあまり待たせないようにするための仕掛けなんだけどね」
と氷川さんは課長の後を引き継いで説明した。
 
「待たせないのはいいことですね。それで何(なに)で勝負するんですか?」
 
「カラオケ。ローズ+リリーの曲でもゴールデン・・・シックスの曲でもない曲で勝負する。カラオケの採点機で出た点数で勝敗を決める」
と加藤課長が言う。“シックス”の所を慎重に発音した。
 
「それ、勝負はガチですよね?」
と私は確認した。
 
「ガチ。ケイちゃん負けないよね?」
と加藤さんが言うので
「負けません。その勝負受けます」
と私は厳しい顔で答えた。
 
「南国君、この勝負やる?」
と加藤さんが訊く。
 
カノンはその内容に驚いているようであったが、笑顔で答えた。
 
「ぜひ挑戦させてください。そしてケイさんに勝ってアンコールはゴールデンシックスが演奏させて頂きます」
 
「じゃ勝負」
と言って私は笑顔でカノンに握手を求める。
 
「はい、頑張りましょう」
と言ってカノンは私の手をしっかり握って握手した。
 

「ゴールデンシックスは今制作途中のアルバムがあって春頃リリース予定と言ってたよね?」
と加藤課長が訊く。
 
「あ、はい」
 
「それでさ。その中から2曲ピックアップして先行シングルの形でローズ+リリーのツアー前にインディーズからリリースしてもらえないかな。それをこのローズ+リリーのツアーで宣伝していいから。それで6月までに5000枚売れたら、君たちもメジャーデビューというのはどう?」
と加藤さん。
 
「課長、インディーズで5000枚は厳しいです。せめて1000枚にしませんか?」
と私は言った。
 
リュークガールズでさえ1000枚プレスしたCDを売り切るのに数年かかっている、
 
「いえその条件で頑張ります。5000枚売れるように知り合いとか通して情報を流します」
とカノンは言う。
 
「メジャーデビューなんて、めったに無いチャンスだし頑張ります」
とリノンも言っている。
 
その表情を見て彼女たちは、ひょっとして3000-4000枚程度なら売るかも知れないという気がした。そのくらいの水準まで行けば条件付きデビューに話が進むのはあり得る。
 
「ケイちゃんたちは特に彼女たちの広報はしないということで」
と課長。
 
「分かりました。あくまで勝負ですね」
 
と言いつつ、私はここに《自分たちを追いかけてくる強力なライバル》が誕生しかかっていることを感じた。
 

「でもどこでこんな歌の上手い2人組を見つけたんですか?この企画って、このくらい上手い人で、名前は知られていなくて、しかも私たちと似たような世代の2人組でないと成り立ちませんよね?」
 
と私は訊いた。ただの女の子2人組のセミプロ歌手ならたくさんいるだろうが、最低でも音程やリズムを外さない人でないとカラオケ勝負が面白くなくなる。しかし実に困ったことに、セミプロどころかプロ歌手として活動している人の中でも、そのレベルの歌唱力を持つのはごく一握りにすぎない。お客さんが「ひょっとして向こうが勝つかも」と思うくらい上手い子でなければならない。
 
またあまり下の世代だと、「勝負」という感じにならない。こちらも高校生とか相手ではさすがに全力ではやりにくい。
 
「それが私が1階のカフェで偶然相席になってお話ししてたら、彼女たちがユニット組んでてインディーズでCD出していると聞いたので、聴かせてと言ってCD1枚頂いたのよ。それ聴いたらすばらしい出来だったから、これは使えると思ったのよね」
と氷川さんは言う。
 
「凄い遭遇ですね!」
 
「正直、夏くらいのケイちゃんだったら、勝負は分からないと思ったよ」
と氷川さんはニヤリとして付け加えるので
 
「こちらも春までにまだまだ鍛錬しますよ」
と私は笑顔で答えた。
 
カノンはじっと私の顔を見つめていた。
 

「ところで私は勝負しなくていいの?」
と政子が訊く。
 
「じゃ、マリちゃんはリノンちゃんと勝負で、というのはどう?」
と氷川さんが提案する。
 
「え!?」
と加藤さんが凄く嫌そうな顔をした。
 
しかしマリは
「やります!やります!」
と元気に答える。
 
「私もやりたいです。マリさん頑張りましょう」
と言ってリノンとマリが握手している。
 
「だったら、マリちゃん。卒論も終わったし、これから春まで毎日4時間は歌の練習」
と加藤課長は氷川さんに咎めるような視線を投げかけながら言った。当の氷川さんは涼しい顔である。
 
「はい頑張ります」
とマリは答える。
 
しかしリノンは
「だったら私は5時間練習しよう」
と言う。
 
それでマリは
「じゃ私は6時間練習」
と言った。
 
「うーん。。。それ以上は今すぐ会社辞めない限り無理だ」
とリノンは悔しそうに言っていた。
 
「リノンちゃんとケイちゃんの勝負でもいいよね」
と氷川さんは言っている。
 
「あ、それでもいいですよー。私頑張ります」
 
「でもカノンちゃんとマリちゃんの勝負はしないということにしない?」
と氷川さん。
 
「大人の事情ですね」
とカノンが言っている。
 
「それが平和だね」
と私も言って、私とカノンはあらためて握手をした。
 
 
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【夏の日の想い出・辞める時】(1)