【夏の日の想い出・辞める時】(2)

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「どうしても辞めちゃうの?」
と残念そうに揚羽が言うと、雪子は良心が痛む思いだった。
 
「卒論をまとめあげるのにちょっとかなり本腰入れて取り組まないとやばいのよ」
と雪子は高校時代以来の親友に言い訳をした。
 
「まあ卒業できなかったらやばいしね。だったら、卒論が終わってから復帰するとかは?」
「私自身、ちょっと精神的に疲労が溜まってるからしばらくバスケのことは考えたくなくて」
「でもユキに辞められるのは、私も辛いなあ」
「ごめんねー」
 
それで何とか辞めさせてもらったものの、雪子は小学2年生の時以来続けてきたバスケから離れたことで、大きな喪失感を感じていた。
 
「私、明日から学校が終わった後何をすればいいんだろう?」
などと考え、心の中に暴風雨が吹き荒れているような思いだった。
 
「失恋したような感覚かなあ」
と雪子はひとりごとを言った。
 

12月12日。ここ数日ちょっとお腹が痛いなと思いつつも、ビオフェルミンを飲んでボイトレのレッスンに出てきた信子は、レッスンを終えてから帰宅する前にトイレに入って、ふっと大きく息をついた。
 
かなりいい感じで女の子っぽい声が出るようになった。またボイストレーナーさんからは、声そのもの以上に話し方やイントネーションの指導を受けたが、
 
「そもそも君の話し方は女の子っぽい」
とも言われた。
 
信子はボイストレーニングには女の子の格好で、お化粧もして通っている。化粧品は最初は正隆たちに買ってもらったダイソーの化粧品(アイカラーとリップを除く)を使っていたのだが、ファンデもいいのを使おうかなと思い、マックスファクターのコンパクトを買ったが、すごく塗った感触がいいし、化粧崩れしにくいので、さっすがマックスファクター!と思った。この会社の製品は、元々ハリウッドの女優さんたちが激しい撮影をしていても、化粧崩れしにくい化粧品が欲しいと言って開発されたもので、結果的には“男の子”の女性よりどうしても脂っぽい肌でも化粧崩れがしにくい、と以前テレビでニューハーフタレントさんが言っていたのである。
 
化粧崩れのしにくさは、信子も実感していた。
 

便器に座ってからおしっこをして、あのあたりをトイレットペーパーで拭く。この一連の動作もすっかり慣れてしまった。
 
むろん信子は女子トイレを使用している。教室の人からも「普段女子トイレを使用しておられるのでしたら、ここでも女子トイレを使って構いませんよ」と言ってもらっている。
 
信子は女装したまま、デパート、駅、コンビニなど、色々な場所でわざわざ女子トイレを使ってみていた。そして女子トイレの利用に完全に味を占めていた。大学でも(女装はしていないものの)わざわざ他の学部の建物まで行って女子トイレを使っていた。信子は女子トイレに入っても騒がれないように、性別が曖昧な感じの服装をして、眉毛は細くしている。
 
しかし、自分がほんの1ヶ月ほど前まで男子トイレを使っていたことがもう遙か大昔のことのような気もしてしまう。今はむしろ男子トイレに入ることに心理的な抵抗を感じるのである。
 
この日、トイレットペーパーであのあたりを拭いた時、信子は
 
え?
 
と思った。ペーパーに血が付いていたのである。
 
嘘!?どこか怪我した?それとも性転換手術(を受けた覚えはないのだが)の傷がどこか開いちゃった??
 
信子はこれどうすればいいんだろう?病院とかに行くべきなんだろうか?と大いに焦っていた。
 

彼女はその娘に錠剤を見せてから言った。
 
「このお薬は今まで月に1度注射してもらっていたお薬よりずっと強い。この薬を飲んだら、あんたはもう男の子には戻れなくなる。後で気が変わっても女の子として生きて行くしかない。そしてこの薬は一生飲み続けなければいけない。私はこの薬を飲むかどうかの判断をあんたができる年齢になるまで待っていた。あんたが、この薬を飲んでも後悔しないと思うなら、この薬を取って飲みなさい」
 
娘は黙って薬を取ると
「何錠飲めばいいの?」
と訊いた。
 
「当面は1日2錠。もう少しおとなになったら1日3錠に増やす」
「ママ、お水ちょうだい」
 
「うん」
 
彼女がぬるま湯をコップに入れて持ってくると、娘は錠剤を2つ出して飲み、コップのぬるま湯で流し込んだ。
 
「これで私、男の子を辞めることができたよね?」
 
と言ってニッコリ微笑む。
 
「うん。もうあんたは女の子だよ」
と彼女も微笑んで言った。
 
そして娘は更に言った。
「私も女の子になったから、ママもちゃんと女の子になりなよ」
 
すると彼女は少し考えてから言った。
「そうしちゃおうかな」
 
「うん」
と娘は笑顔で言った。
 

暢子はじっと彼と見つめ合っていた。
 
「この点が妥協できない限り、私たちの結婚は無いよね?」
「いやだから何もバスケを辞めろと言っている訳じゃない」
「私はバスケが第1優先でなければ嫌だ。その条件では私は月に2回程度しか練習ができん。そんな生活をする気にはなれん」
 
彼は答えなかった。
 
「私に7年間夢を与えてくれてありがとう。でも私はバスケを辞めるより君の恋人を辞めることにする」
 
彼はすぐに返事をしなかったがやがて言った。
「僕は君と結婚したい」
 
暢子は言った。
「私はバスケがしたい。これ返すね」
 
暢子はバッグの中から青い宝石ケースを取り出すと、彼の前に差し出した。
 
「じゃ、さよなら」
 
と言って自分の飲んだコーヒー代をテーブルの上に置き、席を立つとまっすぐにお店の出口へと向かった。
 
「待って。僕は君が好きなんだ」
と彼が言ったが、暢子は振り返らなかった。
 

2013年12月4日に近藤さんと七星さんがスターキッズの新譜発表に合わせて、記者会見の席で三三九度を敢行。《記者前結婚式》を挙げた上で、今夜披露宴やります!と突如発表した。
 
突如発表したわりには多数の人が来てくれた。
 
私たちの盟友ともいうべき、KARIONの和泉・小風・美空、XANFUSの光帆・音羽、mike, noir, yuki, kiji, 神崎美恩・浜名麻梨奈、AYAのゆみ、それに色々関わりの多いスリーピーマイスの3人、スイートヴァニラズの5人、そして私たちが楽曲を提供している坂井真紅・山村星歌・富士宮ノエル・小野寺イルザなどのアイドル歌手、また私の「元先生」である松原珠妃、その経歴と年代の類似性から私たちのライバルのひとりとみなす人もある貝瀬日南、そのほか秋風コスモス、川崎ゆりこ、桜野みちるなどの§§プロのアイドルたち、またローズクォーツグランドオーケストラのメンバーで都合のついた人たち。
 
このほか、上島雷太・雨宮三森・後藤正俊・蔵田孝治・田中晶星・東郷誠一・ゆきみすず、といった作曲家の先生たち、今の歌謡界のトップスターともいうべき、松浦紗雪・保坂早穂といった面々まで来てくれた。
 
七星さんや近藤さんの交友範囲の広さを表す感じである。
 
私と政子は「仲人」を仰せつかって、来てくれた人たちとたくさん挨拶を交わしていたのだが、ふと見たら保坂早穂さんと鮎川ゆまが何か話している様子だったので、あの2人何か関わりがあったっけ?と私は考えていた。
 

12月24日。私は夕方からFM局の生番組に出演した後、鶏肉や牛肉など食材を大量に買ってきて、自宅マンションで料理を作り始めた。政子が邪魔をするので困っていたら、美空と小風がやってきて、美空は政子の相手をしてくれて、小風は料理の手伝いをしてくれた。
 
21時頃にローズクォーツのタカとサト、トラベリングベルズの相沢さん・黒木さんがほとんど同時に来た。
 
22時頃になって七星さん、23時すぎに仕事を終えた和泉が来る。そして0時すぎてから、XANFUSの光帆と音羽、神崎美恩と浜名麻梨奈、パープルキャッツのmike, kiji, yuki, noir が一緒に来た。
 
「クリスマスケーキ買ってきたよぉ」
と言って光帆・音羽がホールケーキの箱両手に1個ずつ抱えていたのをテーブルの上に置いた。
 
「じゃ始めようか」
 
「メリークリスマス!」
と和泉が音頭を取ってシャンパンで乾杯する。
 
「まあそういう訳で今日はケイが重大な告白をするらしい」
と和泉は言う。
 
「まあ正直そろそろ限界かなとは思っていたんだよね」
と私が言うので
 
「とうとう性転換手術を受けるの?」
と小風が茶々を入れる。
 
「今性転換したら男に戻っちゃうじゃん!」
と私。
 
「何の告白?マリちゃんと結婚するの?」
と音羽。
 
「音羽たちは、私とマリが結婚したら、それを前例に自分たちも結婚しようと思ってない?」
「まあ、それはあるが、現時点では結婚するのは契約違反だ」
 

「で、何を告白するの?」
と浜名麻梨奈(深見鏡子)が訊く。
 
「1月5日に放送予定のビデオを見てもらった方がいい」
と言って、私は放送局の人にコピーさせてもらってきた、5日の08年組特集で放送される予定のロンダと和泉の対談をパソコンで再生させた。
 
「嘘!?」
という声が多数からあがる。
 
「水沢歌月=蘭子って、実は歌唱にも参加してたんだ!?」
とみんな驚いている。
 
「いや、KARIONの曲には確かに4声の歌が異様に多いと思っていた。ほぼ全てがそうだとは思わなかったけど」
と浜名が言う。
 
「ね、もしかして、その水沢歌月=蘭子って、私たちが既に知っている人?」
とmikeが尋ねた。
 
「この場に居るよ」
と和泉は答えた。
 
「え〜〜〜〜!?」
と驚きの声が上がったが、美空・政子がニヤニヤしているし、小風が笑いをこらえている。それで多くの人に正体が分かったようである。
 
「ね、あり得ないこととは思うけど、まさか蘭子=水沢歌月って、ケイなの?」
と神崎美恩が訊いた。
 
「正解」
と和泉が答える。
 
「うっそー!?」
「信じられない!」
 
タカやサトなども信じられないという顔をしている。
 
「じゃ、ケイって、ローズ+リリーとローズクォーツを兼任しながら、KARIONまでやりつつ、多数の歌手に楽曲を提供していたわけ?」
と浜名が呆れたような顔をして言う。
 
「うん。まあ。さすがにちょっと限界かなとは思っていた」
と私は正直に告白する。
 
するとタカが言った。
「前から思ってた。ケイはローズクォーツを辞めるべきだと思う」
 
「私が辞めてもいいの?」
「どう考えても、ケイはローズクォーツよりローズ+リリーの方で売れる。だから、クォーツの方にも出るのはもったいないと思う」
とタカは言う。
 

「というかさ。私たち言っていたんだよ。ケイって、実はもうローズクォーツを辞めているのではって」
と浜名。
 
「実際問題として、ケイは2012年春のツアーを最後に、ローズクォーツの活動にはほとんど参加してないでしょ?ローズクォーツのリクエスト大作戦にも出てないし、2012年春のツアーでもボーカルだけ担当してキーボードはヤスさんが弾いた」
 
「うん。実はあの時はとても負荷的に耐えられなかったんでヤスさんをお願いした。ラジオ番組も最初はどうしても他の歌手への楽曲提供のスケジュールが間に合わなくて町添さんの判断で欠席させてもらったんだけど、それが常態化してしまった」
と私は答える。
 
「ローズ+リリー+あなたを始めたからリクエスト大作戦は辞退したという説もあった」
「それはかなり真実」
「つまり、ローズクォーツを辞めてローズ+リリーを再開したのではと」
「うーん・・・」
 
「2012年2月にローズ+リリーの『天使に逢えたら/影たちの夜』が発売されて、4月の沖縄ライブでローズ+リリーのライブ活動が再開された。だから実際問題としてケイは2011年いっぱいでローズクォーツを辞めて2012年からはローズ+リリーを再開したのだろうと思っていた」
と浜名は言う。
 

「それに関しては異説もあってね」
音羽が言う。
 
「ケイがローズクォーツを辞めたのは2011年7月ではないかと」
と音羽が言うので、私はさすがに驚いて
「え〜〜!?」
と言った。
 
「だってその月はローズクォーツのシングル『一歩一歩』とアルバム『夢見るクリスタル』が出た一方で、ローズ+リリーの『Rose+Lily After 2 years』と『夏の日の想い出』が出ている。実際あの時、私と神崎はこれはケイがローズクォーツから卒業する記念のアルバム・シングルと、ローズ+リリーが活動再開する記念のアルバム・シングルだと思ったんだよね。After 2 yearsというのは2年間休んでごめんねというファンへのメッセージかと思った」
と浜名。
 
「あれは須藤さんは、逆にローズ+リリーの活動はこれで終わりでこれからはローズクォーツをやりますという意味で企画したんだけどね」
と私は一応説明する。
 
「ローズ+リリーが終わって2年なら、After 2 years from Rose+Lilyになる。Rose+Lily after 2 yearsなら、2年経ったローズ+リリーということになってどう考えても活動再開宣言」
 
「須藤さん、英語苦手だし」
 
「でも実際問題として、そのあとケイはローズクォーツから事実上離れている。逆にマリとケイで東北地方に何度もゲリラライブ行っていたのを多数の人に目撃されている」
 
「あれは何かしたかったんだよ」
 

「いや、そもそもローズクォーツなんてユニットは存在しなかったという説もある」
とyukiが言うと
 
「そんなぁ」
とタカが言った。
 
「要するに元々あったクォーツというバンドを売り出すため、ケイという有名ボーカルをフィーチャーしたキャンペーンをしてみただけという説」
とyukiは説明する。
 
「いや、それが実態かも知れんよ」
とサトは腕を組んで言った。
 
「でもどっちみち、もうケイはローズクォーツを卒業していいと思う。でないと死ぬよ。あとは俺たちが何とかするからさ」
とタカは言う。
 
「じゃその件はあと少しだけ考えさせて」
と私は言った。
 

某日深夜、都内の高級レストランの一室で、鮎川ゆまは保坂早穂と会っていた。実は一般の営業は終了しているのだが、常連の蔵田さんの「顔」で特別に1室だけ開けてもらっているのである。営業時間外なので、従業員はもう帰してオーナーシェフさん1人で対応してくれている。
 
「ゆまちゃんは、今何してるの?」
と保坂早穂は鮎川ゆまに尋ねた。
 
「実は仕事にあぶれています。取り敢えずサックスの先生とかして食いつないでいるんですよ」
とゆまは答える。
 
「誰かのプロデュースとかのお仕事紹介しようか?いいプロデューサーとか探しているアーティストは結構いるよ」
 
「そうですね。それはまたそんなお話もしてもらえたら助かりますが、それより実は古い友人のことがひじょうに気になっていて」
とゆまは今日保坂をこの席に招待(軍資金は蔵田さんからもらった)した趣旨を話し始めた。
 
「ローズクォーツがケイ抜きで、そんなに赤字が出ているというのはおかしい」
と保坂さんは言った。
 
「あそこの事務所は○○プロの実質的な傘下にあるんでしょ?」
とゆまは言う。
 
保坂は○○プロの取締役に名を連ねている。
 
「うん。資本的な関係は無いけど、営業的には○○プロの存在があってこそ、△△社もUTPも仕事ができる。でもなんでそんなに赤字が出る訳?だってローズクォーツってゴールドディスクたくさん出してるよね。それにテレビの素人歌合戦だっけ?あれにも毎週出てるのに。普通ならメンバーに高額の報酬を払えるはず」
 
「それがあって、結果的にケイは実質ローズクォーツから離れているのに、完全には離れることができずにいるんですよ。結果的にケイの負荷が増えているので、古くからの友人の私としては放っとけない気がして」
 
「ああ。やはり既に離れているよね?」
 
「今卒論をまとめるためという名目でローズクォーツを休んでますけど、実際にはローズ+リリーの方では精力的に活動していますし」
 
「だよね!」
 
「それでこの件を誰に相談したらいいかというので考えていた時に、披露宴会場で保坂さんにお会いしたので、ちょっとお話してみようと思いまして」
 
「ちょっとそのあたりの資料、そちらで掴んでる分だけでも、私んちに送ってくれない?」
 
「はい。私はこの機会にケイにはローズクォーツをきっちり辞めて本来のローズ+リリーの活動に全力投球して欲しいんですよ」
とゆまは言った。
 
「うん。ケイはロックシンガーじゃない。あの子はポップスシンガーだと思う。ケイはロッカーになるには、優等生すぎるんだ」
と保坂早穂は言った。
 

08年組のクリスマス会は12月25日の0時半頃から始まり、結局音羽・光帆にタカ・サト・TAKAO,SHINなどは朝まで飲み明かしたようだし、美空と政子は冷凍室の中の食材を勝手に開けては色々料理(?)を作ってかなり食べていたようだったが(牛ロース・ブロックの丸焼きなどといった、後で私が悲鳴をあげてしまったような恐ろしい物を作ったらしい)、私や和泉、七星さんなど“常識派”は2時くらいで休ませてもらった。
 
25日の午前中も私は年末の挨拶回りも兼ねてあちこちに顔を出し、FM局の番組にゲスト出演したりしてきた。午後からは27日の《ワンティス代理ライブ》の打合せをした。
 
夕方6時に新宿某所で、政子・千里・ゆま、そしてζζプロの青嶋制作部長と合流した。
 
「雪になったね」
「ホワイトクリスマスだね」
 
などと言い合う。青嶋さんが千里を知らないだろうし、政子・ゆま・千里が青嶋さんを知らないだろうからと思い、私が相互に紹介する。青嶋さんとゆまが名刺を交換していた。青嶋さんは政子にも名刺を渡していた。青嶋さんと千里はお互いに会釈をしているが、青嶋さんは千里には名刺を出さない。私は芸能界の外の人だから名刺不要と判断したかな?と思った。
 
(実際には青嶋さんと千里はチェリーツイン絡みで旧知の仲だったので会釈だけで終わってしまったことを、私は半年以上先に知ることとなる)
 
みんなで小田急の乗り場に移動するが、「今日はどこから来たの?」という話から、全員が違う路線で来ていたことが判明する。
 
私はFM局から地下鉄の半蔵門線→丸ノ内線。
政子はマンションから大江戸線。
千里は千葉方面から総武線→中央線。
ゆまは自宅から西武線。
青嶋さんはζζプロから山手線。
 
それが分かると千里が「まさにクロスロードだね」と言った。
 
一緒に小田急に乗って下北沢に行き、そこから7-8分歩いて、そのライブハウスに到達した。
 
「けっこう遠かったね」
と青嶋さんが言うが
「駅近くにある有名ライブハウスは料金も高いんですよ」
と千里が言う。
「なるほどー」
と青嶋さんは言ったが、この時、あれ?千里もこの付近のライブハウスを何かで使ったことがあるのだろうか?と一瞬考えた。
 
「千里何か楽器とかするんだっけ?」
「ヴァイオリンは弾くけど下手だよ」
「下手なんだ!?」
「移弦するとたちまち音程がおかしくなる」
「それって、単純な練習不足だと思う。なんなら少し教えてあげようか?」
「いや、それでなくても多忙すぎる冬をこれ以上多忙にしてはいけないから」
「うーん・・・実は夕べもそれみんなから指摘された」
 
そんなことを言っている時に、青嶋さんが、ちょっと不思議そうな表情をした。何だろうと思い、私は青嶋さんに「どうかしました?」と尋ねたが「いいえ」と言って彼女は微笑んだ。
 
(これも実は青嶋さんは千里が横笛の名手であることを知っていたからである。青嶋さんは守秘義務に従って、そのことを知らない人にわざわざ個人の情報をしゃべったりはしない習慣ができている)
 

到着したのが18:40くらいで、私は少し遅かったかなと思ったのだが、人はまだまばらであった。
 
ドリンク代は私がまとめて5人分2500円払い、あとで適当に調整することにする。それで中に入ってドリンクを引き替え、席に座っておしゃべりしていた。ゆまは水割り、千里はオレンジジュース、政子はコーラ、青嶋さんはウーロン茶、私はブラックコーヒーを取った。
 
ステージ上には既に最初の演奏者の楽器が並んでいる。おそらく「逆リハ」をしたのだろうと思った。対バンの出演者が本番でA→B→Cと演奏する場合、リハーサルは逆順にC→B→Aとする。こうすることでAのバンドはリハーサルの時のままのセッティングで演奏できるのである。
 
19:00。最初の出演者が出てきて各楽器の位置に就く。
 
サンタガールっぽい赤いワンピースを着て白いブーツを履いた信子がこちらを見て会釈するので私や千里も会釈を返したが、政子は
 
「きゃー!信子ちゃーん!!」
と大きな声で声援を送る。すると信子は笑顔で
「Thank you!!」
とお返事をしたが、その声に私も千里もゆまも顔を見合わせた。
 
彼女の声が充分女声に聞こえる声だったのである。
 
ステージ上の他のメンバーが驚いた表情で信子を一瞬見た。たぶん“信子”という名前で呼ばれたのに驚いたのではないかと私は思った。
 
おそらく“信子”という名前はあの出雲の地で生まれた名前だ。
 
軽く音を出して音の出方とチューニングを確認している。
 
サンタガールの衣装の信子がベースを持って前面中央に立ち、こちらから見て左側にサンタクロースの衣装(赤いオーバーとズボンに黒い長靴)を着てギターを持った人、右側にもうひとりベースを持ちやはりサンタクロースの衣装を着た人が立つ。その真後ろにやはりサンタクロース衣装のドラムスの人が陣取る。
 
ドラムスの左側にはトランペット・トロンボーン、右側にアルトサックス・ユーフォニウムが並んでいる。ホーン女子の4人は水色のニットとペールピンクのスカートまたはズボンを穿いている。
 
1人だけズボンを穿いているのがトロンボーンの人で、この人は髪もかなり短く、充分男に見える。信子が「男1人女3人のユニットと思われる」と言っていたのを納得する。
 
ゆまが
「あのトロンボーンの子に親近感を感じる」
と言っているが、青嶋さんは
 
「リズムセクションが女の子1人と男の子3人、ホーンセクションが男の子1人と女の子3人って、面白い組み合わせだね」
などと言っている。
 
青嶋さんには、変な予断を持たずに実際の演奏を見て判断してもらいたかったので、メンバー構成についても説明していない。
 

ギターの人が後ろを向いて頷くようにする。
 
演奏が始まる。
 
ホーンセクションの強烈なファンファーレに続いてドラムスのフィルインが入り、ギターと2台のベースも軽快な音を奏で始める。そして信子が歌い出す。
 
きれいな女声だ!
 
ほんの1ヶ月ちょっと前に、彼女は女声が出せないと言っていた。もらったCDでも男声で歌っていた。しかし、今日の信子はきれいな女声で歌っており、サンタガールの衣装を着ているので、知らない人には普通の女性ボーカルと思われるだろう。
 
この一ヶ月の間に、多分しっかりしたボイストレーナーに付いてかなりの練習をして女声の出し方をマスターしたのか。
 
演奏は信子のベースが根音を弾き、ギターの人もバッキング中心である。もうひとりのベースの人が、ウォーキングベース・・・というより、むしろ低い音の出るギターという感じで、独自のメロディ進行をしている。要するにフロントに立っている3人の楽器の音だけで行くと、信子の言う第1ベースがメロディ担当で、ギターと第2ベースが伴奏という感じなのである。こういう演奏スタイルはちょっと珍しいかも知れない。
 
声に関しては、恐らく信子は元々の歌のオクターブ上で歌っている。それで他の男性たちがコーラスを入れるので、メロディの女声とコーラスの男声で、とても安定した歌にまとまっている。この男声コーラスが無いと、女性歌手の歌にありがちな「もろさ」を感じさせる歌になりやすい。
 
青嶋さんはかなり聴いてから
「あら?ギター2人とベース1人と思い込んでいたけど、ベース2人とギター1人なんだ?」
と言う。
 
「そうなんです。珍しい構成でしょ?」
「うん。ベースが複数いるバンドって初めて見た」
「昔、椎名林檎さんがベース3人の《発育ステータス》というバンドを作ったことあるんですよ」
「3人!?」
「短期間で活動を終えましたけどね。私もビデオでしか見てないです」
「それはまた不思議なバンドだね」
 

私たちは手拍子を打ちながら聴いていて、特に政子は「きゃー!信子ちゃーん!」と叫んだりしていたが、他の客は数人手拍子をしている程度で、大半はドリンクを飲みながらおしゃべりしているようだ。恐らく2番目か3番目のバンドが目的なのだろう。
 
やがて最初の曲の演奏が終わる。
 
私たちは熱烈な拍手をしているのだが、他の客はまばらにお義理程度の拍手で、それもすぐやめてしまう。
 
ところが拍手が納まって、信子がMCを始めた瞬間、ライブハウスの中がザワッとした。青嶋さんも「え!?」と声を挙げた。
 
信子が“男声”で
「こんばんは。ベージュスカ+ホーン女子です」
と挨拶し、そのまま
「今日は雪が降ってホワイトクリスマスになりましたね」
などとトークを続ける。
 
会場がざわついている。それで1分も話したところで、隣に立っているギターの人が言う。
 
「ところで君の性別は?信(のぶ)ちゃん」
「え?私の性別ですか?私は見ての通りですが」
「お客さんたちが、君が男なのか女なのか悩んでいるようだよ」
「私、夏頃までは男だったみたいですが、ちょっと西の方へ旅行に行ってきたらいつの間にか女になっていたみたいで」
 
お客さんたちが更にざわめいている。
 
「女になっちゃったら仕方ないから女でやっていこうかと思っているんですけど、歌うのはちゃんと女っぽい声で歌えるようになったんですけど、話すのは・・・ごく短時間しか女らしい声では話せないんですよ」
 
と信子は途中から女声に切り返して話した。
 
「おっぱいあるの?」
「普通にあるよ」
「ちんちんは?」
「そんなの無いよ」
「たまたまは?」
「ある訳無い」
 
「じゃ、やはり女の身体なんだ?」
「私、女湯に入れるよ」
「俺も女湯に入ったことあるよ。お客さんが居なくなった後の掃除のバイトだけど」
と右隣のベースの人が言うと、観客がドッと沸いた。
 
「じゃ次の曲行きましょう」
 

それで2曲目に行くが、このトークで観客がみな信子に強い関心を持ったようである。1曲目の時は私たち以外はまばらな手拍子だったのが、2曲目ではかなり多くの人が手拍子をしてくれる。
 
何と言っても信子の歌がうまいし、曲自体も乗りやすい曲である。また信子は自ら性別を明かしたものの、見た目は女の子にしか見えないし、女の子としてはかなりの美人の部類になるので「こんなに可愛ければ元男でもいいか」みたいな雰囲気が出来てしまったような気がした。
 
青嶋さんが私たちに訊く。
「あの子、男の娘だったの〜?」
「1ヶ月半前に会った時は、女装も初めてなんて言っていたし女の子の声も出ていなかったんですよ。女の子の声はこの1ヶ月ちょっとで物凄い努力して身につけたんでしょうね」
 
「その1ヶ月半の間に性転換もしちゃった?」
「そのあたりは不明ですね。性転換手術して1ヶ月半でステージに立って歌える訳が無いから、先月会った時に身体は男って言っていたのが嘘なのか、今女の身体になっていると言ったのが嘘なのか」
と私が言うと
 
「ケイは性転換手術のあと1週間で歌ったはず」
と政子が茶々を入れる。
 
「それは青葉だよ。私は1ヶ月後だよ」
と私は言う。
 
「ケイちゃん、本当に性転換手術のあと1ヶ月で歌ったの?」
「ふらふらでしたけどね」
 
「でもやはりあの時、私が言ったように、信子ちゃんは、あの時点で既に女の子の身体になっていたんじゃないのかなあ」
と政子が言う。
 
「もし今女の子の身体であるのなら、マリが正解かも知れない」
と私は言った。
 
「あ、そうそう。ちなみにあのトロンボーン吹いている子は女の子ですから」
と私は言っておく。
 
「あの子も女の子になった男の子?」
「いえ。最初から女の子ですよ」
「うっそー!?」
 
「ですから、このユニットはリズムセクションの“ベージュスカ”は男の子4人、ホーンセクションの“ホーン女子”は女の子4人なんです。もっともベージュスカの男4人の内1人は女の子になってしまったみたいですが」
 
「うーん・・・」
と言って青嶋さんは腕を組んで考えている。
 
たぶんそんなバンドを商業的に売り出すことが可能かどうか悩んでいるのだろう。
 
「CD出してみればいいんですよ。そしたら、一般の人はその“音”で判断してくれますよ」
と千里が言う。
 
「確かにそうかも知れないね」
と青嶋さんは頷きながら言った。
 

やがて30分間の演奏が終わり、大きな拍手の中お辞儀する。全員で協力してドラムスを持って、1分ほどで撤収を終えた。彼らが撤収作業をしている間にもう次のバンドのドラムスのセッティングを始めている。今日の対バンでは転換時間は10分間なので、手間の掛かるドラムスのセッティングは本当に大変なはずである。
 
次のバンドはシュールロマンティックというバンドだったが、そのバンドでギターを弾いている人に私は見覚えがあった。向こうも私に気付いたようで会釈してくる。私も会釈を返す。
 
「ん?知ってる人?」
と青嶋さんが訊く。
「東郷Bというのでネット検索してみるといいですよ」
と私はニコッとして言った。
 
「ああ、野潟四朗さんか」
と千里が言う。
「知ってた?」
「名前は知ってるけど、顔は見たことなかった。バンドしてたのか」
 
「でもこのバンドもいいね」
などと言っていたら、私たちのテーブルに1人の男性が近づいてくる。
 
「あら、おはようございます、山片さん」
と青嶋さんが挨拶する。
 
「おはようおはよう、ケイちゃん・マリちゃん、鮎川ちゃん、青嶋ちゃん」
と向こうも挨拶する。
 
彼は@@エージェンシーという中堅事務所のマネージャーさんである。ここはスリーピーマイスが所属している事務所である。彼はスリーピーマイスの担当ではないものの、私も何度かお話ししたことがある。
 
「青嶋ちゃん、このバンドが目的じゃないよね?」
「いいえ。先頭で演奏したベージュスカですよ」
「だったらいいか」
「山片さんは、このえっと、シュールロマンティックですか?」
「そうそう。でも先頭のバンドも最後の5分くらいしか聴かなかったけど、なかなかいいね。原石って感じだよ」
「こちらのバンドは結構磨いてますね」
「うん。ここ数ヶ月、通い詰めて口説いている所なんだよ」
「まるで女の子を口説くような言い方をなさる」
 
「いや、バンドを口説くのも女の子を口説くのも基本は同じ」
などと山片さん。
 
「でもそちらがシュールロマンティックで、私たちがベージュスカなら、お互い不可侵ということで、いいですよね?」
「うん、そうしよう」
 
と言って山片さんは青嶋さんと握手をしていた。
 

シュールロマンティックの演奏が半分くらいまで行った所で、ベージュスカ・ホーン女子の面々が客席に戻って来た。おそらく機材を車に積んだりしていたのだろう。
 
「お疲れ様。魅力的なステージだったね」
「ありがとうございます」
と信子。
 
「いや、あんなに熱烈な声援が掛かったのも、あんなに凄い手拍子もらったのも初めてでびっりした」
と先ほどギターを弾いていた人が言う。
 
「みなさん、今日のライブが終わった後、もし良かったら付き合ってもらえませんか。こちらのおごりで。遅くなったら交通費とか宿泊費も出しますよ」
と私は言う。
 
「いいですけど何か?」
と彼が言う。
 
「済みません。私こういうものです」
と言って、青嶋さんが8人全員に名刺を配った。
 
「まさかスカウト?」
「はい。みなさんのCDをメジャーレーベルから発売してみませんか?」
「うそ〜〜!?」
 
その時、信子の右側で《メロディベース》を弾いていた男性が言った。
 
「あのぉ、ステージに立っていた時から考えていたんですが、もしかして、あなた方、ローズ+リリーさんでは?」
「はい、そうです」
 
「うっそ〜〜〜〜!?」
と彼らはみな驚いていた。
 

終電近くまで私たちとベージュスカ・ホーン女子の話し合いは続き、あらためて年明けにまた打合せをしようということになったが、メンバーはおおむねプロになることに前向きであった。
 
ホーン女子の4人は全員会社勤めやパートで生活をしているので、最低限生活できる程度の給料がもらえるなら、ぜひやりたいと言った。ベージュスカの4人は全員が△△△大学の学生だが、在学中は学業に支障が出ない範囲の週末と夕方以降中心の活動でよいと青嶋さんが言ったことから、それでもいいのであれば、基本的にやりたいということであった。ただ各々身近な人に相談してから、最終的には決めたいと言った。
 
この日の打合せが終わってから、私たちがいったん私のマンションに引き上げようとしていたら、地下鉄駅の改札前で
 
「千里!」
と声を掛けてくる人がいる。
 
「暢子!」
と千里が嬉しそうな顔をして返事をする。
 
「東京に出てきたの?」
「うん。ちょっと込み入った話があるんだけど。実は千里の住んでいる千葉まで行こうとしたのだけど、迷子になって数時間、都内をぐるぐる回っている気がして」
 
「ご飯は食べた?」
「新幹線の中でお昼を食べたっきり」
「じゃ、何か食べながら話そうか。冬、青嶋さん、すみません。私はここで離脱しますので、何かあったら、ご連絡頂けますか」
 
「うん。じゃまた」
と私。
 
それで千里と別れて、残りの4人でマンションに行った。
 

私はコーヒーを入れ、ゆまは勝手に棚からFour Rosesを出して来て冷蔵庫から氷も出してロックで飲んでいる。
 
「私は今日彼らと話していて、信子ちゃんの性別問題は大したことないという確信を持ったよ」
と青嶋さんは言う。
 
「でしょ? 彼女、いわゆるオカマには見えないから、一般の音楽ファンにもあまり抵抗は無いと思うんですよ」
 
「普通の女の子に見えるしね。で、結局あの子、性転換手術を受けて、まだ性別を変更してない状態なのかな?」
 
「手術はしてないと言ってたけど、女の子の身体になっているのは事実のようです。でも20歳になるまでは性別変更できないんですよ」
と私は言う。
 
「あ、そうか。でもそれは変更予定ということで押し切るよ」
と青嶋さん。
 
「そちらの事務所の、チェリーツインなんかも性別の微妙なメンバーいるけど、問題になってませんでしょ?」
「まあ、チェリーツインの場合は、そもそも性別に問題があることを公表してないし、あまり個人情報に興味を持たれるようなユニットじゃないしね」
 
「チェリーツインってなんか複雑な人がいたっけ?」
とゆまが訊く。
 
「キーボードの桃川さんはMTFだけど、まだ完全に性転換手術を終えてない。工事中らしい」
「へー。そんな風には見えないけど。あの人は普通の女に見える」
 
「ある意味、信子ちゃんと近いタイプかも」
「あ、そうかも!」
 
「事実上のボーカル、公式見解では大道具兼コーラスの少女YはFTX」
「ああ、あの子はちょっとレズっぽい雰囲気があるね」
「あの子も結構男装して出歩いているよ」
 
「あと紅さやかさんは実は手術して女の子になっていて、紅ゆたかさんと実質夫婦ではないかという噂があるよね」
と政子が言うか
 
「そんな噂はありません」
と私は言っておいた。
 

桃川はその夜、ある人に電話を掛けていた。
 
「そろそろお店終わった頃かと思ったから」
「うん。さっき片付け終わって今一息ついていた所」
 
「あのね、あのね。私、女になろうかと思って」
「手術するの?」
「うん。睾丸を取ってから20年、おちんちん取ってからも6年。何か今更な気もするけどね」
「僕がきちんとしてたら、もっと早く手術してたよね?」
「まあ私たちもたいがい迷走してるね。でも手術終えたら、私たち通常のセックスができるようになるよ」
「それ、僕のが使えたらね」
「あれ柔らかいままでも、無理矢理押し込めないの?」
「昔、試してみたことはあるけど無理だった。入らない」
「タンポンのアプリケーターみたいな硬いケースに入れて押し込んだら?」
「それでは気持ち良くない」
 
「男の人って不便ね。いっそ男は辞めて女になるとか」
「それは嫌だ」
「ふーん。女装は好きなのに、女にはなりたくないんだ?」
「別に女装も好きじゃない!」
 
「まあいいけど。でもそれって自分で触っていじっても気持ち良くならないんでしょ?だったら無くたっていいじゃん。私レスビアンでもいいよ。というか実質レスビアンと大差無いことしてるし、私たち」
 
「機能は喪失してても無くなるのは困る」
などと彼は言っている。そのあたりの“男性”の気持ちが桃川にはよく分からない。あれって、そんなに大事なものなのかね〜?
 
「でもさ」
と彼は言った。
 
「美智が女の子になる手術受けたら法的な性別を女に変更できるよね?」
「もちろんそのために手術受けるんだよ」
 
「だったらさ、僕たち法的には男と女になるからさ」
「うん?」
「あのさ、だから」
「何よ?」
 
彼が言いたいことは分かるが、絶対こっちからは言ってやるものかと桃川は思った。本当は12年前に聞きたかった言葉だ。
 
「僕たち結婚しない?」
と、やっと彼は言った。桃川は微笑む。
 
「ダイヤのエンゲージリングくれるなら結婚してあげるよ」
「やった! 指輪は今度会った時一緒に選ぼうよ」
「いいよ。もっとも結婚しても別居生活だけどね」
 
「まあそれはお互い今居る場所を移動できないし、仕方ないね」
と彼は悟りきったかのように言った。
 

千里と暢子は最初深夜営業の居酒屋で食事をしながら、お酒を飲みながら話していたものの、内容があまり周囲に人が居る場所で聞くものではないと思った。それで、コンビニで食料とビールを買い込み、ホテルのツインの部屋を取ってその中で話を聞くことにした。
 
「暢子の彼氏が**君だなんて全然知らなかった」
「誰にも言ったことないし」
「でも結婚くらいしてあげればよかったのに。バスケは結婚した後で、なしくずし的に練習時間を増やしていけばいいんだよ」
 
「私は結婚しても毎日2時間はバスケができなかったら嫌だと、高校時代から言っていた。でも今更、ああいう条件を持ち出してきたことで私はもう覚めてしまった。だから、もう心残りは無いよ」
 
と暢子は泣きながら言う。
 
結局ふたりは徹夜で飲み明かすことになる。
 
「千里も辛い恋をしてるな。細川君との仲がそうなっていたとは思いもよらなかった」
 
「大学の友人に言われたんだよ。たとえ向こうが法的に別の女性と婚姻したとしても、向こうより先に結婚式も挙げて、今でも定期的に会って性的な関係を持っているのであれば、私の方こそ正当な妻だって。だからそう思うことにした」
 
千里も暢子の前ではたくさん泣いた。泣いたことで千里自身、凄く気持ちが楽になった気がした。千里はここ1年数ヶ月、ずっと心が宙ぶらりんになっていた。
 
「でも、面白いメンツでチーム作ったんだな」
「うん。みんな強いから楽しいよ」
「よし。私もそのチームに入れてくれ」
 
「入るのはいいけど、うちお給料とか出ないから、生活費は別途何かで稼ぐ必要があるよ」
 
「そのくらい何とかするよ」
「だったら、暢子にはマジック・ジョンソンの32番の背番号を進呈しよう」
「おお!それはすばらしい!」
 
「あ、ところで私が仕事先と住まいを確保するまでの間、千里のアパートに泊めてくんない?」
 
「私も友だちと同居してるけど、それで構わなければ」
「うん。OKOK。ついでに最初のお給料が出るまでの生活費を貸してくんない?」
「じゃ出世払いで」
 

暢子はそれで年明けに札幌市内のアパートを引き払い、その荷物を取り敢えず千葉市内の千里のアパートに送って、自分も出てきた。
 
桃香が、大量の家財道具が積み上げられているのを呆気にとられて見ながら
 
「えっと・・・どなた?」
と尋ねたのに対して千里は
 
「高校時代の友だちなんだよ。恋愛関係とかはないから心配しないで。アパートが見つかるまで泊めてあげることにしたから」
と答えた。
 
「あ、よろしくお願いします。若生暢子です。性別自己認識は女性、肉体的な性別は女性、戸籍上も女性で、恋愛対象は男性ですから、夜中に襲ったりすることはないと思いますので、よろしくお願いします」
と暢子。
 
「うーん。。。私がいつもガールフレンド連れ込んでいるから、文句が言えん」
と桃香は言った。
 

「あれ、雪子じゃん」
と暢子は、夕食を取ろうと入ったファミレスで、通りがかりのテーブルの所に高校時代のチームメイト森田雪子が居るのに気付いて声を掛けた。
 
「あ、暢子先輩!」
「あんた、結局今どこにいるんだっけ?」
「千葉市内のローキューツという所に入っていたんですけど、この秋に辞めたんですよ」
 
「ああ。千里が昔居たチームで、薫がキャプテンやってるところか」
「はい。私は千里先輩とは入れ替わりになっちゃって」
 
「でもなんで辞めたの?来季からは大学卒業してWリーグに入るの?」
「Wリーグなんて雲の上の存在ですよぉ」
「そんなことはない。雪子なら、欲しいというプロチームや実業団チームはたくさんあるぞ」
 
と言ってから暢子は訊いた。
 
「もしかして薫と対立した?」
 
「いえ。対立まではしてないのですが・・・」
 
と雪子が言ったので暢子はだいたいの事情を察した。
 
「暢子先輩は東京旅行ですか?」
と雪子が尋ねる。
 
「こちらに引っ越して来た」
「わあ。お仕事とかは?」
「今探してる」
「え〜〜!?」
 
「でも雪子、それならバスケの練習はどうしてるの?」
「今は毎日ランニングしたり、ひとりでドリブルの練習したりで」
「練習相手は居ないの?」
「はい」
 
「雪子のレベルだと、その辺の趣味のチームとかでは、練習相手にならんしなあ」
と言ってから暢子は言った。
 
「じゃ、うちのチームに入らない?今ならピート・マラビッチの背番号7がまだ空いてるぞ」
 
「わぁ!ピート・マラビッチは私にとって神様です!」
と雪子は笑顔で言った。
 

「お兄ちゃん、お正月は帰ってくるの?」
と鹿島智花は母に尋ねた。
 
「バイトが31日のお昼くらいまであるんだって。だから、こちらに着くのは夕方くらいになるって」
と母は言った。
 
「夏休みはバイトで忙しいとか言って1度も帰ってこなかったもんね」
「なんかあの子、大事な話があるんだって。それでとにかく戻るって。バイトがあるから1日のお昼にはこちらを出ないといけないらしい」
 
「なんだ。慌ただしいな」
と父が言う。
 
「でも大事な話って何だろう?」
と智花が言う。
 
「あの子、もしかしてガールフレンドとか出来たとか」
「それなら凄いな」
 
「ふーん。お兄ちゃん、女の子の友だちならたくさんいたしね」
「それで私も心配してたんだけどね。あの子、女の子の友だちは作ってもガールフレンドは作ったこと1度もなかったから」
と母は言った。
 

12月31日19時頃。
 
「ただいま」
という声が玄関の外であったので、近くに居た智花がドアを開ける。
 
「あ、智花、ただいまあ。お母ちゃん、お父ちゃんもただいま。これ東京ばなな。あとこちらは智花とお母ちゃんに松阪屋で買ったマフラー、こちらはお父ちゃんに東京の地酒・澤乃井」
と言って、取り敢えずお土産のお菓子を智花に渡す。
 
「誰?」
と智花が言う。
 
「あのぉ、もしかして信一のガールフレンドさんか何か?」
と母が、玄関の所に立っている18-19歳くらいの女性に向かって言う。可愛い赤紫のフリースに、白いロングスカートを穿いている。髪にはカチューシャも付けている。そしてナチュラルメイクである。
 
「ぼく、信一だよ」
「へ?」
 
「ぼく、女の子になっちゃった」
 
「え〜〜〜〜!??」
と母も父も智花も大きな声で叫んで絶句した。
 
「どうしたの?みんな驚いた顔して。ぼく、ちょっと性別変わっただけなのに」
と笑顔で信子は言った。
 
 
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【夏の日の想い出・辞める時】(2)