【夏の日の想い出・影武者】(2)

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7月16日には20日発売予定の山森水絵『スポーツ・フェスティバル』のPVがテレビスポットで流れ始めると同時にyoutubeでも公開された。
 
山森水絵は「鴨乃清見の歌を歌う歌手募集」という実質的なオーディションの優勝者である。
 
元々鴨乃清見という作曲家は2007年5月に大西典香のデビューアルバムで出てきた名前である。その後鴨乃は大西典香と津島瑤子にだけ楽曲を提供してきていたのだが、その大西が2013年12月に引退した後、2014-2015年は津島瑤子にだけ曲を書いていたが『白い足跡』は昨年のRC大賞を受賞している。今回のオーディションはいわば、引退した大西典香の枠を埋める歌手を募集したようなものである。
 
このオーディションは元々ハイレベルな歌手を募ったものだったので応募者も優秀な人が多かった。準優勝者の奈川サフィーが既にデビューしているし、他にも数名、デビューに向けて準備中の人もある。
 

今回のアルバムは目前に迫ったリオデジャネイロ五輪を意識したもので、マラソン、水泳、バスケット、バレー、サッカー、体操、柔道、卓球という8つの競技をテーマにした曲のほか、実質的なタイトル曲である『夢の黎明』、ラストを飾る美しい曲『悲しきドラゴン』、そしてボーナストラック扱いでアクア主演で来月公開予定の映画『時のどこかで』の主題歌『∞の鼓動』が入って全11曲である。
 
その全ての曲にPVが作られており、競技を題材にしたものはJOCの協力で各々の代表チームの練習や試合の風景が多数取り入れられている。『夢の黎明』は北海道の納沙布岬で、天文薄明から日の出までを撮影した映像をバックに山森水絵が歌っている。これは実際に山森を現地に行かせて撮影したものである。
 
『悲しきドラゴン』は龍笛をフィーチャーした曲である。元々は2月に千里が即興で吹いた曲から千里と私の2人で共同で譜面を起こしたもので、その時千里が吹いたメロディーを山森水絵が歌い、龍笛は「間奏」と称して実質Cメロに相当する部分と前奏・コーダに入れてある。音源製作時にこの龍笛を吹いたのも千里である。PVでは山森が龍に抱かれるようにして歌っている。この龍は映画撮影用のぬいぐるみなどを作っている会社に依頼して作った実物大の模型を使用している。この龍の制作費だけで500万円掛かっている。
 
『∞の鼓動』はアクア主演の映画の制作が決まってから急遽追加されたものでこの曲では千里はフルートを吹いている。作曲者の千里自身が音源製作にも参加したのは『悲しきドラゴン』・『∞の鼓動』の2曲のみである。この曲はドラムスとベースが刻むリズムが独特で、シルクロードを連想させると私は思ったのだが、あとで千里に訊いてみると実際にサマルカンド地方の民謡のリズムを借用しているらしい。PVはこの曲だけ、スタジオで8ピースバンド(Gt1, Gt2, B, Dr, KB, Vn1, Vn2, Fl)をバックに山森が歌う映像で構成されているが、これはプレスに出す直前に慌ただしく撮影したため、ロケなどができず、スタジオでの映像のみとなったのである。実際に音源で吹いている千里はここには出演しておらず、映像に出ているフルート奏者は奥原沙妃さんといって、雨宮先生の弟子のひとりで「男の娘女子大生」である。
 
今回の音源制作・PV制作は、千里がオリンピック前の合宿に次ぐ合宿で全く時間が取れない中、毛利五郎・北原春鹿・奥原沙妃の3人が中心になって作業を進めた。
 
元々「鴨乃清見」は、雨宮先生・千里・鮎川ゆまの3人を中心とする共同ペンネームなのだが、今回楽曲は千里(と蓮菜)が『夢の黎明』『悲しきドラゴン』、『∞の鼓動』の3曲とマラソンを歌った『十・二六』、バスケットを歌った『25秒』、水泳を歌った『マーメイドになりたい』と6曲を書き、あと5曲は鮎川ゆま2曲、雨宮・北原・奥原で1曲ずつ書いている。
 
毛利さんは書いていないが「鴨乃清見」名で出す曲は女性あるいは男の娘で書くのがポリシーで、毛利さんは「性転換したら参加してもいいよ」と言われているらしい。
 

今回のデビューに当たって∞∞プロと%%レコードは##放送でオリンピックの特集番組を流し、そのBGMとしてアルバムの曲を流すという手法をとった。大西典香が葵祭の特集番組でデビューしたのにならった鈴木社長は言っていた。もっとも大西は葵祭のレポーターもしたのだが、今回の番組ではレポーターは局アナの清水志保が担当している。これはオリンピック直前で練習につぐ練習で忙しい選手たちの負荷をできるだけ減らすため、短時間で要領よくインタビューできる専門家に委ねたためである。
 
山森自身はインタビューを見てそれについてスタジオで語る部分に登場している。このトークは古屋疾風が司会を務め、レポーターの清水志保、女子マラソン元五輪代表でタレントの松山優実、水泳の五輪金メダリストでスポーツ解説者の中村拓也、中学までサッカー部だった品川ありさ、やはり中学までバレー部だったゴールデンシックスのリノン、そして山森水絵の7人で行われている。どうもリノンは同じ事務所の先輩として山森のエスコート役も兼ねていたようだ。
 
トークは実際にはノリのいい松山優実がうまく話のネタを出し、品川ありさとリノンが競い合うようにボケて、司会の古屋が暴走を停めるという形で進行したものの、山森も遠慮せずにどんどん発言するので視聴者にはかなり目立って見えたようである。あまりにもぶっ飛んだことを訊かれて、バラエティ系の番組にも出演経験のある中村さんが答えに窮する場面もあった。
 
「水絵ちゃんも何かスポーツしてたの?」
と清水が訊いたのに対して
「私、ポートボールのゴールマン、ソフトボールのキャッチャー、サッカーのゴールキーーパーが得意です」
と山森水絵は答える。
 
「要するに動かない役か?」
と古屋が突っ込む。
 
「でも、私も元ゴールキーパーだよ。今度ゴールキーパー対決しない?」
と品川ありさが言う。
 
「あ、ぜひさせてください」
と山森水絵。
 
このやりとりは台本に無かったものであるが、こういう場で積極的になれるのはタレントとして筋が良い。
 
「では、それ今度番組でやりましょう」
と古屋が言い、同局のバラエティ番組内で翌週放送されることがテロップで流れた。
 

番組ではメダルを期待する種目として、競泳、柔道、レスリング、体操、卓球、フェンシング、バドミントン、シンクロナイズドスイミング、陸上短距離、ウェイトリフティング、テニス、女子バレー、女子バスケット、カヌーの14競技を取り上げ、各々3〜6分ほどの解説・インタビューと1〜2分のトークという構成で進行した。
 
バスケットの所は山野監督、広川主将、花園亜津子にインタビューしていたがその花園さんのインタビューの背景で、さりげなく千里がスリーを決める映像になっていて、私は苦笑した(後で花園さんがやられた!と言っていたらしい)。
 
最後に、今日の有力選手の演技シーンをプレイバックしながら、山森水絵が『夢の黎明』をスタジオで生歌唱して終了した。
 
この特別番組は7月18日(月)の夕方7:00-8:55の時間帯で放送され、翌々日の7月20日(水)に山森水絵のデビューアルバムが発売された。
 
タイムリーな特集で視聴率も良かったことから番組の中盤あたりからArtemisなどのオンラインショップに予約が入り始め、Artemisでは19日の昼13時までに予約された分を全てその日の内に出荷、発売日ジャストに送り届けた。このArtemis分だけで8万枚、もうひとつのオンラインショップDirect-CDでも3万枚、全国のCDショップで売った分が6万枚、gSongsなどのダウンロード販売サイトでも4万DLされ、初動が21万件となり、同日発売されたホワイト▽キャッツのファーストアルバム15万件を抜いてデイリーランキング1位となった。
 

一応7月20日には発表記者会見も%%レコードで行われ、これには山森水絵本人、事務所の鈴木一郎社長、%%レコードの担当者・執行花謡子、そして鴨乃清見の代理と称して毛利五郎が出席した。
 
山森水絵の挨拶、鈴木社長によるプロフィール紹介、タイトル曲『夢の黎明』を本人の生歌唱で演奏した後、質問に入ろうとしたら先にスタッフに関する質問が入る。
 
「執行さんって、もしかして昔、ローズ+リリーの担当ではありませんでした?」
「はい。★★レコード時代に担当しておりました。2010年春に退職して福岡の方にいたのですが、最近東京に引っ越してきて、%%レコードさんからお声を掛けていただいて、A&Rに復帰しました」
 
「苗字が変わってますよね?ご結婚なさったんですか?」
「ああ。姓転換しました」
「性転換なんですか?」
「性別じゃなくて、姓(かばね)のほうの姓が変わりました」
「なるほどー」
「性別は変わってないんですか?」
「どうでしょう?」
「執行さんは女性ですか?」
「私はよく分かりませんが、夫は私を女だと思っているようです」
 

「毛利五郎さんは三つ葉にも関わっておられますね?」
「ええ。私は使い走り専門なので。今、三つ葉の制作で大先生のお手伝い、山森水絵の制作で鴨乃清見ちゃんのお手伝い、アクアのCDの制作で東郷誠一先生のお手伝いと同時進行です」
 
アクアは形式的には東郷誠一先生がプロデュースしていることになっているが、実際には秋風コスモスが主導して、毛利さん・千里・上島先生あたりが制作の中核になっているように見える。
 
「色々やってますね!」
「それであまりにも忙しくて4月の中旬以降、全く自宅に戻れない状態が続いています。ずっとスタジオや事務所に泊まり込みです」
 
「なかなかハードですね」
 

その後、やっと本題に入り、山森水絵の経歴や将来目標などについて尋ねられる。彼女は小学生の時地域の合唱団で活動、また6年生の時にNHKののど自慢で入賞したことからスカウトされ、1年ほど歌とダンスのレッスンを受けたものの、それはデビューには結びつかなかったということを述べた。
 
幼稚園の時からピアノを習っていたということで、その場で同じ事務所のハイライトセブンスターズのヒット曲をピアノで弾いてみせて拍手をもらっていた。
 
将来目標とする歌手については、
「マドンナのように世界的に売れる歌手になりたいです」
と言った。
 
「マドンナって初期の頃、結構大胆な歌を歌っていますが」
と記者から質問が出るが
 
「そのあたりが課題ですね。まだ高校生なので、色気が足りません」
と本人。
 
「デビューなさいましたが、学校は続けられるんですか?」
「5科目平均80点未満を取ったら活動謹慎と言われていますので頑張ります」
「かなり厳しいですね!」
 
なお、山森は北海道の公立高校に在籍していたのだが、デビューに先立って関東地区の私立高校に転校したことが、鈴木社長から説明された。
 
「お母さんかどなたかと一緒に東京に出てこられたんですか?」
「いえ。単身赴任です。私の家、妹が3人いるので、離れられないんですよ」
「4人姉妹ですか!」
「もうひとり弟もいますけど、女ばかりの家族なんで、居心地が悪そうです」
「なるほどー」
「しばしばお姉ちゃんたちのお下がりの女の子の服、着せられているし」
「可愛いですか?」
「あんたがスカート穿いて女の子に見えるような子だったら、性転換させてあげたけどなあ、と母から言われていました」
 
そこで笑いが起きて、その件はそこまでの話になった。なお、山森の住まいや転校先などについては、プライバシー上、報道を控えて欲しいと事務所から記者団には要請があった。
 

2016年7月22-24日(金〜日)には今年も新潟県の苗場で苗場ロックフェスティバルが行われる。私たちは21日の午前中に佐良さんの運転するエルグランドに私と政子、風花が乗って越後湯沢に向かった。スターキッズは近藤夫妻が運転交代要員含みで鷹野さんも乗せてヴェルファイヤで向かったほかはだいたい新幹線で移動している。楽器はエルグランドとヴェルファイアに分けて積み込んだほか、一部は○○プロの運送チームのトラックにも乗せてもらった。
 
今回の伴奏陣はだいたい春のツアーに参加してくれた人と同じである。龍笛に関しては今回、青葉が吹いてくれることになり、春のツアーにも参加してくれた青葉の友人、田中世梨奈・上野美津穂・日高久美子・久本照香も一緒である。笙は今田七美花(若山鶴海)にお願いしたが、曲によっては彼女は龍笛や篠笛を吹く場合もある。
 
また南藤由梨奈の伴奏もする鮎川ゆまに、サックス・篠笛でも参加してもらうことになり、『スポーツゲーム』に含まれるサックス四重奏を、七星さん・鮎川ゆま・青葉・日高さんでやってもらうことになった(ゆまがテナーサックス、日高さんがソプラノサックスで七星さんと青葉がおそろいのピンクゴールドのアルトサックスでデュエットする)。
 
ヴァイオリンは今回アスカ自身は参加できなかったものの、アスカの生徒さんを6人そろえてもらった。4万人の観客の前で演奏するのは、コンクールなどに向けての度胸付けにはなかなか良い。今回初参加でいきなり『花園の君』の第1ヴァイオリンに指名された野村美代子さんは、最初譜面を見た時悲鳴をあげて1週間他のことはせずに練習に没頭して何とか弾きこなしたらしい。そして後でアスカや凜藤更紗が初見で弾いたと聞き「負けたぁ〜!」と嘆いていた。彼女は国内のコンクールで準優勝経験もある人である。
 

今回KARIONは23日のHステージ、ローズ+リリーは24日のGステージに登場する。それ以外ではローズクォーツが23日のRステージ、ゴールデンシックスは24日のHステージ、XANFUSは23日のHステージでKARIONの直前、AYAは24日のHステージになっている。
 
そしてアクアは23日Gステージのトップである。
 
昨年は最終日Hステージのトップバッターだったのだが、観客がステージに押し寄せて楽器が破壊され演奏者が怪我する事態となった。そこで観客も多いことが見込まれるので、ステージの段差も大きくキャパも大きなGステージを使うことにしたが最終日は枠が空かないこと、また警備スタッフの動員の問題、そしてやはり最終日のGステージはフェスの趣旨に合致するクォリティの高いおとなのアーティストに限定したいという主宰者の意向があって2日目に入れることになった。
 
アクア自身は7月20日から埼玉県某市の廃校に泊まり込んで『時のどこかで』の撮影を集中してやっているのだが、22日夜撮影が終わってから車で越後湯沢に移動し、朝一番のGステージを務め、その日のうちに撮影現場に戻るというハードスケジュールである。
 

21日の夕方、ローズ+リリーの演奏者一同、続けてKARIONの演奏者一同が集まってミーティングをした。昨年同様、ローズ+リリー関係とKARION関係は全員が同じホテルに泊まっている。ついでにゴールデンシックスのメンバーも同じホテルになっていて、美空はそちらのミーティングにも出ていたようである。
 
この日は前夜祭なので、いろいろなお楽しみイベントの類いが行われている。美空と政子はまた今年も大食い大会に参加していたものの、2人とも上位8位に残れなかった。本当に世の中には物凄い人がいるものだ。
 
22日は秋風コスモス、川崎ゆりこ、桜野みちる、品川ありさ、高崎ひろか、といった§§ミュージック(桜野のみ§§プロ)の5人がJステージに連続登場するのを見に行った。秋風コスモスは実は昨年春に社長に就任して以来、初めてのライブである。CDはその間2枚出しているものの、他のアーティスト(特にアクア)のお世話が大変で、とても自分のライブをする余裕が無かったのだが、コスモス自身のファンの声に応える形でこの日は自分がステージに立った。
 
衣装はミニスカ・キャミソールである。
 
彼女は私たちと同じ学年で今年25歳であるが、元々童顔なのもあってミニスカート姿がまだまだ充分行ける感じであった。
 
実際本人は60歳になっても100歳になってもミニスカを穿くなどと言っている。
 
もっとも音痴なのは相変わらずである!
 
例によってライブをした30分の間、歌ったのは3曲だけで残り時間はひたすら「独り漫才」のような感じ、あるいは進行役の日野ソナタとの掛け合いで、おもしろトークをして笑いを取っていた。
 

アクアのネタも随分出していた。
 
「あの子、デビュー前の準備期にはうちの練習生用の寮に何度も泊まってもらったんですけど、あそこ基本的には女の子ばかりなのよね。後輩の西宮ネオンの時は都内のホテルに泊めたんだけど、アクアの時はまだ性別問題までこちらもあまり考えていなくて。でもアクアは女の子たちと一緒に泊めても全然問題無い感じでした」
 
などと言っている。
 
進行役の日野ソナタ(自身は歌わない)が
 
「でもあの寮は男子トイレ無いよね?」
と言う。
 
「ええ。女の子しか泊めないしそもそも男子禁制だから男子トイレは不要なんですよね。でも全然問題無かったみたいですね」
 
「品川ありさと、お風呂で遭遇したという話は?」
「品川ありさが脱衣場に入ってきて、脱ぎだしたところでアクアが気づいて即あがったんですよ。だから2人はお互いのヌードは見てないですよ」
 
「でも脱衣場に男物の服があったら、男の子が入っていると気づくのでは?」
「そのあたりはどうなんでしょうね?」
 
とコスモスは曖昧に余韻を残すように話す。
 
「アクアって実際問題として女の子の服着てることが多いんでしょ?」
「女の子の服はお友達やファンの人から大量に送られてくるから持ってはいるけど、ふだんはユニセックスなTシャツとショートパンツってスタイルが多いみたいですよ。まあでも脱いである服だけみたら性別が分からないかも」
 
とコスモスは「女装疑惑」はいったん否定していた。
 

「で実際問題として、あの子ちんちん付いてるの?」
「本人は付いてると言ってますけど。あとテレビの番組の企画でお医者さんの診断受けさせられて、普通の男の子という診断が出てるし」
 
「いや絶対普通の男の子ではない」
 

23日。そのアクアがGステージのトップで登場する。私は異様に張り切っている政子に連れられてGステージに向かった。一緒に行ったのは、私と政子と美空に青葉、そしてゴールデンシックスの2人、合計6人である。
 
「雨降りそうだね」
「天気予報では曇りなんだけど、山は降るかもね」
などと私たちは越後湯沢から会場に向かうシャトルバスの中で言った。会場内は傘の使用が禁止なので、全員ビニールのレインコート持参である。
 
シャトルバスを降りてGステージまで歩く。ここで私、青葉、花野子と梨乃は平気で歩いているが、政子と美空は「きついよー」などと言って歩いている。
 
「ふたりとも運動不足なのでは?」
と花野子に言われている。
 
「政子、最近早朝ジョギングさぼってるもん」
「うう。涼しくなったら再開しようかな」
「まあ夏の間は辛いよね」
 

Gステージに着くと、出入口が4ヶ所に絞られていて、入口の所で左右どちら側が好みかと訊かれ、私たちがステージに向かって左側が良いと言うと、C3と印刷された紙をくれた。
 
「それをそのブロックの入口の所のスタッフにお渡し下さい」
とスタッフさんが言っていた。
 
「なんか凄い警備員だね」
と指定されたブロックに向かいながら政子が言う。
 
「うん。警備会社の人とイベンターの推薦チーム、それに★★レコードの社員まで入れて3000人動員してるから」
「ひぇー!」
 
「それ警備員だけで、大きなホールの観客数あるね」
と梨乃が言う。
 
「警察からかなり厳しい警告があったから、アクアの演奏に関してはレコード会社の責任で警備を増強することにしたんだよ。松前さん(アクアが所属するTKRの会長)が★★レコードの村上社長に協力を求めて、★★レコードの社員を大量動員した。むろんTKRの社員は各アーティストに付いてないといけない人以外全員来てる」
 
と私は背景を説明する。
 
「わぁ」
 
本来は自由に座って移動してよい会場なのだが、大量に杭を打ちロープを張って演奏中に観客が移動できないようにしている。ブロックとブロックの間の空間が幅3〜4mある。一区画は500-600人くらい入る感じだ。その区画が横に6個、縦に10列で、最前列だけ左右を外して4個なので全部で58ブロック。おそらく3-3.5万人入る計算だ。本来は完全開放すれば4万人まで入る会場なのだが、不測の事態を避けるためあえてキャパを減らしたのだろう。
 
各ブロックの出入口の所に腕章を付けたスタッフが立っている。私たちはそのスタッフにC3と印刷された紙を渡して中に入った。見ていると、トイレなどに立つ人にはあらためてその紙を渡している。それを持っていないとそのブロックには戻れないようにしているようだ。
 
「男と女も分けてるね」
「うん。どうもそうみたい」
「人口密度が高くなるからだろうね。お酒入っている人も多いし」
 
見ているとカップルやグループで一緒に観たいという人以外は男性ブロックと女性ブロックに分けているようである。むろん私たちの入ったC3は女性のみのブロックである。
 
「見た目が微妙な人はどうするのかな?」
「素直に性別を尋ねるのでは?」
「その方が面倒無いかもね」
「でも何の疑問無く男だけど女と思われたり、女だけど男と思われる人もいるかも」
「そういう人はそれで問題無い気もする」
「確かに」
「たぶんそういう人は性別間違われるのに慣れているか、あるいはそもそも誤認されることを望んでいるかも」
 
「まあ、間違っていて変えて欲しければ、言えば変えてくれるだろうしね」
 
しかしアクアの演奏が終わったら20分程度以内にこの杭とロープを取り外して原状回復する必要がある。またアクア以降のアーティストの演奏では会場の後方に屋台なども展開されることになっている(結果的にキャパは2万人程度になる)。この時間は簡易トイレと飲み物の販売所のみが周囲に展開されている。
 

私たちが会場に入ったのは2時間前の9時だったのだが、その時点で既に会場は3割近く埋まっていた。そして演奏1時間前の10時には満員になり、そのあと来た客は入場できなかった。入場できない客が会場周辺にたむろするが、これを警備会社の制服を着たスタッフが「立ち止まらないで下さい」と言って他のステージに移動するよう促していた。
 
「青葉に言われて早く出てきて良かった」
と政子が言う。
 
「千里姉から電話が掛かってきて、朝7時にホテルを出るように政子さんたちに言えといわれたんですよ」
と青葉。
 
「さすが千里!」
「今、千里はどこにいるんだっけ?」
「アルゼンチンのブエノスアイレスです。むこうと時差が12時間あって、今、向こうは22日の夜10時くらいなのですが、今日と明日アルゼンチン代表との練習試合をこなして、24日午前中、こちらでは24日夜にブラジルのサンパウロに移動するそうです」
 
「ブエノスアイレスとサンパウロってどのくらい離れてるの?」
「飛行機で3時間だそうです」
「かなり距離あるね!」
「北海道と沖縄くらいの感覚かも」
「いや多分、稚内から与那国くらいの距離」
「サンパウロとリオデジャネイロは?」
「飛行機で1時間くらいみたいです」
「東京と大阪くらいの感覚かな」
 

会場内で私たちに気づいてサインもらえませんかと言ってきた人たちもあったが、私たちは「客席でのサインは禁止されているので済みません」と断っておいた。
 
10時になるとHステージで始まった丸山アイのステージの音がスピーカーから流れる。
「きれいな声だよねぇ。アイちゃんって男の娘疑惑もあるみたいだけど、こんな声が出るって、やはり女の子だよね?」
と政子が言うが
 
「政子ちゃん、きれいな女声が出る男の娘が身近にいるじゃん」
と花野子が突っ込む。
 
「冬は生まれてすぐ出生届を出す前に性転換したのは間違い無いし、青葉はきっと生まれながらの女の子、千里もたぶん幼稚園くらいには性転換している。だからみんな事実上男の娘というより女の娘」
などと政子は言っている。
 
「私のパスポート、男になってますけど」
と青葉が言う。
「今持ってる?」
「持ってますよ」
と言って、青葉が見せている。
 
「あ、中学の女子制服着て写ってる」
「中学の時にアメリカの病院で検診受けに行くのに作りましたから」
「女子制服着てても性別Mなのか」
「仕方ないですね」
 
このパスポートは2011年9月に作ったものなので、あと少しで期限が切れる。青葉としては来年5月の誕生日が来たら即裁判所に性別変更の申請をして、それが認められた時点で性別Fの新しいパスポートを作ろうと考えていると言った。
 
「なんか紙がはさまってる。medical certificate?」
「性転換手術を受けているという証明書です。それを持ってないとパスポートの性別と本人の性別が一致してないので、入出国でトラブるんですよ」
 
「大変だね〜」
 

「冬は最初から女のパスポートだよね?」
と政子が尋ねる。
 
「最初は男だったよ。性転換手術を受けるのにタイに行くのに作ったから」
「性転換するんなら女でパスポート作れないの?」
「性転換が終わらないと女のパスポートは作れないから」
「面倒くさいな」
 
「千里もタイだったね?」
「ええ。私が国内で手術受けたのと同じ日にタイで手術したんですよ」
と青葉が言う。
 
「じゃ千里も最初は男で作ったんだ?」
「それがあの子、最初から女でパスポート作ってたんだよね」
と花野子が言う。
 
「なぜ?」
「パスポート申請する時、何も考えずに性別女と書いておいたら、ふつうに性別Fで発行されたと言ってたけど」
と花野子。
 
「なぜそうなる?」
「事務的なミスかもね」
 
「うん。パスポート作る時に性別が間違っているというのはごく稀に発生しているみたい。ふつうはそれでは見た目と違うから、即修正してもらわないといけない」
 
「あの子の場合、むしろ男のパスポート持ってた方が入出国で揉めると思う」
 
「言えてる言えてる」
 
「私も性転換手術でタイに行ったとき、揉めたもん」
と私が言う。
 
「私、男のパスポートと航空券持ってアメリカに行った時は別室で裸になって男だというのを確認されましたよ。それで高校の修学旅行に行く前に病院でさっきの証明書を書いてもらったんですよ」
と青葉。
 
「なるほどー」
「あの時、千里姉も別室に行って裸になったと言ってましたけど、あれがよく分からない」
と青葉。
 
「それって、いつのこと?」
と花野子が訊く。
 
「2011年の10月なんですよ」
 
と青葉が答えると、花野子は少し悩むようにしてから言った。
 
「千里は2012年に性転換手術を受けたと主張していたけど、誰も信じてくれないからと言って最近は2006年、高校1年の夏に手術を受けたと周囲には言ってますね。実際問題としてバスケット協会に言われて性別検査を受けさせられて女であるという判定が出たのが2006年秋なんだから、それ以前に性転換していたのは間違い無い。でも私の友人が高校1年の1学期の時点であの子のお股を目撃していて、既に女の子の形だったと言っているんですよ。それと私も後で聞いたんだけど、あの子高校1年の6月の段階で、ドーピング検査受けていてその時、女子選手として異常なしと判定されているらしい。ということは実際には、中学生の内に性転換していたと思うんですよね。それであの子がパスポートを取ったのは2008年ですよ」
 
「性転換手術が終わってたから女のパスポートが取れたのでは?」
と政子。
「性転換手術が終わってても戸籍は20歳まで直せない」
と私。
 
「面倒くさいな」
 
「しかしパスポートが女で本人の見た目も女なら何も問題起きない気がする」
と政子が言う。
 
「じゃなんでアメリカに行く時にトラブったんだろう?」
 
「航空券が男だったのでは?」
と梨乃。
 
「あ、それはあるかも。航空券の手配は桃香姉がしたと思うので」
と青葉。
 
「しかしそれなら別室で裸になっても、女だということが確認されるだけという気がする。パスポートが女である以上、男の航空券ではそもそも乗れない」
と梨乃は不思議そうに言う。
 
「私も後でそのあたり考えたんですけど、あれは凄く謎です」
と青葉。
 
「うーむ・・・」
 

「ねえ、青葉ちゃん、そのアメリカ行きでトラブった時って、青葉ちゃんと千里と一緒に裸になったの?」
と梨乃が訊く。
 
「いえ。各々別室ですが」
「だったら、裸になって男だと確認してもらったというのは千里が自分で言っているだけなのでは」
 
「あ・・・・」
 
「それ絶対裸になってないよ。きっと自分は間違い無く女で、パスポートも女、航空券も女だから問題無いはずと説明したんじゃないの?おそらく航空券もちゃんと女で発行してもらっていた」
 
「そう言われればそうかも知れないような気もしてきました」
と青葉は悩むようにして言った。
 
「でもそれならなぜ別室検査になったのかな?」
と美空が自然な疑問を呈する。
 
すると青葉は考えてから言った。
「桃香姉のせいかも。この子たち女みたいに見えるけど間違いなく男ですからと入出国の所で横から言ってました」
 
「ああ、それが全ての元凶かも」
 

10時半になると今度はFステージで始まったスウィンギング・ナイツの演奏の様子が流れてきた。
 
「さすがいい音出しますね」
と青葉が感心したように言う。
 
「メンバーは全員70歳近いのに、全く演奏力が衰えてない」
「多分日々物凄い練習しているのだと思う」
「身体も鍛えてますよね」
「だろうね。マジで今時の若いもんには負けんって感じ」
 

10時半過ぎから、小雨が降り出した。私たちは全員レインコートを着る。他の客もだいたいレインコート持参で来ているようである。
 
こういう興奮しやすいライブでは、むしろ雨が少し降っているくらいのほうが観客の異様な興奮を抑えることができてよい。
 
やがて10:40くらいに楽器が運び込まれ、ケーブルをつないで、PAからちゃんと音が出るかの確認をする。ギター・ベースはチューニングも確認しているようであった。確認が終わると、楽器にはビニールカバーを掛けていた。
 
10:58。エレメントガードおよびサポートミュージシャンがステージ上に登場し所定の位置につく。歓声が上がる。伴奏者たちが各自自分の楽器の音を出して最終確認している。
 
11:00。物凄い歓声に包まれてアクアが登場する。観客が総立ちになる。政子も「きゃーきゃー」と凄い声をあげて立ち上がった。
 

アクアは今日は青い半袖のジャージに白いハーフパンツを穿いていた。ジャージの胸にはJAPANの文字があり、オリンピックを意識した衣装のようである。
 
「皆さん、こんにちは!アクアです。これから1時間、一緒に楽しみましょう。でも席は移動しないでくださいね」
 
と言ってからアクアは最初に来月12日公開の映画『時のどこかで』のエンディングテーマ『エメラルドの太陽』を歌い出す。
 

「なんつー歌詞なんだ?」
と花野子が呆れている。
 
「これ誰の作品ですか?」
と梨乃が訊くので、私が
 
「岡崎天音作詞・大宮万葉作曲。つまりマリ作詞・青葉作曲」
と説明する。
 
「ここだけの話。クスリやってませんよね?」
と花野子が小さな声で訊いた。
 
「またまた薬物検査させられてたけど陰性。まあ色彩崩壊は別に珍しくないし。ただし一部私が歌詞を修正させてもらった」
と私。
 
「あれ不満〜」
と政子は文句言うが
 
「いえ、あそこは修正しないと危なすぎます」
と作曲者の青葉も言う。
 

この曲は完璧に初公開になった。この曲を青葉が書き上げたのは7月17日。下川工房のイリヤさんの手で編曲が完了したのが20日。実はまだ音源制作もしていないできたてホヤホヤの作品である。音源制作はアクアがどっちみち今日1日映画撮影から抜けることから、今日このステージを終えた後、エレメントガードや他のサポートミュージシャンと一緒に高崎市内に移動して、そちらのスタジオでおこなうことになっている。アクア自身まだ充分練習しているとは言い難いが、まるで1ヶ月くらい練習したかのようにしっかり歌っているのがこの子の才能であろう。
 
「あ、歌詞間違えた」
と政子が言う。
 
「仕方無いよ。これ本人に見せたのが一昨日。でも映画の撮影で朝から夜遅くまで現場に張り付いていて、ほとんど練習時間無かったはずだもん」
と私はアクアを擁護する。
 
「でも間違ってもそれを感じさせずに堂々と歌うのがあの子の才能ですね」
と青葉。
 
「私も歌詞を間違うのは日常だな」
と花野子が言う。
 
「2番と3番の歌詞が混線するのとかも日常茶飯事だよね」
と梨乃。
 
「あ、確かに。1番はちゃんと歌えるけど、2番以降が怪しくなる」
と政子自身も言っている。
 

そのあとアクアは『ときめき病院物語II』のエンディング曲『ナイスなナースになるっす』、『ねらわれた学園』の挿入歌『テレパシー恋争』と歌っていく。
 
30分ほど歌った所で、青葉が「あっ」という声を出した。
 
「どうしたの?」
「ケイさん、一緒に来て下さい」
 
と青葉が言うので、私は政子と美空の「監視」を花野子と梨乃に頼んで、ブロックを出る。ブロックの出口の所のスタッフが「演奏中は移動しないで下さい」と言ったが、私はバックステージパスを見せて「関係者です」と言い、出してもらった。
 
そして私たちがステージに向かっている最中にステージ上で歌っていたアクアが突然崩れるように倒れた。
 
会場が騒然とする。
 
「これが分かったの?」
「意識が遠くなりながらも歌い続けようとしてました。この子凄いです」
「うん。この子、精神力がハンパじゃないんだよ」
 
エレメントガードのヤコが演奏を中断してアクアに駆け寄る。ステージ脇からも秋風コスモスと川崎ゆりこが階段を駆け上ってアクアの所に行った。
 
私たちが小走りでステージに向かっているので、途中何度かスタッフに呼び止められたものの、バックステージパスを見せると行かせてくれた。
 

ステージ上ではコスモスがアクアと話している雰囲気だ。何度か頷くようにした。そしてアクアが持っていたマイクを取るとコスモスは会場に告げた。
 
「お騒がせして申し訳ありません。ちょっと疲れが溜まっていたので、一瞬気が遠くなったようです。すぐ演奏を再開しますが、5分間だけ猶予を下さい」
と言った。
 
会場全体から拍手がある。
 
「アクアに休憩をあげる間、私が1曲歌います」
と川崎ゆりこが言い、それにも拍手があった。
 
そこでヤコも自分の定位置に戻る。アクアは男性スタッフに抱えられてステージ脇に下がる。エレメントガードがアクアのヒット曲『ぼくのコーヒーカップ』の伴奏を始める。ゆりこがこの曲を歌う。
 
ちょうどその頃、私と青葉はステージ脇に到達した。
 

楽屋は壁で会場とは仕切られており、ドアの所に警備員が立っている。警備員が私たちを停めるが、ちょうど近くに居たTKRの鮫川さんが
 
「あ、その人たちは通してあげて」
と言うので、私と青葉は楽屋の中に入ることができた。
 
「おお、ケイちゃん。どうしたの?」
と三田原さんが言う。
 
「この子は凄腕のヒーラーなんです」
と私が言うと
「それは助かる。頼む」
と三田原さんは言った。
 
アクアは頭を高くして寝せられており、スポーツドリンクをストローで飲んでいる。
 
「あ、青葉先生」
とアクアが声を出す。
 
青葉はアクアがかなり汗を掻いているのを見て
「すぐ着替えさせて下さい」
と言った。それでジャージとアンダーシャツを脱がせ、代わりのシャツと予備のジャージを着せる。
 
「そのまま寝てて」
「はい」
 
青葉はアクアの手を取った。そしてヒーリングすると青白い顔をしていたアクアがみるみると顔に血の気が差してきた。
 
「凄い」
とそばで見ている事務所の後輩・姫路スピカが言う。スピカはアクアと同じ衣装を着ている。恐らくは退場する時の影武者を務める予定なのだろう。
 

やがて川崎ゆりこの歌が終わる。ゆりこはそのままトークをしている。彼女はトークがうまいので、恐らく4〜5分は場をもたせてくれるだろう。
 
ゆりこのトークが始まってから1分ほど経った時、アクアが起き上がった。
 
「ボク、行かなきゃ」
と言う。
 
「大丈夫?」
とコスモスが心配するが
 
「行きます」
と決意を秘めたように言って立ち上がる。一瞬ふらっとしたものの、その後は何とか立っている。
 
「座って歌わせましょう」
と私は提案した。
 
「その方がいいかも」
と三田原課長も言った。
 

ゆりこが即興のコントで笑いを取っていた時、アクアが青葉と一緒に出てきた。男性スタッフが椅子を2つ持ってきている。
 
拍手が湧き起こる。
 
アクアがゆりこからマイクをもらってアナウンスする。
 
「大変申し訳ありませんでした。もう元気になりました。でも社長が心配してこのあと座って演奏したら?というので、観客の皆さん立っているのに申し訳無いのですが、そうさせて頂きます」
 
とアクアが言うと、また会場から暖かい拍手がある。
 
「こちらは大宮万葉先生です。私に多数の楽曲を提供してくださっています。残りの時間、私のそばでフルートを吹いて下さるそうです」
 
とアクアが青葉を紹介する。
 
これにも拍手があった。
 
実際問題として、青葉はこのあとずっとアクアのそばにいて、自分でも演奏しながらアクアのヒーリングを続けるつもりなのである。
 
なお、このフルートは青葉が練習しようと思って偶然にもバッグに入れておいたものらしい。
 

「では演奏を再開します。曲目はその大宮先生から頂いた『眠る少年』。今私、5分ほど眠ってたんですけど」
 
とアクアが言うと、会場は笑いに包まれた。
 
アクアと青葉が椅子に座る。スタッフさんが青葉のフルートにピックアップをつけてくれた。ちょっと音を出してと言われて青葉が少し吹く。これでPAの調整をするのだろう。OKのサインを出している。
 
アクアが挨拶している内にこの作業をしても良かったはずだが、わざわざ終わるまで待ってからしたのは、少しでもアクアを休ませるためである。
 
青葉がフルートを構えてヤコとアイコンタクトした。エレメントガードの伴奏が始まり、アクアが歌い始める。青葉のフルートがそれに彩りを添える。
 
アクアは今倒れたばかりとは思えない、しっかりした声で歌っている。体調が万全な筈は無い。おそらくは青葉がそばについてパワーを注入しているがゆえにできる歌唱だろう。
 
しかしトラブルが起きたおかげでかえって会場はアクアを応援する雰囲気になっている。この3万人の観客のうち、元々のアクアファンはたぶん5千人くらいで、残りはついでだから話題のアクアを見ておこうという程度の観客だったろう。しかし今そういう観客がみなアクアのファンになったのではないかと私は思った。
 
こういうトラブルを味方につけることができるのがスターである。
 

次の曲は『想い出海岸』であった。この曲は東郷誠一作詞作曲ということになっているのだが、実際には葵照子(蓮菜)の歌詞に青葉が曲をつけたものである。その作曲家自身のフルートをフィーチャーしてアクアは熱唱を続ける。
 
ん?
 
私は何かを感じて天井を見上げた。スピカもやはり上を見ている。
 
「何か来てますよね?」
とアクアのマネージャー鱒渕さんが言う。
 
「うん。たぶん龍か何かが来てる」
と私は言った。
 
「龍が来てるの?」
と言ってコスモスも上を見たが、コスモスはこういうのはあまり分からないようであった。
 
「この曲を書いた時、大宮万葉は龍を見たと言っていたから」
と私は言う。
 
「アクアちゃん、小さい頃に龍に乗ったことあると言ってましたよ」
と鱒淵。
 
「へー。私も乗ってみたいですー」
とスピカが言っている。
 
「やはり、子供ってあちらの世界に通じてるんでしょうね」
とコスモス。
 
「そうだと思います。人間はあちらの世界から来て、あちらの世界に逝くんですよ」
と私は語った。
 

アクアはそのあと、元気に歌唱を続け、やがて最後の曲、秋からの連続ドラマのエンディングテーマ『夢のかけら』を歌った。マリ&ケイの作品。北海道のラベンダー畑のそばで、桜川陽子(少女X)のお姉さんの話を聞いた時に書いた作品のひとつである。
 
会場に設けられている大きな電光時計が12:00を指し示すのとほぼ同時にアクアの演奏は終了した。物凄い拍手と歓声がある。アクアは椅子から立ち上がり、会場に向かって深くお辞儀した。
 
そして、青葉と握手して退場しようとした時、観客から「アンコール!!」という声が掛かる。
 
そしてアンコールを求める拍手も起きる。
 
アクアはどうしよう?と戸惑っている。
 
ヘッドライナーをはじめとして各ステージでその日最後に演奏するアーティストはアンコールをしてもよいのだが、それ以外のアーティストは進行スケジュールが狂うのでアンコールはしないのが普通である。
 
コスモスが主催会社のスタッフさんを見る。
 
「1曲だけならいいですよ。その分(ぶん)のずれは何とかします」
とスタッフさんが言った。
 

コスモスがステージへの階段を駆け上がる。
 
コスモスはアクアのそばまで寄り、アクアのマイクを借りて言った。
「1曲だけならやってもよいそうです」
 
会場全体から物凄い拍手がある。
 
ヤコが寄ってくる。
 
「何を演奏しますか?」
とヤコが訊く。
「だったら、ボクが歌えなくて(川崎ゆりこ)副社長に歌ってもらった『ぼくのコーヒーカップ』を」
とアクア。
「よし。それ行こう」
とコスモス。
 
それでヤコが小走りにバンドメンバーの所に行き曲目を伝達する。
 
伴奏が始まる。青葉はフルートを置いて手拍子をしている。コスモスも手拍子をする。会場も一体となって手拍子をする。アクアが『ぼくのコーヒーカップ』を歌い出す。
 
この曲はとても可愛い曲で、スーパーアイドルのアクアにはぴったりの曲である。
 
この曲はマリ&ケイのクレジットになっているのだが、本当に書いたのは千里である。全くアクアの楽曲は名義が複雑である!
 
私もゆりこも、ステージ脇で手拍子を打っていた。
 
アクアのステージは歓喜と興奮の中で終了した。
 

アクアが何度も何度も観客にお辞儀してからステージを降りる。すぐにアクアのマネージャー・鱒渕さんと姫路スピカが楽屋の後ろに停めている軽自動車に乗り込む。車が出発する。
 
すると会場の周辺で待機していたアクアのファンと思われる人たちがその車を追うように走っていった。
 
一方、ステージから降りてきたアクアはそのまま倒れた。青葉が手を取ってヒーリングをする。
 
「大丈夫?」
とコスモスがのぞき込む。
 
「大丈夫です。立てないだけで意識はしっかりしてます」
と本人が言う。
 
「今日、レコーディングもするんでしょう?大丈夫ですか?」
と私は訊いたが
 
「1時間も寝たら大丈夫だと思います。高崎までの間寝てていいですよね?」
とアクアは言っている。
 
「うん。寝てなさい」
とコスモスは言った。
 

アクアはその場で20分くらい横になって青葉のヒーリングを受けていた。このヒーリングでアクアはかなり元気になった。
 
医師も来てくれ、脈や体温・血圧を確認し、聴診器も当てていたが
 
「疲れが出ただけでしょう。大丈夫ですよ」
と言ってくれた。
 
既にアクアの演奏スタッフはコスモス・三田原課長・青葉・私以外全て退出している。次の出番のレインボウ・フルート・バンズのメンバーで青葉も「性別が分からない」と言っていたフェイちゃんが顔を出して
 
「アクアちゃん倒れたって聞いたけど大丈夫?」
 
と言っていた。フェイは今日は膝丈のプリーツスカートを穿いている。上は体型が分からないようにするためか、だぼだぼのポロシャツである。
 
アクアは笑顔で
 
「すみませーん。もうすぐ立てるようになると思いますから」
と答えていた。
 
「これ元気になるドリンク。飲むといいよ」
と自分のバッグの中から栄養ドリンクのような感じの小瓶を取り出して渡す。
 
「ありがとうございます。頂きます」
と言ってアクアは飲んでいたが、変な顔をする。
 
「これ前にもどこかで飲んだことがある」
と言う。
「ああ、やはりこの手の飲んでるんだ?」
とフェイ。
 
アクアはドリンクの外に書いてあるタイ文字?を見ていたが
 
「あ〜!これ以前丸山アイさんにもらった女性ホルモンドリンクだ!」
とアクアが言う。
 
「ホルモンバランスが崩れると倒れやすいからさ。特に去勢している人は女性ホルモンはサボらずにちゃんと飲んでおいた方がいいよ」
とフェイが言っている。
 
「ボク、去勢もしてないし、女性ホルモンも飲んでません」
とアクア。
 
「このメンツの前でわざわざ嘘をつかなくても大丈夫だよ。アクアちゃん、身体の線が丸みを帯びていて、思春期初期の女の子のボディラインだもん。もっとしっかり女性ホルモン飲んでいれば、もっと女らしくなっていくよ」
 
などとフェイは言っている。
 
青葉が困ったような顔をしていたが、私もコスモスも笑いをかみ殺すのに苦労していた。
 

12:30くらいになってアクアは起き上がり、作業スタッフのTシャツを着て、ウィッグを付け膝丈スカートを穿いて、女性スタッフのような格好をした。
 
こちらでコスモスとしばらくおしゃべりしていたフェイが
 
「そんな服でも可愛い。やはり、アクアちゃん女の子の格好が似合うね」
と褒めている。
 
「性転換手術はやはり中学卒業してからするの?」
「性転換はしません」
「でも女の子になりたいんでしょ?」
「別に女の子にはなりたくないですー」
 
「まあ焦って手術する必要は無いけどね。モニカみたいに小学生の内に性転換しちゃったというのは異常だよ」
「モニカさん、そんなに早く性転換したんですか?」
「でもボク、アクアちゃんもデビュー前に性転換していたものと思ってた」
 
「ああ、世間ではそう思っている人も多いよね」
と私も言っておいた。
 

アクアは、会場のブロックを作るのに使った杭やロープを乗せた軽トラの助手席に乗って会場を脱出した。運転したのは★★情報サービスの鶴見社長である。染宮専務は過去にローズ+リリーやKARIONの移動に度々関わっていて、結構「面が割れている」のだが、鶴見社長は、ふだん裏方に徹しているのであまり一般には知られていない。それでこういうお仕事には最適であった。
 
アクアと鶴見さんはその後、会場の駐車場でクラウン・マジェスタに乗り換えて高崎に向かった。
 
私と青葉はコスモス・三田原課長と握手してから、花野子と連絡を取り、そちらと合流するため、屋台村の方に移動した。政子と美空が楽しそうにあれこれ買って食べているのを花野子と梨乃で半ば呆れ気味に見ているらしい。
 
 
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【夏の日の想い出・影武者】(2)