【春枝】(1)
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(C) Eriki Kawaguchi 2019-07-08
2019年4月2日から8日まで辰巳国際水泳場で日本選手権に参加した青葉は金メダル2つと銀メダル2つを取り、世界選手権の代表に選出された。そして日本選手権が終わった後はそのまま東京北区のNTCに移動して、代表合宿に入った。
それで結局彪志とは会えないままである。
青葉は昨年もジャパンオープンの後、そのままNTCに連行されたなと思い出していた。この後の合宿は、4月下旬から5月上旬に掛けてオーストラリア遠征、6月にはヨーロッパ遠征を経て、7月の世界選手権に参加する。7月までは全く休み無しである。卒論も書かないといけないのに!
取り敢えずK大水泳部のほうも、部長には任命されているものの、ほぼ放置である。色々な大会に参加するようだが、青葉はとてもそちらには参加出来ない。
「全国公とインカレ本番には参加してよね」
と副部長の杏梨から言われる。
「世界選手権で充分な成績を出せなかったということで7月いっぱいで引退しようかな」
「世界大会で恥ずかしい成績を出したら罰金100兆円だからね」
「何それ〜」
「金メダル5個くらい取って帰国してね」
「私がエントリーする種目は4つなんだけど?」
青葉が日本選手権をやっていた最中の4月6日、世田谷区経堂の桃香と千里(千里1)が早月・由美と一緒に暮らす1Kのアパート(とても3月に500億円納税した人の住まいとは思えない)に、千里の両親が玲羅と一緒に訪問してきた。そして千里の父・武矢は、千里を2012年に勘当していたのを解除すると言った。そして武矢はこの13年間、自分の学資を支援してくれたことに感謝すると言った。
武矢がこの時期にわざわざ千里の所まで来て勘当を解除すると言ったのは、元々武矢は勘当して数ヶ月もしない内に(丸山アイの工作もあり)千里を許すつもりになっていたのだが、意地っ張りなので“振り上げた拳を降ろすタイミング”を失ったままでいたということ、そして学資の支援のことを知ったこと、そして千里に子供ができたと聞き、孫の顔を見たかったこと、そして秋に結婚する玲羅の結婚式に千里に出てもらうために勘当の解除が必要だったことであった。
しかし実際アパートに来てみると子供が2人いる。
「えっと、どちらがお前の子供だっけ?」
と武矢は尋ねた。
玲羅が説明した。
「そちらの大きな子は早月ちゃん、千里姉ちゃんを父親とする子、そしてベビーベッドに寝ているのは由美ちゃん、千里姉ちゃんを母親とする子」
「お前、父親と母親の両方になったの!?」
と武矢は驚く。
「まあその辺の経緯はあまり簡単には説明する方法が無いよな」
と桃香も言っていた。
千里と和解した武矢はその後、千葉に移動して、川島家も訪問した。武矢は康子にこれまで不義理をしていたことを詫びて今後は千里ともちゃんとやっていきますのでと言った。そして信次さんに生前にご挨拶できなくて申し訳なかったと詫びて、仏檀に線香をあげた。
武矢たちは千葉市内のホテルに2泊して4月8日北海道に戻ったが、東京駅の東北新幹線乗り場で3人を見送った後、千里は桃香に
「急用が出来たから先に帰ってて」
と言い、東海道新幹線に乗り込んだ。
入場券で入っているので、そのまま東海道新幹線乗り場にも移動できるのである。
車掌が回ってきたタイミングで千里は岡山までの切符を買った。
千里自身は岡山に何があるのか知らない。
目的も分からないまま千里(千里1)がこのような行動を取ったのは、携帯ストラップに擬態している《やまご》からの指示である。
まだ“思念による会話”をする能力を回復させていない千里1のために羽衣が付けてくれている眷属で、千里にメッセージを伝えたい人は《やまご》に伝えると、それを《やまご》が千里だけに聞こえるように伝達してくれるのである。千里の眷属たち、それに羽衣や天津子に青葉、更には千里2・千里3まで!このルートを利用して千里1に必要なことを伝えている。
岡山で降りた千里1は《やまご》の指示に従い、ANAクラウンプラザホテル岡山内のレストランに入った。向こうで手を振る人が居る。千里の顔が弛む。会釈してその席に行く。
「お久しぶりです。お身体の調子は如何ですか?」
と千里が訊く。
「まだこうやって車椅子で出歩かないといけないけど、何とかかな」
と菊枝が答える。
東京まで行くだけの体力が無いので岡山で千里と会うことにして、妹さんにここまで付き添ってもらったのである。妹さんは少し離れたテーブルに控えている。千里の呼び出しは、ルートを持っていると聞いていた天津子に頼んだ。天津子が電話せずにわざわざ《やまご》を使ったのは千里の霊的な感覚を少しでも刺激するためである。
「千里さんさあ。そろそろ復活してくれないかなあ。千里さんが稼働してないと、私まで仕事がやりにくいんだよ」
と菊枝は言った。
「復活!? 何のことでしょうか」
菊枝は千里に言った。
自分でそのこと自体忘れてしまっているかも知れないけど、千里は本来物凄い霊的なパワーを持っているはずだということ。菊枝自身が瀕死の重傷を負った時と同じ事故でその能力を失っていたが、もう既に回復しているはずだということ、千里は後は自分に能力があることを“思い出す”だけでその能力を使えるようになるはずだということ。
そして菊枝は自分の数珠を使って、千里の魂の中に沈んでいる“鈴”を刺激した。すると確かに千里は心の中に何か輝くものがあることを認識した。
「自分がいちばん輝いていたと思う時代を思い出すといい。そこにきっと千里さんの霊的な力の《鍵》も眠っているから」
「輝いていた時代・・・・」
「あんた、バスケット選手でしょ? 日本代表にもなったんでしょ?」
「それは過去の栄光だよ」
「だったら、バスケットやってみるのもいいんじゃない?」
「・・・・。私、また昔みたいに作曲ができるかな?」
「力を取り戻せばできるだろうね」
千里1は高校時代、インターハイやウィンターカップに向けて日々物凄い練習をしていた頃のことを思い出していた。
菊枝と千里がレストランで会話していた時、レストランに入って来た老齢の男性が
「高井さん!」
と声をあげてこちらに近づいて来た。
菊枝は“高井厨人”の名前で霊能者として活動している。
「お久しぶりです。緑川さん」
「こちらに出て来られたんですか?」
「どうしても外せない用事があったもので」
「よかった。実は困った案件があったのですが、高井さん、お怪我でまだ高知市周辺からは離れられないということだったので」
「何かありましたか?」
「実は今度買った土地に何か変な因縁があるのではないかと地元の易者が言いましてね。実際、そこに新たな営業所を作ろうと工事を始めてから怪我人が続出していて、工務店側が違約金払うからキャンセルできないかと言ってきて」
「私の手に負えるかどうかは分かりませんが、取り敢えず見ましょうか」
菊枝の妹でドライバー役の萩乃さんが近づいてくる。千里は
「では私はこれで」
と言って帰ろうとしたが、菊枝は引き留めた。
「千里さん、私の仕事ちょっと見て行きません?」
この時点では千里に“霊的な作業”を見せることで、千里の霊的な能力を刺激できるだろうと菊枝は思ったのである。
それで菊枝のタントの後部座席に緑川さんと千里が乗り、現場に向かった。(菊枝が座る“ウェルカムシート”は助手席として車内に収納される)
菊枝は現場に来てみてギョッとした。
『こいつは手強いぞ』
と思う。その土地に2匹の妖怪が陣取っているのである。かなり強そうな妖怪なので絶対に目を合わせないようにする。大怪我する前の菊枝なら何とかなったかもしれないが、今の菊枝では厳しい。
『こんなのを今処理できそうなのは、瞬法さんか、あるいは青葉だけど、瞬法さんはいつも忙しいし、青葉も7月までは時間が取れないと言っていたな』
と思う。
(長谷川一門のBig3の中で、瞬法は法力1番、瞬高は知識1番、瞬醒は修行1番)
天津子や羽衣にもできるだろうが、他派の霊能者の力はできたら借りたくない。
取り敢えず妖怪の動きを封じておいて、青葉か瞬法か、どちらかの時間が取れた時に来てもらって、処理してもらうかなどと考える。
その時だった。
「ここ何かあるんですか?」
と言って後部座席から降りてきた千里がその土地を見た。
そして千里が見た途端、妖怪が2体とも一瞬で破砕されてしまったのである。
嘘!? 何今のは?まさか**の法? なんで“今の”千里さんがそんな凄い術を使えるの!?と思った。
(実際には千里1がコントロールを失っているので瞬嶽が千里の身体にコピーしている術が勝手に起動してしまうのである。武器庫のドアが開いていて起動スイッチも野ざらしになっているような状態なので、実は危険きわまりない)
「あれ?」
と緑川さんが言った。
「何か雰囲気変わりました?」
菊枝は平然として言った。
「処理は終わりました。もう事故は起きませんから、安心して工事してくれるように、工務店の方におっしゃってください」
そして言いながら、不思議そうな顔をしている千里を見て思った。
『この人実はもう回復してるんじゃないの〜〜?まだ回復してないふりをしているだけだったりして!??』
4月5-7日にアクア(龍虎)は都内のスタジオで北里ナナ『招き猫の歌/白雪姫』の歌唱録音をしていたのだが、その日程で今井葉月(西湖)はプーケットに行き、彼(彼女?)として初の写真集を撮影することになった。
付き添いは最初桜木ワルツが行く予定だったものの、自身の番組出演が入ってしまい、誰も空いていないので、結局、まだ入社半年ほどの原田友恵が付いて行くことになった。
HND 4/4 0:05(NH849 787-9)4:35 BKK 7:40(TG201 747) HKT
4月4日、葉月は月原に送ってもらい、さいたま市でアクアと一緒にバイクの練習をしていたのだが、帰りは山下ルンバが車でまずはアクアを夕方からの仕事現場に連れて行った後、そのまま葉月を羽田に連れて行った。一方の原田は事務所で預かっている鍵で用賀のアパートから葉月の着換えを取ってきて、羽田で落ち合い、一緒にタイに渡航する。ルンバは葉月のアパートの鍵を原田から受け取り、バイクスーツなどをアパートに置きに行く。洗濯物が溜まっていたので(忙しいから仕方ない)コインランドリーに持ち込んで洗濯乾燥を掛けてあげた。
なお、撮影に使用する葉月の衣装は予め川崎ゆりこが選んで現地に郵送している。今回は衣装を選んだのが、ゆりこであるというのがポイントであった!
羽田ではチケットを念のためパスポートと見比べる。
「Seiko Amagi Sex:F Age 16 間違い無いね」
「そうですね」
葉月はパスポートの性別がFなのはもう気にしないことにした。取り敢えず自分の身体も暫定的にFになっているし!
むろん出国も何も問題無くスムーズに行く。
機内ではぐっすり眠っていく。睡眠不足で疲れたような表情になるとまずいので、ここは寝るのも仕事の内である。バンコクのスワンナプーム空港で早めの朝御飯を食べるが、プーケットへの国内便の中でもひたすら寝ていた。
現地に着いてから顔を洗い、美容液パックをしてメイクをし、初日の撮影に入る。撮影してくれるのはアイドル写真を多数手がけている田中麗華さんである。葉月は2年前にアクアさんの写真集撮影でもここに来たよなあ、と少し懐かしい気分だった。あの時は無茶苦茶忙しくてダウン寸前だったと思ったが、今回もかなりハードスケジュールだった!
パトンビーチ、カロンビーチなどの砂浜での撮影が続く。撮影は基本的に様々な服で撮影しては水着でも撮影する。
衣装は川崎ゆりこが選んだだけあって、とっても可愛い服ばかりである。水着はかなり布面積の少ないものが多く、さすがの葉月も
「これを着るんですか〜?」
と尻込みするほどであった。
むろん服は全て女物である!
写真家の田中さんはこちらを女の子アイドルと思い込んでいるようだし、どうも雰囲気的に原田マネージャーも葉月を女子と思い込んでいるふしがあった。
だいたいパスポートだって女だったし!
リゾートウェアのような服、マリンルック、学校の制服っぽい衣装、など色々な服を着るが、水着も何種類も用意されている。
ビキニもある!
葉月は2年前のアクアの写真集撮影でもビキニを着ているが、あの時はよく男の子の身体でビキニを着たよなあと我ながら感心する。今は女の子の身体なので安心してビキニを着られるが、こんな写真集出したら、マジで、後から「実は男の子でした」なんて、言えないよぉと思った。
どんどん自分の人生の進行方向が狭められている感じである。
やはりこのまま女の子としてやっていくしかないのかなあという気になってくる。
身体の線に影響が出ないように、お昼はハンバーガーで軽く済ませたが、晩御飯のタイスキもあまり食べ過ぎないように言われた。
2日目は町中での撮影をメインにした。プーケットタウンのカラフルな町並みの中で、雑貨屋さん・洋服屋さん・食べ物屋さんなど、様々な商店や建物を背景に撮影する。
今日はビキニにならなくて済むようだ!
それでもたくさん着換えて、色々な服を着て撮影した。着替えは現地の協力会社のスタッフで、サーリーさんという人が運転するワゴン車の荷室の中でする。この荷室に大量の衣装も積んでいる。汗を掻かないようにクーラーを入れているので正直寒い!
ちなみに「サーリーって可愛い名前ですね」と言ったら「日本語でいえば梨ね」と言っていた。タイでは果物やおやつなどの名前をニックネームにする人も多いらしい。
2日目の夕方、アクアの写真集撮影でも使用したJWマリオット・プーケット・リゾート&スパの、海に回廊が浮かぶように見える反射池で、夕日の中、ビキニの水着、白いワンピース、豪華なドレス、の3種類の衣装で撮影をした。この日はこの豪華なホテルに泊まり、ホテル内の施設や部屋の中でも撮影をした。
「こんな豪華なホテルに泊まれるなんて役得・役得」
などと、原田マネージャーも写真家の田中さんも言っていた。
この日は晴れていたこともあり、夜景の撮影もたくさんした。ホテルの中庭や部屋の窓際などで写真を撮る。
「月が出てないのが惜しいなあ」
と田中さんは言っていたが、写真集を編集した時、ここの部分の映像がとても神秘的で、結局写真集の中核になった。
3日目はプーケットの東海岸にあるスイレイ島(島だが地図で見るとプーケットと陸続きに見える。橋でつながっているが海峡がまるで川のようである)に早朝から行き、午前中の光の中でまたたくさんの写真を撮った。
午後はプーケットタウンに戻って14時頃まで撮影してから、帰国した。
HKT 4/7 16:20 (TG216 777) 17:45 BKK 21:45 (NH850 787-9) 4/8 5:55 HND
8日(月)は西湖の学校では始業式なので、飛行機の中ではひたすら眠っていた。朝羽田まで迎えに来てくれていた山下ルンバの車で学校に行ったが、その車内でもひたすら眠っていた(学校の制服とカバンはルンバが持って来てくれていた)。
青葉は4月8日に日本選手権を終えた後、そのまま東京北区のNTC(正確にはNTC敷地内にあるJISS:国立科学スポーツセンター)に入り代表合宿に参加した。“長距離陣”は青葉とジャネの2人だけなので、端の第1レーンを男子の長距離陣と共用して、2時間泳いでは2時間休むペースで練習していたが、コーチも「君たちには特に指導することは無い」などと言っていた。しかし池江璃花子不在の短距離陣は、コーチたちがやや殺気だっている感もあった。
1日目の合宿が終わった所で青葉はコーチに提案した。
「女子長距離陣は河岸を変えませんか?ほぼ独占して練習ができる場所があるのですが」
「どこかの学校のプール?」
「私の姉がオーナーをしている施設のサブプールなんですよ。25m×4レーンですが、その半分は私たちで独占できますから」
「2レーンあれば、君たちそれぞれ1人1レーン占有出来るね!」
「はい」
「使用料は?」
「私は3万円で年間パスを買っています」
「そのくらいの予算は出るよ!」
「いやそれ個人的に年間パス買いたい」
とジャネが言った。
それで深川アリーナの事実上の管理者である荻野浩子(旧姓石矢)に連絡したら年間パスの件は千里に尋ねてみるが、取り敢えず2レーンの独占はOKということであったので、ジャネと青葉はコーチと一緒に深川アリーナに移動した。それで女子長距離陣が使用していたJISSのレーンも男子に明け渡した。
「短水路であっても完全に1レーン独占できるのは素晴らしい」
とジャネは言っていた。
2レーン使用しているので、何度も青葉とジャネでかなり競争した。これはお互いに物凄く刺激になった。
2人で練習していたら、千里姉が「気分転換に泳ぎに来た」と言ってやってきた。
「千里さん、ここを使う年間パスについて荻野さんに訊いたら、千里さんに聞いてみてと言われたんだけど」
とジャネが言った。
「じゃマラさん、マソさんの2人で2万円で。カード2枚発行するよ」
と千里。
「まあいいけど」
と答えてから、唐突にジャネは思いついたようで尋ねた。
「千里さん、ここに50mプールを作る気は?」
「使うなら作ってもいいよー」
「おお。ぜひぜひ。夏までの限定でもいいですから」
「限定か。それなら割とどうにでもなりそう。どこに置こうかな?」
「本館地下に置く?あるいは今の25mプールを置換する?」
と青葉が尋ねる。
「本館の面積っていくらだったっけ?」
「さあ」
「浩子に訊いてみよう」
と言って千里が電話していた。
「メインアリーナの床面積が34m×94mで、体育館自体の敷地面積は70m×120mあります。現在の8レーン25mプールは周囲のウェットゾーンを含めて35m×20mです。10レーン50mプールに置換した場合は、60m×35mくらい必要と思われます。設置は可能ですが、面積が追加で4倍、置換でも3倍になるので、トレーニングルームがその分狭くなり、たぶん苦情が来ます」
と浩子は説明するとともに問題点も指摘した。
「むむむ」
このあたりは40 minutes単独の施設ではなく、共同施設であるのと、ここの土地は都が所有しているという面倒くささもある。容積率も特例で現状まで認めてもらっているので勝手に地下3階!とかを増設したりはできない。
「そうだ!若葉に訊いてみよう」
と言って、千里は若葉に電話した。
「ね、ね、郷愁村にさ、50mプール1個作らせてくれない?9月くらいまでの限定でもいいんだけど。建設費は私が出す。面積として60m×35mくらいあればいいんだけどね」
若葉は即答した。
「いいよ〜。土地は余ってるから、ずっと置いてていいよ。どうせなら100m×100mくらい貸すから観客席も作って。そういう施設があれば郷愁村の資産価値が上がるし」
それで郷愁村に「プールを1個」作ることにしたのである!
千里はすぐにプールメーカーに連絡を取った。すると、既にプールを設置する場所が確保されていて、プールの形の窪みがある場合は浄化設備まで入れて3億円くらいで作れるという話だった。工期も純粋にプールだけなら50-60日で行けるらしい。
「じゃお願いします。設置場所は来週までに用意しておきますから」
と千里は答えたが、近くで顔をしかめている者たちが居た!(青葉やジャネには見えない)
「しかし凄いですね。普通50mプールを1個建設するといったらそれだけで30億円は掛かると思っていたのに」
とコーチさん。
「FRP(*1)のプールは工場でほとんど製造して、現地で組み立てるだけですから」
と千里は言う。
(*1)FRP = Fiber Reinforced Plastics, 繊維強化プラスチック
「なるほどー」
「それに市とか県とかが作ると、わざわざそのためにデザインしてオーダーメイドで作ろうとするから高くなりますけど、民間の事業ならそもそも使える規格品でプール本体も更衣室などの付帯設備も全部間に合わせますからね」
「ああ」
「ちー姉、そのプールの建物とかはどうするの?」
と青葉は“敢えて”訊いた。
「来週くらいまでに建ててくれるよう、播磨工務店さんに頼んだよ」
「播磨工務店!?」
(実際には《こうちゃん》に「市川の人たちに頼んでね」と言っただけである!)
「今小浜に巨大アリーナを建設している会社」
「あ・・・」
「物凄く仕事が速いんだよね〜」
しかし結局壁とか天井が無い状態の方がプール自体の作り込みは楽だということになり、このプールの建物の建築自体は保留して、床だけを作ってもらうことにした。また播磨工務店も今は小浜の事業が忙しいようである。しかし青池さんがわざわざ来てくれて彼(彼女?)の指揮の下、《こうちゃん》、《せいちゃん》《げんちゃん》も加わってホントに1週間でプールの土台を作ったようである。
「壁や天井がしばらく無くてもいいよね?」
「うん。プールさえあればいい。できたら浄化設備付きで」
とジャネは言う。
「OKOK。そのくらいはすぐ付けるよ。浄霊設備は無しでね」
「恐いこと言わないでくれる?」
2人の会話に青葉は呆れていたが、コーチは意味が分からず首をひねっていた。
しかしジャネは浄霊されると困る訳だ!
「そうだ。筒石も連れてきていい?」
「女性専用プールにしようかと思ったけど、まあ彼ならいいよ」
「何なら女子水着を着せようか?」
「あの人平気で着そうだ。それにたぶん女子水着を着たらスピードアップする」
「だろうね!」
「でも年間維持費とかはどのくらい掛かる?」
と青葉が訊く。
「たぶん3000万円くらいだと思うけど。青葉、これ折半しない?」
「OKOK。何なら運用会社設立しようか?」
「それでもいいよ。ほとんどペーパーカンパニーだろうけどね」
しかしそういう訳で、わずか2ヶ月後の5月下旬に埼玉県の郷愁村に50m 10レーンのヤマハFRP製・水連公認競泳プールが完成することになる(公認は事前に予備審査してもらっておいて、正式には建物完成後に取得)。そして青葉とジャネは5月下旬のジャパンオープンの後はここを2人の事実上の専用練習場として使えるようになったのである(その他に筒石も使う)。
なお最終的にはこの50mプール(公認を取るので深さ3m)には一般客が利用できる深さ1.0-2.0m可変の25mプール、更にはウォータースライダー・流れるプール付きのレジャープール群も併設することにした。すると郷愁村に来たお客さんがここで自由に泳ぐことができる。そのサブプール、観客席やショップを入れられるエリアまで確保して20億円の事業となった。
NTC/JISSでの世界選手権代表合宿は4月12日で終わったのだが、青葉とジャネはその後も2人だけでひたすら深川アリーナのプールで泳いでいた。この時期はまだ青葉が所属している(はずの)K大のプールがまだ使えないので、青葉は金沢に帰ってしまうと練習場所が無い。日本代表の活動で授業に出席できないのは大学側も了承済みである。
しかし青葉が東京に居てくれると、§§ミュージックやTKRなども助かるようであったし、松本花子プロジェクトのメンバーもやりやすいようであった。
2019年4月19日(金).
町添専務が音頭を取って、数人の作曲家の会合が都内で開かれた。
3月いっぱいで、上島雷太の謹慎が解けてホッとしていたら、彼が謹慎している間に驚異的な速度で楽曲を書いていた(と町添さんが思っている)ケイが今全く楽曲が書けない状態だと聞き、これは何とかしなければと思ったのである。
ここに顔を揃えたのはこういうメンバーである。
町添専務・氷川上級係長・和泉・マリ・七星・Elise・鮎川ゆま・葵照子・雨宮三森。
それに千里だが、ここに出てきたのは千里1である。
ケイが精神的に回復するまでの間、何とかケイの作品を代替して欲しいという話を聞き、千里1は先日菊枝から
「もうあなたは回復しているはず」
と言われたことを思い出した。
会議の後で千里はマリからケイの楽器を取ってくるのを頼まれたが自分はどれがどれか分からないから手伝ってと言われ、一緒にハイヤーに乗って恵比寿のマンションに行こうとした。ところが千里がぼーっとしている間にハイヤーはマリの道案内で迷走していた!
「お客さん、どこに行きたいんですか?」
という困ったような運転手の声に我に返った千里は、車が東京体育館の傍に来ていることに気付き、
「ここでいいです」
と言って降りてしまう。
東京体育館では何かスポーツイベントが行われていたが、そこで千里1は自分がウィンターカップでここに来た時の幻影を見た。そしてお人形さんの道具のような小さな赤い鏡を拾ったことから、自分は何か思い出さなければならないものがあることを認識したのである。
千里は通りがかりのタクシーを停めると自分が道案内して恵比寿のケイのマンションまで行く。そしてヴァイオリンを見つけて政子に渡し、今度はマリのリーフを借りて、彼女をK市にある政子の実家まで送って行った。この日はケイは政子の実家で休憩していたのである。そしてリーフをそのまま借りて埼玉県本庄市の本庄市総合公園体育館まで行った。千里はここで高校3年の時にインターハイを戦っていた。
千里1はここで裁縫に使うような針を拾ったが、千里1はこれは“剣”だと思った。鏡と剣があるなら、どこかに珠があるかも知れない。そんな気がした千里1は、いったんリーフを恵比寿のマンションに返した後、4月20日朝7時、信次のムラーノに乗って東京を出発、全国を走り回った。
最初に4月22日朝、伊勢の二見ヶ浦で《りくちゃん》とのコネクションを回復。他の眷属が単独行動を取る中で常に千里1に付いていた彼と涙の対面を果たした。その日の昼には潮岬で、やはり千里1から常時離れずにいた《たいちゃん》とのコネクションを回復する。夕方には和歌山の加太で《いんちゃん》と、翌23日朝には能登半島の狼煙(のろし)で《きーちゃん》、その日の夕方には新潟の五ヶ浜(能登の五色ヶ浜ではない)で《てんちゃん》、24日の早朝に宮城県の鮎川で《こうちゃん》とコネクションを回復する。
《こうちゃん》は千里1をまるで黙殺するかのようにこの2年間行動していたものの、本当は最も千里1を気遣っていたので、他の眷属が呆れるくらい泣いていた。
更にその日の夕方には愛知県の渥美半島で《びゃくちゃん》、25日の朝には琵琶湖の竹生島で一気に《げんちゃん》《すーちゃん》《せいちゃん》《とうちゃん》の4人とのコネクションを回復。これで千里1がコネクションを回復した眷属は11人であるが、最後の《くうちゃん》のことはこの11人のことを全て思い出した時点で、もう思い出していた。彼のことを思い出すために他の11人全ての眷属とのコネクション回復が必要だったのである。
ところで貴司であるが、チームはひたすら降下の道を辿っていた。一度は大阪リーグで優勝したチームではあるが、2017-18シーズンでは1部リーグ8位で無条件で2部に陥落した。
“サウザンド・ケミストラーズ”小史
2006 MM化学に義邦社長(42)が就任 高倉が部長に抜擢されチーム改革を始める。
2007 船越監督就任。3部優勝
2008 貴司が加入。2部で準優勝。入れ替え戦に敗れる
2009 2部で優勝。1部昇格
2010 大阪総合で準優勝:近畿総合に進出
2013.01 大阪リーグ戦で初優勝
2014夏 義邦社長が病気で倒れる。昌二副社長(65)が経営の指揮を執るが会社の成績は急低下。
2015春 高倉部長が退職。
2015冬 銀行から送り込まれた田中道宗(58)が新社長になる。義邦・昌二解任。
2016.1 レギュラーシーズン終了後、船越監督辞任。選手枠10人に制限。スポーツ手当廃止。練習曜日限定。貴司はアシスタントコーチ就任。
2017.1 1部7位になり入れ替え戦に出るが残留
2018.1 2部陥落。スポーツ特例廃止。選手枠8人に。貴司がヘッドコーチに。
2018.7 田中社長が逮捕され解任。鈴木亭徳(48)が社長に就任
2019.1 2部2位になり入れ替え戦に出るが昇格ならず。
東京地検特捜部が摘発し、上島雷太も連座した不公正な土地取引は新潟県の高速道路予定地や北海道の鉄道建設予定地だったのだが、S代議士らは、同様の手法で四国の高速道路予定地や九州の新幹線予定地などでも土地転がしをしていたことが判明。大阪地検特捜部が関わっていた人たちを大量に逮捕した。(S代議士はこちらでも逮捕された。府議にも逮捕者が出た)
そしてこの事件で、田中社長をはじめMM化学の取締役が3人、2018年7月に逮捕されたのである。逮捕されなくても事情聴取された幹部は多く(東京地検での事件に対してこちらは大阪事件と呼ばれた)MM化学は株式取引が一時保留される事態となった。臨時取締役会で一時的に社長に就任した取締役が更に疑惑濃厚となり、結局臨時株主総会を招集して全取締役が辞任する事態となる。新たに選ばれた取締役の中から、MM化学が2017年に吸収合併していたWペイントの元常務であった鈴木亭徳(48)がMM化学の新社長に就任した。鈴木はWペイントの人脈と取引相手を中心に会社の再建を進めることになったので、結果的には吸収されたWペイントの側がまるでMM化学を救済合併したかのような状況になったのである。このため社内組織や役職者人事も大幅に見直された。社員も500名もの希望退職が募られた。またそれ以外にも年齢の高い社員や営業成績の良くない社員を中心にかなりの退職勧奨が行われた。
時期が時期だっただけにバスケット部は2018-19シーズンにはそのまま参加してよいということになったものの、それ以外のスポーツ活動は全て凍結、事実上の廃止となった。
そして・・・バスケ部の選手で貴司以外の7人が全員、退職してしまったのである!
貴司は鈴木新社長と直談判し、自分が個人的に人を集めて、バスケ部に関する費用も全て自分が負担するから、その人たちをパート名目でいいから雇って欲しいと言った。つまり“社員選手”という資格が欲しいのである。鈴木社長は費用が大して掛からないのであれば、会社の名前を使用するのは差し支えないと言ってくれた。
「ねぇ千里、このチームの活動費を恵んでくれない?」
と貴司は千里に電話して頼んだ(実際に電話を受けたのは千里2)。
「貴司会社やめたら〜?」
と千里は言ったが、結局千里は7人分の給料に相当する“スポンサー料”として取り敢えず今シーズンの分、10月から3月までの6ヶ月分の彼らの給与相当の800万円を拠出してあげたのである。
それで貴司は関西在住のチームOBに声を掛けまくって何とかシーズン開始前に8人の部員を揃えることができ、全員MM化学のパート社員として雇用してもらった。彼らは午前中だけ会社の仕事をして、午後からは府内の体育館で練習をする。結果的には、このチームは昨年までのほとんど練習できないチームよりぐっとレベルが上がった。
もっとも、年齢の高い選手、一時的にバスケから離れていた選手も多かったので、かつて1部で優勝争いをした頃に比べたら実力は比較にもならなかった。しかしこの年はほんとにテンションの高い選手たちが多く、貴司は楽しくバスケをすることができた。
緩菜を出産(?)した後の美映も“球拾い”と称して練習場に姿を見せたが、実は美映はこのチームの中で中くらいの実力者だった。
「奥さん、チームに加入しません?」
とキャプテンの真弓君が言うほどだった。
「それもいいかなあ。でもここ男子チームだからこのチームに入るには性転換しないといけないかな?」
「奥さん、結構男でもいけますよ」
「よし、性転換しちゃおう」
「でも性転換したら監督が困りません?」
「ああ、貴司は多分ホモだから、私が性転換した方が楽しいかも」
「同性愛の傾向は無いよぉ」
「それ絶対嘘。だって自分サイズの女物の下着とか隠し持っていたじゃん」
部員たちが戸惑うように顔を見合わせている。
「それ同性愛ではなくて女装趣味とかあるいは女の人になりたいとかは?」
「ああ、そちらかも知れない。入れてあげると喜ぶし」
「えっと・・・」
実際には貴司のペニスは千里3が結局取り上げたままなので(千里3自身がデートする時だけ戻してあげる)、貴司は普段精巧な疑似ペニスで誤魔化している(ハーネス無しで取り付けられ、またそのまま排尿もできる優れもの)。それで美映が触ってあげても当然勃起などしないし、気持ち良くもない。しかし入れられるのはそれなりに快感を感じるので、美映としては、ちんちん触られるより入れられる方が好きみたいだと解釈している。結果的に美映は処女のままである!
千里3が貴司のペニスを取り上げたまま返してやらないのは、絶対に他の女とセックスなどされてたまるか!というのが理由である。
結局美映はこのチームのマネージャとしてこのシーズンを送ることになる。
緩菜は試合中は“居なくなっていた”ので、美映は安心して試合に参加した。実際にはその時間帯はだいたい千里1(時には千里3)がお世話をしている。
2018-19シーズンはそれで2部Aで優勝したものの、2部B優勝チームとのプレイオフに敗れ、1部への即昇格は果たせず、1部7位のチームとの入替戦に出場した。これが延長戦にもつれる熱戦となったものの、最後1点差で敗れてしまい、今季の1部復帰はならなかった。しかし2部で2位という成績を鈴木社長は評価してくれて、取り敢えず部の継続は決まった。
千里も
「貴司今シーズンは頑張ったじゃん」
と評価して、部員たちの給料分のスポンサー料(1年分1600万円)を2019年度も出してあげることにしたのである。
2019年4月、貴司は鈴木社長に部員たちの今年度1年間の雇用継続を約束してもらった。実際には2人辞めたので、代わりに2人新たに加入してもらっている。美映はこの入れ替えの結果、貴司、真弓主将、竹田に次ぐ“チームNo.4”の実力者となった。
「奥さん、今年はぜひ性転換してチーム加入を」
「ほんとにやっちゃおうかな。誰かちんちんくれない?」
「最近ちんちん無くしたい人が多いからネットで募るとくれる人あるかも」
美映は貴司と話し合った。
「今シーズンこそは頑張って1部に上がれるように、どこか祈願に行こうよ」
「そうだなあ。バスケットの必勝祈願と言ったら、昔出羽三山に行ったことあるな」
「どこだっけ?奈良かどこか?」
「山形県なんだけどね」
「遠いね!」
とは言ったものの、美映は言った。
「連休に旅行がてら行ってこようよ」
「でも今からチケット取れるかな」
「プラドで走って行けばいいじゃん。運転は交代でして」
「それもいいかな」
「渋滞しても、別に構わないし」
「そうだね」
「非常食と飲料水と、簡易トイレも積んでおこう」
「それあまり使うハメになりたくないなあ」
「簡易トイレは男性用と女性用と両方」
「うん」
「それとも貴司も女性用でいいんだっけ?」
「いや、男性用にしてください」
実際には“ちんちん”を取り外してしまうと女性用でないと使えないのだが、ちんちんが無いことは美映には秘密である。
千里は兵庫県市川町に“市川ラボ”と呼んでいる体育館を所有しており、普段ここで“市川ドラゴンズ”と自称するアマチュア(?)チームが活動している。彼らは実は“播磨工務店”として“小浜ミューズタウン”などの開発にも携わっているのだが、彼らの本来の住まいは市川町内にあるアパートである。元々はボロアパートが建っていたのだが、さすがにボロすぎるから新しく改築しようよということになった時、法的な手続きを進めようとしたら、建築会社を持っていたほうがいいということになり、設立したのが播磨工務店である。このアパート建設は結果的に彼らの建築作業のウォーミングアップ代わりになった。
これが2017年のことで、彼らは言った。
「アパート建てるの楽しかった。他にも建てるものない?」
「そうだなあ。じゃ姫路あたりに家を1軒建ててくんない?あまり大きな家でなくてもいいから」
「姫路で貴司さんと一緒に暮らすの?」
と南田兄が訊く。
「あれ?今私姫路って言ったね。姫路に何があるんだろう?」
と千里。
「自分で分からないんだ!」
「千里ちゃんの通常運転だな」
それで彼らは姫路市内に60坪の土地を購入(さすがに土地代だけで3000万円した)、建蔽率60%、容積率180%の土地なので、彼らはここに2018年秋までに敷地面積36坪、3階建て+地下1階(バスケット練習用)で総床面積108坪(地下室を除く)の家を建ててくれたのである(地下は全体の1/3以下なら容積率にカウントされない)。
「楽しかった。今度はもっと大きいの建てたい」
などと言っていたので、彼らを若葉に紹介してミューズタウンの開発をやってもらうことになる。
「でも姫路のおうちは何に使うの?」
「うん。その内使い道が出ると思う」
さて、千里1は4月19日に“ケイ代替”を打ち合わせる作曲家の会合に出た後、信次のムラーノに乗って4月26日まで全国を走り回って、眷属たちとの再会を果たしたのだが、その最中の4月23日に、康子が千里1の携帯に電話をした。
千里1の携帯のバッテリーは切れていた。
これは千里1の通常運転である!
困ったなと思った千里2は自分が持っている千里1の携帯のクローンで電話に出た。
「ああ、千里ちゃん!やっとつながった。実はちょっと高岡の府中さんちに行きたいんだけど、付き合ってくれないかなと思って」
「今日は大丈夫ですよ」
「いつまで大丈夫?」
「明後日からちょっと仕事が入っているんですよ」
実は4月25日から日本代表の合宿が始まるのである。実際に合宿に参加するのは千里3だが、東京以外の場所で“千里”が目撃されるのはできるだけ避けたい。
「ごめーん!」
「でも今日・明日は大丈夫ですから付き合いますよ」
康子は明日24日に新幹線で向かうつもりだったようだが、それでは日程が苦しいというのでこの日の夜、車で高岡に行くことにした。
それで千里2は“アテンザ”を持って来てもらった。
「なんでオーリス使わないのさ?」
「それは“千里はアテンザに乗っている”と思っている人が多いからね」
「要するに工作活動かい!」
「高岡でアテンザに乗った私を見たら、青葉はきっと3番だと思って、松本花子のこととか話してくれる」
「青葉なら水泳の合宿で東京のNTCに入っているけど」
「うっそー!?」
「千里は適当すぎてスパイ向きではないな」
ともかくも、千里2はアテンザに乗って千葉の川島家まで行き、康子を拾った。
「あら、今日はムラーノじゃないの?」
「今日は桃香が使っているんですよ」
「なるほどー!」
「夜間走行になりますから、寝てて下さいね」
そして康子を乗せて、関越・上信越道・北陸道を走って高岡まで行くのだが、康子から言われる。
「今日の千里ちゃん、凄く元気ね」
「あ、ちょっと調子いいみたいです」
「それならよかった」
しかし康子はほとんどの時間眠っていたので、何とか代役がバレずに済む。実際にはこの移動時間帯が試合とぶつかったので、本当にアテンザを運転したのは《つーちゃん》である。
4月24日の朝、高岡の府中家に到着した。
「あれ?、今日はムラーノじゃないの?」
と優子からも言われる。
「ちょっと車の運用の都合があって。それでさ、優子ちゃん、お願いがあるんだけど」
「うん」
「私、明日25日から仕事が入っているから、今日午後の新幹線で東京に戻らないといけないのよ」
「慌ただしいね!」
「それで悪いんだけど、お母さんを帰り東京までこのアテンザで送ってあげてくれない?」
「そういうの大好き!しばらく長距離走っていなかったから頑張っちゃう」
それで千里(千里2)は、優子を車内に入れて、簡単な説明をした。
「この車はディーゼルだから燃料入れ間違わないでね」
「おお、ディーゼル大好き!パワーあるでしょ?」
「うん。凄いパワーだよ。調子に乗って切符切られないようにね」
「気をつける。一応オービス通知アプリは入れてるから」
「白バイもいるからね」
「うん。それが怖い」
などと言ってから、優子は言った。
「こないだ言ったでしょ?4年前に新車を買ったのに、即手放さなきゃいけなくなった車、それが実はディーゼルのアテンザだったんだよ」
「へー、それは偶然だね」
「そうそう。それでヤフオクで売ったんだけど、買い手がちょっと面白い人でさ」
「ふーん」
「てっきり女の人と思ったら、女装のおじさんだったんだよね」
「へー。まあそういう人は最近多いよね」
「女装だから、てっきり男の子が好きなのかと思ったら、女の子の方が好きなんだって」
「性的指向と恋愛対象は別だから」
「本人は“女装してない”と主張してたけど、お化粧して女の服着て、スカート穿いて、下着もパンティーにブラジャーつけてたよ。バストもあったし。ちんちんはたくみに隠していたんだけどね」
「・・・なんで下着まで見てるの?」
と言いながら千里は“すごーく”嫌な予感がした。
「あはは、千里ちゃんだから言っちゃうけど、1晩寝たら買い取り金額割り増してくれるなんて言うからさ、一晩寝ちゃったんだよ。女性と思ってOKしたのに男だったからびっくりした。まあ私は別に男とするのも構わないけどね。タマタマが無いから妊娠させることはないからと言ってた。実際触ったら本当にタマタマは無かったよ。妊娠させることはないから生でやらせろと言われたけど、それだけはダメと言って、ちゃんと付けさせた。遊んでそうだったから、病気もらったら嫌じゃん」
千里の頭の中で、ある人物の顔が思い浮かぶ。
その時、優子がステアリングの所の左レバーに“無事カエル”のストラップがぶら下げてあるのに気づいた。
「あれ?これ私がその時のアテンザに付けてて、うっかり引き渡しの時回収し忘れたカエルと同じのだ」
と優子が言う。
「ねぇ、その買い手って、雨宮とかあるいはモーリーとか言ってなかった?」
「モーリーさんって言ってた!まさか?」
「私がちょうど長期海外出張してた時に、前の車の廃車と新しい車の購入をしないといけなかったから、お友達のモーリーって女装者さんに頼んだんだよ。しっかし、そのついでに売り手の女の子を抱いていたなんて、ふてー奴っちゃ」
「いいよ、いいよ。おかげで割り増ししてもらって、ものすごく助かったもん。しかしこの車を買ったのが実は千里ちゃんだったなんて、凄い偶然だね!」
「優子ちゃんから、彼氏(信次)と車と両方引き継いだ感じかな」
「あ、そうなるかも!」
それで優子は買ってすぐ手放した車を千里が大事に使ってくれているみたいで嬉しいと言い、頑張って、この車で千葉まで走ってくるねと言った、
「頑張りすぎて切符切られないようにも」
「気をつける!今度切符切られたら免停くらっちゃう」
「ああ、それはマジで気をつけよう」
それで千里2は4月24日の午後の新幹線で東京に戻った・・・ことにした。実際は新高岡駅まで優子に送ってもらった後、《きーちゃん》に頼んでフランスに転送してもらっている。
康子は24日いっぱい府中家に滞在して、たっぷり奏音と遊び、25日の昼前に優子に送ってもらって千葉に戻った。優子が運転席に座り、助手席後ろにチャイルドシートに乗せた奏音、そしてその隣、運転席の後ろに康子という配置である。おかげで康子は道すがらずっと奏音のそばにいることができてとっても満足であった。
優子が康子を千葉の川島家に届けたのは25日の夕方である。優子はそのあとアテンザを指定された都内の駐車場に駐めてから新幹線で高岡に戻ったが、この時、うっかりライトを消し忘れていたことに気づかなかった。優子はこれをしばしば忘れて年に1度はJAFを呼んでいる常習犯である。また駐車した時、燃料が10Lくらいしか残っていなかったのだが、それも給油していなかった。優子は普段は給油ランプが点いたあと(トリップメーターをリセットして)30-40km走ってから、そろそろかなと思った時点で給油に行く習慣がある。
さて、西は佐賀県の唐津から東は宮城県の鮎川まで走り回って眷属たちとの再会を果たした千里1は、自分が“忘れている大事なこと”を思い出すには他の人の車ではなく自分の車である場所に行かなければならないと認識した。
それで琵琶湖で12人目の眷属《くうちゃん》とのコネクションも回復させた千里は東京に戻り、ムラーノを江戸川区の駐車場(やっとここを思い出した)に駐め、そこにあったアテンザに乗り換えた。これが4月26日朝10時頃である。
この時点で“ライトは消えていた”。そして燃料計は1/4を下回っていたのだが、自分の記憶を取り戻し掛けていた千里1はそんなこと気にも留めず“車を発進させた”。
そして東北に向かうが、最初のトンネルに入った時、ライトを点けようとして既に点いていることに気づく。あれ〜、私いつからライト点けっぱなしにしてたんだろう?と思ったが、気にしないことにした。千里もライトの消し忘れは日常である!
金華山まで行く中で、八乙女の内、府音・藻江・奈美・浜路・磯子・佳穂の6人と再会し、6つの珠をもらった。湯殿山まで行って車の回送を眷属に頼み、湯殿山のご神体の上で恵姫と再会する。そのあと一緒に月山に登ってここで彼女から7つ目の珠をもらった。
千里1は1人で月山を下り8合目まで来たのだが、8合目の山小屋はまだ雪の中である。
「除雪されてないから、車はここまで持って来れなかった。ビジターセンターの所に置いている」
「さんきゅ、さんきゅ。そこまで行くよ」
それで雪の中を歩いてビジターセンターまで降りて行く。そこの駐車場に駐めてあったアテンザに乗り込むと、羽黒山まで走った。三神合祭殿でお参りしてから、また羽黒山の雪の中に入っていく。
その雪の中に凍っていない滝があった。千里1は服を脱いで滝に打たれた。
冬場(出羽の4月はまだ冬である)の凍結していない滝というのは雪の中にいるのにくらべると充分暖かい。
滝に打たれている内に、いろいろなものが洗い流されていくようで気持ち良かった。
千里1がそれで数時間滝に打たれていた所で、目の前に懐かしい人の姿を見た。
「ご無沙汰しておりました、美鳳さん」
「ご無沙汰、千里。あんた、ちゃんと巫女に戻ったよ」
美鳳に再会したのは4月29日0:00ジャストで、この29日は信次が亡くなってから三百箇日の日であった。
美鳳との再会を果たし、能力を回復させた千里1は帰ろうと思い、羽黒山の駐車場に駐めていたアテンザに戻った。これが4月30日の朝9時頃だった。
エンジンが掛からない。
「あれ〜?バッテリーがあがってる?」
「あ、その車、バッテリーも燃料も切れてるよ」
と眷属から言われる。
「え〜?」
「千里、東京を出た以降1度も給油してないし」
「そういえば給油しなかったな」
「福島くらいで燃料切れランプが点いたけど、給油しなかったし」
「全然気づかなかった!」
「でも湯殿山からビジターセンターまでは動いたんだよ。その後千里もあそこからこの羽黒山駐車場まで動かしていたし。不思議なこともあるもんだと思ったよ」
「むむむ」
「バスか何かで鶴岡まで行って、軽油と新しいバッテリー買ってくるの推奨」
「そうだなあ」
「そのバッテリーあげちゃったの、もう8回目くらいだから、そろそろ限界」
「私、そんなにあげちゃったっけ?」
千里が“誰に”買いに行ってもらおうかなと思っていた時、隣に見慣れたランドクルーザー・プラドが駐まる。そして(千里1にとって)懐かしい人物が降りてきた。
「あっ」
と貴司が声をあげた。
「ごぶさたー」
と千里1は微笑んで声を掛ける。千里1としては、昨年8月に緩菜が生まれた時以来の再会である。もっとも貴司は毎月数回千里に会っている(但し会っているのは千里2や千里3である)。
「うん。ご無沙汰」
と貴司も焦りながら答えた。
「ターちゃん、どうしたの?」
と言って緩菜を抱っこした美映が降りてくる。
「こんにちは、私、中学時代の細川さんの後輩で、川島と申します」
と千里は美映に挨拶した。
「え?」
と言ったまま、美映は千里を睨む。むろん一瞬でただの“後輩”ではないことは察したようである。
「細川君、実はバッテリーあげちゃって。しかもガス欠なの。もし良かったらエンジン起動の電気、分けてくれない?ブースターケーブルは持ってる」
と千里は言った。
「ああ、いいよ。でも今、ガス欠って言った?」
それで貴司はディーゼル燃料を自分のプラドから少し取って分けてくれた上でブースターケーブルで繋いで、エンジンの始動もしてくれた。
それで千里は貴司・美映・緩菜と別れたが、すぐにも美映さんと再会しそうだなと思った。なおこの後、千里1は分けてもらった燃料で鶴岡まで走り、オートバックスで新しいバッテリーを買って交換してもらった。その後市内のGSで給油した。
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【春枝】(1)