【春枝】(2)

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2019年4月19日(金).
 
この日は満月であった。そして今井葉月(天月西湖)は、この夜、写真家の田中麗華さん、付き添いの原田友恵と一緒に三浦半島の三戸海岸に向かった。
 
実はプーケットで撮影した写真をもとに写真集の構成をしていた時、どうしても満月の下での葉月の写真が欲しいということになり、最初は再度一緒にプーケットに行けないかと、田中さん側から§§ミュージック側に照会があった。時間も予算も取れるには取れるのだが、葉月の体力問題があった。
 
アクアの代役としてひじょうに多忙な日々を送っているので、その中にタイ往復を入れると、葉月が倒れるのではないかとさすがのコスモス社長も心配したのである。それでプーケットに雰囲気が近い場所が国内にどこか無いか何人かに聞いてみたら、三戸海岸は割といいかもという声があった。それで田中さん自身が行ってみたら結構好きだと思ったので、ここで少し追加撮影することにした。
 
ちなみに「三戸海岸」の読み方は「みとかいがん」である。同じ字を書く青森県の三戸町は「さんのへ」と読むが、向こうは内陸の町なので、海岸は無い。しかし音で「みとかいがん」と聞くと、多くの人が茨城県の水戸かと思う!
 

§§ミュージックでは、海岸にゴミなどが落ちていたら興ざめなので、前の週の日曜日(4月13日)に50人ものボランティア(ファンクラブから募集した)を動員して、海岸清掃をしている。地元の自治会に照会したら、地元の人たちも出て一緒に清掃活動をしてくれた。多忙なので西湖もアクアも顔を出せなかったものの、参加者にはお弁当・飲み物の他、葉月とアクアの直筆サイン色紙を含むファングッズをプレゼントした。
 
撮影は自治会の人も協力してくれる中、日没直後から始めて夜10時で終了となった。葉月は高校生なので22時までしかお仕事をすることができない(建前)。
 
しかしこの日は晴れていたこともあり、満月の海岸できれいな写真を多数撮影することができた。
 
「この時期にビキニの水着とか、寒くないですか?」
と地元の自治会長さんが訊いていたが
「お仕事なので、常夏の島にいるつもりになって頑張ります」
と葉月は答えていた。
 
「アイドルってのも大変だね!」
と自治会長さんは感心していた。
 

千里3は、4月25日からバスケット日本代表の活動が始まり、まずはNTCで合宿がスタートした。
 
一方の青葉はこの日の夕方、日本代表の遠征でオーストラリアのケアンズに移動した。青葉と千里はNTCの選手村の同じ部屋(ツイン)を共用しているのだが、24日の夕方から25日の昼まで同室になり、松本花子の件と、郷愁プールの件で少し打ち合わせておいた。青葉は次の便でケアンズに渡っている。
 
NRT 4/25 20:25 (JQ26 787) 4/26 4:50 CNS (7'25")
 
日本とケアンズは時差1時間なので、ほとんど時差ボケが起きない。国内の夜行列車で移動したのと似た感覚である。特に今の時期はこちらが春、向こうが秋なので、季節の違いもあまり感じなかった。
 
もっとも合宿は多人数でプールを共用するので、ペースが違う人とレーンを共用することもあり、結果的に思いっきり泳げないし、休憩時間も長くなる。
 
「なんか合宿じゃない時の方がたくさん泳げない?」
とジャネが不満そうに言っていたが、同感だった!
 
青葉は空いた時間に、頼まれている作曲をしたり、卒論の構想を練ったりしていた。卒論では、ネット時代のマスコミを含めたコミュニケーションについて論じる予定である。
 

青葉が海外遠征に行ってすぐ、4月27日(土)、“10連休”初日にK大プールのプール開きが行われた。まだ“K大水泳部”は活動を始めていないのだが、実際には(部長の)青葉以外のメンバーはほぼ全員顔を見せていた。
 
一般の利用者が自由に泳いでいる中、女子副部長の杏梨は部員を集め、女子水着姿の奥村春貴を横に立たせて言った。
 
「奥村さんですが、昨シーズンまでは男子水泳部所属だったのですが、今シーズンから女子水泳部所属に変更になりましたので、お知らせします。彼女は完全に女の子ですから、女子のみなさん、仲良くしてやってくださいね」
 
「性転換手術したんですか?」
という質問がある。
 
「いやそれが何と言ったらよいやら」
と本人も悩んでいる。
 
杏梨が説明する。
 
「性別を変更したいということで、過去1年間の男性ホルモン量の測定結果を添えて水泳連盟の方に申請したら、医学的な診断を受けてくれてと言われたので、K医大で精密検査を受けてもらったんです。すると、奥村さんは完全な女性であり、男性というの自体が誤りであるという判定になりました」
 
「ああ、男性器は無くて女性器があるということなんですね?」
 
「それだけではなく、卵巣・子宮もあり、妊娠も可能な完全な女性である、ということです。逆に前立腺・精嚢などの男性内性器も存在しないし骨盤の形も女性型なので、生まれた時から女性であったとしか考えられないそうです」
 
「え〜〜〜!?」
 
「じゃ生理あるんですか?」
「あります」
「だったら本当の女の子だ」
 
「私もさっぱり訳が分からないのですが、蒸し返すメリットは無いので、その診断書を元に、性同一性障害を対象とする性別の“変更”ではなく、半陰陽を対象とする性別の“訂正”を裁判所に申請して認められました。それで私の性別は二男から二女に変更になりまして」
 
「うっそー!?」
 
「戸籍・住民票も変更になったので、それをもとに大学の学籍簿も水連の登録証も女子に変更になりました。運転免許証・年金手帳・健康保険証などの性別修正から、健康保険、様々な会員登録を変更するのが大変でした」
 
「女子から男子に修正される場合は女子時代の記録は全て抹消されるらしいんですが(*2)、男子から女子に修正される場合は、男子時代の記録はそのまま維持されるということなので、彼女は現時点で200mと400m自由形のインカレ標準記録を突破しています。青葉と百合花ちゃんと3人で400m自由形の表彰台独占ができる可能性も出てくるね」
と杏里。
 
「すごーい!」
 
(*2)これは女子として出場していた時に実は男子であったと推定されるため。
 

「しかしやはり昨年秋の段階で男子部長は吉田さんにお願いして正解でしたね」
と“女子水着”を着けてきている裕夢が言う。
 
「あんたは性別変更の予定は?」
と百合花から訊かれている。
 
「ボクは別に女の子になるつもりはないけど」
「嘘つくと女性ホルモン飲ませちゃうぞ」
「まだ男は辞めたくないから勘弁して」
「もう手遅れだと思うけど。スカート穿くのも好きなくせに」
 
この2人の会話は取り敢えず黙殺しておいた。
 

今年のゴールデンウィークは“10連休”という恐ろしいことになり、これにぶつけてアクアのツアーが組まれていた。
 
●アクアの“元号またぎ”ドームツアー
4月27日(土)土曜日 横浜エリーナ
4月28日(日)日曜日 北海ドーム
4月29日(月)昭和の日 (休)
4月30日(火)(国民の休日) 関西ドーム
5月 1日(水)新天皇即位  関東ドーム
5月 2日(木)(国民の休日) (休)
5月 3日(金)憲法記念日 大宮アリーナ
5月 4日(土)みどりの日 名古屋ドーム
5月 5日(日)こどもの日 (休)
5月 6日(月)振替休日 博多ドーム
 
平成最後の日は関西ドーム、令和最初の日は関東ドームということになる。
 
2日歌ったら1日休むというのは、山村マネージャーが絶対に譲らなかったので、10日間に3日の休養日ができた。休養日には取材も入れない。完全休養というのも山村が絶対に譲らなかった。
 
もっとも実際に歌うのはM,F,Nの3人が交替なので、各々のアクアは1日歌ったらそのあと最低3日休むことができる。山村はアクアに「この機会に普段の過労を少しでも取れ」と言っておいた。
 
一方のリハーサル要員は西湖1人では倒れるのが確実なので、西湖と姫路スピカが1日交替で務めることにした。それで西湖も何とか体力的に持ち堪えることができた。スピカは
 
「こんな広い会場で熱唱すると、頭が一時的に空白になる」
などと言っていたが、西湖は
「あれは気持ちいいよね」
と言っていた。
 
「いや、意味が違うんだけど?」
「え?そう?」
 

今年のゴールデンウィークが始まる4月26日(金)の深夜(27日0:10-1:00)、青葉が幸花・明恵と一緒に能登半島を駆け巡った《金沢ドイルの北陸霊界探訪》“能登半島不思議旅”が放送された。
 
この番組は本来毎週金曜深夜の『いしかわ・いこかな』の中のコーナーで、だいたい3ヶ月に1度放送しており、前回は3月下旬に慈眼芳子さんの追悼特集(過去の慈眼芳子さん出演シーンのピックアップに加えて霊能者数人の対談をした)を放送したので、次は本来は6月頃の放送になる予定だった。しかし、それではドイルをメインとする番組が空いてしまうことと、取材したのが3月なので放送までにあまり時間が経つと色々各訪問先の状況が変化して新たな編集が必要になる可能性もあったので、あまり時間の経たない時期に放送することにしたのである。
 
3日掛かりで12ヶ所を取材して回ったものを50分(CMを除くと40分程度)にまとめているので、各々の場所での放送は短時間である。ゴジラ岩・倒さ杉などは丸ごとカットされてしまった!
 
今回の放送の中で、反響が大きかったのは、モーゼの墓、ワープした駅、蛙岩、天狗岩、日本の中心、“のトロ”(人力トロッコ列車)、そして能登半島地震後の様子が公開されたヤセの断崖などであった。ヤセの断崖に関しては「こんなに小さくなってしまったなんて」という声が、崩落前の様子を知っている人たちから悲鳴にも似た感想が多く寄せられた。関野鼻が長らく立ち入れなくなっていたこともあり、地震後の様子を知らない人も多かったようである。
 

「ここ、番組では前夜の地震で崩れたのかもと言っているけど、その前から崩れていたんだよね」
 
と録画しておいたもらった番組を翌日見た岬は、射水市内の病院のベッドの上で言った。
 
「ああ、合唱部のレクリエーション活動で行ったんだっけ?」
と連休に入ったので、病院に来ている姉の梓が言った。この録画データも梓が昨夜録画して持ち込んだものである。
 
「うん。合唱のイベントが3月初めに珠洲市の“ラポルトすず”であったんだけど、その後、面白いものがあるという話で、連れて行ってもらったんだよね。あの時期はさすがに雪の中だった。だからあの岩の破片は雪に埋もれていたんだろうと思うけど、気付かなかった。それで先生が『ありゃ。無くなっている』と言ってた。それで饅頭岩だけ見て帰ってきた。もっとも番組でも言っていたように、みんな“おっぱい岩”と呼ぶべきと言ってたけどね」
 
「なんかそこの穴から噴出しているガスが男性に悪影響が出ると言っていたね」
「うん。ドイルさん、男性機能が低下するって言ってたね」
「女性ホルモン類似物質かなあ」
「むしろ霊的な作用のあるものという気がしたよ、ドイルさんの言い方」
「それであんた男の子廃業したんだったりして」
「だったら、あそこに行ったお陰で女の子になれたのかもね」
「ありそー。でもその場に他に男の子は居なかったの?」
 
「今回雛祭りのイベントで女声合唱で出たから、男子は参加しなかったんだよ」
「あんたは?」
「ボク・・・じゃなかった、わたしはソプラノだもん」
 
これまで岬は自分のことを“ボク”と言っていたのだが、姉から「女の子になったんだから“わたし”とか“あたし”と言わなきゃと言われて、現在練習中なのである。
 
「ソプラノが出るんだ?」
「結構な努力をして維持している」
「そういえば、あんたの睾丸を見て、まだ小学4年生並みのサイズですねと松井先生が言ってたね」
「うん。絶対に発達しないように頑張ってたから」
 
「あんたヒゲも生えてなかったしね〜」
 

「でも顧問の先生は男じゃなかったっけ?」
「依田先生、何か影響が出てないといいけど」
「転任先では女性教師になっていたりして」
 
合唱部顧問の依田先生は3月末で別の中学に転任していった。合唱部は新たに転任してきた若い女性の先生・桜井先生が顧問をすることになった。
 
「さすがにそんなにすぐには変わらないと思うけど」
「あんたはすぐ性別変わっちゃったじゃん」
「まあ、ボ・・・わたしはそうだけどね」
 
「あ・・・」
「どうしたの?」
 
「よく考えたら、あの時、ピアニストの啓太君も一緒だったんだよ」
「啓太君、合唱部だっけ?」
 
「うん。彼はテノール。普段はピアノは寺下さんが弾くんだけど、あの日は風邪で休んでしまって、それで急遽、サブピアニストの啓太君が呼び出されたんだよ。女ばかりの所に1人だけ男って居心地悪いとか言ってたけど」
 
「女ばかりって、あんたは男の数に入ってなかったんだ?」
「わたしって、その時の都合で男とみなされたり、女とみなされたりしてた」
 
「なるほどね〜。でも啓太君がおちんちん切られそうになったのも、倒壊した天狗岩のせいだったりしてね」
「それもあるかも!」
 
取り敢えずこの録画は啓太の所にも送ってあげることにした!
 

ところで12月いっぱいで番組を離れた青山広紀だが、今回の放送の中で彼が大学卒業とともに退任したことを幸花も神谷内も述べたのだが・・・
 
放送から数日経って、ネットで変な噂が流れているのに気付いて幸花は吹き出した。
 
それは青山はテレビ局を辞めてゲイバーに勤務するようになったらしい、という噂話である。片町の何とかいうゲイバーで見掛けたとか、いや、ひがし茶屋街で見かけたとか、中には山中温泉で普通の(女性の)仲居さんとして働いているのを見たなどという話まで色々出ていた。
 
幸花はこんな騒ぎになっているって青山君知っているだろうか?教えてあげたほうがいいだろうか?と少し悩んだが、放置しておくことにした!
 

なお、崩壊した天狗岩であるが、曲木町では町長自身が主催するプロジェクトチームを発足。それで復元できないかあちこちら照会していたところ、過去に崩壊した石仏の修復や折れた鍾乳石の修復などをしたことのある人が九州のU大学にいることが分かり、連絡を取ったら「ぜひやってみたい」ということだったのでお願いした。
 
まだ40歳くらいの准教授である。准教授は、目立たないようにチタン合金の杭を内部に打ち込んで岩の破片と破片を繋ぎ合わせ、また道路工事の壁面処理などで使用される接着剤でも岩と岩をくっつけて、美事に天狗岩を復元することに成功した。崩壊した時に細片化してしまい、足りない部分は、近隣の山中から採取した岩を整形し補填した。
 
なお青葉が「この岩は動かさないで」と言ったいちばん下の岩だが、この先生も「何か怪しい雰囲気があるから動かさないようにしよう」と言って、基礎工事代りに根本付近に円錐状に小さな岩を積み上げ、岩が傾いたりするのを防ぐようにした。
 
杭や接着剤の部分は内側で使用しているので表面には現れない。それで見た目は崩壊する以前とほとんど変わらない仕上がりとなった。
 
この作業をした准教授が受け取ったのは、杭や接着剤の材料費、九州からの出張費用だけである。先生はこの修復の課程を論文にして発表するということだけを条件に事実上無償で修復作業をしてくれたのである。
 
作業中は先生には曲木町内の民宿に泊まってもらい、その宿泊費・食費は町が負担した。また実際の作業は地元の工務店が土木機械も持ち込み全面的にバックアップしたが、先生の作業を見て工務店の社長が「物凄く勉強になります」と感心していた。
 
修復作業は何度にも分けて行われ、7月に完成したが、町では
 
「復活した天狗岩、男性の復活」
 
などと広報して、観光につなげるようにした。また、これまで道案内が無く、知っている人と一緒でないと到達困難だったのを、分かりやすいように標識や地図を随所に立て、また駐車場の拡大・トイレの設置などの投資も行った。駐車場の所は「寄り道パーキング・曲木」とし、地元産の農産物や民芸品などを売る店まで作った。ここには天狗岩・饅頭岩のレプリカ(コンクリート製)も作り、記念写真が撮れるようにした。
 
そしてついでに!?天狗岩饅頭まで作った!天狗岩の形の饅頭(粒あん)と饅頭岩型の饅頭(漉し餡)のセットということにしたが、実際には、おちんちん型のものとおっぱい型のものが並んでいる!通販でも売るようにしたら、結構な反響があった。
 
崩壊した所の写真と復元された天狗岩の写真を並べた図は、男性機能を復活させたい老年男性に人気となり、これまでの「知る人ぞ知るスポット」から「町の観光の目玉」に変身したのであった。
 
なお、青葉たちが目撃した熊であるが、あの時案内してくれた黒田さんによると『美味しく頂きました』ということらしい!
 

青山広紀は全国的な機械メーカーに就職し、金沢支店の配属になることは決まっているのだが、本社採用なので、入社式は4月1日(月)に東京の国際パティオで全国の新入社員を集めておこなわれた。そのあと1週間、横浜の研修施設に泊まり込んでオリエンテーションが行われる。更にその後は2ヶ月掛けて全国全ての工場を廻り、実際の作業も体験する予定である。
 
用意されているバスで入社式会場から研修施設に移動する。研修施設の入口で制服が配布される。
 
真新しい社員証を見せる。
 
「あなた身長とバスト・ウェストは?」
と訊かれる。
「身長は165cm、ウェストは73cmですが」
「じゃLでいいかな?もし着てみて合わなかったらリーダーに言ってね。交換するから」
「分かりました」
 
それで受け取り、更衣室で着換える。着ていた背広とズボンを脱ぎ、渡された制服の上着(前ファスナー)を着て、ズボンを穿く。サイズはちょうどいいようだ。だが、ズボンがハーフ・パンツなので少し戸惑う。同じ部屋で着換えている他の人を見るとみんな足首まであるロングだ。部署によって違うのかな?と思った。この時期にハーフ・パンツは寒くないかな?とも思ったが、空調が効いているので問題ないようだ。
 
しかしこのパンツ、前開きがないのは不便だなと広紀は思った。一見開きがあるように見えるのに、ただの飾りなのである。実際トイレではそのままできないので個室に入って膝まで下げてしていた。
 

丸一日濃厚な講義が続いた。ビデオもかなり流されたし、社内外の講師から社会人・職業人としての意識の持ち方についてたくさん話を聞く。特に守秘義務や個人情報保護については、随分詳しい話があった。また業務システムや会社の電話などで仕事と関係のない操作・通話をしてはいけないなどといった話もあった。
 
昼食も夕食も施設内の食堂で食べたが美味しかった。さすが全国企業だなと思う。
 
講義は夕食後も続き9時までやってから各自割り当てられた部屋に入って就寝ということになる。広紀は受付で渡された部屋番号票を見て、指定されている614号室に行く。ここは4階から6階までが宿泊室になっているようである。エレベータで6階にあがり、614号室を探す。それで
 
「失礼します。よろしくお願いします」
などと言って、その部屋のドアを開ける。
 
戸惑う。
 

部屋には女性が2人いた。
 
「こんにちは〜、よろしく」
と中に居た女性たちが挨拶する。
 
「あのぉ、部屋って男女混成なんですか?」
と広紀は訊いた。
 
「まさか。ここは女子部屋だけど」
とセミロングで少し横幅のある女性。
 
「ごめんねー。私よく男と間違えられるけど女だから。中学高校とバレーやってたんだよね」
とショートカットで170cmくらい背丈のある女性。
 
「あ、いえ。私男なんですけど」
 
「何ですと!?」
 
「でも女子制服着てるじゃん」
「これ女子制服なんですか?」
「男子はロングパンツ、女子はハーフパンツ。以前はスカートだったらしいけど、うちの会社は床に寝そべって機械の下に潜り込んだりするからさ。スカートでは仕事しにくいというので10年くらい前パンツに変更になったんだよ」
 
「そうだったんですか?」
 
「ちょっと社員証見せて」
「はい」
 
それで広紀が社員証を見せると
「2になってるじゃん」
と言われる。
 
「2?」
「社員番号の先頭が男性は1、女性は2。あんたは 294400372。これは女子の社員番号だよ」
 
「うっそー!?」
と広紀は本当に驚いて声をあげた。
 
「これ名前は“ひろき”と読むの?」
「いいえ。“ひろのり”です」
 
「“ひろのり”なら男名前だけど、女の子で“ひろき”ちゃんはいるよね?」
 
「でも社員番号が女子の番号ということは、あんた女子社員として採用されたのでは?」
「どうしよう?」
「男ですということになったら、解雇されたりして」
「困ります」
 
「とりあえず連絡しよう」
と言って、バレーをしていたというショートカットの女性(藤尾さんと言った)が、研修の管理をしている総務部に連絡してくれた。
 
「事務局に来てって。私も付いてってあげるよ」
「すみませーん」
 

それで藤尾さんが付いていってくれて、3階の事務局まで行った。
 
「ああ、すみませんね、社員データベースに登録する時にうっかり間違ったんだと思います。すぐ修正させますね。でもあなた女性でも通りますよ」
 
と課長さんは“藤尾さんに向かって”言った。
 
「あ、いえ。私は本当に女子ですが、間違えられたのは彼です」
と藤尾さんは広紀の方に手をやって訂正した。
 
課長さんはたっぷり10秒近く広紀を見てから
 
「あなた本当に男性?」
と言った。
 
「男ですー」
 
「女子にしか見えないんだけど、もしかして女の子になりたい男の子だとかは?」
「なりたくないです」
 
「失礼しました。社員証を見せてください」
というので見せる。
 
「名前は“ひろみ”さん?」
 
なぜそう読む〜〜?
 
「“ひろのり”です」
「すみません。ちょっと書いておきますね」
と言って、課長さんはメモ用紙に社員番号とヒロノリという読み仮名を書いていた。
 
「では後日登録を変更して。たぶんこの研修所での研修をやっている内には新しい社員証を発行できると思いますが、取り敢えずはそのままその社員証を使っておいてください」
「分かりました」
 
それで登録は変更してもらうことにし、部屋も男性の部屋528号室に変えてもらった。
 

「よかったね」
と藤尾さんに言われて取り敢えず(荷物を取ってくるため)一緒に614号室に帰った。それで報告したら、最初からいたセミロングの女性:坂下さんは「よかったね」と言ってくれたが、新たに来ていた髪にパーマを掛けている女性:田神さんは「部屋の変更って何があったんですか?」と訊いた。
 
「ああ、性転換したから男部屋に変更になるのよ」
と藤尾さん。すると田神さんは
 
「え?充分女性に見えるのに。もしかしてまだ最終的な手術が終わってなくてまだ男性扱いなんですか?」
などと言っていた。藤尾さんが苦しそうにしていた。
 
それで
「お騒がせしました」
と言って、移動しようとした所で気が付いた。
 
「しまった!制服を交換してもらうの忘れた」
「うーん。。。。女子制服のまま研修受けたら?別に困らないでしょ?」
「トイレが不便です」
「女子トイレ使えば?青山さん、女子トイレにいても誰も騒がないよ」
「それはまずいですー」
 
それで再度事務局に電話してみたのだがつながらない。
 
「もう帰っちゃったのかもね。明日頼みなよ」
「そうします」
 

そういう訳で広紀は女子制服のまま新たに割り当てられた528号に行ったが
 
「すみません。ここは男子部屋なので女性の方には入ってもらいたくないんですが」
と言われる。
 
「私、男です。性別間違えられて女子部屋に入れられていたんです」
と広紀は言った。
 
「そういう冗談はやめて欲しいんだけど」
「女子制服着て男と主張されても困るな」
「男だというのなら、ちんこ付ける手術でもしてから来てね」
「はい、女は出て出て」
 
と言って、広紀は追い出されてしまった!
 
「これどうしたらいいの〜〜?」
と広紀はマジで悩んだ。
 

依田怜は悩んだ末、ゴールデンウィーク前の4月26日、学校を休み、わざわざ金沢まで出て、大きな病院の泌尿器科に行ってみた。連休前だけに患者が多い。3時間待ってやっと診察室に通される。
 
「どういうお悩みですか?」
「実はここ2ヶ月ほど、立ちにくくなって、そもそも性器自体が縮んでいるような気がするのですが」
「では取り敢えず血液検査をしましょう」
 
それで検査室に行き、採血された。
 
2時間待つ!
 
名前を呼ばれたので診察室に入る。
 
「女性ホルモンの量が非常に増えていますね。もしかしたら肝臓疾患かも知れません」
「肝臓ですか?」
 
「男性の身体の中でも女性ホルモンは作られているのですが、肝臓で分解されてしまうんですよ。ところが肝臓の機能が低下していると、きちんと分解されなくて、女性ホルモンの量が増えて、陰萎症状が出たり、乳房が膨らみ始めたりします」
 
「実は最近乳首が大きくなってきた気がするんです!」
 
それで身体も実際に見てもらったが、
「ああ。確かに身体が全体的に女性化していますね。ちょっと内科に行って肝臓の検査を受けてください」
 
「分かりました」
 
それで内科に行く。
 
4時間待つ!
 
もう病院の受付も閉まってしまうが、患者はまだかなり残っている。結局18時半頃になって、やっと診てもらった。
 
「午前中に採血してもらった血液から再度肝臓疾患に関する因子を見ていたのですが、特に異常はありませんね」
 
「異常が無いんですか!?」
 
「確かに女性化しているようですが、女性ホルモンとかは飲んでおられませんよね?」
「そんなもの飲みません!」
「時々男性でも、美容にいいとか聞いて女性ホルモンや類似物質を摂るかたがおられるので」
「はぁ・・・」
 
「プエラリア・ミリフィカとかは?」
「何です?それ?」
「ガウクルアは?」
「知りません」
「DHCのサプリ、エステミックスとか?」
「サプリとか嫌いです」
「ザクロ・エキスとかは?」
「そんなの飲みません」
「ビールをたくさん飲むとか?」
「私はチューハイ専門でビールは飲みません。でもビールで女性化するんですか?」
「かなり大量に飲んだ場合ですけどね」
「でも飲みませんよ」
 
「そういうのを摂取していなくて、肝機能も正常で女性ホルモンが増加するというのは、何だろう?連休明けに少し精密検査してみましょうか?」
 
「お願いします」
 
それでその日は帰宅したが、丸一日掛けて、1回採血されたのと、2人の医師に合計5分くらい診察してもらっただけで、ひたすら待合室で待つ1日だった!
 

出羽で“巫女の力”を取り戻した千里1は東京に戻ると、ヘア・ドネーションをしてくれる美容室でバッサリ長い髪を切った。店長さんがカットしてくれたが「本当に切っていいですね?」と3回くらい訊かれた。
 
それで経堂のアパートに戻ると、桃香は千里と判別できず
「すみません。どなたでしょうか?」
と尋ねたほどであった。
 
多くの人が、千里をその髪の長さで判別しているので、桃香以外にも認識できない人が多数発生したが
 
「困るなあ」
とぶつぶつ言っていたのは、“工作がしにくくなる”千里2と千里3である!
 

千里1が髪を切ったのは、この髪が元の長さに戻るまで必死で練習しようという決意の表れである。千里1は毎日10kmのジョギングと腕立伏300回・腹筋300回などの基礎トレーニングを自分に課したが、シュート練習できる場所が欲しいと思った。
 
公共の体育館はあまり長時間独占できない。常総ラボ(これのこともやっと自分が作った体育館であることを思い出した)まで行けば練習できるが、車で走っても片道1時間半ほど掛かる。東京中心部を通過する時に混むと2時間以上見る必要があることもある。それで「混雑するエリアを通らずに」到達できる場所にシュート練習のできる場所が欲しいと思ったのである。
 
そこで千里1は不動産屋さんに飛び込むと板橋区内に25坪という小さなサイズの土地を1500万円(さすが都区内!)で購入し、ここに建坪10坪・床面積15坪という小さな家を建てる契約を工務店と結んでしまった。
 
住宅の衝動買いである。
 
(千里2が「また住所が増えた」とぶつぶつ言っていた)
 
この家は純粋にシュート練習のためだけの家で1階が練習場(9.8m×2.9m)、地階(9.8m×4.3m)にトイレ・ユニットバスとキッチンに仮眠用の部屋というものである。しっかり防音壁を貼り付けるので、練習の音で近所から苦情が来ることはないであろう。幅3mに対して長さが10mという非常識な形にしたのは、この土地が11.2m x (7.2m・8.4m)という台形の土地で、その幅のギリギリまで使ったのと、3ポイントラインの距離が6.75mだからである。
 
(ゴールはコート端から1.575m, ゴールから3Pラインまで6.75m, プレイヤーが立つ場所を1m 程度確保するとこれで9.3m。壁の厚さをゴール側0.3m 反対側0.2mとして家屋の長さは9.8m。建物は敷地境界から50cm以上空けて建てなければならないので9.8mの家を建てるには最低10.8m以上のスパンがある土地が必要ということになり、3P練習場の建築には最低10.8m以上のスパンがある土地が必要である)
 
なお、ゴールは高さと向きを調整可能にして、斜めや真横からのシュートも練習する。
 
この“板橋ラボ”は7月に完成するが、それまでの間は世田谷区内の体育館を借りたり、あるいは(渋滞しても大丈夫なように)Yamaha YZF-R25(*3)で常総ラボまで走って、そちらで練習していた。
 
(*3)YZF-R25は青葉から借りっぱなし!である。だが借りたのは千里2なので千里1はこれが借り物であることを知らない。車庫にあったので、雨宮先生が置いていったのだろうと思っている。
 

千里2は毎年春から夏に掛けてアメリカのWBCBL(Women's Blue Chip Basketball League) に、秋から春に掛けてフランスのLFB(Ligue feminine de basket) に参加しているのだが、昨年秋、WBCBLの創設者 Willie McCray が辞任してしまった。リーグの継続性についても議論があったようだが、結局 WBCBL参加チームのひとつである Grand Rapids Galaxy のオーナーである William Kelly が新たに資金を提供して WBDA(Women's Basketball Development Association) が創設されることになり、WBCBL の各チームは WBDA に移行することになった。
 
しかしこの動きに反発したSt.Louis Surgeなど5つのチームが別の女子バスケットリーグ GWBA (Global Women's Basketball Association) を設立し分離独立した。結果的にはリーグが分裂したような形になった。この背景には2017シーズン決勝戦でSurgeに不利な判定があって優勝を逃したのがあったともされる。GWBAは今年は5チームでやるが来年は10チームでやりたいとして参加を募っていたようだが、最終的に2019年に GWBA に参加したのは4チームに留まった。
 
千里(ヴィクトリア)が所属するフィラデルバーグ・スワローズは大半のチームが移籍したWBDAの方に参加したので、今年はWBDAの選手として活動することになった。
 
「WBDAって、パッと見には WNBAと空目しない?」
「それが目的なのでは?」
などとチームメイトと言い合った。
 
WBCBL/WBDAに参加している選手には、いつかWNBAのチームに加入できないかと夢見る若い選手が多い。それ以外に千里のように外国から修行に来ている選手も結構あり、リーグでは積極的にそういう選手にチームを紹介している。
 
WBDAの最初のシーズンは2019年5月11日(日本時間12日3:00)から始まった。この時期フランスではまだプレイオフをしているのだが、千里(キュー)たちのチームは4月17-23日に行われた準々決勝で1勝2敗となり、準決勝以降に進出できなかった。チームとしての活動は決勝戦の終了(5月23日)まであるのだが、試合に出ないのをいいことに、千里2は《すーちゃん》を代役に置いて、4月24日にはアメリカに移動してしまい、その後スワローズの練習に参加して開幕を迎えた。
 
なおこの時期、千里3の方は4月25日から今年度最初の代表合宿(第二次合宿)、5月6-12日には第3次合宿、5月20日−6月3日には第四次合宿、と合宿が続いている。
 
つまりこの5月、千里は実はフランスでLFBの活動、アメリカでWBDAの活動、日本では代表活動をと、並行して3ヶ所で活動していたことになる。その中で千里1は本格的にリハビリを開始していた。
 

青葉たち水泳日本代表は5月8日までケアンズで合宿をし、そのあとシドニーに移動して5月10-12日はシドニーオープンに出場した。その後、帰国した。
 
SYD 5/13 6:15 (JL772 787-8) 17:05 NRT (9'50")
 
ジャネは深川アリーナでひたすら泳ぐと言っていたが、青葉はさすがに大学を全休するわけにはいかないので、いったん高岡に戻る。
 
新幹線に乗るのに東京駅まで行ったら桃香と遭遇するのでびっくりする。
 
「桃姉、どこまで?」
「高岡。千里が来いというから」
「ちー姉、高岡に居るんだ?」
と訊いてから、それはどの千里だろう?と思う。
 
「でも桃姉ひとり?早月ちゃんと由美ちゃんは?」
「千里が今朝から連れ出していた。高岡まで行ってたなんてびっくり」
と桃香が言っている。それで高岡にいるというのは1番のようだなと判断した。
 
実際高岡の実家まで戻ると、髪をショートカットにした千里がいた。朋子から最初「どなたですか?」と訊かれたらしい!青葉は新幹線の中で桃香からその話を聞いていたものの、それでも一瞬誰だっけ?と思った。
 
「今夜は焼きそばなんだ?」
と青葉は訊いた。
 
「うん。途中で買ってきたから」
と千里は言うが、焼きそば麺の製造所を見たら神戸である!?
 
「ちー姉、神戸に行って来たの?」
「そそ。神戸でお仕事があったのよ。子供連れてきてくださいと言われたから2人連れて行ったけど、仕事の一部にスーパーでお買い物するというのがあったから、買ったついでにこちらに来た」
などと千里は言っている。何か不思議なお仕事だなと思った。
 
「待て。もしかして私はこの焼きそばを一緒に食べるために高岡に呼び出されたのか?」
と桃香は訊くが
「そうだけど」
と千里は平然として答えていた。
 

青葉は、その日はぐっすり眠って、翌日は大学に出て行き、オーストラリアで書き上げた卒論のプロットを指導教官に見てもらいOKをもらった。青葉はオーストラリアに行っていた間に、空き時間を使って現地のテレビ局や新聞社に取材して、参考資料を作成しておいた。
 
「君はたくさん海外遠征があるみたいだから、その時、各々の国の報道事情を見てくるのもいいかも知れないね」
 
と資料を見ながら教官も言っていた。
 
5月後半は、大学の講義に出られるだけ出るのと、卒論のラフ作りに作曲と忙しかったので、結局水泳部にはほとんど顔を見せていない!水泳の練習は講義の空き時間に大学のプールでひたすら泳いでいたが、日中はさすがにほぼプールを独占できるのでよかった。授業時間の少ない4年生ならではである。(他の4年生の多くは就職活動をしている)
 

千里1は5月13日に氷川さんに呼び出されて、早月と由美を連れて神戸のスーパーに行き、そこで実際に子連れで買物をしてから、そのスーパーの宣伝ソングを書く仕事を受けて来た。
 
氷川さんと別れた後、千里は「買物しちゃったしなあ」と言って、桃香に新幹線で高岡の実家に来て欲しいと電話した上で、北陸道を走って高岡に向かった。これが13日午後のことである。
 
千里はノンストップでも平気なのだが、おむつ卒業間近の早月のために途中、賤ヶ岳SA, 徳光PAで休憩して、ついでにジュースを買ってあげた。由美にもたっぷりおっぱいをあげる。それでこの後は高岡北ICまで一気に行ってもいいかな・・・と思っていたのだが、ふと気付いたら金沢森本ICを降りていた。
 
あれ〜?なんで私降りちゃったの?と思ったが、ここならそのまま津幡バイパスに入って、津幡北バイパスから県道32号を行けばいいなと思う。県道32号は国道8号線と並行して走っており、8号線の混雑を嫌うドライバーが結構利用している。こちらもわりと交通量の多い道である。
 
それで走っていたら、舟橋ジャンクションで左側に進行してしまった。
 
「うっそー!?なんで私こちらに来たの?」
と思う。
 
ここは右側が高岡方面で左側は能登方面(月浦白尾IC連絡道路)である。
 

「あかん。休憩しよう」
と声に出して言って、狩鹿野ICで下道に降りて、もよりのイオンモールかほく(河北)に行った。
 
車を降り、タンデムのストローラーに早月と由美を座らせ、店内に入っていく。
 
人だかりがしている。見るとアクアがテレビ出演用の衣装のような感じの服を着て立っていて、そばにわりと有名な女性芸能レポーター・Nがいる。そしてアクアの表情を見ると、どうも嫌がっている感じだ。アクアの周囲に彼のスタッフらしき人がいない。
 
千里は近づいて行った。
 
「アクアちゃん、どうしたの?」
「醍醐先生!」
とアクアは助かった!というような表情をした。
 
ふーん。龍虎は私が髪を切ってもちゃんと私を認識できるんだな、と千里は思った。
 
「あんた誰よ?」
と女性レポーターNが言う。
 
「こちらは作曲家の醍醐春海先生です」
とアクアが千里を紹介した。
 
周囲のギャラリーがざわっとする。
 

「わっそれは済みませんでした」
とNは謝った上で、
 
「醍醐春海先生ならご存知でしょう?アクアちゃんの本当の性別を」
などと言う。
 
「何の話?」
「この人が、ボクが実は女の子なんじゃないかって、しつこいんですよ」
とアクア。
 
「いまだにそんな人がいるのか」
と千里は呆れて言った。
 
「だって、アクアちゃんってもう高校3年生なのに、まだ声変わりがしてないって、男の子ならありえないし、写真集とかで見るアクアちゃんの体型って女の子にしか見えないじゃん」
とNは言う。
 
「アクアちゃん、毎年お医者さんに身体を見せて性別検査されているよね?」
と千里は訊く。
「今年もされました。あれ恥ずかしいんですけどね」
とアクア。
 
「医学的な検査でもちゃんと男の子だと出ているから、男の子なのは間違いないよ」
と千里は言う。
 
「それ絶対ごまかしていると思う。医者を買収したか、あるいは替え玉を使ったか」
「あなた、どういう根拠でそんなことおっしゃるんですか?」
と千里はNに少しきつく言った。
 
「この人、こないだから一週間くらいずっとボクに付いてきて、しつこいんですよ」
「それはもう警察に通報すべきレベルだな」
「そういって、やはり性別を誤魔化したいんでしょ?」
 
その時、向こうから桜木ワルツが駆けてくるのを見る。
 
「アクアちゃん、お仕事があるのでは?」
「これからこのイオンモールかほくの特設スタジオで『クイズ・メロディーでドン』の公開撮影があるんですよ」
「だったら行かなきゃ」
「そうなんですけどね」
 
「醍醐春海先生、お世話になっております。アクアちゃん、遅れてごめん。スタジオ準備できたから行こう」
と桜木ワルツはこちらに声を掛けた。
 
「アクアちゃん、行きなよ」
「はい。では失礼します」
と言って、アクアはワルツと一緒に向こうに行く。Nも行こうとしたが、千里は彼女の腕を掴んで行かせなかった。
 
「本当に警察に通報しますよ」
と千里は厳しく言った。
 
「報道の自由を侵害するつもりですか?」
「一週間もつきまとって、取材しようとするのは、報道という行為を越えてもう犯罪です」
 
「放して下さい」
と言って、Nは千里の腕を振り払うと、アクアを追っていく。しかし10mも行かない内に転んでしまった。起き上がるが近くに居た人が声を掛ける。
 
「あんた、血が出てるよ」
「え?きゃー。どうしたんだろう?」
「病院行った方がいいかも。それ大きな血管切ってる」
「そうしようかな」
 
千里が近づいて、タオルを渡した。
 
「これで出血している所を押さえた方がいいです」
「ありがとうございます」
と言って受け取り、出血している場所に当てる。
 

そんなことをしていた時に、警備員さんが巡回してきた。
 
「すみません。近くに病院ありますか?」
とNは訊いている。
 
「ありますが、どうなされました?」
「転んだ時に何かで切ったみたいで」
「それはいけない。取り敢えず医務室で応急手当しましょう」
「助かります」
 
それでNは警備員さんと一緒に医務室に向かったようである。
 
「でも何でしょうね?ガラスの破片でも落ちていたかな?」
と声をあげた男性(?)が言った。 (?)を付けたのは、千里がその人物の性別を判別するのに悩んだからである。
 
「普通に転んだだけのように見えましたしね」
と千里も言った。
 
「何かに足を取られたようにも見えましたよ」
と言っている人もいる。
 
「そうだ。醍醐春海先生、髪を切られたんですか?」
と声を掛けてきた人がいた。
 
「ええ」
と言って、千里は少し顔を赤らめる。
 
「長い髪でコートを走り回るのが格好いいなあと思っていたんですが」
「すみませーん。少し自分を鍛え直そうかと思って」
「それは期待できるなあ。東京オリンピックに向けて頑張って下さい」
「ありがとうございます。そんなの選手に選ばれたらいいのですが」
「村山選手を選ばないなんてありえないですよ」
 
などと言われて、千里ははにかんだ。ここ2年ほど沈んでいたからなあと思う。むろん千里1は、自分が霊的な能力もバスケットの能力も失っていた間に、千里3が代わりに日本代表を務めていてくれたことは知らない。
 
「もしかして作曲家でスポーツ選手なんですか?」
と性別の曖昧な感じの人物が言う。
 
「二足のワラジを履こうとして、どちらもまともに履けてない感じですね」
と千里は言った。
 
「いや。それは頑張ってください」
「はい、そちらも頑張って下さい」
「そうだ、握手してもらっていいですか?」
「はい」
 
それで千里はその人物と握手した。
 
なお千里はここのマクドナルドで休んだ後、津幡北バイパスまで戻り、その後は順調に走って、桃香の実家に到着した。
 

芸能レポーターのNはイオンモールで怪我をして医務室に連れて行ってもらったが、医務室の看護師さんが止血をしてくれたらすぐに血は止まった。
 
「念のため病院に行ったほうがいいですよ。紹介しましょうか?」
と看護師さんは言ったが
「大丈夫だと思います」
と言って、医務室を出る。それでアクアが撮影をしていた仮設スタジオに向かったが、会場の周囲に居たスタッフの中で、厳しい視線の中年女性が寄ってくると
 
「あなたちょっと」
と言われて連れ出される。そして
 
「これ以上アクアにつきまとったら本当に警察に通報しますからね。今日はお帰り下さい」
とかなり強い調子で警告された。その雰囲気が尋常ではないので、この人、もしかして“ヤ”の付く系統の人〜?どこかの姐御さんだったりして?と感じ、さすがに今日はいったん引き上げようかと思った。それで
 
「今日は帰ります」
と言ってお店を出たが、女性は付いてきて、
「今日はどこに泊まりますか?」
と訊かれた。
 
「和倉温泉あたりに」
と答える。アクアは実は今日は和倉温泉に泊まって、明日は能登島で撮影があるのである。
 
「それはいけませんね。宇奈月温泉になさいなさい。いい所ですよ」
とその人物は言い、Nをタクシーに乗せると、運転士に1万円札を10枚くらい?渡し、
 
「この人を宇奈月温泉までお連れして下さい」
と言った。
 
「分かりました!」
それでタクシーは出発してしまった。
 

Nはタクシーの車内で「行き先を変更して」と言ってみたが、運転手は「ダメです」と言って、変更を受け付けてくれなかった。それでNも今日はいったん引くかと考え、宇奈月温泉までの道中ずっと眠っていた。
 
それで彼女は自分の身の上に起きたことに気付かなかった。
 
「お客さん着きましたよ」と言われて目を覚ます。温泉が軒を連ねている。Nは「ありがとう」と言ってタクシーを降りる。その時、自分の身体に何か違和感があったが、何だろう?とは思ったものの、深くは考えなかった。
 
近くの温泉宿に入り、宿泊の手続きをする。部屋に案内され、お茶を入れてお茶菓子を頂く。
 
「確かに宇奈月温泉って、いい所だとは聞いていたなあ」
と思い、取り敢えず湯に入ってみるかと思い、お風呂に向かう。
 
お風呂は別棟ということだったのでそちらに行くが、通路が左右に別れていて、右が女湯、左が男湯である。Nは特に何も考えず右手女湯に行き、少しボーっとした状態で服を脱ぐと、脱衣場から浴室へと移動した。
 
Nがガラス戸を横に開けて浴室に入った時、中にいた若い女性3人がこちらを見てギョッとした表情をすると、次の瞬間
 
「キャー!!!」
 
と悲鳴をあげた。
 
何?何?と思っている内に女性従業員が飛んでくる。
 
「あんた痴漢か?こっちに来なさい」
と言って腕を強く捉まれ、連行される。
 
「痴漢って、何のことです?女が女湯に入って何が悪いんですか?」
「何ふざけたこと言ってる。あんた男じゃん」
「女ですよー」
「だってチンチン付いてるし」
と言われてNは初めて自分の股間を見た。
 
「うっそー!?」
「うちは痴漢は全部警察に突き出すことにしているから。ここでおとなしくしてなさい。今警察を呼ぶから」
 
と言われて事務室の椅子に座らされた。
 

翌日、全国新聞の社会面、スポーツ新聞の1面に大きく報道がされた。
 
「芸能レポーターNは男だった!」
「温泉でノゾキをして逮捕される」
「アクアちゃんにしつこくつきまとい。ストーカーの疑いでも取り調べ」
 
などと見出しは語っていた。
 
 
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【春枝】(2)