【春枝】(3)
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(C) Eriki Kawaguchi 2019-07-14
連休明けに夏野明恵が大学に出て行くと、クラスメイトたちに捉まってしまった。
「あっちゃん、テレビに出てたね」
「あれ見てたの〜?」
「レポーターに採用されたの?」
「あれは番組でも放送した通りなんだよ。たまたま通りかかった所で幸花さんに捉まっちゃってさ。あの人と私の親戚がお友達で、それで何度か会ったことあったんだよ」
「へー」
明恵は昨年の“H高校七不思議”に男装で出演しているが、あの時は顔を完全に隠してもらっていたし、声も変形し、名前も“仮名A君”になっていた。おかげで明恵の性別はバレていない。
「でも次回からも出演するようなこと言ってなかった?」
「まだ決まってない。私が自分で決めてと言われた。今月中に返事しないといけない。私がやらない場合は、誰かアシスタントを雇うらしい」
「それはぜひ出ようよ。そのまま〒〒テレビに就職すればいいじゃん」
「でもギャラが1日3000円だからなあ」
「あれ、マジで3000円なの?」
「冗談かと思った」
「最低時給の半額も無い気がするけど」
「“従業員”なら石川県の最低時給806円が適用されるけど、番組のアシスタントということになると、タレント扱いだから、そういうのに左右されないんだよね」
「限りなくブラックに近いグレイという気がする」
「でも染物工場で、働いている人は全て個人事業主の“職人”で会社と委託契約なんてところあるらしいよ」
「それも酷いなあ」
806円で8時間働くと6448円になるが税金その他を引かれると4000円くらいになってしまう可能性はある。但し3月の能登半島の取材では明恵は3日分として(所得税を源泉徴収した上で)3万円もらっている。
「ところで以前出ていた青山さんは、噂通りどこかのゲイバーに勤めてるの?」
「その話、幸花さんが大笑いしてた。実際はK製作所に就職したらしいよ」
「なんだ」
「大企業じゃん」
「K製作所に・・・女性従業員として就職した?」
「まさか。男性従業員だと思うけど」
と答えつつ、明恵は少し不安を感じた。あの人、女顔だったよなぁと明恵は思った。
連休明けには、担任教官との個人面談が行われた。
心理学科の担任は渡辺準教授という、まだ30代の若い先生だった。金沢大学の心理学科を修士課程まで出た後、企業のカウンセラーをしていて、その後ここの講師に転身したという人である。2年前に准教授に昇格したらしい。カウンセラーとしての経験があるせいか、話し方がとても分かりやすくて、いいなあと思った。金沢大学には元々数学科に入ったものの、途中で心理学に転身したということで、統計的な話にも物凄く強いようだった。。
明恵の高校からG大学の文学部に入った子が、他にいないこともあり、友だちはできたかとも聞かれる。竹本初海ちゃんや川西玲花ちゃんと仲良くしてますと言うと、それなら安心といった上で、困っていることや、戸惑っていることなどはないかと聞かれたが特に今のところはないと答えた。
10分くらい話していてから、書類を見ていた準教授が「あれ?」という顔をした。
「夏野さんって、男性だっけ?」
「まさか。私、女ですけど」
「でも大学の書類は男子になってる。それに名前も“明宏”って男性的な名前だよね」
「それで“あきえ”って読むんですよ」
と明恵が言うと
「ほんとだ!読みは“ナツノ・アキエ”で登録されている!」
と言う。
これは明恵が入学願書を出す時、例によって直前に書き換えをしたのである。
「生まれた時、祖父が出生届けを出してくれたんですが、あまりに達筆な字で“明恵”と書いたので“明宏”に見えちゃったらしいです」
と言って、明恵は自分の手帳を取り出すと、空白ページに草書体で「明恵・明宏」と書いてみせた。
「似てるね!」
と準教授は納得していたが、実は少し誤魔化している。わざと似るように書いている。
「小学校の入学案内が来た時に仰天して、市役所で聞いてみたけど、いったん受理されたものは、もう修正できないということらしくて、20歳になったら自分で改名手続きしようと思っています。これでけっこう男に間違えられるんですよ」
「大変だね!」
と準教授は同情してくれた。
もちろん明恵は20歳になったら、分籍した上で改名するつもりでいる。将来法的な性別を変更することになった場合も、分籍しておいた方が都合がよい。明恵は性転換手術を受けるかどうかについては現時点では五分五分の気持ちである。
「それで戸籍上は“明宏”の字ですけど、通常“明恵”の字で通しているんですよ」
「なるほどねぇ。じゃ、君は間違いなく女性だね?」
「何でしたら、裸になってみせましょうか?」
「いや、それは僕が逮捕される」
と言って、渡辺先生は慌てていた。
それで性別は単純ミスということで、修正してくれるよう言っておくということであった。
明恵の場合、女にしかみえないので、まさか男だろうとは準教授は思いもよらなかったのである。
依田怜は連休明けてすぐは病院も混みそうだったし、連休中に学校の仕事もたくさん溜まっていたので、一週置いて5月13日に予約を取った。この日は朝から病院に一時入院して、レントゲン撮影、CTスキャンほか、様々な検査を受けた。それはまるで人間ドックのような感じの検査だったが、女性化の原因がどこかにある病気のせいかもというので全身くまなく検査したのである。
その結果、腎臓に小さな影があるのが見つかった。
「もしかしたら腫瘍かも知れない。組織採取して検査していいですか?」
「よろしくお願いします」
それで検査結果が出てからまた診察を受けることになった。それで不安を抱えながら、帰宅途中、イオンモールかほくに寄ったら、そこに美少年タレントのアクアちゃんがいて、変なレポーターに絡まれていた。度を過ぎているので、依田は正義感からその人物に物申そうと思ったのだが、その前に小さな子供を2人乗りのベビーカーに乗せた女性が通りかがり、作曲家と名乗って、そのレポーターに注意をしていた。
その後レポーターは結局自分で転んで怪我して、医務室に行ったが、その後、近くで様子を見守っていた人が、その作曲家さんに声を掛け、それでその人が作曲家でかつスポーツ選手(後でバスケット選手と分かった)であることを知った。依田は彼女を激励したくなり、
「頑張って下さい」
と言って握手した。向こうからも
「頑張って下さい」
と言われた。
それで車に戻った後、急に気分が悪くなった。後部座席に行き横になっていたのだが、15分くらい身体のあちこちでまるで中身が移動?でもしているかのような変な感覚があった。何これは?何か変なものでも食べたっけ?と思ったが、そもそも今日は丸一日検査で何も食べていないことを思い出す。身体に入れたのといったら、胃の検査で飲んだバリウムくらいである。
しかし15分もすると身体は落ち着いて、特にどこも苦しくなくなった。依田はこのまま少し寝ようと思い、目を瞑って自分を睡眠に導いた。
30分くらい寝てから起きたが、身体が妙にすっきりした感覚があった。
取り敢えずトイレに行ってから、何かお総菜でも買って帰ろうと思う。それで(男子用)トイレに行き、個室に入って、用を達した。その時、おしっこが出る感覚が物凄く変だった。
え?と思い、覗き込む。
そして「うっそー!?」と声に出して言った。
依田怜が帰宅すると、パートナーのサトミが
「怜ちゃん、お帰り。検査どうだった?」
と訊いた。
「何か腫瘍っぽいものがあるらしい。そのせいかも知れないから、組織検査してからまた診察だって」
「大したことなければいいね」
「いやそれが大したことになっちゃって」
「どうしたの?」
「これを見て」
と言って怜は服を脱いで裸になった。
サトミは驚いて息を呑んでいたが、やがて言った。
「怜ちゃん、ずるい。性転換手術しちゃうなんて。私が性転換したいのに」
「手術とかしてない。病院の帰り気分が悪くなって30分くらい寝てたんだけど、その間に完全にこういう形になってしまって。トイレに行ってびっくりした」
「どうすんの?」
「どうしよう?」
「私は怜ちゃんが女の子でもいいよ。そのまま私を愛してくれるのなら」
「・・・サトミのことは好きだよ」
「じゃ、今まで通り一緒に暮らせばいいね」
「そうだね」
「これからは怜ちゃんが女役かな」
「それしか、しようがない気がする」
と怜はため息をつきながら言った。
青葉は5月13日にオーストラリア遠征から帰国した後、日中空いている大学のプールで練習をしつつ、卒論の作業と作曲の仕事をこなしていたのだが、放課後の水泳部の練習には全く顔を出していなかった。
「5月26日に愛知で中部学生短水路水泳競技大会があるんだけど」
「パス」
「5月25日にはそれに出ない子たちで、水泳部の部内記録会をするんだけど」
「無理〜」
「6月8日は石川県学生選手権」
「海外遠征中です」
ということでイベントにも全く顔を出さない。そして6月5日には成田からフランスに向けて旅立ち、日本代表のヨーロッパ遠征に参加した。
NRT 6/05 10:35 (AF275 777-300ER) 16:10 CDG (12'35")
青葉たちは6月8-9日にはモナコ(Monaco)に移動してヨーロッパ・グランプリのモナコ大会に参加、更に11-12日にはフランスの(プロヴァンス地方)カネ(Cannet)に移動してカネ大会に出る。更に15-16日はスペインのバルセロナ(Barcelona)に移動してバルセロナ大会に出た。つまりヨーロッパグランプリの内3大会に出場したのだが、今回はひたすら地中海沿岸の町を移動してまわった。
「大会に疲れた!」
とジャネが言っていたが、全く同感であった!
仕上げに6月21-23日にはローマまで戻って、セッテコリ国際水泳大会に参加した。2014年の大会に参加した時は池江璃花子が優勝している。日本チームが来たと聞いて入江も来てる?と聞かれたが、病気になって療養中と言うと、残念がっているイタリア人選手がいた。彼女からは「早くよくなるようにおまじないね」と言われて、蛙の小さな人形を短距離の選手が言付かっていた。
(お互い不自由な英語で話したので“白血病”という病名は伝わってない気がする)
青葉たちはこの大会が終わってから6月20日に帰国の途に就いた。
FCO 6/20 15:15 (AZ0784 777-200) 6/21 10:30 NRT (12'15")
青葉が成田に着いたら、まだ空港のビル内にいる内に杏梨から電話が掛かってきた。
「青葉、帰国した?」
「今到着した所」
「明日、北五(北陸地区国立大学体育大会)だからよろしく」
「え〜〜〜?」
それで青葉はその日新幹線で高岡に戻ると、ひたすら寝た上で、翌日金沢プールに出かけて行き、この大会に参加した。
青葉はきっちり、女子400m,800m自由形、400m個人メドレーで優勝して、日本代表の貫禄を見せつけたが、大会が終わったら自宅に戻って、そのまま丸2日眠り続けた(朋子が「生きているか?」と心配になり、何度か手で触って青葉が反応するのを確認していたらしい)。
そういう訳で青葉が目を覚ましたのは6月25日の朝である(実際には何度かトイレに起きており、その時、水分補給に500ccペットボトルのアクエリアスを数本飲み干したり、ウィンナーを丸かじりしたりしている)
「あんた、よく寝てたね」
と朋子が呆れたように言ったが、青葉は言った。
「東京行って、その後、予定通り南米まで行ってくるから」
「それいつ出るの?」
「この朝御飯食べたら」
「え〜〜〜!?」
それで青葉は6月25日午前中の新幹線で東京に出て、溜まっていた§§ミュージックやTKRとの打合せをし、また松本花子の作業所の方にも顔を出した。
結局また彪志と会えないままである。電話はしているのだが、正直、世界選手権が終わるまで会えないかもという気がしてきた。
翌6月26日(水).
青葉は徹夜になってしまった大田ラボで朝、目を覚ますと、もう起きてコーヒーを飲んでいた“株式会社結実”の経理課長・島田司紗にお金を渡してミスドを買ってきてもらい、まだ寝ていた峰川イリヤも起こして3人で食べて朝御飯にした。
司紗は千里姉と同じ旭川N高校の出身で、長らく千葉Rocutesに所属していたが、昨年度いっぱいで退団し、2019年度からは東京40 minutesに移籍した。元々40 minutesというのは、Rocutesと江戸娘の“姥捨て山”である(秋葉夕子談)。選手数は年々膨らんで行っている。人数が増えすぎて最近練習用のユニフォームは背番号が3桁である!(レギュラー以外は試合の時2桁の背番号を縫い付ける)
バスケ協会の登録料はチームが払うので、毎年春に「所属継続」を宣言するだけで、1年間バスケット選手として扱われ、バスケ協会から機関誌も送られてくる。そして深川アリーナを好きな時に24時間いつでも利用できる。実は午前中に練習に来る主婦や、会社が終わった後で深夜練習に来る選手もいる。牛丼屋さんが24時間営業しているので食事にも困らない。
司紗は実は高校を出た後、司法書士の資格を取りますという名目で事実上のパラサイトをしていたのだが、昨年松本花子を立ち上げた時に事務的な処理をしてくれるスタッフが必要になり、千里が司紗に声を掛けたらやります!と言うので雇用した。彼女はいまだに司法書士の資格を取れていないものの、行政書士・宅建(宅地建物取引士)・不動産鑑定士・簿記2級・英検2級・中小企業診断士など、様々な資格を取っている。簿記については実務経験は無かったものの、理論はしっかりしているようだったのでお願いした。複雑怪奇な企業税制についても税理士さん並みの知識を持っていた(税理士の試験は2回挑戦したが玉砕したと言っていた)。彼女は松本花子の仕事が忙しいので、結構大田ラボに泊まり込んでいることも多い。(全国出張も多い)
ちなみに“経理部長”にすると言ったのだが「部長なんて畏れ多い」と言って経理課長の肩書きである。
「そういえば、もしお父さんがイリヤさんの“奴隷”になったら何をさせるんですか?」
と青葉はイリヤに訊いてみた。
「取り敢えず額に入れ墨で“奴隷”と入れようかな」
「え〜〜〜!?」
「冗談だけど」
「よかった」
「どうも奴隷になりたがっているようだから困ったものだ」
「あはは」
「去勢しても貞操帯つけてもいいよ、と言ってたが、そんな本人が望むようなことはしてやんない」
「貞操帯って辛そう」
と司紗が言う。
「女は貞操帯つけられてもそうでもないだろうけど、男は辛くて発狂しそうになるらしい」
「それをなぜ付けられたいんです?」
「苦しみたいんじゃない?」
「よく分からないな」
「去勢するにしても睾丸はそのままにして陰茎だけ切断だな」
「お父さん発狂しますよ!」
「既に狂っていると思うけど」
「うーん・・・」
8時に蒲田駅を出て、10時前に郷愁村に到達した。実際には熊谷駅前に郷愁温泉《昭和》の送迎車が停まっていて、旅館の法被を着た男性が
「川上さんですか?お待ちしておりました」
と言って、青葉を乗せて郷愁村まで運んでくれた。
それで11時から、市長さんや商工会長さんなども参列して、“プール開き”が行われたのである。青葉とジャネもハサミを持ってテープカットに参加した。しかしテープカットの参加者の中に、秋風コスモスやTKRの松前社長までいるので驚いた。
「§§ミュージックやTKRがここに関わっているんですか?」
「今年はアクアの映画をここで撮るのよね」
「へー!」
「今オープンセットを建設中。10億円の予算で」
「相変わらずアクアのプロジェクトは予算が潤沢ですね!」
そういう訳で、青葉は6月26日いっぱいここのプールで泳いだのである。
なおここのプールの水は敷地内を流れる田斐川から取水したものを浄化施設を通して供給している。雨水も利用する。むろん不足する分は市の水道を使用する。川からの取水には膨大な手続きが必要なのだが、元々若葉はエコロジックな施設運用のために、この作業を昨年の内から進めていたらしい。また田斐川は一級河川でも二級河川でもない、いわゆる普通河川なのでハードルは比較的低かったらしい。またこういう膨大な水を使う施設で全てを水道に頼られると、市は辛いそうで、川からの取水という話を市は歓迎してくれたのである。
プールからあふれた水や排水口から出た水は濾過・消毒した上でプールに戻す。シャワーや洗顔器などで使用した水は下水に流すがその下水も郷愁村内に設置した排水処理施設で処理した上で“中水”として、トイレの洗浄や清掃などに使用している。最終的に市の下水道に流入させる量はひじょうに小さい。この中核となる50mプールだけでも 3750m
3(50m x 25m x 3m) もの水を使うにしては環境負荷が小さいのである。
(今後建築する25mプール(水深2m)が800m
3, レジャープール群(水深1m以下)は合計でも700-800m
3程度の予定である)
「しかし50mプールを2人で独占していると気持ちいいね〜」
とジャネは言っていたが、青葉も同感だった。
なおジャネは2万円を払って、深川アリーナ・郷愁プール、共通の年間利用パスを発行してもらったのだが、結局、幡山ジャネ、水渓マソ、木倒マラという3つの名義のパスをもらったらしい。名義の件ではジャネは不満そうでぶつぶつ言っていた。まあ実際には幡山ジャネ名義以外を使うことはないだろう。マソもマラも既に死んでるし!
2人の人物は深夜の釈迦堂PAで落ち合った。
「これ『久しぶり』と言えばいいのかな」
「ふつうに『こんばんわ』でいい気がする」
「じゃ、こんばんわ」
「こんばんわ」
取り敢えず2人は握手した。
「1番が暴走しているみたいだけど、やばくない?あれかなり被害者が出ている気がする」
「うん。妖怪を粉砕したりするのはいいんだけどね。どんどん人を性転換しちゃうのは困るよね」
「要するに自分の性別に何か不安を感じている状態で千里1と身体的な接触をしちゃうと、***の法が自動起動するみたいだ」
「危ないなあ。アクアと握手したりしたら、アクアが性転換されてしまう」
「アクアは性転換されてもあまり問題ない気がする」
「確かに誰かが性転換しちゃったら代わりに他のアクアを性転換すればいいよね」
などと、無責任なことを言っている。
「桃香と青葉には防御を貼っておいたから大丈夫」
「まあ桃香は男になっても構わないだろうけど、青葉は男になったらショックで寝込むかもね」
「さすがにそれは可哀相だ」
「でも松井先生がまた楽しそうに性転換手術してくれるよ」
と結局無責任な会話になっている。
「取り敢えず被害者は既に6人」
「その6人のリストある?」
「追ってメールする。分担してフォローしない?」
「そうしよう」
「これ何か対策取れない?」
「くうちゃん?」
すると天空は2人に言った。
「あの子、霊場巡りをすると言っていた。それで封印が戻って、こういう無意識に人を勝手に性転換したりするのは無くなると思う」
「じゃそれまでの間に何かあったらまた連絡を」
「OKOK」
「じゃ、またね」
それで2人は別れた。
2019年6月3日(月).
2ヶ月間の研修を終えた青山広紀は、金沢支店への正式辞令をもらい、新しく借りた金沢市内の安アパートから制服(男子制服)のまま出勤して行った。午前中金沢支店に新配属された30人と一緒に支店長の訓示を受けた後、自分の部署に行き、挨拶をした。
結局研修所で初日に同室になりかけた藤尾歩と同じ太陽光発電事業課の配属である。
「なんか色々縁がありそうね。よろしくね」
「ええ。歩さんにはホントにお世話になっちゃって」
「広紀ちゃんは真面目だけど気が弱いのが欠点だなあ」
あの研修の初日、男子部屋から追い出されてしまった広紀は歩に電話して相談してみた。すると歩は大笑いして5階まで降りてきてくれて、528号室に入った。
「すみませーん。失礼します」
「ああ、君?部屋を間違えられていたのでここに追加になったって人は?」
と歩は中に居る男子たちに尋ねられた。
歩は充分“男子パス”する。
「いや、それが私は女なんですけどね。ここにいる広紀ちゃんが実は男なんですよ」
「うっそー!?」
それで歩が、彼は名前が女でもあるような名前で性別を間違えられて、制服も女子制服を渡されたが、本人はこれが女子制服であること自体に気付かなかったこと。宿泊する部屋が女子ばかりなので仰天して総務に問い合わせて、社員証の性別は修正してもらえることになったが、制服の交換をしてもらうのを忘れたので、今は女子制服のままであること、しかし確かに男子であることを説明した。
「そうだったのか。だったらこの部屋でいいよ」
「でも君って、女の子になりたい男の子とか?」
「なりたくないですー」
そんなやりとりもあって、広紀は男子部屋に泊まることができたのである。
「そちらのお姉さんは男の子になりたい女の子ということは?」
「男になりたい。誰かちんちんくれません?」
「嫌だ」
それで歩は「男になれないなら女部屋に戻ります」と言って自分の部屋に戻った。
広紀がパジャマに着替える所を見て同部屋の男子たちは
「ふーん。男物の下着を着けてるんだね」
「自粛したの?」
「女物の下着でも構わないよ。中身が男の子なら、僕たち気にしないから」
などと言った。どうも一部誤解されたままのようであった。
制服も翌日には男子制服をあらためて支給してもらったが、女子制服はそのまま持ってていいと言われた。どっちみち広紀が1日着ていたので、返してもらっても規定により廃棄せざるを得ないらしい。それで広紀は女子制服も持ったまま一応男子制服でその後の研修に参加した。
男子制服はいいなぁ。ちゃんと立っておしっこできる!と広紀は思った。
女の身体って不便だなあ。立っておしっこできないなんて、と依田怜は思いながら、その日も病院に来ていた。
検査結果が出て、腫瘍らしきものは良性であることが判明したので、その後の治療方針を話し合うはずだったのだが、怜が「実は・・・」と言って完全に身体が女体に変化してしまったことをいうと、医師は仰天した。
再度全身くまなくMRIでスキャンされたのだが、
「あなたは完全な女性ですね」
「卵巣・子宮もあります、前立腺などは存在しないです」
「乳房もかなり発達してますね」
と言われる。
なお腫瘍は完全に消滅していることが分かった。性別が変わった副作用かもと怜は思った。しかし医師からは
「あなた本当に依田怜さん本人ですよね?双子の妹さんとかじゃないですよね?」
と念を押された。
確かに本人であること、前回病院に来た日の帰りに急に気分が悪くなり車の中で寝ていたら30分ほどの間に身体が変化してしまったのだと申告すると、医師は
「外国でそういう事例があったと聞いたことはありますが、怪しげな話だと思って信じていなかった」
と言った。
「おそらく半陰陽の一種だと思います。元々女性だったのが、何らかの原因で男性のような形になっていたのが、何かのきっかけで本来の性別の形に戻ったのでしょう」
「だったら、私はこの後、女として生きていかないといけないのでしょうか?」
医師は考えるようにして言った。
「女として生きていくのであればそれで戸籍上の性別が変更できるように診断書を書きます。男に戻りたいのであれば手術して男性器を形成する方法もあります」
「それってつまり性転換手術ですよね?」
「はい、そうです」
怜は家族と相談するといってその日はいったん帰宅し、パートナーであるサトミとよくよく話し合った。それで結局怜は「肉体的には女だけど精神的には男」という線でこのあとやっていこうと決めた。
病院で診断書を書いてもらい、それにもとづいて戸籍上の性別を女に変更し、サトミと婚姻届を出すことにした。
実際問題としてサトミは常時女装で生活していて、ヒゲなどはレーザー脱毛し、喉仏は削り、バストもシリコンを入れて大きくしているので外見上女にしか見えないものの、女性ホルモンは摂取しておらず去勢もしていないので、実は男性機能を完全に維持している。ちんちんがあって、おっぱいもあるので、温泉などでは男湯にも女湯にも入れない。
女性ホルモンについては本人に訊いてみたことはあるのだが「実は飲むのが怖い」というので「無理に飲む必要はないと思うよ。サトミはおっぱいあるんだから、飲まなくても問題ないよ」と言ってあげている。
そういう訳で本人が「その内性転換したい」とは言うものの、去勢さえもしないというのは結局性転換するつもりはないのではと怜は思っていた。結果的に2人は永久に婚姻することができない。しかしここでもし怜が性別を女に変更した場合、婚姻が可能になるのである。
ふたりはそうやって籍を入れようと話し合った。
それで怜は次に病院に行った時、先生に性別を女に変更して生きて行きたいと申告した。それで医師は、この人は半陰陽で、生まれた時は陰茎があるように見えたので男子として出生届が出されたものの、実はそれは肥大化した陰核であったと思われること。現在は本来の女性の形に身体が発達しており、月経も来ているし、陰茎のように見えていた物も自然消滅して、股間の形は完全に女性型であるといった診断書を書いてくれた。
これを持って家庭裁判所に性別の“訂正”を申告すれば戸籍上の性別は変更されますよということであった。
それで怜は病院を出て自宅に戻り、今後の計画についてサトミと再確認をした。
ふたりはあくまで「怜が夫で智美が妻である」が、戸籍上は「怜が妻で智美が夫」になる。性生活では、各々の形態通り「怜が女役・智美が男役」をする。
「まあどちらが夫でどちらが妻かなんて便宜上のものだよね」
「もしサトミが将来性転換した場合はレスビアンになるということで」
「それも楽しそうだけどね〜」
「学校はどうするの?」
「女の身体に変化してしまったことを校長に言うつもり。性転換手術したのなら、難癖つけて辞めさせられるかもしれないけど、半陰陽なら許してくれると思う」
「それで女教師になる?」
「まあ仕方ないね。男教師を装うのは無理だと思う」
「だろうね」
家庭裁判所に提出する書類を書き、提出しに行って来ようと言ってふたりは一緒にアパートを出た。
そして金沢まで出て、家庭裁判所(金沢城址の近くにある)に近い駐車場に車を駐め、一緒に歩いていたら、
「こんにちは」
と声を掛ける人がいる。
「あれ?あなたは?」
「先日、イオン河北でお会いしましたね」
と千里は笑顔で怜に言った。
「どうもその節は」
「ちょっとお話したいことがあるのですが、どこかに入りませんか?」
「済みません。今ちょっと裁判所に行こうとしていたので、その後でいいですか?」
「ああ。裁判所ですか。その前にお話したいのですが」
怜とサトミは顔を見合わせた。
それで結局、3人は近くの駐車場に駐めている怜のエスティマの中で話すことにした。怜がエスティマを使っているのは、部活で生徒たちを送迎することがあるから、できるだけ多人数乗る車が欲しかったためである。怜は新しい学校でも合唱部の顧問をしている。
「あなたこないだ会った人と似ているけど違う方ということは?」
「よく分かりましたね。実は双子の妹なんですよ」
「そうでしたか!いや、髪の長さが違う気がして」
「あの後、お体に何か変化がありませんでしたか?」
と千里は尋ねた。
「どうしてそれを?」
「性別が変わってしまったとかは?」
「なぜご存知なんです?」
「詳しいことは説明できないのですが、依田さんは、このまま女性として生きていかれるおつもりですか?」
「それは迷ったのですが、こういう身体になってしまった以上、男を装い続けるのは無理なので、女性に移行しようかと思い、家庭裁判所に性別の訂正を申し立てるつもりだったのですが」
「男に戻れたら戻りたいですか?」
と千里は訊いた。
怜はたっぷり30秒くらい考えてから答えた。
「戻りたいです」
そばでサトミも頷いていた。彼が本当は女になどなりたくないのは充分分かっている。
「だったら戻してあけますよ」
「どうやって?」
「これから先のことは詮索しないと約束してもらえませんか?」
ふたりは顔を見合わせてから答えた。
「約束します。何も詮索しません」
「でしたら私の服の中に手を入れて左側の第10肋骨に触って下さい」
と千里は言った。
「第10肋骨って、前にある肋骨の中でいちばん下のですよね?」
と怜が尋ねる。
こういうのが分かっているのは、さすが学校の先生である。
「それです」
「でも女性の服の中に手を入れるのは・・・」
「今はあなたも女性だから、女同士ということで」
「確かに」
それで怜は千里の服の中に右手を入れても左の第十肋骨を手探りで見付け、そこにしっかり触る。
「では男に戻します。女の身体でなくなってもいいですか?」
「いいです」
「ちんちん生えちゃうけどいいですか?」
「生えて欲しいです!」
それで千里は両手で印を結んだ。
「あ・・・身体が」
「少し気持ち悪いかも知れないけど我慢して。絶対に手を放さないように。男でも女でもない中途半端な状態になっちゃって、その後は修復のしようがないですから」
「分かりました。頑張ります」
それで15分ほどで変化は完了した。
「終わりました。もう手を放してもいいですよ」
それで怜はおそるおそる自分のお股に触った。
「ちんちん戻ってる!」
「良かったね」
とサトミも微笑んで言っている。
しかし怜は急に思い出したように言った。
「実は元の男の身体だった時、腎臓に小さな腫瘍ができていたんです。それが女の身体に変化した時には消えていたんですよ。男の身体に戻ったら腫瘍も復活していないでしょうか?」
「この***の法というのは、性転換しちゃうのは副作用なんですよ」
「副作用?」
「本作用は若返りなんです。依田さん何歳でしたっけ?」
「40歳です」
「でしたらだいたい1割若返るので、女性に変化した時36歳相当に戻ったはずです。そのため、最近できた腫瘍は消えちゃったんでしょうね」
「そういうことだったのか」
「再度***の法を適用して男に戻ったので、再度年齢は1割若返って、現在32歳相当になっているはずです」
「凄い」
「だから8年戻ったので腫瘍なんてきれいに無くなっています」
「だったら8年後には腫瘍ができる?」
「それはそのようなことが起きないように、腎臓に負担を掛けない食生活とかをしていればいいと思いますよ。未来というのは、多数の選択肢の枝の中から私たちが自分で自分の望む未来を選んで行っているんですよ。分岐する枝の元のほうに戻ったけど、次また同じ枝に進むとは限らないです」
「ああ、未来というのはそうなのかも知れませんね」
「明るい未来を想像する人は明るい方向に行くし、暗い未来を想像する人は暗い未来を選択しがちです」
「それ私もよく生徒たちに言いますよ」
と怜は言っていた。
「あのお、もしかしたら、怜が女になってしまったのって、あなたのお姉さんの仕業(しわざ)?」
とサトミが尋ねた。
「すみませーん。姉があの時ものすごく疲れていたので、うっかりやってしまったみたいで」
「うっかり人を性転換させちゃうんですか?」
とサトミが非難するように言う。
「いいよいいよ。僕は男に戻れたから実害は無いし。結果的に若返って腫瘍も無くなったのなら、いいことだらけだ」
と怜は言う。
「そうかもね」
千里は言った。
「お詫び代わりのサービスで、奥さんは女の身体に変えてあげましょうか?」
サトミは驚いた顔をしたが、即返事した。
「女になりたいです!」
「だったら、今度はあなたが私の左胸の第十肋骨に触って」
「はい」
それで千里は彼女を女の身体に変えてあげたのである。
「嬉しい!ちんちん無くなっちゃった!」
「サトミ、胸が物凄く大きい」
「それ生胸でもEカップあると思います。美容外科に行ってシリコンバッグ抜いてもらったほうがいいですよ」
「そうします!」
「年齢も若返ったんですよね?」
と怜が訊く。
「奥さんは何歳ですか?」
「33歳です」
「だったら3.3年くらい若返って、今は29.7歳くらいかも」
「わあ。20代に戻れたのか。私、赤ちゃん産めたりして」
「産めると思いますよ。だってあなた完全な女だもん」
「マジ?」
元男性のサトミにとって赤ちゃん産むなんてのは想定外のことだろう。
「でもこの後どうしよう?」
と怜が戸惑うように言った。
「今度は奥さんが病院に行って、この人は完全な女性であるという診断書を書いてもらって性別を訂正すればいいですよ。そしたら結婚できるでしょ?」
「それで行こう!」
「だけど村山さんと出会う前にも私、とっても女性化しつつあったんですが、それはなぜだったんでしょう?医者が言ってた腎臓の腫瘍のせいでしょうか?」
と怜は尋ねた。
「肝臓なら分かるけど、腎臓の腫瘍でそういう症状が出るというのは考えにくいですね」
と千里は言い、《びゃくちゃん》に尋ねてみた。
「ああ、あなた、何かの呪いが掛かっていたみたい」
と千里は言った。
「呪い?」
「もう既に呪いは無いのですが、掛かっていた跡だけ残っていますね。どこか変な所に行かれませんでした?これは自然系の呪いで、男性を女性化させる作用がある。たぶんこれ姉がその呪い自体は祓ったんだと思います」
「そうだったんですか!」
「その呪いで性別が曖昧になりつつあったから、うっかり性別が男女どちらかに確定するようにしちゃったのかも」
「なるほどー」
「意識してやっているのなら、ちゃんとあなたの本来の性別を確認してからしたのかも知れませんが、姉は疲れていて無意識だったので、あなたは本来女性と思ったのかも知れませんね」
「あははは」
「同性愛だから読み間違ったのかもね」
とサトミが言うと
「それはあり得る気がするよ」
と怜も納得していた。
「でもそんな呪い、どこで拾ったんだろう」
と怜は少し考えていたが、思い至った。
「もしかしたら天狗岩かも」
「何です?それ」
「能登半島の山の奥に、以前天狗岩という名前で実際はおちんちんの形をした自然石があったんですよ。3月に生徒たちを連れて見に行ったんですが、岩は無くなっていたんですよね」
千里はその背景を見た。物凄く怪しげな雰囲気がある。
「その生徒さんたちが心配なのですが」
「女生徒ばかりだったんですが、女性にも影響あります?」
「女性は大丈夫です。男子生徒はいませんでした?」
「はい」
と答えてから、怜は思い出した。
「すみません。1人だけ居ました。ピアニストの男の子なんです」
「その子の連絡先分かりますか」
「はい」
それで怜から平野啓太の連絡先を聞いた千里は、すぐにそちらに照会してみた。するとペニスに腫瘍ができていて、その治療のために東京の病院に入院しているということが分かり、そちらを訪問することにした。
なお怜は、啓太の他に岬も居たことが完全に意識の中から外れていた!岬はそもそもソプラノだし、ふだんから女生徒の中に埋没していて、彼が男子であることを多くの人が忘れてしまっているのである。
怜は、結局校長に相談する前に男の身体に戻ってしまったので、そのまま男性教師として勤務し続けた。夏の水泳大会では、男性用水着を着て胸も曝し、デモンストレーションで3000mを泳ぎ切ってみせると生徒たちから歓声があがった。
実は生徒たちの間では春頃「あの先生実は女では?」と噂されていたのだが、この水泳大会で、怜が男性であることが明らかになり、性別疑惑は解消されたのであった。
サトミは病院で診断書をもらい、秋には性別の訂正が認可され、あわせて名前も男性的な“智司”から女性的な“智美”に変更。2人は年末に、夫が怜で妻が智美の婚姻届を提出。翌年に智美が妊娠して、子供も産まれた。2人は4年前に一緒に暮らし始めた時、子供はできないものと割り切っていたので、子供ができたのが嬉しくて泣いていたという。
「でも赤ちゃん産むのがあんなに辛いとは思わなかった!」
と智美は言っていたらしい。
2019年6月14日(金).
今井葉月の初めての写真集『Leaf Moon』が発売された。当日は本人と写真家の田中麗華さん、事実上のマネージャーである桜木ワルツ、そしてこの写真集の総指揮者である川崎ゆりこが出席して、TKRの大会議室で記者会見を行った。
CDの発売記者会見ではないので、歌などは無い。BGMに北里ナナ『招き猫の歌』のインストルメント・バージョンを流しながら、写真集の中から何枚かピックアップしてスライドショー・モードで背景に映写し、田中さんからどんな感じで撮ったかとか、現地でのエピソードなどを説明してもらった。それに葉月自身が少し補足した上で、質疑応答もおこなった。
「葉月ちゃんのCDデビューの予定は?」
「ありません。私はあくまでアクアさんのスタッフなので、彼の負荷を下げるために全力を尽くしています。私自身が忙しくなっては困りますので」
「リハーサルにはたいてい葉月さんが出てこられて、歌唱もなさっているらしいですが、歌が物凄くうまいと聞いていますが、もったいなくありませんか?」
という質問には川崎ゆりこが
「歌が超上手いアクアのリハーサル役は、やはり彼女くらい歌が上手い子でないと務まりませんから」
と答えていた。
ゆりこが“彼女”という言葉を使った時、桜木ワルツが一瞬ピクッとしたものの、女の子の写真集にしか見えない写真集を出しておいて、今更男の子ですなどとは主張できないので“彼女”でもいいことにしたようであった。
この写真集の売り上げは8月にアクアの写真集が発売されるまで、ランキングのトップ3以内を維持し続けた。
千里1は5月下旬は、康子と一緒に、信次の菩提供養のため板東三十三箇所巡りをした。その中で康子は千里に尋ねた。
「千里さん、一周忌がすぎたら、桃香さんと結婚するの?」
「三回忌までは再婚のことは考えません」
「そう?一周忌すぎたらもういいと思うよ」
「それに桃香とは法的に結婚できないし」
「日本の法律って面倒ね」
「同性婚できる国もありますけどね。でも私、もしかしたら桃香以外の人と結婚するかも」
「誰か好きな人できた?」
「うーん。誰だろう?」
千里1は誤魔化したが、むろん貴司と結婚する気満々である。どうせ貴司は今の奥さんとも長くは続かないだろうと考えている。法的な問題もあるし、まあ貴司と結婚して桃香は愛人でいいかな、などと勝手なことを千里1は考えていた。
ちなみに千里1はまだ自分の分裂には気付いていない。
康子は板東三十三箇所を巡っている内、供養というより、途中から楽しくなってしまったようである。
「西国三十三箇所やって、その後秩父三十四箇所やって、善光寺まで行っちゃおうかしら」
「すみません。私、お仕事しなくちゃ」
「ごめーん」
それで結局、康子と千里が“分担”して回ることにした。秩父三十四箇所は近い所に集まっているから康子がやり、長い距離の移動がある西国三十三箇所を千里が由美を連れて行ってきて、最終的に善光寺で落ち合うことにしたのである。千里はこの西国霊場巡りに信次のムラーノを使用することにした。
ムラーノは実は6月末で車検が切れるので、それでムラーノはお役御免として廃車にすることにした。
そして千里1はこの西国巡りの間にたくさん楽曲を書くつもりでいた。千里が“復活した”ようだと聞き、たくさん作曲依頼が舞い込んでいるのである。
(千里1は松本花子のことも夢紗蒼依のことも知らない)
それで千里1は6月18日の青岸渡寺に始まって、和歌山から滋賀・京都・大阪・兵庫方面にある霊場を次々と回っていった。その中で千里1は結構自分は体力があるようだと認識していた。4番札所・施福寺は900段の急な階段を登らなければならないが、千里1はノンストップでこの階段を登り切った。普通は男性でもある程度休憩しながらでないと登るのが辛い階段である。
最初の内は霊場と霊場の間に距離がありよかったのだが、京都付近に入ると距離が短くなる。千里は車のシガーソケットからインバーターで電気を取り出してパソコンに充電しているのだが、この充電が間に合わなくなってくる。
茨木市の22番・総持寺まで行った所でパソコンのバッテリーもモバイルバッテリーも全部空になってしまった。
千里1は少し悩んでから貴司に電話した。
「こないだも出羽で電気と軽油借りたのに申し訳ないんだけど、今度はバッテリーに充電させて欲しいんだけど。電気代は払うから」
「また車のバッテリーあげたの?」
「ううん。パソコンのバッテリーなのよ」
「そちらか!今日は家にいるからおいで」
「ありがとう」
それで千里1は豊中市の貴司のマンションまで行くと、貴司に電話して駐車場のゲートを開けてもらい、来客用の駐車場にムラーノを駐めた。そしてノートパソコンを持ち、由美を抱いて33階まで上がっていき、再び貴司に電話して部屋のドアを開けてもらった。
敵対的な視線を投げかけている美映に笑顔で挨拶し、まずは由美とパソコンを置く。
「その赤ちゃんの父親は?」
「川島信次というんですけど」
「ああ、結婚しているのね!」
と言って、美映が安心したような顔をした。
万一その父親が貴司だったら・・・ここで血を見る争いになっていたかも!?
(実は緩菜と由美は異母姉妹なのだが、そのことをこの時点では千里1〜3の3人も含め、誰も知らなかった)
千里が更に車から大量のモバイルバッテリーを持ってあがってくると美映は驚いた。
「何のお仕事なさってるんですか?」
「音楽関係なんですよ。締め切りが厳しくて」
と言うと、美映は頷いていた。
千里が赤ちゃん連れで西国三十三箇所・車中泊の旅をしながら、パソコンで仕事もしていると言うと「無茶すぎる!」と貴司は言い、充電されるまでの間でも寝た方がいいと言った。美映さんまで「赤ちゃんがつらいですよ」と言うので、来客用寝室で寝せてもらった。
結局千里1はここで一晩泊めてもらい、その間にパソコン本体にも多数のバッテリーにもたっぷりと充電できた(充電するバッテリーの交換は貴司がしてくれていた)。美映は千里が制作中の楽曲に興味を持ち、
「聞かせてもらったりできます?」
というのでCubaseのプロジェクトデータから再生を掛ける。
「可愛い曲ですね!」
「まあ売れたらいいんですけどね」
と千里は答えておいた。実は遠上笑美子用に書いている曲である。
結局美映さんお手製の朝御飯まで頂いてから出発したが、ほんとにゆっくり休むことができたので助かった。
美映には正直に自分が貴司とかつては夫婦であったことを話した(貴司と毎月会っていることを千里1は知らない)。
「でも私、阿部子さんに負けちゃったんですよ」
「ああ」
どうもそれで美映の千里に対する印象が大きく変わったようである。
「ほんっとに貴司さんって薄情だから」
「それは同感!」
と美映は言うが、貴司は
「美映と結婚した後は浮気してないよぉ」
と言い訳している。
実際には男性器が無ければ浮気のしようがない。阿部子さんと結婚していた時もこうしておけば良かったな、などと千里3!は思っていた。(でも貴司の男性器が無いので千里2は困っている)
「だから私、貴司さんが阿部子さんと婚約した以降は1度もセックスしてないですよ」
と千里1は言った。
「じゃ古い話なのね」
美映はそれで結構納得してくれたようで、先月出羽で会った時の敵対的な視線はかなり和らいでいたのであった。
千里が貴司のマンションに泊まったのは、6月22日の昼から23日の朝に掛けてである。そしてこれが千里が貴司のマンションを訪れた最後になった。
千里は貴司のマンションを出たあと、残りの11の札所を巡り、姫路では阿部子・京平の親子とも偶然会ったので、この旅はいったいどういう旅なんだ?と思った。千里は6月25日に最後の札所・華厳寺にお参りをし、その後長野の善光寺に向かう。そして6月26日に康子・太一と落ち合い、一緒に御参りをして、巡礼の旅を終えた。
太一・康子と一緒に東京に戻ることになるが、この時、唐突に千里1は思いついた。
「ね、お母さん、ムラーノには、優子さんも思い入れがあるみたいなことを言っていたでしょ?この車、廃車にするつもりだったけど、優子さん使わないかな?」
「ああ、それは訊いてみる価値があるね!」
それで長野から千里が優子に電話してみた。
「あ、欲しい。実はこちらで使っているソリオがかなり限界っぽくて、買い換えないといけないかなあ、お金がないなあと言っていた所なのよ」
「使うなら、これ車検を通してからそちらに渡そうか?」
「でもおいくらで?」
「どうせ廃車にするつもりだったから、タダでいいよ」
「マジ?」
それでこの車は廃車予定が、急遽、東京に戻ったら(千里がお金を出して)車検を通した上で登録住所も移転させて優子に渡すことにしたのである。信次の想い出が1つ消えてしまうところを取り敢えず残ることになったことが、千里1には嬉しかった。
「すっかり女の子らしくなったね」
「セーラー服可愛いよ」
とクラスメイトたちから言われて岬は真っ赤になってしまった。
「岬ちゃんって、私小学2年頃までふつうに女の子だと思っていたもん」
などと言っている子もいる。
「まだ声変わりが来ないなあと思ったら、実は本当はやはり女の子だったのね」
「ちんちん切ってもらってよかったね」
「でもちんちんに見えて実は大きなクリちゃんだったんでしょ?」
「それを短くしてもらったのね?」
一方近くでは
「平野はチンコ切られなくて良かったな」
「いや、平野はチンコ2〜3本切ってもらった方が良かった」
などと言われて、学生服を着た本人も
「全くどうなることかと思ったよ」
と言っていた。
「私、まだおっぱい小さいから恥ずかしい」
などと岬は言っていたが
「すぐに大きくなるよ」
と言ってもらっていた。
一方啓太は
「でもおっぱい大きくなるんだろう?」
と言われている。
「少しな。薬の副作用でやむを得んらしい」
「それでもチンコ切られるよりずっとマシだな」
「全くだよ」
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【春枝】(3)