【春茎】(2)

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岬はまた夢を見ていた。
 
庭に背の高いひまわりが生えていた。2mくらいある。ロシアひまわりかなと思う。お母さんが来て「花も終わったから切っちゃうよ」と言い、最初鎌で根本を切ろうとしたが切れないので、鋸(のこぎり)を持ってきて何とか切った。
 
太くて長いひまわりの茎が切り離されて倒れているのを見る。お母さんはそれを一輪車に乗せてどこかに持って行ってしまった。
 
更にお母さんはスコップを持ってきて根っこを掘り返して除去した。
 
跡には穴が残った。
 
岬はその根っこを抜いた穴をじっと見つめていた。
 

2019年2月、コスモスは鱒渕が少しオーバーワークではないかと心配し、秋乃風花と相談の上、鱒渕に助手を付けることにした。
 
「竜木梨沙(たつのきりさ)です。よろしくお願いします」
「玄子絵菜(くろこえな)です。よろしくお願いします」
 
と若い女性2人が挨拶した。2人とも20歳らしい。
 
「2人ともどこかで会っている気がする」
 
「§§ミュージックの研修生・羽藤玲香さんが参加しているバンド“イグニス”でギター弾いています」
と竜木梨沙が言う。
 
「ああ、思い出した!」
 
「私はこの夏まで大阪のイベンターで働いていたので、アクアさんのイベントに動員されてお手伝いに行ったことがあります。一昨年は私がアクアさんの乗る車の運転をしたので」
と玄子絵菜が言う。
 
「ああ、あなたも思い出した!」
 
「ふたりとも普通運転免許と自動二輪免許は持っているから、トランスポートにも使っていいから」
とコスモス。
 
「自動二輪取ってからの期間は?」
「3年です」
「4年です」
 
「だったら2人乗りOKね。普段何に乗ってる?」
 
「二輪はYZF-R25、四輪は所有していませんが、バイト先でノートとかセリナとか運転していました」
と竜木梨沙。
 
「二輪はGSR400、四輪は会社のオデッセイとかハイエースとか運転していました」
と玄子絵菜。
 
「ふたりとも大丈夫そうね!」
 
「山村さんが運転の試験をして合格と言ってたよ」
とコスモス。
 
「山村さんが見てくださったのなら安心です!」
 

そういう訳で、この2人の参加で鱒渕の負荷はぐっと減り、再度過労死の瀬戸際まで行くのは避けられたのであった!
 
鱒渕はコスモスと話し合い、竜木梨沙には夢紗蒼依絡み、玄子絵菜には松本花子絡みの仕事をさせることにし、お互いのプロジェクトのことについては絶対に相手に話してはならないと厳命した。これをやりやすくするため、松本花子に関わる玄子絵菜は§§ミュージックの社員、夢紗蒼依に関わる竜木梨沙はサマーガールズ出版の社員、と所属も分けることにした。
 
「万一漏らしたら罰金10億円だから」
とコスモス。
 
「ひぇー」
 
「実際情報漏れがあったら、10億といわず100億規模の損害が出る可能性あるから気をつけてね」
「はい!」
 
また鱒渕はコスモスと話し合い、マリが産休に入っている間に2人には中型免許と大型二輪免許を取ってもらうことにし、交替で自動車学校に行って、3月までに取得してもらった。
 

2月中旬、ドラマの撮影の合間を縫って、次のアクアのシングルの音源制作とPV撮影が行われた。今回のシングルは『鍛冶橋から呉服橋まで/白い霧の中で』というタイトルで、『鍛冶橋から呉服橋まで』はマリ&ケイの作品(実際にはGolden Sixのカノンが調整をしている)で『白い霧の中で』は加糖珈琲+琴沢幸穂の作品である。
 
PVについては、『鍛冶橋から呉服橋まで』はドラマ『ほのぼの奉行所物語II』のエンディングで使用するので、ドラマに出演する松田理史君と岡原襟花ちゃんが実際にドラマの衣装をつけて、車が行き交う現代の鍛冶橋から呉服橋までの歩道を歩いて行くシーンを撮影して使用した。
 
『白い霧の中で』は男女が全く視界の利かない濃霧の中、お互いを求めて動き回り、最後に出会うことができて抱き合ってキスするという物語仕立てになっている。その男女双方をアクアが演じた。実際の撮影ではアクアが男の子・葉月が女の子の衣装を着けて1度撮影し、続けてアクアが女の子・葉月が男の子の衣装を着けて再度撮影し、編集でつなぎ合わせている。
 
最後のシーンは実際に2人はハグしているが、キスは寸止めである。
 
「本当にキスしてもいいけど」
と監督は言ったが
「寸止めにしましょうよ」
とアクアが言って、寸止めになった。でも西湖はアクアさんと本当にキスしたらアクアさんのこと好きになっちゃうかも、などと思ってドキドキしていた。
 
しかしハグした時、アクアも西湖も
「西湖ちゃん、抱いた感じが女の子の感触」
「アクアさん、抱き合った感じが女の子の感触」
 
とお互いに思ったが、口には出さなかった。
 
しかしそれで西湖は「やはりアクアさんって性転換手術しちゃったのでは?」と思い、アクアも「西湖ちゃん、まさか早まって女の子の身体に改造しちゃったんじゃないよね?」と思った。
 

2月3日にマリがあやめを産んだ時、ケイは『天使の歌声』という曲を書いたのだが、この曲に目を付けた和泉(KARIONのリーダーでアクアのディレクター)はこの曲を入れてローズ+リリーのシングルを出そうと提案した。
 
2018年4月以来、ケイが多忙すぎたし、更にマリが妊娠したことで、今年度はまともに音源製作ができなかったのだが、このままだとローズ+リリーは活動停止していると思われるかもという意見もあり(実は海外では解散説も出ていた)、バタバタと音源製作して3月27日、ローズ+リリーの28枚目のシングルとして『天使の歌声』をリリースした。
 
収録したのは『天使の歌声』『恋愛自動販売機』『出現』『ねこ』の4曲で、全てマリ&ケイの曲であるが、歌詞はケイが書いた詩にマリ、和泉、琴沢幸穂が補作している。この4曲の中で『恋愛自動販売機』は実際には松本花子が作った楽曲だが、ファンには「高校生の頃のケイっぽい作品だ」ということでかなり好評だったようである。
 
これらの曲は全て10個以内の楽器で演奏してシンプルな音作りをしている。近年のローズ+リリーの楽曲は、ひじょうに多数の楽器を使用した重厚な演奏が特徴になっていたが、敢えて楽器の数を絞り、ハーモニーの回復を図った。
 
またこのシングル制作の勢いに乗って、4月30日にはアルバム『戯謔』も発売した。『天使の歌声』と同様に少ない楽器で演奏し、ハーモニーの美しい楽曲が多くなっている。
 
この『戯謔』は『フラワーガーデン』に始まる“オリジナル・アルバム”のシリーズではなく、あくまで番外編ということで、★★レコードの村上社長の了承を得た。この作業は鱒渕自身が村上さんに説明したのだが、村上さんは何だか鱒渕を怖がっているようだった!?
 

もっとも村上は鱒渕に「今年のローズ+リリーのオリジナル・アルバムのタイトルは『恋物語』にしよう。今度こそは絶対売れるから」などと言った。
 
困惑した鱒渕はとりあえず持ち帰ったのだが、その話を聞いた千里は言った。
 
「冬たちは自分たちが出したいタイトルでアルバム制作を進めればいい」
「でもそれだと★★レコードから出せないのでは?」
「大丈夫。そのアルバムをリリースする頃は、★★レコードの社長はもう村上さんではないから」
と千里は言った。
 

2019年3月10-11日、福島市のムーランパーク(定員1万人)でこの会場のこけら落としも兼ねて、ローズ+リリーを含む08年組と協賛アーティストによる東日本大震災復興支援イベントが行われた。
 
これに青葉も千里も演奏参加していない。その時期は2人とも仙台市内の病院で和実のそばに付いていた。
 
和実のパートナーである淳は、2018年9月11日に射水市の病院に入院し翌12日に性転換手術を受けたのだが、淳と和実はその前日の9月10日に“生”で淳が男役・和実が女役のセックスをしていた。それで9月10日が受精日だとすると、3月11日で8ヶ月目に入るので、このタイミングで帝王切開を行って赤ちゃんを取り出すことにしたのである。
 
子宮外妊娠は、99.99%の医師が「妊娠継続は不可能」と言い、中絶を勧めるのだが(むしろ有無を言わさず中絶される)、和実を診てくれた病院の先代院長さんが、偶然にも、子宮外妊娠した女性が強引に妊娠継続を主張したため注意深く見守り続け生児を得た経験があった。しかし今回はそもそも妊娠したのが女性でもないという、とんでもない事例であったが、和実と淳は公正証書の念書を病院に提出して、全ての責任は自分たちで取るし掛かった費用も全て払うと言って、妊娠継続とそのメンテを認めてもらった。病院とも話し合って、和実の身体を霊的にメンテできる青葉または千里が常時傍についているというのも“非公式”に約束していたので、その間、青葉と千里の負担も尋常ではなかった。病院側も専任の助産師を2人と看護師3人をわざわざ雇って和実を常時監視続けた。
 
実を言うとこれに掛かった莫大な費用は全て冬子が出してくれた。
 
和実は一時期妊娠状態が不安定になり、病院側も淳に「限界かも知れないから、その場合は中絶しますよ」と通告していたのだが、その後唐突に安定してしまい、これなら最後まで行くかもという空気になった。
 
そして8ヶ月まで来たので、あと2ヶ月の不安定な妊娠継続より未熟児のまま取り出して保育器で育てようということで帝王切開となった。そもそも和実の膣は人工的に作ったものなので赤ちゃんの頭が通過出来ない(はず)。それで帝王切開以外の選択が無いというのは最初から話していた。
 

出産の場に立ち会ったのは下記の人たちである。
 
淳、光里(和実の母)、青葉、千里(千里3)、桃香。
 
この内、淳と光里に桃香は廊下で待機し、青葉と千里は手術着を着て手術室内に入っていた。廊下には、和実の友人という、白鳥清羅・忌部繭子の2名も来ていた。
 
この他に希望美(2歳8月), 早月(1歳10月), 由美(0歳2月)を、和実の姉・胡桃が別室でまとめて面倒を見てくれている。子供たちを近くに置かないのは、万が一和実が死亡した場合に、その悲しい現場に置かないための配慮である。
 
医師は赤ちゃんが無事生まれてくる確率は50%くらいで、更に和実が死亡する確率も20%くらいあると言っていた。無理な状態で妊娠しているので、胎児と母体をつないでいる臍帯が外れる時、太い血管が切れてしまう可能性もあり、そうなると助けようがないと主治医は言っていた。
 
廊下で待機している間に、白鳥さんは盛んに桃香に話しかけていた。
 
「赤ちゃんも和実ちゃんも大丈夫かなあ」
「大丈夫だよ。和実は非常識だから出産くらい無事に乗り越えるし、赤ちゃんも元気に生まれてくるよ」
と桃香が断言する。
 
「男の子だと思う?女の子だと思う?」
「きっと可愛い女の子」
 
白鳥さんは更に、産まれてくる子はどんな子だろうね?どちら似だろう?将来何の仕事をするかな?などと話しかけ、桃香は勝手に色々想像して答えていた。実はこの作業が“赤ちゃんが蒸発しない”ために必要なのである。
 
この他に実は何かの場合に協力できるよう、千里2も病院内で待機していた。
 

朝10時すぎに手術は始まった。
 
普段の帝王切開の手術の雰囲気ではない。人工心肺まで用意し、輸血用の血液も準備している。
 
医師は執刀医(大学病院の産科医)、助手の医師(この病院の院長)、立会人を兼ねた先代院長、そして大学病院から来た麻酔科医と外科医までスタンバイしている。更に助産師もベテランの人2名を含む4人、看護師4人という万全の体制である。
 
何か起きた時に対処しやすいよう、硬膜外麻酔を選択した。全身麻酔にする案もあったのだが、全身麻酔にすると胎児にも影響が出る。医師団は和実か赤ちゃんかどちらか選ばざるを得ない場合は赤ちゃんを優先して助けて欲しいという和実の願いに応えるため、胎児に影響が出にくい硬膜外麻酔にしたのである。
 
麻酔科医が麻酔薬を投入し、麻酔が効いたことを確認して手術を開始する。お腹の皮膚を横に10cmほど切開。腹膜は縦に切開する。
 
その腹膜の下に医師はあり得ないものを見た。
 
子宮があるのである!?
 
執刀医は思わず確認した。
 
「あなた、月山和実さんですよね?」
「はい」
「生年月日は?」
「1991年11月16日です」
 
千里が
「合っています。そしてこの人は月山和実本人に間違いありません」
と言う。
 
医師たちがお互い顔を見合わせるが、先代院長は言った。
「通常通り帝王切開をしよう」
「そうですね」
と執刀医は答えて作業を続けた。
 

子宮を横に切開する。
 
そして執刀医は胎児を取り出した。
 
胎児が明確に生きているし、ざっと見た感じでは奇形なども見られないので、手術室内にホッとした空気が流れる。
 
「女の子だね」
と臨席している先代院長が言った。
 
助手を務める院長が赤ちゃんの口に指を入れて中の羊水を吐き出させる。
 
途端に赤ちゃんは「おぎゃーおぎゃー」と泣き出した。
 
また手術室内の空気が良くなる。手術室の外でも
 
「やった!産声だ!」
という桃香の大きな声が聞こえた。
 
和実に抱かせる。和実は感激して泣いている。1人の助産師が記念写真を撮る。
 
別の助産師が赤ちゃんの足にタグを付ける。
 
へその緒を結索して切断する。
 
和実には麻酔科医がすぐに薬を投入して眠らせた。執刀医が子宮内の物質を取り除き、きれいにしてから切った部分を縫合する。
 
この時また不思議なことが起きた。子宮を縫合した後、続けて腹膜を縫合しようとした時、子宮が消えてしまったのである。
 
腹膜を縫合しようとしていた執刀医がギョッとして声をあげるが、先代院長は動じず
 
「平常に縫合しよう」
と声を掛けた。
 
「ええ。そうしましょう」
と言って、執刀医は普通に腹膜と皮膚を縫合した。
 
一方、助手を務める院長の方は布の上に赤ちゃんを置き、助産師たちと一緒に赤ちゃんの身体に異常が無いか目視でチェックしていたが問題無いようである。
 
赤ちゃんはすぐに手術室内に用意されていた保育器に移され、NICU(新生児特定集中治療室)に移された。その移動途中で淳や光里も赤ちゃんを見ることができた。
 

「子宮が出現して消滅した件はどのように報告書に書きましょうか?」
と院長は執刀医(大学病院の産科医)に尋ねた。
 
執刀医は先代院長と目で会話する。
 
「何も見なかった。僕たちは腹膜の間で奇跡的に生きていた胎児を取り出した」
と執刀医は答えた。
 
「それがいいですね」
「うん。あまり変なこと書いたら頭おかしいと思われるよ」
と先代院長は言った。
 
「でも僕はこの出産を一生忘れないよ」
と執刀医は感慨深く言った。
 
「私もです」
と院長も言った。
 
なお赤ちゃんの出生時刻は3月11日10:31と記録された。産声をあげた瞬間、先代院長が時計を見て確認しておいたものである。
 

「子宮が出現したのは、ちー姉の力かな?」
と青葉は言った。
 
以前何度か類似の事例があったよなあと思い起こす。
 
「そもそも赤ちゃんはちゃんと子宮の中にいたのさ。でなきゃ妊娠が維持できる訳がないんだよ。和実は霊的な半陰陽だからね。ちゃんと霊的には子宮も卵巣もあった。普段の検査で見えなかったのはそれが曖昧な存在だったからだけど、あそこには桃香がいたからね」
と千里は答える。
 
「桃姉とちー姉のコンボが思いも寄らない効果を生み出すみたい」
「まあ桃香はちょっと面白いね。実は私より青葉より遙かに凄い霊能者だったりして」
 
「それはさすがに無いと思うけどなー」
「ちなみに桃香のポケットには例のグリーンアメジストの数珠を入れておいた」
 
「あれは増幅装置だからね」
 
実は青葉もローズクォーツの数珠、千里も藤雲石の数珠をポケットに入れていた。この3つはインドの大賢人から千里がもらったものであるが、そのことは千里以外は知らない。青葉が知っているのはこの3つがセットであるということだけである。
 
「ちなみに青葉にも霊的には子宮と卵巣があるよ」
と千里3は言ったが、青葉は聞かなかったことにした。
 

2019年3月16日、高野山の★★院で、瞬嶽の七回忌の法要を行った。
 
もちろん青葉も千里も出席したのだが、青葉はもう6年も経ってしまったのかと、涙を浮かべて師匠の遺影を見ていた。
 
菊枝は高知からここまで出てくるのが体力的に厳しいということで欠席である。菊枝は近場なら妹さんの運転する福祉車両に乗って出歩いているようだが、やはり移動だけでかなりの体力を消耗するようである。
 
今回の法要では、長谷川一門の主座である瞬嶺さんも欠席した。瞬嶺さんは今年で102歳になる高齢だが、昨年あたりから足腰が立たなくなり、最近は寝ていることが多く、布団から出て歩く時の方が少ない状態らしい。瞬嶽亡き後毎年夏に行っていた回峰行にも、瞬嶺は3年前から参加していない。回峰では若い僧数人に日替りで先頭を務めさせている。
 
それで誰が導師をするかで少し揉めた。
 
「当然瞬高さんでしょ?」
と瞬醒は言ったが
「俺は瞬法が適任だと思う」
と瞬高は言う。
「俺は師匠から遺物ももらってないから対象外だよ。瞬醒がずっと師匠の傍に仕えていたのだから瞬醒がやるべき」
と瞬法は言った。
 

瞬嶽が亡くなった時、遺物は瞬嶽師匠自身により下記のように継承された。
 
袈裟は瞬花に、鉢は瞬葉に、鈴は瞬嶺に、書籍は瞬高に、庵と寝具は瞬醒に、毛筆と硯は瞬海に。そして瞬法は何ももらっていない。
 
(なお瞬醒と瞬嶺はもらったものを交換した)
 
実は葬儀の席でこの分配が問題になり、一部には会議で誰が何を受け継ぐかきちんと決めるべきだという意見もあった。
 
しかし瞬法が言ったのである。
「師匠が自分で各々のものを受け継がせたんだ。それでいいじゃないか」
 
何ももらっていない瞬法が言ったから、その言葉には重みがあった。それで遺物は師匠が直接指名した各々がそのまま受け継ぐことで全員が了承したのである。青葉は瞬法さんにこれを言わせるため、敢えて彼には何も残さなかったのではないかと思った。
 
しかし実際問題として、瞬嶺さんが動けない状態の中で、代わって導師を務められるのは、お互いに譲り合っている、瞬高・瞬醒・瞬法の3人の誰かしかありえない気がした。
 
「ここは師匠の鉢を受け継いだ瞬葉ちゃんに決めてもらおう」
 
うっそー!?
 
「私は若輩者です。選者は瞬海さんに」
と青葉は辞退した。
 
瞬海さんは師匠の毛筆と硯を受け継いではいるが、それは多分本来は瞬法さんが受け継ぐべきものだったのではないかと、ずっと言っていた。誰が見ても、この3人からは1歩下る。
 
青葉から言われて瞬海さんも「やはり自分が決めなきゃいけないか」といった顔をした。師匠がわざと瞬海に遺物を渡したのは、こういう役目をさせるためだったのだろう。
 
「瞬高さん、お願いできませんか?」
と瞬海は言った。
 
「じゃそれで」
と瞬法も瞬醒も言ったので、瞬高は渋い顔をしながらも導師を引き受けた。
 
ここで導師をするということは、瞬嶺さんに何かあった場合は、長谷川一門の主座を継承することにもなるだろう。少なくとも多くの出席者はそう取るはずである。
 

それで瞬高さんが導師の席に就き、その左右に瞬法・瞬醒、その脇に瞬海・瞬常、その脇に瞬大と瞬行が並び、7人体制で読経が行われたし、それ以外の“瞬”の字をもらっている弟子が一般席の最前列に陣取って法要は進められた。
 
例によって“瞬”の字を持つ弟子の中で唯一、瞬里(千里)だけは席に座らず、法要の裏方の人たちに指示して出席者の案内、高齢の人が多いだけにその補助(時にはトイレに行く手助け)、また飲み物を配ったりする作業をしていた。
 
法要には**宗の貫首で福井県∽∽寺の導覚、**宗の2大派閥の門主、京都の**と**(この2人が並ぶこと自体が極めて珍しい)、**宗の法主、山梨の**寺の**、更には神道からも**大社の**宮司、**大社の**宮司などが出席していた。霊能者でも、竹田宗聖、火喜多高胤、中村晃湖などの有名所が出席している。
 
丸山アイも来ていたが、読経の間は外に居たようで、焼香になってから入って来て、すっと出て行った。アイは小学2-3年生くらいの女の子を2人連れていて、アイが焼香する間はどうもアイのマネージャー・楠本京華が見ていたようである。青葉がアイに尋ねたら「ボクの子供」と言っていたが、さすがにアイの子供にしては年齢が高すぎる気もした。だいたいアイに妊娠能力があるのかも青葉は疑問に感じた。むしろ妊娠させる能力があったりして??
 

その日、茜が教室でこんなことを言い出した。
 
「ね、ね、男を女にする手術って、どうやるか知ってる?」
 
岬は少し離れた席に座っていたのだが、顔をそちらに向けないまま耳だけそちらに集中する。
 
「ちんこ切っておっぱい大きくするんじゃないの?シリコンかなんか入れて?」
と啓太が言っている。
 
「それだけじゃセックスできるようにならないじゃん」
「セックスって?」
「あんたまさかセックス知らないの?」
 
「茜、あとでゆっくり平野君に教えてやったら?」
と香美が言う。
 
「それは身の危険を感じるな。まあいいや。最初に睾丸を取り出すのよ」
 
「お前よく睾丸とか発音するな」
 
「睾丸は睾丸じゃん。鶏の睾丸とか美味しいのに。でさ、女になりたい男の人の睾丸を取り出して1ヶ月間、特殊なホルモン溶液に漬けておくと、これが卵巣に変わるんだって」
 
「本当に〜〜?」
 
「なんか嘘くさい」
「それ漫画か何かの話では?」
 
とみんな信じていないようだ。
 
「睾丸も卵巣も元は同じ生殖鈍器というもので、それが男性ホルモンが作用すると内側が発達して睾丸になって、女性ホルモンが作用すると外側が発達して卵巣になるらしい」
 
「生殖どんき?」
「それ絶対言葉が違う気がする」
「いや、なんかそんな感じの名前だったのよ」
と茜の言葉はどんどんあやふやになる。
 
(多分生殖隆起あるいは生殖腺原基の誤り。その髄質が発達すると睾丸になり、皮質が発達すると卵巣になる)
 
「でもだから睾丸を特殊な女性ホルモン液に漬けておけば、睾丸組織の内側が退化して、外側の卵巣になるはずだった部分が発達して卵巣に変化するらしい」
 
「胎児の発生段階ではそういうことが起きたかも知れないけど、生まれた後の男の睾丸を今更女性ホルモンに浸してもそんな変化が起きるとは思えん」
 
と常識的な指摘がある。
 
「でもそうやって卵巣が作れるらしいよ。それで作った卵巣を体内に埋め込む」
「ふむふむ」
 
「睾丸を取っちゃったから、陰嚢が余っているでしょ。それをちょっと加工して子宮にする」
 
「陰嚢が子宮になるの〜〜!?」
「だって陰嚢ってけっこう伸び縮みするらしいよ。子宮は赤ちゃんの成長にあわせて伸びないといけないから、ちょうどいい素材らしい」
 
「陰嚢が赤ちゃんのサイズまで伸びるとは思えん。途中ではじけちゃうよ」
「たぶん薄く延ばすんじゃないかな」
「薄くしたらますます破れそうだ」
 
「それで卵巣と子宮ができて、陰茎は邪魔だから切り落とす」
 
「なんかあっさり言うなあ」
 
「だって女の子に陰茎は付いてないし」
「そりゃそうだけど」
「もし陰茎を切り落とさなかったら、女になった後、女湯に入って悲鳴あげられる」
「それは確かに問題だ」
 
「でもただ切り落とすだけじゃないんだよ。その陰茎の中身は捨てて外側だけ利用して、これを膣にするらしい」
 
「ほぉ」
 
「それは行ける気がする」
「陰茎で膣を作るから、ちょうど陰茎を入れられるサイズの膣ができる」
 
「お前生々しいことをさらっと言うな」
と久彦が顔をしかめて言う。
 
「それで最後、陰茎を切り落とす時に根本を少し残しておいてこれが陰核になる」
「あ、それも使えそう」
 
「陰核からおしっこが出るからちょうどいいでしょ?」
「待て、普通の女は陰核からおしっこは出ないと思うが」
 
「え?そうだっけ?おしっこが出る所が陰核じゃないの?」
と茜が真顔で言うので、香美が額に手を当てて呆れている。
 
「お前、実は女じゃないんじゃないの?だからクリトリスからおしっこが出るなんて間違った知識持ってるんじゃないの?」
と啓太が言った。
 
「あれ〜〜〜?」
「お前が女かどうか確かめてやろうか?」
と啓太が言うと、茜はいきなり啓太のあそこを蹴り上げた。
 
啓太はその場に倒れてあそこを押さえ、1分近くうごめいていたが、やがて
 
「何すんだよぉ!?」
と言った。
 
「いや、今のは蹴られて当然」
「今のは平野が悪い」
 
と男子も女子もみんな啓太に非があると言った。
 
岬はドキドキしながら、今茜が説明(?)した「男を女に変える方法」の内容を脳内で反芻していた。
 

2019年3月22日(金).
 
西湖の学校でも龍虎の学校でも終業式が行われた。そして2人はその日の午後同じ自動車学校の合宿コースに入学した。2人ともまだ18歳未満なので普通免許は取れないのだが、ドラマで使うこともあるだろうしということで、自動二輪の免許を取り敢えず取っておくことになったのである。
 
2人とも入学の時性別問題で揉めたのだが、男子制服を着ていった龍虎(アクア)は生徒手帳にも男子と書いてあるので無事戸籍通り男子として入学することができた。一方(女子高の生徒なので)女子制服を着ていった西湖(今井葉月)は生徒手帳にも女子と書いてあるので無事パスポート通り女子として入学できた!
 
宿舎は龍虎は男子なので低層階、西湖は女子なので高層階に部屋が割り当てられた。なお龍虎は1人部屋だったが(特別料金を払って山村が交渉していた)、西湖は普通に相部屋だった。ルームメイトになったのは女子大生だったが、西湖は女性と同室であることに何も疑問を感じず、普通にその部屋で寝泊まりしていた。
 

2019年3月23日(土).
 
千里の父・武矢が放送大学大学院を卒業し、この日卒業式を迎えた。
 
武矢は千里が中学3年生だった2005年秋に乗船していた漁船が船団ごと廃止になり失業したが、新たな仕事を得ることができなかった。武矢は漁船関係以外の資格など全く持っておらず、運転免許は一応持っていてもペーパードライバーで実際には全く運転できない。また船以外のことは全く知識がない上に人とコミュニケーションを取る能力も弱いため、いくつか面接を受けたところでも全部落とされた。船の上では若い船員を叱り飛ばしていればよかったが、人の下で働くのは苦手であった。
 
武矢は結局失業から1年経った2006年10月、NHK学園に入学した。最低でも高卒の資格くらいは取っておかなければ、仕事がないと考え、一念発起したのである。
 
45歳にもなって高校の勉強をするというのは、なかなか大変だったようであるが、武矢は頑張り、2009年9月、最短の3年間でNHK学園を卒業することができた。
 
(定時制は卒業するのに最低4年かかるが通信制の最低年数はその学校による。NHK学園は3年で卒業可能である)
 
仕事の方は、長年の漁船勤務の体験を活かして、2008年春から高校の講師として週に数回船員の心得を語る講座を持つとともに、老齢の知人がやっていたホタテの養殖の仕事を継承して沿岸の養殖場を船で見て回ったりするようになった。沿岸とはいえ、船に乗ること自体、父は楽しそうであった。
 
しかし高卒の資格を取った武矢はもっと欲が出てきて大卒の資格まで取ろうと放送大学に入学する。NHK学園は通常放送で受講できるが放送大学はBS放送なので受信設備の投資が必要だったが、千里が用意してあげた。それで武矢は頑張り、人より多い5年半掛けて大学の課程を修了。2015年3月に卒業した。そして武矢は更に欲が出て放送大学の修士課程に進学したのである。そして人の倍の4年掛けてこれを修了。修士の学位まで取得した。
 
この12年半(高校3年・大学5年半・修士4年)の学費、スクーリング費用などは全て千里が出してあげていたのだが、そのことは内緒である。あくまで母のお給料から払っていることにしていた(高校講師の謝礼は月3万程度で、ホタテ養殖は費用とトントン程度である)。
 
しかしともかくも3月23日に卒業式があるので、北海道から津気子・玲羅と一緒に東京に出てきた。
 
留萠 3/22 9:31 - 10:27深川10:49-11:55札幌12:16-15:49新函館北斗16:20-20:32東京
 
飛行機のほうが楽だと思うのだが、どうも父も母も飛行機が苦手のようなので新幹線を使用した。昼頃出て23時に到着する連絡もあるのだが、遅い時間の到着になると、晩飯が食えないと騒ぎ出すのが目に見えているので朝から出る連絡にした。夕飯を食べるレストランも予約をしておいた。父は子供のように手の掛かる人である。
 

当日のスケジュールは11時から卒業式(渋谷のNHKホール)、13:45から卒業記念パーティー(新宿のハイアットリージェンシー)で、その間に御飯を食べさせなければいけないという関門が待っている。これも千里は半年前からハイアット内のレストランに予約を入れて確保しておいた。
 
千里自身は父から勘当されているので行くつもりは無かったのだが、一週間前に母から電話があった。
 
「千里さ、父ちゃんが大学卒業した時は、会場スタッフみたいな顔して青いバラを渡してくれたでしょ? 今度もそういう作戦でお父ちゃんを祝ってくれない?」
 
「まあいいけどね。青いバラでも用意する?」
「あれ玲羅から値段聞いてびっくりした。そんな高い花は父ちゃんにはもったいないから、かすみ草か何かでいいよ」
 
と母は言っていたが、さすがにかすみ草はないだろうと考え、千里は胡蝶蘭を贈ろうと思って花屋さんに予約を入れておいた。
 

千里1は朝から青系統の訪問着を着ると、予約していた花屋さんに行き、胡蝶蘭の花束を受け取る。そして新宿に向かった。
 
武矢と付き添いの津気子・玲羅は千里が取ってくれていた渋谷のビジネスホテル(あまり上等なホテルを取るとベッドが柔らかすぎると文句を言う)をチェックアウトすると、タクシーで会場に向かった。迷子になったらいけないから時間の余裕を持って出てタクシー使いなよと千里が言って、タクシーチケットも送って来てくれていた。
 
タクシーを降りてホールに向かう。入口の近くで白系統の振袖を着た女性が寄ってきて、武矢に
「卒業おめでとうございます」
と言って、赤いスイートピーの花束を差し出した。
 
「ありがとう」
と言って武矢は無表情に受け取ったが、玲羅は驚いている。父は気付いていないようである。白い振袖を着た千里3は玲羅にウィンクして去って行ったが、母も気付かなかったようである。玲羅はてっきり新宿の方で渡すのかと思っていたので驚いた。
 
やがて卒業式が終わり、学位記を丸い筒に入れて武矢が出てくる。NHKホールから新宿へはシャトルバスが用意されているので、玲羅と津気子も一緒にバスに乗って新宿のハイアットに移動した。
 
バスを降りてすぐの所に赤い振袖を着た女性がいて、武矢の傍に寄ると
 
「卒業おめでとうございます」
と言って青いバラの一輪花束を渡すと、すぐにどこかに行ってしまった。
 
「何かまた花もらっちゃった。津気子、持っといてくれ」
と言って、無造作に渡す。
 
「あ、うん」
 
今度は津気子も千里であったことを認識していた。
「あの子、さりげなく渡すのうまいね」
と津気子は言っていたが、玲羅は腕を組んでいた。
 

3人で一緒にパーティー会場に入る。大学卒業の時のパーティー(あの時は赤坂のホテルニューオータニ)でもそうだったが、人が多いので3人バラバラになってしまう。
 
「お父ちゃん」
という声に武矢は振り向いた。
 
「あっ・・・」
と武矢は声をあげる。
 
「お父ちゃん、まだ怒っているんだろうけど、お父ちゃんNHK学園から放送大学まで12年半も頑張ったんだもん。凄いと思うよ。卒業おめでとう」
 
と言って千里1は武矢に胡蝶蘭の花束を渡した。
 
武矢は黙って花束を受け取った。そして小さく
「ありがとう」
と言った。
 
そして武矢は言った。
「近い内に・・・また話したい」
 
「うん」
と千里1は返事をした。
 
「またな」
と言って武矢は千里1に手を振って花束を持ち、向こうに歩いて行った。
 
その様子を千里2と千里3と千里iは少し離れた場所から頷きながら見ていた。
 

2019年3月29日午前中。作曲家協会の会長は定例の記者会見の中で特に上島雷太のことに振れ、謹慎を解除することを発表した。午後には沖縄で上島も記者会見をして、あらためて不祥事の件を謝罪するとともに、活動再開に向けての決意を語った。
 

3月29日の夜。龍虎と西湖は自動車学校の自動二輪の教習を全て終え、あとは卒業試験を残すだけとなった。
 
3月30日、ふたりは北里ナナの新曲『招き猫の歌/白雪姫』のPV撮影を行った。
 
『招き猫の歌』では、黒猫役のアクアと白猫役の葉月でボサノバのリズムに乗って踊るのだが、動きが激しいので、いつものように役割を入れ替えて2度撮影し、つなぎ合わせるというのが不可能である。それで葉月の映像がそのまま白猫役で公開するPVに残ることになった。葉月の姿がPVに残るのは昨年秋のミニアルバムで『1人のアクア』のピアノ伴奏を葉月がした時以来である。
 
あのPVでは葉月は白いドレスを着てピアノを演奏していたのだが、今回は猫耳も着けて白猫役となった。しかしこの白猫の衣装は身体の線がきれいに出る。むろんバストの所は膨らんでいるし、お股の所はスッキリしたラインである。
 
しかしアクアのお股もスッキリラインなのを見て、立ち会っていた川崎ゆりこは「すみません。2人にショートパンツを穿かせませんか?」と言った。アクアのお股の形がまるで女の子のように見えるのはNGらしい。
 
でも男の子のように見えるのもNGらしい!?
 
(もっとも葉月はアクアのお股が膨らんでいる所なんて1度も見たことがない)
 
それでアクアは虎柄、葉月は豹柄のホットパンツを穿いた。
 
でも本当にアクアさんのお股は女の子の形なのでは?と葉月は疑惑を感じた。
 
c/w曲『白雪姫』では、白雪姫と王子様をアクアが両方演じるという趣向である。これは普段と同じように、葉月をボディダブルにして2度撮影してつなぎ合わせている。
 
なお普段は衣装は2セット用意するのだが、今回は白雪姫のドレスが超豪華で予算の潤沢なアクアの制作であるにも関わらず1着しか用意できなかった。しかしアクアも葉月も「ボクたち仲良しだから同じ衣装を着るのは全然問題無いです」と言い、衣装を共用した。この衣装は着るのにも振袖並みの時間がかかり、葉月は着付けしてもらっていて、お姫様って大変そう!と思った。
 
だいたいこの衣装、ひとりでトイレに行けないじゃん!!
 

武矢の卒業式の一週間後、3月30日(土).
 
千里1は康子と一緒に、信次の遺品ムラーノに乗って関越を北上していた。後部座席、運転席の後ろにベビーシートをセットして由美を乗せ、その隣、助手席の後ろに康子が乗る。
 
「だけど千里ちゃん、ほんとに運転がうまいね」
「国際C級ライセンスも持っていますから。条件付きですけど」
「何かそれ凄くない?」
「富士スピードウェイとか、鈴鹿サーキットも走りましたよ」
「すごーい!」
 
千里は分裂する前に国際C級ライセンス(レース除外)を取得している。その後、千里2が更に規定回数のレースに出場して除外無しの国際C級ライセンスを取得したが、そのことを千里1は知らない。
 
康子や由美を乗せているので、千里1は2時間程度ごとに休憩を取りながら運転し、夕方頃、高岡市の優子の実家に到着した。
 
康子は今まで一度もこちらに来ていなかった非礼を優子の両親に謝った。しかし優子は
 
「それは仕方ないですよ。奏音のことを誰にも言っていなかったらしいし、太一さんに確認してもらったら信次さんったら、奏音を認知した後、転籍して認知したことが普通に戸籍を見ただけでは分からないようにしていたみたいで」
と言った。
 
「じゃそちらの赤ちゃんは奏音の妹になる訳ですか?」
と優子のお父さんが尋ねる。
 
「そうなんですよ。信次が遺したこの世でたった2人の姉妹だから、もしそちら様がよければ定期的に会わせて、仲良くしていきたいですね」
と康子は言った。
 
あの後、信次が優子と別れた後、千里と結婚していたことは話したのだが、詳しい状況を聞いて、優子のご両親はそのことを受け入れてくれた。ただ、話が面倒なので、由美を代理母さんに産んでもらったこと、千里が元男性であることは話していない。千里が由美を産んだことにしておくことにした。
 

今回は信次の位牌をお寺さんに頼んでもう1つ作ったので、それを康子が持参したのが、実は主目的であった。優子に渡すと優子はそれを抱きしめてから府中家の仏檀に置いた。それで仏檀の前で合掌した。
 
「千里ちゃん、般若心経を唱えてよ」
と康子が言う。
 
「私の般若心経は色々問題があるのですが」
 
「何か変なんですか?」
と優子の父が訊く。
 
「府中さんちのご先祖様がびっくりして踊り出さないか心配です」
と千里。
「ああ、踊り出したら季節外れの盆踊りということでいいですよ」
 
とお父さんが言うので千里は
 
「では失礼します」
と言って、藤雲石の数珠を取り出すと“祝詞風”般若心経を暗誦した。
 
優子はこれを以前聞いていたので笑いをこらえていたが、優子の両親はポカーンとしていた。しかし暗誦が終わると
 
「いや、いい供養になったと思います」
とお父さんは言った。
 
「もしかして神職の資格を持っておられるとかは?」
とお母さん。
 
「中学から大学院まで12年間巫女をしていたもので」
と千里が答えると
 
「なるほどですねぇ」
と両親とも感心(?)していた。
 
「一応神職の講習は受けたので、本当にどこかの宮司に就任することになったら免許を発行して頂けるらしいんですけどね。そういう旨の認定証は頂きました」
 
「それは神職の免状ではないんですか?」
「私もよく分かりません。でも女性用神職の衣装を着て、他の神社の神事のお手伝いしたことはありますよ」
 
「それは凄い」
「だから私、今所属しているF神社の副巫女長兼禰宜(ねぎ)らしいです。実態はお祭りの時だけの臨時巫女なのに」
と言って千里が名刺を出すと
 
「こんな肩書き初めて見た!」
と言って、お母さんは楽しそうにしていた。
 

和食の店を予約しているということで一緒に出かけることにする。
 
この時、ムラーノの後部座席にベビーシートとチャイルドシートをセットして運転席に千里、助手席に優子が乗った。ソリオの方に優子のご両親と康子が乗った。姉妹のお母さん同士でという配慮である。
 
ムラーノの助手席で優子が
「懐かしい!」
と言った。
 
「あ、この車でデートした?」
と千里が訊く。
 
「というより、私の足代わりになってくれたのよ。当時うちの父ちゃんが保証かぶりしてお金が無かったから、私買ったばかりの車を即売っちゃったんだよね。でも車が無いと、買物とかも困るんだよ。うっかり車が無いこと忘れてスーパーで大きな荷物抱えて困っていたら、信次が『送っていくよ』と言ってくれて、それが馴れそめだった」
 
「それ純粋な善意だろうね」
と千里は言った。
 
「だと思う。信次にとって女性は同性に近い感覚だから、私が困っているのを見て純粋に助けてくれたんだと思う」
と優子も言った。
 
「お父さんの保証かぶりと同時期に勤めていた会社が倒産したって言ってたね」
 
「そうなのよ。あれは参った。結局退職金も最後の給料ももらえなかったんだよ。会社の資産が全くなくて管財人さんにもどうにもならなかったらしい。社長個人も銀行・サラ金とかから借りれるだけ借りまくっていたらしいし」
 
「社長さん頑張っていたのかもしれないけど、もう少し早く投げ出していれば多少とも補償ができたんだろうけどね」
 
「それって難しいね」
 

3月31日、§§プロダクションはこの日をもって閉鎖され、§§プロダクション所属のタレントさんの多くは∞∞プロ内に新設される《§§プロダクション》という名前の“部門”に移籍された。
 
但し§§プロ所属の研修生・練習生は全員§§ミュージックに移籍になる。
 
当日は§§プロ・§§ミュージックのほぼ全てのタレントさんが集まり、§§プロの紅川社長・日野ソナタ副社長・新宿信濃子取締役が挨拶。また§§ミュージックのケイ副会長(オーナー)、秋風コスモス社長、川崎ゆりこ副社長もそれぞれスピーチをした。アクア・高崎ひろか・品川ありさの古株(になってしまった)3人も各々短いスピーチをした。
 

2019年4月.
 
青葉は大学4年生になった。
 
3月下旬に再度石崎部長や社長とも面談して来年春から〒〒テレビのアナウンサーに採用してもらえることが内々定したのでもう就活は必要ない。今年は卒論を書きながら、水泳選手・作曲家・金沢ドイル!、そして松本花子の運用をしていく生活になりそうである。現在ふつうの霊能者としての仕事は、あまりにも多忙すぎるので、ほぼ全てお断りしている現状である。
 
この4月、龍虎(アクア)は高校3年生、西湖(今井葉月)は高校2年生になった。
 
龍虎としては高校生最後の年で、あと1年でとうとう上島さんが設定してくれた「学業絶対優先」の契約条項が切れてしまう。来年からのことを考えると恐ろしい感じだが、まあひとつひとつの仕事をこなしていくしかない。
 
西湖は取り敢えず1年間女子高生としての生活を送って、すっかり自分が女として適応していることに我ながら驚いていた。少なくとも1年前の自分は自分のことを男の子だと思っていたので、女子高生を演じるなんてできだろうかと不安があったが、破綻せずにうまくやっている。途中で本当に女の子の身体になっちゃったし!?
 
千里さんからは「1年経ったら男の子の身体に戻せる」と言われている。しかし今年の9月になった時、自分が男に戻りたいと思うか、それとも女のままでいいと思うか、自分でも分からない気がしている。
 

4月1日(月)、龍虎と西湖は自動車学校の卒業試験に合格した。そのあと実際に運転免許試験場に行くのは仕事の都合でずれて、龍虎は4月2日、西湖は4月3日に緑の帯の自動二輪免許を取得した。
 
ふたりは免許は取ったものの、普段は免許証を事務所で預かり、必要な時だけ渡すことになった。ただ練習していないと、いざという時に運転できないので定期的に先生について練習することになり、早速4月4日から練習を開始した。先生は結城さんというプロのライダーで、何でも醍醐春海先生の古い知人でもあるらしい。
 

2019年4月2日(火).
 
金沢市内のG大学で入学式が行われた。式は大学構内ではなく、市内中心部にある金沢森林ホールで行われた。
 
明恵は大学生だから親の同伴は不要と言っておいた。
 
昨日から住み始めたS町のマンションで朝8時に起きると、朝御飯を作ってのんびりと食べる。しばらくネットを見ていた。10時すぎにお着替えして身支度を調え、マンションを出る。G高校前まで行ってローソンでお昼ごはん用にサンドイッチとおーいお茶のペットボトルを買った。
 
バスに乗って町に出て出羽町で降りる。雨が降っているので傘を差す。昨日フォーラスで買った可愛い花柄の傘が早速役に立った。人の流れに付いていく。公園を横断した所に警備員さんが立っている。そこから表側に回る人と、ホールの通用口のような所を行く人があったが、警備員さんが
 
「これどちらからも行けますよ」
と言ったので、明恵はお礼を言ってから、通用口のような所を歩いて行った。
 
そのままホールの玄関に到達する。中に入って自分の学科の所に行き「おはようございます。新入生です」と言って、学校から来ていた書類を見せた。
 
「入学おめでとうございます」
と言われて書類の入った袋をもらった。赤い薔薇を胸につけてもらった。
 
明恵は自分の服装で何か言われるかな?と少し不安だったのだが、何も言われなかったので、この格好をしてきたことに少しだけ自信が付いた。
 
受付は11時半から始まっていたのだが、実際の入学式は13:00からである。
 
自販機が並んでいるロビーに椅子が空いていたので、明恵はペットボトルのロイヤルミルクティーを買い、椅子に座った。この会場の近くには御飯を食べられるような場所がないのを知っていたので、御飯を用意していた。サンドイッチを食べながらもらった書類を見る。
 
学生証が入っている。
 
そこに転写された顔写真を見て、明恵は微笑んだ。
 
入学手続きの書類を郵送する時、母が振込票の控えを書類に貼り付けた時までは“別の写真”が封筒には入っていたのだが、封をする直前、この写真にすりかえておいたのである。
 

御飯を食べてしまっても、まだ始まるまでには1時間ほどある。
 
取り敢えずトイレに行っておこうと思ったが、ホールエントランスそばのトイレは長蛇の列が出来ている。他にトイレ無いんだっけ?と思い、県の公共展示?みたいなものがある所に入っていく。廊下があるので進んでいったら、結婚式場のようなものがあり、結婚式の出席者らしき人たちがたくさんたむろしている。
 
ありゃー、こんな所まで来て良かったんだろうか?と思ったが、トイレが空いていたので普通に“女子トイレ”に入って、用を済ませた。
 

トイレを出て元の場所に戻ろうとした時、明恵はその子に気付いた。
 
その子はこちらを見ていたのだが、明恵と目が合いそうになったのを慌てて視線をそらした。
 
中学生くらいだろうか?
 
身長は165cmくらいか。黒いトレーナーに青いジーンズのパンツを穿いている。靴は白いスニーカーだが学校指定の靴かな?と思った。結婚式の関係者では無さそうだ。県の施設に用事があって来ていたのだろうか。
 
いったん通り過ぎてから振り返って見ると、何だかもじもじして、女子トイレの入口付近を何度も見ている。明恵はその子に近づいて行って声を掛けた。
 
「私が付いていってあげるからさ、こっち入ろうよ」
 
彼女は最初驚いたような顔をし、一瞬逃げようとした気もした。しかし口の所に手を当てて恥ずかしそうな顔をしてから、コクリと頷いた。
 
明恵はその子の手を握ってあげた。「わぁ、女の子みたいな手」と思った。そのまま連行するかのようにして、再度女子トイレに入った。その子は迷いもせずに1番手前の個室のドアを開け中に入る。その様子を見ていて、この子、女子トイレには過去に何度か入っているな、と確信した。でも多分まだ初心者だ。
 
明恵はしばらく待ちながら鏡を見て少しメイクを直す。彼女が出てくるので手を洗うのを待って、一緒に外に出た。
 
「君さ、普通に見たら女の子にしか見えないから、たぶん男子トイレ使うと『君こちらは男トイレだよ』と注意されるよ」
と明恵は彼女に小声で言った。
 
「実はいつもそれ言われるんです」
と話す声は男の子の声ではあるのだが、低い倍音があまり出ないような息の使い方をしているし、抑揚の付け方は女の子っぽい。この子を女の子だと思い込んでいたら、きっと会話していても性別に気付かない。
 
「勇気を出して女子トイレ使いなよ。誰も咎(とが)めないよ」
「そうしようかな」
「頑張ってね」
「はい」
と言って彼女は恥ずかしそうに頷いた。
 
その顔を見て、この子は5年くらい前の自分みたいだと思った。
 

12:30くらいからホール内に案内される。新入生の座席は全て指定されているので、明恵はもらった座席番号カードに印刷されている席に行って座った。
 
少し待つと左側の席に少し派手目な格好をした女子が来る。軽く会釈すると向こうも会釈した。それに続いて右側の席に、セーターとまるで高校の制服かと思うようなチェックのプリーツスカートを穿いた女子が来た。そちらも会釈すると会釈を返してくれた。その2人の向こう側はどちらも男子だった。
 
「どちら出身?」
と派手な格好の女子が訊く。
 
「市内なんですけど、距離があるので大学の近くにアパート借りたんですよ」
「へー。寮には入らないの?」
「それダメだったみたい。定員がいっぱいですという手紙が来て」
と明恵は答えた。
 
実はG大学の1〜2年生の女子は原則として寮に入らなければならないのである。でも当然明恵には女子寮の案内など来ていない。それで定員からあふれたことにしておこうと思ったのである。するとその派手目女子は
 
「あんたも?実は私はもあぶれちゃって、先週慌ててアパート探したんだよ」
などと言っている。
 
「今年は女子の入学者が多かったのかな?」
「そうかもね。そちらの彼女は寮に入れた?」
「あ、いえ、私も定員オーバーと言われて入れなかったので、取り敢えず自宅から頑張って通学することにしました」
とセーターにチェックのスカートの女子が言う。
 
「どこから通学するの?」
「かほく市なんですけど」
「遠いじゃん!」
「それ1時間半くらい掛からない?」
と明恵も言った。
 
取り敢えずお互いに自己紹介した。
「竹本初海」
と派手な女子。
「夏野明恵」
と明恵。
「笹川雪代」
とチェックのスカートの子。
 
「でも、かほく市からの通学はマジで辛いと思うよ」
「うん。アパート借りた方がいいよ」
 
「それが入学金とか授業料とかでお金使い果たしてしまって。とてもアパート借りる資金が無いんですよ。寮に期待していたんですけど。寮費は問い合わせたら親の保証があれば分割払いできるという話だったし」
 
「だったら2〜3ヶ月経ってからアパート借りたら?」
「はい。父も夏のボーナスまでには何とかすると言っています」
 
「大変ね〜」
 

入学式は大学合唱団主導による国歌斉唱で始まる。
 
明恵もしっかり声を出して歌った。
 
やはり会話より歌の方がしっかり女声になるよなあと思う。まだまだたくさん練習しなくちゃ。
 
学長や同窓会会長などの挨拶が続き、式は30分ほどで終了したが、続いて、新入生向けの説明会が行われる。その中で明日試験をしますというのが発表され、隣の竹本初海は「うっそー!?」と声を挙げていた。明恵も声までもあげないものの、内心結構焦っていた。
 

そういう訳で翌4月3日は午前中英語と数学の試験を受けた。午後は学生生活や就職活動に関するオリエンテーションが行われた。11-12日は宿泊研修があるという伝達もあった。
 
「宿泊か・・・」
 
と明恵は少し不安を感じた。
 
 
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【春茎】(2)