【春約】(4)

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2018年8月19日(日).
 
川島信次の四十九日法要が千葉市内の川島家で行われた。本当の四十九日は8月21日だが、平日なので日曜の19日に繰り上げたのである。お寺からお坊さんを呼んでお経をあげてもらい、その後、お墓に納骨に行った。
 
千里の友人の中で特に親しいクロスロードのメンバーや蓮菜・花野子なども出席したのだが、千里(千里1)はまだ茫然自失状態で、何を訊いても無反応だし、ほとんどお人形さんのような状態のままであった。
 
この時、クロスロードのメンツの間では来月性転換手術を受けることになっている淳のことをみんなからかっていた。
 
「逃げるなら今だよ」
「あとわずかの命になった、おちんちんを可愛がってあげよう」
「まあ40歳前に女になることができるみたいでよかったね」
「淳ちゃん可愛いから、先生がうっかり女と思って男の子に性転換しちゃったりして」
「それは困る!」
 

しかしその中で青葉が沈んでいるので
 
「青葉どうした?」
とみんな声を掛ける。
 
それで和実が困ったような顔をして言った。
「青葉、彪志君と喧嘩したらしいんだよ」
と和実が言う。
 
「なんでまた?」
「別れたことは認める」
と青葉。
 
「別れた〜〜〜!?」
 
それで和実は、彪志君のお母さんが見合いの話を設定し、彪志君に言わないまま盛岡に呼び、見合いをさせようとしたこと、彪志君が怒ってもちろん見合いはせずに戻って来たことを説明し、その話を聞いた青葉が
 
「せっかく見合いの話があったのなら、すればいいのに」
と言ったことを説明する。それがきっかけで口論になってしまったらしい。
 
「向こうも俺は怒ったとメールしてきている」
と青葉は言う。
 
「いや、それは彪志君が怒るの当然」
「でも彪志君はそれ絶対に青葉のこと嫌いになった訳じゃないよ」
「あいつ私のことなんか知らないと言っていた」
「それは言葉の綾だよ。青葉、彼のところに行って謝っておいでよ」
「そうだよ。すぐ謝りに行かなかったら、絶対後悔するよ」
とみんなで言う。
 
「いいよ。これはもう終わったことなんだから」
と言って、青葉は泣いていた。
 

ところで千里1が名古屋のマンションに置いていた楽器類であるが、青葉は千里2と話して(葛西のマンションには物理的に入りきれないので)いったん尾久の筒石が住んでいるマンションの千里の部屋に積み上げておくことにした。
 
現時点では単なる倉庫代わりで、千里1がその楽器群のことを思い出したら、適当な場所に移動させることにするが、そこに千里の“気配”があるのは、筒石にとっても“環菜”にとってもよいことである。
 

8月23日(木).
 
この日は様々な人の思惑が様々に入り乱れた日であった。ただこの日の事件に積極的に関与した人は全て、
 
「今日、環菜(神無・緩菜)が生まれる」
ということを知っていた。
 
さて、環菜を本当に妊娠しているのは千里(千里1)なのだが、その子宮と卵巣や女性器は美映の体内に入っている。これは千里(および妹連合軍+貴司本人)の“呪”と、京平の“呪”が複合した結果、こういうことになってしまったのだが、なぜそういう事態になっているのか理由を知っている人は誰もいなかった。ただ何かの作用の結果そうなっているようだと認識していた。
 
環菜本人が前世の“小春”時代の2017年1月(遠刈田温泉からの帰り)に
「私女の子に生まれたいのに、どうしてもお許しが出ないから、生まれたらすぐ去勢して」と千里に頼んでいた。これは小春の遺言のようなものなので、千里はそれを《こうちゃん》に頼んでおいた。
 
羽衣はなぜか美映の中に千里の女性生殖器が入っているのに気付いていたので出産の現場を見せることにより、千里の精神的な回復が促進されるだろうと考え、千里を美映が出産する病院まで連れて行くことにした。なお羽衣は千里が3つに分裂していることに全く気付いていない。
 
そして、京平は“妹”である環菜から直接『私が産まれた時に血液検査されると思うけど、調べたら私がパパの子供でもママ(美映)の子供でもないことが分かってしまう。そしたら赤ちゃんの取り違えを疑われて、私最悪どこか施設に預けられることになるかも知れないし、パパとママが私を育ててくれないかも。だから検体のすり替えをして欲しい』と頼まれていた。
 
環菜の遺伝子的な母は千里、遺伝子的な父は、小春自身の思い人であった川島信次である。つまり美映の子供でも貴司の子供でもないのである。全く偶然の作用だったのだが環菜はまんまと自分が好きだった男の子供になることができた。しかし、そのため遺伝子的には両親とも赤の他人である夫婦の子供として生まれて来ることになってしまった。環菜は実は“カッコウの子供”なのである。京平は可愛い妹のためにこの操作を了承した。
 
(京平と環菜はどちらも千里の子供なのでふたりは異父兄妹になる)
 

羽衣は作務衣姿で、この日早朝、千葉の川島家を訪れた。
 
羽衣は千里を自分のミスで死なせてしまって以来、千里の身体と霊的な能力の修復に努めてきたし、自分の眷属《ヤマゴ》を預けている。《ヤマゴ》は千里の携帯ストラップに擬態しており、誰かが千里に“心の声”で話しかけると、それを千里に直接伝える役割を命じられている。
 
羽衣は仏檀に香典を置いて阿弥陀経をまるごと暗誦した。千里は何も考えていないのだが、康子は「こんな長いお経をそらで唱えられるって、この人はひょっとして偉い尼さんなのかしら」と思った。ここで羽衣が作務衣姿というのが微妙に説得力がある。
 
それで羽衣が「千里をちょっと借りて連れ出したい」というのに、康子は同意する。
 
羽衣は千里のアテンザワゴンを勝手に持って来ていたのだが、千里はその車に乗ってかなり経ってから
 
「あれ?これもしかして私の車?」
などと言った。
 
「うん。ちょっと借りた」
「いいですよ」
 
しかしその後も千里(千里1)はずっとぼーっとした状態だった。
 

羽衣が運転するアテンザは13時半頃、豊中市のある産婦人科に到着した。羽衣に連れられて病院の中に入っていくと、廊下に貴司がいるのでびっくりする。
 
ここで羽衣は姿を消す。千里1としては実は貴司に会ったのは2017.6.15に市川ラボで貴司とデートして以来1年2ヶ月ぶりである。
 
「貴司、何してんの?こんな所で」
「子供が生まれそうなんだよ」
「貴司が産むの?」
「なんで僕が産まないといけない? 産むのは美映だよ」
 
そんな会話をしていたら、千里は結構調子が出てきた。それで結局それから実際に赤ちゃんが生まれるまでの1時間半ほど、2人の会話は続くのである。そして貴司との会話が弾む中、千里は少しずつ自分を取り戻していった。
 
やがて15時過ぎ、分娩室から
「おぎゃぁ、おぎゃぁ」
という元気な泣き声が聞こえる。
 
「やった!」
と叫んで、千里と貴司は思わずキスしてしまう。
 
そして分娩室から看護婦さんが出てきて告げる。
「産まれましたよ。女の子ですよ」
「すごーい。貴司、今度は女の子のパパになったね」
「うん」
「女の子のママになりたかった?」
「なんで僕がママになるんだよ!?」
 

千里は、美映さんのお母さんとかが来たらまずいからと言って病院を出る(*3).
 
すると羽衣が待っていた。
「帰りは自分で運転する?」
「ええ。しばらく運転してなかった気がするし、少しリハビリで運転します」
 
「うんうん。あ、そうだ。これ用意しておいたから」
と言って羽衣は千里に産褥パッドを渡した。
「へ?」
「京平君の時も使ったから分かるよね。でも君も女の子のお母さんになったんだから頑張らなきゃね」
 
と羽衣は言った。
 
それで千里1はさっき出産したのは実は自分であることに気付いた。
 
「後産まで終わった所で君の身体に戻ると思う」
「あははは・・・」
「そろそろだと思った所でSAかPAに誘導するよ」
「お願いします。運転中にいきなりあの痛みが来たら、私運転ミスるかも」
 
それで千里は車を出した。
 

(*3)実際には美映の母は美映の妊娠・出産を知らなかった。この件は後述。
 

千里と羽衣が乗ったアテンザが出て行ったのと入れ替わるように赤いミラが駐車場に入ってきた。
 
「じゃ、行ってくる」
と言って“看護婦の服装をしてマスクをしている”《こうちゃん》は病院の中に入っていくと、10分ほどで出てきた。
 
「今日1人の男の子が消えて、1人の男の娘が生まれた」
などと言っている。
 
「あんたも好きね〜」
 
「まあ生まれたてだから、あの子が男の子だったのは5分くらいかな」
「どんな男の子だった?」
「一瞬女の子かと思った」
「可愛いんだ?」
「ちんちんが無かった」
「それって、女の子ということは?」
 
「停留睾丸でマイクロペニスなんだよ。だから一見女の子に見える。だから俺が睾丸を、外側だけ睾丸に偽装した卵巣と交換した段階では、そのことに気付かず、医者も助産師も女の子だと思っていたかも」
 
「いっそそのまま女の子の形に変えてあげれば良かったのに」
「言われたことと違うことすると後で千里に叱られる」
「あはは」
「龍虎も西湖も可愛い女の子にしてあげたいのに、千里がダメだと言うんだよ」
「ふふふ」
 
それで《きーちゃん》はミラを出した。
 

環菜が生まれた前日の8月22日(水).
 
貴司から阿倍子に電話があった。
 
「君宛に市役所から手紙が来ていたんで、何で?と思って確認したら、君も京平もまだ僕の所の住民票に記載されたままなんだけど」
 
「え?でも離婚届は出したよね?」
「うん。でも離婚届だけでは住民票は移動されない。だから豊中市で転出届を出して、神戸市で転入届を出して欲しいんだけど」
 
「あ、そういうのが要るんだっけ?」
「してくれないと困る。だから住民票見たら、僕の名前の後に、君の名前、京平の名前が載ってて、その後に美映の名前が載っている状態なんだよ」
 
「きゃー!?じゃ、貴司、奥さんが2人載ってるの?」
「君の続柄は“同居人”と書かれているけどね。僕も見て仰天した」
 
「分かった。すぐ手続きする」
 
それで豊中市まで行くことにしたのだが、阿倍子は健康不安がある。途中で倒れたりしたらどうしよう?と思って、晴安に付いていってもらうことにする。
 
しかし結局は晴安の車で豊中市役所まで行くことになった。
 

8月23日。晴安は自分の車シェンタで阿倍子の家近くの道路まで来てくれた。
 
ちなみに女装である!
 
「この方が女2人連れに見えて、誰か知り合いが見ても、阿倍子が変な噂を立てられたりしないだろうし」
 
などと言っていたが、要するに女の格好で出歩きたいのだろうと阿倍子は解釈した。
 
「しかし住民票の件は僕も確認しておくの忘れてた。結構見落としがちなんだよ」
と晴安は2人を乗せて走りながら言う。
 
「私何にも考えてなかった!」
「それちゃんと出しておかないと、児童手当とかもらえないよ」
「きゃー、それは困る!」
 
豊中市役所に着き、転出の届け出をする。それで帰ろうかと思った時、京平が
 
「ぼく、こどものらくえんに行きたい」
と言った。
 
「子供の楽園って、京都だっけ?」
と晴安が訊く。
 
「京都のが有名だけど、この近くにも同じ名前の遊園地があるのよ」
と阿倍子。
「へー!」
 
(正確には京都のは「子どもの楽園」で、大阪のは「こどもの楽園」)
 
「あそこに随分行ったもんね〜」
「まあ近くなら寄ろうか。転入届は明日提出でもいいだろうし」
 
ということになり、3人は市役所の近くにある服部緑地という公園内にある《こどもの楽園》にやってきた。これが14時半頃である。
 
「じゃ2時間くらい遊ぼうか」
 
京平は喜んで走って行く。大型のローラースライダーに乗るようだ。その姿を見ながら、阿倍子と晴安は近くのベンチに座り、少しお話をした。
 

京平は呟いていた。
「ママとハルちゃんも、もっとデートすればいいのに。さて僕はうまくやらなきゃ」
と言って、自分の精神を、この公園のすぐ近くにある産婦人科病院に飛ばした。
 
今日はうまい具合に近所を通ることになったので、この公園に来たいと言ったのだが、それができない場合は、京平はお母ちゃん(千里2か3)に頼んで連れてきてもらおうと思っていた。
 

京平は今回の操作をするのに「血液型を何型に偽装すればいいか」よく分からないので、一週間ほど前、阿倍子が寝ている時に貴司に電話した。
 
「京平!?お前電話できんの?」
と貴司は驚いたように言った。
 
「パパ、ちょっとおしえてほしいんだけど」
「うん。何だい?」
「パパのけつえきがたはBがただったよね?」
「よく知ってるなあ」
「あたらしいママのけつえきがたはなぁに?」
 
ここで京平は美映の血液型を知りたかったので“あたらしいママ”と言ったのだが、貴司はその“あたらしい”というのをちゃんと聞いていなかった。それでてっきり“ママ”つまり阿倍子の血液型を尋ねたと思った。実際、京平が美映の血液型など聞く用事があるとは思えない。それで
 
「ママの血液型はAB型だよ」
と答えた。
 
そういう訳で、京平は美映の血液型をAB型と誤解してしまったのである。
 

京平は美映がABで貴司がBなら、多分子供の血液型はABでいいんじゃないかと思った(京平は戸籍上は3歳だが、中身は実質中学生なので、そのくらいは考えることができる)。そこで誰かAB型の人がいなかったかなあと考えてみると、ママ(阿倍子)がAB型じゃん!と思いつく。そこでママの血液とすり替えようと考えたのである。
 
それで環菜が生まれてすぐにお医者さんが足の裏に注射器を刺して血液を採取した時、先輩@伏見の力を借りて阿倍子から血液を少し採取し、それを医師が持っていた検体とすり替えてしまった。
 
それで医師は検査して「赤ちゃんの血液型はAB型ですね」と言った。
 

ところが“AB型”という判定に問題があることに院長が気付いた。
 
「お父さんはB型で、お母さんはO型なんだよ。赤ちゃんがAB型の筈が無い」
 
検体を間違ったのではないかということになり、再度赤ちゃんの足から採血が行われた。それで京平は再度検体をすり替える。
 
「やはりAB型ですよ」
「お母さんかお父さんが血液型を間違って覚えているということは?」
「それはありそうだ!」
 
それで医師は詳細を告げないまま、検査のために両親の血を取らせて欲しいと言い、採取してチェックする。この時、京平は、美映はAB型で、貴司はB型だから問題無いと思っていた。医師が「お母さんはO型」と言っていたけど、それが何かの勘違いではと思ったのである。
 
ところが医師はチェックしてから言う。
「やはりお父さんはB型でお母さんはO型ですよ」
 
え〜〜〜!?と京平は叫びたい気持ちだった。
 

病院は赤ちゃんの取り違えを疑った。
 
似た時間に生まれた赤ちゃんがもうひとり居たので、その子の血液型(A型のはず)を再確認する。そしてその子が間違い無くA型であることを確認した。そちらの両親はふたりともA型なので、赤ちゃんはA型かO型のはずである。それで合っているし、そのふたりの子供がAB型のはずはない。
 
「DNA鑑定をしてみよう」
と院長は言った。
 
それで医師は環菜の口腔内から粘膜を採取した。
 
へー。ああやって細胞を採るのか!と京平は考える(2015年12月に京平は鑑定会社に貴司に連れられて行って同様にして細胞を採られているのだが、さすがに0歳5ヶ月の時のことは覚えていない)。しかしDNAってよく分からないけど、これママの細胞では多分まずいことになりそうと思う。
 
すり替える時間は僅かである。幼い脳味噌を必死に働かせて京平が考えた結論は自分の細胞を使う!ということである。それで少なくともお父ちゃんの子供であるという判定は出るはずである。
 
それで京平は自分の口腔内を、看護婦が持っていた予備の綿棒を勝手に取り、それですくって環菜の検体とすり替えた。
 
ここで阿倍子が
「京平、そろそろ帰ろうか」
と言ったので、京平は後は運を天に任せて帰宅することにした。
 
京平は「どうせパパはたくさん浮気してるから、母親が違っていても大丈夫じゃないかなあ」と思ったのだが、その母親が子供を産んだのだということを忘れている!
 

なお、緩菜の本当の血液型はA型である(信次がO型で千里はAB型)。貴司(B型)と美映(O型)の間にA型の子供は生まれないので、偽装は必要であった。実はこの場合、阿倍子の血液(AB)ではなく、美映の血液(O)とすり替えておけば、病院は「赤ちゃんの血液型がおかしい」とは思わなかったのだが、結果論である。
 

病院ではそのあと、美映と貴司にも口腔内の粘膜を採取させてもらい、それでDNA鑑定(特急)に出した。結果は退院頃までには分かるはずである。
 
それに病院としては、産まれて数時間経つとけっこう陰裂?が明確になってきて(実は《こうちゃん》のしわざ)、それだけ見ると女の子にしか見えないので、赤ちゃんの性別に若干の疑義も持っており、DNA鑑定で性別についても再確認したいという気持ちもあったのである。
 

なお、この日生まれた赤ちゃんの名前であるが、実は生まれたのが女の子なら環菜(かんな)、男の子なら秋緩(あきひろ)という名前にしようと言っていた。しかし性別が曖昧で、一応男の子だと思うが精密検査したいと病院が言っていたので(本当はそれを言い訳に親子鑑定しようとしている)、男女どちらでもいけるようにしようと貴司と美映は言い、結局、環菜と秋緩を合成して緩菜という名前にすることにした。これで女の子と確定したら「かんな」、男の子と確定したら「ひろづみ」と読ませようということにしたのである。(菜は採と同義なので「つむ」と読める)
 
「まあ男の子で“かんな”でもいいかもね。DOG in The パラレルワールドオーケストラの一ノ瀬緩菜(いちのせ・かんな)は男だし」
 
などと貴司は言っていた。
 
「その人知らない」
と美映が言うので、貴司は自分のパソコンを開けて写真を見せる。東京ミカエル時代の写真である。
 
「女の子じゃん」
「女の子に見えるけど男なんだよ」
「男の娘?」
「いやヴィジュアル系」
「ああ、そっちか。私も美女♂Menとか好きだったよ」
「あのバンドは美人揃いだったよね!」
 
美映はRides In ReVellionのライブに数回行ったことがあるとも言っていて、元々ヴィジュアル系は好きなようである。
 

さて、千里3は8月15日から22日までNTCで合宿をしていたのだが、23日早朝、いったんNTCを出た。
 
「さて行ってくるか」
と言って、大きく伸びをすると、千里は赤羽駅までジョギングを始めた。
 

青葉は8月19日に行われた信次の四十九日には日帰りで行ってきたのだが、その後は毎日自宅近くの高岡総合プールに行き、泳いでいた。金沢まで出て大学のプールで泳いでもいいのだが、その往復時間が惜しかったのである。
 
その日23日も朝御飯を食べた後、プールに行く前に、台所を片付けたり掃除をしていたりしたら、ピンポンと玄関のベルが鳴る。
 
「はーい」
と言って、ドアを開けると千里姉なので、びっくりする。
 
千里はいきなり言った。
「強盗だ。お前の身体をよこせ」
「私の身体が目的なの〜〜?」
「美味しそうだから一度抱いてみたい気もするんだけど」
「ちょっと、ちょっと」
 
「まあ性転換手術しよってんじゃないからこちらに任せてよ」
 
「性転換は困る!」
 
青葉が思わず笑った瞬間、千里姉はチラッと後ろに気配を向けた。
 
青葉に気を緩ませておいてその隙を突いたのである。
 

青葉は何かに包まれるような感じがした。そして強引に何かをむしり取られるような感覚がある。
 
そして・・・
 
スッキリしてしまった。
 
「あれれ?」
と言って、青葉は自分の身体を見ている。
 
「青葉、紺屋(こうや)の白袴」
と千里姉が言う。
 
「え〜〜〜〜!?」
 
その時、青葉の後ろにいつもいる《雪娘》が言った。
 
『青葉、私たちがずっと呼びかけていたのに全然反応してなかった』
 
うっ・・・・
 
『青葉、わらわの声も聞いていなかったから、罰として30kmジョギング』
と姫様。
 
『え〜〜〜!?』
 
「青葉、彪志君と喧嘩したのは、変な霊に憑かれていたからだよ」
「うっそーーー!?」
 

青葉が驚いたところで、千里は
「さあ行くよ」
と言う。
「どこに?」
「盛岡」
 
「え!?」
「今から出れば11:10の《はくたか》に間に合う。大宮で乗り継いで盛岡15:33着」
 
「待って。盛岡に何しに行くの?」
「行けば分かる」
 
「そんなぁ」
 

青葉は盛岡に行くのなら、彪志や彪志の母に連絡しなければと言ったのだが、千里は連絡することを禁止した。
 
「今回は別件なんだよ。だから彪志君たちと会う時間は無いと思う」
「分かった」
「今回のが終わって帰りに大宮で降りて彪志君に謝りにいけばいい」
「そうする」
 
「それより、道中は松本花子の話をしようよ」
と千里が言ったので、青葉はここにいる千里が《千里3》であることを認識した。
 
「ん?私が誰か分からなくなったら私の携帯を見ればいい」
と言って自分の携帯セリエ・ミニを見せる。
 
「また私の思考読んでる!」
と青葉が言うと
『青葉が無防備なだけ』
とまた《姫様》に言われる。
 
「でも私、いつの間に変なのに憑かれたんだろう?」
「千里1の死の呪いと闘った時だと思うけど」
「あ・・・」
「青葉は信次を助けられなかったことで自分を責めた。一種の無力感に襲われて自分に自信を失った。その心の隙間に突け入れられたのさ」
「・・・それはあるかも」
 
「あの場に居た、他の人たちもチェックしてあげて」
「分かった!」
 

それで彪志とのことはいったん置いておくことにして、松本花子のことを千里姉とたくさん話した。
 
「ちー姉は次の合宿は?」
「28日から国内最終合宿に入る。9月6日に渡米してアメリカ合宿、その後スペインで合宿をして、9月22日からカナリア諸島でワールドカップをする」
 
「じゃこの1週間だけ空いていたんだ?」
「実際にはしなければいけないことがいっぱいあるけどね」
「そんな時にごめーん!!」
 

新幹線の中では、青葉がトイレに立っている間に、お弁当が用意されていたりする。あくまで自分の眷属の表だった行動は見せないつもりなんだなと思う。ともかくもお昼はまだ暖かい“峠の釜飯”と焼きたてっぽい“焼きまんじゅう”を食べた。
 
新高岡11:10-13:26大宮13:46-15:33盛岡
 
東北新幹線の中では、おやつに?喜多方ラーメンを食べた。例によって青葉がトイレに行っている間に座席の所にラーメンの丼が載っていて、驚く。
 
「***食堂という所の。学生時代に1度食べてからハマった」
などと千里は言っている。
 
座席のテーブルに載っている丼はプラスチック製だが
「器は入れ替えて食堂の丼はすぐ返した」
などと千里は言っていた。
 
「雨宮先生の指示で参加したツーリングでさ、裏磐梯を走破したんだよ。景色が美しかった。冬だったから、その時はレイクラインとかは通らなかったんだけどね。そちらはもっと凄いと言われてたから、夏になってから1人で行ってきたんだよ」
などと言って、ノートパソコンに入っている写真を見せてくれる。
 
「凄い場所だね。日本じゃなくてアメリカの西部かどこかみたい」
 
「青葉はFJR1300だったよね?一度私のZZR-1400と一緒にツーリングしない?」
「あ、それもいいかな」
と青葉は言った。
 
だったら練習しなくちゃ!!
 

やがて盛岡に到着する。
 
駅前からタクシーに乗って市内の大きなホテルに来た。
 
「松本花子の件で会って欲しい人がいるんだよ」
「その件か」
 
千里は青葉を連れて上の方の階に行く。ひとつの部屋のドアをカードキーで開けて入る。
 
「これに着替えて」
と言われる。そこにあるのは振袖である!成人式の時に着たものだ。
 
「なぜこの振袖がここに」
「男は細かいこと気にしない」
「私、女だよ!」
「女はなおのこと気にしない」
 
と言って、千里は青葉を裸にした上で肌襦袢、長襦袢を着せ、振袖を着せて帯を締めてくれた。更に千里は自分も訪問着を着る。
 
「帯は私が締めるよ」
「うん。よろしく」
 

ふたりとも和服になった所で千里が言う。
 
「さあ、おいで」
「会うのはどんな人?」
「行けば分かる」
 
エレベータで2階まで降りる。そしてさっさと歩いて、小部屋?の障子を開けた。中に入ると
 
「青葉ちゃん、お疲れ様」
と彪志の母が声を掛けた。訪問着を着ている。
 
その隣には紋付き姿の彪志もいる。
 
「あ・・・・・」
青葉はやっと今日の行動の意味が分かって絶句した。
 
「青葉、今日は青葉のお見合いだよ」
と千里が言った。
 
「うん」
と青葉は、はにかむように頷き、座敷にあがった。
 
そして開口一番
「彪志、酷いこと言ってごめんなさい」
と謝った。
 
「いや、俺も色々言っちゃったけど、俺、本当は青葉のこと好きだから」
と彪志が言う。
 
「私がいちばん悪かったんだよ。変なことしてごめんね」
と文月が言った。
 
千里が青葉の背中をトントンと叩く。それで青葉は言った。
「私も彪志のこと好き」
 
そして文月には
「お母さん、私ふつつかものですが、頑張って彪志さんの奥さん務めたいです」
と言った。文月も笑顔で頷いている。
 
千里は部屋のカードキーを青葉に手渡してから(今夜はふたりで泊まれという意味)、
 
「さあ、美味しい御飯を手配しているからみんなで食べよう」
と言って、呼び鈴を鳴らした。
 

ジャネが参加したアジア大会の競泳は8月19日から24日まで開催された。
 
会場となったGelora Bung Karno Aquatic Centerは「半室内」のプールである。屋根はあるのだが、壁が無い。それで強風が吹くと水面に波が立つ。更に今回は大会中に競泳プールと飛び込みプールを仕切る仕切り板が倒れたり、表彰式で掲揚台から国旗が落下したり!となかなか凄かった。国旗掲揚台が使えないというので、国旗を軍人に持たせて表彰式を実施したりもした(すぐに応急修理が行われた)。
 
ジャネは800m,1500mに出場したが、どちらも中国選手が1・2位を独占し、ジャネは銅メダルであった。
 
しかし「footless swimmer got medals」などと騒がれて、現地の新聞や放送局の取材も受けていた。
 

さて、青葉たちの先輩、筒石君康は、昨年1年間“幽霊付き(憑き?)アパート”で暮らしたのち、ジャネや青葉の忠告で、まともな?マンションに引っ越したのだが、ここは3部屋あるのを1部屋は筒石、1部屋はジャネが使い、1部屋、窓の無い部屋(サービスルーム)を千里が“使う”ということにして家賃は千里が払うことにした。
 
それで春からずっと住んでいたのだが、確かにここは幽霊とか妖怪とかが出ないので、いい所に引っ越したなあと思っていた。そのせいか5月下旬のジャパンオープンで凄い記録を出して優勝。急遽アジア大会の代表に追加された。そしてアジア大会でも金メダルを取り、一躍有力選手として注目されることになる。筒石の素質を信じて、ここ1年半仕事免除で水泳の練習だけをさせてくれていた彼の所属企業の社長も物凄く喜んでいた。
 
その彼がアジア大会から帰国した晩、寝ていたら
 
「すみません」
という声が聞こえたので目を覚ます。
 
何だか7〜8歳くらいの女の子がいる。
なんでこんな所にこんな子がいるんだ?と思ったら、その子は
 
「カンナさんはまだ来てませんか?」
と筒石に尋ねた。
 
「え?そんな子は居ないと思うけど」
と答える。
 
「そうですか。まだ到着してないのかな。失礼しました」
と言って、千里が使っているサービスルームの方に行こうとする。
 
その時筒石は声を掛けた。
 
「あのさ、君」
「はい?」
「俺疲れててさ、お腹空いててたまらないから、コンビニに行って、冷凍ラーメンと冷凍ピザとおにぎり5個買ってきてくれない?」
と言って、千円札を2枚渡す。
 
「えっと・・・」
「じゃよろしく〜」
と言って筒石はまた寝てしまう。
 
「私が買物に行くの〜?」
とその女の子は戸惑うように声を出した。
 

8月23日(木)に大阪まで行き、緩菜の誕生に立ち会った千里1は、帰宅した時には、活き活きとした目をしていて、康子を驚かせた。
 
「お母さん、私ちょっとジョギングして来ますね」
「うん」
 
それで千里は“軽く”4kmほど走ってきた。
 
実は10km走るつもりだったのだが、息が苦しくなってきたので4kmで中断したのである。
 
「なまってるなぁ」
と言って、千里は整理運動をした。
 
「どこかでボールを使っての練習もしたいな」
と千里はつぶやいた。
 
なお、運動中は出産したお股があまり痛くならないよう《びゃくちゃん》が鍼を打ってあげている。
 

千里は翌日、8月24日(金)、千葉市内の千城台体育館に行ってみた。
 
ここは千里自身が所有している体育館で、一応ローキューツの専用体育館であるが、40 minutesの選手も自由に使っていいことにしている。千里は実はどちらの選手でもないが、オーナーなので、別に使うのは問題無い。
 
他の人とぶつからないように朝早く行ったのに、原口揚羽・紫の姉妹が練習していた。
 
「お早うございまーす」
と声を掛けるが向こうはびっくりしている。
 
「千里さん、合宿は?」
「ちょっと気分転換に出てきた。最近なまっているかなあと思って。そうだ少し手合わせしてくれない?」
 
「私たちではとても相手にならないと思いますけど」
と揚羽は言ったが1on1をすると千里は半分ほど勝った。
 
むしろ半分しか勝てなかったというところだろう。
 
「ほんと調子悪いみたいですね」
と揚羽は言っていた。
 

翌8月25日(土)の夕方、千里のところに、冬子が訪ねて来た。
 
冬子は千里を見るなり言った。
 
「千里、だいぶ元気になったみたい」
「うん。少し元気になった」
と本人も言っている。
 
それでケーキを食べながら話をしたら、千里は
 
「私、女の子のママになったから、頑張らなくちゃと思った」
と言った。
 
「仙台で代理母さんのお腹の中で育っている子のこと?」
と冬子は訊くが否定する。
 
「あの子の性別はまだ分からない。でも一昨日、私の血を引く女の子が生まれたんだよ。カンナちゃん」
 
「かんな?なんか10月生まれみたいな名前」
「そういう名前にするって、貴司と約束していたから」
「貴司さんと千里の子供!?」
「そうだよ。貴司は美映さんが産んだと思っているだろうし、美映さんも自分が産んだと思っているだろうけど、本当に産んだのは私。だからこれ使っているんだよ」
と言って千里は産褥パッドを見せてくれた。
 
(緩菜の父親が貴司ではないことに千里が気付くのはずっと先である)
 
「私、初乳もカンナちゃんに飲ませたよ」
「へー!」
 
どうも京平君が生まれた時と同様のことが起きたようだ、と冬子は考えた。
 
千里は本当はちゃんと妊娠・出産する能力を持っているが、元男性が子供を産めるはずがないということに世間的には(科学的には?)なっているので、今回も美映が産んだことにしておく、ということなのだろう。
 
実際問題として、そのために法的な妻の座を阿倍子や美映に“貸した”というのが、貴司さんがその2人と結婚した真相なのでは、と冬子は思った。
 
しかし・・・それなら千里と同様に生理がある、私、青葉、和実にも子供が産めるんだったりして?と一瞬、冬子は思った。そして2ヶ月ほど後、更にその説を強化することになる事件が起きる。
 

千里1は、バスケの練習も始めたが、まだ本調子ではないと言っていた。しかし揚羽とマッチアップして半分は勝ったということは、かなり回復してきているのではと冬子は思った。
 
それで冬子は一度廊下に出てから千里2(現在フランスに居る)に電話して、千里1の回復状況を話す。すると千里2は驚いているようだったが、適当な練習パートナーを行かせると言っていた。
 
部屋に戻ってから言う。
 
「南野鈴子(みなみのすずこ)さんというローキューツのOGさんがしばらく練習パートナーを務めてくれるって」
「ローキューツの?知らないなあ」
と千里1。
 
「うん。千里とは入れ違いになったから、千里は彼女のこと知らないはずと言っていた。短期間の在籍だったらしいし」
「へー」
 

千里2は《きーちゃん》に頼んで、《すーちゃん》にしばらく千里1の練習パートナーをしてあげてと言って欲しいと頼んだ。
 
「分かった、やらせるよ」
と《きーちゃん》は言い、《すーちゃん》に連絡をした。
 
「もうそんなに回復してるんだ!さすが千里だね」
「現状ではたぶんとても朱雀の相手ではないとは思うけど、よろしく」
「たぶん、すぐ追い抜かれちゃうよ」
 
なお、この時点で、千里2,3が直接使える眷属はこのようになっている。
 
千里2:《こうちゃん》《きーちゃん》《つーちゃん》
千里3:《すーちゃん》《せいちゃん》《えっちゃん》
 
《えっちゃん》は実は千里2の眷属だが、千里3のガードを命じられている。千里3はそのことに気付いているが、気付かないふりをして、運転代行をさせたり、荷物運びをさせたり、様々な事務手続きの代行をさせたりして自由に使っている。わりと、こき使われている!
 
《きーちゃん》は千里2の直接の眷属ではあるが、元々美鳳から“千里”に従うよう命じられているので《千里2》《千里3》の双方に義理立てして、お互いの情報を相手には流さないように気を付けている。
 

《すーちゃん》は翌日朝、千葉の川島家を訪れ“南野鈴子”を名乗って千里1を連れ出すと、千里自身のミラを運転して、常総ラボに向かった。1時間ほどで到着するが、千里1はここを微かに覚えているようで
 
「なんかここ昔来ていた気がする」
と言った。
 
「ここは今誰も使っていないんですよ。ここでしばらく練習しましょう」
「ええ」
 
それで千里1の“リハビリ”は始まったのである。
 

8月30日(木)、緩菜・貴司・美映のDNA鑑定結果が出るが、それはまた医師たちを悩ませるものであった。
 
緩菜の血液型はこの鑑定ではA型となっており、更に性別は男性となっていた。赤ちゃんの血液型は元々判定が難しいので先日の院内の検査でABとなっていたことは特に問題にしないが、性別に関しては、この鑑定結果から、この子は若干性別に疑義はあるものの、染色体的には男性であると医師たちは考えた。
 
それより問題は親子鑑定の方である。
 
《ホソカワタカシがホソカワカンナの生物学上の父親である可能性は未鑑定の父親候補(事前の可能性=0.5)と比較して99.999%以上です》
 
《ホソカワビバエがホソカワカンナの生物学上の母親であることは否定されました。親子である可能性は全くありません。0%です》
 
つまり緩菜は間違い無く貴司の息子(娘?)であるが、出産した本人・美映の子供ではないというのである。
 
「なぜこんなことが起きる!?」
と医師たちは悩んだが、ひとりの医師が気がついた。
 
「ひょっとして卵子を借りたのでは?」
「あ!そういうことか!」
 

それで院長は貴司を別室に呼んだ。
 
「失礼ですが、そちらではお子様を作られる時に体外受精とかなさいましたでしょうか?」
 
すると貴司は“体外受精”ということばで、京平のことを訊かれたのかと思い、
 
「ええ。妻の卵子がどうしても育ってくれなかったので卵子を友人から借りたんですよ」
 
と言った。緩菜の出産をした病院で京平のことを聞かれる訳がないのだが、貴司は、何にも考えていない。しかし医師はそれでホッとするとともに「そういうのは最初に言っておいて欲しいよ!」と思った。
 
なお、京平は阿倍子と一緒に暮らしているので、ここの病院には姿を見せていない。それで医師たちは貴司に他にも子供がいることに気付かなかった。
 
このDNA鑑定書を医師たちは貴司や美映には見せなかったので、貴司たちは、緩菜の血液型を出生直後に検査された時に言われたAB型だと、ずっと思っていた。
 
また医師たちは緩菜の性別について「精密検査の結果、染色体上は男の子で間違いありません」と言ったので、貴司と美映は話し合い、男の子として出生届を出すことにした。貴司たちが「男の子でいい」と言ったので、医師は“そばにあった”ボールペンを取り、出生証明書の「男女の別」の所と母子手帳の性別欄に、どちらにも丸を付けていなかったのを、男の方に丸を付けた。
 

そして貴司は医師から受け取った出生届・出生証明書の用紙(これは紙の右半分が出生証明書、左半分が出生届になっている)に“近くにあった”ボールペンで細川緩菜・嫡出・長男・平成30年8月23日15時2分生、と記入し、母子手帳と一緒に持って歩いて豊中市役所に向かった。
 
この病院から市役所までは充分歩いて行ける距離なのである。
 

それで市役所方面に向かっていたら途中の路上でバッタリと妹の理歌に会う。
 
「兄貴何してんの?」
「出生届を出しに来た。理歌は?」
「セミナーで来ていたんだよ。この近くの**会館。そうだ。出産の手伝いとか行かなくてごめんね」
 
「いや問題無い。凄く安産だったし。美映は身体も丈夫だから、全然心配無かったし。やはりスポーツウーマンだからかなあ。本人も自分が妊娠していること忘れちゃうなんて言ってたくらいで」
 
美映は一応趣味のバスケットクラブに所属しているが、妊娠で休部中である。
 
「阿倍子さんはヒヤヒヤしたね」
「うん。あいつはほんとに身体が弱かったから」
 
それでしばらく立ち話していたのだが、貴司のスマホが鳴る。会社からである。
 
「はい。え?もうこちらに来てるんですか?。分かりました。すぐ行きます」
 
電話を切った所で理歌が訊く。
「お仕事?」
「うん。お客さんが予定より1時間早く着いて、今千里中央駅で乗る電車が分からないと言っているらしい」
 
「千里中央駅で迷うんだ!?」
「伊丹からきたから。もしかして北急線の乗り場自体が分からないのかも。この出生届出したらすぐ行かなきゃ」
 

「出生届なら、私が出しておこうか?」
「そう?」
「お客さん待たせちゃいけないよ。私は出生届を出した後、母子手帳を届けがてら、美映さんのお見舞いに行っておくよ」
 
「じゃ・・・頼もうかな」
「うん。お仕事行っといでよ」
 
「すまん。じゃ頼む」
と言って貴司は駆けだして行った。
 
その後ろ姿を見送ってから“理歌”は、コンビニに寄りホットコーヒーを買った。そこのイートインコーナーで出生届を開き、今買ったホットコーヒーを出生届・出生証明書の2ヶ所に当てる。するとコーヒーのカップが当たった部分が消えてしまうので、普通のボールペンで書き直す。母子手帳の方もやはり消してしまった。
 
それからコーヒーを飲み干すと市役所に行き出生届を提出した。
 
その後で“理歌”はスタンプを押してもらった母子手帳を持って病院を訪れ、美映を見舞い、お土産の《白い恋人》を渡した。美映は貴司の家族から接触されたのは初めてだったので(*4)
 
「わーい、理歌さん?仲良くしましょう。よろしくねー」
と笑顔で言って“理歌”と握手をした。
 
“理歌”は“ボールペン”を回収して病院を出た。
 

(*4)美映と貴司は、美映がそういうのが好きでないこともあり結婚式は挙げていないし「結婚しました」ハガキなども出していない。むろん挨拶回りもしていないし、双方の親にも会いに行っていない!
 
それで美映の母は、彼女が結婚したこと自体を知らなかった。
 
美映の感覚としては、“結婚や出産程度のこと”をいちいち親に言う必要もないと考えており、美映の母が緩菜の存在を知ったのは、美映が日倉孝史と結婚し、長女来夢を産んだ2021年10月である!
 
(日倉孝史の両親が美映の両親の所に挨拶に行ったので親に知られ、盛大な?結婚式を挙げる羽目になった)
 
来夢を出産した直後
「出産って1度目より2度目の方が辛いのかなぁ(*5)」
と美映が言ったのに対して
 
「2度目って、まるで前にも産んだことがあるようなこと言うね」
と母が言うので
 
「あれ?言ってなかったっけ?3年前に私、緩菜を産んだこと」
などと美映は言う。
 
「緩菜って誰?」
「だから私の娘(*6)」
「その子、どこにいるの?あんたまさか」
 
この時、一瞬、美映の母は赤ちゃんを殺したのではと思ったのである。
 
「旦那が引き取ったよ」
「旦那って?」
「前、結婚してた細川貴司」
「いつ結婚してたの〜〜?」
 
それで浦和に飛んできた美映の母は緩菜を見て
「凄いびじーん。とてもあの子の娘とは思えん可愛さだ」
 
などと言い、その後も年に2〜3度訪ねてくるようになった。
 

(*5)緩菜を本当に産んだのは千里1なので美映はあまり痛みを感じてない。
 
(*6)2021年2月の千里と美映の話し合いで緩菜は女の子にすることにした。
 

“松本花子”の音源データベース作りプロジェクトは
 
(A)バイト学生により、CDライブラリをmp3に変換する作業
(B)《せいちゃん》のプログラムにより階名方式のMIDI様データを作る作業
 
の2つに別れて進行した。(A)の方はfreac/LAMEを使用して千里たちが雇った学生バイトさんにより進められたが、ちょうど夏休みに掛かったので、8月中旬までに完了する。結局、冬子、氷川、松原珠妃、それに上島雷太宅にあったCDを雨宮三森が5000万円で買い取りそのまま倉庫に放り込んでいたものを使って、合計10万枚・60万曲の楽曲ライブラリが完成した。
 
この後は新譜を随時登録していくだけとなり、これは常勤スタッフで処理できる(実際問題として9月以降、間枝星恵の日常のお仕事となる)。
 
なおアナログレコードに関しては鮎川ゆまが「類似が問題になるほど知名度がある曲なら、絶対音源がCD化されているはず」と言い、青葉や千里3も確かにそうかもと言ったので当面放置することにした。
 
一方(B)の作業は“小樽ラボ”で進められ、8月31日深夜に完了した。《きーちゃん》は念のため、このデータのコピーを取って川崎市内の千里3の自宅マンションにも置いておくことにした。
 
60万曲のmp3は5TBほどあるのだが、MIDIではわずか10GBである。むろんmp3は全て保存しており、MIDIデータに誤りがあった場合の修正をする際の参考にする。変換するプログラムを書いた《せいちゃん》によると、多分5000分の1くらいの確率で誤りが発生するということである。50曲に1曲くらい誤りが含まれる計算になる。
 
データは2TBのハードディスク3台に収納されていたが、物理的なエラーが起きた場合にそなえて別のディスクにコピーを取り、定期的に同期を取っている。《きーちゃん》は丸1日かけて全てのデータ・プログラムを新たなディスクにコピーし、9月1日の新千歳最終便で羽田に移動。川崎の千里3のマンション押し入れに置いた。バックアップ作業は以降1月に1度おこない、千里3の家と青葉の家に交互に置いていくことにする。つまり、自然災害や戦争?が起きても、小樽・川崎・高岡の3ヶ所が同時にやられない限り、最悪2ヶ月前のデータには戻れることになる。
 

2018年8月28日に南鳥島付近で誕生した台風21号は非常に強い勢力を保ったまま9月4日12時頃に徳島県に上陸、同14時には神戸付近に再上陸し、関西地方を縦断して石川県付近から日本海に抜けた。
 
この第2室戸台風(1961)を越える超強力台風で、関西地方に深刻な被害が出た。特に大きかったのは関西空港の連絡橋に当時51m/sというとんでもない強風のため碇を引き摺ったままのタンカーが衝突。連絡橋が破損する事態となった。関空には5000人以上の人が閉じ込められ、台風通過後、少しずつ船で脱出するということになった。
 

「市川ラボどうだった?」
と千里2は現地(兵庫県市川町)に行って来た《こうちゃん》に電話で尋ねた。
 
「大きな木の枝がぶつかったみたいで窓ガラスが8枚割れてた。今日明日にも交換しておくよ」
「ありがとう。よろしく〜」
 
電話を切り、さてどこにガラスを買いに行ってこようかなと《こうちゃん》が思っていたら、《げんちゃん》もやってくる。
 
「お前何しにきたの?」
「千里が被害状況を見てくれと言っていると聞いたから、確認しに来た。俺ちょうど関西に来てたんだよ。阿倍子が倒れているから病院に運んでほしいと京平から頼まれて」
 
「うーん」と《こうちゃん》は悩んだ。それを指示したのはきっと千里3だなと思う。
 
「どこかで伝達が混乱したのかな。実は俺も千里に頼まれて見に来た所なんだよ」
「なんだ。でも千里ってわりと昔から、同じ事2度言ったり別の奴に同じ用事をうっかり頼んだりすると思わない?」
 
「あるある。それで同じ奴を2回性転換したりする」
「2回性転換したら元に戻るじゃん!」
 
それで《こうちゃん》は《げんちゃん》にガラスの割れた所を見せた。
 
「これ交換するだけかな」
「だと思う。関西付近では需要が逼迫すると思うし、九州あたりででも買ってくるかな」
「ああ、だったら、俺が割れたガラス片付けておくから、勾陳買ってきてくれない?お前の方が速いし。これ財布預かってきた」
と言って《げんちゃん》は財布を渡す。
 
《こうちゃん》は費用は概略で千里2からもらってるんだけどな〜とは思ったが、ダブったのはもらっておけばいいよな?と考える。それで
 
「じゃ買ってくる」
と言って、《こうちゃん》は飛んで行った。それで《げんちゃん》は片付け始め、《せいちゃん》に電話連絡して現状報告した。
 
《せいちゃん》は忙しくて小樽から離れられないので、たまたま大阪に行っていた《げんちゃん》に頼んだのである。最近《げんちゃん》は《せいちゃん》のヘルプをよくしており、スマホも一台連絡用に渡されている。
 
なお阿倍子はごく普通の!?心筋梗塞だったのでそのまま入院させておいた。京平は「ひとりでごはんくらい食べられる」と言っていたので、食料品をたくさん買ってきて家の中に置き、あと阿倍子の当面の医療費といって京平に5万円渡してきた。それが実は台風上陸の直前だった。《げんちゃん》は結局京平と一緒に台風をやりすごし、市川ラボの修理をして、9月5日夜、東京に帰還した。
 
(老朽化した阿倍子の家もかなりの被害が出たが、多分晴安が修理するだろうと考え、掃除とかだけして放置した。窓には京平に指示して段ボールを貼らせた)
 

2018年9月6日3時8分頃、北海道の苫小牧市の東方、胆振地方中東部・深さ37kmの地点を震源とするM6.7の大地震が発生、厚真町で震度7を観測した。
 
この地震で北海道全土の発電所が緊急停止したが、中でも震源から10km程度の所にあった苫東厚真(とまとうあつま)火力発電所は深刻な被害を受けた。そしてここが北海道の電力需要の半分(160万kw)を供給していたため、電圧不足による電気機器の故障防止のため、全ての発電所が長時間停止する事態となる。
 
小樽ラボには当時《せいちゃん》だけが居たのだが、突然の地震発生に驚き、とりあえず松本花子のパソコン(ブレードコンピュータ)などを格納しているラック2つ(約200kg)を空中に持ち上げて被害が出ないようにした。
 
それでパソコン関係にはほとんど被害が出なかった。老朽化していた窓ガラスが割れたり、照明が壊れたりしたのは、とりあえず気にしないことにする。
 
北海道電力からの電源供給が停止するが、ここは太陽光発電された電気が蓄電器に溜められているので、全く問題無い。すぐにそちらに電力が切り替わった。
 
電力切り替えの時に一瞬電気は切れるのだが、パソコンは全てUPS(無停電電源装置)を通しているので、無停止で動き続けた。
 
そういう訳で松本花子システムには全く影響が無かった。
 
そして朝になると太陽光パネルが働き始め、電気はまた溜まっていくので結果的に念のため用意している非常電源設備(プロパンガスで発電)を使うまでもなかった。逆にこちらの余剰電力を電力会社側に供給することで、北海道の電力状況に微力ながら貢献することもできた。
 

窓ガラスや照明などが割れたのは、関西で台風の被害の処理などをしていて、6日0時頃に東京に戻ってきていた《げんちゃん》をすぐに北海道に呼び、彼に片付けと交換を頼んだ。
 
「台風が来たかと思ったら、次は地震かい。全くどうなってんだ?」
と《げんちゃん》は言っていた。
 
窓ガラスは他のも老朽化していて、余震が来たら割れるかもということで全交換することにし、《げんちゃん》は飛行機で!九州まで飛んで、軽トラを借りて福岡のホームセンターや電機屋さんなどを廻り、サッシの窓(窓枠ごと)とか、新しい照明器具とかを大量に買いつけ、荷物が多い(150kgほど)ので帰りは自分で持ったまま飛んできた。それで交換してくれたが、ほとんどリフォームに近い修理であった。
 
なお、彼の飛ぶ速度はそう速くないので、自力飛行で九州から北海道までは丸一日かかる。彼が飛んでいる様子は、ガメラが空を飛んでいる様子に似ている。但し回転しながら飛んだりはしない。(回転したらたぶん目が回る)
 
それで、この日は日本海で操業する漁船で「ガメラを見た!」という目撃情報が多数あったらしい。
 

小樽ラボに勤務している、間枝星恵と矢島彰子は怪我などは無かったものの、自宅アパートでは物が落ちたりして大変だったようである。それなのに電気が無いので、掃除機も掛けられない!
 
更に困るのは、スマホが充電できない!という問題であった。
 
「電気が回復するまでこちらで暮らしていいですか?」
「ああ、2階の部屋、ふたりで好きに使って」
 
「スマホ充電していいですよね?」
「好きにして」
「洗濯機使っていいですか?」
「それも自由に」
 
しかし2人が服を2階の部屋に干すので《せいちゃん》は“2階立入禁止”を矢島さんから通告された!
 
「私のパンティとかブラジャーとかどこに干そう?」
と《せいちゃん》が言うと
「キッチンの隅にでも」
と矢島さんは言っていた。
 
《せいちゃん》は実際問題として、結局ほぼ常時女装しているのだが、2人からは都合のいい時に男扱いされたり、女扱いされたりしている。
 

「そうだ。アパートの冷蔵庫の中身、どうしようかな?」
と矢島さんがいうので
 
「ここに持って来たら?」
と《せいちゃん》は言う。
 
「そうしようかな」
 
それで小樽ラボの買い出し用のジムニーで取りに行ったようである。間枝さんの方は《せいちゃん》に協力を求めて、自分の家の冷蔵庫をそのまま丸ごと持ち込んだ。こちらは軽トラ(3万円で買った中古のスズキ・キャリイ)を使用した。
 
「冷蔵庫、何が入っているの?」
「箱アイスたくさん買ってたんですよ」
「停電で既に融けているというのに1票」
 
しかしこの「いったん融けた」アイスは再凍結後も皿に載せると何とか食べられた。
 
北海道電力からの電気供給は一応9月7日夜には回復したのだが、いつまた中断するかと不安だったので、結局2人は半月近く、この小樽ラボに泊り込んだ。
 
「何かここでずっと暮らしていてもいい気がする」
「家賃要らないしね」
 
「まあ好きにしてもいいけど」
 
一応2人はこの月2度目の連休明け9月25日には退去したが、間枝さんは“引越”が大変なようであった。
 
 
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