【春約】(1)

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2018年5月14日(月)、川島信次は千葉支店から名古屋支店に転勤になった。3月に結婚したばかりの妻・千里は1日遅れの5月15日に名古屋に来るということだった。
 
この日は千葉の実家を出て朝一番の新幹線で名古屋に向かい、名古屋支店に出勤した。
 
千葉4:45(横須賀行き)5:33品川6:00-7:28名古屋
 
千葉支店では設計2課・システム係長という肩書きだったが、名古屋支店では個人住宅設計課・標準化室長という肩書きである。給料はこれまでより3万も上がる。それで係長から室長へというのは出世のようにも見えるが、名前からして閑職っぽい“香り”がある。実質左遷かなぁ、という気もしている。でもまあ、自分は部長とか支店長とかまで出世するタイプでもないし、などとも思う。
 
名古屋駅から会社に直行。8:20頃に到着。新しいIDカードをタッチして正門を通る。左手の方に新しい棟を建設中のようだ。正面にある棟はけっこう古い。恐らく築後40年くらい経っているなと思った。個人住宅設計課は1階である。入って行くと、奥の方に大きなテーブルがあり、そこに40歳くらいの男性が座っているので、挨拶に行く。
 
「おはようございます。千葉支店から転勤して参りました、川島信次と申します」
 
「おお、川島君。待っていたよ」
とその人物は笑顔で迎えてくれた。会議室に入る。
「水鳥君、お茶ね」
と近くに居た若い男性?社員に声を掛けた。
 

「書類はそちらに行っているとは思いますが」
と言って、辞令と、念のためまとめておいた業務経歴書を見せた。
 
「おお、一級建築士だけでなくシステム監査技術者を持っているんですね」
「システム部門が長かったもので取りました」
「住所はどちらですか?」
「中村区**2丁目です」
「名駅のすぐ近くですね!」
「ええ。駅に行くには便利な場所のようですね。でもその割には家賃が安くて」
「それは掘り出し物でした」
 
少し話をしている内に、さっき声を掛けられた27-28歳くらいの男性社員が「失礼します」と言って入って来て、お茶を出してくれた。
 
が、信次は大いに混乱した。
 
スカートを穿いている!?
 
「こちらの支店では男性社員もスカートの制服を選択していいんですね?」
などと信次は言ってしまった。
 
「ん?」
 
「あ、すみませーん。私、よく間違えられるけど女です」
とその社員は言う。
 
え?え?今の話し方は男の話し方に聞こえる。声は男にしてはやや高いピッチという気はするけど。
 
「水鳥君、もう性別間違えられたのは5回目くらいだっけ?」
「たぶん10回以上です」
 
「ごめーん」
と信次は謝る。
 
「水鳥君、いっそ下はズボンにする?」
「それでもいいですよー。誰も私を女と思わなくなるかも知れないけど」
 
「川島君もスカート穿きたかったら穿いてもいいけど。男性社員がスカートを穿くことは就業規則では禁止されていないから」
 
「いや、遠慮しておきます」
と信次は照れながら言った。しかしそう言う信次を水鳥は不思議そうに眺めていた。
 

その日はまだ千里が到着していないので、会社から新居に戻っても1人である。加えて引越の荷物は水曜日に到着するようにしていたので、アパートにはまだ何も無い。それで夕食は外に食べに出ることにする。
 
名駅の東側の地下街を歩きながら、安くて美味しそうな所は無いかなあと思い、眺めていたら、うっかり人にぶつかってしまった。
 
「ごめんなさい」
と思わず女声で言った。
 
実は信次は今夜女装していたのである。それは帰宅して晩御飯を食べてから、ひとりで“おいた”するためである。
 
信次がぶつかった若い男性も
「あ、ごめん」
と言った。
 
そしてふたりは一瞬お互いを見る。
 
「あれ?」
と彼は言った。
 
「あのぉ、まさか、川島さんですか?」
 
信次はギョッとした。自分を知っている人にこんな格好している所を見られるなんで。でもこれ誰だ?と必死で考える。
 
「あ、もしかして・・・水鳥さん?」
「はい。思わぬ所で会いましたね」
 
彼(彼女?)は完璧に男性の装いだった。
 

何となく誘い合うようにして居酒屋に入った。
 
「へー。宝塚にいたのか」
「男役やってたんで、男性的な仕草とか男みたいな話し方が抜けないんですよね〜。だから私、まず男と思われるし、女らしい服を着て歩いていても、女装した男にしか見えないんですよ。だから最近はもう開き直ってこんな格好してることが多いです。女らしい服を着ていて女子トイレに入ると悲鳴あげられて何度か通報されたんですよ」
 
「それは大変だねって・・・だったら今みたいな格好してる時はトイレはどうするの?」
「もちろん男子トイレを使います。一度も騒がれたことありません」
 
「凄い。君、恋愛対象は・・・バイ?」
「男の人にしか興味ない・・・なんて言っても信じてもらえないだろうなあ。川島さんは・・・・ゲイですか?」
 
「よく分かるね」
「だってMTFさんじゃないみたいだもん。雰囲気が」
 
「うん。MTFの人とゲイの人は全く雰囲気が違うんだよね。だってMTFは基本が女の子だけど、ゲイは基本が男なんだよ。僕は女の子になりたいわけではない。だから女装はするけど、これはプレイにすぎない」
 
「奥さんいるって言ってましたけど、奥さんって男の人?」
 
「元男性かな。今は完全な女性。性転換手術済み」
「だったら、カップルとして成立しない気がします」
「大丈夫。僕が女役で、彼女には***をつけて男役してもらっているから」
「なるほどぉ!」
「スポーツウーマンだから筋力あるよ。僕、何度かお姫様抱っこしてもらった」
「川島さんが抱っこされたんですか!」
「僕は身長も低いし、体重は43kgしかないから」
「それ軽すぎです!私より軽いじゃないですか!」
 
「実は逆駅弁したこともある。彼女に抱き抱えられたまま結合」
「うっそー!?」
「あまり楽しくなかったから1度しかしてないけど」
「質問です」
「ん?」
「その時、どちらがどちらに入れたんですか?」
「えっと・・・彼女が僕に入れたんだけど」
「それは逆駅弁ではなく、普通の駅弁だと思う」
「そうかも!」
 
ふたりは何だか意気投合してしまった。居酒屋で3時間くらい話してから結局閉店間際にお店を出る。
 
「波留ちゃん、おうちはどこ?電車まだある?」
と信次は尋ねた。
 
「うち、アクセス悪いんですよね〜。家まで辿り着けるのは名駅を10時発の便までなんです。だからどこか安いビジネスホテルにでも泊まります」
 
その時、唐突に信次は言った。
 
「それなら僕と一緒に泊まらない?」
 
水鳥波留はじっと信次の顔を見つめていた。
 

2018年5月、歌手の芹菜リセが俳優・山口輪樽との離婚を発表した。芹菜は昨年12月に山口と結婚し、500名も招待した盛大な結婚式をあげたのだが、半年も経たない内の離婚となった。
 
芹菜リセは1995年にデビューした歌手・保坂早穂の実妹で、1998年にデビューした。歌唱力豊かな姉といつも比較されていたが、それ故に人一倍努力し、彼女の評価は年々高まっていった。しかし決して姉を越えることはできなかった。
 
そのせいか、彼女はある時期から歌手活動より、テレビタレントとしての活動に重点を移していった。彼女の歯に衣を着せない話し方は、一定層のファンを得て、いつしか「芸能界のご意見番」などと呼ばれるようになっていた。若手の歌手やタレントで彼女から無茶苦茶言われて、恨むようになった人もかなりあると言われた。
 
ところがその彼女が2015年の6月頃から唐突にテレビ番組から姿を消した。実際には5月に出演していたものは4月中に収録されていたもののようで、ゴールデンウィーク明け以降、完全に活動を停止したのである。
 
そのことについて事務所やレコード会社に多数の照会があったものの、どちらもノーコメントで通した。しかしその問題を報じたマスコミはほとんど無かった。
 
どうも何かやらかして出演禁止になったようだという噂がネットを駆け巡る。テレビ局のワイドショーなどでも話題にならないことから、事務所が全部抑えてしまったのだろうと噂され、彼女の事務所社長で、業界のドンとも呼ばれる鈴木一郎社長を批判する声もあった。
 
彼女の消息はどこにも出ることなく、死亡説、入院説、外国渡航説、性転換説!?などが飛び交っていたが、2017年6月に唐突に3年ぶりの新曲を発表する。
 
新曲はわりと好評で、全国5ヶ所でのライブも行った。しかし彼女は歌番組を含めてテレビには一切出演せず、インタビューでこの2年間のことを訊かれても「申し上げることはありません」としか言わなかった。
 
彼女はその後、11月には5年ぶりのアルバムも発表したのだが、その直後結婚することを公表。12月に盛大な結婚式をあげて、芸能界からの引退を表明した。
 
ところがその結婚が半年もせずに破綻。離婚の記者会見で芹菜は
 
「主婦に専念しようと思っていたのですが、離婚しちゃったので、恥ずかしながら歌手に復帰したいと思います。蔵田先生のところに頭を下げに行ってきまして、新曲を書いて頂くことになりました」
と語った。
 
新曲は今年作曲家が全員多忙であることから、制作スケジュールが立てられないものの、秋頃には発売したいと彼女は語った。
 
ネットでは
「わがままな性格の芹菜リセが専業主婦なんてできる訳ないと思った」
とか
「旦那の収入がどう考えても芹菜リセの50分の1以下。金銭感覚が違いすぎるから、結婚生活が成り立つ訳ないと思った」
 
などといった辛辣な意見が多く出ていた。
 
ただ、芹菜リセは2015年の休業前は派手な衣裳でも知られていたのだが、先日の記者会見では、清楚なワンピースを着て、髪も肩までのセミロングに切り揃えており、どうもイメージチェンジを図るつもりのようだと噂する人もあった。口調も丁寧で穏やかな語り口であり、かつての「芸能界のご意見番」的な雰囲気は微塵にも無かった。それでかえって彼女を好感する人もあったようである。
 

天月西湖(生徒名:天月聖子、芸名:今井葉月)はその日、“分数”が分かってない人向けの補習授業を受けていた。
 
「みなさんの中には1/3(3分の1)とか、5/7(7分の5)とか、横線が引かれていてその上下に数字が書いてあるのを見ただけでも頭が痛くなるという人もあるかも知れません」
 
うん、それは私だ、と西湖は思った。
 
「でも難しく考えることはありません。ここにケーキがあります」
と言って、先生はこの日持って来た道具箱の中からラウンドケーキを取り出す。
 
「残念ながら模型です。生のケーキを使いたい所なのですが、予算が無いので」
と言うと、教室内に笑い声が起きる。
 
「ケーキがここに3個あります」
と言って、ラウンドケーキの模型を3つ並べる。
 
「ここにお友だちが3人いたら、このケーキを1個ずつもらうことができます」
 
と言って、先生は前の方に座っている、西湖、菊池由美奈(女優の稲川奈那)、立花紀子(Flower Lights)の3人を立たせ、まずはケーキを1つずつ持たせた。見ると、子供のままごとで使うケーキのようで切れ目が入っており、マジックテープでくっついてホールケーキ状になっている。
 

いったんケーキを先生の所に戻す。
 
「さて、ケーキが最初から3個あったらいいのですが、不幸にして1個しか無かった」
と言って、先生はケーキの内の2個を片付ける。
 
「しかし友だちは3人いる。その場合どうするか?」
 
「ひとつの手はジャンケンして買った人だけが食べる。でもそれでは負けた2人が悲しい。そこで3つに分ける訳です」
と先生は言って、ホールケーキの模型のマジックテープを剥がして3つに分けた。
 
「そして3つに分けたひとつひとつを3人で取るわけです」
と言って、分けた各々を西湖、由美奈、紀子に渡す。
「これで平和になりますね。この各々のことを、3つに分けた内のひとつだから3分の1と言って、1/3と書く訳です」
 
西湖たちも頷く。わりとそのあたりまでは理解するのだが、その先がどんどん分からなくなる。
 

ケーキはいったん先生の所に戻す。ケーキもいったんマジックテープをくっつけてホールケーキの状態に戻す。
 
「さて、ここで友だちが6人いたとしましょう」
と言って、先生はあと3人前に出して6人並べる。
 
「6人いるんだけど、ケーキは1個しかない。そしたらケーキ6分割すればいいわけです」
と言って、先生はマジックテープを剥がして今度は6つに分けた。
 
「それで分けようとしていた所で、3人が帰っちゃった」
と言って、今出てきた3人に席に戻るように言う。結局、西湖、由美奈、紀子、の3人だけになる。
 
「ところがケーキは6つに分けてある。どうすればいいか?天月」
 
と言って、先生は西湖に尋ねた。
 
「えっと・・・2つずつ取ればいいと思います」
 
「そうそう。だから3人に2つずつ配る」
と言って、先生は実際に6分割したケーキを2つずつ3人に渡した。
 
「これがつまり6つに分けた内の2つだから、6分の2という訳だ」
と言って、先生はさっき黒板に1/3 と書いた所の横に2/6と書いた。
 
「さて、3つに分けた内の1つと、6つに分けた内の2つ、どちらが多い?立花」
と訊くと、紀子は
「2つの方です」
と答えた。
 
先生が一瞬「うっ」と声をあげる。横から由美奈が言う。
 
「食べられる量は同じです」
 
「そうそう。数は2つになっているけど、食べられる量は同じだろ?立花」
「ああ、そういう意味なら同じです」
と紀子。
 
「だから、1/3と2/6は同じなんだよ」
と言って先生は黒板の、1/3と2/6の間に=(イコール)という記号を書いた。
 
ああ、1/3=2/6って、そういう意味だったのかと西湖は納得した。
 

「まあそういう訳で、2/6と1/3は同じなんだけど、より簡単な表現なのはどっちだ?」
 
「1/3です」
と3人は同時に答えた。
 
「そうそう。だから2/6と書いてあったら、1/3に直してしまう。これを《約分》というのだよ」
と言って先生は《約分》と板書する。
 
「約というのは、要約とか節約の約。簡単にする、小さくするという意味。この約分する時というのは、この場合、2/6の分母・分子を各々2で割っているよな」
 
と言って、先生は
 
2÷2=1
6÷2=3
 
と黒板に書いた。
 
「つまり分母・分子をどちらも同じ数で割ることができる場合は、そうすることで約分ができる」
 
西湖は約分ってそういう意味だったのか!と小学4年生の頃以来、訳が分からないままになっていたことが納得できた。
 

「これは数字の場合だけじゃないぞ。たとえば abc/bd という分数があったら分母も分子も b で割ることができる。だから abc/bd は約分して ac/d になる。
 
うんうん。そう説明されたら結構分かる。
 
「理科の単位とかもそうだ。たとえば kg m s / s という式があったら、分母子どちらにもs(秒)が入っているから約分して kg m にしてしまうことができる」
 
へー!
 
「例えば速度 8m/sで 5s間走った場合は、8m / s × 5s だから、かけ算は分子に掛ければいいから、8 × 5 m s /s となり、sを約分して答えは 40mとなる。だから秒速8mで5秒走れば40m進む。こういう計算でも約分をしている訳だな」
 
西湖はその計算自体は分かるけど、そんな所に分数の約分が使われていたのかと大いに驚いた。
 

「まあ約分というのは、無駄を省いているということなんだよな。ケーキを6つに分けてから2つずつ配るより、3つに分けて1つずつ配る方が切る手間が省ける」
 
西湖たちも頷く。
 
「ズボン穿いててスカートに着換える場合、ズボン脱いでパンティも脱いで、それからまたパンティ穿いてスカート穿くより、ズボンを脱いだ所でパンティは脱がずそのままスカート穿いた方が速い」
 
教室に笑い声が生じる。
 
「先生もスカート穿くんですか?」
と突っ込む生徒がいる。
「何度か穿かされたけど、あれは病み付きになりそうで怖い」
と先生が言うと、みんな笑うが、西湖はギクッとした。
 
やっぱりスカートって病み付きになるよね!?ね!?
 
「そういう訳で、約分というのは、そういう手間を省く作業なんだよ。言い方を変えれば相殺(そうさい)」
と先生が言うと教室内で頷いている子が多い。
 
「行儀良くするなら、コーラはいったんボトルからコップに注いで、コップから飲んだ方がいいかも知れないが、手間を省きたい場合は、ボトルからそのままラッパ飲みする」
 
教室内でクスクスという笑い声が聞こえる。
 
「芸能人でよく結婚してすぐ離婚する奴がいるけど、あれってわざわざ結婚式あげたりして無駄だから、最初から結婚しない方が効率が良い」
 
と先生が言うと、また笑い声が起きていた。
 
むろんみんな芹菜リセのことを考えていた。
 

5月14日の深夜、千里Cこと《せいちゃん》は社長から頼まれていた最後の企画書を書き上げると、印刷を掛けて、そのまま机に打っ伏して眠った。やがて印刷が終わったような音がすると、精神力を奮い立たせて立ち上がり、そろえてクリップで留め、社長の机の上に置いた。
 
それから荷物をまとめ始める。
 
最初は千里本人(千里A)が勤めることになっていたはずが入社初日から千里Bこと《きーちゃん》に「代わりに勤めて」と言われ、彼女は大型機ばかりやってきているので、汎用機とかUnix/Linuxマシンは分かるが、MSDOS/Windows/Macなどの端末は不得意である。それで結局そのあたりが得意な自分が担ぎ出されることになった。最初は3人で分担して仕事をしていたはずが、その内千里Aは全く出て来なくなる。そして昨年の春からは千里B(きーちゃん)も出て来なくなって、結局ほぼ全部《せいちゃん》が仕事するようになった。
 
千里の代理なのでこの3年間ずっと女装で過ごしたが、あいにく彼は女装の趣味は無いので、この女装で過ごすのが、嫌で嫌でたまらなかった。
 

「やっと女装から解放される。男に戻れる。もう女子トイレになんか入らなくていい」
 
と思っただけで、少し元気が出てくるかのようである。女子トイレはそこに漂う“女の香り”でむせそうになっていた。
 
「しかし俺、この3年間さんざん女子トイレも使ったし、女子更衣室も使ったし、もう女の下着とかヌードとか見ても何も感じないかも知れない。俺ちゃんと男に戻れるかなあ。もう1年くらいオナニーしてない気がするし」
 
と彼は少々不安も感じていた。
 
荷物をあらかじめ用意していた箱に全部放り込むと、いったんそれを駐車場に駐めているアテンザワゴンに積み込む。そしてあらためて少し掃除などもしてから忘れ物がないか確認。お土産にお菓子の箱を社長の所に置いてから退出する。鍵を締めて、その鍵は郵便受けに放り込んでから《せいちゃん》はアテンザに乗り、取り敢えず経堂の駐車場まで移動した。
 
千里が名古屋に引っ越すので、用賀の駐車場は解約したのだが、経堂の方は桃香の所に来る場合に使うかもということで契約を維持する。それで《せいちゃん》はこの駐車場で朝まで寝ていた。
 

トントンと窓を叩く音でギョッとして飛び起きる。
 
しかし見ると《きーちゃん》なのでホッとする。
 
「こんな所で寝てると風邪引くよ。どこか景色の良い所とかで1ヶ月くらい、のんびり過ごさない?」
 
「休んでいいの?」
「もちろん。千里の許可も取ってる。どこ行く?九州?北海道?」
 
「そうだなあ。出張で何度か行った宮崎が結構美しいと思った」
「じゃ、取り敢えず羽田まで送るから、宮崎行きに乗りなよ。ホテルは青龍が飛行機に乗っている間に確保して、そちらにメールするから」
 
「助かる」
 
それで《きーちゃん》がアテンザを運転して羽田に行き、《せいちゃん》には取り敢えず50万円渡して、彼を宮崎行きに乗せ、その後ホテルを探して、青島のパームビーチホテルを予約した。
 
「1ヶ月のご滞在ですか!?」
とホテルの予約係は驚いた。
 
「何でしたらホテル代は前金で払いますよ。口座番号教えて下さい。振り込みますから」
「分かりました!」
「もしかしたら半月くらいで出るかもしれませんが」
「ではその時は精算して・・・」
「現金で本人に返金してもらえばいいです」
 
「分かりました。ご宿泊なさるのは、えっと男性でしたっけ?女性でしたっけ?」
「女性です」
「ご年齢は?」
「1072歳です」
「は?」
「あ、ジョークです。32歳ということで」
「分かりました」
 

それで《きーちゃん》は
 
《青島のパームビーチホテルに予約したからバスで移動してね〜。ちなみに名前は五島節子 32歳・女性で登録してるからちゃんと女性の格好でチェックインしてね》
 
とメールを送っておいた。
 
《せいちゃん》は宮崎空港についてからこのメールを読み
「うっそー!?」
と声をあげたものの、そもそも自分がJソフトからそのまま出てきたから、女装したままであることに気付く。だいたい自分が持っている航空券を見ると 42F と印刷されている。そしてハッとして自分が持っているバッグの中身を見ると女物の服ばかり詰まっていることに気付いて、愕然とした。
 
「もう女装辞めたいのに〜」
と泣きそうな顔で呟いた。
 

さて、一方千里1(=千里A)の方だが、5月14日の深夜もずっと千葉市内のウィークリーマンションでひたすら作曲作業をしていて、何とか1本仕上げて送信したら15日(火)朝だった。パタっと倒れ込むようにお布団の中に潜り込みそのまま眠り込む。
 
そして起きたらもう15時だったので、もう荷物は放置してバタバタと身支度だけ整えて千葉駅に向かう。来た電車に飛び乗って名古屋に向かった。
 
千葉15:51-16:30東京16:47-18:28名古屋
 
車内から信次にメールして、18時半頃名古屋駅に着くことを伝える。
 
《お荷物が届くのは明日だし、今日は一緒に外食しない?》
《OKOK。じゃ18時半に迎えに行くよ》
 
なお、この日は名古屋名物《ひつまぶし》で食事をして“転勤祝い”をした後、帰宅するなり千里が疲れが出て眠ってしまったので初夜?はお預けとなった。
 

水曜日の日中に荷物が届いたのでとにかく千里1人でできる分だけ片付け、夕方信次が帰宅したら2人がかりでないと難しいものを何とかした。
 
「取り敢えず台所用品とかパソコンとか取り出したけど、残りの箱は少しずつ整理しようか」
「そうしよう」
 
ともかくも調理器具が出てきたので、この日はお肉と野菜を買ってきて、焼肉をして、引越祝い第2弾ということにした。
 
そしてこの日ふたりは初めて夜を共に過ごした。
 
もちろん千里が信次に入れるのだが、千里はこれなら自分のヴァギナを使わないので、貴司に対する後ろめたさが少ない、と思っていた。
 

木曜日は午前中食料品などの買物に行き、午後からは熱田区内のワンルームマンションに移動して、また作曲作業をしていた。
 
こちらは全ての荷物が配置され、配線も済んでおり、千里はそのまま月曜日の作業の続きをすることができた。
 
千里1はこれを青葉が手配した引っ越し屋さんがしてくれたと思っているが(引越屋さんはネットの設定とかまでしてくれない)、実際に作業したのは千里1とコネクションが取れないまま守護してくれている眷属たちである。
 
今回は《せいちゃん》がお休み中なので、《げんちゃん》が頑張って配線をしてくれた。
 
金曜日は朝信次を送り出したらすぐにマンションに移動して作業を続けた。
 
なお作曲関係のデータは大半をここに置いているが、緊急に連絡があったりした時のために、現在進行中の作品のCubaseプロジェクトと、全ての作品のMIDIデータをノートパソコンに入れて、これは中村区のアパートの方にも持って行っている。
 

土日、会社は本来休みなのだが、信次は「休日も出勤しないといけないから」と言うので、朝ふつうにお弁当を持たせ、ついでに「多分要る」と言って傘も持たせて送り出す。そして信次が
 
「今夜は徹夜作業になる」
と言っていたのをいいことに、必要な装備・資料を持って新幹線に飛び乗る。
 
(定期券を買うつもりだったが、毎日東京に行くことにはならないようだというので回数券を買った。6枚つづりで62,160円である。通常運賃は10,890円なので3180円:1回あたり530円お得)
 
最初に病院の夜勤明けという話だった蓮菜に会い、午後からは新島さんと毛利さんに会いに行ったのだが、毛利さんは
 
「醍醐ちゃん、いい所に来た!間に合わないんだ。5時までに1曲書いてくんない?」
などと言う。
 
「誰の曲ですか?」
「三つ葉」
「アルバム?」
「シングル」
「え〜〜〜!?」
 
「タイトル曲を今調整中。カップリング曲まで手が回らない。スケジュール的に今日から音源製作に入らないと発売に間に合わない」
 
「なんかいつもそれですね〜」
 
と言いながら、千里はノートパソコンを広げて、彼のマンションで1曲書き上げた。葵照子に電話して1個詩を送ってもらい、それに即興に近い形で曲をつけた。『マドンナの祈り』という落ち着いた雰囲気の曲である。三つ葉には少し大人っぽすぎるかなとは思ったものの、まあカップリング曲ならいいだろうと思った。
 
時間が無いので、メロディーとコードだけ指定して、伴奏はCubaseの自動伴奏機能で入れてしまった。
 
「自動伴奏で入れてますから、あと手作業で調整してください」
と千里は言ったが
「ごめん。もう時間無いから、そのまま使う」
と言っていた。
 

その後、桃香のアパートに寄ったのだが、留守だったので、台所がとんでもない状態なのを片付け、食料品を買ってきて冷蔵庫・冷凍室に放り込んでおいた。
 
その日は都内のホテルに泊まり、日曜日は朝から横浜市にある、レッドインパルス2軍の練習場に顔を出す。
 
「テンさん、お時間取れたんですか?」
と練習に来ていたメンバーがびっくりする。
 
彼女らの認識では“千里”は現在、東京北区のNTCで缶詰になっているはずなのである。しかし千里(千里1)は、名古屋に居るはずなのにと思われたものと思い、
 
「ちょっと気分転換に出てきた」
と言って、彼女たちと手合わせした。
 
「1ヶ月半見ないうちに凄くレベルアップしてる。これなら1軍復帰も時間の問題ですね」
とこの日出てきたメンバーからは言われた。
 
「私もけっこう進化している気がした!」
と千里1は言った。
 

午後からは§§ミュージックにちょっと顔を出してから、帰りの新幹線に乗った。
 
そして夕食の支度をしていたら、信次が帰宅するので
「お疲れ様。そろそろだろうと思ったから、お風呂入れてたよ」
と言う。
 
「ありがとう」
と言って、信次が浴室に行くと、お湯が溜められているのだが、ちょうど浴槽の7割くらいまで溜まった所である。信次はお湯の栓を締め、服を脱ぎだした。
 
信次としては“ある理由で”千里とキスしたりする前に、身体をよくよく洗っておかないと“やばい”のであるが、千里はそんな信次の事情には気付いていないようであった。
 

このようにして、信次と千里の新婚(?)生活は始まっていった。信次は毎週週末には徹夜で会社に泊まり込んで仕事をしているようなので(土日は会社の設備が自由に使えて仕事が進む、と言っていた)、それをいいことに千里は土曜日の朝から日曜日の夕方まで、東京に行って来て、主として音楽関係の作業を進めるのと同時に、日曜日の午前中にはレッドインパルス2軍の練習場に顔を出して、出てきている選手と手合わせしていた。
 
なお、この間、千里3は6月いっぱいまで国内で合宿をしており、7月3日からスペイン遠征の予定が入っていた。
 
また千里2はずっとアメリカでWBCBLをやっていた。
 

ところで青葉の方であるが、2018年5月24-27日東京辰巳水泳場でおこなわれたジャパンオープン水泳で“日本代表に選ばれないようにしようと”努力したにも関わらず、青葉より上位で入った選手がドーピング違反になったり、フライングとされたりで失格し、思いがけず女子800m,1500mで優勝してしまう。それで8月9-12日に東京辰巳水泳場で行われるパンパシフィック水泳に日本代表として出ることになってしまった。
 
この大会には既に4月の日本選手権で1-2位になった幡山ジャネと永井映絵も出場が決まっている。彼女たちは8月18-24日にジャカルタで行われるアジア大会にも出場する。
 

さてK大水泳部の活動だが、5月27日(日)に中部学生短水路選手権水泳競技大会が昨年同様日進市で行われたので、出場資格のあるメンバーで行ってきている。青葉はジャパンオープンとぶつかったので不参加である。6月3日(日)には石川県の記録会があったが、青葉は富山県人なのでどっちみち関係無い。
 
そして実際問題として青葉は5月28日から6月3日まで東京北区の味の素ナショナル・トレーニング・センター(以下"NTC")で日本代表の合宿に入ったのである。
 
青葉はここに入ったのは、昨年7月に千里1がここで合宿中に(無断)外出していて一度死亡し、すぐ蘇生したものの様子がおかしかったので、心配して付いてきて、練習とその後の練習試合の様子を見た時以来2度目である。しかし選手として入るのは初めてだ。
 
そして初めてであることもあり、青葉はバスケット女子代表の合宿をやっている最中の千里3と同室にしてもらった。千里3の合宿日程(予定)はこのようになっている。
 
2018.04.15-25 日本代表第1次合宿 NTC
2018.05.01-07 日本代表第2次合宿 NTC 32名
2018.05.13-20 日本代表第3次合宿 NTC
2018.05.25-30 日本代表第4次合宿 NTC
2018.05.30 日本代表、Aチーム(16名)とBチーム(13名)に分割
2018.06.01-19 Aチーム第5次合宿
____.06.08 強化試合(東京)台湾代表
2018.06.25-7.2 Aチーム第6次合宿 NTC
2018.07.03-14 Aチーム、スペイン遠征(マヨルカ島)
2018.07.20-27 Aチーム第7次合宿
2018.08.01-10 Aチーム第8次合宿
2018.08.15-22 Aチーム第9次合宿
2018.08.28-9.5 Aチーム第10次合宿
2018.09.06-18 Aチーム海外遠征(アメリカ→スペイン)
2018.09.22-30 ワールドカップ(スペイン・カナリア諸島テネリフェ島)
 
ひたすら合宿をやっていて、他のことをする時間は全く無い。それで結局千里3はこの年に起きた重大事件を知らないまま過ごすことになった・・・・と千里2は思っていた。
 

「青葉、水泳ずいぶん頑張ったんだね」
 
27日の夜、水連事務局で代表選出を告げられた後、そのままNTCに連行されるように!?連れていかれて合宿所に入り、千里姉の部屋に入った時、千里姉(千里3)は言った。
 
青葉は困ったような顔で答える。
 
「代表に選ばれないように頑張ったつもりだったのに・・・」
 
「は?」
 
上島問題の関係で大量に曲を書くはめになり、一方では就活の準備も始めないといけないのに、代表合宿とかやってたくないのにと言うと、千里3は笑う。
 
「やりたくなければ水泳部やめればいいのに」
「退部届け出してるのに握り潰されてるんだもん」
「青葉も下手だね〜。練習に出ていかなければ済むことじゃん」
「だって、頭数足りないから来てよとか言われるし」
 
千里は呆れたように笑っていた。
 
「でも青葉、アナウンサー志望なんでしょ?」
「うん」
 
「中央局のアナウンサーになるには、日本代表の経歴くらいあった方がいい」
「へ?」
 
「だって中央局のアナウンサーに応募してくる人の中には、ミス何とかに選ばれたとか、元有名アイドルとか、国体優勝者とか、チアリーディングの全国大会で優勝したとか、そういうクラスがゴロゴロいるんだよ。何も肩書きが無くてそういう子たちに対抗するのは厳しい」
 
「うーん・・・」
 
「だから今度のパンパシフィック?それでジャネさん破って金メダル取りなよ。国際大会の金メダリストなら、かなり有利になる」
 
「うーん・・・・・・」
 
国際大会の金メダリストとかになったら、年中合宿ということになって、全く時間が無くなって大学も卒業出来ないと言うことは!?と青葉は将来が不安になった。
 
でも・・・金メダルは取ってみたいなと少し心が動いた。
 

「ところで私水連の人から、パスポート持ってますか?と言われてうっかり『はい』と答えたんだけど、もしかして高校時代に取ったのって使えないよね?」
 
と青葉は尋ねた。
 
「いつ取ったんだっけ?」
「2015年1月」
 
「ということは2020年1月まで有効。でも青葉、性別が違うじゃん」
「そうなんだよ。去年性別変更した時に、健康保険証とかは切り替えたけど、パスポートのことは忘れていたんだよね。あれどうすればいいんだっけ?」
 
「記載事項変更でも行けると思う」
「それどうなるの?」
「パスポートの余白欄に『性別を女性に変更済み』というメモが書かれる」
「それ嫌だ!」
 
「まあ入出国で間違い無く揉めるよね。切り替え申請もできるはず。そしたら新しいパスポートが発行される」
 
「良かった。そしたら合宿が終わって高岡に戻ったら申請すればいいのかな?」
 
「それだと遅くなるよ。青葉さあ、お母さんに電話して、申請書類を取ってきてもらいなよ。そしてその場で書いて、お母さんにはすぐ高岡に戻ってもらって、書類提出」
 
「それって代理人でもできるの?」
「申請は代理人でもできる。書類に代理人の名前を指定する欄があるから」
「へー」
「受け取りは必ず本人」
「なるほどー!」
 

それで青葉は合宿の統括をしている水連の人にパスポートは取り直したいと言って許可をもらった上で、母に電話した。それでまずはこのまま合宿に入ることになったことを伝えた上で、新しいパスポートを取らなければならなくなったので、申し訳無いが明日朝一番に、富山駅前の《マリエとやま》内にある旅券センターに行って書類を東京まで持って来てくれないかと頼んだ。
 
「それ高岡では申請できないの?」
「高岡だと受け取りまでに日数が掛かる上に、営業時間が短いんだよ」
「へー!」
 
高岡支所で申請・受取りする場合は富山の本庁でやるより2日余分に掛かる。更に富山だと開庁時間が9:00-16:30なのに高岡は10:00-16:30なのである。その場合、東京往復していると閉庁に間に合わない。
 
※書類を受け取り、東京往復して、書類提出が間に合う連絡
 
富山10:05-11:54大宮12:02-12:18赤羽
赤羽13:25-13:40大宮13:50-15:57富山
 
一方青葉は個人会社の件で顧問契約を結んでいる霧川司法書士に電話して、明日自分の戸籍謄本と住民票を取って、夕方富山駅前で朋子に渡して欲しいと頼んだ。こういう書類は親族なら取れるのだが、あいにく青葉には戸籍上の親族が存在しないので、こういう場合、弁護士や司法書士にしか取れないのである。(青葉は成人したので朋子による未成年後見も終了している)
 

朋子はその日の内に青葉の自室机の中に入っている男性時代のパスポートを取り出し、自分のバッグに入れた。また会社の上司に電話して明日休ませて欲しいと言い、口頭で了承してもらう。
 
翌28日(月)。早朝から電車で富山駅まで行く(伏木7:42-7:56高岡8:01-8:20富山)。それで駅のすぐそばにある《マリエとやま》の旅券センターが開くのを待って1番で飛び込み、性別変更に伴う切替申請をする旨を言って申請書類をもらう。そして青葉に言われた通り、10:05《かがやき508号》に乗った。これを一つ前の9:45《はくたか558号》に乗ってしまうと、到着が《かがやき》より16分も遅い12:10になってしまうのである。
 
一方青葉は昼前に許可をもらって合宿所を抜け出し、赤羽駅まで行っていたので、改札口の所で朋子と落ち合い、駅ビル(ビーンズ赤羽)内のレストランで食事をしながら書類を書いた。
 
「でも海外ってどこに行くの?」
「まだ分からないけど、ひょっとするとスペインまで行くかも」
「大変ね!」
 
母には交通費とお小遣いを渡した。
 
「申請の手数料は要らないんだっけ?」
「それは受け取る時に払うんだよ」
「なるほどー」
 

それで母は慌ただしく大宮駅に戻り、無事13:50の《はくたか565号》に乗った。そして16時前に富山駅に着くと、霧川司法書士の代理という事務員の霧川裕子から、青葉の戸籍謄本と住民票を受け取る。
 
「わざわざ済みませんね」
「いえ、仕事ですから」
「あら?あなたも霧川なんですね。お嬢さんですか?」
と朋子は彼女の名刺を見ながら言う。
 
「あ、いえ息子です」
と霧川裕子。
 
「へ?」
「おかしいなあ。私よくお嬢さんですか?とか言われるんですよね〜。私って女に見えますかね?」
「えーっと」
 
朋子は肩までのセミロングヘアで、ばっちりお化粧もして、グレイのビジネス用スカートスーツを着ている霧川裕子を見ながら、どう返事したらいいのか困惑した。彼女(?)の声も女性の声にしか聞こえない。胸もEカップくらいありそうに見える。
 
女性にしか見えないんだけど!?
 
もしかして男の娘なの!???
 
しかし女の子になりたい男の子とかであるなら、わざわざ息子ですなどと言わず、堂々と「娘です」と名乗るだろう。そもそもそんなこと言わなければふつうに女性としてパスしている。
 
朋子は少し悩んだものの、しかし彼女の性別は些細なことである。ともかくも御礼を言って、すぐに旅券センターに行き、書類を提出した。なお、この時に青葉の男性時代のパスポートは返納した。これは穴を開けて無効化したものを新旅券受取り時に返してくれることになっている。
 

朋子にとってはなかなかハードな1日であった。
 
「疲れたぁ!お小遣いももらったし、鱒寿司でも買って帰ろ」
と言って、駅構内で富山の“ますのすし”を買って自宅に戻った。
 
富山17:36-17:54高岡18:15-18:23伏木
 

さて青葉本人は、28日、パスポートの申請の件で赤羽駅まで行き母と会った以外は、ひたすら練習であった。ここでは細かいフォームの調整とかスタートの仕方とかの指導は無い。水泳はリレーを除いては個人競技なので、張り詰めた緊張感の中、みんなひたすら練習をしている。
 
それはそれで青葉は身が引き締まる思いだった。
 
「で、代表の練習どうだった?」
と夕食後に部屋で会ったとき、千里姉(千里3)に訊かれた。
 
「練習量が凄まじい」
「まあ朝から晩までやってるからね」
「夕食後もプール開放しているらしいから、行って練習してくる」
「行っといで。ここに来るのは練習の虫ばかりだよ。その姿勢や態度を見習うのも、日本代表を経験して得られること」
 
「そうかも」
 
千里3と話して、青葉は少しだけやる気を出した。
 

夜の練習から戻ってきたら、千里姉は楽曲を書いていた。青葉もパソコンを出してやろうとしたら
「30分仮眠してからやった方がいい」
と言われる。
「30分寝るつもりが朝まで寝てしまいそう」
「オナニーして寝ればいいんだよ。そしたら30分後に自動的に目覚める」
「えーっと・・・」
「オナニーしたことありませんなんて言わないでよね、アクアみたいに」
 
「あの子は本当にオナニーしてないでしょ?」
「したくてもできないからね」
「そもそもしたくないんだと思ってたけど」
「性欲が無いからね」
 

それで千里姉はわざわざ15分ほど席を外してくれたので、その間に青葉はよく眠れるようにして仮眠を取った。
 
本当に30分後に目が覚め、結構疲れが取れている。
 
「だけど、ちー姉はよく代表合宿やりながら作曲してるね。それもかなりハイペースで書いているみたい」
 
と青葉が言うと、千里は青葉を気遣うように言った。
 
「青葉、全ての曲を全力で書いたら、消耗して来年くらいから何も書けなくなる。自分を守ることが大事。埋め曲と本気曲をちゃんと区別しないと、自分が壊れるよ」
 
「あぁ・・・・」
 
「よし、青葉のために埋め曲作り講座をしてあげよう」
/と言って、千里は唐突に講義を始めた。
 

「埋め曲は大いなるワンパターンなんだよ。水戸黄門的な世界」
「それは何となく分かる」
「演歌とか見てごらんよ。ほとんどの曲が同じだから」
「ちー姉、今の発言は敵を数百万人生んだ気がする」
「まあ取り敢えず自分のパターンを確立する。全部それに当てはめちゃう」
「やはり幾つかおなじみのメロディーを用意しておけばいいのかな」
「そうそう。サビ用、クライマックス用にいくつかのパターンを用意し、全部そこに持ち込む」
「やはりそうなるのか」
 
「基本的にAメロは語りかけるように。歌詞の抑揚やリズムを曲に変換する」
「あ、その手法は分かる気がする」
「この時、既存の曲に似すぎる場合はちょっとだけ変える」
「うんうん」
「そしてサビは歌うように」
 
「やはりシャンソンのクプレ(couplet)とルフラン(refrain)って感じかな」
「そうそう。そのパターン」
 
「あとは作曲家によってコード先行が書きやすく感じる人と、メロディー先行が書きやすく感じる人がいる」
 
「ギタリストは割とコード先行だよね」
「うん。単音楽器の人は割とメロディー先行」
「ピアニストはどちらもいるよね〜」
「やはりその人の性格という気がするよ」
 

その後も千里3の講義は続き、いかに自分の精神を削らずに曲を書き上げるかというのを千里3は力説した。さすが年間50曲くらい?コンスタントに書いているだけあるなと青葉は思った。
 
「邪道だけど」
と言って、千里はある種の道具を使って自動的に音やリズムを決めていく手法も教えてくれた。
 
「でもこれは公開できないね」
「そうそう。絶対秘密。創作性に疑義がある。でもこのくらいやらないと今年は乗り切ることはできないよ」
 
青葉はふと思った。
「ねぇ。こういう作り方するのなら、これコンピュータにも作曲できない?」
「うーん。そのあたりは分からないなあ。コンピュータの専門家に聞いてみたら、やる気を出すかも」
と千里は言っている。
 
ゴールデンウィーク明けまでソフトハウスに勤めていたのは誰さ?と突っ込みたい気分だったが、やめといた。
 
(“千里”は結婚した川島信次の名古屋転勤に伴い東京のJソフトを退職した)
 
「ただコンピュータにやらせた場合、いわゆる1/f(えふぶんのいち)のゆらぎを組み込まないと自然さが出ないし、あと過去の作品との類似チェックをして、似すぎる場合は、例えばFの和音だった所をDm(ディー・マイナー)に変えたりとか、ドミソの和音のソにしていた所をミに変えたりとか、そういう“別ルート選択”のロジックが必要だと思う」
 
と千里は言う。
 

何か少しは分かってんじゃん。“この千里”は割とコンピュータに強いのかも、と青葉は思った。
 
「ああ、それはそういうのできそうな気がする」
「それにしても過去の作品のデータベースが必要という気がするね」
と千里(千里3?)は言う。
 
「それを作るのは個人では無理だよね?」
と青葉は尋ねる。
 
「松前さんの音源図書館あたりがそういうの作ってくれたらいいんだけどね」
「あそこは予算があまり無いけど、誰かそういう所に資金を提供してくれたら実行可能かもね」
と千里。
 
「資金ってどのくらい必要?」
 
と青葉は訊いた。もし1億くらいで出来るなら、千里姉と2人で出資できるのではと思ったのである。
 
「CDに録音されているのはPCM形式の“音”のデータだけど、このままでは処理ができない。これを“音名”のデータに変換し、最終的には調性を判断して、“階名”にまで変換する必要がある。これは多少の変換ミスを容認するなら自動で変換するソフトを友人が持っている。だからそれを少し改造して使えば、CDから自動で階名方式のMIDI様データを作ることができる」
と千里が言う。
 
「それは凄いね」
と青葉。
 

「CDの収録曲名自体はインターネット上に公開されたデータベースが存在するし、だから作業はふつうにパソコンの操作ができる人ならやれる。マイナーなものはデータベースが無いからその分はレコードジャケット見ながら入力すればいい。だから高校生でも主婦でもできるよ」
と千里。
 
青葉は本気で感心した。どうも“この千里”はIT関係の知識が結構あるようだ。
 
「作業時間は、実質読み込む時間だけが必要で、作業する人はどんどん読ませてはメディアを交換すればいい。40倍速のCDドライブを使えば1枚2分で読み込める。だから曲名データベースに登録されたCDなら1時間に20-30枚読み込ませられる。登録の無いものは曲名入力の手間があるから1時間に5-6枚かな」
 
「過去に出たCDの総数ってどのくらいだろう?」
 
「年間発売されるCDの数はだいたい1万枚くらい。だから例えば1990年以降の作品を全部データベースに放り込むとしても、30万枚くらい。実際にはその1割も放り込めば充分だと思うから3万枚として、1時間に平均10枚、1日7時間作業して70枚なら430日で終わる」
 
「人をたくさん雇えばもっと速いよね?」
「うん。2人ならその半分の215日。3人なら3分の1の144日、10人なら43日」
 

そんな話をしているうちに千里が言った。
 
「ね、ね、人を15人月(にんげつ)雇うのなら700-800万もあればいいよね?」
 
「いけると思うけど」
と青葉は答える。「人月」という単位はソフトウェア制作の世界ではよく使われる。青葉はこの千里は本当は誰だろう?と考えた。
 
「私お金出すからさ、青葉、その作業を誰かにやらせてくれない?」
「私もその話をしようかと思った」
と青葉も言う。
 
「あと音源の使用料が必要だけどさ、取り敢えず冬子のマンションにCDとかアナログレコードが3万枚くらいあるんだよ。あれを借りて全部放り込むだけでもかなりのデータベースができると思わない?」
 
「あそこ3万枚もあるの!?」
「あの部屋何度も入ってみたけど、一度数えてみて最低でも2万枚、ひょっとしたら4万枚とみた」
 
「それもしかしたら音源図書館より良質かも」
「かもね。何しろミュージシャンの耳と感覚で集めたライブラリだから。あと、ローズ+リリーの担当の氷川さんの実家が凄いんだよ。あそこも冬子の所と同じくらいのボリュームある」
 
「ちー姉、そのPCMのデータからメロディーを取り出してMIDI化するプログラム、そのお友だちに頼んで用意できる?」
 
「できると思う。彼はこの春に会社をやめて今フリーらしいんだよ」
 
それって、ちー姉に代わってJソフトに勤めていた眷属さんなんじゃないの?と青葉は思った。その人が会社を辞めたことは千里3も知っているわけだ。
 
千里3は少し後ろの方に気配を向ける仕草をした。どうも眷属と会話しているようだ。こういう仕草を無防備に自分に見せるのは珍しい、と青葉は思った。
 
「1ヶ月以内には書けるって。うまく行けば1週間くらい」
 
「凄い!だったら取り敢えずデータベース化しようよ。私もお金出す」
「よし。やろう」
 

そういう訳で、5月28日夜、千里3と青葉の《既存曲データベース化プロジェクト》が人知れずスタートしたのであった。
 
青葉は翌29日の昼休み、空帆に連絡して、これこれこういう計画を持っているので、CDからのデータ取り込み作業をしてくれそうな人を首都圏で雇えないかと打診した。彼女は(守秘義務を守る前提で)時給2000円出すという話に、それなら、絶対やりたがる学生がいると言い、すぐに4人の音楽好きの同級生を紹介してくれた。
 
面接に関しては千里3が
「任せて。適当な人を行かせる」
と言った。たぶん眷属の誰かに面接させるのだろう。
 
実際その週のうちに4人とも採用する。
 
CDのPCMデータ(≒WAVE/AIFF)からMIDIに変換するプログラムは千里3の“友人”で五島節也さんという人が本当に一週間で書いてくれた。
 

一方、千里3が5月29日に冬子に電話して
「冬のCDライブラリをmp3でコピーさせてくれない?料金は1枚あたり500円、だから3万枚なら1500万円払うから」
と持ちかけると、冬子は驚いて
 
「そんなのお金要らない。千里なら自由にコピーしてもらっていいよ。でも直接CD/LPから取り込まなくてもあのライブラリは全部既にmp3にしてある」
 
と言って、冬子のマンションのホームサーバーの中にあるライブラリを全部こちらで持ち込んだハードディスクにコピーさせてくれた(この作業は空帆が自分でやってくれた)。実際問題としてこれで作業をかなり省くことができた。これが実は4万曲もあった。
 
冬子のデータは、
 
mp3/Artist名/Album名/nn-曲名.mp3
mp3/Artist名/Album名/nn-曲名.txt クレジットや演奏者の記述
 
というフォルダ構造・ファイル名になっており、更にご丁寧に
 
mpc/作曲者名/曲名/演奏者名/Album名.lnk
 
というショートカットのリストまで作られていた。これは高校時代に冬子が自分でプログラムを書いて自動的にリストアップするようにしたものらしい。つまり場所を手作業で移動したりしても、リストアッププログラムを走らせると、自動的にこの作曲者単位のデータも更新される。
 
ポップスなら上の形式だけで充分だが、クラシック曲や童謡・民謡などのように同じ曲を多数の演奏者が制作している場合、絶対にこちらの情報も必要なのである。
 
この構造が非常に優秀なので、千里と青葉は以降のデータベースもこの方式に準じて構成することにした。但し.lnkはWindowsの.lnk形式ではなく、もっと処理しやすい独自のフォーマット(青葉が定めた)に置換した。この変換プログラムは冬子が「この程度の自由に使って」と言って渡してくれたプログラムを青葉が自分で改造した。
 
なお、冬子自身はこの年、精神的に半分死んでいたので、このデータが自分自身が7月12日以降進めることになったMuse Projectのデータベースとしても使用できることに全く気付かなかった。
 

更に千里は冬子から「氷川さんとこと、松原珠妃の所も凄い」と言ってその2人のライブラリを紹介してもらった。結果的に空帆の紹介で雇った4人はこちらのライブラリの変換作業をしてもらうことになった。
 
千里も氷川さんのライブラリが凄いのは知っていたのだが、松原珠妃もそういうライブラリを持っていることは知らなかった。千里3は2人の所には自分自身が行かなければダメだろうなと考え、少し考えてからNTC選手村内の玲央美の部屋を訪れた。
 
「どったの〜?」
「須賀秀美ちゃんをちょっと貸してくんない?」
「貸すも貸さないも、そもそも千里の“お友だち”なのでは?」
「千里1のね」
 
玲央美はしばらく千里を見ていたが、やがて言った。
 
「なるほど。じゃ電話番号教えるから、直接交渉してよ」
「了解〜」
 

それで千里(千里3)が須賀秀美の電話番号に掛けたら、《すーちゃん》は千里3から連絡があるとは思いも寄らなかったので、驚愕する。
 
「ねぇ、千里どこまで知ってるの?」
「想像に任せる。でも火野純香ちゃんは私が3人いること気付いてるんでしょ?」
 
「なんで私の本名を知ってるの〜〜〜!?」
「そりゃ長い付き合いだし」
「まあいいか。去年の夏以来休業中だったし。で、何すればいいの?」
 
「どちらを選んでもいい。どちらかをして欲しい」
「何と何?」
 
「明日私の代わりに代表合宿に参加するか、明日私の代わりに氷川真友子と松原珠妃の所に行って、各々のCD/LPライブラリをコピーさせてもらえないかと交渉するか」
 
「そんな交渉なんて無理!」
「じゃ代表合宿代わって」
 
「うっ、うっ、何とか頑張る」
 
 
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【春約】(1)