【春約】(2)

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そういう訳で千里3は《すーちゃん》を自分の直接の眷属にしてしまい、翌5月30日の合宿を代わってもらって、まずは午前中に★★レコードに赴いて氷川さんに会った。
 
「ああ、あのライブラリのデータ化ですか。いいですよ。でも何にお使いになるんですか?」
「いえ。今年はたくさん曲を書いてますでしょ。うっかり既存曲とそっくりの曲ができても気付かないよなと思って、そのチェックに使いたいんですよ」
「なるほどですね」
 
それで氷川さんは実家に、千里が雇った学生を入れてコピー作業をさせることを許可してくれた。
 
「でもケイちゃんの所とかなりダブっている分もあるかも」
「CD番号/LP番号を見てそちらとダブっている分はスキップします」
「それなら無駄になりませんね」
 

午後からは松原珠妃を放送局で収録が終わった所をキャッチした。
 
「おお、鴨乃清見さんか!でもあんた何度か会ってるよね?」
と言って、彼女は千里と握手し、コピーはどうぞどうぞと言われた。
 
「でもそのmp3からメロディーを抽出したライブラリというのに凄く興味がある。私もアクセスできるようにできる?」
 
「もちろん、完成したら、松原さんにはアクセスキーをお渡しします」
と千里も笑顔で答えた。
 
実際に作業する学生については、氷川さんにも松原にも顔写真と名前をメールすることにした。
 

松原珠妃と別れた後、千里は《きーちゃん》に呼びかけた。
 
『私を青島パームビーチホテルに転送してくんない?』
『うーん。ま、いっか』
 
それで千里は自分が青島海岸に来ていることを認識する。千里は目の前にあるリゾートホテルの中に入っていった。
 

《せいちゃん》は5月14日でJソフトの仕事が終わって3年間の激務から解放された後、どこかのんびりした場所で休養するといいよと《きーちゃん》に言われ、宮崎県の青島海岸にある有名なリゾートホテルに入り、海岸の見える部屋でボーっとして過ごしていた。
 
海の幸をふんだんに使った料理も美味しいし、足つぼマッサージなどしてもらうと、疲れが芯から取れていくような気がした。
 
(龍の足つぼがどこにあるかは作者もよく分からない)
 
持って行っていた服が女物ばかりだったので、男物の服も買おうと宮崎市内のスーパーまで出かけて行ったのだが、ふと気付くと女物の着換えばかり買って帰ってきていて、思わず「なぜだぁ!?」と叫んだ。
 
(きーちゃんが苦笑していた)
 
どうも3年間の女装生活ですっかり女装が身体に染みついてしまっているようである。このことは取り敢えず放置することにした。
 

しかし最初の3〜4日は純粋に休暇を楽しんだのだが、勾陳などと違って女遊びする趣味も無いし、飲酒などの習慣も無いので、次第に暇をもてあましてきた。(彼はお酒もせいぜい週に2〜3回、ビール1缶程度を飲むくらいである)
 
そろそろ何かしたいなあと思っていた5月28日の夜、唐突に千里から直信があり、びっくりする。
 
『せいちゃん、こういうソフト作れる?』
と訊かれるので
 
『それなら以前作ったことある。Waveファイル、マックならAIFFだけど(*1), そこから最も目立つ音のピッチを認識して音名に変換する。だから歌入りの曲なら多くの場合、ボーカルの音を認識するけど、間奏とかなら最も目立っている楽器の音を拾う』
『うん。それで問題無い』
 
(*1)WindowsのWaveファイルとMacintoshのAIFFはPCMデータを符号付きで格納するか符号無しで格納するかの違いだけで、実質同等のファイルである。初歩的なプログラムで相互変換できる。
 
『重唱の場合は声質の違う人の歌はかなり分離できる。男女のデュエットとかは全く問題無い。合唱の訓練を受けた人同士の歌や姉妹のデュエットは結構間違う。実はKARIONの和泉の声と蘭子の声はふたりとも合唱の発声法を使っているから声質が似てて時々混線していた。でもかなり頑張って間違い率を0.1%くらいまで抑えられるようになった。マナカナのデュエットはメチャクチャになったけどあれは解決方法を思いつかない』
 
『マナカナはいいや。waveじゃなくてmp3とかだったら?』
『それは元々Waveを圧縮したものだから元に戻せばいい。これは変換ライブラリがあるよ』
 
『大量にあるCDをmp3に変換しておいてさ、それからそのプログラムで音名のデータに変換してデータベース化しておいたらさ、新しい曲を作った時にそれがどれかと似てないかみたいなチェックってできる?』
『それはできるけど、音名から更に階名に変換してデータベース化しておかないといけない。でもその変換は調性だけ認識すればいいから作れると思う』
 
『作るのにどのくらい掛かる?』
『1ヶ月かな。でも骨格になるプログラムはあるから、うまくすれば1週間でできるかも』
『了解。また連絡する』
『あ、うん』
 

《せいちゃん》は千里は霊的な能力を喪失していて“心の声”を使う力も無くしていたと思っていたので本当に驚いた。しかもこの夜は多分1000kmくらい彼方からの直信である。
 
1時間ほど後、再度直信がある。
 
『さっき話したのとは別に色々相談したいことがあるから、近い内にそっち行っていい?』
『いいけど・・・俺の居場所分かる?』
『さっき話している時に分かった』
『さすが!』
 
話している相手の周辺が見えてしまうのは千里の持つ基本的な能力である。しかし千里は昨年一度死んだ時にそういう力も失っていたはずである。
 
『そうそう。この件、他の子たちには内緒でね』
『分かった』
 

そして5月30日の夕方、ホテルのドアをノックする音がある。
 
「私。入れて」
千里の声なのでドアを開けて部屋に入れる。
 
「これお土産〜」
と言って、千里は《せいちゃん》に《東京ばな奈》を渡す。
 
「ありがとう」
 

「それでさ。こういうことをしたい訳よ」
と言って千里は《埋め曲・自動作成システム》のことを話した。
 
「作れると思う」
 
と彼は言った。元々端末系のソフトを書き慣れている《せいちゃん》はこういう疑似人工知能的なプログラムも大好きである。
 
「ただジャンルにもよる」
「ジャンル?」
 
「演歌やフォークなら割と簡単」
「なるほどー」
「ポップスでもアイドル歌謡とかは比較的楽。使用する音が少ないから、作る手間も小さいんだよ」
「分かる気がする」
 
「ジャズとかは難しい。ブルーノートに入ることで演算量が凄まじく増える」
「ケイが使っているようなグリーンノートは?」
 
「むしろ昔のケイの曲なら行ける」
 
「なるほどぉ!私はそちらが好きだ。多分マリちゃんもそちらが好きだ」
「恐らくローズ+リリーのファンもそちらが好きなんだと思う。だってケイのヒット曲って大半がケイが中学生くらいの頃に書いていた曲なんだよ」
 
「言えてる言えてる。ケイ本人は進化してきたと思っているけど、実はファンの心から乖離してきているんだよね」
 
「ポール・モーリアとかも迷走時代があった。ラテンに走ったり、ロマンティック・レーザーみたいな不思議な音楽の世界に走ったり」
 
「ファンは『恋はみずいろ』とか『蒼いノクターン』とかの世界が好きだからね」
「それで『再会(あなたを決して忘れることはできなかった)』で元の世界に戻った」
「まさにあれは元のポールモーリアの世界に再会した曲なんだよな」
 

「じゃさ、昔のケイみたいな曲を量産するシステム作ろうよ」
「それなら出来ると思う」
 
「でも千里かなり元気になってる。どうしたの?半月前に見た時とは全然違う」
「私はいつも元気だよ」
「千里が復活してきてるなら、俺も頑張るか」
「じゃ、この作業手伝ってくれる?」
「もちろん」
 
と言って、彼はこのプログラムに取り組んでくれた。
 
「そうだ。私、暗号鍵を変更したから交換しておきたい」
「分かった」
 
それで千里3は《せいちゃん》の手を握って通信用の暗号鍵を交換した。これでふたりは他の誰にも聴かれないまま通信することができる。
 

《せいちゃん》はホテルでは作業しづらいから、どこか適当な作業場所を確保できないかと千里に言った。
 
「きーちゃん、出ておいでよ」
と千里はカーテンの陰に向かって言う。
 
《きーちゃん》が頭を掻きながら出てくる。
 
「さっきからそこに居たの〜?」
と《せいちゃん》が驚く。
 
「だって男性の部屋に女の子の千里を1人だけ入れる訳にはいかないじゃん」
「俺は自分の主を襲ったりしないぞ」
「だろうけどね」
「それにどう考えても、腕力では俺より千里の方が強い」
「そうかな?」
 
「きーちゃん。どこかにマンション借りてさ。通信環境整えて、パソコンも3〜4台買ってくれない?」
と千里は言った。
 
「いいよ。宮崎がいい?」
「九州はこれから暑くなりそうだから涼しい所がいい」
「じゃ北海道にするかな」
「ああ、涼しそうだ」
 
2018年は猛暑になったので、この選択は結構正解であった。
 

それで《きーちゃん》は札幌の北、小樽市郊外の3LDKの中古(大古?)家屋を70万円!で千里の名義で買っちゃったのである。
 
家は築50年でほぼ無価値。実質土地(50坪)の値段であるが、実際に見てみると妖怪が住んでいる!?以外は特に問題無かった。妖怪は《せいちゃん》自身が全部処分し、妖怪退治が済むと、していた雨漏りもしなくなった。
 
「これツーバイフォーじゃなくて木造軸組だから、大事にメンテしていけば、まだ多分20年くらい使えるよ」
「まあ壊れたら、建て直せばいいよな?」
「うん。そのつもりでいればいいと思う」
 
電話や電気の契約をしたり、最低限の掃除をするのに1週間掛かったが、その作業は暇そうにしていた!《げんちゃん》にやらせ、その間《せいちゃん》は札幌市内のホテルでプログラム作業を進めていた。
 
「こんな所で何するの?」
と《げんちゃん》には訊かれたが
 
「千里が去年の春に極秘指令を出していたのの処理なのよ」
と《きーちゃん》は説明しておいた。
 
なお、小樽を選んだのは、本州と北海道との通信ケーブルが小樽の隣の石狩市に来ており、通信環境が良いと思われたことと、札幌の近くなので、必要な物があった時に、すぐ買いに行けるというのがあった。それに札幌よりはずっと静かで集中して仕事をするのに良い。
 
なお、札幌まで出て行く時の便のために、中古のジムニー(658cc)を20万円!で買ってきた。軽自動車にしたのは、この家のある集落に入る道が狭いので、登録車より軽の方が助かるからである。
 
「ところで《せいちゃん》が持っている免許は女の子名義だよね」
と千里3は言った。
 
「あ、うん」
「もし警官に呼び止められて免許証の提示求められた時のために、車の運転をする時は、いつも女の子の格好しててね」
「え〜〜〜〜!?」
 

そういう訳で、ともかくも《せいちゃん》は、まずWaveファイルから音名更に階名に変換するプログラムを6月6日までに書き上げてくれたのである。このプログラムは、《きーちゃん》と《せいちゃん》が一緒に買ってきた
 
CPU:"Kaby Lake"Core i7-7700HQ(4core 2.8-3.8GHz)
MM:32GB (PC4-19200 = DDR4-2400)
Disk:512GBSSD+3TBHD
 
というスペックの最新鋭のパソコン(23万円)で1曲5分ほどの処理時間でmp3をWAVEに変換した上で音名→階名まで変換してくれた。
 
「これだと10万曲の変換に1年掛かる」
「パソコン10台くらい並べない?」
「そうしよう」
 
それでこの作業はパソコン10台で進めることになった。
 

「でもここ、結構山の中だからさ、冬とかに雪の重みで電線が切れたりしないかなあ」
と掃除をしてくれていた《げんちゃん》が言った。
 
「念のため自家発電機とか買っとく?」
「それがあれば安心かもね」
 
それでプロパンガスのボンベで稼働する三菱重工のMGC900GPを2台購入した。5kgボンベで10時間100V 850VAの電気(正弦波)を供給できる。パソコンの電源は1.5A、つまり150VA 仕様なので、もし停電しても2台の発電機で10台全部を動かし続けることができる計算になる。
 
「屋根にも太陽光パネルを敷こうよ」
「ああ、そのくらいやってもいいと思う」
「この家はボロ家だけど本格工法だから、太陽光パネルの重みに耐えるはず」
 
それで屋根の南側斜面にパナソニックの太陽光パネル(15kg 17万円)を2x10=20枚敷き詰めることにした。
 
この太陽光パネル(容量5040kw)が生み出す電気は1日平均16kwhで、10台のパソコンを24時間稼働させても使用する電気は3.6kwhにしかならないので、基本的には太陽光パネルだけで全ての電力をまかなうことができる計算になる。但し冬季は充分な発電量が得られない日が長期間続くこともありえるので、北海道電力との契約はキープしておいた方がよい、と《きーちゃん》と《せいちゃん》は話し合った。それで電力会社とは系統連系して余剰電力があったら買い取ってもらう方式にすることにした。
 

「ところで千里の奴、いつの間にあんなに元気になったの?」
と《せいちゃん》は《きーちゃん》に訊いた。
 
《きーちゃん》はしばらく考えていた。
 
「あんたまさか気付いてないの?」
「何に?」
 
「霊的な力を喪失した千里と、今この自動作曲システムをやってる千里は別人」
「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
 

「ついでにあんた3番のお仕事を手伝うと言ったから、既にあんたは3番の眷属になってるから」
 
「へ!?」
 
そういう訳で千里3は《すーちゃん》に続いて《せいちゃん》も自分の眷属にしてしまったのである。
 

青葉は5月28日から6月3日まで東京北区NTCでの代表合宿が終わると、富山に戻り、まずは旅券センターで新しいパスポートを受け取った。
 
そのパスポートに Sex:F という表示があるのを見て、青葉は思わずパスポートを胸に抱きしめた。青葉はやはりスペインに遠征に行ってくることになりそうである。
 

6月10日(日).
 
青葉の自宅に彪志が来訪した。
「これ遅ればせながら誕生日プレゼント」
「ありがとう!」
 
「東京に来たんなら、うちに寄って欲しかったなあ」
と彪志は不満を言う。
 
「ごめーん。ジャパンオープンの前は、大会前にデートなんてできないと思ってパスしたし、終わってからはできるだけ早く戻って大学に出たかったから。今年は大学の授業をかなり休むことになりそうだから、出られる時は出たいんだよね。お友だちからも誕生日パーティしようよと言われたけど、辞退したんだよ。とてもそんなのやってる時間が無くて」
 
「大変そうだなあというのは感じてた」
「泊まっていける?」
「ごめん。最終便で帰らなくちゃ」
 
最終便は 高岡20:37-20:55富山21:20-23:05大宮 である。
 
「だったら晩御飯は食べて行けるよね?」
「うん。もらっていこうかな」
などと2人が会話していたら
 
「じゃ私買物に行ってくるね」
と言って朋子は出かけてしまった。
 
「お母さん、親切だね」
「じゃ愛の確認」
「うん」
 
それでお部屋に行って4月8日以来2ヶ月ぶりの愛の儀式をした。5月頭に青葉が彪志のアパートに寄った時は、青葉が疲れすぎていてひたすら寝ていたので何もしていないのである。
 

6月9日は金沢で石川県学生選手権に参加したが、その後少しあくので、千里3と一緒に始めた自動作曲プロジェクトの方を進める。
 
この時期千里3は5月13日から31日までの第3次合宿に続いて、6月1日から19日までの第4次合宿を東京のNTCでしていたのだが、合宿の練習は朝から夜までなので、深夜に高岡市の青葉の部屋を訪れて2人で話し合った。
 
東京と高岡の間をどうやって移動しているのかは、いちいち突っ込まないことにする!
 
「じゃ既成曲のデータベース作りは9月までには終わるね?」
 
(この作業は途中でスピードアップし、8月中に完了する)
 
「うん。でもやはり冬子が持っていた音源データが流行歌については凄く網羅性がいいんだよ。だからこれとだけチェックするだけでもかなり充分だと思う。だから私のお友だちの“五島さん”の自動作曲プログラムができたらすぐにも生産を始められると思う」
 
「最初の内はいろいろ検証して、品質とか既存曲との類似を人間の感覚で見た方がいいよね?」
「だと思う。お互いに海外に出ているかも知れないけど、そのあたりは何とかしようよ」
 
「これ作詞はどうしようか?」
「作詞は人間がやればいいと思う。作曲は年間数十曲しか書けないけど、作詞はだいたい1日に1個は書けるよ」
 
「だよね」
「青葉のお友だちの日香理ちゃん、初期の頃に比べるとだいぶ品質があがってきた。彼女の作品は使えると思う」
「あれ、和泉さんが日香理に接触して、かなりアドバイスしてくれたみたい」
「それは凄い」
 
「戦力になってもらわないと、困るからね」
「それは確かに和泉ちゃん自身が困るよね。今年は作詞家の負担も大きいはず」
 

「じゃさ、作詞できるような人で秘密を守ってくれる人、10人くらい頼もうよ」
「うん。そうしようか」
 
この件に関しては、青葉が日香理、空帆、椿妃、柚女、明日香の5人から詩を募集し、千里3も詩作をすることを知っていた5人の友人、若生暢子、早川珠良、松井梨紗、矢野穂花、水嶋ソフィアから詩をもらえるように頼んだ。彼女らと、青葉・千里3も含めて12人で詩を書くことにする。これを比較的心の余裕がある空帆に推敲してもらった上でシステムに投入することにする。
 
「このシステムに名前つけようよ」
と青葉が言うと、千里(千里3)は
「山田花子」
と言った。
 
「何それ?」
「英語で言えばジェーン・スミス、ドイツ語ならエリカ・マスターマン」
「ああ、そういう意味か。でも山田花子ってタレントさんいるけど」
「うっ・・・」
と声をあげてから、千里は
 
「じゃ松本花子」
と言った。
 
「どこから松本という苗字が?」
 
このシステムは7月中旬頃から楽曲の生産を始めたが、このシステムから生み出される楽曲に「作曲・松本花子」のクレジットをつけることにした。作詞については元の作者名をクレジットするかどうか悩んだのだが結局匿名にすることにし「作詞・松本葉子」の名前にして、印税や著作権使用料は振り込まれた当日に本人に全額渡すという方針で作詞者全員に了承をもらった。
 

《せいちゃん》のプログラムは歌詞を画面に表示して、それを人間がふつうに読むと、そのイントネーションをベースにしてメロディーを作成するようになっている。つまり人間をシステムの一部として組み込んでいる! しかしかえってそのあたりを自動でやらせようとするより、良い品質になるのである。
 
なお、アイたちのMuseの方は自動作詞システム、自動読み上げシステムなどを組み込んでいるので、結果的にシステムが巨大になっている。
 
こちらは、朗読係として、間枝星恵さんという元女優さんをスカウトした。この人は高校卒業後、大手劇団に加入し、かなり鍛えられているので朗読も美しい。千里は、以前のCD制作で歌詞の朗読をしてもらった時に、この人、上手いなあと思って記憶していたのである。
 
彼女は劇団に4年ほど在籍したものの、チケット売りのノルマに疲れて退団。雨宮先生が見い出してテレビドラマのちょい役や、あちこちのPVなどに出演させていた。和服の似合う美人でローズ+リリーの『振袖』のPVにも出ている。
 
(雨宮先生は最初てっきり男の娘だと思って声を掛けたのだが、天然女子と聞いてがっかりしたらしい。しかしお仕事を紹介してくれた)
 
彼女は1年ほど前に北陸の実家に戻っていたのだが、千里が連絡してみると
「やります!やります!」
と言って、夜行バスに乗って東京に出てきた。
 
そういう訳で彼女は北陸出身ではあるものの、東京の劇団で鍛えられていて、発音も明瞭で、標準語のアクセントが正確だし、鼻濁音も発音できる。
 
「作詞者が全員女性なので、女性に読んで欲しかったんですよ」
「そうですか。だったら性転換しなくて良かった」
「男の子になりたいの?」
「男の娘だったらしてみたい気もしますけど」
 
どうもただのジョークのようである。
 
「勤務地は北海道の小樽市なんですけど」
「世界中どこにでも行きます。火星に行ってくれと言われたら少し考えますが」
「少しずつ増員するつもりではあるんですが、今そこは中年の男性が1人で勤務しているんですよ。紳士的な人だから襲われる心配はないと思うんだけど、男1人・女1人の環境を気が進まないならやめておいた方が良いです」
 
「平気です。もしやられたら結婚してもらいます」
「まあそれもいいかもね。あ、そうそう、彼、女装していることもあるけど、気にしないでね」
「女装男性はわりと好きですよ〜」
 
さっきジョーク(?)でも言っていたし、多分男の娘に関心があるのだろうか。そのあたりもあって多分雨宮先生の琴線に触れたのだろう。
 
それで採用したので、彼女が“小樽ラボ”に通勤して朗読をしてくれることになった。また彼女は運転免許も持っているので、買い出し係もお願いすることにした。
 
「北陸なら雪道の運転は経験あるとは思うけど、北海道の雪道は超絶だから慎重に運転してね」
「頑張ります」
 

「編曲はどうする?」
と青葉は千里3に尋ねた。
 
実は楽曲制作において最も重要なのが編曲である。
 
「それ誰かしっかりしてそうな人を引き込もうよ。私も青葉も今年は無茶苦茶忙しい。もっと時間の取れる人がいないと、やばいと思う」
 
それで2人で話し合って引き込むことにしたのが鮎川ゆまである。彼女は話をすると
 
「面白そう!」
と言った。
 
「私も今年は作曲ノルマがきつすぎると思っていた。そのシステムに代行させられるよね?」
 
「私たちはもうそのつもり」
 
「じゃさ、もうひとり、イリヤちゃんを引き込もうよ」
「おぉ!」
 

それで鮎川ゆまは、下川工房から独立して自分の音楽制作事務所を設立したばかりのイリヤ("Il y a" : 峰川伊梨耶)に接触し、彼女の協力で《自動編曲》のシステム制作を進めることにした。
 
「それ自動編曲でもいいですけど、人間の手による編曲もしていいですか?」
「それでそちらの工房のお仕事になりますよね」
「いや、それが仕事がなくて困っていたんですよ」
 
イリヤはこの春に独立して自分の工房を設立するにあたり、家賃や設備費、下川先生に払った“イリヤ”ブランドの買い取り代金などで3000万円近い投資をしていた。更にスタッフのアレンジャーを10人雇っていたのに、上島事件の影響で楽曲の制作が激減して仕事が得られず、それなのに給料を払わなければならないので困っていた。
 
ゆまは千里3と話し合い、この借金を全部肩代わりしてあげることにした。その代り、千里をイリヤ工房の株主にしてもらった(つまりイリヤはこのお金を返却しなくてよい)。但し千里の名前が表面に出ないようにするため、途中に匿名出資組合を挟んでいる。
 
このお金の問題を解決した上で、自動編曲システムの開発を始めたのである。
 

その仕様は、代表合宿で忙しい中夜間に参加した千里3、《せいちゃん》、鮎川ゆま、イリヤ、そしてイリヤのお父さんで、アマチュアの作曲家であり、エレクトーン歴40年で、DTMの達人“ひまわり女子高2年A組17番”さん(以下2A17と略す)の5人で詰め、プログラムコードも2A17さんと《せいちゃん》が共同で書くことになった。
 
(イリヤさんはお父さんに「その恥ずかしすぎるハンドル何とかしてくれ」と言っているらしい)。
 
Cubaseなどにも自動伴奏システムは搭載されているが、2A17さんは、その仕様にあれこれ不満があり、自分で色々プログラムを組んでいたらしい。それを今回千里やゆまとの話し合いでこのシステムに投入することになったのである。
 

「ちなみに女装の趣味とかは?」
と千里は彼に尋ねてみたが
 
「大好きなんだけど、それで知っている人に会うことは娘と妻から禁止されています」
 
などと言っていた。実際に女子高の制服も多数所有しているらしい。身長は170cmあるものの、ウェストが61cmなので、充分それを実際に着られるらしい。
 
ちなみに彼のtwitterのアイコンは飼っている猫(ノワールちゃんという黒猫)の画像である。ちなみに彼の本職は高校の先生(担当数学)で、実はこの時期は学校の夏休みに掛かり、時間が取れたのである。
 
(学校の先生なのに自分で女子制服を着るのも趣味というのは若干やばい気もする)
 
「性転換するおつもりは?」
「さすがに離婚されそうだから自粛で」
「ホルモンとか去勢とかはしてないんですか?」
「娘が結婚したらホルモンやってもいいと言われています」
と本人は言っていたが
 
「私たぶん結婚しないから、お父ちゃん永久に女性ホルモン飲めないと思う」
とイリヤは言っていた。
 

このプロジェクトでは最初は市販のパソコンを使って作業を進めていたのだが、やはり処理速度に問題があるのではという意見が出た。
 
そこで千里3はこれらのシステムを動かせるようなマシンをいくらお金が掛かっても構わないから制作してもらえないかと《きーちゃん》と《せいちゃん》に頼んだ。
 
それで2人は検討して、Core i7 8086K (Coffe Lake 4.0-5.0GHz 6core 12thread) Memory 128GB (DDR4-2666(=PC4-21333) 16GB x 8) SSD 1TB x 4 というマシンをふたりで組み立ててしまった。
 
これは筐体を使用せず、ボードを組んでラックに積んだだけの、いわゆるブレード・コンピュータである。たくさん増設することになりそうなので筐体に入れるとスペースを食うという問題と、筐体が無い方が組み替えやすいという問題もある。むろんラックがボードを守るので、普通の地震くらいは平気である。
 
小樽ラボで進めていたmp3からMIDIを作る作業もこのマシンに交換したら3倍の速度で進み始めた。
 
8086Kはアイや千里2たちが制作したスーパーコンピュータMuse-3に使用した素子でもある。但し向こうは8086Kを2500個ほど使用している。こちらは1個しか使っていない。費用も1台80万円程度である。
 

青葉と千里3はこの「松本葉子」「松本花子」を運営するための会社“結実”(Yumi corp.)を、“取り敢えず”資本金5000万円で設立した。出資比率は青葉の会社グリーン・リーフと千里の会社フェニックス・トラインが48%(2400万円)ずつ、鮎川ゆま・峰川伊梨耶・清原空帆・五島節也の4人が1%(50万円)ずつ出すことにした。大谷日香理にも出資しない?と誘ったが「私、お金無い!」と言っていた。
 
役職については青葉が代表取締役会長、千里が代表取締役社長、で2人は同等の権限を持つ。社印は青葉が保管するが、これは千里が持ったらすぐに無くすに決まっているからである! 千里はフェニックス・トラインの社印も親友の佐藤玲央美に預けている−ちなみに玲央美は千里の分裂を知っている。
 
もうひとりの取締役は、鮎川ゆまに専務取締役をお願いした。実は、ゆまがいちばん動きやすい上に音楽業界に顔が利くからである。それで彼女には大きな権限を与えた方がいいと千里3と青葉は話し合った。
 

このプロジェクトの窓口として作曲家を引退して沖縄に住んでいる木ノ下大吉先生にお願いすることにした。木ノ下先生にお願いしたのは初期の段階で、パターン化しやすい音楽ジャンルとして演歌を想定したので、多くの演歌歌手・演歌系プロダクションとのコネがある木ノ下先生に相談したら、自分が表に立っていいと言ってくれたのである。このあたりの交渉は、千里に擬態した《きーちゃん》が鮎川ゆまを連れて行って木ノ下先生と直接会って交渉してまとめた。
 
結果的に木ノ下先生の所に作曲依頼が殺到することになり、千里はその事務処理のため、内瀬瞳美さんという20代の“自称女性”を雇った。彼女は木ノ下先生の友人の娘(?)さんで、高校を出た後、ずっと沖縄に住んで三線(さんしん)を習い、現在はその師範免許も持っているらしい。米軍関係の施設に勤務していたのを退職してこの仕事をしてくれることになった。
 
彼女は簿記2級を持っており、コンピュータのプログラミングも得意らしい。米軍関係の施設に勤めていたので英語はぺらぺらだし、その仕事の都合で大型自動車免許・大型自動二輪免許も取得しているというので頼もしい。
 
実は戦車やヘリコプターも操縦できるし射撃も得意らしい!?
 

彼女は面接した時に
「私男ですけどいいですか?」
と訊いたのだが、面接をした《きーちゃん》は
 
「この仕事に性別は関係無いので、どちらでも構いません」
と答えた。
 
彼女が提出した履歴書には性別欄が無かった。一応出してもらった年金手帳の上では性別は女性になっていたが、性別を変更したのか、あるいは元々女性として登録されていたのか、その付近は分からない。健康保険証は、年金手帳に合わせて女性で発行した。
 
また実際には彼女(?)は女性の格好で日々の仕事をしているし、見た雰囲気男性には見えないが、むろん千里たちは詮索もしない。木ノ下先生も彼女の出生時の性別がどちらかは知らないという。実は木ノ下先生はその友人に子供がいたこと自体を最近まで知らなかったらしい。ところが住所を聞いたら、同じ恩納(おんな)村村内だったので、びっくりしたのである。
 

そういう訳でこのプロジェクトは全国各地に住んでいる作詞家の作品をいったん東京在住の空帆がまとめて(添削・校正の上)、北海道の《せいちゃん》の所に送り、自動作曲に掛けて、それを東京のイリヤの工房に送り、編曲して完成したものを沖縄の木ノ下先生の所から販売するという、全国的に分散したシステムとなった。
 
空帆は相沢さんの旅館の東京事務所に住んでいたのだが、最近忙しすぎてそちらのサポートができないので、下級生にその仕事を譲り、この春から川口市のワンルームマンションに住んでいる。
 
このシステムを稼働させるにあたって、彼女のマンション、小樽ラボ、木ノ下先生宅、イリヤの工房の間にVPN(インターネット経由の専用回線)を構築した。この作業は千里(?)のJソフトでの元同僚で、この春に退職して婚活(?)をしていた矢島彰子さんに相談したら、資材費・交通費別の報酬100万円でやってくれた。
 
「矢島さん、ついでにうちのシステムのサポートしてくれません?人手が足りないんですよ。立ち上げたばかりでまだ利益が出てないので現時点ではあまりお給料出せないのですが、向こう1年間最低30万は保証しますので」
 
と千里が話を持ちかけると
 
「やるやる!そろそろ退職金を食いつぶして何かバイトしなきゃと思ってた」
 
と言って、小樽ラボのスタッフになってくれた。これで小樽ラボは3人体制になる。
 
「婚活は大丈夫ですか?」
「ああ、それは親の手前言っていただけで、結婚する気は無い」
「ちなみに矢島さん、好きなのは男性?女性?」
「私はバイだよ」
「そんな気はしてました」
 

信次は、名古屋支店に来て初日に知り合い、そのまま“親密”になってしまった水鳥波留と、週末ごとに逢瀬を重ねていた。
 
千里には「土日は泊まりがけで休日出勤してくるから」と言ってアパートを出て、そのまま波留のアパートに行き、日曜の午後まで1日半くらいのロングデートをしていたのである。ずっと彼女のアパートに居ることもあれば、一緒に外出して、レストランなどで食事をしたり、愛車ムラーノでドライブしたり、またナガシマ・スパーランドや、モンキーパークに行ったり、して楽しんでいた。
 
(信次は千里とはこの手のデートをしたことが無い。優子とは結構遊園地にも行っているし、たくさんドライブしている)
 
波留としては奥さんの居る人とこういう関係を続けることには罪悪感もあったのだが、信次が
 
「正直、妻はあまりにも女らしくて、こちらもテンションがあがらないんだ。君は男らしくてステキだ。今年中くらいには妻と離婚するから、その後結婚して欲しい」
 
などと言うので、自分と結婚してくれるのならいいかなあと思っていた。
 
しかし「男らしくてステキだ」と言われるのは、FTMの傾向は無い波留としては少し複雑な気分である。
 
(信次は過去に半年程度以上付き合った相手は男性でも女性でも居ないのでタイマー的に?テンションが落ちてきていただけである)
 

「でも本当に奥さんと離婚してくれるの?そういうこと安易に言う男多いし」
と波留が言うと
 
「だったら、離婚届けを書くよ」
と信次は言って、6月中旬のデートでは、離婚届けの用紙に信次の分だけ記入したものを波留に見せた。
 
「これ今すぐ提出する訳じゃないけど、離婚の方向性は間違い無いから」
 
と信次は言うが、波留は
「提出しない書類なんて全く意味が無い」
と言う。
 
「だったら日付までは書いておくよ」
と信次。
「いつ出すの?」
「今子供を作っているんだよ。その予定日が1月上旬だから、その後で・・・そうだ。婚姻届けを出した1年後の2月3日の日付を書いておこう」
 
と言って信次は離婚届けの日付に平成31年2月3日と書いた。
 
なんか適当そうだなあと波留は思ったものの、それでも少しだけ「自分が信次にのめりこむ」ブレーキを“緩める”気分になった。
 

そして6月30日(土)から7月1日(日)に掛けてのデートで、信次と波留は伊勢市まで足を伸ばして伊勢の神宮を参拝した後、松阪市まで戻って松阪牛のステーキを堪能する。そして鈴鹿市内のホテルに泊まった。
 
「あれ、しまった。コンちゃんが切れちゃった」
「コンビニに行って買ってくる?」
「コンビニ結構遠かったし。お酒飲んじゃったから運転できないし」
「でも私、生では入れたくない」
「うん。それやると洗っても臭いが取れないんだよね〜」
 
「あ、そうだ!」
その時、なぜ波留はそんなことを言い出したか分からない。
 
「信次のを私に入れるんなら、生でしてもいいよ」
「え?でも妊娠しちゃったら?」
「私と結婚してくれるんでしょ?だったら妊娠してもいいじゃん」
「そういう考え方もあるか」
 
この時、波留はいっそ妊娠してしまった方が、信次と結婚できるかも、という気がしたのである。
 
それで結局ふたりは信次が男役、波留が女役で生セックスをしてしまった。
 

信次は女役で逝く時は“ドライ”で逝く。それは千里との夜の生活でもそうなので実はめったに射精をしていない。しかもこの所、平日は千里と休日は波留とセックスしているので、性欲は満たされており、オナニーもしていない。それで男役をすると、かなり濃厚な精液が出るのだが、そのことを信次本人は意識していない。
 

翌7月1日、ふたりは近くの椿大神社(つばきおおかみやしろ)に行った。
 
猿田彦(さるたひこ)神と天宇受売(あめのうずめ)神の夫婦神を祭る神社で、伊勢国一宮である。
 
「ここに来ると夫婦仲良くできるんだって」
「私たち本当に結婚できるの?」
「1年くらい待ってくれれば」
 
まあ、結婚してもらえる確率は2〜3割かなあ、と波留は思った。でも別れたとしても、自分はこの人のことを一生忘れない気がする。
 
「ね、昨夜のでもし赤ちゃんできたらさ、何て名前にしようか?」
 
「そうだなあ、男の子なら幸祐、女の子なら由美だな」
と信次は言った。
 
「どんな字?」
と言うので信次は紙に書いてみせた。波留はその紙を大事そうに自分の財布の中にしまった。
 

6月24日(日).
 
彪志は実家の母から「用事があるから来てくれ」と言われ、忙しい中何とか都合をつけて盛岡に行った。
 
「あら、あんたそんな格好で来たの?」
と母から言われる。
 
「え?何かまずかった?」
 
彪志はトレーナーとジーンズという格好である。
 
「ちょっとあらたまった席なのよね」
「だったら振袖でも着る?」
 
文月がしかめっ面をする。
 
「あんた女の服を着るの?」
「まさか」
 
「だったらお父ちゃんの背広着て」
と言って出してくる。
 
「お父ちゃんは?」
「今週は大阪出張なのよね〜」
「ふーん」
 
それで父のワイシャツ・背広を着て髪もぼさぼさだったのを櫛を入れる」
それで母の車に乗って来たのは、盛岡市内の高級ホテルである。
 
「何があるのさ?」
「まあともかく行けば分かるから」
などと母は言っている。
 

それでホテルに入り、レストラン街の日本料理店に入る。
「予約していた鈴江ですが」
「はい、ご案内します」
 
それでスタッフの人に続いて奥の方に入る。
「こちらでお連れの方がお待ちです」
とドアを開けて言われる。
 
中には振袖?を着た22-23歳くらいの女性、そして50歳くらいの留袖?を着た女性がテーブルの片側に座っている。
 
それを見た瞬間、これが何なのかを彪志は悟った。
 
「まさか見合いなの?」
と彪志は言う。
「そう堅苦しく考えなくていいから。いいお嬢さんなのよ。少し話してみない?」
 
「俺には青葉がいるんだから、見合いなんてしないよ」
と彪志は怒ったように言う。
 
「でもあの子、赤ちゃんとか産めないんでしょ?おばあちゃんに曾孫の顔を見せてあげてよ」
「それは愛奈に頼んで(*2)。とにかく俺は帰る」
と言って彪志は踵を返す。
 
「ちょっとせっかくだからごはん食べていきなよ」
「母ちゃんが2人分食べれば?」
と言って、彪志は実家に戻ると、着換えてすぐ大宮に戻ってしまった。
 

(*2)彪志も青葉も知らないが、彪志の睾丸は実は青葉のものである。事故に遭って睾丸の機能がほぼ死んでしまった時、美鳳の手で男性化したくなかった青葉のものと交換された。その睾丸は青葉が中学生の時に自然消滅したが、実は元々生殖機能を喪失していたし男性ホルモンの生産力も小さかった。
 
だから彪志が他の女性との間に子供を作っても、それは文月の孫、勝子の曾孫にはならない。一方、青葉に移植された卵巣は幼くして亡くなった彪志の姉のものである。つまり彪志と青葉の間で子供が作られた時のみ、文月は自分の孫に会えるのである。
 

バスケット日本代表に参加している千里3は6月19日までの合宿が終わった後、1週間おいて6月25日から第5次合宿に入った。この合宿は国内では7月3日までで、その後スペインに行き、マヨルカ島で7月14日まで合宿を続ける。
 
千里2の方はこの時期はアメリカでWBCBLをやっているのだが、7月12日に冬子と一緒に、丸山アイ・若葉が昨年秋から進めてきたMuse Project(夢紗蒼依)に参加することになる。こちらはお金に糸目をつけない性格の若葉・アイがやっていたのでスーパーコンピューターを使い、何十億の資金を投入した巨大プロジェクトになっている。
 
一方青葉の方は6月22日(金)から再度NTCで競泳日本代表合宿に入った。日本代表の一部は6月21日(木)からスペインに渡り、シエラネバダで高地合宿をしている。ジャネなどはそちらに参加しているが、青葉たち下位ランクの選手はまずは22日から7月1日まで国内で合宿をし、数日おいて7月7日から15日までの一週間、シエラネバダに行って高地合宿に合流することになっている。
 
6月30日から7月1日までは中部インカレ(インカレ中部予選)があるが青葉は日本代表の合宿優先でそちらには参加しない。青葉が参加しなくても、K大女子は昨年本戦のシード権を取っているので、インカレの本大会には参加できる。(男子は中部予選で2位以内になって団体出場するか、個人戦で出場水準を越えた人だけが本大会には個人出場で出られる)
 

日本ではシエラネバダというと、アメリカの方のシエラネバダを連想する人が多いが、実はシエラネバダ(sierra nevada)というのはスペイン語で「雪の積もった山脈」(sierra=山脈, nevado=雪の掛かった)という意味で、そういう名前の地名は世界各地にあるのである。日本語で言えば「白山」だ。
 
スペインのシエラネバダはスキー場を中核とするリゾート地として知られているが、ここの標高2300mの地に国立のスポーツ施設があり、50mプールもあって競泳日本代表は、しばしばここで高地トレーニングをしているのである。
 
それで上位入賞を期待されている選手たち(ジャネなど)は3週間にわたり合宿をしているのだが、あまり期待されていない選手たち(青葉など)も今回お試し的に高地合宿をすることになる。
 
それで青葉は取り敢えず7月1日までNTCでの国内合宿でひたすら泳いだ。この間、23日まではツインの部屋をシングルユースしていたが、24日夜からは前泊で来た千里(千里3)が入って来て、1日夜まで同じ部屋で寝ていた。
 
その間もふたりは“松本花子・松本葉子”のシステムについてたくさん意見を交わした。
 

丸山アイたちが進めていたのは本物の人工知能。対して《せいちゃん》が作ったのは、伝統的な手続き型プログラムである。しかし実はパターン化された思考で済むものは、人工知能より手続き型で作った“似非(えせ)人工知能”の方が高速に品質のよいものを生み出すことが、非力なマシンで仕事をしてきた“端末系”プログラマには知られているのである。
 
大型機で仕事をしてきたSEにはこういう発想が欠けている。それができるマシンを知っているから“本物”を作ろうとする。
 
そういう訳で千里2が丸山アイや冬子と一緒に億単位のお金を投じて廃工場まで買って莫大な電力を使用して人工知能による作曲をしようとしていた時期、実は千里3は青葉・ゆまたちと一緒に極めてチープな作曲システムを開発していたのである。小樽ラボの電力は実際問題として民家の屋根に並べたわずか20個の太陽光パネルでほぼまかなえている。
 
きーちゃんは情報操作して、双方のプロジェクトがお互い相手には知られないよう気をつけていた。
 
そしてこのあたりの作業が6〜7月に急ピッチで進められたのである。
 

青葉は7月1日(日)までの合宿が終わると、7月2日(月)の朝、選手村を出て、新幹線で高岡に戻った。
 
なお今年は青葉が全然高岡に居ないので、通学用のアクアはだいたい明日香が運転している。結果的に明日香の負荷が高くなっていることと、就職準備も見越して、星衣良と世梨奈は、この夏休みに免許を取ろうかなあと言っていた。
 
青葉や星衣良のK大学の夏休みは8月7日〜9月30日、世梨奈や明日香のH大学の夏休みは8月9日〜9月17日である。
 
ちなみに美由紀は「あんたは運転に向いてない」とみんなから言われたので、取りに行かない方向のようである。彼女は景色に見とれて事故を起こしたりしそうである(そのあたりが芸術家脳という感じではある)。
 

2018年7月4日早朝、名古屋で主婦をしながら大量の埋め曲を書いていた千里1に極めて強力な《死の呪い》が掛けられた。
 
《くうちゃん》は全眷属を名古屋に召喚した。
 
《すーちゃん》《せいちゃん》《こうちゃん》など、千里の分裂を知っている眷属は、なるほどこれが“霊的な力を失った1番”かと思うのだが、
 
「おい、どこが霊的な力を失っているって?」
と《せいちゃん》は《きーちゃん》に言う。
 
「まあ、並みの霊能者よりはよほど凄いね」
と《きーちゃん》も答えた。
 
『凄い。2ヶ月くらい前に見た時から、かなりパワーアップしている』
と《すーちゃん》が言っている。最近彼女は玲央美の傍にいることが多いが、しばしば千里3の代役をやらされている。
 
『俺たちの出る幕ある?放っといても千里が跳ね返すだろ?』
と《せいちゃん》。
『俺も同感。何もしなくていいから、酒でも飲みながら、千里の活躍を見てようぜ』
と《こうちゃん》。
 
彼のポリシーはだいたい<自分より弱い宿主は要らん>ということである。だから自分を屈服させた千里2に従っている。
 
『まあでも万一のこともあるから、呪動物を排除しようよ』
と《きーちゃん》が言う。
 
『まいっか、やるか』
『そうだな。俺たちも時々実戦やらなきゃ』
と2人も同意した。
 
『ところでお前最近何やってんだ?』
と《こうちゃん》が《せいちゃん》に訊くが
『それそっくりお前に返す』
と《せいちゃん》は言った。
 
それで千里の分裂に気付いていない眷属も含めて、ともかくも千里を守ろうとした。
 
呪いは多数の呪動物に分割して送り込まれてきている。しかしそれを察知した青葉が介入して大半の呪動物を倒してしまう。それでもかなり残っているものを眷属たちは退治始めた。
 

ところが眷属たちが戦闘を開始してすぐ、千里1の夫・信次が千里の身体に何か付いているのに気付き手で払ってしまったのだが、その“何か”は信次にくっついてしまう。
 
それで呪動物たちのターゲットが信次になってしまった。
 
「どうする?」
「放置でいいだろ?」
 
「うん。信次は重篤な癌に冒されている。呪いとかなくてもあと数時間の命」
「どっちみち今日は信次の命日だよ」
 
「でもだからといって、千里の思い人が、素人女の呪いにやられるの黙って見てるのかい?」
 
「それも不愉快だな」
「しかたない。やるか」
 

それで眷属たちは残っている呪動物たちをひたすら退治していく。それでかなり片付き、あと少しと思い始めた時、呪いを掛けた本人・多紀音が信次の前に現れるので眷属たちは仰天する。
 
「おい、まだ更に何か術を掛けるつもりでは?」
「さすがに手が回らんぞ」
「貴人、あいつを見てろ。この呪動物たちは他の者でやる」
「分かった」
 

それで《きーちゃん》が1人離脱して信次を守るように傍に立つ。
 
ふたりは何か言い争いを始めた。
 
そして女が逃げて走り出す。信次が
 
「そこ入ったらダメ!」
と叫ぶ。
 
「危ない!」
という声が上の方からする。
 
女が上を見て悲鳴をあげる。
 
信次が思いっきり彼女を突き飛ばした。
 
一番近くにいた《きーちゃん》が彼女の手を握ってグイっと引いた。
 

ズシンという鈍く大きな音がした。
 

眷属たちは、みな無言でそこを見ていた。
 
女は放心状態だった。
 
多数の人が走り寄ってくる。
 
《きーちゃん》が泣いていた。
 

信次は病院に運ばれ、医師によって死亡が確認された。実際には医師が確認しなくても、死亡しているのは明らかな状態だった。上司の高橋課長が信次のアパートに電話をする。電話に出た千里(千里1)に高橋は信次が事故で亡くなったことを伝えるが、それを聞いた千里はショックで受話器を落としたまま放心状態になり、高橋は取り敢えず病院を伝えたいのに、伝えられない。
 
ところがそこに千里の身を案じて東京から新幹線で駆けつけた桃香が到着する。桃香が千里に代わって電話に出ると、高橋はホッとしたように、病院の名前と場所を伝えた。桃香は千里を励まして一緒にアパートを出る。そして病院に向かった。
 
その数分後、まだ残っていた呪動物たちが一斉にアパートに飛び込んだ。
 
そして物凄い爆発が起きた。
 

病院に着いた千里は信次の遺体に取りすがって泣き、桃香や信次の同僚たちが声を掛けても何もできない状態であった。千里が“使えない”状態なので、桃香は千里の携帯(Gratina2 KYY10)を取って信次の母に掛けた。そして信次が亡くなったことを伝える。お母さんは一瞬絶句していたが、すぐに名古屋に向かうと言った。
 
実際にはお母さんは息子の太一と一緒に新幹線でやってきた。
 
千葉10:40-11:22東京11:50-13:31名古屋
 
青葉は金沢の大学に出ていたのだが、桃香からの連絡を受け、1時限目(8:45-10:15)だけで早引きして名古屋に急行した。
 
金沢大学10:20(車で金沢駅へ)10:50金沢駅11:48-13:45米原13:57-14:25名古屋
 
金沢市内は道が混んでいて、10:48の《しらさぎ》を僅かの差でキャッチできず、1時間後のになったので、名古屋の病院に到着したのは15時頃である。
 

それより前のお昼頃、千里の携帯に電話が着信する。(千里は茫然自失状態なので)桃香が取る。
 
「もしもし。私、川島千里の友人ですが」
「こちら、**荘の大家(おおや)で##と申します」
「お世話になります」
「川島さんご夫婦はご無事でしょうか?」
 
あまり無事ではない気がするのだが・・・
 
「何かあったんですか?」
「実は**荘でガス爆発がありまして」
「え〜〜?」
「瓦礫と化している状態なので、生き埋めになった住人がいないか、電話して確認している所なんですよ」
 
「それでしたら、川島信次も千里も所在は判明していますので問題ありません」
「ああ。よかった。残り判明していなかったのが、川島さんご夫妻だけで」
「他の人は?」
「全員、偶然にも出かけていて、ひとりもアパートには居なかったんですよ」
「それは良かったです」
 
「今瓦礫の片付けを消防署の人、警察の人も入ってしている所なのですが、もしお手間が取れましたら、大事なものだけでも拾いに来てくださると」
 
「分かりました。誰か行けるようにします」
 

それで桃香が高橋課長に相談すると、社員の男性2人・女性1人が行ってくれることになった。
 
この件を青葉に連絡すると、青葉も病院に顔を出したらアパートに向かうということだった。
 
「まだ呪いは続いているんだろうか?」
と桃香が青葉に訊くと、青葉は少し考えるようにしていたが
 
「もう終わったと思う。そのガス爆発が最後っ屁だよ」
と答えた。
 
 
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【春約】(2)