【春約】(3)

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青葉はアパートの荷物の中に、千里姉が制作中だった楽曲のデータが入ったパソコンあるいはハードディスクがあるはずだと思った。そこで新島さんに電話を入れる。新島さんは驚いていたが、結局彼女自身が名古屋に来るという話であった。
 
東京12:50-14:31名古屋
 
青葉が病院に辿り着いた時、千里(千里1)が名古屋で参加していたバスケットチームの赤星さんという人がお見舞いに来ていた。たまたま連絡ごとがあって千里の携帯に電話して事件を知り、驚いて駆けつけて来てくれたらしい。
 
そして青葉が到着して間もなく新島さんも到着する。
 
「でも何か雨でも降りそうな気配ですね」
「荷物の回収、早めに行った方がいいかも」
 
それで青葉と新島さんはすぐにアパートの方に向かうことにしたが、赤星さんも「力仕事なら戦力になりますよ」と言ってくれたので、3人で回収作業に行くことにした。
 

赤星さんが車で来ていたので、彼女の車で現場に向かう。
 
現場では多数の人が瓦礫の中から回収作業をしていたが、青葉はすぐに信次の会社の人を識別して声を掛ける。
 
「お疲れ様です。川島の親族の者です」
「それはこの度はお気の毒でした」
「作業代わりますね」
「雨が降りそうな雰囲気だから、早く済ませた方がいいです。それまで私たちも作業します」
「すみませーん」
 
この現場では、所有者がハッキリしないものが多いので、無事そうなものは誰のでも構わないから、取り敢えず各自回収しておき、あとで仕分けしようという方針ということであった。
 
「軽トラを持って来ているんですよ。そこの青いサンバーなのですが」
「分かりました。大事なものとかが無いか、そちらを先に見ますね」
 
それで青葉は軽トラ(建設会社の名前が入っているのですぐ分かった)の荷台の中に入っている物を確認し、また他の人たちが持って来ている軽トラも見せてもらったが、ハードディスクやパソコンっぽいものは見当たらない。
 
青葉はじっと現場を見て《探査》をした。
 
「あった」
と声を出すと青葉はその場所に行く。
 
「ここを50cmほど掘りたいのですが」
と青葉が言うと
「任せて」
と赤星さんが言って小型のスコップで瓦礫を掘る。
 
「ノートパソコンだ」
 
それを手で掘り出すと、液晶画面は割れているし、キーボードのトップもかなり飛んでいるが、多分ディスクは大丈夫だろうと思った。ハードディスクは厳重にシールドされているので、普通に水に浸けたくらいでは平気である。
 
ビニール袋に入れて赤星さんの車の荷台に載せてもらう。
 
青葉は近くに外付けハードディスクとかUSBメモリーとかがないか“探査”してみた。
 
「あ、ここだ」
 
青葉は手で掘って、パソコンが埋もれていた近くからUSBメモリを掘りだした。幸いにもキャップが閉めてある。これはこのまま読めるかも知れない。
 
キャップを開けて丁寧にティッシュで拭いた。これもビニール袋に入れ、そのまま新島さんが自分のバッグに入れた。
 
「どちらも東京に持ち帰って、専門家にデータを救出させるよ」
と新島さん。
 
「ええ、それで行きましょう」
 

そのほか大事そうなものを中心に回収作業は進んだが、夕方、雨が降り出したので、今日の作業は終了とする。湾岸地区に大家さんの知人が借りている倉庫があり、そこにみんな集まって、所有者のはっきりしない物を全部出して、見てもらい、それで大半の物が本来の持ち主の所に戻った。一部本当に誰のか分からないものがあり、それは大家さんが預かることにした。
 
川島家の荷物に関しては、結局会社は回収に使用した軽トラをそのまま貸してくれるということだったので、青葉がその車を運転して東京に行き、あとで返しに来ることにした。実際の千葉への移動は翌日か翌々日になりそうだったので、それまでは会社で預かってくれることになった。
 
新島さんは現場で回収したパソコンを持ってすぐ東京に帰るということだったが、青葉は彼女に言った。
 
「自宅に置いていたデータはそう無いと思うんです。今日の姉の状態を見た限りでは一週間くらい仕事になりそうにない気がします。新島さん、姉の作業部屋の方にも寄ってもらえませんか。何を持ち出してもいいですから。中には急ぐ曲もあったかも知れませんし」
 
「ああ、住まいとは別に作業場所を確保していたのか」
 
結局赤星さんにそのマンションまで送ってもらった。彼女とはそのマンションの入口のところで別れた。
 
青葉は予め千里のバッグから取り出しておいた合い鍵(どれがこのマンションの鍵かは《ゆう姫》が教えてくれていた)でマンションの中に入った。
 
「凄い楽器群!」
「まあ楽器の置き場にしていたようですね。でもここより東京の拠点のほうがもっと多いです」
「さっすがぁ! 私、自分が弾くピアノくらいしか楽器持ってないのに」
 
新島さんはここに置いてあるハードディスク全部と、パソコン3台を持ち帰りたいということだったので、青葉はだったら姉のアルトを使えばいいですよと言い、結局青葉が名古屋駅近くの駐車場に置いてあるアルトを取ってきて、ふたりで頑張って荷物をアルトに乗せ、新島さんはアルトを運転して東京に戻っていった。
 

警察の検屍が入ったので、信次の遺体は7月5日夕方、引き渡された。桃香と太一は話し合い、千葉で葬儀をすることにして、信次の愛車ムラーノに遺体を乗せ、桃香と太一・康子が同乗して、夜通し走って千葉に向かうことにした。
 
信次の遺体は180cm×53cmの棺に納め、荷室と後部座席の左側を使用して乗せる。ムラーノの室内は広く、荷室の後ろからインパネの所までの長さは290cmほどある。それでこの棺を乗せても、助手席を少しだけ前に出せば、助手席にも充分人が乗れる感じだった。後部座席も左側は棺でふさがっているが、右側はちゃんと人が乗れる。
 
それで太一が運転席、桃香が助手席、後部座席の右側に康子が乗ることにしたのである。
 
青葉は大丈夫かな?と心配したものの、まあ太一さんが運転するのならいいだろうと思った。そういう訳でムラーノには(生きている人間は)3人しか乗らないので、桃香が「じゃ千里は新幹線で帰そう」と言い、太一が運転する車は出発して行った。
 

しかし、千里の様子を見ると、とてもひとりでは危なそうである。
 
うーん。。。。これは、ちー姉を今のムラーノに同乗させて、お母さんに新幹線に乗ってもらったほうがよかったのではと青葉は思う。
 
だったら軽トラの移動はあらためてくることにして、自分が千里姉に付いていった方がいいかな?とも思ったのだが、その時、高橋課長が
 
「奥さん、まだショックを受けたままのようですね。誰か付き添いさせましょう。どっちみち、うちの社員も何人かお葬式には列席させたいし」
 
と言う。それで高橋は近くに居た男性社員に呼びかけた。
 
「水鳥君、すまないけど、川島君の奥さんを千葉まで送ってってあげてくれない?そしてそのまま2泊して、通夜と葬儀の手伝いをしてあげて」
 
高橋がそう言った時、同じ部屋にいた別の社員が物凄く変な顔をしたのを青葉は覚えている。それと青葉が奇妙に思ったのは、女性である千里姉を男性社員に送らせるということである。女性社員でこういう用事に使えるような人がいないのだろうか? いや建設会社なんて男社会だろうから、女性で出張とか命じられるような人はいないのかな?と青葉は思い直した。
 
「はい。分かりました。お送りしてきます」
とその水鳥と呼ばれた男性は言う。その人は少し顔色が青かったが、やはりショッキングな事故だったからかなと青葉は思った。
 
「千葉駅に着いたら、ここに電話して下さい。迎えに行かせます」
と言って青葉は彪志の電話番号のメモを渡した。
 

「そちらは奥さんの妹さんでしたね?川島君のオフィスに置いている私物も持って行きます?」
と高橋課長が言うので
「はい。できれば」
 
と青葉も答え、数人の社員の手で、信次の机の内容物、ロッカーの内容物が軽トラに積まれた。そしてブルーシートを掛けてしっかり留めた上で青葉は軽トラを運転して東京に向かった。
 

一方、桃香や太一たちであるが、浜名湖SAまで来た所で桃香が
 
「太一さん、精神的にお疲れでしょう。私が運転代わりますよ」
というので、
 
「じゃお願いします」
と言って、太一が狭めている助手席に窮屈ながらも乗り、桃香が運転して車は出発する
 
そしてそこから20分間、太一と康子は地獄的恐怖の体験をするのである。
 
太一は、もしかしたら自分も母ちゃんも信次の後を追ってあの世に行くことになるのでは、という気がしたと後から言っていた。
 

たまらず太一は
「すみません。腹の調子が悪いんで、次のPAでもSAでもいいから停めて下さい」
と桃香に言った。
 
「あら、夕方に食べたサンドイッチが悪かったですかね?」
などと言いながらも小笠PAに入れて駐める。
 
それで太一はトイレに行って来てから(康子もついでにトイレに行く)、太一は言った。
 
「だいぶ楽になりました。でも桃香さんもあちこち連絡したりして大変だったでしょう?俺はほとんど何もしてないから、俺が運転しますよ。桃香さんは寝ていてください」
 
と言って運転を交替した。
 

水鳥羽留は信次の突然の死に4日は早退し、その夜は一晩泣き明かしたのだが、この日は課長が自分と信次の関係を知っているのか知らないのか、たくさん彼に関する作業に関わらせてくれて、羽留は信次の遺品をしばしば抱きしめたりしながら、お仕事をしていた。
 
奥さんを千葉まで送って行ってと命じられたのは仰天したのだが、これは自分にしかできないことかも知れないという気がした。それで茫然自失状態の奥さんをガードして名古屋駅までまずはタクシーで移動。東京駅までの新幹線切符を買おうとしたら、千里が
 
「あ、新幹線の切符ならあります」
と言って回数券を1枚渡してくれる。
 
「わあ、こういうのお持ちなんですね」
「私、東京でたくさんお仕事があるから、毎週土日に東京に通っていたんです。川島も土日は忙しくて、毎週土日出勤していたから、ちょうど良かったし」
と千里が言う。
 
羽留はギクっとしたが、
「そうなんですよ。川島室長はいつもお忙しいようでした」
と言って、話を合わせておいた。
 
さすがに罪悪感が羽留の心を苛んだ。
 
しかし・・・信次ったら、奥さんは元男だと言っていたけど、それ絶対嘘だ。この人、どう見ても天然女にしか見えない。羽留も微妙に性別意識が揺れているので、その関係上、男装女や女装男を見分ける目が発達している。この人はどうにも女装男には見えないのである。
 
もしこの人が元男だというのであれば、生まれてすぐに性転換したとかでないとあり得ない!
 

千里は新幹線の中で窓の外(既に暗い)を見ながらぼーっとしていた。羽留も実は放心状態に近かった。
 
私もこの人も愛していた人を失ったんだなあ、と思うと羽留の心には微妙な連帯感ができていた。車内販売が来たのでアイスクリームを2個買って千里に渡す。
 
「ありがとう」
と言って千里はアイスを食べているが、やはりぼーっとしたままである。羽留もほとんどぼーっとしながら食べていた。
 
しかしこのアイス、冷えすぎ〜!と思う。
 
物凄く冷たい。
 
それでハンカチを取ろうとしてバッグを開けたら、指が何か紙に触れた。
 
ハッとして取り出す。
 
千里に見られないようにバッグの中で広げていたのだが、千里が気付いて
「あら、何かの書類?」
と言う。
 

その時、羽留は、自分でも驚くようなことを言ってしまった。
 
「あのぉ、会社の書類なんですけど、ここ奥さんに書いて頂きたいんですが」
と言って、その書類を差し出す。
 
すると千里は
「あ、すみませんね。色々お手数おかけして」
と言って、その書類の“妻が書くべき欄”に記入してくれた。
 
その間、羽留は、うっそー!?何で私こんなこと言っちゃったの?と思う一方、この人自分が何に記入しているか分かってないの〜?と思っていた。
 

千里の後ろの子たちはざわめいていた。
 
「どう思う?」
「問題無いと思う」
「俺もそう思う」
 
「うーん・・・」
と悩んでいる子もいたが、結局みんな中止させるほどのことではないという結論に達した。
 
「そもそも本人は死んでいるから、この書類は無効」
「うん。提出しても拒否される」
「じゃ、全く問題無いな」
 

信次の遺体と一緒にムラーノで千葉に向かっていた桃香や太一たちは、7月6日午前中に千葉に到着したが、太一と康子の希望で、信次の遺体を千葉の病院の医師に診せた。
 
信次の遺体のあちこちにかなり深刻な悪性腫瘍ができていることが検屍の時に発覚し、なぜこれを4月に手術した時に発見できなかったのだ?と康子が憤慨したからである。実際信次の遺体を見た医師は
 
「これは事故に遭わなくても一週間以内に死亡していたと思います」
 
と言った。
 
もっとも医師は本当は建材に潰されたのと癌とどちらが死因なのか悩んだ。この状態では生きていること自体が信じられなかった。普通はここまで酷くなる前に死亡するので、常識的に考えて、こんなに癌が進行することがあり得ないのである。
 
しかし癌の兆候が春の段階でも発見可能であったかどうかについて医師は言葉を濁した。
 
太一たちは別の医者にも診せたが、似たような意見だった。
 

康子は医療過誤訴訟をしたいと言ったが、太一は
 
「こちらの先生も言っていたように、今は確かに酷い状態ではあるけど、春の段階でも酷かったかどうかは分からない。癌って、物凄く勝負の速いケースがあるから」
 
と言って、康子の考えには賛成しなかった。
 
この件については弁護士さんの意見も聞こうということになった。
 
それで7月7日午後、信次の遺体は荼毘に付し、その後葬儀も行った。
 

千里3は「参ったな」と思った。
 
千里3は現在マヨルカ島で合宿中である。
 
むろん信次の死はすぐに察知した。するとバスケ関係者を含めて多くの人に、放心状態になっていて“日本国内に居る”千里1が目撃されるはずである。《きーちゃん》の連絡で、信次の通夜・葬儀は7月6日,7日に行われることを知った。
 
7月5日の夕方、千里3は練習中に突然右足首を押さえながら座り込んだ。
 
「どうした村山?」
「すみません。ちょっとひねったみたい」
「すぐ医務室へ」
 
《きーちゃん》は千里が医務室に運ばれる前に医務室に電話を掛け
 
「すみません。スペイン代表の**が怪我したので来てもらえませんか?」
とスペイン語で話した。
 
「分かった。すぐ行く」
と言って担当医が飛び出していく。そこで《きーちゃん》は医務室の医師に変装して椅子に座っておく。そこに千里が運び込まれてくる。《きーちゃん》は千里の患部を見て
 
「単純な捻挫ですね。3日くらい湿布していれば治りますよ」
と言った。
 
もっともらしく、湿布薬を足首に貼る。
 
「じゃ明日、明後日の試合は?」
とコーチが訊く。
「大事を取った方がいいと思いますよ」
「分かりました」
「済みません、コーチ。こんな時に怪我して」
「まあ本番じゃないからいいけどね」
 
そういう訳で、千里3は7月6日、7日のスペインとの練習試合をパスしたのである。
 

千里はその日は自室に戻って安静にしておくことにした。練習が終わってから玲央美が来る。
 
「仮病の具合はどう?」
 
「いや、ちょっとまずいことが起きてさ、明日・明後日、代表チームの写真に写りたくないんだよ」
 
「もしかして千里1番か2番に何かあった?」
「レオちゃんは全部お見通しだなあ」
「やはり何かあったのか。性転換したとか?」
 
「なぜ〜〜? いや実は千里1の旦那が死んで、お葬式にバスケ関係者も集まるようなんだよ」
「川原新一さんだっけ?」
「川島信次」
「あ、ちょっと惜しかった」
と言ってから、玲央美は言った。
 
「私としては1番も2番も3番も等しく、私の親友だからさ。そのお葬式に出たい」
「うーん・・・。きーちゃん?」
 
それで《きーちゃん》は姿を現してから言った。
 
「玲央美ちゃんならいいよ。葬儀の時だけ転送してあげるよ」
「よろしく」
 
実際には6日の通夜も7日の葬儀も19:00-20:30の間に行われたので、スペインでは12:00-13:30にあたり、夕方19:00から行われた練習試合とはぶつからず、玲央美は出席して香典も置いて来たのであった。
 

青葉は参ったなと思った。
 
信次が亡くなったのが7月4日なので、多分5日通夜、6日葬儀になるかと思っていたのが、警察の検屍に時間がかかり、1日ずれてしまった。それで葬儀が7日なのだが、7月7日には日本代表の合宿でスペインに向けて出発しなければならないのである。チーム関係者に言えば出発をずらしてくれるだろうが、それによって結果的に合宿が短縮されるのは避けたい。千里3に言われたように、金メダルの1枚くらい?取っておきたいのである。それで青葉はこの時期、かなりマジに練習をしていた。
 
「うーん・・・、ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な♪」
と青葉は古典的な“選定歌”を歌って、千里3に電話した。
 
「ちー姉、今スペインだよね?」
「そうだけど」
「あのこと・・・知ってる?」
「知ってる。香典を届けたいくらいだけど、村山千里名義の香典を出す訳にもいかないし」
「だよね〜。それでちょっと相談なんだけど」
 
と言って、葬儀に出ないといけないのに、合宿に参加するため7日には成田から飛び立たないといけないことを話す。
 
「ああ。だったら、青葉は6日の通夜が終わったら、すぐNTCに行きなよ。7日の葬儀は私が代役さんを行かせるから」
と千里3は言った。
 
「分かった。お願い」
 

千里3は《すーちゃん》の携帯に掛けた。
 
「す〜ちゃん、元気〜?」
「私に何をさせるの〜〜?」
「簡単なお仕事なんだよ」
「千里がそう言う時はだいたい怖いんだけど」
 
それで千里3が詳細を言うと
 
「分かった。私自身があの場で信次さん助けられなかったことで後ろめたい気持ちあったし、青葉の振りして参加してくるよ」
 
「その件は気にしないで。状況を聞いたけど、信次はたぶん自身の寿命を知っていたんだと思う。だからこそ、自分の寿命を数時間縮めることで、他の人を助けたんだよ」
 
「そうかもね」
「じゃ7日の青葉の代役、よろしく」
「頑張る」
 
「そうそう。葬儀には玲央美も出席するから、帰りは玲央美と一緒にスペインに戻るといいよ」
 
《すーちゃん》は玲央美に付いてマヨルカ島に来ていたものの、《くうちゃん》の緊急召喚で日本に戻されてしまい、スペインに戻る手段が無かったのである。
 
「了解〜」
 

川島家の荷物回収にも協力した赤星さんは、お葬式にも顔を出した方がいいかなという気がしたので、千里の携帯に電話を掛けるのだが、出ない。まだ本人、電話を取る気力も無い状態かなと思ったので、多分向こうのバスケット関係者も葬儀には出るだろうからと思い、高校時代に過去に交流があった子で、現在40 minutes(ここのオーナーは千里である)所属の小杉来夢に電話してみた。すると来夢は
 
「え!?千里の旦那が死んだの?」
 
と驚いている様子。彼女はそもそも千里が結婚していたこと自体を知らなかったと言っていたが、誰かに聞いてみると言った。
 
それで来夢は40minutesのメンバーの中で千里に最も親しそうな若生暢子に電話した。
 
「待て。千里はいつ結婚したんだ?」
「3月らしい」
「千里とは東京で頻繁に会っているぞ。そもそも今年は合宿所に缶詰になっているんだから、その千里が名古屋に住んでいる訳が無い。結婚の話も全く聞いていない」
 
「え〜〜!?」
 
(暢子と頻繁に会っていたのは千里3で“松本葉子”の件で打ち合わせていた)
 

暢子は首をひねりながらも、千里の一番の親友である田代蓮菜に電話する。
 
「それ何番の千里?」
と蓮菜は言った。
 
「何番って?」
「千里はどう考えても10人くらい居る。千里からのメールは15種類のアドレスから送られてくる」
と蓮菜は言っている。
 
実態は、千里がパソコンごと、メールソフトごとに別のメールアドレスを設定しており、その中のどこからメールするかが徹底していないからである。それで千里は自分が受け取ったメールがどのパソコンのどのソフトに入っているか分からなくなる。
 
暢子も心当たりがあるので答えた。
 
「そうかも知れない気がする。じゃ、何人かいる内の千里の中で、旦那を亡くしたかも知れない千里の旦那の葬儀について知ってそうな人を捕まえてくれない?」
 
「分かった」
 

それで蓮菜(葵照子)は青葉に電話をして、それで通夜・葬儀が7月6日、7日に行われることが分かる。
 
「今遺体は名古屋にあるのですが、千葉市に転送して、そちらで葬儀をするつもりです。場所は分かったら葵さんにご連絡します」
 
「よろしく」
 

それで暢子からの連絡で「千里がいつの間にか結婚していて、その旦那が急死した」という情報が、40minutesの関係者および旭川N高校OGの間にも知れ渡ることとなったのである。
 
また桃香は千里のお母さんにも電話をしたので、北海道からはお母さんと妹さん、それに叔母さん(美輪子)が来てくれることになった。旭川N高校関係でも、宇田先生はインターハイを1ヶ月後に控えている時期で動けないので、南野コーチが代理で来るという話だった。
 
そしてみんながみんな
「千里が結婚していたなんて知らなかった!」
と言った。
 

友人たちの間で「なぜ千里は結婚することを誰にも言わなかったんだ?」と感じた人たちが大勢居た。
 
かなり憤慨していた人たちもいたが、千里本人は茫然自失状態のままで、話ができない。結構騒ぎになっていたので、《きーちゃん》はどうしたものかと悩み一時は千里から言われていた(青葉の前に眷属は姿を曝してはいけないという)禁をおかしても青葉と対策を相談しようかとも思ったのだが、思わぬことから沈静化してしまう。
 
それは7月7日に葬儀の準備をしていた時であった。太一が信次の私物を整理していたら、彼が通勤に使っていたアタッシェケースがある。中を見たら何か書類があるので、仕事関係のものなら、葬儀を手伝いに来てくれている会社の人に渡さなくてはと思って開ける。すると驚愕の内容だったのである。
 
太一はそれを控室に持って来た。見回すと幸いにも母が居ない。
 
(この時“青葉”はいたが、実は本人ではなく《すーちゃん》の代役である)
 
「とんでもないものを見付けてしまった。どうしよう?」
と言って、太一が見せたのは、離婚届である。
 
「全部記入されている」
「これ信次さんの字?」
「うん。間違い無く信次の字だ」
と太一。
 
「右側も間違い無く千里の字だ」
と桃香。
 
「だったらふたりはもう離婚するつもりだったの?」
「でも結婚してまだ3ヶ月ちょっとしか経ってないのに!?」
 
「いや待て。日付が平成31年2月3日になってるぞ」
「じゃ書くだけ書いて、来年になってから出すつもりだったのか?」
「この日付は信次が書いたみたいだな」
 
ここで桃香が爆弾発言をする。
 
「千里は結婚する前から、結婚して1年後には離婚すると私に言っていた」
 
「え〜〜〜〜!?」
 
「確かに2人は2月3日に婚姻届を出したから、平成31年2月3日というのは結婚してちょうど1年後」
 

更に手伝いに来てくれていた○○建設の社員が更に重大発言をする。
 
「詳細は勘弁して欲しいのですが、川島室長はある社員と交際してました。秘密にしていたようですけど、ふたりの雰囲気から付き合っているのは間違い無いと、みんな言ってました」
 
(彼女は部屋を見回してここに羽留が居ないのを確認してからこの発言をした)
 
「それは事件現場に居た千葉支店の女性?」
「いえ違います。名古屋支店の人です」
「じゃ名古屋に転勤してから交際を始めた?」
「だと思います。相手も名古屋支店に採用されて間もないんですよ」
 
「なんてマメな!」
 
「じゃ信次さんは、千里と別れてその人と結婚するつもりだったのかね?」
と朋子がしかめっ面で言う。朋子は信次が優子と結婚しないまま子供・奏音を作ったことを知っている。
 
その時、玲羅が言った。
 
「姉貴になんでもっとたくさんお友だちを招待しないのさって、結婚式の時に訊いたら、当時は意味分からなかったけど“無駄だから”と言っていたんだよ。ひょっとして結婚するけど、すぐ離婚するつもりだったから、わざわざ友だちに来てもらうまでもないと思っていたのかも」
 
「むむむ」
 
「それって、つまりふたりの結婚は偽装結婚か、契約結婚だったのでは?」
という声が出る。
 

すると太一が言った。
 
「偽装結婚というのはあり得る気がする。信次はホモなんだよ。だから女性と結婚するという話に俺は疑問を持っていた。きっと母ちゃんがうるさいから、いったん女性と結婚する振りをしたかったんじゃないかね。それに千里さんが協力してくれた」
 
「姉貴なら協力してあげた可能性ある。千里姉がずっと好きな人が1月に別の女性を妊娠させて取り敢えず籍を入れたんだよ。それで当てつけにこちらも結婚したのかも。ふたりは各々結婚しているからデートはしないもののメールとか電話はしているみたいなんだよね」
と玲羅が言う。
 
「それ本当に偽装結婚っぽいな」
 
「偽装結婚だから、すぐ別れる予定だった?」
 
「すぐ別れるつもりだったから、結婚式に友人たちに来てもらうのは気の毒と思って呼ばなかったのでは?」
 
「それあり得る気がしてきた」
 
「でもこれうちの母ちゃんには言わないで」
と太一が言う。
 
「うん。お母さんにはとても言えない」
 
「要するに結婚と離婚の約分かな」
と美輪子は言った。
 
「分数の約分みたいなものですか?」
「そうそう」
 
そういう訳で、この場に居た人の口から結構友人関係に伝搬したため、千里が友人を結婚式に招かなかったのは、そのためだろうと、納得されてしまったのである。
 

レッドインパルスの関係者が信次の死のことを知ったのは少し遅れてである。
 
「結婚したというのは妄想じゃなくて本当だったのか!?」
 
と驚き、小坂代表と黒江コーチ、2軍の山笠コーチが千葉の川島家まで行き、香典を出してお線香をあげたが、この時、千里(千里1)とは会っていない。
 
実は《きーちゃん》が連れ出して会わせないようにしたのであるが、千里は今スペインにいるはずだから居なくて当然である。葬儀で緊急帰国したのでスペインとの練習試合には出なかったのかと小坂代表たちは思っている。
 
ところが千里(千里3)は7月15日に元気な顔でスペイン遠征から帰国する。そして遠征から戻ったことを報告に、レッドインパルスの本部にやってきた。
 
「大変だったね。力を落とさないでね」
と黒江コーチが言う。
 
「へ?何のことですか?」
と千里3はしらばっくれて言う。
 
「えっと・・・ご主人が亡くなられたんでしょう?」
 

「ご冗談を。私そもそも結婚もしてないし。彼氏はいるけどピンピンしてますよ」
と千里3は笑って答える。
 
黒江コーチは事務方の川西靖子と顔を見合わせた。
 
「彼氏って、例の人?」
と靖子が訊く。
 
「すみませーん。不倫で。でもセックスはしてませんから」
「言ってたね!」
「あの馬鹿、他の女を妊娠させてしまって。だからその女性が赤ちゃん産んで、そうだなあ、1年くらいまでは待ってあげますが、落ち着いたら取り返します」
 
「うーん。。。マスコミに報道されないようにね」
「もちろんです」
 
「じゃ休みとか必要無い?」
 
「ワールドカップまでは休み無しです。その後はすぐWリーグも始まるし。ガンガン行きますよ。日本代表の活動が終わるまでチームにはご迷惑掛けますがワールドカップ優勝してきますね」
 
と千里は笑顔で答えた。
 
それで結局チーム関係者は
「きっとこのことは早く忘れて頑張りたいのだろう」
と勝手に解釈して、この件は千里3には言わなくなった!
 

信次の葬儀は7月7日に終わり、朋子や津気子などは翌日8日に帰った。
 
“青葉”は7日の葬儀が終わってから「合宿所に入ります」と言って別れたのだが、それは実は代役さんで(玲央美の後ろに入り、《きーちゃん》に玲央美ごとスペインに転送してもらった)、本物の青葉は7月6日の通夜が終わったところで
 
「ちょっと出かけてくる」
 
と桃香に言って、そのままNTCに入った。なお合宿に必要な道具は、朋子が通夜に出るため東京に出てきた時に、持って来てもらっている。
 
NTCに入ると、水連の人に到着したことを報告してその日はNTCの選手村で割りあててもらった部屋に入り泊まった。これは前回の合宿で入ったのと同じ部屋で、どうもここは千里姉の指定部屋になっている感じである。
 
そして翌7月7日(土)には他の選手と一緒に成田空港に向かい、スペインに渡航した。。
NRT 7/7(Sat) 11:15 (JL7089 A330-200) 18:30 MAD 14h15m
MAD 21:50 (IB8648 CRJ-900) 22:55 GRX
GRX 23:10 (Bus) Sierra Nevada 25:00 Sierra Nevada
 
海外に出るのは高校2年の時に研修旅行(実質修学旅行)に行って以来、3年半ぶりである。あの時はパスポートが男だったから、入出国だけでなく、施設見学の時も揉めたなあ、と懐かしく思えた。
 
むろん今回はノートラブルである。
 
到着したのは夜中の1時だが、日本では朝8時に相当する。むろん青葉はグラナダ空港(GRX)への国内便の中でも、その後のバスの中でも、ひたすら寝ていた。
 

7月8日は朝から早速練習である。
 
昨日着いたメンバーは時差ぼけで、体調の悪い人が多かったようである。しかし青葉はひたすら寝ていたので、時差とは関係無く最初から全力で泳ぐ。
 
「調子いいじゃん。時差ぼけは大丈夫?」
とジャネから言われた。
 
「私はいつも不規則な生活してるから時差関係ないです。今回は本気でジャネさん抜きますから、覚悟してて下さい」
「OKOK。無駄な努力しててね」
と言ってジャネは笑っていた。
 
標高2300mで空気が薄いことで、体力が出ない人、息が苦しそうな人(軽い高山病だろう)、も結構いたが、青葉は平気である。むしろ抵抗とかが少なく、身体が動きやすいような気さえした。
 
そういう訳で、7月8-14日は、千里3は海面に近いマヨルカ島、青葉は高地のシエラネバダと全然違う環境ではあるものの、ふたりともスペインで合宿をしていたのである。
 
一方、千里2は日本での多少の工作のほかは、アメリカでまだWBCBLの方をしていたのだが、7月21日にWBCBLが終了すると、スワローズのキャプテンと代表に
「また来年来ますね」
と言って、フランスに渡航し、LFBのマルセイユに
「また来ました。今年もよろしくお願いします」
と言い、チームに合流した。LFBは10月13日に開幕する。
 

《きーちゃん》はアメリカやフランスに呼ばれたり、スペインに呼ばれたり、日本で工作をしたりで、大忙しであった。《せいちゃん》のプログラムの手伝いもするつもりだったのだが、とてもそこまでの余裕が無い。矢島さんを雇って良かった!と思った。とにかく忙しすぎるので
 
『私が2〜3人欲しい!』
などと言ったら、
 
『そんなこと言っていたらあんたも分裂しちゃうよ』
と《つーちゃん》から言われた。
 
なお、千里3と青葉がふたりともスペインに行っている間、《松本花子》の方は鮎川ゆま・清原空帆・イリヤの3人が中心になって進めていた。
 

《せいちゃん》は「演歌」を自動生成するプログラムを矢島さんの協力もあり、7月いっぱいに書き上げることができた。それでさっそく8月頭から(一部はお試しで7月下旬から)、歌う曲が無くて困っていた演歌歌手に提供され始め、彼らが制作したCDは8月中旬(一部は上旬)から発売され始めた。
 
販売すべきCDが無くて困っていたレコード会社が、色々な便宜を図って彼らの制作を後押ししたので、かなり短時間でCDリリースに至ったのである。実際、マスターができた翌日発売などという凄いケースもあり、歌手本人が驚いていた。
 
演歌のCDはだいたい数千枚しかプレスしないので数時間で完成する。それで朝工場に持ち込むと午後には発送可能になることも結構あったのである。都内くらいのCDショップには社員が手で持って持ち込んだりもした。
 
そういう訳で、7月中旬から8月までに松本葉子・松本花子が生み出した楽曲は90曲に及ぶ。小樽ラボに並べられた高速パソコンがだいたい1日に1曲くらいのペースで作品を作ってくれる。制作に使用しているマシンはこの時点で8台なので、本当は1ヶ月半あれば8曲×45日=360曲ほどあるのだが、イリヤさんの所での編曲作業が1曲3日掛かるので、6人のスタッフで45日間稼働しても112曲にしかならない。
 
Museはスパコンなので簡単には増設できないが、松本花子はパソコンで動作しているので、いくらでも増設できる。
 
しかしこの時点ではまだ自動編曲システムが稼働していないので、結局編曲待ちの曲が溜まっていっていて、販売できる状態まで行った曲が90曲に留まったのである。
 
イリヤはスタッフを増員することにし、新たなアレンジャーの募集を掛けた。
 
なお、小樽ラボのマシンは最初に導入したメーカー製のパソコンがYamada-1, Yamada-2, ..., Yamada-10と呼ばれ、その後それを置換した自作パソコンがYamada-11〜20と呼ばれている。この時期は最初に導入した3〜10のマシンで作曲システムの方を動作させていた。
 
(1,2は開発用に使用している)
 

千里3と青葉は、演歌の生産のメドが立ったことから、次はポップスかなと言っていたのだが、鮎川ゆまが言った。
 
「ケイ風作品の方を先にやりましょうよ」
「おお!それがいい」
 
それで《せいちゃん》と矢島さんは、《ケイ専用作曲システム》を作ることにした。幸いにも最初にケイの自宅のライブラリをコピーしたので、ケイの作品は全てデータベースに入っている。
 
それでふたりはケイが好むモチーフを抽出した。そしてこれを多用して、更にシンプルな和音を中心に曲を作ると、まるでケイが中高生時代に書いたような曲になるのである。
 
この年千里3はケイ名義の曲を70曲、また大西典香など“上島ファミリー”のメンツも70曲書いてくれたことになっているが、実際には千里3が書いたことにした作品の大半と、上島ファミリーの人が書いてくれたことになっている物の半分くらいが、この、青葉と千里3が作ったシステムが生み出した楽曲だったのである。この付近の処理は天野貴子(きーちゃん)が新島さんや秋風コスモスと話して調整している。
 
それで実際には千里3は8月以降、ケイ名義の楽曲はほとんど書いておらず、むしろ琴沢幸穂や醍醐春海名義の曲を“ゆっくりとしたペースで”書いていた。青葉も量産曲はそちらに任せたので、大宮万葉名義の曲だけを本当に書いていた。
 

《ケイ風作品》を書くプログラムは8月中旬に完成して早速稼働させたのだが、その応用で《アイドル歌謡》を書くプログラムも8月末までにできあがった。これは「フレーズライブラリ」の交換だけで作ることができる。
 
それで、これも曲が無くて困っていた多数のアイドルたちが、楽曲をもらえるようになった。
 
千里3や青葉たちは、このシステムで作った楽曲の一部を東郷誠一ブランドで発表した。それでネット民たちは東郷誠一ブランドに新しい作曲家が加わったことを認識し《東郷L》と命名したが、すぐにこの東郷Lの正体が松本花子であることにも、ネット民たちは気付いた。
 

8月7日(火).
 
青葉は9-12日のパンパシフィック(東京辰巳水泳場)に出るため、少し早めに出てきて体調を整えようと思い、この日に高岡から新幹線で出てきた。実は昨日6日までは大学の前期試験が行われていたのでこの日の上京になった。
 
明日8日は、深川アリーナの付属プールで練習させてもらうことにしている。そこのプールはこの体育館を使用しているバスケチームの選手たちのトレーニング&クールダウン用で、一般には公開していないので、ゆっくりと泳げるのである。むろん青葉は千里のコネで利用許可をもらったのだが、“姉妹特別料金”5万円+(青葉から選手達への)お土産付き、と言われて「うっそー!?」と叫んだ。
 
(マネージャーの浩子が「お土産だけでいい」と言って5万円は返してくれた)
 

この日は到着が夕方になったので、彪志のところに泊まることにしていた。それで大宮駅で降りてバスでアパートの近くまで行く。
 
「ただいまあ」
と言って入っていく。
 
「なんか頑張って御飯作ってみた」
などと彪志は言っている。
 
「あ、食べる食べる」
と言って、彪志の手料理を食べた。そして何となくイチャイチャする。
 
「お布団行こうか?」
「その前にシャワー!」
「じゃ青葉から」
「うん」
 

それで青葉が先にシャワーを浴びて裸で布団に入って待っている。そこに彪志が1分!でシャワーを浴びて、大雑把に身体を拭いて布団に飛び込んでくる。
 
お互いに抱き合って愛撫しあう。
 
「でもこないだは参ったよ」
と言って彪志はそのことを青葉に話してしまったことを後で悔やむことになる。
 
「何かあったの?」
「こないだ母ちゃんが、ちょっと来てくれというから行ったらさあ」
「うん?」
「お見合いが設定されていて仰天したよ」
 
青葉はその話を物凄く不愉快に感じた。
 
「ふーん。それでお見合いしてきたの?」
「そんなことする訳無いだろ?俺には青葉がいるから見合いなんてしないと言って帰ってきた」
 
青葉もなぜそんなことを言ってしまったのか分からない。それを後で悔やむことになる。
「せっかくお見合いの話があったらすれば良かったのに」
「なぜだよ?」
「私が嫌になったんでしょ?お見合いするなんて」
「だから母ちゃんに騙されたんだよ。俺が何のために青葉以外の女の子とそんなことしなきゃいけないんだよ。母ちゃんが孫の顔みたいとか言ってさ」
 
この言葉は青葉の痛いところを突いてしまった。
「私は元男だから、赤ちゃんなんて産めないもん。その子に産んでもらいなよ」
「何言ってんだ?俺は別に赤ちゃんなんて気にしないよ」
 
これがきっかけになり、ふたりは言い争いになってしまう。
 
愛の確認をするつもりだったのに、すっかり冷めてしまった。
 
「私、帰る。彪志はその女の子とイチャイチャしたら」
「ちょっと待て。ちゃんと話を聞け」
「聞く必要無い。さよなら」
 
それで青葉は服を着てアパートを飛び出し、ちょうどそこに来たタクシーに飛び乗ってしまったのである。
 
「青葉!なんで勝手に怒るんだよ!」
と彪志はその去っていくタクシーに向かって叫んだ。
 

彪志も部屋に戻ってしばらくムカムカしていたものの、これは何とか和解しなければならないと思う。
 
青葉の携帯に電話するのだが出ない。
 
「全くあの馬鹿」
などとつい言ってしまう。
 
少し考えてみたのだが、青葉は桃香さんのアパートに向かうのではないかという気がした。
 
それで桃香に電話する。
「こんばんは。彪志君」
 
「すみません。青葉とちょっとした行き違いで喧嘩してしまって。アパートを飛び出していったんですが、そちらに行くかも知れないので、その場合、今夜泊めてやってもらえますか?私もそちらに向かいます」
 
「あはは。君たちでも喧嘩することがあるんだ? 分かった。こちらに来たら報せるよ」
 
しかし実際には青葉はこの夜桃香のところには行かなかった。
 
桃香のところに行くと、桃香から諭されそうな気がして、それは不愉快なのでホテルに泊まったのである。
 
更に彪志に唐突に会社から連絡がある。
 
「急で申し訳無い。ちょっと仙台まで行ってきてくれないか?」
「今からですか!?」
「君ならたぶん大宮22:10のやまびこ最終便をキャッチできるよね?」
「自転車で走れば間に合うと思います」
「それに飛び乗ってくれ。詳細は後でメールする」
「分かりました!」
 
それでやむを得ず彪志は自転車に飛び乗り、大宮駅まで走ったのだが、この後、彪志は一週間近く戻って来られなかった。
 

8月9-12日、東京辰巳水泳場で、水泳のパンパシフィック選手権が行われ、青葉は9日の女子800m、12日の女子1500mに出場した。
 
青葉は彪志と喧嘩したことで、物凄くムカついていて、そのストレスをぶつける相手が欲しかった。それをこのレースにぶつけるつもりになっていたのである。
 
すぐ謝りにくるかと思ったら、仙台に行ってる!?どうせ私より仕事が大事なんでしょ?もう知らないんだから、などと思っているが、何だか論理が破綻しているような気がする。だいたい青葉は自分自身がいつも彪志より仕事を優先していることを忘れている。
 

9日800m(タイム決勝)の参加者は18人で3組に分けて行われる。青葉は最初午前中に行われる2組目と言われていたのだが、1人体調不良で欠場することになったため、繰り上げで夕方17:30の最終組で泳ぐことになった。繰り上げなのでいちばん条件の悪い8コースで泳ぐ。ジャネは事前の成績ランキングで3位なので6コースである。4コースと5コースはアメリカの選手だ。
 
1人ずつ名前を呼ばれて出てきて飛び込み台の前に並ぶ。やがて飛び込み台に上がる。ジャネが義足を外す。例によって義足だったことを知らない観客から悲鳴があがる。
 
出発の合図があり、全員飛び込んだ。
 
さすが環太平洋の大会である。みんな速い速い。それで青葉も無理しない範囲でそのペースに付いていく。しかし半分くらいまで行くと、遅れ始める選手も出る。結局600mまで行った所で、レースは4コースのホワイト、3コースのオーストラリアのジョーンズ、6コースのジャネ、8コースの青葉の4人に絞られた感じである。
 
4人はほとんど差の無い状態で泳いでいた。700mまで来た所でジョーンズがスパートを掛ける。しかし全員付いていくので引き離すことができない。続いてホワイトが仕掛けるものの、そのハイペースに全員が付いていく。残り25mくらいの所でジャネがラストスパートを掛け、一瞬他の3人は引き離されるも、すぐに青葉も追いかける。それにジョーンズが必死で追いすがる。最終的に3人がほとんど同時にゴールした。
 
青葉はタイムを見た。
 
1.Jones 8:09:13 CR
2.Hatayama 8:09.37 NR
3.Kawakami 8:09.38
4.White 8:10.82
 
日本記録!? うっそー!?と青葉は叫びたい気分だった。ジャネが日本記録で、青葉の記録も0.01差なら、青葉も多分従来の日本記録を突破している。
 
しかし青葉は首を振った。水からあがり、ジャネに「日本記録おめでとうございます」と言って、握手を求めたが、ジャネは一瞬ためらうようにしてから、青葉と握手をしてくれた。
 
「負けた。次は勝つ」
 
とジャネは厳しい顔で言った。タッチが下手な青葉を0.01秒のみ上回っていたということは、本当のタイムでは青葉が上回っていたのは確実である。
 
「いえ、今回は私が負けました。1500mでは勝ちます」
と青葉も言った。
 

ともかくも表彰式では、ジャネは銀色のメダル、青葉も銅色のメダルを掛けてもらい、笑顔で握手してから観客に手を振った。
 
しかし、このレースでは「川上選手の方が幡山選手より早かったのでは?」という声が随分主催者に寄せられ、主催者ではあらためてビデオをチェックした。そして青葉の手がタッチ板を探している内にジャネがタッチ板にダイレクトにタッチしているのが確認されたのである。
 

12日の1500m(これもタイム決勝)では、参加者は19名であった。800mに出ていた選手の中でアメリカの1人が参加せず、代わりに2人参加している。
 
青葉は800mで銅メダルを取ったこともあり、1500mでは最初から17:30からの最終組に組み込まれていた。
 
しかも今度は3コースである。ジャネは5コースで、間の4コースには800mで金メダルを取ったジョーンズ、6コースには4位で入ったホワイトが入っている。
 
ブザーが鳴り飛び込む。
 
今回はジョーンズ、ジャネ、青葉と7コースのアメリカ・マニュエルの4人が先行してレースは進んだ。
 
1500mは長丁場なので、あまり早く仕掛けると最後まで体力がもたない。4人はお互いの呼吸を意識しながら泳ぎ続けた。
 
1000mまで行った所でマニュエルが仕掛けた。最初少しスパートを掛けて、更にペースアップしたので、ここでジョーンズが置いていかれて、マニュエル、青葉、ジャネの3人の争いになった。
 
しかし先は長い。3人は無理しないペース、但しけっこう速いペースで黙々と泳いでいく。
 
そして残り100m(1往復)となった所で、ジャネが仕掛けた。かなり速いペースである。これに青葉が付いていくがマニュエルは付いていけない。ここまでかなり速いペースがキープされていたので、疲れ切っていたのである。それで結局、ジャネと青葉の争いになった。
 
日本人選手ふたりが先頭を争っている事態に、観客が沸くが、泳いでいる本人たちにはそれは聞こえない。
 
残り25mでジャネがラストスパートを掛けるが青葉は離されない。
 
そして満を持して残り10mで自分の限界を上回るピッチで腕を動かした。
 
水面を打つ手が痛い。でも気にしない。
筋肉が悲鳴をあげている。でも気にしない。
 

タッチ。
 
その次の瞬間、一瞬意識が飛んだ。
 
それを頑張って意識を戻してタイムを見る。
 
1 Kawakami 15:59.02
2 Hatayama 15:59.03
3.Manuel 16:04.36
4.Christie 16:06.08
 
青葉は思わずガッツポーズをした。水からあがると、ジャネが参ったという顔で青葉に握手を求めた。
 
「負けた。でも次は勝つから」
「ジャネさん、アジア大会頑張って下さい」
「もちろん。金メダル2枚取ってくるから」
「はい」
 
なお、1500mの日本記録は15:58.55だったので、ジャネと青葉の記録はそれに迫るものであった。
 

表彰台のいちばん高いところに立って金メダルを掛けてもらいながら青葉は思った。
 
やはりあの喧嘩、私が悪かったかな?大会が終わったら謝りに行ってこよう。
 

8月13日(月).
 
彪志は昨日夜遅く仙台から戻って来たらしいのだが、この日は朝からずっと会社で、青葉は彪志のアパートでずっと待っていた。彪志からは
 
《ごめん。今夜は徹夜になる》
というメールが来ていた。
 
青葉はため息をついてその日は彪志の布団で眠った。
 

8月14日(火).
 
青葉は(女性用)ビジネススーツを着て、東京新橋の◇◇テレビに来ていた。この日は2020年春に入社希望のアナウンサー志望の人向けのセミナーが行われるのである。セミナーといっても誰でも参加できる訳では無い。ここまでに既に書類選考と一次面接が行われている。青葉は代表活動と作曲活動、松本花子プロジェクトの作業などの忙しい仕事の合間を縫って、面接を受けて来た。実際には青葉が今、日本代表として活動中であることを言うと、面接の日時は合宿の合間に合わせてくれたのである。
 
青葉は他の東京キー局にも書類を出していたのだが、スケジュールが厳しすぎて、他の放送局は辞退。東京キー局ではもうここだけに絞っている。
 
参加者は20名で、男性3名と女性17名だが、実際に採用されるのは多分男性1名、女性2〜3名であろう。かなり厳しい競争である。
 
ともかくもこの日青葉たちは原稿読み、カメラ実習などを受け、またフリートークも行われた。要するにバラエティセンスを見ているのだろう。
 
全体的な雰囲気は和気藹々としているが、結構ライバルを蹴落とそうという感じでさりげなく精神攻撃を掛けている人も数人いた。青葉も3人の女性から、結構意地悪な言葉を掛けられたが、そつなく、いなしたので、テレビ局の人も感心するように頷いていたし、その“ライバル”たちは、こいつは手強いぞと思っている感じだった。
 

8月15日(水).
 
青葉はこの日彪志と電話で話したのだが、謝るつもりが、向こうの言葉にカチンと来て、また喧嘩になってしまった。
 
売り言葉に買い言葉の状態になり、とうとう青葉は
 
「もう知らない。彪志なんか嫌い」
と言って電話を切ってしまった。
 
そしてその後、ずっと泣いていた。
 

今年のバスケット日本女子代表は、ワールドカップに出場するAチームと、アジア大会に出場するBチームに別れて活動しているのだが、Bチームが参加するアジア大会は8月15日-9月1日にインドネシアのジャカルタで行われた。
 
アジア大会なので、男子・女子双方のチームが参加しており、男子は1日早い8月14日から始まっている。
 
8.14 男子 台湾71-65×日本
8.15 女子 香港44-121○日本
8.16 男子 カタール71-82○日本
 
まで終わった16日夜、前代未聞の事件が起きる。
 
男子代表の内4人が、カタールとの試合終了後、食事をしようと選手村を出たあと、女を買っていたことが発覚したのである。
 
4人は即日本代表を剥奪。日本に強制送還された。この件で大会の選手団長を務めていた山下泰裕(柔道)、日本バスケ協会の三屋裕子会長(バレー出身)と川淵三郎エグゼクティブアドバイザー(サッカー出身)が陳謝する事態となる。
 
4人は1年間の公式試合出場停止の処分が下され、三屋会長以下4名の協会幹部の自主的減俸も発表された。
 
国際大会に派遣されていた選手が日本代表のウェアを着用したまま買春するなどというのは全くあり得ない事態で全国のバスケット関係者・バスケット・ファンから怒りの声があがった。
 

千里3は貴司に電話した。
 
「貴司、今回代表に入ってなくて良かったね〜。入ってたら貴司も一緒にやってたんじゃないの?」
「僕は女買ったりしないよ」
と反発するように貴司は答える。
 
「そう?暇さえあれば浮気しているのに」
 
「僕は浮気はするけど、恋愛感情の無いセックスはしない。だからソープにも風俗にも行かないよ」
 
「へー。開き直っているね」
「だって好きでもない女性を抱いたって、楽しくないじゃん」
「ふーん。でも好きになったら抱く訳だ?」
 
「僕は今年に入ってからは浮気してないよ!」
「ほんとに〜? 今年は私忙しすぎて貴司の監視をしてられないからさ。私の目を盗んでたくさん浮気しているかと思ったのに」
 
「誓って僕は誰ともセックスしてない」
「・・・美映さんとはしてるんだよね?」
「してないよ。だって美映は妊娠中だもん」
 
(本当は千里3から男性器を取り上げられているのでセックスしようにもできないのだが、千里3は貴司の男性器を取り上げたことを忘れている)
 
「じゃ誰ともセックスしてないの?」
「してない」
 
「性欲我慢できる?」
「もう慣れた」
 
本当は睾丸が無いことで性欲も少なくなっているのだが、そのことには貴司自身気付いていない。
 
「テンガでも送ってあげようか?」
「あ、それは歓迎」
「OKOK。じゃ私の名前で自宅に送り届けるね」
「待て。それはやめろ」
 

「冗談冗談。貴司自身の名前で会社宛に送るよ」
「助かる」
 
と言ってから貴司は言った。
 
「ねぇ、千里、3月に千里から、おちんちん取り上げられたままで、僕困っているんだけど、そろそろ返してくれない?」
 
「あ、忘れてた!」
マジで千里3は忘れていたのである。
 
「もうあれ捨てちゃおうかなぁ」
「勘弁してよぉ」
「じゃテンガを受け取ったら使えるようにしてあげるよ」
と千里3は《きーちゃん》を見ながら言う。《きーちゃん》が笑いながら頷いている。
 
「ありがとう!立っておしっこできないから本当に不便してた」
 
「座ってする方が好きな癖に」
「立ってするのに比べて時間が掛かるし、男子トイレの個室は塞がってたら長時間待たないといけないし」
「女子トイレ使えばいいのに」
「それこそ逮捕されるよ!」
 
「日本代表の男子選手が日本代表のウェアを着たまま女子トイレに進入して捕まったりしたら、もう世界の恥だね」
「だから僕は女子トイレなんて使わないから」
 
「女の子になりたくないの?」
「なりたくないのは千里知ってるだろ?」
「怪しいなあ。ちんちん戻さずに代わりに女の子の形にしてあげようか?」
「断る」
 
 
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【春約】(3)