【春宮】(2)

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それで青葉は千里2と一緒に5月1日の昼から筒石の新しい住まいをチェックに行くことにしたのである。
 
青葉は4月中に頼むと言われていた曲を何とか4月30日23:58くらいまでに送信して朝までひたすら眠った。
 
(青葉は真面目なので、千里のように「4月中」と言われていたものを「5月1日朝8:59」に送信したりはしない−これが毛利になると5月3日くらいに書き上げて雨宮に叱られる)
 
眠ったままの状態で母にヴィッツで新高岡駅まで送ってもらい、半分寝たまま、6:27の《はくたか552号》に乗る。ひたすら眠っていて、後ろの子に起こしてもらい8:54に大宮で降りる。そこに彪志が迎えに来てくれているので、彼の車の助手席に乗り込むと寝ちゃう!そしてアパートに着いたよと言って起こされると
 
「ただいまあ」
と言って上がり込み、彪志が起きたまま放置していた布団に潜り込み、また寝る!
 
そういう訳で青葉が目を覚ましたのは11時くらいである。これも彪志に
「青葉、そろそろ出なきゃ」
と起こされてやっと起きたものであった。
 
うーん。。。少し頭痛がするなあ・・・と思いながらも彪志が買ってきてくれたコンビニのお弁当を半ばボーっとしながら食べたが
 
「青葉、その状態では絶対乗り換え間違う」
と彪志から言われ、結局彼に彼に車で待ち合わせ場所の表参道駅まで送ってもらった。
 

青葉がそのカフェに入って行った時、奥のテーブルで千里が手を振ってきた。それでそのテーブルに行く。
 
「青葉眠そう」
と言われる。
「4月中に頼むと言われていたものを仕上げるのに4日くらいほとんど寝てなかったから」
「ああ、大変ね」
「ちー姉は何とかなった?」
「1番に頑張ってもらっているから」
「新婚さんなのに可哀相!」
と言ってから青葉は訊いた。
 
「もう名古屋に移動したんだっけ?」
「まだ。信次さんは5月11日(金)までは千葉支店で勤務して5月14日(月)から名古屋支店勤務になる。既に所属は名古屋支店所属になっていて、現在は千葉に出張中の扱いなんだげとね」
「じゃ今は千葉で新婚生活中か」
「全然」
「へ?」
 
「ほとんど千葉の作曲作業用マンションに籠もりっきり。信次さんの実家にはほとんど顔を見せていない」
「いいの〜〜?」
「まあ本人、あまり積極的に結婚したい訳ではないみたいだし」
「ふーん。。。」
「まああと半月すれば名古屋に移動するから、そうすればいやでも新婚生活が始まるでしょ」
「なるほどね〜」
 
「3番はワールドカップに向けて合宿に次ぐ合宿になるし。25日まで第1次合宿してたんだけど、今日からまた第2次合宿なんだよ」
 
「わっ。だったら、私この件2番さんに連絡して正解だったね」
 
「私の方は4月25日と28日にプレイオフの準々決勝をホーム&アウェイでやって勝って、次は5月5日と8日の準決勝」
 
「忙しい時にごめーん」
「でも5月5日にはWBCBLも始まる」
「わっ、それどうすんの?」
 
「フランスの準決勝は5月5日の20:00で日本時間では6日の午前3時。アメリカの開幕戦も5月5日の20:00でこちらは日本時間で6日の午前9時。フランスの試合が終わった後4時間程度は休めるから問題無い」
 

 
「大変そう」
と言いながら、青葉は『普通の人はフランスからアメリカに移動するのに半日掛かるんだけど?』と突っ込みたい気分だったが、やめといた。
 
「だけどWBCBLはほんとにチームの入れ替わりが激しい。去年うちの地区で準優勝したチームがシーズン後に解散しちゃったしね。昨年の6チームの内、今季も参戦するのは2チームにすぎない」
「え〜〜!?」
「解散した所、チームとしては存続していてもリーグに参加しない所などなど。代わりに新しいチームが4つ参加して結局今季も6チームで争う」
 
「なんか凄いね」
「日本の芸能界の歌手のラインナップみたいだよ。活動している総数は変わらなくても顔ぶれはどんどん変わっていく」
 
「栄枯盛衰が激しいよね」
「そんな中、ローズ+リリーとKARIONが無事10周年を迎えられそうなのは凄いことだと思うよ。XANFUSは一度解体されたし、AYAは1年間活動休止してたし」
「08年組では浦和ミドリちゃんとか引退してしまったしね」
「まああの子は長く活動できるタイプではなかったけどね」
 

「アクアはどのくらいもつと思う?」
と青葉は訊いてみた。
「たぶん、今年・来年くらいがピークだと思う」
と千里は言う。
 
「かもね〜」
「さすがに20歳越えたら人気は下降すると思うよ」
「まあそんなものだろうね」
 
「それに今彼はやはり去勢しているのではという疑惑がファンの間でも膨らんできている。さすがに今みたいに声変わり前の声ではずっとはやっていけない」
 
「まあ声変わりして人気急落するか、去勢していることを告白して壊滅的に人気が無くなるかの二者択一だろうね」
 
「いっそ性転換させちゃう?」
「まああの子は性転換してもやっていけるだろうけどね」
 
「思っていたんだけど、ひょっとすると性転換しちゃうのが最も人気に傷がつかないかも知れない。あの子、機転がきくから、バラエティタレントとしてもやっていけるよ」
「その路線はありそうで怖い」
 

「コスモスも彼でずっと稼いでいこうとかは思っていない。今彼が売れているのはパチンコの大当たりが出たような状態と思っている」
 
「そう思える経営者は偉いと思うよ」
「これじゃ私結婚できない、とかも言ってたけどね」
「確かに結婚している暇無いよね! 彼氏居るんだっけ?」
「居ないみたいだね。アクアと結婚したいくらいだ、と言ったら、そんなこと言ったらファンに殺されますよ、とゆりこが注意していた」
 
「ああ、それは殺される」
 

ふたりで話していたら、やがてジャネと筒石がやってきた。
 
一緒に出てきたのかと思ったのだが、今お店の前で遭遇したらしい。
 
ジャネは大会がいくつか続くし、金沢にいてもゴールデンウィークは市民プールなども一杯なので、埼玉県の知人が経営しているスイミングクラブで泳いでいるということだった。
 
筒石が近づいて来た時、青葉も千里も緊張した。一瞬ふたりで視線のやりとりがあるが、千里が譲るような仕草をするので青葉がため息を付いて「処理」した。
 
「あれ?身体が軽くなった気がする」
と筒石は言っている。
 
「あ、取れてる」
とジャネも言う。
 
「取り敢えず除霊しましたけど、これ多分今のお住まいに行くとまた憑依されると思います」
と青葉が言った。
 
「何か付いてたの?」
と筒石。
「ええ、憑いてました」
と青葉は言った。
 

「でももうあのアパートには戻らないから大丈夫だよね?」
とジャネ。
 
「でも引っ越しする時にお荷物を取りに行きますよね?」
「解約して出てきたんだよ。荷物は全部持って来た」
と筒石は言っている。
 
「お荷物ってそれだけですか〜〜!?」
 
筒石が持っているのはごく普通のサイズの旅行バッグ2個である。
 
「うん。ひとつで済むかと思ったんだけど、ジャネが送りつけてきた荷物があったから、それも持って来た」
 
「ああ、その青いバッグですか?」
「そうそう。これ何が入っているんだろう?」
「見てないんですか?」
「女のバッグを勝手に開けたらまずいかなと思って見てない」
と筒石は言うが
 
「じゃ私の青い水着にも触ってない?」
とジャネが訊くと
「え?青い水着とか入ってたっけ?」
と筒石が言うので、青葉も千里も吹き出した。
 

どうもそのバッグはジャネが自分の着換えを“魔除け”に送りつけたもののようである。ジャネの気配があれば、確かに弱い霊は近寄れないだろう。
 
そういう訳で筒石は今まで住んでいた所をもう出てきたので、今日中に決めないと、今夜は野宿することになりそうだ(野宿くらい平気そうだが)。
 
まずは筒石が候補にしたところを地図上で確認した。
 
「Aのマークを付けた所は**駅から15分、築70年。2DKで月8000円、Bは##駅から12分、築80年。2Kで月7500円。Cは$$駅から8分、築60年。1KSで月6800円、Dは&&駅から3分、築40年。2DKで4500円」
 
青葉は頭を抱えた。
 
千里は笑っている。
 
「Dは他の所に比べると異様に良い条件なのに異様に安いね」
とジャネ。
 
「ほらこないだ話題になった**の通り魔。その犯人が住んでいたのがこの部屋らしいんだよ」
と筒石は言っている。
 
「それはさすがにやめようよ」
とさすがのジャネも言っている。
 

「これは、青酸カリとヒ素と、トリカブトとフグ毒と、どれを飲みたい?と訊いているようなものだ」
と千里が言った。
 
「千里さんの意見に賛成」
とジャネ。
 
「これ筒石さんは無視してジャネさんが決めちゃいましょうよ」
と千里が言う。
 
「あまりこいつに関わりたくないんだけどなあ。仕方ない。私が探すか」
とジャネも諦めた感じである。
 
「筒石さん、今お給料はいくらもらっているんですか?」
「さあ、いくらだろう?」
「知らないんですかぁ!?」
 
「君康のバッグ貸して」
とジャネが言う。
「あ、うん」
 
ジャネは勝手にバッグの中身を調べていたが、◇◇◇銀行の通帳が出てくる。
 
「これ開設して以来、全く記帳されてない」
と言って呆れている。
「ちょっと待ってて」
と言ってジャネは席を立ったが10分ほどで戻ってきた。多分マラをATMのある所に飛ばして記帳させたなと青葉は思った。マラは事実上マソの眷属に近い状態にあるのだろう。
 
「毎月28-35万給料が振り込まれて、ボーナスは80-90万出てるね」
とジャネは通帳を見せながら言う。残高を見てギョッとする。家賃5000円の激安アパートに住んで居る人の残高ではない!
 
「高給取りじゃないですか!」
と青葉。
 
しかし筒石は
「へー!そうだったんだ。全然知らなかった」
などと言っていた。確かにほとんど引き出した跡がない。この人、どうやって暮らしているんだ!?
 

「これだけ給料もらっているんなら、月7-8万の家賃払っても大丈夫ですよ」
「あ?そういうもん?」
 
「まあ君康は大学生時代も月3000円のアパートに住んで居たし」
「あそこ3000円だったんですか!?」
 
青葉・千里・ジャネの“3人”は話し合った。国体登録の問題で都内に住所があった方が良いということなので、都内で家賃相場の安いエリアを探すことにする。それで筒石さんの会社への通勤しやすさを考え、次の3エリアに絞った。
 
成増(なります)駅:東武東上線→池袋
上石神井(かみしゃくじい)駅:西武新宿線→新宿
尾久(おく)駅:東北本線で上野駅の隣駅!
 
成増駅は隣はもう埼玉県の和光市で、ギリギリ都内。板橋区に所属し、モス・バーガー発祥の地である!
 
上石神井駅は練馬区で急行も停車する便利な駅だが、駅周辺は古い町並みが残り、道路も狭い。高速道路が通る計画もあることから開発が抑制気味などの理由もあり、家賃相場が低い。
 
尾久駅はバリバリの都心だが、山手線・京浜東北線のルートから外れているなどの事情で家賃相場が低い。ここは大正時代には尾久(おぐ)温泉という歓楽街があった場所で、例の阿部定事件(*1)が起きた場所でもある。戦後は温泉が枯渇して賑わいは消えてしまった。駅名が「おく」と濁らないのは、「おぐ」と聞いた昔の国鉄の人が「訛ってる」と思い勝手に清音にしてしまったせいらしい。実際に地元では「おぐ駅」でも通じる。
 

(*1)阿部定(あべさだ)という女性が1936年に愛人男性と駆け落ち中、尾久温泉のラブホテル(当時は「待合」と言う)で性行為をしていた時、“窒息プレイ”をしている最中にその相手が死亡してしまったもの。相手が死んだ後、彼女は彼を忘れがたく思い「この人とずっと一緒に居たい」という思いから、彼の陰茎を切り取り、そのまま持ち去った。
 
そこで「男性器を切り取ること」を「アベサダする」と言うようになった。
 
しかしこの事件は基本的に事故死であり、性器を切り取ったのも死後のことであって、しばしば誤解されているように、男性器を切り取られて死亡したのではない。
 
(現代であれば過失致死+死体損壊の罪に問われると思う。当時の起訴事由は不明)
 
彼女は3日後に逮捕され、裁判で懲役6年の判決を受けたが、服役中に皇紀2600年の恩赦で釈放された。その後の消息は不明だが、死亡した彼氏のお墓に1987年まで定期的に花が届けられていたことから、おそらくその年までは生きていたのであろうと推測されている。
 
この事件の報道の際に、マスコミ各社は切り取った部分を何と記述するか頭を悩ませ、この時に「局所」とか「下腹部」という言葉が生まれたとされる。
 
この事件に取材して作られた映画が大島渚監督の「愛のコリーダ」(藤竜也・松田暎子主演)であり、この映画の衝撃から作られた楽曲がチャス・ジャンケルの『愛のコリーダ』(クインシー・ジョーンズのカバーがヒット)である。歌詞の中に“Ai no corrida, that's where I am”と日本語でタイトルが歌い込まれている。コリーダは「闘牛」の意味。
 

筆者はこの事件のことはカルーセル麻紀さんの出演していたテレビ番組で知りました。1982-3年頃ではないかと思います。性転換手術のことを訊かれて、彼女は
 
「ちゃんと麻酔掛けて切ったんですよ。アベサダみたいに『えいや!』って切った訳じゃないですから」
 
と言っていました。それでアベサダって何だ?と思い、調べていて、この事件のことを知るに至りました。当時はインターネットなど無いので調査はかなりの困難を伴いました。多分おちんちんを切った有名な人がいたのではないかと思い、そういう関連の本を図書館でたくさん見ている内に、この事件のことを書いた本に行き当たりました。
 
多分この時一緒に、13人もの男児のペニスを切り取った“昭和の陰茎切断魔”三浦久夫(1948-?)のことも知ったのではないかと思います。
 

さて、住宅情報誌を見て、青葉たちが目を付けた物件は、成増駅から徒歩12分のワンルームマンションで22000円という所、上石神井駅から徒歩15分のワンルームマンションで19000円、そして尾久駅から徒歩8分のやはりワンルームマンションで23000円という所である。
 
「安い所から見たい!」
という筒石さんの希望で、まず上石神井に行くことにする。渋谷に出て山手線で高田馬場に移動して西武新宿線に乗ればいいかと思ったのだが、筒石さんは
 
「いや、表参道から高田馬場まで地下鉄で行った方が安い」
 
と主張した。
 
「どうやって高田馬場まで行くのよ?」
「九段下経由で行ける」
 
表参道から半蔵門線で九段下まで行き、そこから東西線に乗り換えて高田馬場に行くのである。
 
「なんでそんな遠回りを」
「でもそちらが安い」
 
ということで、表参道→九段下→高田馬場→上石神井
というルートで移動した。
 
最初青葉たちが発想したルートだと、メトロ・山手線・西武新宿線と3社を経由するので536円になるが、筒石さんが提案したルートだとメトロ・西武新宿線と2社で済むので401円になるのである。(むろん所要時間は長くなる)
 
青葉は筒石さんって、結構たくましく都会で生きてるじゃんと思った。
 

駅から徒歩15分と書かれていたのだが、スポーツマンばかりなので実際には12分ほどで到達した(普通の人なら多分20分掛かる)。
 
「みんな歩くスピード速いな。女に負けられんと思って頑張ったけど、男辞めたくなった」
と言っていたのが、この中で唯一の男性である筒石さんである。
 
「男辞めるならあそこ切ってあげようか?」
「女の水着の方が水の抵抗少ないけど、おっぱいの分の抵抗が増えそうだ」
 
「まあ私日本代表だし、千里さんも日本代表だし、青葉ちゃんはこないだの大会で日本代表に次点だったし」
とジャネが言う。
 
「すげー!日本代表になってないのは俺だけか!」
と筒石。
「私も代表にはなってません」
と青葉。
「青葉ちゃん、次のジャパンオープンでは頑張りなよ。日本選手権で次点だったんだから、次で優勝すれば追加招集されるかもよ。私が出ないからチャンスだよ」
とジャネ。
「忙しいから日本代表とかやりたくないです」
と青葉。
 

そういう訳で物件を見る。
 
「うーん・・・・」
と声をあげたのはジャネである。
 
「ちょっとここは。。。。ちー姉はどう思う?」
と青葉は一応千里姉に声を掛けた。
 
「次行こうよ」
と千里。
 
「だよね〜」
とジャネが言う。
 
「おいおい、みんなどうしたの?」
「まあ死にたくなかったら止めた方がいいね」
とジャネは言った。
 

ここでジャネが発言した。
 
「提案。ここから12分歩いて上石神井駅まで戻って、また高田馬場・池袋と経由してから東武東上線に乗って、またまた成増駅から10分歩くのって面倒くさいと思う」
とジャネは言う。
 
「ここは上石神井駅より北にある。次の目的地は成増駅より南にある。直接移動すれば多分5kmくらいしかない」
 
「じゃ走る?」
と筒石は言った。
 
「じゃ君康は走って来てね。私たち3人はタクシーで行くから。あ、タクシー代は私が払うから心配しないで」
とジャネ。
 
「待って。タクシー使うなら俺も乗せて」
と筒石は言った。
 
それで電話で近くのタクシーを呼び、それで移動するとほんとに短時間で目的地に着いてしまった。料金も1610円で済んだ。
 

そして2番目の物件を見る。
 
「私には分からない」
と言ってジャネがこちらを見る。青葉は腕を組んで考えた。
 
「今“は”問題無いと思う」
と青葉は言った。
「でも多分ここは良くないことが起きる。ね、姉さん」
と言って、確認するかのように千里姉を見る。
 
「2年後にここガス爆発が起きるよ」
と千里は言った。
 
「あぁ・・・」
 
「じゃ次に行こうか」
とジャネ。彼女もああいう言い方をしたのは何か感じ取ったのだろうが、具体的なことは分からなかったのだろう。
 
それで地下鉄成増駅まで8分ほど歩いて到達する(東武東上線の成増駅まで行くより近い)。そして地下鉄で池袋まで出てJRで尾久駅に移動した。そこから6分ほど歩いて、今回候補にした最後の物件を見た。
 
ジャネが頭を抱えている。
 
青葉は顔をしかめた。
 
ところが千里が嬉しそうにしている!!
 

「お姉さんの見立ては?」
と青葉は訊いてみた。
 
「このワンルームマンションより、隣のマンションの方がいい」
と千里は嬉しそうに言っている。
 
「ああ、そうかもね」
と青葉も投げ遣りな表情で言った。
 
何さ、この凄まじいスポットは?
 
しかしそうか、姫様が『餅は餅屋』と言ったのは、こういうことか!
 
「使えるの?」
とジャネが心配そうに尋ねた。
 
「馬鹿とハサミは使いようってやつでしょ?」
と青葉。
「そうそう。そこのマンション方の管理会社を呼ぼうよ」
と千里は言った。
 
「そちらのマンションですか?でも高いですよ」
と筒石が言う。
 
そのマンションは9階建てだが《空室あり.8万円〜》という看板が掛かっているのである。しかし千里は言った。
 
「大丈夫。半額以下で借りられる。それに家賃は私が払うよ」
「へ!?」
 

不動産会社のスタッフは電話をしてから5分ほどでやってきた。
 
「こちらのマンションに興味をお持ちですか?」
とニコニコした顔で言っている。
 
「中を見せてもらえます?」
「はいはい、ただいま。何階がよろしいですか?」
 
青葉はこの不動産会社のスタッフの訊き方はおかしいと思った。普通なら何階と何階が空いているのですが、どちらがいいですか?とか訊きそうなものである。しかしその前提無しにいきなり「何階がいいか」と訊いた。
 
つまり、どの階も空いているのだろう!
 
「1階がいいんですが」
と千里は言う。不動産屋のスタッフは明らかにギクッとした表情を見せた。
 
ちー姉が居なきゃ私だってそこの1階には近づきたくないよ!
 

それで敷地内に入り、1階を見て回る。
 
「あ、この部屋がいいな。空いてます?」
と千里。
 
「はい。空いてはいますが・・・」
とスタッフはさすがに心配になってきたのだろう。
 
ここは明らかに「跡」がある。ただ“中心部”には何も居ない。何かが居た気配だけが残っている。ひょっとして一瞬で処分した?
 
「あのぉ、よかったら上の階もご覧になりませんか?」
とスタッフは言った。
 
多分こちらを心配して言っている!
 
「いえ。この部屋が最高に素敵です」
と千里は言った。
 
「そうですか?では取り敢えず中を」
と言って、スタッフは鍵を開けて、その103号室を見る。このマンションは1つのフロアに4つの住居が設定されている。千里が気に入ったのは、その中の真ん中右側の区画である。方位は・・・北東。鬼門を向いている!
 
恐る恐る中に入る。千里が「筒石さんを守って」と脳内直信してきたので、笹竹に護衛させる。むろん千里も青葉も多分ジャネも自分の身は自分で守れる。しかし濁流の中に身を置いている気分だ。社員さんが少し心配だが、まあ何とかなるだろう。
 
部屋は2LDKSであり、実質3部屋+キッチンである。IHが入っており、ガスの使用は禁止であることを説明される。エアコン付きである。
 
しかし・・・
 
正直青葉はさっさとここを出たい気分だった。ジャネもかなり緊張しているが、千里は楽しそうだ。
 

「とっても素敵な部屋ですね。ここを借りたいのですが」
と千里は言った。
 
「分かりました。では事務所で手続きを」
ということになり、不動産会社の人の車(ハイエース)に乗って事務所に行く。
 
「失礼ですが、皆さんの関係は?そちらの髪の長い方が借り主さんですか?」
「はい、そうです。あとは髪の短い長身の女性は私の妹、坊主頭で男性に見える子も妹で、バーゲンの売れ残りのような服を着ているのは私の兄です。4人兄弟なんですよ」
と千里が言う。
 
「え!?え!?」
 
ジャネは吹き出していたが、青葉は「ひっどーい!」と思った。
 
「俺、妹だっけ?」
と筒石さん。
 
「その子、男性ホルモンやってるから男に見えるけど、ちゃんとおっぱいありますから」
 
「そうですか!まあ最近はそういうのも多いですよね」
と不動産会社の人は納得!?していた。
 

そして不動産会社でスタッフさんは説明した。
 
「家賃は月96,000円、その他に管理費が毎月3000円かかります。敷金・更新料は不要ですが、保証会社に入って頂きますのでその利用料が初回15,000円、その後毎月賃料の2%、ここの場合は1920円必要です。地下の駐車場をお使いになる場合は、月10,000円+消費税で使用できます。現在は空きがありますが、全居住者分までは枠が無いのでお使いになる場合は早めにお申し付け下さい」
 
そこまでスタッフが説明した所で、千里はグイと身を乗り出すようにして言った。
 
「それでですね」
「はい?」
「いくらまで安く出来ます?」
「え、えっと・・・・」
 
「あのマンションは3階より上は人が入るけど、1〜2階に入ろうとする人は居ないでしょ?遊ばせておくよりは毎月2万円くらいでも収入があった方がいいですよね?」
 
「ちょっとお待ちください」
 
それでスタッフは店長らしき人を呼んできた。
 
「あのぉ、霊能者さんか何かでしょうか?」
「ええ、巫女をしています」
と言って、千里は越谷F神社・副巫女長の名刺を出した。
 
ああ、こういう時には便利な名刺だよな、と青葉は思った。
 
「ああ、巫女さんでしたか!」
 
「あそこは元々神社が建っていた土地でしょ?」
「さすがですね。それで実は入居者が居着かなくて困っていたんですよ。何度かお祓いをしたのですが」
 
「私が入居すれば、3階より上の住人も怪異には遭わなくなりますよ」
「何か処理方法があるのですね?1〜2階は?」
「バッハァ領域として必要です。普通の人が住むのは無理だと思います」
 
「分かりました。では安くお貸しします。月4万円というのではどうでしょう?」
「駐車場も借りますからそれと合わせて3万円とかは?」
 
向こうが半額以下を提示したのに更に2万値切ってる!
 
「うーん・・・」
と店長は考えていたが言った。
 
「1年後に怪異が収まっていてくれたら、以降は月1万円でもいいですので、取り敢えず1年間は月3万円、駐車場代別というのではいかがですか?」
 
「店長さんも商売上手ですね。では1年間だけ4万円で、それ以降は駐車場代を入れて2万円という線ですか?」
 
「ええ、それでお願いできれば」
「分かりました。それでいいですよ」
 
それで千里と店長は笑顔で握手した。
 

家賃はできたらクレカ払いで、どうしてもお持ちでない場合は自動引き落としでということだったのだが、千里が「このカードで」と言って“例のカード”を提示すると、また店長さんがギョッとしていた。
 
「分かりました!お預かりします」
と言って処理してくれた。
 
ああ、あのカードも“ハッタリ”用だよなと青葉は思う。千里姉はふだんはごく普通の住友VISA(ゴールドカードでもない)を使っている。しかしハッタリを掛けたい時と高額決済の時だけ、あのカードを使っているようである。あのカードではジェット機でも買えると言ってたからなあ。
 
「お客様も人が悪い。何か隠れ家のようなものとしてお使いですか?」
「今日はここに来ていないのですが、もうひとり居る妹が田舎から出てくるのでその子と一緒に住むんですよ」
 
「ご兄弟が多いんですね!」
 
どういう“妹”なのかね〜?と青葉は思った。
 
物凄いカードで決済したので、結局保証料は不要ですということになった。あのカードを持っているということは収入が最低でも億はあるということである。保証会社を入れる必要はないし、便宜を図った方が後々良いという判断なのだろう。
 

即入居可ということだったので、鍵をもらい、スタッフさんに送ってもらって、再度あのマンションに行く。
 
行ってみて、スタッフさんが最初その場所を通り過ぎてしまった。
 
「さっきの所じゃない?」
とジャネから言われて。
 
「あれ?通り過ぎてますね」
と言って慌てて戻る。
 
そして首を傾げながらそのマンションの前に着けた。
 
「ここ・・・ですよね?」
とスタッフさんは不確かそう。
 
「変わったでしょ?」
と千里が言う。
 
「もう何か処理なさったんですか!凄いです。あんなに暗い雰囲気だったのが、まるで見違えました」
 
「まあ色々秘伝があるので」
 

それでスタッフさんは帰っていった。
 
ジャネが感心したように見ていた。青葉も大したもんだと思った。本当に『餅は餅屋』だったようである。
 
中核になっていたものはさっき処分が終わっていたから後は雑魚の処理をして結界を張るだけだったはずだが、それにしても美事だ。結界も強固で人間業とは思えない。
 
中に入る。
 
すっかり“何も無くなっている”。
 
「筒石さん、この2LDKSのSの部屋を私に下さい。残りの2LDK部分は自由に使っていいです」
と千里は言った。
 
「それでタダでいいんですか?」
 
「そうです。このSの部屋も使っていいですし、物置とか洗濯物の干し場として使ってもいいですが、私が後で持ってくる物を部屋の指定の場所に置いて、それは動かさないようにして欲しいんです」
 
「分かりました」
 
「それとセックス禁止だよね?」
とジャネが言う。
 
「この部屋だけは」
と千里。
 
「他の部屋ではセックスしていい?」
「いいですよ。何ならジャネさんもここに住み込んだら?」
 
「そうだなあ。結婚するつもりは無いけど、東京に大会とかで出てきた時に宿代わりに使うのにはいいかな。ホテル代節約」
とジャネは言っている。
 
「ああ、それでもいいかもね。だったら2つの部屋の片方はジャネが使う?」
と筒石。
「うん。そういうことでもいいよ」
 
「じゃ3つの鍵は、千里さん、私、君康が1個ずつ持つということで」
「実質ルームシェアかな」
 
それでジャネと千里が握手をしていた。
 
多分・・・ここは用賀のアパートと同じような感じになるんじゃないかな?と青葉は思った。しかしあそこは京平君の神殿になっている。ここは誰の神殿にするのだろう?
 
などと考えていたら、千里姉が小さい声で呟くのを聞いた。
 
「私、また住所がひとつ増えちゃった」
 
確かに。千里姉の住所はいったい幾つあるんだ!?
 
千里1は現在千葉市内の信次さんの実家に住んでいる?ことになっているが、実際には作曲作業のため、千葉市内の別のマンションに籠もりっきりである。信次さんが5月14日に名古屋に転勤になるので、既に名古屋駅の近くに信次さんと2人で住むアパートと千里姉専用の作曲作業用ワンルームマンションを確保しており、家賃も払い始めている。
 
千里1はしばしば経堂の桃香のアパートにも寄っている(多分桃香姉とセックスしている)。
 
つまり千里1だけで現在5ヶ所の住まいがある(5月下旬以降は千葉のマンションは解約して1つ減る)。
 
千里2は日本国内では葛西のマンションを拠点にしているが、アメリカとフランスにもアパートを借りているので3つの住まいがある。
 
千里3は川崎のマンションに住んでいる。
 
これだけで9ヶ所だが、3月まで住んでいた用賀のアパート(現在は西湖が住んでいるが家賃は千里姉が払っている)と、この筒石さんが住むことになったマンションで2ヶ所。それに高岡の青葉の家まで入れると全部で12ヶ所。
 
しかし多分自分も知らない住処がきっと他にもある、と青葉が考えていたら、千里がこちらを見て言った。
 
「だから私って住所不定なんだよ」
 
こちらの思考を読んでたな!?
 
『青葉が無防備すぎるだけ』
と《姫様》が言っていた。
 

5月15日に千里1は名古屋に引っ越して行った。名古屋駅から歩いて行ける距離の場所に家賃6万円のアパート(築25年)、熱田区内に家賃5万円+駐車場代2万円のワンルームマンション(築15年)を借りた。どちらも結局千里1自身が探して借りたようである。青葉はアパートの方に何か“影”のようなものがあるのを感じて、大丈夫かな〜?と思ったが、少々住環境に問題があっても、千里姉なら何とかするだろう。
 
千里1も昨年7月の事故の時に比べると驚異的なほどに霊的な能力を回復させてきている。既にもうふつうの霊感体質の人並みの霊的な能力は持っている。多分占い師をすれば、かなり“当たる”占い師になる。
 
ミラも名古屋に持って行き、ワンルームマンションの駐車場に置いたのだが、車の登録はそのまま放置したようである。あの車は経堂の桃香のアパートに登録されているらしい。以前は千葉市内の桃香のアパートで登録していたのを大学院を出て東京都内に引っ越した時、そちらに移動し、品川ナンバーになっている。
 
荷物だが、千葉の川島家にあった信次と千里の荷物はアパートに、千葉市内のマンスリーマンションにあった音楽制作関係の荷物を熱田区のワンルームマンションに移動したが、引越業者に頼んだのは実家→アパートの移動で、ワンルームマンションの荷物の移動は千里1に付いている眷属たちがやってくれた(千里1は青葉が業者を手配してくれたと思い込んでいる)。
 
ただ千里1が持っていた振袖・訪問着などの和服類は千葉の川島家にそのまま置かせてもらっていた。千里1は「2DKのアパートは狭いから和服まで置けないので」と言っていたが、青葉はたぶん、川島さんのお母さんを“守る”ためなのだろうと思った。青葉も行ってびっくりしたが、凄まじく霊的な環境の悪い場所だった。取り敢えず出雲の藤原直美に頼んで霊道を動かしてもらったが、いつ元に戻るか分からない。千里の愛用していた振袖や訪問着があれば、それが、お母さんを最低限守ってくれるだろう。
 

桃香のアパートにも寄ってみたが、こちらは千里が使っていた本などがかなり残されているものの、4月に用賀のアパートを出た時に一時的にここに移されていた衣服関係の一部は残っていなかった。
 
「全部名古屋に持ってっちゃったんだよ。置いててもいいよと言っていたのだけど」
「まあお嫁さんに行っちゃったんだから仕方ないよ」
「取り敢えず1年後には離婚して戻ってきてくれる約束なのだが」
 
何それ!?
 
「桃姉、ごはんちゃんと自分で作ってる?」
「そこの台所を見れば分かるだろ?」
「ああ」
 
カップ麺とか、お弁当のからが大量に積み上げられている。
 
「カップ麺にも随分飽きて来た。ほか弁にも飽きて来た」
「味が画一的だからね〜」
「御飯も自分で炊くと、どうしてもまともにならない。なぜあんなに不味くなるのか分からん。結局サトウの御飯を買ってくることにした」
 
「ますますゴミが増える気がする」
「それが問題なのだよ」
「ゴキブリを飼育したくなければ、ゴミくらい片付けた方がいいと思うけど」
「ゴキブリほいほいは仕掛けているのだが」
 
「とても女性の家には見えない」
「私は性転換してもいいのだが」
「早月ちゃん、ママがいなくなっても大丈夫?」
「パパがいれば問題なかろう。必要な時は女装してもいいし」
「だったら、性転換手術代出してあげようか?」
「5〜6年考えさせてくれ」
 

2018年5月24-27日、東京辰巳水泳場でジャパンオープンが開かれた。
 
8月18-24日に行われるアジア大会(ジャカルタ)の日本代表は既に確定しているのだが、その前の8月9-12に東京で行われるパンパシフィック選手権の代表は800m, 1500m ともに代表は2名だけ決まっており、あと1人はこのジャパンオープンの成績と、先月の日本選手権の成績を総合的に判断して決めることになっている。
 
青葉は日本選手権で800m,1500mいづれも3位であった。1位のジャネと2位の永井は既に2つの大会の代表に決まっている。もし青葉がジャパンオープンで優勝すれば、日本代表になる可能性は高い。
 
それで絶対代表にはなりたくない!という気持ちで出て行った。
 
青葉はまず2日目午前中に、女子800m予選に出場する。これは予選だしと思って気楽に泳いだ。予選は4組に分かれておこなわれ、青葉は4組目に出たのだが、タイム4位で決勝に進出した。
 
そして午後の決勝に臨む。青葉は予選4位なので6コースである。隣の5コースは予選2位の南野さん、その向こう側が1位の金堂さんである。
 
800mはプールを8往復する。まあまあの長丁場である。青葉は3位か4位くらいになればいいと思い、南野さんに付いて行く感じで泳いだ。その向こう側で金堂さんが飛ばしているのを感じる。
 
レースはそのまま金堂−南野−青葉と並ぶ形で進行する。3コースを泳いでいる人の動向が分からないが、青葉は上に2人もいれば“安全圏”だと思っていた。
 
やがて最後の往復となる。このままなら3位か4位でゴールだなと思っていた。ところが、あと少しでゴールという時に突然南野さんのペースが落ちた。
 
え?どうしたの?と思ったが、こちらまでペースダウンする訳にはいかない。青葉はあっという間に彼女を抜きゴールした。
 
青葉は彼女に語りかけた。
「南野さん、どうしたの?」
「足がつっちゃって」
「あらあ」
「ラストスパート掛けようと思ったら急に足が痙攣したみたいになって」
と言って彼女は足をさすっていた。
 
その時、大きな歓声が起きた。時計の表示が出たのだが、見ると青葉は結局2位でゴールしていたのだが、1位の金堂さんが日本新記録を出していたのである。
 
1.KANADO__ 8:23.50 NR
2.KAWAKAMI 8:24.83
3.MINAMINO 8:25.23
4.HIRATA__ 8:26.01
 
「おめでとうございます!」
と青葉も南野さんも言い、彼女と握手をした。
 
「ありがとう!」
と言って、金堂さんも満面の笑みである。彼女は日本選手権では5位だった(3位が青葉で4位が南野さん)。しかしこの大会で日本新記録を出して優勝したのなら、間違い無く彼女が代表になるだろう。青葉は助かった!と思った。
 

1日おいて5月27日、女子1500mがあるが、これはタイム決勝である。
 
800mでも1日に2度泳ぐのはしんどかったので予選ではやや手抜き気味に泳いだのだが、1500mは1日に2度泳ぐのは辛すぎる。ということでタイム決勝になっていて、その代わり最後の組のレースを決勝の時間帯に行うのである。
 
参加者は24名で8人ずつ3つの組に別れている。青葉は南野さんや金堂さん、800mで4位に入った平多さんと同じ3組目に入れられていた。
 
この日は14時までに予選が終わり、15時から決勝が始まるのだが、その先頭で1500m女子の最終組が泳ぐことになった。
 
ところがここに出るはずの金堂さんが来ていない。
 
「金堂さんどうしたのかな?」
と南野さんに言っていたら、平多さんが
「よく分からないけど、事務局の人に呼ばれてどこか行っちゃったよ」
と言う。
 
「なんだろう?」
「競技の時間なのに」
 
「もしかして何かで失格になったのかも」
と同じ組の佐藤さんが言う。彼女は800mでは5位だった。
 
青葉と南野さんは顔を見合わせた。
 

結局金堂さんは出ないようである。コースの調整が行われ、青葉が4コース、南野さんが5コース、平多さんが3コース、佐藤さんが6コースを泳ぐ。この組は7人で泳ぐことになった。
 
やばい、やばい。金堂さんが絶対的に速いからと安心していたのに。南野さんに“勝たないように”気をつけなきゃなどと考えていたら、スタートの合図が鳴ったのに一瞬出遅れてしまった(と思った)。慌てて飛び込んで泳ぎ出す。
 
青葉のスタートが一瞬遅れたせいか、南野さんは青葉の2mくらい先を泳いでいる。あまり恥ずかしい記録を出すわけにもいかないので、彼女に付いていって2位でゴールすればいいなと思った。日本選手権では青葉が3位、南野さんは4位だったが、南野さんが優勝すれば優勝の重みは大きい。
 
それで青葉は付いて行きやすいように少しだけポジションを改良して、南野さんの1mくらい後ろを泳いでいった。
 
1500mは長丁場である。体力の無い選手は途中で極端にペースが落ちるし、最後まで持つようにあまりペースをあげないで泳ぐ選手もある。しかし南野さんと青葉は1m差くらいのまま14往復して最後の往復に入る。
 
青葉は少しは頑張った感じにしようと思い、ペースをあげて、一時は南野さんにほとんど並ぶ。すると彼女が追いつかれまいとペースを上げる。それで15往復目はデッドヒートをするような感じに(多分)見えた。
 
そして残り10mくらいになった所で、まるで力尽きたように少しペースを落とした。
 

結局青葉は南野さんから1m近く遅れた状態でゴールした。
 
「負けたぁ。優勝おめでとう」
と言って青葉は南野さんに握手を求めた。南野さんはやや首をひねっていたが、素直に握手に応じた。
 
ところがその時である。場内にアナウンスが響く。
 
「ただいまのレース、5コースを泳いだ南野選手はスタート時に違反があったため、失格となります」
 
え〜〜〜!?
 
南野さんは驚いて口に手を当てている。それで時計が表示される。
 
1.KAWAKAMI 16:05.13
2.SATO____ 16:08.24
3.HIRATA__ 16:10.39
 
やばい!私優勝しちゃったよ!日本代表に選ばれたらどうしよう!?
 

次の男子800m自由形タイム決勝最終組がおこなわれている間に表彰式が行われる。青葉は表彰台のいちばん高い所で金メダルを掛けてもらい、観衆の歓声に応えながら、困るよ〜!だれか日本代表代わって!と思っていた。
 
表彰式が終わってから南野さんが寄ってきた。
 
「あらためておめでとう」
「ありがとう。南野さん惜しかったね」
「0.02早かったらしい。音を聴いてから出たつもりだったんだけどなあ」
「それ南野さんの反射神経が速すぎるんだと思う。最近の研究では現在フライング判定される反応速度より、トップアスリートの反射神経は速いという研究結果が出てきている。たぶんフライング判定の基準は変わると思うよ」
 
「うん。話聞くと、やはり音と同時に動き出したらフライング取られるというのでわざと一瞬遅れて飛び出す人が多いみたい」
「やはりね」
「でも川上さん、スタート遅すぎなかった?」
「うん。あれ考えごとしてて遅れたんだよ」
「それに全力で泳いでなかった気がする」
「うっ。ちょっと諸事情で日本代表になりたくなくて」
「面白い人ね〜」
と彼女は最後は笑っていた。
 
「単純に川上さんに負けたんなら、代表譲ってよと言いたい所だけど、フライングじゃ仕方ないから、また1年間鍛える」
「うん、頑張ってね」
 
「じゃ秋の短水路選手権で」
と言って2人は握手した。
 

表彰式の後で、JADAの人から「ドーピング検査お願いします」と言われる。青葉は、優勝したら当然検査されるよなと思い、検査官と一緒にトイレに入り、ほぼ全裸になっておしっこを出して検査を受けた。
 
もう3度目なのでかなり平気になったものの、ほぼ人権無視した検査だよなあと思う。巧妙な不正をする選手がいるので、ここまで厳しくなってしまったのだが。
 
それで大会が終わった後、帰ろうとしていたら、今度は水泳連盟の人から呼ばれて
 
「川上さん、申し訳ないのですが、あなたの性別検査をさせてもらいたいのですが」
と言われた。
 
「いいですよ。好きなように調べて下さい」
と青葉は答える。
 
ああ、これはいよいよ日本代表に選出されるのかもと思う。そうなった場合、性転換者である青葉を女子代表にするために、厳密な検査をしたいのだろう。
 

普段着に着替えてから、水連の女性スタッフに付き添われてなんと東大に行く。そういえば、ちー姉もここで一度性別検査を受けたと言っていたなと思う。
 
それで青葉はあらためておしっこを取り、採血もされた後、MRIに掛けられてかなり長時間の撮影をされた。心理療法士のような人から色々質問される。心理テストをやっているようだった。その上で婦人科医の診察を受けて、身体全体の目視検査に、内診までされた!
 
「性転換手術を受けられたのはいつですか?」
「2012年7月18日です」
「6年前ですか!凄く若い内に受けたんですね。タイですか?」
「いえ。日本国内です。物凄く特例中の特例中の超特例で手術の許可が下りたと言っておられました」
 
「その年齢で正式の手術許可が得られたというのは確かに超特例でしょうね」
 
医師は血液検査などの結果も踏まえて青葉が間違い無く女性であるという判定をしてくれた。
 
今更男だと言われたらどうしよう?と思っていたのでホッとした。
 

1500mの表彰式があったのが15:20頃、そのあとドーピング検査があり、その後病院に来て4時間掛けて性別検査をされた。それで終わったのがもう20時すぎだったのだが、青葉はその後、水連事務局(岸記念体育会館)に連れて行かれた。青葉はこの建物、数年以内には崩壊するのでは?という気がした。むしろ今夜崩壊しても驚かない。
 
それで応接室に通される。
 
そして専務理事さんが出てきたので青葉はびっくりする。そして専務理事さんは言った。
 
「申し訳ないのですが、ジャパンオープンの800mの銀メダルを返還して頂けませんか?」
 
「え?何かありましたか?」
 
と言いながら、青葉はバッグの中から800mでもらった銀メダルを取り出す。
 
さっきお医者さんは、私が間違い無く女だと断言してくれたけど、実は水連への報告書では男だとか書かれていたとか?あるいはドーピング検査に引っかかった??などと焦って考える。
 
そして青葉が緊張した面持ちで銀メダルを専務理事さんに渡すと、専務理事さんは
「代わりにこれをお渡しします」
と言って、金メダルを青葉に渡す。
 
青葉は仰天した。
 
「なぜ?」
 
「1位になった金堂選手がドーピング違反で失格になったのです」
「え〜〜!?」
 
「本人は決して意図的なものではないと主張しました。3日前に風邪気味で風邪薬を飲んだらしいのです。その成分が残留していたようです」
 
「あぁ・・・」
 
「彼女は高校1年生でドーピング検査を受けたのも初めてで、無名校の出身なので指導していた中学の先生もドーピング検査のことはあまりよく分かっていなかったらしいです。それで高校の顧問と校長、その中学の時の先生も上京して弁明してくれまして、彼女の将来のこともあるので、今回は今大会の成績だけを抹消して、厳重注意ということにしました」
 
「それは良かったです。彼女は普通に競技してもきっと来年以降日本代表を争う選手になりますよ」
 
「私もそうなって欲しいと思います」
と専務理事さんは言った。
 
「そういう訳で、川上さん、あなたは日本選手権の800m,1500mでいづれも3位で日本代表選考に次点、そして今回はどちらの競技でも優勝しましたし、どちらも派遣II記録(800m=8:25.22 1500m=16:06.82)を突破していますので、8月9-12日に東京辰巳水泳場で行われます、パンパシフィック水泳選手権に日本代表として出て欲しいのですが、いいですか?」
 
この状況ではとても断れない!
 
「分かりました。頑張ります。よろしくお願いします」
 
と青葉は笑顔で答えながらも、日本代表なんて嫌だよぉ!と思った。
 
「では明日から代表合宿があるので、そちらもよろしくお願いします」
「はい、若輩者ですが、他の代表の方たちの足手まといにならないよう頑張ります」
と青葉は答えながら心の中では焦っていた。
 
 
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【春宮】(2)