【春秋】(1)

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その日朝高岡から金沢に走るアクアの中で、唐突に美由紀が尋ねた。
 
「中国の歴史で春秋戦国ってあるじゃん」
「うん。それがどうかした?」
「戦国は日本の戦国時代みたいに国が分裂して争っていたんだろうなと思うけど、春秋って何だっけ?異常気象で夏と冬が無くなったとか?」
 
「いや、春秋という歴史書があるんだよ。その春秋が取り扱っている時代を春秋時代というんだよ」
と世梨奈が解説する。
 
「あ、そういうこと?じゃ戦国も歴史書の名前?」
「そういう歴史書は無い」
「なーんだ」
「周で王位継承争いから都を洛陽に移したBC771年から、秦の始皇帝が統一王朝を樹立したBC221年までを春秋戦国時代と言うんだけど、その中で春秋でカバーされているBC481年までを春秋、それ以降を戦国と言う」
 
「秦の始皇帝は記憶があるな。その息子が聖徳太子の国書を受け取った人だっけ?」
「それは隋の二代目・煬帝!」
 
「あれ?別の時代?」
「BC221年に聖徳太子がいる訳無い」
と明日香にまで呆れられている。
 
「でも確かに秦と隋は似ている。どちらも、短期間で漢・唐にとってかわられた」
と青葉は言う。
 
「秦が倒れて、項羽と劉邦の争いに劉邦が勝ち漢ができた。やがて漢が滅んだ後、南北朝時代を経て、また隋が統一王朝を建てた。でも隋も実質2代で滅び、有名な李世民とその父・李淵によって新たな王朝・唐が樹立された」
 
「ああ、それで遣隋使から遣唐使になったのか」
「そうそう」
 

2016年7月中旬。富山B高校。
 
1年生の左倉ハルはその日バスケット部の練習を遅くまでしていた。一応公式の練習は19時までなのだが、その後もバスや電車の時刻を待つまでの間、体育館に居てもいいという「黙認」の元、居残り練習している子がいる。これは「練習」しているのではなく単に「居る」だけである。監督やコーチも教官室で「残務整理」しているだけで「指導」もしない。
 
それでも実際にバスや電車の時刻が来たり、親が迎えに来たりして、少しずつ人数が減っていく。20時の段階でまだ練習していたのは、ハルの他には3年生の凛子副部長、2年生の泰美さんの2人だけだった。
 
「ハルちゃんはお父さんが迎えに来るの?」
と凛子さんが心配して言う。
 
「母が放送局の仕事が終わってからこちらに回ってくれることになっているんですけど、たぶん予定外の仕事が入ったのかも」
 
「だったらお父さんとかに電話してみたら?」
「そうですね」
 
それで父に電話したら、今から迎えに来てくれるということだった。
 

それから5分もしない内に泰美さんのお父さんが迎えに来て帰っていき、ハルと凛子の2人だけになる。
 
「部長はお父さんか誰か迎えに来られるんですか?」
とハルは尋ねた。
 
「うん。もう少ししたら来ると思うんだけどね。1on1やろうか?」
「はい!」
 
それで2人は攻守を入れ替えながら1対1の練習をする。
 
「ハルちゃんやはり強いなあ」
と3本ずつやった所で部長が言う。
 
「そうですか?」
「愛知J学園からも誘われたんでしょ?行けば良かったのに」
 
「えー?でもあんな所に行ったら私、とてもベンチ枠に入れませんよ」
「ああ、それはあるかもね〜。うちなら確実にロースターになれるし」
「いえ、そんなことないです。この学校でも私、ギリギリでインハイのメンバーに入れてもらったのに」
 
ハルは1年生では唯一人、インターハイ代表12名の中に入れられたのである。 
「とんでもない。ハルちゃんは既に中核選手だよ。県大会でも得点数2位、スリーポイント数2位、アシスト数3位の大活躍。広島ではスターターで使うから頑張ってね」
 
「はい!そういうことになったら頑張ります!」
 
今年のインターハイは7月31日から広島市で開かれる。
 

「性別問題はJ学園側も大丈夫だと言ったんでしょ?」
と部長が小さな声で訊く。
 
「ええ。中学の顧問の先生が尽力してくださって。日本代表の村山千里選手も口添えしてくださったので、バスケ協会から女子のidカードもらえたから。それに中学の学籍簿も“ハル”名義になっていたので、それなら女子校である愛知J学園でも女生徒として入学させられるから、とは言われました」
 
「せっかくの機会だもん。女子校の生徒になりたいとは思わなかった?」
「けっこう不純な動機で、それ少し考えました」
とハルが正直に言うと、凛子さんも笑っていた。
 
その時、体育館の2階で誰かがボールを撞くような音がした。
 
「あれ?峰川先生がドリブルしてるのかな?」
「珍しいね。自分ではあまり実演しないのに」
「あまり下手でもまずいから少し練習してるんだったりして」
と言ってふたりは微笑む。
 
峰川先生はバスケの名門大学の出身で、オールジャパンへの出場、日本代表候補の経験もあるが、現在54歳で実際のプレイからは長く遠ざかっている。様々なプレイもだいたい若い高橋コーチに実演してもらったりしている。
 

ところが、ふたりがそんな話をしてから1分もしない内に、当の峰川先生が体育館の入口の方から入って来た。
 
「君たちまだやってんの?」
「すみませーん。もうすぐ親が迎えに来ると思うんですが」
と部長が言う。
 
「連絡は付いてるのね?」
「はい、ふたりとも連絡は取れています。左倉は最初お母さんが迎えに来る予定だったんですが、急な仕事が入ったみたいで、代わりにお父さんが迎えに来てくださることになったんですよ」
 
「ああ、それで遅くなったのね。お疲れさん」
 
しかしハルは疑問を感じて訊いた。
 
「峰川先生、さきほどまで2階の教官室におられましたよね?」
 
「いや。今夜は僕はさっきまで校長室で、校長・教頭とインターハイ遠征の件で打合せしていたんだよ。体育館に大人が誰もいなくなるけど、たぶん鶴野君が最後になるだろうから大丈夫だろうと思って、しばらく席を外していた」
 
その言葉にハルと凛子は顔を見合わせた。
 
「ついさっき、教官室でボールをドリブルする音がしたのですが」
「何!?」
 
と言って、峰川先生は顔色が変わる。
 
「君たちはここにいて」
 
と言うと、ステージ横の螺旋階段を駆け上がって教官室に行ったようである。そして灯りが点く。そういえば、さっきまで教官室には灯りが点いていなかったことにここで初めて凛子もハルも気付いた。
 
しばらくして灯りが消えて、先生は外側の階段を降りてロビー側から戻ってきた。
 
「誰も居なかったし、居たような形跡も無かったよ。鍵も掛かっていたし」
と先生は言う。
 
「じゃ何かの聞き違いかなあ」
「外を通る車の音か何かを聞き違えたのかもね」
 
そんなことを言っている内に、ハルの父と、凛子の父がほぼ同時に体育館にやってきた。ふたりとも峰川先生に挨拶した上で、各々の娘を引き取り下校する。それで教官室(?)で聞こえたドリブルの音の件もこの日はそれまでとなった。
 

「あきちゃ〜ん」
と言って、その女性3人組は入って来た。
 
「明日は店休日だから、デートなんでしょう?」
と青沼さんが言う。
 
「ええ、そうですけど」
と笑顔で答えながら、このおばちゃんたち苦手〜、と亜記宏は思う。
 
「デート用に可愛い服、買ってきてあげたよ」
と言って、赤岩さんが見せるのは襟とか袖口・裾なんだかレースのフリルが付いていて、花柄の可愛すぎるチュニックと、膝丈のプリーツスカートである。 
「勘弁して下さいよ〜。ぼく女装の趣味は無いので」
「あら、もっと自分に正直になった方がいいわよ」
と黄金さんが言う。
 
「愛する奥さんに、可愛いあきちゃんの姿見せてあげなきゃ」
と青沼さん。
 
「それ、どこか間違っている気がするんですけどー」
 
「だって、あきちゃんは可愛いんだから、もっともっと可愛くしなきゃ」
と赤岩さん。
 
「ねね、これ着てみてよ」
 
参ったなと思いながらも、断りにくい相手なので、亜記宏はその服を受け取ると、奥で着換えて来た。
 
「わぁ、可愛い!」
「やっぱり、あきちゃん、そういう格好が似合うわあ」
「じゃ、明日はその服でデートね」
 
とおばちゃんたちは盛り上がっている。亜記宏はこんな格好で行ったら、また美智に「やはり女装が好きなのね」とか言われそうだと思い、頭が痛くなってきた。
 

2016年9月。
 
青葉は1-4日に東京辰巳でインカレの水泳に出場するために東京に出てきたのだが、大会が終わった後で、松井医師に呼び出され、あきる野市内の産婦人科に行って、そこでレインボウ・フルート・バンズのフェイの妊娠出産のサポートをして欲しいと頼まれた。
 
一方9月4日に札幌でチェリーツインの桃川春美の結婚式に出た千里は出席者のひとりである丸山アイから「彼女を妊娠させたかも」という相談を受けたが、その妊娠させたかもという相手が、フェイであった。
 
ふたりは双方の案件が絡み合っていることに気付き、お互いの依頼者の許可も取った上で、共同でこの問題に対応することにした。それで青葉はこの問題の当面の対処で結局、1週間ほど東京に滞在することになった。
 

その間に青葉はフェイの妊娠問題だけでなく、他にもいくつかの作業をしていた。ひとつはこの春に対処した“妖怪アジモド”の封印の護符を、ケイ、桃香、彪志、山村星歌を通じて合計50枚ほど頼まれていたので、それを配布する作業であった。この護符は間接的に渡しても効果が十分出ないので、使用する本人に直接渡す必要があるし、できたら青葉自身でその人の車に貼り付けてあげたほうがよい。それでこの配布作業だけで総計3日くらい掛かっている。 
また、青葉は今回の東京行きでは新しいフルートを買おうと思っていた。 
これまで青葉は3年前に政子(ローズ+リリーのマリ)からもらった白銅製のフルート(マリ自身が中学生の時に吹奏楽部で吹いていたもの)を使っていたのだが、充分横笛が吹ける青葉には、合っていないと指摘され、上手いんだからもっと良いフルートを使った方がいいと言われていたのである。
 
それでそのフルートを、以前サックスを見立ててもらった近藤七星さん(ローズ+リリーのサウンドプロデューサー)に見てもらって買おうというのであった。青葉はアジモドの件やフェイの件の対応に追われる中、9月8日午後にケイのマンションで七星さんと会った。
 

この時期の青葉・千里・ケイ・七星の動き
 
■青葉
8.31-9.4 インカレで東京辰巳
9.5 フェイの件で打合せ
9.6-11 アジモドの件対応
9.8 ケイのマンション訪問
 
■千里
8.31 新横浜で貴司と密会。大阪で買物中に倒れた阿倍子を助ける。京平の絵を合宿所の貴司に届ける。
9.3 秋田で全日本クラブ選抜に出た40 minutesの応援
9.4 札幌で桃川春美の結婚式
9.5 東京でフェイの件で打合せ
9.6-7 沖縄に飛び、木ノ下大吉らと会う
9.8 ケイのマンションに流れ込む
 
■ケイ
9.4 札幌で桃川春美の結婚式
9.5-7 沖縄に飛び、木ノ下大吉らと会う
9.8 東京に戻る。青葉と会う
9.10-11 田村市の入水鍾乳洞を訪れる
 
■七星
9.5-7 沖縄に飛び、木ノ下大吉らと会う
9.8 東京に戻る。青葉と会う
 

実は昨日までケイは七星さんや千里と一緒に沖縄の木ノ下大吉さんの家を訪問しており、この日の午前中に一緒に戻って来た所であった。青葉が恵比寿のマンションを訪問した時に居たのは、ケイ・マリ・千里に七星さんである。 
「まあ、取り敢えず、私のフルート吹いてみる?」
と千里がフルートを3本取り出す。
 
「これはヤマハのYFL-221。白銅製。カバードキイ、オフセット、Eメカ無し。作曲用に持ち歩いているもので演奏用ではない。まあ青葉も吹いてみる必要は無いだろうね」
 
実際現在青葉が使用しているのがヤマハYF-261。白銅製。銀メッキ。リングキイ、オフセットでEメカ無しである。カバードキイとリングキイの違いはあるが、だいたい似たようなクラスだ。
 
「こちらはサブ楽器。割と吹きやすいと思う。アルタスのA1007E。管体は銀AG925でキイは白銅。銀メッキ仕上げ。見ての通りのリングキイだけどカバードキイのモデルもある。Eメカ付き」(*1)
 
実際吹いてみると、楽に吹ける。青葉は結構いい音が出るなと思った。 
「こちらが私のメイン楽器、サンキョウの総銀フルートArtist-E。銀メッキ仕上げ。リングキイ。ニューEメカ。ドローン・トーンホール」
 
「そのニューEメカってどうなっている訳?」
「まあやってみればよい」
 

(*1)
インラインというのは主なキーが全て一列に並んでいるもので、オフセットというのは、左手薬指で押さえるGキイが少しずれていて押さえやすくなっているものである。オフセットの方が使いやすいのに、日本では高級品はほぼインラインである。これはインラインの方が、見た目が美しいからである!
 
カバードキイはドイツで発達したものでフルートの穴をふたで完全に塞ぐもの、リングキイはフランスで発達したものでフルートの穴は指で塞ぐものである。カバードキイは指の細い人でも使いやすいし、弱い力で押さえてもしっかり穴を塞げる。一方リングキイは指の押さえ方によって微妙な音程を出すことができる。日本では初心者はカバードキイを使い、上級者はリングキイを好む傾向がある。 
このため、製品も「カバードキイ・オフセット」、「リングキイ・インライン」という組合せになることが多い。
 
フルートの材質には主に白銅、洋銀、銀がある。他に金、プラチナ、木製もある。なお、洋銀は銅・ニッケル・亜鉛の合金で「洋銀」とは言うが銀は含まれていない。 
白銅は入門者用で耐久性も無い。洋銀が一般用で、銀はプロ用であるが、銀でもAG925 AG950 AG977 AG1000などがある。数字は銀の純度を表す。純度が高い方が良さそうだが、純銀(AG1000)は柔らかすぎて変形しやすいというデメリットがある。一般には洋銀や銀のフルートには銀メッキを施している。銀のフルートに銀メッキというのは不思議な気がするが、メッキに使う銀は本体より純度の高いものであり、空気中の硫化ガスと反応して黒ずみが生じるのを抑える効果がある。
 
Eメカは高音のE(E6)を出しやすくするための機構である。高音のEを出すにはオクターブ下のE5の指使いからAキイを開ければいいのだが、現代のフルートはAキイを開けると同時にGisキイまで連動して開いてしまう。そこでEメカでは右手中指で押さえるEキイに連動してGisキイを押さえてくれるので、E6が出しやすくなるのである。
 
ニューEメカというのはサンキョウ独自の技術で、普通のEメカの機構を付ける代わりにGisキイのトーンホールにドーナツ状のリングを仕込んだものである。サンキョウ製品の標準仕様で、これによって楽にE6を出すことができる。この仕組みで他の音に影響が出ないようにするためサンキョウはフルート全体に綿密な調整をしており、他のメーカーが模倣してみたことがあるものの、うまく行かなかったと言われている。
 
ドローン(引き上げ)方式とは管体自体を引き延ばしてトーンホールを作る方法、ソルダード(ハンダ付け)方式とは、管体とは別に用意したトーンホールのパーツをハンダ付け(金の場合はロウ付け)するもの。一般に普及品は前者、高級品は後者である。
 

ほかにケイが、サマーガールズ出版の備品のフルートを何本か出して来てくれた。
 
春の福島のライブで青葉自身が借りて使ったヤマハのフィネス YFL-777。オフセット、リングキイ、Eメカ。総銀、引き上げ。
 
ムラマツのDS。インライン、リングキイ。Eメカ。総銀。引き上げ。これは風花の愛用品と同じモデルである。
 
結果的に青葉は、ヤマハ・サンキョウ・アルタス・ムラマツという日本の主要フルートメーカーの製品を1つずつ吹いてみたことになる。
 
「ヤマハが好みです」
と青葉は言った。
 
「まあヤマハは優等生だからね。個体差も少ないし。でもたくさん練習すればムラマツとかサンキョウの方が良い音が出るようになるんだけどね」
 
と七星さんは言っている。
 
「サックスを選ぶときも似たようなことをおっしゃいましたね!」
「そうそう。それでヤナギサワになったね」
 
「でもたぶん私、フルートはサックスほど一所懸命は練習しないと思うんですよ」
 
「だったらヤマハが無難かもね」
とケイも言った。
 

「ところでこういう写真を入手したのだが」
と言っておもむろにマリが写真の“プリント”を出してくる。
 
(マリは携帯に写真を入れておいても、頻繁に過剰電流が流れて携帯が壊れてしまうのである) 
千里が額に手をやって苦笑している。
 
「これ高校生時代のちー姉?」
と言って青葉が驚いたようにその写真を見る。
 
夕焼けか朝焼けかは分からないが、海岸っぽい所で女子高生っぽい服(ブレザーにチェックのスカート)を着た千里が長い髪を風にたなびかせて、フルートを吹いている様である。
 
物凄く美しい。
 
「千里可愛い!」
とケイが言う。
「千里が高校3年間、女子高生をしていたという証拠写真だよ」
とマリは言っている。
 
「木管フルートだね」
と七星さんが言った。
 
「うん。材質はグラナディラ。今回は選考対象じゃないだろうと思って持って来なかった。チェコ製の木管フルートだよ。実は冬山修行をしながら吹くのに使っている。冬山では金属の楽器は指にくっついて吹けないから」
と千里。
 
「いや冬山でフルート吹こうというのが凄い」
とケイ。
「だって私、時間無いし」
「無いだろうね!」
 

「ソルダードとドローンの差って考える必要あるんでしょうか?」
と青葉が質問すると
 
「私やケイなら気にしない。七星さんなら気にする」
と千里が言う。
 
「だったら私もたぶん気にしなくてよさそう」
と青葉が言うと、七星さんも笑っていた。
 
「ヤマハのフルートの場合、安い方から、スタンダード、フィネス、イデアルというランクがあるんだけど、ドローンでもいいのなら、フィネスでいいのかもね」
 
「ということになると、このYFL-777ですか」
「ただそれオフセットなんだよね〜」
 
「このクラスでインラインのモデルは無いんですか?」
「あるけどEメカが付いてない」
「うっ・・・」
 
「いや、インラインでEメカ付けるのは構造上結構難しい」
と千里が言う。
 
「インラインでEメカということになると、最高級仕様のイデアルになるね。ソルダードのYFL-897、ドローンのYFL-897Dがある」
 
「お値段が違いそう」
「ソルダードが92万円、ドローンが74万円」
「ああ。20万も違うのか」
「そりゃソルダードは作るのに物凄く手間が掛かる。ちなみにフィネスは495,000円」
 
「イデアルのドローンにしようかな」
 
「ちなみにイデアルを考えるなら、コンセプトモデルのビジューとかメルヴェイユというのもある」
 
「それはどう違うんですか?」
「まあ音の響きの好みだね」
「ああ」
「それは実際に楽器店で試奏させてもらって確認するといいかも」
 

それで結局、このメンツでぞろぞろとヤマハの楽器店に行ってみた。楽器店の人は顔なじみの七星にとても親切で、展示用の楽器を快く試奏させてくれた。 
先にイデアル(YFL-897D)を吹く。吹いてみて青葉はびっくりした。
 
「なんでこの楽器、こんなに鳴るんですか!?」
「凄いでしょ」
「ええ」
 
「それとこれ、さっき冬子さんの所で吹かせてもらったフィネスより軽い気がするのですが」
 
「物理的な重量ではフィネスよりイデアルのほうが重いはずなのですが、イデアルを軽く感じる方がけっこうおられるようです」
とお店の人も言っている。
 
続いてメルヴェイユを吹いてみる。ここでまた青葉は驚く。
 
「このフルート、音が物凄く豊かですね」
と青葉。
 
「平均律ではないのには気付いた?」
と七星さんが尋ねる。
 
「はい」
「よく音が響くような音程設計がされているんだよ」
「なるほどー」
 
続いてビジューを吹いてみた。これを吹いた後、青葉は何とコメントしていいか分からず、少し悩むようにした。
 
「これもしかしてメルヴェイユの方が後から開発されました?」
と青葉は訊いた。
 
「そうそう。ビジューができて、その後、吹きやすさとかを改良したのがメルヴェイユ」
 

「まあ、後は好みの問題だね」
と七星さんは言った。
 
青葉は5秒ほど考えてから決断した。
 
「個人的にはメルヴェイユの音の響きも魅力的なんですが、私の場合はむしろちゃんと平均律の音で出てもらった方が助かると思うんです。ビジューは吹きこなすと面白そうですが、私には荷が重いかも。ですから結局イデアルかな」
 
「うん、それでいいと思うよ。音階の問題は、また数年後に金製のフルートを買う時に悩むといいよ」
と七星さんは微笑んで言った。
 
「金のフルートなんて無理です!」
 

さっき試奏したのがイデアルのドローン・タイプだったのだが、七星さんの顔で、ソルダードも試奏させてくれた。
 
「これは違いがありすぎます」
と青葉が言った。
 
「青葉ちゃんくらいだと差が出るよね」
と言って七星さんは笑っている。
 
マリが
「何か違いがあった?」
とケイに訊く。ケイは
「私には分からない」
と言ったが、千里は
「結構明確に差が出たね」
と言っている。
 
「七星さんは差が出ないでしょ?」
「うん」
「ちー姉も差が出ないよね?」
「私はドローンばかりだし」
「そうか!」
 
「いや、千里さんの肺活量なら、ソルダードを充分吹きこなせるはず」
と七星さんは言う。
 
千里がマリやケイに説明する。
「今青葉が吹き比べた2本では、ソルダードの方はあまり鳴らなかったんだよ」
 
「じゃドローンの方がいいの?」
とマリが訊く。
「初心者にはね」
と千里。
 
「そういうことか!」
 
ケイも、なるほど〜という感じで頷いていた。
 

それで青葉は
「じゃイデアルの引き出し(ドローン)の方にします」
と言った。
 
「まああまりたくさん練習できないかもというのなら、その選択かもね」
 
と七星さんも言った。
 
そういうことで、青葉はヤマハ・イデアル・ドローンモデルのYFL-897Dを買うことにしたのである(インライン・Eメカ付き・総銀)。定価799,200円である。 

9月20日。
 
海外の大会に行っていた貴司は帰宅すると玄関の前に妻の阿倍子と長年の恋人である千里が座って並んでこちらを睨んでいるので仰天する。
 
それでふたりの気迫というか「正直に答えなかったらおちんちん切断」という脅迫!に負けて、貴司は8月中に浮気をしていたこと、相手とは実はまだ切れていないことを告白した。
 
翌21日、千里はその浮気相手を呼び出し、千里と貴司と彼女の3人で話し合いを持ち、貴司と彼女が別れること、今後一切ふたりが会わないことを誓わせ、念書まで書かせた。その場で携帯のアドレス帳からお互いの連絡先を削除させ、一週間以内に彼女には携帯番号・メールアドレスも変更してもらうことも念書には盛り込んだ。貴司にも携帯番号とメールアドレスを変更させた。
 
ちなみに相手の女性は千里を貴司の奥さんだと思っていたようである。阿倍子ではなく千里がこの話し合いに出たのは、阿倍子は自分ではそういう交渉をする自信が無いと言ったからである。
 
そして・・・阿倍子は京平を連れてマンションを出てしまった。
 
貴司の浮気は頻繁すぎて今更なのだが、阿倍子としてもとうとう堪忍袋の緒が切れてしまった感じであった。
 

そして22日。
 
千里は朝からその阿倍子が泊まっているホテルで、彼女の看病をしていた。怒りの感情が体調を狂わせてしまったようで、熱が出たのである。《びゃくちゃん》の見立てでは、風邪などでもなく単純に身体のバランスが取れなくなっただけだから1日寝ていれば治るだろうということだった。
 
「ごめんね〜。こんなにしてもらって」
と阿倍子も恐縮している。
 
「まあ今回は共同戦線ということで」
と言いつつ、そういうことを以前、緋那さんともやってたなあと千里は昔のことを思い出していた。
 
「ママ、びょうき?」
と京平が心配そうに阿倍子を見て言う。
 
「ごめんねー、京平。今日はユニバーサル・スタジオに連れていく約束してたのに」
「ママがびょうきなら、ぼくがまんするよ」
 
と京平は子供にしてはなかなか健気(けなげ)である。
 

「ああ、パパとママと3人でユニバーサル・スタジオに行くはずだったの?」
と千里が訊く。
 
「うん、お・・・ちさとおばちゃん」
 
うっかり『おかあちゃん』と言いそうになって『ちさとおばちゃん』と言い直したなと千里は思った。『おかあちゃん』というのは、千里とふたりだけの時のみ呼んでいいという約束をしているのだが、ちょっと気が緩んだのだろう。 
その時、阿倍子が言った。
 
「ね、千里さん、今日はお時間ある?」
「あるけど」
 
本当はレッドインパルスの練習があるのだが、それは《すーちゃん》にやらせる手もある。彼女は嫌がるだろうが。さすがに試合に出す訳にはいかないものの練習なら何とかなるのではという気がする。
 
「そしたら、もし良かったら京平を連れてユニバーサル・スタジオに行ったりしてもらえないかしら?実は、今日ユニバーサル・スタジオ・ジャパンで開かれる、妖怪ウォッチの『ブリー隊長と体操』というイベントに当選してたのよ」
 
「あらら」
「貴司に行ってもらう手はあるけど、昨日の今日の日に頼みたくないし」
「確かに確かに」
 
京平は悩むような顔をしている。阿倍子が体調が悪い時に自分だけ遊んでもいいのかなあと悩んでいるのかなと思った。京平は肉体的には1歳3ヶ月の幼児だが魂としては多分30年くらい生きている精霊の魂を持つ。千里が京平と知り合ってからも既に9年経っている。
 
「よし、それじゃ、京平、おばちゃんと一緒に行こうか?」
「でもママ、だいじょうぶ?」
と京平は心配している。
 
「うん。ママは寝ていれば治るから、千里おばちゃんに遊んでもらって」
と阿倍子は笑顔で言った。
 
「うん。じゃそうする。おみやげなにがいい?」
阿倍子は苦笑した。
 
「だったらユニバーサル・スタジオ・サブレでも」
と阿倍子が言うと、
 
「ちさとおばちゃん、おぼえた?」
と京平が訊く。
 
千里は吹き出して
「うん。覚えたよ。じゃママにはUSJサブレを買って来ようね」
 

千里は先に1度外出して、レトルトのおかゆ、蒸しパン、アクエリアスやお茶などを買ってきて、そのあと出かけることにする。
 
阿倍子から、チケットと交通費・食費に取り敢えず2万円受け取り、京平を連れてホテルを出た。ホテルの部屋には《びゃくちゃん》を残しておいて、何かあったら対処してもらうことにする。
 
京平は部屋を出ると
「えへへ」
などと言うので、千里はハグしてあげた。
 
『お母さん、ぼく少ししゃべりすぎかなあ。1歳3ヶ月の子供ってこんなにしゃべる?』
と京平はエレベータで下に降りている最中に千里に尋ねてくる。
 
京平は1歳に到達した段階で“封印”が解除され、中身は人間でいうと精神年齢12-13歳くらいの精霊になっている。ただし本来の能力が使えるようになるのは京平の身体が中学生か高校生くらいになってからだろう、と京平の上司(?)である泳次郎さんは言っていた。それまではただの大人びた子供である。ある意味“江戸川コナン”に似た状態だ。
 
『うーん。まあいいんじゃない? 特に女の子は言葉の発達が早いんだよ』
『ぼく男の子だよ!』
『女の子になる気は?』
『それってちんちん取るの?』
『女の子にはちんちん付いてないからね』
『ちんちんは無くしたくないから、ぼく男の子のままがいい。じゃもう少し、言葉は控えめにした方がいいかなあ』
と京平は嫌そうな顔で言う。
 
『京平は、おちんちんで遊ぶの?』
『遊んじゃダメ?』
『あんまり遊んでたらお医者さんに切られちゃったりして』
『嫌だよぉ』
 
と言って京平は
『でも我慢できるかなあ』
などと悩んでいる。
 
身体は1歳の子供でも中身は思春期のキツネ(?)なので、悪戯したくてたまらないだろう。ただ京平の肉体はまだほとんど男性ホルモンを出してないので、普通の思春期の男の子よりは、性欲自体、かなり弱いはずである。
 
『じゃママに見つからない程度にね』
『うん』
と言って、京平は少し恥ずかしがっている。
 
『でもまだ掴めないんだよねー』
『まだ1歳だもん。仕方ないよ』
 
掴めないということは、ひょっとして女の子みたいに指で押さえて遊んでいるのかなと思ったが、そんな話はあまり女親とはしたくないだろうし、深くは追及すまいと考える。
 
『それとおむつしてると、いじりにくいんだよね〜』
『じゃトイレの練習頑張ろう』
『でもいつ出るか分かりにくくて』
 
やはりそのあたりが1歳の身体で、多分神経のシステムも未熟なのであろう。 
『そうそう。お母ちゃんと心の声で会話する分は普通にしゃべっていいよ』
『うん』
と京平は笑顔で答えた。
 

電車でUSJまで行き、チケットを見せてパスポートを発行してもらい、まずは目的のブリー隊長のイベント会場に行く。既に列ができている!イベントは招待制だから、チケットを持っているのなら会場に入れないということはないだろうに。 
と思ったのだが、やがて開場時刻になり、入場が始まると、先に入った人たちがみんな前の方に向かって小走りで行っている。なるほど、できるだけ前で見ようというので並んでいたのかと思い至る。千里と京平は15列目くらいになったのだが・・・・。
 
巡回していた女性から声を掛けられる。
 
「そちら何ヶ月ですか?」
「1歳3ヶ月です」
「だったら、前の席に案内しますよ」
 
と言って、ロープで囲ってリザーブしていたっぽい優先席に案内してくれた。結果的に3列目である。
 
『お母ちゃん、小さいって得なんだね』
『そうだね。女の人のおっぱいにも、触り放題でしょ?』
『べ、べつに・・・・』
と言って京平は下を向いて目をそらしているので、どうも心当たりがあるようだ。 

千里の周囲には、やはり年齢の小さな子を連れたお母さんが何人も座った。大抵は京平より大きな子のようで、どうも2歳以下くらいをこのエリアに誘導したようである。まあ6〜7ヶ月とかでは、まだ妖怪ウォッチが分からないよなあ、と千里は思った。
 
やがてショーが始まるが、ブリー隊長やジバニャン、ウィスパーなどの着ぐるみを着た人たちが入ってくると、京平は
 
『大きい』
とやや、しかめ面をして言う。
 
『まあ大人が中に入っているんだから仕方ないよ』
 
どうも他の子たちの反応を見ても、特に小さい子供たちはこの巨大なジバニャンやブリー隊長たちに恐怖を覚えている感じだ。思っていたのと違う!という所だろう。
 
しかし『ダン・ダン・ドゥビ・ズバー!』の曲が流れ始めると、特に大きな子供たちが興奮して席の所で立ち上がって踊ったりし始める。大きい子たちが乗っているので、つられて小さな子供たちも、喜び始めた。
 

京平も喜んで、立ち上がり、見よう見まねで踊っていた。やはり1歳くらいの子はみんな適当に踊っている感じだ。
 
やがて歌が終わった後は、ジバニャンとメラメライオンが、掛け合い漫才のような感じのトークをする。これは小学生たちには受けているものの、幼稚園以下の子たちは、さっぱり分からないようで、退屈しているっぽい。京平はむろん理解できるのだが、千里に『これ笑っていい?』と最初尋ねて来た。千里が『笑うのはOK』と言うと、安心して大きな声で笑っていた。
 
その後、妖怪ウォッチのミニ劇が行われる。これは幼稚園くらい以上の子は熱心に見ていたものの、それ未満の子にはよく分からないようだった。しかし分からないなりにも楽しんでいるようで、大きい子たちが笑うのに合わせて笑ったりして結構楽しんだようである。京平はむろん内容が分かるので、かなり盛り上がっていた。 
その後、ダン・ダン・ドゥビ・ズバー!の踊りの解説が行われる。これも京平は熱心に真似して身体を動かしていた。
 
その後、再度音楽を鳴らし、曲に合わせてステージ上の人たちも客席の子供たちも踊る。子供たちの記憶力が凄いので、1回教えただけなのに、みんなほぼ完璧に踊っていた。
 
これ、20歳くらいになっても覚えていたりしてね、と千里は思った。
 

イベントは30分ほどで終わり、お土産の袋をもらって退場した。
 
お昼に京平の希望でハンバーガーを食べながら、1歳児が利用できるアトラクションを場内の地図上でチェックする。京平の希望を聞いて行く所をだいたい決め、そこを《たいちゃん》に案内してもらって見て回る。
 
プリキュアのアトラクションに来た時のことだった。
(京平は結構女の子っぽいものが好きである)
 
思わぬカップル(?)と遭遇する。
 
「変装してたのに、一発で見破られたみたい」
と丸山アイは言った。
 
「そりゃ私や大宮万葉には変装は無意味」
と千里は笑顔で言う。
 
「おはようございます、醍醐先生」
「おはようございます、早紀ちゃん、映月ちゃん」
 
芸名は口にしないのが花だろう。
 
「そちらは親戚のお子さんか何か?」
と丸山アイが尋ねるので千里は微笑んで
 
「私の娘」
と答える。
 
「娘?女の子!?」
とアイが驚いたように言う。
 
「ぼくおとこのこだよ!」
と京平が抗議する。
 
「ごめんごめん、私の息子」
「へー。お子さんがいたのか。1歳半くらい?」
「まあ、そのくらい」
 

ここは結構色々な音が流れているので、かえって話をするのにも良い環境だった。流れから少し離れた所にある休憩用?のベンチに座る。
 
「男装の早紀ちゃんって、本当に格好良いね」
と千里は言う。
 
アイはカジュアルな男性用スーツの上下を着ており、ネクタイも締めている。女装の時はセミロングの髪なのに、今はサラリーマンのような短い髪である。あるいは男性用のかつらを使っているのか。それにしても不可解なのが、胸だ。丸山アイの時はどう見てもCカップ以上の胸なのに、今は胸があるようにはとても見えない。ナベシャツを使っているのかも知れないが、ナベシャツであんなに大きな胸がごまかせるものなのだろうか。
 
「ありがとうございます。女の子とデートする時は男の子になって、男の子とデートする時は女の子になるんですよ」
とアイは言っている。
 
「竜男君は、凄く男らしいです。結婚したいくらいだけど、真琴(フェイ)ちゃんに指輪贈ったから結婚できないって言われた」
と映月は言っている。
 
「早紀ちゃんが結婚しても真琴ちゃんは気にしないと思うよ」
「それは考えるけど、つい先日指輪贈ったばかりで節操無いから」
「確かにね〜」
 
京平はアイを見て不思議そうに言った。
 
「さきさん、おとこのひと?おんなのひと?」
 
「今は男の子だよ、京平君」
 
千里はあれ?と思った。京平の名前、私紹介したっけ??千里はこの手のことにだいたい自信が無い。今言ったことを忘れていることが多い。
 
「おんなのひとにもなるの?」
「うん」
 
「おちんちんとるの?」
「そうだよ。女の子になる時は、ちんちん取って、おっぱい大きくして、男の子になる時は、ちんちん付けて、おっぱい小さくするんだよ」
 
「とっても、またつけられるの?」
「ぼくはできるよ。京平君のちんちんも取って、女の子にしてあげようか?」
「いい!」
と京平は焦ったように言った。
 
「でも、さきさん、きゅうしゅうのひと?」
「よく分かるね。ぼくは長崎生まれなんだよ。大きな造船所がある、香焼町という所なんだけど、今は長崎市に併合されちゃったんだよね」
 
「ながさきは20ねんくらいまえにいったかなあ・・・」
 
「ふふふ。1歳なのに20年前のこと覚えているんだ?」
「あ、えっと・・・」
と京平は焦る。
 
「京平君、何が好き?」
「バスケット! パパもおかあちゃんもバスケットせんしゅだから、ぼくもバスケットせんしゅになる」
 
「だったら、君にこれをあげよう」
と言ってアイはバッグから小さな指の先くらいのサイズのバスケットボールを取り出した。どうも真鍮製のようである。
 
「こないだタイに行った時に見かけて買ったんだよ。京平君が立派なバスケット選手になれるようにね」
 
アイは・・・タイに行って、フェイに渡すダイヤの指輪を買ったのでは?と千里は思った。タイは宝飾品加工の大国である。例の指輪はどうしても目立ちやすいヒロシはアメリカで、あまりお金の無い雅希は韓国で買ったようである。なお、スポーツ用のボールはインド、ミャンマー、タイなどでの生産が多いようだ。(国内ではモルテンの広島工場が一部作っているかも??ミカサの工場も広島である) 
「ありがとう」
と言って、京平はそのボールを受け取ると、千里に
「おかあちゃん、もっててくれる?」
と言った。それで千里は
「うん」
と言って、京平からそのボールを受け取ると、自分のバッグのポケットに“入れた”。 
ただこの時、実際に“入れた”と思ったのは千里だけであり、京平もアイもそのボールが“どうなったか”を見ていた。ふたりはそのことについては何も言わなかった。
 
ちなみに千里はこのアクセサリーのことをその後、きれいさっぱり忘れてしまった。 

アイたちは「さっき寄ったアトラクションが多分1歳の子供にも楽しい」と言って、スヌーピー系のアトラクションに連れて行ってくれた。そこで4人で一緒に楽しんだ後、別れた。
 
京平は、すごく遠回しに、おっぱいが欲しいみたいなことを言ったのでファミリーサービスコーナーに連れて行き飲ませたら、凄く満足げであった。 
千里たちは午後4時頃、USJを出た。
 
駅に向かっていた時、献血車が出ているのを見る。
 
「AB型の血液が不足しております。よろしかったらご協力下さい」
などとスタッフの人が声を出している。
 
「ありゃ、AB型が足りないって。協力しようかな」
と言って、千里は京平を連れたまま、献血車の所に行く。
 
「RH(+)AB型なんですけど」
「はい、お願いします。こちらへ」
と言われて、取り敢えず血液型の確認をする。
 
「確かにRH(+)AB型ですね。400ccご協力頂けますか?」
「いいですよ〜」
 
「おかあちゃん、けつえきがたってなぁに?」
「A,B,AB,Oって、血液型はだいたいこの4つに分けられるんだよ」
「へー。ぼくはなにだろう?」
「京平はたしかA型だったはずだよ」
と千里が言うと、
 
「何でしたら、お子様の血液型、お調べしましょうか?」
とスタッフさんが言う。
 
「おもしろそうだから、しらべる」
と京平は言った。
 
「針を刺すから痛いよ」
「ぼく、へいきだよ」
「お、京平は偉いな」
 
それでスタッフさんが京平の血液検査をしてくれた。京平は本当に泣かなかった。 
「確かにA型ですね」
とスタッフさんが言う。検査シートを渡してくれた。
「ああ、RH(+)でしたか」
「はい、そうですね」
「私がRH(+)AB型で、この子の父親はRH(-)B型なんですよ。A型というのは確か生まれた時にそう言われた気がしていたのですが、RH型までは調べていなかったので。両親がRH(-)とRH(+)なら、子供はRH(-),RH(+)どちらもありえますからね」
 
「はい、そうですね。RH(-)同士の両親からはRH(-)しか生まれませんが」
 
RH型というのは正確にはCcDEeという5つの抗原の有無で検査するものであるが、通常はD抗原の有無を問題とする。D抗原を持たない状態を仮にdと書くと、Dd(dD)もDDもRH(+)で、ddのみがRH(-)となるため、両親がどちらもDdとDdであれば子供はddになる可能性があり、RH(+)の両親からRH(-)の子供が産まれることもある。しかし両親が共にddなら子供は必ずddになる。貴司がRH(-)つまりddであるということは、京平はRH(+)でもDDではなくDdであることが分かる。 
「この子がA型ということは、父親はBO型で、この子はAO型ということになりますよね」
「ご主人がB型ということであれば、それでないと辻褄が合いませんね」
とスタッフさんは笑顔で言う。
 

千里は京平を阿倍子の入っているホテルに送り届けたが、阿倍子はかなり体力を回復していた。1日寝ていたので身体のバランスを取り戻したのだろう。欲しいものがあったら買ってくるよと言って、結局コンビニでサラダとポテチ、それに京平用にサンドイッチと唐揚げも買ってきてあげてから別れた。明日の朝また顔を見せるねと言ってホテルを出る。
 
そして千里は《びゃくちゃん》に後を任せて新幹線に乗り、東京に帰還した。明日の朝は《びゃくちゃん》に千里の振りをして阿倍子さんの部屋を訪問してもらうことにする。
 
自分のアパートに戻ると、《すーちゃん》が
「この2日間、何だか調子が悪いみたいだねと言われたよぉ」
と泣きそうな顔で言っていた。
 
「でも刺激になったでしょ?」
「それはなったけどね〜」
 

9月23日(金)。千里は“例の問題”で青葉や天津子と何度も電話しながら、最終的な確認をしていた。3人が手分けして調べた内容が、ある驚愕の事実を指し示していた。
 
青葉は富山駅を17:06の《かがやき》に乗り、19:20に東京に着く。山手線とモノレールを乗り継ぎ、20時すぎに羽田空港に到着。ここで千里と合流して一緒に20:40のエアドゥ新千歳行きに乗った。飛行機の中ではふたりともぐっすり寝ていた。ふたりが関わっている問題は非常にデリケートなので、周囲に人がいる場所では絶対に話せない。むしろ身体を休めておいたほうがいい。 
22:20に新千歳空港に着く。ここで予め千里が千歳市在住の友人に頼んで借りておいてもらっていたレンタカーを受け取る。青葉とふたりで乗って、網走を目指した。
 
「青葉、寝ておいて」
「うん。途中で交代しよう」
「夜通し運転は慣れているから平気だよ」
「5時間連続運転して事故起こしたらやばいよ」
「うーん。じゃ、占冠(しむかっぷ)PAで交替。そこから足寄(あしょろ)ICまで運転してよ。その先の下道は、北海道の道に慣れている私でないと無理だから、青葉は寝てて」
 
「分かった。じゃ1時間後くらいに交替ね」
と言って青葉は後部座席で千里の友人に用意してもらっていた毛布をかぶって仮眠させてもらった。
 

23:20くらいに
 
「青葉、交替よろしく〜」
という声で目を覚ます。
 
「じゃちょっとトイレに行ってきてから」
「うん。私も行って来てから寝る」
「連れションね」
 
「女の子同士でも連れションって言うの〜?」
「むしろ群れションだったりして」
「群れるよね!」
 
「女の子が集団でトイレに行くのは、男にも女自身にも謎みたいね〜」
 
それでトイレに行った後、青葉は缶コーヒーを2つ買って車に戻る。
 
「青葉、少し体操してから運転した方がいい」
「そうする」
 
それで腕を横に振る運動、縦に伸ばす運動、膝の屈伸運動やアキレス腱を伸ばす運動、首を回す運動などをしてから運転席に就いた。
 
「ちー姉は次起きてから飲んだ方がいいかも」
と言ってコーヒーを渡したが
 
「ああ。私コーヒー飲むと安眠するんだよ」
と言って千里は一気に飲んでから後部座席で眠った。
 
青葉は車を出して深夜の道東自動車道を走った。
 

『ちー姉、自分で運転してた?』
と青葉は自分が寝ている間、見ていてもらった《笹竹》に尋ねる。
 
『本人が運転しているように見えた』
と《笹竹》は言う。
 
『青葉、青葉が千里を眷属で監視させるだろうというのは、たぶん千里は予測済みだよ』
と《海坊主》が言う。
 
『そうかもね〜』
と青葉は首を振りながら言う。まあ、ちー姉もそう簡単にはしっぽを掴ませないよね〜。
 
千里が持参していたポータブル・カーナビに入っている音楽を聴きながら運転するが、流れるのはチェリーツインの曲ばかりである。蜻蛉にチェックしてもらったが、チェリーツインの過去のアルバムが丸ごと放り込んであり、それ以外は入っていないようである。今回はローズ+リリーの楽曲の制作ではあるが、明日(もう今日だが)はチェリーツインと一緒に制作をするので、彼女たちとシンクロしやすい精神状態にしておこうということかな、と思い、青葉は適度にスキップしながら曲を聴いていた。
 
1時間ほど運転して池田の本線料金所を通過。そこから20分ほど走って本別JCTで支線に分岐する。15分ほど走った所で足寄ICを降り、そこから少し走った所にあったセイコーマートに車を駐めた。
 
1:00過ぎであった。
 
ここで休憩し、トイレを借りてからおにぎりと飲み物を買う。千里は缶コーヒーを3本とクールミントガムを買っていたが、青葉はお茶にして、後部座席でおにぎりを食べ、お茶を少し飲んで寝ることにする。
 

思ったよりも疲れていたようで、完璧に熟睡していた。車がマウンテンフット牧場に到着したのは3時半頃である。
 
「鍵開けておきますから、勝手に入って休んでいてください」
という連絡を予め受けていたので、E棟の指定された部屋に入った。簡単な食事と飲み物(紅茶、牛乳、ワイン)も用意されていたので、牛乳を頂いてからベッドに入って寝た。
 
6時に起きて千里が春美にメールしてみると、もう食事ができますからA棟の食堂に来てくださいということだったので、着換えてからそちらに向かう。ここで織羽を連れた天津子、彼女たちと一緒に御飯を食べていた、しずかに出会う。
 
青葉は織羽を見たのは初めてであったが、見た瞬間「凄い」と思った。 
「才能のある子だね」
「うん。私みたいにひねくれた育ち方をしないように、まっとうな教育をしているよ」
と天津子は答える。
 
確かに天津子は幼い頃から恐らく『よからぬこと』に使われてきている。 
天津子とは情報交換もしたかったのだが、さすがに子供たちのいる前ではできないので、この場では、織羽のしている『修行』のことで結構盛り上がった。 
「滝行とかよくやるな〜。私はとてもできないや」
としずかが言っている。
 
「私や天津子ちゃんは、たぶん物心付く前からやらされてるね」
「うん。だから生活の一部になっていた」
 
「千里さんも滝行やってたの?」
としずかが訊く。
 
「私は中学の頃からだから、この子たちに比べたらずっと遅いね」
と千里。
 
「私はしなくていいよね?」
としずかは不安そうに訊く。
 
「しずかは普通の女の子だから、普通に暮らしていけばいいと思うよ」
と天津子は言った。
 
「しずかちゃんは小学6年生くらい?」
と青葉は尋ねた。
 
「中学生になりました」
「セーラー服着て、学校行ってるもんね」
「えへへ。学生服着ろと言われたらどうしようと思ってたから嬉しかった」
 

7時過ぎると、昨日の内にこちらに来ていた七星さんと風花さんが出てくる。千里たちの近くの席に座り、しばし音楽談義となる。
 
「青葉ちゃん、フルート少し練習した?」
と七星さんから訊かれる。
「まだまだです。あれ使いこなせるようになるのに半年くらいかかるかも」
「まあ白銅フルートからの移行なら、そのくらい掛かるだろうね」
 
しずかが横笛を練習しているということだったので、吹かせてみる。
 
「うまいね!」
と声が掛かるが、天津子は
 
「あまり褒めすぎないでください。天狗になるから」
と言っている。
 
「でも7月には、ローズ+リリーのアルバム曲(『やまとなでしこ恋する乙女』)のPVで篠笛吹いたからね」
と七星さんが言う。
 
「凄い!」
「しずかちゃんと、中学生タレントで古都紘子ちゃんという子と、篠笛・三味線、ピアノとヴァイオリンの合奏をしている所を撮影したんですよ。紘子ちゃんの三味線は吹き替えだけど、しずかちゃんの篠笛はそのまま活かした。最初はどちらも吹き替えるつもりだったんだけど、篠笛が凄くいいんで、そちらは残したんだよ」
 
と七星さんは説明する。
 
「なるほどー」
 
「あれ?だったら、ピアノかヴァイオリンも弾くの?」
「PVでは、しずかちゃんがヴァイオリン弾いて、紘子ちゃんがピアノ。これはどちらも充分『中学生の演奏』として鑑賞に堪えるレベル」
 
「ヴァイオリンは音程の感覚を鍛えられるから勧めているんですよ」
と天津子が言う。
 
「ヴァイオリンとか三味線とかは音感の悪い人には弾けない楽器だからね」
 
「それでも民謡大会とかに行くと、音感の悪い三味線って結構聞くね」
「プロだと名乗っているヴァイオリニストで音感の悪い人も結構見る」
「テレビから調子っ外れのヴァイオリンの音が聞こえてきたから何だ?何だ?と思ったら、番組専属の美人ヴァイオリニストとかいう話で唖然としたことがある」
「音痴の人がオーディションして顔だけで選んだのでは?」
 
「まあ、そういう話は置いといて」
 

「練習しているのは、篠笛だけ?」
「龍笛や篳篥も練習しているんですけど、まだ人前で吹くお許しが出ません」
 
「でも、しずかちゃんの龍笛聴いてみたいな」
と青葉が言うと
 
「青葉のリクエストなら仕方ない。しずか、何か吹いてごらん」
「はい」
 
それでしずかが龍笛を取り出す。
 
「いい龍笛使ってるね!」
と七星さんが声をあげる。
 
「煤竹の龍笛。そんなに高いものではありません」
と天津子が言うが
 
「いや、私のフルートより高い」
と千里は言っている。
 
「千里さんこそ、もっといいフルート吹きません?」
と七星さん。
 
「そうですねぇ・・・」
 
千里が東京で青葉に見せてくれたフルートは50万円くらいの楽器である。確かに千里の経済力ならもっと良いフルートを簡単に買えるはずなのに。 

ともかくも、それでしずかが龍笛を吹き始めると、みんな、シーンとなってしまった。演奏が終わると物凄い拍手が来る。
 
「既にプロレベルじゃん。国内で上位100人くらいには入っている」
と青葉は言った。
 
「まだ魂の震えが足りない。この音では私の弟子を名乗らせられない」
と天津子は言う。
 
千里は言った。
「『洞爺湖の詩』あたりを吹きこなせたら、とりあえず仮免くらいは出してもよくない?」
 
「そうだなあ、吹きこなせたらね。しずか練習する?」
「はい。練習させてください」
「よし。じゃ、それまで吹きこなせたら、取り敢えず私の弟子を名乗らせよう」
と天津子は笑顔で言った。
 
 
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