【春避】(3)
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(C) Eriko Kawaguchi 2023-01-28
天野貴子が運転するバスは23時半頃S市を出発し、深夜24時半頃、朱雀林業輪島営業所に到着した(*9).
「取り敢えず寝ましょう。トレーラーからの運び出しは起きてから」
と先に来ていた千里はバスに乗ってきたメンツに言った。
「トレーラーは結局3個使ったのか!」
「降ろす時間も人もありませんでしたし」
朱雀林業の営業所の庭にトレーラーが3個並んでいた。
多くの人は、1台目のトレーラーの荷物を降ろしてから再度持ってきたのが3番目のトレーラーと思い込んでいた。
「VIPドールを運んだインサイトもそのままにしてる。ぼくが降ろしてて落としたりしたらいけないから」
と青池さんが言った。
「取り敢えず皆さん寝て下さい」
と言って、千里が全員に宿舎の鍵を配ったので、全員書いてある番号の部屋に入って寝た。何組か同室を希望したペアがあったので使用した部屋は11個である。
明恵と真珠/美由紀と世梨奈/月見里姉妹/幸花と初海/薫と珠望/神谷内/マリアとルチカ/エリザとアリス/青池/天野/千里
千里は、きーちゃんと同室でも良かったのだが、青池が嫉妬!しないよう別室にした(愛人の鉢合わせ?)。
「各部屋には好みではないと思いますが、一応替えの下着やTシャツも用意しておきました。フリーサイズで用意していますが、サイズの合わない人は申告してもらったら交換します。夜中にお腹空いた人は1階の管理人室に来ればカップ麺とかパンとか無料でお渡しします」
と言ったら、7割くらいの人が最初にカップ麺とパンやおにぎりをもらってから部屋に入った。
なお各部屋には小型のキッチンとバス・トイレが付いており、湯湧かしケトルとオーブントースター・電子レンジ・IHヒーターも装備されている。紙コップと紙皿も用意している。多くの人がシャワーを浴びて着替えてから寝たようである。
神谷内さんは夜1時頃
「ごめん。男物の下着は無いよね?」
と言ってきたので
「すみませーん」
と言って管理人の波花がアンダーシャツ、Tシャツとトランクス・靴下のセットを渡した。実は神谷内はこの日この“女子寮”に泊めた中で唯一の男性だった。
むろん男の娘たちは女物の下着を着ける!
(*9) 23:30にS市の人形美術館を出たバスが24:30に輪島の朱雀林業営業所に到着している。つまり両者の間は片道1時間掛かるので、20時にトレーラーを運転して出た千里が21時にS市に戻るのは不可能である。実は20時に出た千里が戻って来たのは22時半である。21時に戻って来たのは別の千里であった。みんな焦って作業しているので、このことに気付いたのは明恵と真珠くらいである。
↓ 青:1号車 赤:2号車 緑:3号車
千里4(Robin) は20:00に最初のトレーラー(T1)を運転して美術館を出、20:50に朱雀林業に着き、CX-5に星子たちを乗せて21:40に出発。22:30に美術館に戻った。そして23:00に3台目のトレーラー(T3)を運転して再度輪島に向かった。
千里6(Victoria) は急遽輪島に駆け付け、20:10に鈴子を乗せたトレーラー(T3)を運転して出発。21:00に美術館に着き、21:30にトレーラー(T2)を運転して美術館から朱雀林業に移動した。
20時半頃、中間の天坂付近で、千里4が輪島に向かうトレーラー(T1)と、千里6がS市に向かうトレーラー(T3)がすれ違い、お互いに手を振った。また22:00頃には今度は輪島に向かう千里6のトレラー(T2)とS市に向かう千里4のCX-5がやはり天坂付近ですれ違っている。
人形の運搬は眷属には任せられない(万一事故があった時の責任問題がある)ので、千里が自分で運転したが、手が足りないので“自分を2人”使った。
千里6が
「全く自分使いが荒い」
と文句を言っていた。
6月20日(月).
S市の川口家では昇太は早朝からレストランの開店準備に出掛けたので、遙佳と歩夢で朝御飯を作った。小杉も手伝った。そして7:40くらいに歩夢が女子制服で学校に出掛ける。歩夢は16日(木)から女子制服での登校を始めたが、特に学校からは注意されていない。
7:50くらいに遙佳が「広詩、そろそろ行きなさいよ」と言って出かける。その広詩は8:10過ぎに「遅刻遅刻」と言って、走って飛び出していった。
高と小杉は広詩が出掛けた後、茶碗などは放置して2人で美術館に行ってみた。
すると昨日は気付かなかった人形を更に3体!見付けた。カーペットがずれた陰になっていた子、落下したバルコニーの下になっていた子(怪我はしてないもよう)、事務室でカーテンに隠れていた子である。最後に発見した子について
「この子は薫が最初に買ったビスクドールじゃん」
と高が言っていた。
「きっと最後に退避する船長さんなんですよ」
「なるほど。キャプテンか」
「Captain was the last person to leave the ship」(*10)
「君、よく知ってるね!」
と言って2人で笑った。
また現場にはスマホが5台も落ちていた!
「学校のお昼休みにでも、遙佳の高校と歩夢の中学に行って、お友達に見てもらって、その後、残ったのは、幡多さん(*11)、輪島に持っていってくれない?」
「はい、そうします」
ふたりが美術館を離れたのが9:50頃であった。高は何気なく、半分土砂に埋もれた美術館の写真を撮ったが、これがこの美術館のラストショットとなった。
(*10) "Captain was the last person to leave the ship" は英語の多義文として有名な文章である。この文章は次の2通りの解釈が可能である。
(1) 船長は全員退避してから最後に船を離れた(助かった)。
(2) 船長は最後まで船を離れなかった(船と運命を共にした)。
しかしまあ小杉はキツネにしては物を知っている。多分千里が誰かと話しているのを聞いていたのだろう。
(*11) 小杉は司令室に常駐している小道と一緒に生まれた姉妹で、小道・小杉は、幡多小町の曾孫にあたり、幡多(はた)の苗字を名乗っている。(どちらも苗字を女系で継承している。元々おキツネさんには“苗字”という習慣は無い)
一方、小春/小糸の系統は深草の苗字を名乗る。深草は伏見稲荷のある場所の地名、幡多は伏見稲荷の創設に関わる泰(はた)一族に由来する名前で、どちらもP神社の翻田常弥宮司が付けてあげた苗字である。
泰(はた)家では、裕福になった驕りで餅を矢を射るのの的(まと)に使っていたら祟りかあった。それで悔い改めてお米を大事にするようになり、穀神をお祀りするようになったのが、稲荷の始まりであるという伝説がある。
一方の輪島。
月曜日(6/20)は、みんな疲れているので、遅くまで寝ていた。
8時に一応朝食は各部屋にデリバーされたのだが、実際に多くの人が起きてきたのは9時過ぎである。千里は薫館長と話し合い、お昼過ぎから、人形たちを降ろす作業を始めることにした。
そしてみんながまだ休んでいた 10:31.
再び強い地震が襲ったのである。S市は震度5強だった。
珠望は夫にすぐ連絡を取った。スマホにはつながらなかったので、お店に掛けたら連絡が取れた。
「今日はまた臨時休業だな」
「しょうちゃんは大丈夫?」
「おれも親父さんも無事。せっかく片づけ(かけて)たお店の中を再度片づけなきゃ」
「お客さんは?」
「モーニング食べてる最中の常連さんが3人居た。全員無事。お代はいいから気をつけて帰ってと言ったけど、お腹空いてるから全部食べてから帰るといって本当に完食してからさっき帰っていった。お金はいいですと言ったら、ありがとう!また来るねとか言ってた」
「常連さんはそんなものかな」
「最低限の片づけをしてから美術館見に行ってくる」
「ありがとう」
そして30分後、昇太から連絡がある。
「美術館は完全に土砂に埋もれている。もう建物自体が確認できない。昨夜の内に人形を運び出したのは大正解だよ」
「きゃー」
珠望は言った。
「学校から連絡があって、子供たちを迎えにきて欲しいということなんだけど」
「分かった。3人回収しに行ってくる」
「ごめんねー」
昇太は高・小杉と話し合い、結局スマホは取り敢えず小杉が輪島に持っていき向こうに居る人たちに見てもらって、残りを珠望にこちらに持ち帰ってもらうことにした。
それで昇太と高がルークスとXC-40で手分けして子供3人を回収し、小杉がスマホを持ってXC-40で輪島に向かった。小杉にはスマホの他に、レストランで折角朝から焼いたのに店を開けられないので販売できないパンを
「向こうの人たちで良かったら食べてもらって」
と言って持たせた。またついでにXC-40で祖父に回収された遙佳まで同乗して輪島に向かった。昇太は「現金が必要かも」と言って遙佳に30万円持って行かせた。内10万円は1000円札で渡した。
輪島では、午前中に珠望と明恵・真珠の手で、インサイトに乗せてきたVIPドールたちを、営業所内のゲスト用宿泊棟に運び込んだ。3月にホンダジェットのパイロット Elissa Vernier が3週間過ごした家である。
その他の人形たちは結局お昼を食べてから搬出することにした。
七尾市のお弁当屋さんに予約を入れ、氷見市からこちらに向かっている最中の鈴子・星子に頼んで、お昼を買ってきてもらった。この分のお金は珠望が払った。
置き場所の計画を千里・薫・幸花で練っている間に小杉と遙佳が到着し、彼女たちが持って来たパンをみんなで食べた。パンはあっという間に無くなった。遙佳は余っていたお弁当も食べていた。
5台のスマホだが、その内4台がこちらにきている人のものだった。
千里(千里4)のが2つ!美由紀の、アリスの、であった。
全員その場でロック解除してみせて本人のものであることを確認した。
もう1台は真珠が
「瑞穂ちゃんのに似てる気がする」
と言って、メールを送信してみたらそのスマホに着信したので彼女のものであることが確定した。本人はどこに置いたんだろうと悩んでいたらしい。
瑞穂はしばしば家の中でスマホを行方不明にする人である。仕事中に着信音やバイブが鳴ると困るので、常にサイレントモードにしているから所在が分からなくなると発見が大変である。
人形の置き場所だが、万一洪水などがあった時のため、高さ1mの床を作っていたのだが、風通しをよくするため更に床に“すのこ”を敷き、その上に箱を置くことにした。この後、どこに人形を持って行くかが未定なので、梱包は解かずに箱のまま置いていく。
この作業をしたのは下記16名である。
珠望・遙佳・神谷内・幸花・明恵・真珠・初海・美由紀・世梨奈・月見里姉妹・マリア・ルチカ・エリザ・アリス・千里
薫は体力を考えて休ませておき、指示だけしてもらった。青池・天野はいったん離脱した。小杉は千里の髪留めに戻し、何かの時のバックアップとする。コリンとミッキーには、車の給油を頼んだ。鈴子もいったん離脱した。星子は休ませておいた。
キャラバンに積んできた、人形美術館の事務室の荷物も運び出した。“琥珀”の絵は“本人の希望により”倉庫の目立つところに掲げた。人形たちの御守り役である。ウォーキングドールのマリアンも“本人の希望により”琥珀の絵と反対側の壁に特別席を設けて、そこに座らせた。人形たちの“お母さん”である。スイスイ1号はこの日は倉庫の入口の所に門番のように置いたが、翌日からは倉庫内を巡回させるようにプログラムした。人形たちの“お父さん”かも。
作業は夕方までに完了した。
「皆さん、本当にありがとうございます」
と言って、珠望が
「これ少ないですけど」
と言って、お金を配ろうとしたが、全員が辞退した。
「こんなのお互い様、助け合いですよ」
と月見里公子(やまなし・きみこ/月見里姉)が言う。
「不謹慎だけど、タイムリミットのある中での作業でドキドキした」
とマリア。
「めったにできない体験ができたから、それが報酬ということでいいよね」
と美由紀。
それで報酬とかは無しということにした。
「みなさん、本当にありがとうございます」
「まあ、御飯食べて解散しよう」
と千里が言って、朱雀林業のスタッフがみんなにトレイに載った食事を配るので、それを食べる。
遙佳がS市で有名なロールケーキ屋さんのロールケーキを配ったのは全員受け取った。実は小杉が美術館の点検をした後、高と一緒にお店に行き、買ってきておいたものである。だから実はお金は高が出している。
小杉は昨日の夕方も、S市到着直後、千里の指示でお店に残っていたロールケーキを全部買ってきていた。お店はドアを閉めていたのだが、中に居る人に「ボランティアの人たちにお礼に渡すのに在庫を全部欲しい」と言うと、売ってくれた。そして明日もまた来ると言って予約していたので、作ってくれていたのである。
星子が持って行ったのは、昨日買っておいた分である。実は鈴子には渡し損ねていた。鈴子が出発した時刻には千里も小杉も居なかったためである。昨日買った分のお金は千里が出していたのだが、今朝話を聞いた高がその分も出してくれた。
薫・珠望・遙佳はインサイトに乗り、星子が運転してS市に帰って行った。星子は特急バスで金沢に戻る(ということにしておいて実際は飛んで帰還した。飛んで帰ることはちゃんと千里の許可を取っているし、そのため飛翔能力の高い星子がS市に行った)。
エスティマは神谷内・幸花・初海・美由紀・世梨奈・月見里姉妹の7人が乗り、コリンが運転して金沢に向かった。
「君たちは私が送るね」
と千里は言って、XC-40に明恵・真珠を乗せて金沢に向かった。
「お前らは俺が送るな」
と広沢が言い、キャラバンに、マリア・ルチカ・エリザ・アリス、の4人を乗せて送っていった。男の娘4人組は春貴の車に同乗してきたので、七尾と氷見に自分たちのバイクを駐めていた。
「なんか女の子たちとぼくたちって待遇が違う気がする」
「チンコ付いてる奴は適当でいいんじゃね?」
などと広沢は言っていた。
「子宮とかヴァギナの有無じゃなくて、ちんちんの有無なんですか?」
「俺はチンコ無ければ女に分類していい。チンコ無かったら穴まで無くても何とかスマタで逝ける。でもチンコ付いてたら冷めてしまう」
「マナさんの趣味も微妙ですね!」
6月21日(火).
2日連続の大地震の後、川口昇太は、今日はもう地震無いよな?と思いながらレストランを開ける準備をしていたが、お菓子担当の井原さんが来ていないことに気付いた。
「井原さん、お休みかな?地震で大変だったのかな。誰か聞いてない?」
すると、同じお菓子担当の高野さんが答えた。
「井原さん、御主人が午前4時頃、救急車で運ばれたらしいんです。それで病院で付いてるから、今日は休みたいと店長に伝えてと言われました」
「ありゃ。病気か何かかね」
コロナじゃないよな?と、昇太は個人的にはそちらを心配した。
この日は10:42に小さな地震がありり、ビクッとしたものの、大した揺れではなかったのでホッとした。
17時頃、井原さん本人から連絡があった。
「夫が亡くなりました。申し訳ありませんが、一週間お休み下さい」
「何と!ご病気?」
と言いつつ、コロナを心配する。コロナであったら、この店も数日休業の必要が出る。
「はい。心臓に穴が空いていたとかで、早朝トイレに行った時、大きな音がするので行ってみたら夫が倒れていて、苦しいと言って立てないようなので、救急車を呼んて、夜間担当の先生が見て下さったのですが『専門医でないと判断できない』と言って、早朝なのに循環器科の先生が来てくださったのですが、手の施しようがないと言われて、8時半頃死亡が確認されました」
その後、丸一日あちこちと連絡を取っていたのだろう。
「それは何と言ったらいいか」
「今日お通夜をして明日葬儀の予定です」
「だったら、僕も行くよ。どこでお通夜するの?」
「“夢の国”会館で。19時からの予定です。コロナの折なので、お通夜自体は親族のみでおこないます。それで来てくださるかたは大変申し訳ないのですが、受付だけで」
「分かった。それでいいよ。とにかくお休みは一週間あげるから」
「ありがとうございます」
それで昇太は、まず義父の高に連絡し、自分は通夜に行かなければならないので、レストランのシェフ代理を頼むというのと、一緒に不祝儀袋と喪服を持って来てほしいと頼んだ。
それで高が来たところで、喪服に着替えて夢の国会館に向かった。そして受付の所で、香典を渡し、会葬御礼をもらって、いったん帰宅した。
遙佳に塩を振ってもらい、家の中に入る。喪服から普通の服に着替えた。そして昇太は、遙佳と歩夢を呼ぶと言った。
「悪いけど、一週間か10日くらい、お前たち2人で、井原さん系のスポンジケーキ作ってくれない?手間賃50個で2000円払うから」
ケーキ担当は、井原さんがスポンジケーキ、鷹野さんがムースケーキだった。
昇太は、遙佳の製菓技術が売り物にして良いレベルに達しているのを知っていたので、頼んでみた。歩夢も充分手伝いになるだろう。
「2000円かぁ。もう一声」
「じゃ完成した個数×50円」
「分かった。やる」
そして昇太と遙佳の2人でレストランに向い、20時頃、昇太は義父と交替する。
「助かった!やはりひとりでやるのは辛い。火の通り加減とかは、菅原さんに確認してもらいながら調理したよ」
と高は言っていた。
遙佳はスポンジケーキ用の製菓材料と道具を持ち、祖父と一緒に帰宅した。そして歩夢と2人でそれから2時間ほど掛けてスポンジケーキを焼き、祖父に監修してもらって、60個ほどの各種ケーキを制作した。
「お姉ちゃん、これ毎日作るの?」
「ケーキ作りのうまい女の子は男の子にもてるよ」
「そうかなあ」
「男の娘にももてたりして」
「そっちがもてるかも!」
この日のケーキは、父の目で検査され54個が合格とされて、2700円もらった。遙佳は歩夢に半分渡した。
不合格になったケーキは家族で食べた。母は「よくできてるのに」と言っていたが、プロの目で見るとお客さんに出すには微妙だったのだろう。しかし9割合格したのは遙佳の技術が高いことを示している。翌日は60個の内57個が合格した。翌々日は59個合格した。
「あゆ、これ5年間続けたら100万円くらいになって、18歳になった頃には、性転換手術受けられるよ」
と遙佳は言った。
遙佳の計算はおかしい。1350×365.25×5=2,465,437 なので240万貯まるはず。遙佳は多分“およその計算”が苦手なのかも。
およそで計算すると 0.13万×300≒40万 だから 40×2.5=100 で、2年半せずに100万貯まるな、という概算ができる。算数のできる人なら3-4秒でできる暗算である。
「性転換手術かぁ・・・」
と言って、歩夢があまり気のない様子なので、遙佳は
『手術受けなくてもいいの?』
と疑問を感じた。
6月21日(火)(井原さんが倒れた日)の夕方、川口家では、薫が美術館再建の方法で悩んでいた。
「この後、人形美術館、どうしよう?」
遙佳が言う。
「提案その1。どこかに新しい土地を買って、そこに新しい美術館を建てて引っ越す」
「でも土地を買うお金と、美術館を建てるお金が」
これが多分最も“あるべき道”だけど、問題は資金だ。最低5000-6000万は掛かる。67歳の祖母に銀行はそんなに貸してくれないだろう。
「提案その2。どこかに寄贈する」
「それは嫌だ。それにこれだけ大量の人形を引き受けられる人は居ない」
現時点ではいちばん可能性の高い道だけど、実際はそんなことしたら、祖母は生き甲斐を失って死んじゃうだろうなと遙佳は思った。
「提案その3。あそこを頑張って土砂を取り除き、後ろの崖の強化工事をした上であの場所に建て直す」
「それ物凄いお金が掛かるし、崖とかはよその人のものだから勝手に工事できない」
と珠望が言う。
確かにこの方法は軽く1〜2億円吹き飛びそうだ。まだ1番目の方が現実的だと遙佳は我ながら思った。
「あの土地の固定資産税とかはどうなるのかな?」
と珠望はふと疑問を感じて言った。
高が答える。
「普通に税金は毎年掛かる」
「土砂に埋もれてても!?」
「これが海の傍の崖の上とかの土地で、地震や台風で崩れて、土地として消滅した場合は滅失登記することで土地の権利が無くなるのと同時に固定資産税も掛からなくなる。でも土砂で埋もれた場合は、埋もれていても、土地としては存在している。だから滅失はできないし、固定資産税は掛かる」
「ひっどーい。それ、土地を放棄するとか、国とかに寄付とかできないの?」
と薫。
「日本の法律には、土地の権利を放棄するという仕組みは存在しない。寄付は国や自治体が有用と認めた土地なら可能だけど、崖崩れで埋もれた土地に国や自治体が価値を見いだすとは思えない」
「そんなぁ」
「だから北海道の昭和新山なんて、畑が突然山になっちゃったから、畑を所有していた人は、ひたすら昭和新山の固定資産税を払い続けた」
「国って血も涙も無いの?」
「でもどう考えても土地の評価額は低くなるから、固定資産税も安くなると思うよ、たぶん」
と高は希望的観測で付け加えた。
「あと、崩れた崖の所有者に、崖が崩れたのは土地の管理をきちんとしてなかったからだと言って損害賠償を求めて民事訴訟を起こす手はある」
「あそこ県会議員のNさんの土地だよ。県議さんと喧嘩できないよぉ」
などと言っていたのだが、そのN県議が翌日(6/22 Wed)、川口家にやってきた。
大きな被害の出た自分の地盤S市であちこち御見舞いに顔を出し、市長とも緊急会談して、復旧や被害救済の話をしたようだが、その中で川口家も訪問したのである。
県議さんは崖崩れで美術館が埋もれてしまったことを陳謝した。
「すぐ来れなくて申し訳ありません」
「いえ。お忙しいし」
「中に貴重な美術品とかが入ってませんでした?」
「19日の地震の後で、知人が20人くらい手伝ってくれて、その日の内に中の物を全部運び出したんです。それで20日の地震でやられたのは、建物と、人形を飾ったり観賞したりするための、台とガラスケースとか、カーペットの類い、それに照明やエアコン設備とかですね」
エアコン設備の取り外しは、それをすることで建物の崩壊を招くかもということで、敢えて触らなかったのである。
「美術品が無事だったのは幸いでした」
それで県議さんは良かったら美術館の建物が建っていた土地を自分が買い取るとともに、建物の損害賠償もしたいと言った。この金額は、話し合いの結果、駐車場部分まで含めてN氏に譲渡し、その代金+損害賠償でN氏が3000万円を支払うことで合意した。
ちなみに“人”に対する損害賠償には税金は掛からないが、“物”に対する損害賠償は収入とみなされて税金がかかる。しかし不動産取引で3000万円までは無税である。だから全てを土地の売却代金として処理した方が有利である。
「助かります。このお金でどこかの土地を買って、美術館を再建します」
「けっこう観光名所にもなっていたようなので、よろしくお願いします」
ということで、使えない土地の固定資産税をひたすら払い続けなければならないという問題は、あっさり解決してしまった。事故に遭うなら相手は金持ちが良い、というのの好例であった。
それで薫は、新しい美術館のための土地を探し始めた。
駐車場に置いていた仮設トイレは、千里さんに連絡したら、播磨工務店の若い人(沢田)が来て、(先日の去勢罰で懲りたので)クレーンで積んでトラックに載せ、輪島の営業所に持って行ってくれた。
時間を戻して(最初の地震があった)6月19日(日)。氷見市。
晃と舞花はお昼を食べて少し休んだ後、ぬるま湯で溶いたスポーツドリンク、タオルと着替えを持ち、14時半頃に母・泰子にアコードで送ってもらってファイアーバードに向かった。北信越大会は昨日で終わってしまったものの、軽く汗を流しに行ったのである。これは部活ではなく、あくまで個人的な練習である。
実は男子のキャプテンの坂下君に言われたのである。
「うちの学校ってさ、早朝・夜遅くとか、土日の部活は原則として禁止で学校の施設も使えないけどさ、ファイアーバードは学校の施設じゃないじゃん。だから個人が自分で利用券を買って個人的にそこで汗を流すのは自由じゃん」
実際問題としてファイアーバードは、平日9:00-15:00 Flamingoが体育の授業に、15:00-18:00 Peacock, Flamingo がバスケット部の練習に永遠にリザーブされているが、それ以外の日時は現在の所自由利用時間帯となっている。
それで坂下君が管理人の島尾さんに尋ね、彼と菅井君が年間利用券を購入。昨日もここで練習していたらしい。ただし土日は一般利用者との共用になる。
それで、女子でも、舞花・晃、愛佳、美奈子の4人が年間利用券を購入。今日から“自主トレ”を始めたのである。
一般利用なので2階の控室は使用できない。でもトイレは1階にも一般向けのトイレがあるので大きな問題は無かった。むろん晃は
「ちゃんと女子トイレ使ってよね」
と姉に言われたので、素直にそうした。晃としても“タップ”されているので個室しか使えない(されてなくても普段から個室を使うことが多いが)。
母は駐車場の車の中で寝ていると言っていた。今の季節ならそれでも行ける。夏になったら中に入って待機しないと辛いだろうが。実際には“きつねうどん”とお稲荷さんを食べてから寝ていたようである。(坂下君たちが来たのでお店を開けてくれていた)
「油揚げのほうがうどんより多いって面白ーい」
「お稲荷さんが凄く美味しい」
と言っていた。さすが油揚げのプロである!
使用している油揚げは、管理人グループ(当初5名)で食べ比べをして最高に美味しいと思った豆腐店のものを使用している。
その豆腐店は家族だけで経営していたのだが、ここに油揚げを大量出荷するためパートさんを雇ったらしい。この豆腐店が使用している大豆は北海道美唄市の契約農家から買っているもので、向こうは家族だけで生産してるので増産は困難という話だった。試しに旭川のH新鮮産業の大豆特級品を試してみてもらった所「これもいい大豆だね」ということになり“きつねうどん”向けの製品は主としてこれを使ってもらうことにした。
管理人グループで食べ比べ(ブラインドテスト)してもらったが、どちらが美味しいかは意見が分かれたので充分高いレベルのようである。
しかし特級品は栽培に手間が掛かるため、生産量に限りがある。千里はH新鮮産業の杉村真広COO (*12) に頼んで、この特上の大豆の生豆を分けてもらい、氷見の山間部に取り敢えず1haの土地を買って育ててみることにした。H新鮮産業の名前を使わないこと、毎年栽培数に一定率を掛けた額をH新鮮産業に払うことを条件とした。
H新鮮産業の“特級品”は"F1"(一代雑種)ではない“固定種”なので育て方が良ければ毎年充分な品質の豆が採れる。“上級品”が"F1"を使用していて、普通の人にはそちらが美味しく感じられるが、H新鮮産業では真広のポリシーとして、F1は限定的にしか使用していない。中級品・下級品も固定種である。なお下級品は飼料・油用である。
近年日本の農業ではF1が物凄く多くなっている。日本の野菜の8割がF1だとも言われる。青首大根などがF1である。F1は概して育成が楽で大きさが揃いやすいので箱詰めが楽で、消費者もサイズが均一的で使いやすいし美味しいと感じるものが多い。しかしF1の子供は親と全く違う性質になったり、そもそも子供ができなかったりするので、毎年、種を種苗会社から買う必要がある。
(*12) COO=最高業務執行委員。H新鮮産業は委員会設置会社に移行したので、父親の杉村蜂郎(67)がCEO(最高経営執行委員)となり、真広(37)がCOOとなって、真広が事実上の会社指揮者となっている。社長会などには蜂郎が出て行くし、毎朝の訓示をしたり、銀行や取引先との談話なども主として蜂郎がする。
つまりその手の“社長であるがための雑用”を父が引き受けているのである。
但し旭川の“女社長会”には真広が出て行っており、幹事のひとりにもなっている。さすがにこれは父にはさせられない。父に「スカート穿いてお化粧して出席してみる?」と訊いたら「勘弁して〜」と言っていた。
大豆耕作のために、おキツネさんの夫婦者を3組雇い、彼らに畑を耕してもらうことにした。なんか「油揚げたくさん食べさせてあげるから」という話が物凄く大きく発展してしまった。彼らの食欲が千里の想定を遙かに越えていた。結果的に体育館をもう1個建てられるくらいの投資をするはめになった。
大豆は連作障害を起こすので、地元農協の指導員さんと話し合って、大豆(夏)・ほうれん草・レタス(冬)・水稲(夏)・小麦(冬)というサイクルで輪作してみることにした。耕作地を短冊状に分割して大豆を育てるエリアと水稲を育てるエリアを交互に配置する。つまり大豆は同じ場所では2年に一度育てることになる。
彼らのグループを“朱雀ファーム”氷見支部ということにし“きつねうどん”で働くファイアーバードの管理人たちは“朱雀フード”氷見支部ということにした。
“きつねうどん”を食べにくるおキツネさんたちはこの2グループである。
農耕組を夫婦者にしたのは、農耕には男手が欲しいが独身者だと管理人グループの女子たちとの恋愛問題が起きて、レイプが起きたり、メスの取り合いで喧嘩したりすると困る。それで夫婦者を雇ったのである。なお彼らにはレイプ即去勢と通告している。
“去勢”がハッタリでないことを示すのに、“男の娘”キツネの空太ちゃんをみんなの見ている前で(麻酔を掛けた上で)ペニスの切断と睾丸の除去をしてみせた。これはオスたちにはかなり効いたようである。怯えていた!
メスたちは興味深そうに見ていた!
なお空太ちゃんは、完全な女の子に変えてあげて、名前も日空と改め女子としてフラミンゴの管理人グループに加えた(追加した2人の内の1人)。他の女子に色々と女の子のことを教えてもらい、女の子の服も着られて幸せそうである。
“きつねうどん”で使用している醤油は地元醤油店の醤油である。だしは天然昆布だしである。昆布は朱雀フードの根室支店からの直送である。お稲荷さんやおにぎりに使用しているお米は、こしひかりより美味しいとして人気上昇中の石川県産“ひゃくまん穀”である。粒が大きめでもちもちとしており女子高生たちにも好評だった。
味の管理は、氷見市在住で以前氷見糸うどんのお店に勤めていた三島さんという40代の女性に見てもらっている。このプロジェクトに関わる、今の所唯一の人間である!彼女には“きつねうどん”支配人の肩書きを与えた。彼女も
「何このきつねうどん?油揚げが麺の倍入っている」
と言って呆れていた。
実は麺の仕入れに関しても、彼女のコネを利用させてもらった。毎日100食くらい売れるので販売元の社長さんが見に来たら、大きな道からも外れた小さな店舗だったので驚いていたらしい。
「こんなロケーションでこんなに売れるって信じられない」
と言っていた。でも社長さんはちょうど練習を終えたバスケ部員たちが体育館から出て来て、きつねうどん・お稲荷さんを注文してテラス席で食べているのを見て
「なるほどー。運動部員は食べるだろうなあ」
などと納得していた。
バスケ部員以外でも、学校での練習が終わったあと、ここまで来てうどんを食べて行く他の部の部員たちも結構居た(*15)。なんと言っても安いしたくさん食べられる。みんな天かす・ネギを大量投入していた。
でも実は売上の6割を(店舗グループと農耕グループの)従業員たちが食べている!!
なお容器は、おキツネさんたちは全員マイ食器・マイ箸を使用する。薄いピンクのストライブ模様のメラミン食器・箸に、黒いマジックで各自の識別マークを描いたので、人間たちが使う薄いブルー無地の紙製食器・間伐材の割箸と紛れることはない(*13).
女子バスケ部員たちも夏休み頃から“マイ食器”を使うようになるが、彼女たちに割り当てたのは藍色の砥部焼(*14) の丼に藍色に塗装された木製の箸で、テプラで LOVE, MAIKA, LUMI, VENUS など名前?をアルファベットでプリントしたものを貼り付けた。
おキツネさんたちの多くが“きつね舌”なので、だいたい冷製の“ぶっかけ”で食べていた。氷見糸うどんは実はこの冷製で食べるのがとても美味しい。
彼らが最初に必死で練習したのが“箸”の使い方である。手づかみや直接容器に顔を突っ込んで食べるのは禁止と言われた。握り箸で使っていた子が多いが、若い子たちには、しっかり人間同様の箸の使い方をマスターした子も結構居た。
(*13) 人間の多くは3種類の錐体(赤緑青)を持っているが、キツネの多くは2種類の錐体(赤青)のみを持っているので、人間とは見え方が異なる。
赤:低周波数に反応、青:高周波数に反応、緑:中周波数に反応
しかし赤と青の識別はできるので、キツネ用を赤系、人間用を青系の色にした。しかしオスの中には色の見分けが苦手な個体も居るので、キツネ用は縞模様にして、区別しやすくした。
そもそも色だけで分けてはいけないというのは、全てのデザインにおいて必須のことである。昔のマック用開発者マニュアル Inside Macintosh にはこのことが強く書かれていた(当時はまだモノクロディスプレイの使用者も居たこともある)。しかし、このことが分かってないデザイナーがあまりにも多くて困る。トイレの男女マークが色以外では区別が付かないものなど、ほんとに酷い。
なお人間にも、女性には希に4種類の錐体を持ち、昆虫並みの色識別のできる人がいるが(千人に1人くらいらしい)、キツネにもメスにはたまに、緑錐体を持っていて黄色と青の識別ができる個体も居る。特に“一族”のメスにはこういう子の比率が高く、彼女たちは人間に近い色識別力を持つ。千里が眷属にしている、小道・小杉・小綿などはこの能力を持っている。
(*14) 砥部焼は愛媛県砥部町付近で作られている磁器で、厚手の丼などを生産しており、その丈夫さから上級の飲食店で全国的に使用されている。
一般に使用されている陶器の丼だとどうしても欠けやすいが、砥部焼は夫婦喧嘩で相手に投げ付けても割れないとして“喧嘩器”と呼ばれた。キツネたちも運動部員たちも、わりと雑なので、丼を落とすのは日常茶飯事と考え、千里は値段は高いものの砥部焼を導入した。コロナが終息したら人間用は全面的にこれに切り替えるつもりである。紙製はテイクアウト・デリバリー用とする。
(キツネは配達用スクーターに乗れるのか?)
砥部焼は日本の4大磁器産地、有田・瀬戸・九谷・砥部の中で、唯一、有田系ではないものである。江戸時代中期、大洲藩藩主・加藤泰候の指示の下、杉野丈助という職人が磁器の開発に取り組み、苦労の末1777年に磁器製作に成功した。急傾斜の山林に窯を構え、急流を利用した水車で陶石を細粉化し、豊富な木材で焼いて高温焼成した。白地に藍色の絵が描かれたのが特徴である。
(*15) 学校とファイアーバードの行き来が多くなり、その間の道路の歩道には生徒たちの要望で、市の許可を取り7月には屋根と壁が取り付けられた。この結果、雨や雪が降っても快適に往復できるようになった。
さて、6月19日に、晃たちがファイアーバードに行った時、坂下君と菅野君はもう練習していた。
「早ーい!」
「女子は昨日は頑張ったな。北信越大会で初戦突破とか凄いじゃん」
「向こうが午後の準々決勝にそなえて主力を温存していたからね。まともにやって勝てる相手では無かった」
「ああ、無名校が急に強くなった場合、最初の年だけはそれが利くんだよ。来年はそれが使えないし、ウィンターカップ予選とかでは強豪がみんな本気で潰しに来る」
「うん。だから10月までに私たちは進化しないといけない」
「まあお互いがんばろう。俺たちの世代も今年がラストイヤーだし」
「坂下君は高校出たらどうするの?」
「俺程度の腕ではBリーグとか行けないし、俺は大学行く頭も無いし、どこか趣味のチームとかあったら、そこに入れてもらって活動するくらいかなあ。谷口さんたちは?」
「私も受験勉強とか何もしてないし大学は無理。やはり趣味のチーム見付けるしかない」
と愛佳は言っていた。
「何なら一緒にクラブチーム作る?」
「作るのはいいけど、男子と女子では一緒に試合に出られないし」
「坂下君、性転換とかする気は無い?」
「俺が性転換しても女子トイレに入ったら痴漢で捕まる」
「菅野君なら女子トイレ行けそうな気がする」
「やめて。変な道に誘うのは!性転換とかしたら勘当される」
(↑嫌だとは言ってない)
一方舞花は進路についてはウィンターカップが終わってから考えようと思っていた。金沢の私立なら、何とか滑り込める所もありそうだし、現役合格できたら私立に通ってもいいと両親からは言われている。国公立では富山県立大と富大芸文(*16) は受けてみるつもりだ。
(*16) 富山県立大学は射水市にある理系の大学。情報系コースには女子も多い。舞花は数学や物理はわりと得意である。看護学部もあるが舞花の性格では看護師なんてまず無理。患者を5-6人殺しかねない。ここは氷見からは比較的近く、頑張れば自宅通学できないこともない(氷見線→あいの風とやま鉄道→バス)。
バイクなら楽に通学可能だが、両親が「バイクはダメ」と言っている。免許を取るだけなら取ってもいいと言われたので、今年の夏休みに普通免許と一緒に取るつもりである。
富山大学芸術文化学部(略称:富大芸文(とみだい・げいぶん))はキャンパスが高岡市北部にあり、自宅から自転車で通学可能てある。美術系の大学である。舞花はわりと絵が上手い。ただここに合格するには絵の腕より共通テストの一般科目である程度のスコアを出す必要があり、県立大より厳しい。
天才的に絵がうまい場合は共通テストの成績が多少悪くても合格する可能性はあるが、舞花もさすがにそこまでの実力は無い。そこまでの腕の子は、きっと美大(金沢美術工芸大学)に行く。
この日、晃たちが練習を始めた直後、結構大きな地震があった。
「揺れたねー」
「震度3くらいかな」
スマホで速報を見たら、震源はS市である。
「ずっとあそこは地震続いてるからなあ」
「S市は震度6だったみたい」
「大きな被害出てないといいけどね」
女子4人(晃を含む)は、体育館2階のジョギングコース(100m)を軽く10周走って身体を暖めてから、体操・柔軟体操をする。柔軟体操は、舞花と晃、愛佳と美奈子で組む。
その後、ドリブル走の練習を10本やってからミドルシュートの練習をする。ただし美奈子だけはスリーの距離から撃つ。これは2階のシュート練習場に行き、舞花と晃、愛佳と美奈子で組み、10本交替で練習した。
これを各々200本やってから、下に降りて2on2の練習を30分くらいやった。更に晃に妨害役をさせて、他の3人がシュートする練習をしたが、晃の技術が4月頃からは上がっているので、美奈子が何度もスティールされていた。
坂下君たちが「お前たち、凄い濃厚な練習してる」と感心していた。坂下君たちは1 on 1 とシュート練習(主としてランニングシュート)を休憩を挟みながらやっていたようであった。女子たちはほとんど休憩を入れていない。
坂下君たちは16時頃帰ったが、それと入れ替わに奥村先生がやってきた。
「君たちも来てたんだ!」
と驚いている。
「さっきまで坂下君たちもいたのですが、帰りました」
「へー。頑張るね」
などと言って、先生は先生でジョギングをし、ドリブル走の練習をして、2階のシュート練習場でシュートを練習して、とやっていた。
春貴は18日だけで北信越大会が終わってしまったので、19日は1日寝てようと思った。しかし15:08の地震で目が覚める。結構揺れたなあと思った(氷見市は震度3)。地震速報を見て、S市が震源と分かる。あそこはここ数年地震が多い。
目が覚めてしまったので、少し汗を流してこようと思い、パンを食べてから着替えてパッソに乗ってファイアーバードに向かった。年間利用券(*17) を見せて「フラミンゴ」をお使いくださいと言われるのでそちらに入ったら、女子バスケ部の愛佳・舞花・晃・美奈子も居る。
「君たちも来てたんだ?」
と声を掛けて、自分は自分で練習を始めた。ここで春貴が彼女たちを“指導”すると、部活になってしまうので、それは避けた。
(*17) 元々買った“火牛スポーツセンター”の年間利用証なら、そのままここも使えるのだが、それはH南高校女子バスケット部名義の利用券に切り替えてしまった。それで春貴はあらためてファイアーバード専用の年間利用券を購入した。
17時頃、中学の時の友人・美由紀から電話がある。春貴は練習中だったので体育館のフロアを出てから取った。
「お待たせ」
「S市の人形美術館でさ、さっきの地震で崖崩れが起きて、人形美術館がピンチなのよ。人形の運び出しを手伝ってくれない?」
「分かった。行く」
「来てくれるなら、今そちらにキャラバンあるんでしょ?」
「うん」
「荷物運ぶのにも使いたいから持って来てくれない?」
「了解」
「それと来る時、協力者を4人ほど乗せてほしいのよ」
「いいよ。氷見か高岡の人?」
「高岡1人、氷見1人、射水1人、七尾1人。18:00に氷見漁港で3人、そのあと行く途中、七尾漁港で1人ピックアップして欲しい。全員バイク乗りでそこに集まってもらう」
「4人の性別は?」
「全員中性のほうの“男の娘”で、1人は大学生、3人は専門学校生」
「へー」
「見た目は女の子に見えるらしい。おっぱいもある。全員女声が出せるからパス度は高い。腕力は普通の女よりあるけど、普通の男には及ばない。まだちんちんは残存してるけど、玉は除去済みだから立つことはないらしい」
いや別にそんなことまで聞いてないんだけど。
「最近は早めに取る子多いね!」
「玉なんて男の娘は遅くとも高校卒業するまでに取るべきものだよ」
「個人的には同感」
「はるちゃんは小学5年生で取ったんだったよね」
え?そういう話になってんの?
春貴はまだ練習していた愛佳たちに声を掛けて
「私は離脱するけど、君たちはあまり遅くならないようにね」
と言った。
「何か急用ですか」
「うん。S市の人形美術館が崩れそうになっているから人形を運び出すの手伝ってと言われたんだよ。それで行ってくる。明日の朝には戻る」
すると愛佳たちは顔を見合わせている。
「それ少しでも人手が欲しいですよね。私たちも協力します」
「気持ちはありがたいけど、君たちを連れていくわけにはいかない。私が君たちを連れて行ったら、私は顧問をしている部の部員を勝手に学校活動と無関係の作業に徴用したと言われる」
すると舞花が即答した。この子は頭の回転が速い。
「だったら私たちはたまたまそういう話を聞いて、先生とは無関係に自主的にS市に行ってお手伝いしたというのではどうですか?」
「でも足は?」
「私と晃は母の車で来てるんです。母にS市まで送ってもらいます」
「分かった。私はこれから学校まで行ってキャラバン取ってくるから、それまでに親御さんと話していて」
「分かりました」
それで春貴は、パッソはファイアーバードに置いたまま、ジョギングで学校まで行った。門は閉まっていたが、電話してみたら教頭先生が居て開けてくれた。S市で地震被害にあった知人からヘルプを求められているので、キャラバンで救援に行くと言うと
「余震とかあるかも知れないし気をつけて下さいね」
と言われた。
「そうだ。北信越大会は?」
「すみません。それを先にご報告するべきでした」
と言って、結果を報告する。
「初戦突破した後、石川J高校に敗れましたか」
「上位まで行けずに済みません」
「いや、インターハイの常連校相手では仕方ないですよ。北信越大会で初戦突破しただけでも凄いです。また頑張ってください」
「はい」
「明日学校は?」
「多分朝までには戻ります」
「分かりました。戻って来られないようならメールでも下さい」
「はい、その時はご連絡します」
それで春貴はキャラバンを出してまずはファイアーバードに行った。
舞花のお母さんが春貴に言った。
「こんな時は助け合いですよ。可能な限りお手伝いしますよ」
「分かりました。ありがとうございます」
「私も母に承諾を取りました。舞花ちゃんと一緒ならOKと言われました」
「私も母に承諾を取りました。舞花先輩と一緒ならOKと言われました」
どうも舞花は信用があるようだ。
なお彼女たちは春貴が学校まで行っている間に全員下着を交換したらしい。春貴も下着を交換する。
それで、愛佳と美奈子が、舞花の母のアコードに同乗し、晃のキャラバンと一緒に出発する。まずはENEOSのGSに寄り両方の車に満タン給油した。能登半島では七尾より北には夜間営業しているGSは無いので、満タンにしておかないとヤバい。
春貴は舞花の母に
「これ使ってください」
と言って、自分の ENE-Key を貸した。
「すみません。ありがたく使わせてもらいます」
その後、お弁当屋さんでお弁当を10人分買ってから氷見市内の集合場所に向かう。18:00集合だったのだが、17:40には全員(3人)揃ったのですぐ出発した。舞花の母と春貴は待っている間にお弁当を食べた。
能越道(無料区間)を走り、県境PAで一度休憩、七尾ICで降りて七尾漁港でまた1人乗せる、そのあとS市に向かった。駒渡パーキングで休憩する。県境PAでも駒渡でも晃が他の女子たちに連行されて女子トイレに入ったのは見ぬ振りをした。お母さんも一緒だったし!
19:30頃現地に到着。春貴、男の娘4人、女子高生4人(晃は女子高生に分類される)で、人形の梱包とトレーラーへの積み込みに参加した。
千里さんが「来てくれてありがとう。できるだけたくさん人手が欲しかった。これガソリン代とお弁当代」といって3万円くれたので、少し多い気もしたが、ありがたくもらっておいた。
帰りのことも考え、舞花の母には車内で休憩してもらうことにした。でも舞花の母は買い出しに協力し、何度かコンビニに(予約してから)行って、作業している人たちに肉まんやチキン、暖かい飲み物を配ったりした(お金は千里さん、不在の間は代理の広沢さんという男性が出していた)。
美術館のオーナーの夫が経営しているレストランからもおにぎりなど炊き出しの軽食を運んでいた。だから結局お母さんはあまり寝てないはず。
人形は、取り敢えず輪島市の材木屋さん?の営業所敷地に運ぶということだった。そのため、何台もトレーラーを持って来ていた。
22時の段階で氷見組の高校生は帰すことにする。舞花の母が自分の車(アコード)を運転して帰ろうとしていたのだが、千里から頼まれた南野鈴子さんという人が
「お疲れの所事故があったらいけないので私が運転します」
と言う。
ああ、それがいいな、お母さん結局仮眠とかしてないもん、と春貴は思った。
「でも私たち5人なのですが」
と舞花の母。
「うーんと・・・」
と南野さんは少しだけ考えてから神谷内さんに声を掛けた。
「エスティマ貸してください」
「ああ、いいよ」
と言ってキーを貸してくれた。
それで南野鈴子は、
「アコードはあらためて回送しますから」
と言い、エスティマに、氷見組の女子高生4人と舞花の母を乗せて氷見に向かったのである。
「皆さん寝てて下さいね」
と言うので、舞花たちは遠慮無く寝せてもらった。ここで座席割りは舞花の母が助手席、2列目に舞花と晃、3列目に愛佳と美奈子である。美奈子の家、愛佳の家に寄ってから舞花の家に行くことにする。
鈴子(すーちゃん)がエスティマを借りることを考えたのは2つの理由である。
・舞花の母が双方の親に挨拶する必要があるので、舞花の母を置いていく訳にはいかない。だから6人以上乗れる車が必要。
・キャラバンを使うと、それが奥村先生が使っている車という認識があるので、愛佳や美奈子の親が、奥村先生が連れ出したのではと思う危険がある。
それで春貴と無関係のエスティマを使うことにしたのである。
すーちゃんは駒渡パーキングで休憩した後、23時頃(*18)、美奈子と愛佳を各々の自宅にポストし、その後舞花の家で、舞花・晃および母を降ろした。そして氷見の道の駅で朝まで眠った。
(*18) 時間がおかしいのは愛嬌。本来なら24時近くになったはずだが、くうちゃんに頼んで途中ワープした。これは特に高校生たちを早く休ませるためである。
春貴は最後まで人形搬出の作業をした。23時頃に最後の人形たちを送り出した。
ここで明日学校があるので離脱させてもらう。
春貴が連れてきた男の娘4人は明日の作業のため残るという。春貴が乗ってきたキャラパンは荷物の運搬に使われて輪島に行っている。しかしうまい具合に舞花の母が運転してきたアコードがあるので、この車の回送を兼ねて運転して行くことにする。春貴は自分で運転するつもりだったが、千里さんの友人の花山さんという30歳くらい?の女性が運転して行きますよということだった。
「氷見方面の方ですか?」
「違いますけど、私と米沢(コリン)は、作業してくださった方をお送りするのに呼ばれたんですよ。それで搬出作業には加わらずに、仮眠してから作業のメドが付く頃にこちらに来ました。人はそれぞれ役割があるから、君たちは待機しててと千里さんに言われたので」
「千里さんはそのあたりが偉いなあ」
「あの人最初に全体像を俯瞰してるんですよ」
「ああ」
それで春貴は花山(星子)さんの運転するアコードで帰宅することになった。カーナビに春貴の住所を聞いて入力した。
「でも氷見でどこか泊まる場所あります?」
「先行して氷見に行った南野さん(すーちゃん)が向こうで休憩しているはずなので、彼女に拾ってもらいます」
「なるほどー」
うまい具合にできてるなと春貴は思った(*19).
(*19) 作者もうまく収まることに驚いた。最初は金沢に邦生たちを送っていったコリンに回収させるつもりだった。星子がコリンが来るまで休憩のためファイアーバードに行ったら、猛禽の到来におキツネさんたちがパニックになる!などという文章も書いたがすーちゃんと合流できることに気づき、そちらはボツにした。
氷見の女子高生4人が行くことにしたのは実は“晃を救う”ためである。(救わないほうが面白いけど)
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【春避】(3)