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■男の娘とりかえばや物語・取り替へたり(4)

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12月20日、尚侍(涼子)は二条邸で子供を産みました。
 
本人としては2度目の出産なのですが、最初の出産のことは絶対に明かせないので、これは最初の出産という建前です。
 
(最初の出産を知っているのは、兄の花久と、海子・浜子姉妹のみ。腹心の侍女たちでさえ知らないが、その中で勘の良い式部だけは察していた。むろん彼女は誰にも言わない)。
 
そして生まれた子供は男の子でした。
 
帝にとって待望の世継ぎの誕生です。左大臣・右大臣はもちろん、帝の喜びようは、言い尽くせないほど大きなものでした。あまりにも周囲が喜んでいるので、涼子や花久がかえって冷静になってしまいました。。
 
この男児に帝は即親王宣下(せんげ)を行い、自ら宏和という名前を与えました。
 
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朱雀院、雪子東宮、式部卿宮、隠棲している吉野宮からまでお祝いの品とお手紙が届きます。上達部・殿上人などからも山ほどお祝いの品が届き、その置き場所に悩むほどでした(雪子に許可をもらって西の対にかなり置かせてもらった)。
 
祝宴も盛大で、三日夜には左大臣主宰、五日夜は東宮大夫主宰、七日夜は帝が主宰して内裏で、九日夜は右大将主宰と競い合ってお祝いの宴がなされました。その度に右大将は笛を吹くことになりますが、実際に吹いたのは涼道のふりをした和茂です!
 
全ての貴族・国民が祝福ムードの中で面白くないのは、梅壺女御・弘徽殿女御くらいでした!
 
元々尚侍と仲が良かった麗景殿女御はわざわざ腹心の女房を遣わしてお祝いを言い、たくさんのお祝いの品もくれました。麗景殿女御の兄・左京太夫などにしても、ほぼ次の帝は確定だろうと思われるこの男児との強いつながりを作っておきたい所で、彼は妹とはまた別にお祝いの品を贈ってきました。
 
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年が明け、涼子と花久は22歳になりました。涼子が年末に生んだ男児・宏和親王は生後わずか10日ほどで2歳になります。
 
内大臣が年齢と健康を理由に退任したことから、その後任に右大将が任じられました。わずか22歳での大臣就任は極めて異例です。この時代より後になりますが、かの藤原道長でさえ大臣になったのは30歳の時です(彼は大納言からいきなり右大臣になっており内大臣を経ていない)。
 
また権中納言は大納言に昇進させられました。大納言は本来定員2名ですが、最も多い時期は10名居たこともあり、定員は有名無実です。もっとも彼はこれまでも中納言の仕事をあまりしていたようには見えないので大納言もきっと名前だけです。
 
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1月23日、麗景殿女御の妹・楠子が女の子を出産しました。朝日と名付けられます、父親は右大将であることを右大将(内大臣)自身が公にしました。
 
楠子はこの出産のため、10月に実家に里下がりしていました。また花久は楠子の実家に頻繁に出向き、父や兄とたくさん交款しています。麗景殿女御の一家が涼子の出産を盛大にお祝いしてくれたのは、その背景もありました。
 
右大将としては、小夜が大納言(昨年までの権中納言)の子供であったことが明らかになっていたので、これが実は最初の女の子です。それで右大将は楠子に二条邸に移ってこないかと誘ったのですが、楠子の姉・麗景殿女御が
「自分はきっと帝の子供を産むこともないだろうし、せめてこの子を手元で育てたい」
と言ったことから、宮中で育てられることになります。
 
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2月11日、東宮雪子が皇太子の地位を辞退することを表明しました。
 
雪子としては、元々自分は帝に男児が生まれるまでの暫定的な皇太子であると公言していましたので、予定通りの行動です。
 
帝は雪子に“准上皇”(**)の地位を与えたいと言ったのですが、雪子はそれも辞退して、ただの内親王の地位に戻ることになりました。
 

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(**) 史実では、日本の皇太子で、廃太子もされず、その地位を生前に辞退したのは、後一条天皇の皇太子であった敦明親王(994-1051)のみである。
 
敦明親王は三条天皇の第1皇子で、三条天皇は彼を皇太子とする条件で後一条天皇に譲位した(1016.1.29)。しかし後一条天皇は14歳も年下であり、実際に自分が天皇になれる見込みは少ないと考えたことと、藤原道長の圧力もあり皇太子の地位を辞退(1017.8.9)。准太上天皇の称号を贈られた。
 
なお、原作では東宮は女院になったとされているのだが、この時代にはまだ女院という制度が存在しない。
 
女院というのはそもそも皇后の地位にあった人が夫の天皇が退位した後に出家して任じられるものであった。その最初は991年に女院になった藤原詮子で円融天皇の女御である。彼女は本当は皇后にはなっていないのだが、子供(一条天皇)が帝位に就いたことから皇太后の地位を贈られた。そして円融上皇の崩御後、出家して女院宣下された。
 
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後に女院は皇后を経ていない、出家した内親王に贈られるケースも出てくるが、その最初は1157年のワ子内親王であり、とりかへばや物語の時代(930頃)より遙かに後のことである。
 

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雪子の東宮辞退に伴い、尚侍(涼子)が産んだ宏和親王が生後50日にして、新たな皇太子に指名されました。
 
そしてその生母である尚侍は女御に任じられました(宣耀殿女御と呼ばれる)。帝の4人目の女御です。
 
麗景殿女御は彼女を祝福しましたが、弘徽殿女御・梅壺女御は極めて不愉快でした!!彼女たちの不満を少しでもやわらげるため、内大臣は3人の女御の所にあらためて挨拶に行き、豪華な贈りものをしています。
 
東宮を辞退した雪子内親王は、自分が政治からも引退することを明示するため宮中からも下がることにしましたが、その下がる先として選んだのが、内大臣の二条邸・西の対であったことは、人々に大きな驚きを与えました。
 
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「元々私は、内大臣殿に後ろ盾になってもらっていた。だからその邸に行くのはごく自然である」
などと雪子は言ったのですが、人々は、要するに内大臣に嫁ぐということなのだろうと言いました。
 

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結果的に、内大臣は、朱雀院の娘(雪子)・吉野宮の娘(海子)という、帝の姪を2人も妻にすることになり、しかも妹の宣耀殿女御が産んだ帝の子供が皇太子です。
 
ここに来て内大臣の影響力は絶大なものとなり、形式的には上位である父の左大臣、義父の右大臣を凌ぐものとなりました。人々はこれを「一二苦しき三」(**)と言いました。
 
ここ数年、大殿(左大臣の父で、花久たちの祖父)の引退で権力の空白が生まれて国全体が不安定になっていたのを雪子東宮が必死で引き締めていたのですが、その雪子の政治的引退は、へたすると日本の国全体を不安定にしかねないものでした。
 
しかし雪子東宮の事実上の副官として、右大将(内大臣)はあちこちの地方に赴いて地方官たちとたくさん話し合いを持っています。それで自分とのつながりがある内大臣のところに権力が集中することを、地方官たちは大いに歓迎したのでした。
 
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(**)史実では、藤原師輔は生涯右大臣のままであったが、実際には上位の左大臣藤原実頼よりずっと大きな権力を持っていた。これを人々は「一苦しき二」と言った。
 

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もっとも本当の内大臣・花久は実はあまり政務能力がありません。
 
実際に内大臣として様々な立案をしていたのは、実は涼子や雪子でした。企画書・建議書の類い、また地方官とのやりとりの文書は、ほとんど涼子が書いています。雪子も引退した身とはいえ、企画立案などにかなり関わっていました。また会議などには、しばしば涼子が男装して、内大臣として出席したりしていました。
 
「元々の性格はどうにもなりませんよね」
などと式部は笑っていました。
 
「性格もだけど、知識とかでもボクはあの子に全くかなわないよ」
と花久は言います。
 
「いや、涼道は、法体系や慣習だけでなく、本朝の歴史にも、唐土(もろこし)の歴史にも詳しい。あの子に言われて『あ、そうか。そういう先例もあった』と思うことが多いよ」
と雪子も言います。
 
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世間的には、二条邸で、内大臣は3人の妻(海子・萌子・雪子)を置いているように見えますが、実際には花久の本当の妻は雪子だけです(ひょっとすると雪子が夫で花久が妻かも!?)。萌子と海子は実際は涼子の妻なのですが、海子は涼子のみとセックスし、萌子は両方とセックスしています。萌子は自分の夫が2人いることに気付いていません。花久と涼子をちゃんと見分けているのは小夜くらいで、小夜は涼子には懐いていますが、花久にはどうも懐かないようです。小夜の“父”への反応が日によって違うのを萌子は不思議に思っていました。
 
涼子が花久に代わって政治的な文書を書くのに代わり“宣耀殿女御直筆の和歌”などを書いていたのは花久です。涼子の字は男らしく立派なので、それを女御様の玉筆として出すのは問題がありすぎます!
 
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涼子が男装して内大臣のふりをしている間は、花久が女装して宣耀殿女御の振りをしているのですが、流石に帝も結婚当初のほどは昼間こちらにお渡りになることはないので(基本的には夜に清涼殿に呼ばれる)、脱がされそうになって焦る!ような事態はその後は起きませんでした。
 

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4月になって、帝は宣耀殿女御を中宮(皇后)に立てました。
 
皇太子を産んだのですから、これは当然の処遇と多くの人が思いました。
 
例外は2人だけ!です。
 
そしてその1人である梅壺女御は
「私は里に帰らせて頂きます」
と言って右大臣家に帰ってしまいました。
 
つまり離婚です!
 
梅壺女御は、4人の女御の中で最初に入内したのですが、ついに男児どころか女児も得られず、宣耀殿女御が中宮になったことで「帝の愛情が無くなった」と言い、退出してしまったのでした。
 
涼子は自分が中納言として萌子と仮面夫婦をしていた時代、萌子の愛情が宰相中将(当時/現在の大納言)に行ってしまい辛い思いをしていた頃を思い出して、梅壺女御の気持ちが痛いほどに分かりました。涼子は花久と話し合い、“涼道”から義姉へということで、慰労の贈りものを贈っておきました。
 
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二条邸に入った雪子は、生母非公開のまま左大臣宅で、内大臣の子供として育てられていた男の子(大若君)を自分の猶子にすると発表し、実際その子の乳母と一緒に二条邸・西の対に引き取りました。
 
ここで一時的に二条邸に、大若君、萩の君、小夜、須須、など次世代の主人公となる人たちが集結しました。
 
5月、大納言(元の権中納言)が三条京極に造営していた邸宅が完成しました。それで吉野の妹君・浜子は大納言の正妻としてそちらに移りました。
 
これに伴い、これまで事実上大納言の自宅として使用していた小さな邸は引き払うことにし、そこに住んでいた、萩の君と乳母もその三条邸に移ることになりました。萩の君はこれまでも頻繁に浜子と会い、浜子が母親代わりとして自分に優しくしてくれていたので、一緒に暮らせるようになり喜んでいました。
 
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また二条邸に曖昧な形で住んでいた小夜とその乳母もこちらに移動することになりました。彼女も浜子に(実母の萌子以上に)大事にされていたので、安心して浜子に付いていきました。
 
大納言は、筑紫の君にも
「君も三条に来る?」
と訊いたものの
 
「女王様がおられるのに恐れ多いです」
と言って辞退しました。それでそちらの家は、かえって大納言にとって適当な避難所の役割も果たすことになります。
 
なお、筑紫の君は、昨年末に、涼子と似たような時期に男児を産んでいたのですが、その子も大納言にとって心の慰めになりました。
 
大納言は過去にも数人の女に子供(全員女児)を産ませているのですが、みんな各々の実家で母親のもとで暮らしている(むろん養育費は毎月渡している)ので、実際に気軽に顔を見て父親らしいことをしてあげられるのは三条邸に入った小夜および萩の君と、この筑紫の君が産んだ男児のみでした。
 
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この後、中宮(涼子)は2年おきに、男の子2人、女の子1人を産みました。つまり親王3人・内親王1人を産んだことになります、一方、弘徽殿女御には子供は産まれませんでした。麗景殿女御はもう諦めている!ので、そちらにも子供は産まれません。でも麗景殿女御とは。帝も気軽におしゃべりなどして楽しむことができるので、わりとお呼びが掛かるようでした。帝の夜のお供は最終的に中宮と麗景殿女御が半々くらいお務めすることになります。
 
内大臣(花久)と萌子の間には、あと1人男の子が生まれましたし、雪子も萌子と同じくらいの時期に女の子を産みました。それで内大臣の子供は(ある事情により−事情を知るのは雪子と涼子のみ)打ち止めとなります。
 
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結果的に内大臣の子供は、萌子が産んだ3人の男の子(須須・佐佐・津津)、雪子が産んだ女の子(慈雨)、楠子が産んだ女の子(朝日)、そして生母を明かしていないものの雪子が猶子にした男の子(晴良:大若君)の6人です。男性機能が極めて弱い花久にしては、よく作ったものです。
 
なお、内大臣はずっと声変わりはせず女のような声で話していましたが、それが彼のスタイルにもなっていました。
 

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大納言(仲昌王)と浜子の間には女の子2人と男の子1人が生まれました。つまり女王2人と王1人ということになります。
 
姉の海子には子供が生まれませんでしたが、これは事情を知るものには当然のことです。
 
「ごめんねー。ボクは子種持ってないから」
「いいよいいよ。ボクもあまり母親とかする気無いし」
と海子とその夫である涼道は密かに言い合っていました。
 
そして涼子は出産もだいたい終わった30歳頃より後は、むしろ男装して内大臣として行動している時の方が多くなり、結果的に花久は女装して中宮を演じていることの方が多くなります。
 
結局ふたりは「とりかへ」られた状態で、橘は望み通り男として活躍し、内大臣として事実上この国の政治を執ることになります。そして群臣たちに尊敬される為政者となって、この国を安定せました。
 
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そして桜は不本意ながら女姿で!中宮として帝に付き添い、その女らしさが多くの女性たちの憧れとされることになったのでした。彼も帝に抱きしめられたり口づけされたり、胸やお股に服の上から触られる程度は平気になりました。
 
めでたしめでたし!?
 

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ずっと後、帝は中宮が産んだ一の宮・宏和親王に譲位なさり、中宮は国母となりました。そして、萌子が産んだ長女・小夜が女御として入内し、藤壺に入られました。二の宮・槇和親王には楠子が産んだ姫君・朝日が嫁ぎました。
 
雪子が猶子にした“大若君”は実際には猶子というより実子なのでは?母親は実際に雪子だったのではという噂がたち、その噂を背景に彼は涼道の後継者として注目されます。若くして権中納言に任じられましたし、大納言と浜子の間の次女を娶りました。
 
更に後、花久たちの父・左大臣は引退して出家し、萌子の父・右大臣は太政大臣となります。そして“涼道”が関白・左大臣となり、名実ともにこの国のリーダーになりました。
 
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基本的に“藤原涼道”の“中の人”は、涼子と花久が共同で務めているのですが、実際には8割くらいが涼子です。(結果的に中宮の8割が花久)
 
大納言(仲昌王)は内大臣になり、涼道の後任の右大将を兼任しました。若君たちもそれぞれ昇進しました。
 
内大臣(仲昌王)は、宇治で生まれた“萩の君”が三位中将まで出世し、萌子が産んだ小夜が帝の女御となり、浜子が産んだ次女も権中納言の妻となって、栄華を極めた上で、最愛の妻・浜子と幸せな生活を送りますが、いまだに宇治の館から居なくなった女君のことも忘れられず、彼女はどうしているのだろうと思い悩んでいました。
 
(とりかへばや物語・完)
 
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男の娘とりかえばや物語・取り替へたり(4)

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