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さて“ご病気”で伏せっている(?)東宮の宣旨・敷島は尚侍(花子)を
なじっていました。
「私もずっと皇女(ひめみこ)様のそばにずっと付いているつもりでしたが、月に何日かは(月の者のため)里下がりしておりました。その間、あなたが皇女様のそばには付いておられましたよね。一体どなたを引き入れたのです?」
実際には敷島の目の無いところで、雪子は花子自身を弄んでいたのですが、まさかそれを話すことはできません。
「それは皇女様自身から口止めされていますので、宣旨様にもお話はできませんが、決して身分の卑しい者ではありません」
「ああ、やはりあなたの兄上様なのですね?」
「申し上げられません」
「しかしあなたの兄上様はいったいどこに行って仕舞われたのでしょうね」
と敷島は、東宮のお腹の中の子供の父親が右大将であるならば、悪い相手ではないと判断したようです。そしてその肝心の右大将の安否を気遣います。
「宣旨様。私が兄を探しに行って来ます」
と花子は敷島に言いました。
「女の身で無理ですよ」
「だから男装して行きます」
「え〜〜〜!?」
「元々私と兄は顔立ちが似ているのですよ。だから私が男装したら、きっと兄とそっくりになります。その姿で探し回れば、きっと何か手がかりが見つかると思うのですよ」
「それはもしかしたらそうかも知れない」
「だから私が右大将を探しに行っている間、皇女(ひめみこ)様のお世話をお願いします」
「お世話はいいけど、尚侍がそう簡単に外出できませんよ」
「取り敢えず“月の者”を理由にして里下がりします。それで兄の失踪で心を痛めて私も体調を崩して伏せっていることにしましょう」
「そういえば、あなた“月の者”で里下がりしたことないね」
「私のはとても軽いので」
「ああ、そういう人は時々いる」
それで尚侍(花子)は取り敢えず“月の者”なので里下がりします、と東宮に申し上げました。
「お前が月の者ね〜。いよいよ私に代わって出産してくれる気になったな」
と東宮は明るく笑って許してくれました。
「本当は兄上を探しに行って来ます。もしかしたら2〜3ヶ月かかるかも知れません。長くかかった場合に困った状況がありましたら、私の腹心の式部にお申し付け下さい。必ず何とかします」
「分かった。式部は頼りになる。頼む」
と東宮はまじめな顔で答えるのでした。
(尚侍の女房頭は伊勢なのだが、式部は頭もよく勘も鋭く、体力もあって、馬も弓矢もこなすので、しばしば裏工作的なものに関わっている)
尚侍は内裏出仕以来3年ぶりに里下がりして実家に戻りました。
実際には涼道の代理をして度々出歩いているのですが、それは内緒です。
そして実家で父の左大臣がひどくやつれた様子を見ました。思えばあの子が、あの日、私の所に来たのは、やはり別れを告げるためだったのだろうなと再認識します。
たった2人の兄妹で、小さい頃こそ縁が薄かったものの、ある時からお互い入れ替わって相手の苦手なお稽古を代わってやっていた日々などが思い起こされます。あの頃はふたりとも純真だったけど、お互い社会に出て各々の重圧に耐えて仕事をしていた日々、お互いに支え合っていたけど、やはり男女入れ替わって過ごすには色々無理もあったよな、などと花子はこれまでのことを回想していました。
ふつうの人は通り一遍の所しか探さないだろう。父はかなり傷心している。もしかしたらこのまま亡くなるかも知れない。回復しても左大臣という立場ではあまり動き回れない。結局あの子を探し出せるのは自分だけだ。もし自分もあの子を探し出せなかったら、自分も出家しよう。
それで花子はまず西の対にいる秋姫(涼道の母)の所に行きます。秋姫は左大臣と違って胆が座っているので、青ざめた表情ながらも気丈にしています。花子は父よりこの人の方が左大臣の職務を果たせたりしてなどと思いました。やはり涼道のしっかりした性格はこの人の遺伝ではという気もします。
「秋姫様、ご無沙汰しておりました。お願いがあるのですが」
「何でしょう」
「橘(涼道の幼名)の男物の服をお貸し下さい」
「あらあら、男物の服とか、どうなさるのです。まさか急に男に戻りたいなどと思ったりはしませんよね?」
「男姿に戻ろうと思いまして」
「うそ」
「でも私が男の服を着ていたのは小さい頃だけなので、私は男物の服を持っていないのですよ」
「あんた本当に男に戻るつもり?」
「それで橘を探しに行って来ます」
と花子が答えると、秋姫は真面目な顔をして、腹心の中将の君に命じて、涼道の服を数点持ってこさせました。
「お着替えお手伝いします」
「頼む」
それで花子は中将の君に手伝ってもらい、小袿(こ・うちき)と裳(も)を脱ぐと、狩衣(かりぎぬ)に袴(はかま)を穿き、頭には冠もつけました。髪の大半は服の中に隠します。実は涼道もいつもそのようにして長い髪を隠していたのです。
「一応男にみえるかな」
と秋姫は言います。
「本当に男なんですけどねー」
「でも桜様、まだお声変わりしないのですね」
「私は男としての発達が遅いようなのですよ」
それで秋姫には父の世話を頼み、花子は男装で春姫の居る東の対に向かいました。
春姫は男装の花子を見てびっくりします。
「右大将(うだいしょう)様!お戻りになったのですか?」
すると花子は微笑んで言いました。
「母上、私は尚侍(ないしのかみ)ですよ」
「え〜〜〜!?」
それで花子は母に自分の計画を打ち明けました。この姿で涼道を探しに行ってこようと。普段の格好のままでは、やはり女の身であちこち動き回るのは難しいので男装したこと。それに自分が男装すれば涼道そっくりになるので、その姿で探し回ることにより、何かヒントが得られるかも知れないということ。
「それは良いことです」
と母も賛成してくれました。
「だけど男装のあなたを、花子などという女名前で呼ぶのは抵抗がある」
と母は言います。
「だったら花久くらいで」
「じゃ花久さん、あまり無理しないで。あなたまで失ったら父君は亡くなってしまいますよ」
「はい、無理はしません。ただ私が妹を探している間、尚侍(ないしのかみ)まで不在になってしまいます。それで母上、尚侍は兄の失踪に心を痛めて伏せっているということにして頂けませんか?このことは絶対に信頼できる数人の侍女だけの秘密にして、私がここに居て、ずっと寝ているかのように振る舞ってほしいのです。朝昼夕の御飯などもちゃんと運んで」
「なるほどですね。でも東宮様には?」
「皇女(ひめみこ)様にも事情は話して出て来ました。でも伏せっている私から音信をしているかのように、皇女様には定期的に文を代筆して届けてもらえませんか?」
「分かった。それは誰か信頼できる者に書かせよう」
「お願いします。それでは出て来ます」
「供は?」
「泰明殿が、自分が殿様に出家を唆してしまったのではと落ち込んでいるようです。彼に同伴してもらおうと思います。それにやはり最初、吉野宮様と会ってみたいと思うのですよ」
「それはよいかも知れませんね」
それで花子は、一番の腹心で頭の良い式部には東宮との連絡役を頼み、もうひとりの腹心の長谷およびその妹の小紫と4人だけで、6月下旬の深夜、密かに左大臣宅を4人とも乗馬で出発しました。
ここから物語は主人公の2人のことを男君・女君と描写します。男君というのは現在男装している尚侍・花子(花久)、女君というのは今出産のために女装している右大将・涼道のことです。
さて、当時京から吉野に行くには2つのルートがありました。
1つは木幡山(現在の桃山)の麓を通るルート。もうひとつは淀川を下って、巨椋池(**)から宇治川に入るルート。
どちらにしても京の南側で、宇治川を渡ることになりました。
(**)京都南方にあった湖で京都市・宇治市にまたがる。淀川はこの湖の南西、宇治川は南東から流れ出る。現在の第二京阪巨椋池本線料金所付近が元々の湖の中心点。古い地図を見た感じでは琵琶湖の分湖のようにも見える。
秀吉が治水工事に失敗して水害を生むようになってしまい、昭和初期に埋め立てられて消滅した:風水的には京都の朱雀だったので、この消滅で京都の風水は絶望的に悪化した。京都の運気は京都に留まることができず、全て淀川経由で大阪に流れて行ってしまう。
なお実際の原作の記述を見る感じでは、花久たちは木幡山ルートを通ったように思われます。
さて、今は6月下旬、新暦でいえば7月下旬で盛夏です。とても暑い時期です。
花久の一行は宇治川を舟で渡った(馬も舟で渡す)後、木陰でしばし休憩しました。すると川の近くに風雅な邸があるのに気づきます。それで興味をもって近寄ってみると、読経の声がするほかは、人影がありません。
風雅だなあと言いながら、小柴垣のある建物に歩み寄ってみると、すだれが巻き上げてあったので、人がいたのかと驚きました。
落ち着いて見ると建物の前に遣り水があり、八方に流れて絵に描いたような庭です。よい具合にすだれを巻き上げて、鮮やかな色の几帳の帷子(かたびら)を掛け14-15歳ほどの美人の女童が二藍の単衣襲(ひとえがさね)を着て紅色の袴を穿き、袴を形良く踏みやって、帯をゆったりと締めて団扇で扇いでいました。
几帳越しに見える女主人も、目を細めてみると、紅色の単衣襲(ひとえがさね)を着て同じ色の生絹(すずし)の袴をつけているようです。たいそう悩ましげに物思いにふけっている感じ。伏せた顔の色艶は、華やかに光るように輝いて、額髪(ひたいがみ)がはらりと掛かっている様子は、絵に描いたようです。顔はよく見えないのですが、あふれる愛嬌があり、可愛らしい顔立ちのような気がします。
花久は、まさか妹ではないよね?と思い、もっと近づいてみようとしたのですが、中の人は人の気配に気づいたのか、すだれを降ろしてしまいました。
その頃、邸内では、誰か人が来たといって少し騒ぎになっていました。しかし権中納言からは、邸内には誰も入れないように言われています。それでなりを潜めて静かにしていました。
実は邸の中にいる涼道は、その近づいて来た人の姿を見なかったのですが、侍女たちが騒いでいるのを聞くと
「失踪なさった右大将様に似ている」
などと言っています。むろん彼女たちはその右大将というのが自分だということを知りません。
涼道はひょっとしたら、男として生きていきたい自分の魂が自分の身体から抜け出して、そのあたりを彷徨っているのかも知れない、などと思いました。
一方、邸に近づいて行った男君は、ちょうど通り掛かった農民に尋ねました。
「ここはどなたの住む所か?」
「ここは式部卿宮様のお邸です」
「そうであったか。変に関わると面倒なことになりかねなかったな」
と言って、花久はここを立ち去ることにしました。
こうして兄妹の巡り会いは、この日は起きそうで起きず、ニアミスで終わったのでした。
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男の娘とりかえばや物語・右大将失踪(3)