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■男の娘とりかえばや物語・第二の事件(2)

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その後、仲昌王は尚侍(ないしのかみ)に何度も手紙を出すものの返事はありません。女房頭の伊勢があらためて尚侍の女房全員に、宰相中将からの手紙は取り次がないように申し渡したので、誰も取り次いでくれないのです。先日、仲昌王が尚侍の部屋に入ってきた時に手引きをした侍女・筑紫の君には、示しを付ける意味もあったのでクビを言い渡しました。
 
(筑紫の君はしばしば仲昌王に応対している内に、自身が仲昌王を好きになってしまい、物忌みで本来誰も通してはいけないのを、仲昌王から強く言われて入れてしまった。彼女はクビになった後、実家からも「不始末をして解雇されるなんて我が家の恥」と言われて入れてもらえなかったので途方に暮れていた所を、内侍の兄・涼道が侍女として雇ってあげた。彼女のその後については後述)
 
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一方で仲昌王は、仕事で宮中に出かけていて、しばしば中納言(涼道)に会います。
 
中納言は仲昌王が自分の妻と通じたことを知っていますし、仲昌王はそのことが中納言に知られてしまったことを知っています。しかし中納言は表だって自分を非難したりしないのが不思議だと仲昌王は思っていました。
 
しかし・・・と仲昌王は思います。
 
『尚侍と中納言は、似た顔立だけど、尚侍は上品・優美で奥ゆかしく、この人は華やかで愛らしいよなぁ』
 
そんなことを思っている内に涙が出てきました。さすがに中納言が
「どうしたの?」
と尋ねます。
 
「この所ずっと気分がすぐれなくて、自分も長くは生きられないかも知れないなどとも思われて気持ちが乱れて。我ながら女々しいですね」
と仲昌王。
 
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「誰も千年の松ほどには生きられないのです。ふたりいれば、どちらかが先立ち、どちらかが残されるのは悲しいことですね」
と中納言。
 
中納言としてはそういうことばで表面を取り繕いつつも、こいつは俺のことを影では妻を間男された馬鹿な男だと笑っているんだろうな、などとも思っています。しかし根本は自分が男ではないのが全ての元凶だからと思い、彼を非難する気にはなりません。そのあたりが仲昌王には理解不能な点です。
 
かくして仲昌王・涼道ともに憂鬱な気分でいる内に、仲昌王は萌子に文を送る回数も減っていきました(但し文は全て左衛門が止めていて萌子に見せていない)。要するに、これまでするだけのことはしたので、飽きてきたのです!
 
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さて一方の花子の方ですが、秋8月、東宮に付き添って、越国の能登まで行くことになりました。
 
東宮は昨年3月には1000人の兵を率いて太宰府まで行き、太宰府帥(だざいふのそち)と話し合って、彼らの不満を聞いてやり、不穏な動きを収め、秋には関東4国の国介(次官*1)を京に呼んで関東の状況について聞き取り、対処をしています。そして今度は越国(こしのくに)方面に不穏な動きがあるという話だったのです。
 
どうも今上に代替わりして、同時に、強力な力を持っていた“大殿”藤原隆茂(花子や涼道の祖父)が引退したことから、国全体の統制が弛んでしまっているようなのです。それで東宮が女ながらもその引き締めに尽力していました。
 
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越の国は、古くは日本海航路の交易で栄えた地域です。日本列島において昔は日本海航路というのは現在の東海道・山陽道に匹敵するような大動脈だったのです。航行技術の発達により瀬戸内海航路(*2)が通れるようになるまでは、京から九州方面に行く時も海路を使う場合は、いったん北国街道か険しいものの距離が短い鯖街道で若狭まで北上し、海路で博多・唐津方面に向かっていました。
 
そのため越国は古代製鉄業の中心だった出雲などと同様に古くから栄えた地域でもあり、今日の皇室のルーツとなった継体天皇(*3)も越国の出身です。
 
越国は古くは“越国”(古くは高志国と書く)1国でしたが、持統天皇の頃に、越前(福井・石川)・越中(富山)・越後(新潟)に分割され、更に718年に越前から能登が独立、更に823年に越前の東部地区を加賀として独立させて5国体制となりました。
 
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(*1)古代の国(現在の都道府県相当)の長官は国守(くにのかみ)で、次官が国介(くにのすけ)、3番目が、国掾(くにのじょう)、4番目が国目(くにのさかん)となる。これらは中央から派遣されている官吏であり、地方豪族である郡司(こおりのつかさ)たちを統括する。大伴家持は若い頃に越中国守を務め、後には伊勢国守(わりと重職)なども務めている。
 
ただし、関東の上総国、常陸国、上野国は重要国ということで国守には皇族が任じられる習慣で、彼らは実際には赴任しない!ので、現地に居る官吏としては国介が最高責任者になる。それで情勢の説明に国介たちが一時帰京したのである。
 
(*2)瀬戸内海には、非力な船には通行不能な鳴門の渦、現在でも厳しい航行管制が行われている来島海峡、壇ノ浦の戦いで日本の歴史を決した関門海峡など、潮流が速くて航行困難な場所がいくつもある。
 
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(*3)継体天皇の生まれは近江国高嶋(現高島市)であるが、幼くして父を亡くしたため母の出身地である越前国高向(現坂井市)で育った。応神天皇の5世の孫ということにはなっているが、その正統性については当時から疑問も出され、天皇は先帝(武烈天皇:暗殺された疑いがある)死後しばらく都に入ることができなかった。先帝の姉である手白香皇女と結婚することで、やっと受け入れられた。継体天皇には元々妻がおり、子供(安閑天皇・宣化天皇)もいたのだが、手白香皇女との皇子である欽明天皇がその後の皇統を継いでいくことになる。
 
日本書紀が引用する『百済本記』には、安閑天皇と皇太子(宣化天皇)が同時に薨去したと記されており、欽明天皇が継承する際に何らかの異変があったことを想像させる。安閑朝と欽明朝が一時的に二朝並立していたのではという説もある。
 
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今回の東宮の行啓には清原和成中将(太宰府行啓の時は少将だったが、その功績により中将に昇格)率いる500名の兵を連れています。しかし東宮が女性なので、そのお世話係・秘書として、雪子東宮の腹心女房の敷島と越前、花子、花子の腹心の式部の合計4人が付き従っています。
 
九州への道は120里(640km)ほどありましたが、海岸沿いで比較的平坦な道が多かったのに対して、能登への道は距離的にはその半分の60里(320km)程度ではあるものの、かなり大変です
 
当時の北国街道のルートは、琵琶湖の西岸を北上したあと、だいたい現在の国道365号のルートを辿ります。最初の難所・椿坂峠(滋賀・福井の国境)で歩けなくなる者が多数あり、東宮の一行は一部の兵を「自分たちが帰る時まで養生しておくように」と言って置いていかざるを得ませんでした。更に敦賀の先の木ノ芽峠(現在国道476号ルート)でも多数の脱落者を置いていくはめになります。
 
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大変な行程なので、消耗の激しい夏を避けて、秋(*4)になってから行ったのですが、それでも、500人で出発したのに、能登国府(現七尾市)まで到達できたのは400人ほどでした。東宮や花子たちは馬なので比較的無事ですが、それでも「これは大変な道だ」と式部は言っていましたし、実は花子は倒れる寸前でした!それで花子は雪子東宮から「他の者には内緒だぞ」と言われ、何かの薬酒のようなものを与えられ毎日飲んでいました。おかげで何とか目的地まで倒れずに同行できました。
 
(*4)平安時代の季節区分は、春とは1-3月、夏とは4-6月、秋とは7-9月、冬とは10-12月のこと(現代でも1月を新春と呼ぶのはこの名残り)。月の名前は旧暦なので、現在の新暦とは約1ヶ月ずれている。花子たちが出発したのはこの年の8月7日で、これは現代の暦では9月上旬に相当する。京から能登までの必要日数は、延喜式には18日と記されている(旅費支給計算のための標準日数)。
 
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今回、太宰府に行った時より人数を絞っているのも、体力のある女だけを選んだためです。「これ長谷には無理でしたよ」と式部も言っていました。式部は頭もよいし体力もあり、子供の頃、涼道と一緒に弓比べもしていたほどでした。
 
能登国の国守は源宗中といって、実は花子の従伯父にあたりました。花子の母・春姫の父・源寛春元宰相の(腹違いの)お兄さんの子供なのです。それもあって、今回の旅について、花子は東宮から「お前には少し辛い行程かも知れぬが、来てもらわないと困る」と言われて同行したのです。
 
(源宗映と源寛春が腹違いの兄弟/宗映の子が源宗中(能登守)/寛春の子が春姫)
 

 
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実際、宗中伯父は、
「お前に会うのを楽しみにしていた」
と花子のことを歓迎してくれました。
 
「でも私もボケてきたかなあ。透子(春姫)の子供はてっきり男の子だと思っていた」
などとおっしゃるので、花子は困ったような顔をし、東宮は笑っていました。
 

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実務的な会談は、宗中・国守と、次官の国介、鳳至(ふげし)郡と珠洲郡の郡司、東宮と清原中将の6者で行われますが、各々の秘書が記録係として同席しています。花子は東宮の秘書として同席しました。
 
会談では、近年、大国・唐が消滅したことにより生まれた“力の空白”を背景に、日本海沿岸を荒らし回る海賊が増加しており、現在の能登国府の兵力では手に余る状況になっており、何度か増員や大型船建造の嘆願をしたものの、謀反を恐れているのか、良い返事がもらえないという、国守からの切実な苦情が出されます。そしてその海賊対策で日々苦労している鳳至郡(ふげしのこおり。現在の輪島市〜能登町付近)と珠洲郡(すずのこおり。現在の珠洲市付近)の郡司から、具体的に案件の報告が行われました。郡司たちは膨大な事件記録の写しを提出しました。清原中将は熟読することを約束しましたが、拾い読みしただけでも、かなり大変そうです。
 
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この海賊問題は太宰府でも大きな問題となり、現在、防人(さきもり)の増員が図られています。どうも唐の消滅があちこちに波紋を及ぼしているようです。
 
東宮は、能登の郡司たちが帝に忠実であることはよく分かったので、必ず兵力の増強はさせると約束し、大型船建造についてもできるだけ早く色よい返事ができるよう努力することも約束しました。そして、その一番の問題が解決したことにより、その後は比較的和やかに進みました。
 

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能登国守は“自分の管轄ではないが”と断った上で、京から越国に至る北国街道の難所のひとつである、木の芽峠について
 
「あれはもっと海岸沿いの低い所を通過する抜け道を作れないだろうか」
と提案しました。
 
「確かにあそこは大変でした」
と清原中将も言います。中将が花子を見るので
「私もあそこは死ぬかと思いました」
と率直な意見を言いました。
 
「でも海岸沿いは今度は絶壁が続くとも聞いたのだが」
「そうなんですよ。だから海岸より少し内側に何とか通路を開拓できませんかね」
と国守。
 
「それは帰ってから検討させるが、1年や2年でできることではないぞ」
と東宮。
 
「はい。それは分かっています。でも時間を掛けてでも進めていってほしいです。木の芽峠で毎年200-300人は亡くなってますよ」
 
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「あれは死ぬだろうなあ」
と東宮も言っていました。
 
古くは北国街道は、敦賀と福井の間は山中峠を通過していたのですが、830年に木ノ芽峠が開通し、ここを通ることでかなり道は楽になりました。しかし前より楽になったとはいえ、難所であることは変わりません。これは花子たちの時代よりかなり後にもっと海岸に近い場所に栃ノ木峠が開通して、かなり緩和されることになります。この栃ノ木峠は現在の国道365号ルートですが、あそこを車ででも通過したことのある人は分かるように、現在でもかなり辛い道です。
 

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