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帰京すると、涼道は、まず実家の左大臣の家に行きます。
「何日も留守にして済みませんでした」
「ああ。溜まっていた仕事も片付いたかい?」
「あ、いえまだ・・・」
「お前は朝廷の重職にあることを忘れてはいけない。こういうのは軽はずみな行為だよ」
と苦言を言われます。
「申し訳ありませんでした」
と涼道も素直に謝りました。
「右大臣もお前が最近すっかり離れてしまって落胆している。お前の苦悩は分かるが世間的には無難にふるまうようにした方がいい」
と忠告します。
「向こうにも行って来ます」
それで涼道が右大臣宅に行くと
「お帰りなさいませ」
と家の者が妙に明るいです。涼道は長期間留守にしてしまい、何か言われるかと思っていたのですが少し拍子抜けした気分でした。右大臣自身も
「ああ、お疲れ様。少し落ち着きましたか?」
と言い、笑顔です。
「あ、えっと。これは吉野のお土産です」
と言って、唐伝来の品などを差し上げると、右大臣は
「これは珍しい物だ」
と喜んでおられました。
おそるおそる萌子の部屋に行くと萌子も笑顔で
「あなた、お帰りなさい」
と言う。
「あ、えっと長期間留守にしてしまってごめんね」
と涼道も謝ります。
「なんかここ数日、この子ったら凄く元気なのよ。触って触って」
と言うので涼道もお腹に触ります。
そういえばこの膨らんだ腹に触るのは初めてだなと涼道は思いました。もっと触ってあげなければいけなかったと自省します。
その夜は一緒に寝ますが、涼道が萌子の身体に触らないので、萌子からおねだりします。
「えっと。でもお腹の子に障るよ」
「あ、そうかもね。だったら、赤ちゃん産まれたら、してね」
「うん。僕でできることなら」
「それでいいよ」
萌子もこないだのは、ずっとしてなかったお詫びにしてくれたのかなと思います。それで今夜は自分の身体を心配して我慢してくれるのかなと思うと、それもまた喜びとなったのです。
そういう訳で、涼道と萌子の関係は、萌子が花子の活躍(?)で涼道への信頼を回復させたのに対して、涼道の方はまだもやもやとしたものが残るものの、萌子を愛する気持ちだけは変わらない状態で、臨月へと進んでいくのです。
翌日、朝御飯を食べてから宮中に出仕します。まずは中納言の執務場所である太政官に行きます。
「長期間休んでたいへん申し訳ありませんでした」
と上司である大納言に謝ると
「ああ。今度からはちゃんと行き先とかも言っておいてね。でもだいぶ溜まっていた仕事は片付いてきたかな」
などと言われます。
「えーっと・・・」
涼道がよく分からないままでいると、部下から
「中納言様、この書類の決裁お願いします」
と言われるので、自分の執務机に行き、書類を読んで署名(*3)をして渡しました。
(*3)書類の決裁に印鑑が使われ始めたのは室町時代に渡来僧たちが中国から持ち込んだものが一般化してからである。それ以前にも印鑑は存在したが、普通は花押(デザイン化された署名)を使用していた。
それで机の上に溜まっている書類を見たら随分少ないので、同僚の中納言に
「もしかして代行して処理して下さいました?」
などと訊くと
「何言ってんの?半月も休んで仕事が溜まっていたけど、4日前から精力的に処理して、そこまで滞留書類を減らしたじゃん。さっすが涼道君と思ったよ」
などと言っています。
「私が4日前から出仕していた?」
「まさか忘れたとか。ボケるには早すぎるよ」
それで涼道は首をひねりながらも書類の処理を進めたのです。午後になってから近衛府の方に行きますと、そちらも同じ状況で、書類は溜まっていたものの4日前から自分が出仕して大方片付けてしまったと聞き、再び涼道は首をひねりました。
涼道はそのまま数日作業を続け、やっと落ち着いた所で宣耀殿の花子の所を訪れます。
「あんた無責任!」
といきなり言われました。
「中納言というのが、どんなに大事な仕事が分かってない。個人的な悩みはあるだろうけど、仕事を放置したらダメじゃん」
と叱られます。
「ごめーん」
「おかげで、ここ数日、私があんたの振りして、会議には出席するわ、地方から来た国守や国介とかと会うわ、宴会に出席してお酒とかも飲むわ、溜まっている書類の決裁したり、企画書書いたり、大変だったんだから」
「桜が私の身代わりしたの!?」
「昔から私はあんたの身代わりさせられてたけどね。でも久しぶりに男物の服を着たらなんかすごーく変な気分だった」
「ごめーん、というかありがとう」
「企画書は本当は東宮の秘書の敷島さんが書いてくれた」
「わ。申し訳無い」
「中納言ともあろうものが長期間休むと大変なんだよ」
「肝に銘じる」
「右大臣からも帰ってきてと言われるから帰って、ついでに奥方をちゃんと抱いてきたからね」
「え〜〜〜〜!?」
(↑「とりかへばや物語」春の巻、ここまで。↓夏の巻)
その後、涼道はそれまでよりは右大臣宅に帰る日も多くなり、萌子が明るいので、心中は必ずしも安定しないものの、優しいことばだけは萌子に掛けてあげていました。
吉野宮の姫君とは頻繁に文をやりとりし、1度は物忌みの期間(60日間に6日ほど天一神の運行により出仕できない日が発生する)を利用して吉野まで往復してきました。右大臣は(きっと別の妻と会っているのだろうと思い)良い顔をしないものの、それ以外では萌子のお世話はちゃんとしているようなので、前よりは良くなったかなと大臣も思っていました。
(涼道はそれ以外に実は麗景殿の女とも文をやりとりしているが、それには右大臣も気付いていない)
やがて11月、萌子は可愛い女の子を産み落としました。涼道が見ると、その子には宰相中将の面影があるような気がします。
『やはりあいつの子供か』
と思いましたが、涼道は悩みながらも萌子に言いました。
「この世に自分がある限りは、この子は僕の子供だから」
萌子も
「うん。ごめんね」
と謝りました。
このやりとりを聞いたのは産婆だけですが、むろん産婆はそんな会話は誰にも話しません。
「名前はどうしようか?」
「小夜(さよ)というのを考えたんだけど」
「ああ。可愛い。いいと思うよ」
それで女の子の名前は“小夜”と決まりました。
右大臣は
「この子はきっと皇后になる」
と大喜びしています。
萌子の母は産湯を用意し、姉の充子も迎え湯を用意して、家中総出で姫君の誕生を祝いました。
お七夜には、大将(充子の夫)が主宰になって宴を開きましたが、左大臣の息子と右大臣の娘との間の子供が産まれたというので多数の上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじょうびと)がお祝いの宴にやってきました。
涼道は揺れる心を押さえ込み、やってきてくれた人に笑顔で御礼を言って回っていましたが、ふと宰相中将が来ていないことに気付きました。さすがにバツが悪いのかな?などと思いながら、来客たちと歓談します。
その宰相中将は実は左衛門を呼び出していました。
「ここの所ずっと安産を願って祈祷していた。会ってはいけない人と自分に言い聞かせていた。でもどうしても思いが募ってしまう。一目だけでも見ることはできないだろうか?」
「姫様は殿様を裏切ったことを後悔しています。最近は殿様との仲も良好ですよ。会わせる訳にはいきません」
と左衛門は答えます。
宰相中将は、どうやってあいつは奥方との仲を修復したのだろうと疑問に思いながらも、やはり自分の血を分けた子供のことは気になります。それで左衛門を必死で口説きます。そして左衛門はとうとう根負けしてしまい、宴が盛んで人がみんな表の方に行っているのをいいことに、再度宰相中将を手引きしてしまいます。
萌子は不機嫌です。
「今後この人を案内(あない)しないように」
と左衛門に言います。
「申し訳ありません」
そして萌子は宰相中将にも
「話すことはありませんから帰って下さい」
と言いました。
それでも何とか萌子を口説こうとする宰相中将でしたが、人が来る気配があります。左衛門が慌てました。どうも中納言がこちらに来る様子なのです。
「見つかったら大変です。すぐお帰り下さい」
「分かった」
それで宰相中将は慌てて逃げ出しました。
「夏代(萌子の本名)ちゃん、具合は悪くない?」
と言いながら涼道は御帳の中に入ってきましたが、雰囲気がおかしいのに気付きます。左衛門が青くなっています。
涼道は腕を組むと帳台の中を見回しました。
扇が落ちています。拾い上げるとそこには明らかに宰相中将の字で手習いのような言葉が書かれていました。それで子供の父親が宰相中将であることを涼道は再確認することになります。あいつ、恥ずかしくて姿を見せないのではなく、萌子の所に忍んで来たいから表には来なかったのかと思うと、さすがに不快な気分になりました。萌子は無表情です。
涼道は言いました。
「あのさあ。僕も他の女の所にも行ったりしてるから文句言えないけど、産後間もない内、しかもたくさんの客が来ている日に男を引き入れるのは、さすがに、はしたないよ」
この付近の感覚は涼道は“同性として”忠告しているのですが、萌子としては“男である夫から”叱られていると感じています。しかしふたりの関係が以前に比べると改善されていることから素直に謝ります。
「ごめん」
謝りはしたものの、萌子はどういう表情をしていいか分からず無表情のままです。左衛門はもう顔面蒼白で今にも倒れそうです。
「左衛門」
「はい!」
「萌子を守るように。それがそなたの役目だ」
「はい。大変申し訳ありませんでした」
と言って、左衛門はわざわざ庭に降りて土下座して涼道に謝りました。
「夏代」
「はい」
「君は僕の愛する妻なのだから、それを忘れないように」
と言って涼道は彼女にキスをしました。
すると萌子は感極まって涙を流しました。
「ちょっと服を取りに来たんだよ。祝儀に服をたくさん配っちゃったもんだから自分が寒くなっちゃって」
などと言って涼道は自分の服を着ると宰相中将が残した扇を懐に入れて、また表の方に行きました。
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男の娘とりかえばや物語・吉野の宮(4)