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■夏の日の想い出・受験生の夏(3)
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時間索引 #
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「わー。ちゃんと鍛えてるのね。でも受験勉強しながら、コーラス部にも行って自動車学校にも来てって、忙しいね」
「うん。でも塾に行ってる子たちよりは時間的な余裕があるかも。夏休みの特別講義とかで早朝から夜中までなんて凄すぎる」
「私、塾は挫折しちゃった」
「ボクは塾に行く時間で自分で勉強したいと思って行ってない」
「うーん。同じ塾に行かないのでも意味合いが違う気がする」
「そう?だって自分のペースでやったほうが勉強は進むよ。自分と違うペースでどんどん講義が進んでいっても、ちゃんと理解できないままになるかあるいは暇すぎるか。オプションの授業は高校でやってくれる補習で充分かな」
「確かに塾行ってても、さっぱり内容分からなかった」
「参考書見ながら、自分で理解できるまでゆっくりしたペースで考えてみるといいと思うな。結果的にはそれが学力アップの近道だよ」
「うーん。そう言われるとできそうな気がしてきた。やってみようかな」
「うん。頑張って」
「でも大学生になったら、歌手に復帰するの?やはり」
「復帰するよ。今5つの事務所から継続的に勧誘されていて、どこの事務所と契約することになるかは分からないけどね。所属が決まれば活動再開することになると思う。でも今は基本的に受験勉強中だから、どことも契約できません、とは言ってるんだけどね。あと、ちょっと待ってる人がいるのよね」
当時ボクたちが契約先の候補として具体的に考えていたのは実際にはその5社の中でも、△△社・##プロ・∴∴ミュージックの3社だったし、あと当時、ボクたちは高2の時のローズ+リリーの活動の際にマネージャーをしていた須藤さんの復帰を待っていた。
須藤さんは騒動の責任を取って辞職し、こちらに何も連絡をくれなかったので当時ボクたちはその消息をつかんでいなかった。
その須藤さんがブログを立ち上げて自分の活動内容の報告をしはじめたのは礼美とそんな会話をした直後の8月3日のことだった。それはちょうど1年前にボクと政子が急造ユニットでリリーフラワーズの代役を務めた日であり、その日付自体にボクは自分達へのメッセージを感じた。
ひょっとして須藤さんからボクたちに何か接触があるかとも思っていたが、特になかった。「受験生だから今は活動無理と思って遠慮してるんじゃない?」と政子は言っていた。ボクも同意した。
ボクたちを勧誘していた5社の中で、いわば本命的な存在でもあった△△社の窓口になっていたのは甲斐さんである。
甲斐さんは須藤さんがいた頃、その助手的な仕事をしていて、ボクたちも随分お世話になったのだが、須藤さんが抜けた後は、プロデュース部門の事実上の責任者になっていた。
当時甲斐さんは「もし気が向いたら、受験勉強の妨げにならない範囲でいいので、またやりませんか」という感じの勧誘の仕方をしていた。∴∴ミュージックの三島さんなども「取り敢えず契約だけして、色々こちらでおふたりの日々の様子をレポートなどして、CD出すのは大学に合格した後でもいいですよ」などと言っていたのと双璧で、この2社の勧誘がいちばんソフトだったのである。
甲斐さんは、ボクが女の子の格好で歌うことに父が抵抗感を示していると言うと「女の子の格好に問題があるなら男の子の格好でもいいですよ」と言ってくれたが「それは絶対嫌です」とボクも言ったし、政子も「それはありえません」
と言った。そしてふたりともやはり芸能活動の受験への影響を気にしていた。
これは時間的な問題より、精神的な問題である。どこかの事務所と契約している状態にあることで、気持ち的に受験に集中出来なくなることを恐れていた。ボクたちは友人と一緒にカラオケなどに行って歌ったり、時には政子とふたりでスタジオに行ったりもしていたが、あくまでそれは「息抜き」の範疇だった。
##プロの長谷川さんとはどちらかというと、ひたすら音楽関連の雑談をしていた感じだった。長谷川さんはボクたちの音楽をとても良く理解してくれている感じで、長谷川さんと話すことで、ボクも政子も自分たちの音楽の方向性がよりしっかり固まる感じだった。長谷川さんの場合、しばしば勧誘すること自体を忘れてしまっているようであった。
それ以外のプロダクションでは、契約してくれたら、即CD作ってTVスポットを1000GRPくらい打ってなどと、積極的に売りたい人なら喜ぶかもという勧誘をする所もあった。ここでGPPというのはTVスポットを買う単位である。視聴率1%の番組に1本スポットを流すと1GRP。視聴率10%の人気番組に20本流せば掛け算して200GRPになる。関東一円に流す場合で、だいたい1GRP10万円するので1000GRPは1億円掛かる。
あとひとつのプロダクションの場合、熱心なのはいいし、一応受験が終わるまでは具体的な活動は休みましょうとは言ってくれていたのだが、アイドル的な売り方を考えているようで、ボクや政子の考え方とのずれがあった。向こうは「この方が売れますよ」的な言い方だったのだが、ボクたちは売れることより自己表現としての音楽というのを大事にしたかった。それにアイドル的な売られ方は、高2の時に経験して、政子は2度と御免だと言っていたし、ボクでさえもう勘弁してという思いがあった。
実はボクたちが「登場を待っていた」須藤さんについては、予想される売り方がまさにそのアイドル的な売り方に近い気はしたのだが、例の騒動で結局全ての責任を須藤さんが負ってくれたことに、ボクたちは負い目のようなものを感じていたこと、それから須藤さんの性格、そして須藤さんが設立するであろう会社の性格というのがポイントとしてあった。
この時期、多数のプロダクションの勧誘合戦で、鍵を握っていたのは政子の父である。うちの父はボクの音楽活動について「まあ、あまり恥ずかしいことしない範囲でならな。バラエティに出て馬鹿な真似したりとかは止めてくれ」程度の言い方だったが、政子の父は娘にそもそも芸能活動をして欲しくないと思っていた。
そんな政子のお父さんが須藤さんについてだけは「あの人には迷惑掛けたなあ」
と言っていた。また政子のお父さんに対する働きかけをいちばんしていたのは∴∴ミュージックの畠山社長で、畠山社長は何度かバンコクまで行って政子の父に面会し、いろいろ話をしてくれていた。
だから、実際問題として政子の父が折れる可能性のあった人は、須藤さんと畠山さんの2人だけだったのである。
またボクたちが須藤さんと契約することで最も期待していたのが「活動の主導権をこちらに持つこと」ということだった。
ひとつは須藤さんの性格がアバウトでおおらかであること。実際、彼女のマネージングというのは高2の時に体験した感じでも、他のアイドル歌手などのマネージングより緩やかで、あまり拘束しない感じだった。
それと須藤さんが設立するであろう事務所は最初やはりスタッフも少数だろうし資金も無いだろうから、恐らく原盤制作などでは、実際問題としてその資金をほとんどボクと政子が出すことになると考えていた。またそういう小さな会社であるがゆえに、ボクも政子もかなり「わがまま」をさせてもらえるのではという期待をしていたのである。
ボクたちはできたらフリーハンドに近い自由を持った音楽活動をしていきたいと思っていた。
須藤さんがブログを立ち上げた翌4日、その甲斐さんから連絡があり、芸能活動にまた勧誘する訳ではないけど、8月8日(土)のイベントのチケットを用意できるのでお友達なども誘っていきませんか?という話だった。
甲斐さんから聞いたチケットは、国内の実力派のロックバンドが10組集結するイベントだったので、政子は即答で「行きます!」と答え、チケットを4枚もらってきた。政子は「私、誘えるような友達がいないのよ。冬は誰かいない?」
などというので、友人たち数人に打診してみた。
しかし、みんな「私たち受験生だってこと分かってる?」などと言う。そんな中で仁恵が「あ、気分転換に行ってもいいかな」と言い、また礼美は「行く行く!」
と言ったので、このふたりと一緒に行くことにした。礼美は政子にも会えると聞いて、喜んでいた。
東京駅で待ち合わせて、電車で会場のもより駅まで行く。凄い人出であった。
礼美は政子に会うとホントに感動しているみたいで、握手して「お友達になってください」と言っていた。政子も「いいよ」と言って、携帯の番号を交換する。4人の中で仁恵が携帯を持っていなかったので「私か政子かに確実にくっついててね」と言っておいた。会場で離れ離れになってしまうと、まず二度と会えない。
「冬にくっついててトイレの時はどうするの?」
「ボクも女子トイレだから大丈夫」
「あ、そうなんだ」
「男子トイレに入るのは学校でだけだよ」
夏なのでみんな軽装である。ボクはTシャツに膝上丈のショートパンツ、政子はTシャツに膝丈スカート、仁恵はポロシャツに七分丈のパンツ、礼美はポロシャツに短めのスカートだった。仁恵がボクに
「でも冬、そのくらいの格好まではするのね、プライベートの時」という。
「うん。親からスカートでの外出はダメと言われてるけど、これならスカートじゃないから、ということで」
とボクは笑って答えた。
「スカートじゃなくても充分女の子に見えるけどね。そうやって中性的な格好していても、冬って雰囲気が女の子なんだもん。それに今日は胸もあるし」
「うん。シリコンパッド。あ、仁恵はこれ触ったことないでしょ」
といって仁恵の手を取って胸に触らせる。
「おお、ホントに胸あるみたいな感触」
といって仁恵は喜んでいた。
会場のキャパが大きいだけあって入場にも時間がかかる。ゲートでは入場券を指定場所の記号が印刷されたタグに交換してもらう。これを手首に巻き付けておくのである。ブロック指定だが各ブロックに1000人くらいは入っている。ボクたちは比較的前のほうのブロックで、充分アーティストの表情が肉眼で見える感じだった。
「ねえ、ここ実はいい席じゃない?」
「うん。ホントの招待席だね。招待席って2種類あるんだよね。VIP向けに用意された良い席と、人数合わせのための通称『動員』。ボクたちはVIPということみたい」
「わあ、すごい」
イベントで最初に登場したのは昨年の新人賞を総なめした新鋭のバンドであった。メンバーがみな18-19歳と若く、若い感性をそのままぶつけたような曲が多いこともあって会場は最初から強烈な熱気に包まれた。ボクたちは全力でビートを打ち、身体を揺すっていた。凄まじい歓声だが、音は場内に細かく設置されたスピーカーから遅延入りで流れてくるので聞き逃すことはない。
「なんか凄いよぉ、感動だよぉ」などと礼美が叫んでいる。
「私、受験勉強ばかりでかなり煮詰まってたからこういうの凄く新鮮」と仁恵。「自分がステージの上にいるみたいに興奮しちゃう」と政子。
「なんか凄く気持ちいい。こういうのいいなあ」とボク。
3バンド演奏したところで30分の休憩が入る。
「トイレ行こう」と仁恵がいうので、ボクとふたりでトイレの方まで行った。休憩が始まってすぐ行ったのだが既に長い列ができている。
「待つしかないね」
「ぎりぎりまで我慢したら大変なことになるね」
「暑いから水分は取らないといけないしね」
今日は4人とも水筒持参である。
結局ボクらはトイレに入るのに10分くらい待つことになった。自分達のブロックに戻りながら仁恵が小声で訊いてきた。
「ね、ね、冬。ここだけの話」
「何?あらたまって」
「冬、女性ホルモンとか飲んでる?」
「えー、飲んでないよ」
「でもこうやって汗掻いてるのに、男の子の臭いがしない」
「あう・・・」
「だってあまり臭いの強くない男の子でも汗掻くと、やはり男臭い臭いがするよ」
「実はエステミックスってサプリ飲んでる。プエラリアが入ってるの」
「植物性女性ホルモンってやつか」
「よく知ってるね」
「でも、そういうの飲むってことはもう男の子は捨てちゃってるのね」
「ああ。一時期は完全に男の子廃業してたんだけどね。精子も無くなってたし。でもなんか最近また少し生殖能力自体は復活してきているみたい」
「へー」
「もっとも、ボクの意識はむしろ完全に女の子になっちゃってるけどね。政子とかも、今更ボクが男だとか主張したら殺すからねと言ってるし」
とボクは笑いながら言った。
「私、冬と話したりする時の自分のポジショニングに少し迷ってたんだけどさ」
「ああ、ごめんね。紛らわしい存在で」
「ううん。私も冬のことは普通に女の子の友達と思うことにする」
「ありがとう。それが嬉しい」
最初の休憩の後、2バンドの演奏があってから、お昼休みとなった。政子と礼美がトイレに行くというので、ボクと仁恵がお昼御飯を4人分買っておき、政子達が戻るのを待った。とにかく人数が多いので、お昼を買うのに時間がかかったし、政子達もトイレに入るのにかなりの時間が掛かったようであった。
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