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■夏の日の想い出・再稼働の日々(3)
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そういう流れで、ボクと政子は近所のシダックスに行き、1時間部屋を借りた。
「最初はやはりこれから行こう」
などと言ってボクは『ふたりの愛ランド』をセットする。
「ああ・・・この曲は体が覚えてる」
などと言って政子は歌い始めた。ボクたちはこの曲はほんとに何百回歌ったか分からない。
その後、ローズ+リリーで歌った曲がほとんどカラオケに登録されているので、そういう曲をひたすら歌いまくった。歌っている内に明らかに政子の表情が良くなっていくのを感じた。
かなり歌いまくっていた時、ドアをトントンとする音。あれ?時間かな?と思ってドアの所に行くと、ひじょうに懐かしい顔があった。
「吉住先生!どうぞ、お入り下さい」
それはローズ+リリーが生まれるきっかけを作ったリリーフラワーズの後見人、吉住尚人さんであった。若い頃はフォーク歌手として人気のあった人であるが、もう20年ほどステージから遠ざかり、今はもっぱら作曲家として活動している。その日は中学生くらいの女の子2人を連れている。
「いや、この子たち今僕が指導しててね。いづれデビューさせるつもりなんだけど。仮のユニット名は『ベビーブレス』というのだけど」
「かすみ草ですか?」
「よく知ってるね!」
「私たち英文科志望ですから」
「おお、そうなんだ」
リリーフラワーズの失踪で迷惑掛けたといって、吉住先生は△△社にも、私たちにも、当時はひどく恐縮して謝罪していた。そしてリリーフラワーズが歌っていた曲はローズ+リリーも自由に歌ってもらっていいですと言われ、私たちはコンサートでしばしば彼女たちの『七色テントウ虫』を歌っていた。
「レッスンの息抜きにカラオケでもと言って来たんだけど、チラッとマリちゃんの顔が見えたもんだから」
「歌のレッスンの息抜きで歌を歌いに来るって、凄いですね」と政子は言うが、
「囲碁の趙治勲とかは、タイトル戦の休憩時間にネット碁をやるらしいよ」
などと吉住先生は言っている。
先生が久しぶりにローズ+リリーの歌を聴きたいなどというので、ボクたちはカラオケで『涙の影』を呼び出し、それに合わせて歌った。
「凄いな。CDの歌に比べて遙かに進化したね」
「ありがとうございます」
「ふたりとも物凄くうまくなってる。ケイちゃんは昔から巧かったけど、表現力が身についてきたね。音程通り歌うだけじゃなくて、凄く情感が籠もっていて、聴いている側に歌の世界がダイレクトに伝わってくる感じ。マリちゃんも最初の頃に比べてこの曲のCDが出た頃は、かなりうまくなったと思ってたけど、その時点から更に巧くなった。とにかく音程とリズムが凄く正確になってる。昔は一応ケイちゃんとのハーモニーにはなってても、微妙に正しい音程とリズムからずれていることもあったんだけど、今はほとんどずれてない。だからふたりのハーモニーが凄くきれいになったね」
「そんなに褒められていいのかなあ・・・」
と政子はまだ少し戸惑っているようである。
「先生、私もマリの歌は褒めてるんですが、本人それを信じてないみたいで。逆に今のマリの歌をさらに良くしていくには何を頑張ればいいと思いますか?」
「そうだね。音の立ち上がりの精度かな」
「ああ、確かに」とボクは言った。
「どういうこと?」と政子。
「マリちゃんの歌のひとつひとつの音がね。音の本体は正確な音程なんだけど、音の立ち上がり部分で微妙に音程がぶれてるんだよね。それは多分、マリちゃんが自分でその音に自信を持ってないからだと思う。恐る恐る出してからそのあとケイちゃんの音を聴いてそれとハモるように調整している。たくさん歌い込んでもっと自信を付ければ、次第にそのぶれが無くなると思う」
「やっばり、私の歌ってまだ下手ですよね」
「うん。下手。だから、頑張って練習しよう」と吉住先生。
「分かりました!最近みんな私の歌を褒めるから、よけい不安だったんだけど下手と分かれば練習します」
「頑張れ頑張れ」と先生は政子を励ました。
音楽賞を受賞した翌週の連休、ボクたちは秋月さんと一緒に沖縄に向かった。
沖縄にいるローズ+リリーのファンで、難病と闘っている女子高生がいた。彼女が「一度でいいからローズ+リリーのふたりに会えないかなあ」などと言っていたのを聞いた友人が、ボクらに手紙を書いてきた。それがプロダクションの人の目に留まり連絡があったので、ボクたちは受検で忙しい時期ではあったが、彼女に会いに行くことにしたのである。ボクたちの営業窓口を代行している秋月さんが付き添ってくれた。
病室で握手してサインして、お話しして、『甘い蜜』を歌った。彼女は感動していたが、この触れ合いが逆にボクたちにも励みになった。マリは彼女の前で「また歌う」と言ってしまって、その自分のことばを契機としてやる気を出して来た感じであった。
病院を出たあと、一緒に付いてきてくれた秋月さんに連れられて沖縄の放送局を訪れ、ボクたちは放送を聴いてくれているファンへメッセージを出し、また生歌を披露した。それはまた政子のやる気を刺激した。
放送局を出たあと、ボクたち3人は晩御飯でも食べに行きましょうといってタクシーで移動していたのだが、途中で政子が
「あ、ここで停めて」
と言ったので3人でタクシーを降りた。政子が何かに導かれるようにして歩いて海岸に出て、やがて立ち止まった。
「ここ、何か気持ちいい」とボクは言った。
「ちょっとあそこの高速道路が邪魔だけどね」
と政子は言ったが、そのままじっと海を見つめている。
水鳥がバタバタッと羽音を立てて飛び立っていく。ボクは何気なくその行方を目で追った。
「なんだかまだ泳げそうな気がする」と政子。
「海の中にいる限りは大丈夫だろうけど、水から上がるとさすがに寒いだろうね」
とボクは答えた。
「私こないだまでは、このままフェイドアウトしちゃおうかなとも思ってたんだけど、私たちを待ってくれてるファンがいるんだね」と政子は言う。
「いっぱいいるよ」と秋月さん。
「全国に何万人ってファンが君たちの復帰を待ってる」
「いまだにファンレター来るもんね。活動休止からもうすぐ1年なのに」
とボクは言った。
「私、申し訳無い。読む時間がなくて積み上げてる」と政子。
「受検が終わってからゆっくり読ませてもらおうよ。ノータブルなものは今回みたいに秋月さんがチェックして教えてくれるだろうし」
「そうだね」
「ファンだけじゃないよ。先週ちょっと話したAYAみたいに、ボクたちを良きライバルと思っている歌手も、ボクたちがまた歌うのを待っている」
「うん。先週それは思った」と政子。
「ふたりは受験前でそもそも動けない時期だしね。それに契約問題もクリアしないといけないけどさ」と秋月さんは言う。
「多分、今の君たちにしかできないこともあるよ。1年後にはできないこと。今しておかなければならないことね」
「そうですね・・・・・」
ボクたちはそのまま海岸を歩きながら話していたが、やがて少し疲れてきたので海岸から離れ、大通りの方へ行く。途中あった大衆食堂に入り、ゴーヤチャンプルとジューシーを食べた。
私たちがゴーヤチャンプルを3人前と頼むと、お店のおばちゃんは「うちのは量が多いから女性1人で1人前は無理。1つを3人で分け合ったら?」と言ったが、私は「大丈夫です」と微笑んで答えた。
実際に来たゴーヤチャンプルの大皿を政子はぺろりと2人前食べ、更に私と秋月さんが分け合って食べていた皿の方からも「少しもらっていい?」などと言って取っていった。お店のおばちゃんが目を丸くしていた。
ホテルに戻ってラウンジでお茶を飲んでいたら政子は
「お腹空いてきたな。ケーキ食べない?」
などと言い出した。ボクと秋月さんが絶句していると
「あれ?ふたりともいらないのかな?」
などと言って、チーズケーキを注文して食べながらコーヒーを飲んでいる。
「私少し目眩がしてきた」と秋月さん。
「働きすぎじゃないですか?」と政子は言っていたが、ケーキを半分まで食べたところでフォークを置く。
「さすがにお腹いっぱいになった?」と秋月さんは訊いたが、それには答えずおもむろにパッグの中から5mm方眼のレポート用紙と愛用のボールペンを取り出すと、詩を書き始めた。
ボクも秋月さんもコーヒーを飲みながら無言でそれを見守った。
政子は10分ほどで「できた」と言ってペンを置いた。タイトルの所には『サーターアンダギー』と書いている。
「冬〜。サーターアンダギーが食べたい」
「マーサ、『腹も身のうち』って言葉知ってる?」
「うん。お夜食にする。ね。この詩を沖縄方言で書けないかなあ」
「ちょっとツテをたどってみるよ」と秋月さんは言い、ホテルのフロントでコピーを1枚取って来た。
「冬、これに曲付けて。沖縄方言版ができたら、それにも合わせ付けるということで」
「OK」
と言って、ボクは政子から五線紙を受け取ると、曲を書き始めた。政子はその間にチーズケーキの残りをぺろりと平らげた。
ホテルの近くの店でサーターアンダギーを買ってから部屋に入ると、ボクたちはまずキスをして抱き合い、たっぷり愛し合った。そんなにたっぷり愛し合ったのは、3月にした時以来だった。そのあと色々な話をして、その中で政子はまた少しずつやる気を回復してきたのだが、ふとこんなことを言い出した。
「ね、冬。私たちがこれまで作った歌の楽譜、そのパソコンの中に入ってる?」
「えっとね。いくつか譜面が行方不明で入力できなかったのがあるけど、だいたい8〜9割くらいは入ってると思う」
「私たち、去年の7月に一回、それまでに作った歌を歌って録音したじゃん」
「うん」
「その後で作った歌を、また歌って録音しない?」
「いいけど、受検終わってからにしようよ」
「でもさっき秋月さんから言われたじゃん。今しかできないことあるって」
「うん」
「受検が終わってと言ってたら半年くらい先になっちゃうもん。今の私たちの歌を録っておこうよ」
「たしかにそれは意味があるね」
「伴奏データ作るの大変?」
「譜面自体がMIDIデータで入ってるから、このパソコンの中に入ってるものはそのまま鳴らせるよ」
「じゃ、その音を聞きながら歌えば、あとでミキシングできるよね?」
「できるよ」
「じゃ東京に帰ったら1日くらいスタジオ借りて歌いまくろうよ。受検忙しいけど、1日くらいは何とかなるよね」
「そうだね。。。。。あ」
ボクはベッドから起き上がると、テープルの上に乗っているチラシ類を見ていった。たしかあったはずだ・・・・
「あった!」
「なぁに?」
「24時間営業のカラオケ屋さんのチラシ。今から行ってひととおり歌ってみない?」
「乗った!御飯も食べていいよね?」
「まだ入るんだ。。。。」
「だって、たっぷり運動したじゃん。冬お腹すかない?」
「じゃ政子が頼んだのを少し分けてもらおう」
そういってボクたちは服を着ると、深夜のカラオケ屋さんに行き、パソコンに入っているMIDIデータを鳴らしながら、自作の歌を歌いまくった。時々
「あ、ここは少し直したい」
などといって、MIDIの方を修正する。大幅な修正をしたくなったものについては修正の方針をノートに書いておいた。政子も歌詞を少し修正したいと言って、パソコンに文字を打ち込んでいた。
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